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玉置浩二『あこがれ』七曲目、「遠泳」です。
ポール・エリスさんのシンセサイザーによる演奏と、玉置さんのガットギターによる間奏ソロの組み合わせです。なんか、もう玉置さんのソロはこれだけでいいんじゃないですかってくらい完璧にハマっていますね。ちなみにアレンジもポール・エリスさんです。うっとりしますね。わたしもシンセでこんなアレンジができるようになりたいものです。
わたくし、シンガーの気持ちというものをよくわかっておりませんが、どうやらシンガーにはこういうシンプルな、シンプルといったってこの曲のそれは幾重にも重ね録りしたすごい音源ですけども、ともかく編成的にはシンプルな伴奏で歌いたいときや歌いたい曲というものもあれば、仲間とバンドでジャーン!とやりながら歌いたいときもあり、さらには大編成のビッグバンドやオーケストラで歌いたい場合というものもあるようです。つねにディストーションのヘビメタ野郎にはピンとはきませんが、表現のバリエーションが豊かでよろしいかと思います。
さて、低音で「ズーン……」と始まった曲はとつぜん「ピヨロロロ〜」と高音の笛的な音色で静寂を破られた感覚を与え、ストリングスをまじえてピアノを中心にした伴奏へと移行していきます。笛とかピアノとか、ぜんぶシンセ(のはず)なんですけども、妙にリアルに聴こえます。このころのシンセってこんなに音よかったんだとちょっと驚きます。だからビンテージシンセってものがあって、それが妙に高値で売られているのかと思わされます。
玉置さんの歌が始まり、このアルバム随一のエロ場が展開されます(笑)。これ、真顔で説明できないですよ!松井さんよりも比喩が直接的で、解釈の余地がほとんどありません。隠喩なのに直喩!どう考えてもわざとです。玉置さんの囁くような声が、どう聴いてもアノときのテンションを高めているようにしか聴こえません。「針が重なる真夜中」って、ようするに時計の短針と長針が同じところを指しているんだから、正午か零時しかありません。解釈は二通りしかないのに直後に「真夜中」って言っちゃってますから、二通りかと思ったら一通りだった!絞首刑か銃殺刑かどっちか選ばせてやる喜べ!ってくらい余地がありません。もう、アナログ時計の機械音がカツーン!と聴こえてくるかのようなすごい緊張感です。ストリングス音で繰り返される短いフレーズも、もはや高鳴る胸の音か荒くなった呼吸にしか聴こえません。
そしてストリングス系の音が大きくなって、歌はBメロ・サビに……ひとことひとこと大切に、語尾をすこし裏返して玉置さんは歌います。もう!(笑)笑い声が風になって髪をとかすとかって!卑怯なくらい近いです、描写が。近さをこれだけ意識させる表現もそうあったものじゃありません。揺れる島って!昔の漫画であった臨海学校最終日の遠泳大会でみる小島のこと……なわけないです。わたくしも臨海学校や遠泳の経験があるわけではないですから身をもって知っているわけではないのですが、おそらくは犬かきでゆっくりゆっくり、体力や肺活量の限界に縛られつつ進む「遠泳」っていうタイトル自体が、もう比喩として秀逸すぎます。
歌は二番に入りまして、パーカッションがカシャ…ポコポコ…ピコン!(ドスン!)といった具合に上に下にといい具合に意識を分散させつつ、玉置さんの歌とストリングス系の音が中心の存在感を失わず進みます。
「蜜がきらめく斜面」「ひとつの小舟」って!とかいちいち驚いていると進まないので、というか気恥ずかしいですので(笑)、さらっと流すことにしますけども、これはいい感じにシンクロしてうまいこと盛り上がったということなんでしょう。こう書くとまったくロマンチックさが失われて大したことじゃないような感じですが、いやいやどうして、脳内麻薬というものはすごい威力をもつものでして、「消えない夜」とか「シルエット」のような陶酔感をドカーンと味わわせてくれます。陶酔の演出として宇宙を感じさせたそれらの曲に対して、この曲は青い海を感じさせるのです。どちらも息ができないことは共通していますね。「息もできない」という直接的なレトリックはしばしば歌詞に用いられますが、表現力があまりにレベル違いだというのは明らかでしょう。
落ちてゆくめまい……朝起きてタバコを吸ったらヤニでクラクラしましたってことなわけはありませんから、もちろん別なことでクラクラきたのです。その様子を「渦になって二人つないだ」と表現するんですから、ほんとうにクラクラと渦に巻き込まれてゆき、その先で愛しい人のもとに行き着くような気分にさせてくれます。その先でって、はじめから近いんですけど(笑)、それは物理的に近いのであって、精神的にも近さと、その前提となる少し離れていたという距離感を描写することが可能となっています。うーむ、ツインカム・エンジンのコンセプトすら彷彿とさせる緻密さです(やけくそなよくわからないたとえ)。
曲は間奏に入り、玉置さんのガットギター・ソロが流れます。……もう!なんでこんな悲鳴みたいな音を出せるんですか!ガットギターってポロンポロンと柔らかい音を出すギターなんですが(弦がガットですから)、使いこなしによってはこんな人間の精神的肉体的限界を思わせるような音も出せるんだから……玉置さんは弾き語り用にいつもガットギターをお使いになっていたそうなのですが、もはや手足のように操れるんでしょう……。こう押さえてこう弾くとこんな音が出るって、ギターと一体化しているほどに把握しているとしか思えません。さらにすごいのは、シンセサイザーのような電子音楽器と生楽器のガットギターって、わたくしの経験上相性があんまりよろしくなくて、こんなふうに違和感なくミックスするのは至難の業だと思うのですが、ここではこれがベストな組み合わせとしか思えない見事なミックスになっています。これはコンプレッサーでつぶしたとかイコライザーでスキマを作ったとかリバーブでぼやかしたとかでなくて、はじめから音の相性がいいのでしょう。しかも楽器同時の相性が良かったのでなくて、玉置さんの演奏によって相性よくなっているとしか思えないのです。
そして派手なストリングスの上昇フレーズとともに、曲は最後のBメロ・サビに入ります。「手繰り寄せてた」のところで下降フレーズを入れることによって、上がったり下がったり、気分の高揚・興奮とちょっとした絶望・落胆といった振幅が見事に表現されます。このように上下することによって人は時間の感覚を失い、視界すらも失い、ただ二人だけの世界に入りこみます。それは、まるで遠泳のように……って、それ説明になってませんね(笑)。これもそれもあれも大自然の営みには違いないのですからこうした比喩が成立するのはある意味当然といや当然なんですが、これまでは誰も気づかなかった類似性・共通性をみごとに浮かび上がらせた須藤さんには敬服するほかありません。よりによって玉置さんが歌うときにこんな
砕けて漂う時間、それをたぐりよせる理性と肉体のせめぎ合い、その中で海の底に飲み込まれてゆこうとする影……影は海底に映っていますから、それが飲み込まれてゆくということはすなわち深く暗い海に溺れてゆくわけなんですが……野暮な説明は避けて、遠泳の果てに力尽きて海に沈んでゆくかのような限界状況を想像し、この抽象画のもつ説得力のような芸術の粋を、美術館で思わず足を留めてしまったような気分でずっと味わっていたいものです。
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