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安全地帯・玉置浩二の音楽を語るブログ、管理人のトバです。安全地帯・玉置浩二の音楽こそが至高!と信じ続けて四十年くらい経ちました。よくそんなに信じられるものだと、自分でも驚きです。
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2024年04月21日

太陽になる時が来たんだ

スペード [ 玉置浩二 ]

価格:2385円
(2024/1/20 11:09時点)
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玉置浩二『スペード』四曲目「太陽になる時が来たんだ」です。何でしょうねこの曲、ネット上ではぜんぜん言及されている様子がありません。わたくしこの曲がアルバムナンバーワンだと思っているのに。アルバムの展開的にそろそろほしいアコースティックバラードです。

ある夜、わたくしはイヤホンで音楽をかけっぱなしにして眠り込んでしまいました。中学生時代とやってることが変わらなくて自分でも笑っちゃうんですが、たまにそういうことが起こります。そのまま朝まで眠り込んでしまうこともあれば、途中で半覚醒してその時流れている曲に聴き入り、しばらくしてからハッと目を覚まして、あれいまおれすごくいい曲聴いていたような気がするな、誰のなんて曲だろうとプレーヤーを確認することもあります。で、そういうふうに気づいた曲というのはたいがいレム睡眠中でなければ気づかなかった様々な要素が脳に刻み付けられているもので、その後すっかり愛聴曲になるものなのです。わたくしそういう曲が人生においていくつかありまして、古くはツェッペリンの「アキレス最後の戦い」、井上陽水「御免」、プリンス「Nothing Compares 2 U」といったあたりから新しいものでは……新しい曲なんてぜんぜん好きでなくてわざわざ端末に入れて聴く気にならないのでそういう出会い方するのは古い曲だけでした(笑)。へたするとこの「太陽になる時が来たんだ」が2001年で一番新しいかもしれません。

この「太陽になる時が来たんだ」、もうろうとした意識の中でわたしは若き日の野口五郎が歌っていると思い込んで聴いていました(笑)。すげえいい音のギターだな音源古いのに……長髪で何かヒラヒラした服装の野口五郎が切々と「いま二人がこうしていられるのは……」と歌っています。映像は完全に70年代末期〜80年代初期の歌番組です。わたしの幼少期です。ああ心地いい……と、目が覚めます。え?いまの曲なに?野口五郎?一枚も持ってないよ。えーと、ああ玉置さんの「太陽になる時が来たんだ」じゃん、よく知ってる曲なのに、異様にハマってたな野口五郎……と、ぼやけた頭で考えていたものです。

それからは妙に気になる一曲になり、何度も「太陽になる時が来たんだ」を聴きました。歌詞カードも見ました。口ずさんでもみました。なんならアコギもってコピーして歌ってみました。どんどんハマっていきます。気がつくと玉置ソロのお気に入りベストスリーに入るんじゃないかと思うくらいの曲になりました。ありがとう野口五郎さん!(笑)。

さて、この曲は虫の声から始まり、アコギとエレキ、手で叩いたと思しきバスドラ、スネアをはじめとしたオリジナルとおぼしきパーカッション(『幸せになるために生まれてきたんだから』等、志田さんが玉置さんにインタビューして明らかになった驚愕の音たちです)で演奏されています。ほかには安藤さんが弾いたであろうちょっとしたアオリ的な鍵盤の音と、ストリングス系のシンセが入っていますが、それは雰囲気づけみたいなもんですね。安藤さんお得意の流麗なピアノとは違います。

ジャーン……ポロロ……とのんびりと弾かれたギターをバックに玉置さんが「レンゲ草〜」と歌い始めます。情景は夏の太陽の下、草原、小川、森……『太陽』では絶望と希望をつかさどる神にも似た信仰の対象としての太陽、『あこがれ』では玉置さんの視界を歪めるほどに苛んだ太陽、『JUNK LAND』では僕をいつも見つめ励ます慈父慈母のような太陽……なんとなくだんだん太陽の立ち位置が近くなってきています。そしてとうとう自分が「太陽になる」ほどに親しい「友だち」になってきました。西洋の思想がいつも自然克服の発想であるのに対して東洋の思想は自然の一部であることを自覚し当然に共存していることを受容してゆこうとする思想であるとはよく言われるところではありますが、「太陽になる時が来たんだ」では共存を通り越してもはや一体化しています。これは玉置さんが西洋人だったのが東洋思想にかぶれたといっているのではなく(笑)、東京から軽井沢に変わった環境、安藤さんとの安らぎの日々によって気づかされていったものと思われます。

わたしが環境保護系の話が大嫌いだということはここで言っておかなくてはいけません。環境保護の主張には、自分が保護する側だという西洋起源的な驕りが常に見えます。壊すとか保護するとか思っている時点で自分が自然の一部ではないと思っているわけです。何愉快なこといってるんだ三年くらい禅寺で修行するかミャンマーで瞑想でもするといいんじゃないかと思うんですが、そういう人に限って聴く耳を持たないんですねえ。で、一世紀ちかく前の西洋人であるアルベール・カミュが『異邦人』において描写した、太陽が暑かったからアラブ人を射殺した、という境地は、不条理とかなんとかいろいろに評論されていますが、そんなの不条理でも何でもありません。太陽もアルジェの気候も泉の環境も、そしてムルソーも被害者のアラブ人もその脳神経も、どれもこれも自然の一部なのです。わたしらの知らぬところで崖が崩れたり川の流れが変わったり海岸の岩が崩壊したりしています。もちろんこれらは自然の仕組みによって起こっており、そこに意図はありません。ですが、意図なりなんなり人間の精神作用も、つきつめれば脳神経細胞の片方からもう片方に電気信号が伝わることの積み重ねにすぎません。いってみれば、これは崖が崩れることと何ら変わらぬ自然現象であるわけです。それを取り調べとか裁判の審問とかの人間の意図的行為であることを前提とした言葉に無理やり変換してゆく不条理な過程にムルソーは苦しめられる、ああやっぱり不条理だな(笑)という話なのでした。いや、西洋人にもそうしたことに気がつき文学的・哲学的に優れた示唆を残した人がいるというのに……というわたくしの嘆きですよ、これは。トホホ。

さて、真偽明らかならぬ思想の解説が最近の芸風である弊ブログですが、そんな芸風でいいのか(笑)、これはちゃんと意図があって書かせていただいていおります。「理由もなく手をつないでた」「自然に涙が流れた」これらは、上述の東洋思想的な自然の一部であるという確信なくして、どのように解釈できるというのでしょう。ボロロロ〜ポロロロ〜と音階を登るアルペジオにのせて玉置さんが「わけもなく(ボロロロ〜)」「手を(ポロロロ〜)つないでた〜」と歌うこの凄味は、そうした自然と一体化した自然そのものであるところの玉置さんが、これまた自然そのものである恋人たちが、自然の窮極態であり始原である「太陽」になるんだと思うほどに自然現象の粋である愛を感じている様子を歌うところにあるのだと、まあこういうことを言いたかったわけです。だって、愛って、燃え上がりますしね。あ、いや、ギャグで言っているんじゃなくて(笑)、恋人、夫婦、家族の始まりたる愛がそこに起こるということは、宇宙に太陽が生じるのと同じことじゃないですか。ちょっと(だいぶ)スケールが違うだけで。

川を渡れば水しぶきが上がる、森で遊んでいれば肌は焼ける、時間がたてば帰り道はオレンジ色に染まる……これは誰かが意図してそうしているわけではなく、すべて自然の営みです。そしてふたりがこうしていられるのも、愛おしくも安らかな気持ちでいられるのも、ふたりの意図を超えたところに作用している自然の営みであり、そんなふたりが太陽のように燃え上がって新しい現象を紡いでゆくのもまた自然の営みです。これを玉置さんは「太陽になる時が来たんだ」とシンプルかつ本質をとらえた言葉で歌ったのだとわたくしにはそう思えてなりません。ほ、本物の天才だ!最近流行りの太陽な感じ?のラヴァーズになりたいような気がしなくもないから行きずりのアフェアー?でもしようぜ!夜に向かって駆けだそうぜ闇に君の名を呼ぶううううう!みたいな底抜けに浅はかで愚かな世界を完全に超越していて、かつそれをビシッとシンプルに表現する詞と歌の力が、まさに唯一無二、空前絶後といってもいいでしょう。あの寺田ヒロオが悩める赤塚不二夫のネームを見て「ぼくならこの原稿から五つのまんがを作るな。きみのはつめこみすぎだよ、あれもかきたいこれもかきたいでスジが一本通ってない!」と喝破したエピソード(手塚治虫ほか『まんがトキワ荘物語』祥伝社新書より)にあるように、不本意ながら耳に入ってしまう現代の曲たちはどれもこれもゴチャゴチャしていて辟易とさせられるわけなのですが、このころの玉置さんは神がかった一本スジの通し方、シンプルさを極めていてわたしの精神もおだやかでいられるというもんです(笑)。二番では何を歌うんだろう?と思わせたらアウトで、ほんとうによくできた歌というものはこれをずっと聴いていたいと思わせるものです。

さて曲は二番、自分で言及の意味を潰してしまったのでもう語ることがないんですけども(笑)、当然に情景はビシッと一本筋を通して同じです。「どんなときも離れないでいよう」という愛はきわめて強く、それいでいて穏やかで自然なものとして表現されます。

そしてオレンジ色の帰り道のあと、あたりは暗くなり星を見つめる時間になります。シンセが強めに背景を彩り、涙が自然に流れてくる、やさしくいられる、その当り前さ、自ずからそうであるところをそのまま受け入れられるということの、ふたりの関係をつかさどる自然の雄大なスケールを感じさせます。なにもストリングスを生楽器でやらなくてもこういうシンプルなもので十分だ、というか、そもそもそういう不満を思いつかせないところにこのシンセのさりげなさと巧さがあります。そして背景の音はそのまま、おそらくは玉置さんのアコギによるギターソロが、違和感ゼロのまま歌と同等の表現力を保たせたまま、最後のサビに突入します。

信じてきたものがあるから自然に涙が流れる……それはもちろん、優しくいられるなら太陽になれるんだということを信じてきたのであり、いまその時が来たんだ、だから涙が流れてくるんだ……ということなのでしょう。玉置さんはそういう時が来るのをずっとひそかに信じていたんじゃないかと思います。ぜんぜん売れない初期安全地帯、とつぜん売れてしまいスーパーアイドルとして祭り上げられた安全地帯の人気絶頂期、そして様々なムリを抱えて崩壊してゆく安全地帯と、玉置さんの精神……という悲劇を経て、絶望と孤独の中人工的な治療を拒否して自然療法を行った旭川の日々、そして再始動とソロ活動の絶頂期、それも落ち着いてたどり着いた軽井沢の日々……不自然、人為的、作為的なものに苦しめられ何度も裏切られたのにそれでも信じていたことがやっと現実のものになったという感動と安堵にひたりきることができたのです。それがどれほどの幸福であるか、余人には量りがたいものがあります。心無い人は「玉置はすっかり自分の世界に入っちまったよ、ケッ使えねーな、素直にワインレッド歌っとけばいいんだよ」くらい思ったかもしれません。心がないんだから当然耳もないわけですし仕方ないでしょう。そういうカネと快楽しか見えてない、信じてない人とは初めから生きている世界が違うとしか言いようがありません。

そしておそらくは矢萩さんのギターソロで曲は終わっていきます。これまた短いながらも、ものすごいソロです。矢萩さんのソロを聴いていていつも思わされるのは、どうしてそこで止まるの(間を取れるの)ということです。わたしならぜったいここで一番高音部まで駆け上がってキュインキュインやっちゃうよといつも思います。ここを止められるか止められないかに、自己顕示とか出しゃばりとかそういう大自然の中ではノイズ的なものでしかないものが発出してしまうんだろうなと、反省することしきりなのです。

さて、また一ヶ月くらい経ってしまいましたかね。無茶苦茶な忙しさで、ちょっとずつ書きためては下書き保存してはいたんですが、結局は広告でみなさんを煩わせていないことを祈るしかないくらい間隔があいてしまいました。ここんとこたまの休みもグダッとして体を休めるしかない……わたくしすっかり五月病です。そんなわけで、太陽になる時はわたしにはいつ来るのよ!もう来てよ今日来てよなんなら今来てよと思いつつちょっとずつ書いてきた「太陽になる時が来たんだ」の記事でした。繰り返しになりますが、このアルバムで一番のお気に入りです。

スペード [ 玉置浩二 ]

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posted by toba2016 at 13:14| Comment(4) | TrackBack(0) | スペード

2024年03月23日

△(三角)の月

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玉置浩二『スペード』三曲目「△(三角)の月」です。

こういう曲調、なんていうんでしょうかね、わたしのあんまり得意でないブルース、ですかね。「ドッドドッドドッドドッド……」とひたずら単調なパーカッションに合わせてベースが響き、オルガンとギターはひたすら合の手を入れる手法です。玉置さんがこういうオールドな感じの曲にのびのび挑戦できるのって、矢萩さんがいてくれるから、そして安藤さんがきっちり合わせてくれるからなんじゃないかな、と思うんですね。「五郎ちゃんがいてくれるから」とか「田中が叩いてくれるから」みたいな感じで、グループ、バンドってのはやる曲が決まったり変わったりすることはよくあるんです。一人ひとりにバックグラウンドの音楽があるのは当然として、それをよく知っている者同士で音楽を作ることになると、どうしたってその集団で気持ちのいい音楽というのはあるものなのです。玉置ソロだからといって玉置さんがパーフェクトに自分百パーセントの世界を繰り広げているわけではなくて、安藤さんと矢萩さんとの三人で音を出そうと思ったらこういう曲が守備範囲に入ってくるってことなのでしょう。逆に言うとまったく一緒に作る音をイメージできない相手というのも存在しますから、組める相手と組めない相手っていうのがどうしても出てきます。わたしだってトミー・アルドリッジが目の前でドラムに座っていたら「BARK AT THE MOON」みたいな曲作りますよそりゃ。逆に、目の前でビル・エヴァンスがピアノに座っていたって、何一つ曲が浮かびません(笑)。ですから、90年代は須藤さんと、2000年前後は安藤さん矢萩さんと、2000年代中盤から後半は矢萩さんと土方さんと、というように、組む相手によってつくる音楽が変わってきているという視点で玉置さんソロの変遷をたどってみるのも一興でしょう。逆に、音楽が変わってきているからそれに合わせて組む相手を変えてきたという見方もできなくはありません。バンドマンの心情的にはメンバーが先、音楽が後、なんですけども、玉置さんのことですから出てきた音楽が特定のメンバーを要求したという形もあり得るでしょう。

そんなわけで、矢萩さんの渋い趣味と共鳴しながら作ったと思われるこの「△(三角)の月」、わたくしのあまり得意でないリズムと雰囲気で始まりつつ、それでもムムウ!と唸らざるを得ないメロディーのよさ、ドラマチックな展開で聴かせてくれます。一瞬ジェイコブ・ディランのWallflowersのような抑揚のないひたすらな渋さを警戒したわたくし(当時、ゴジラの映画でデヴィット・ボウイの「Heroes」を歌ったのがやけによかったのですが、ほかを聴いてみるとぜんぶ一本調子だったので、やっぱこういうのおれには合わねえわと思ったのでした)、やっぱり玉置さん(と矢萩さん)だスゲエ!と感激しきりでした。

Aメロではベースのダッタダッタ……のリズムに乗って三角だったりまん丸だったりする月が、泣いたり笑ったりします。ぜんぜん泣いてそうでも笑ってそうでもないリズムなんですが(笑)、Bメロで一気に歌が泣きのメロディーに変わります。この急激でドラマチックな展開はまぎれもなく玉置さんの歌によってもたらされています。そろそろオーディエンスのレディネスも温まってきたからドラムを派手にしてシンセを入れて盛り上げてサビを入れようか的な小賢しい曲展開メソッドなどどこ吹く風、玉置さんが四拍目に「雨の」と言ったら次の小節からは一気にサビなのです。後から気づくことではありますが、歌詞をよくよく見るとAメロでは「〜の月」と助詞のない主語を頭に置くほかはすべて終止形「〜る」、サビではすべて未然形「〜う」、しかもほとんど「〜そう」ですね。最後だけ「〜ろう」ですけども。これは無理して揃えたんでなくて、曲のノリが自然に生んだ秩序なんじゃないかとわたくしは考えています。曲にノリを生むために歌詞をこのように作るということは当然ありそうなものなんですけども、玉置さんの場合曲のノリが歌詞の秩序を自然に生んだんじゃないかと思わせるくらい言葉選びと歌唱がナチュラルすぎるのです。

△の月というのは存在しませんので、雲などの具合で三角に見えるということでしょう。つまり、明るい月夜ではなくややボンヤリした月明かりであると推測できます。月の周りに雲があってそれに月明かりが吸収されてしまい、まるで泣き腫らした目のようになんだかボヤっとしているのでしょう。そんなパッとしない天候の夜、明日会いに行くあの娘のことを思い、拡散してしまっている月光の下、希望をかき集めて車を走らせます。

高速に乗ると雨が降っています。ハイドロプレーニング現象が起こるかもしれませんからスピードの出し過ぎは禁物です。なお、わたくしハイドロプレーニング経験したことがないんですが、いったい何キロ出したらそんなことが起こるのでしょう。おそらく常識的な速度では起こらないか極めて起こりにくいのでしょう。それなのに教習で教わるということは、常識的なスピードを超えて突っ走るおバカさんがそれなりの割合で存在するということなのでしょう。ヤメてくれマジで!

ああ、すっかり話がそれました。えーと、雨の高速に乗り、風まかせで遠くに行けそうな気分で突っ走ります。「あの娘」に会いに行くのは明日ですから、今日は「ひとりぼっち」で「サビつきそう」な気分で帰るしかありません。ですが心ははやり、ついつい要らぬ高速などに乗って車を気ままに走らせるのです。△の月は泣き腫らした目からさらに雨を降らせてきます。もう月が泣いているんだか自分が泣いているんだかわからない、誰のために泣いているのかもわからない、光景も思考も全体的に湿った夜なのでした。

さて、高速を走っているうちにおそらく雲間にフルで満月が姿を現したのでしょう、こんどは「〇(まんまる)な月」です。月が笑っているのです。これはもちろん主人公の気分でもあります。今夜の夢はさぞ楽しいだろう、あの娘を抱きしめるところまでストーリーが進むだろうか、なんせ明日会えるんだからなと気分はすっかり躁状態です。

ですが、まだ高速道路を風任せに走っているうちにまた鬱になってきます。明日を楽しみにしつつも、悲しみの予感が主人公を苦しめます。歳を重ねると、恋人に会うのもあと何回あるんだろうなんて余計なことを考えてしまって純粋に楽しめないというか、一回一回を惜しむようになってきます。わたくし既婚者ですからそんな気分になったことないだろそれとも浮気でもしてんのかって誤解をさせそうですが(笑)、いやいや、結婚したころだってその前だって、そこそこ歳いってたんでわかるんですよ、という意味です。とはいえ当時の初婚平均年齢とドンピシャだったんですけども。おれの同年代結婚しなさすぎ!というか、まるで結婚しない人が多くて、結婚する人だけ平均するとこういう年齢なのかとしみじみしちゃいました。そんなわけで、ここで結婚しないでどこまでも突っ走ることもできるんじゃないかという気持ちと、もちろんそれをやるといつまでも走るハメになって「ひとりぼっちになりそう」「枯れ果てそう」という恐怖、危機感とに板挟みにされて苦しめられる、という気分が、なんとなく分らんでもないような気がしなくもない、ということなのです。ホントに、何のために生きてるんだろう、と考えずにはいられないんですね。結婚することと結婚しないことは両立できませんから、こればかりはえいやっと思い切るしかありません。そもそも昔はこんなこと悩むまでもなかったんですから、悩めるだけありがたいと思わないといけません。喉元過ぎれば熱さを忘れるわたくし!

そしてアコギによるソロ、「タララタララ」と三連符を多用する古典的なロックンロールの定番ソロなんですが、とてもブルージーに聴こえます。安全地帯でも、そしてこれまでの玉置ソロでもここまでブルージーでオールドな曲はなかったように思われますから、決して派手な曲ではありませんけども新機軸といっていいでしょう、この曲もソロも。そしてもちろん各種記事に書かれて有名な手作りパーカッションによるものと思われる左右に振られてアクセントをつけている音色たちも。オールド風なのに実は何もかもが新しいわけです。すでに書いたことですけども、わたくしこういうのあんまり得意でないですから、何度も聴いていくうちにこりゃいいやと思えるようになったわけなんですけども、最初はウワ古くせえ感じ!だったのです。そもそもアルバム全体が派手でないですから、こういう曲の凄さというのは聴きこまなければスルーしてしまいがちになるでしょう。『GRAND LOVE』以降、軽井沢時代はこんなのばっかりですから、「田園」近辺で獲得したファンもだいぶ離れたことでしょう。

考えてみれば安全地帯でも「ワインレッドの心」から「じれったい」あたりまで爆発的にファンを増やした後に、ヌルいファンは要らねえ!と人を突き放すかのように『太陽』をガツンと叩きつけたということがありました。玉置さんは、作って壊す、いや壊してなくて作り続けているんですけども、それでもファンの人数をわざと減らすかのように周期的に自分の世界にガツッと入っていく癖があるのです。『太陽』のように後年その凄味が理解されて名盤としての評価を得てゆくなんてことも起こったわけですから、この『スペード』もそうなるんじゃないのと思わなくもありませんが、いまはまだその時ではないようです。

さて歌は最後のサビ、どうやら結婚するほうに決意を固めたようです(笑)。いや結婚しないまでも、ハイウェイのつづくどこか遠くで「二人きりで暮らそう」「やり直そう」と決意します。やり直すからには何か失敗したんでしょうけどもそれが何なのかはわかりません。過去には誰だっていろいろ失敗しているもんですから(玉置さんならなおさら!)、痛い目も見たけどもう一度やってみようと気持ちは晴れやか、涙が出るのですがそれは雨のせいであって実際には泣いていない(ような気分な)のです。

そしてベースとパーカッションだけがリズムを取り続け、ボーカルが再び絡んでいきます。オルガン、ギターがそれに続きますが、サビほどの音の厚みはありません。シンプル、あっさりな印象のアウトロになっています。

ふたたび三角の月、つまりまた鬱になったのです(笑)。決意したら決意したでまた頭の痛いことがあるのでしょう。でも、今夜は夢を見て、そして明日になってあの娘に会えて、そして実際に抱きしめて……きっとやれる、どうにかやれると思わせてくれる程度にはゆく道を照らしてくれている三角の月なのでした。

「テレレテレレテレレ……バーンバーン!」と書くとアホみたいですけども、最後のギターからの終わり、決まってますね。これはいっぺんで頭に入ります。オールド風味だからすべてダサくて聴いてられねえぜって態度だった若き日のわたくしにも刺さりこんで、すっかり虜にされてます(笑)。こういう、秀逸というか刺激的というか、ともかく心に刻印を残すものがこのアルバムこの曲にはたくさん仕込まれていて、聴けば聴くほどそれらが味を出してきます。あのダメダメだった90-00年代にこんなアルバム作るんだからもう……ありがとうございますとしか言いようがないのでした。

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posted by toba2016 at 14:23| Comment(6) | TrackBack(0) | スペード

2024年03月02日

甘んじて受け入れよう

玉置浩二『スペード』二曲目「甘んじて受け入れよう」です。玉置ソロだけでなく安全地帯でもありがちなことだったんですが、アルバムの一曲目が異様にシリアスだったのに比べて二曲目はグッと砕けた感じになっています。典型的には『安全地帯IV』の「夢のつづき」「デリカシー」ですね。なんだよせっかくシリアスにいい気分だったのに!とその緩急差というか寒暖差というか、ともかくテンションの違いについていけずしばしば二曲目は駄曲扱いでスキップされてしまうわけですが、それはもったいない!玉置・安全地帯マニアならばこの二曲目にこそ妙があると気がついてしかるべきなのです。実際、二曲目は何度も聴いていくとハマりきってしまう魅力ある曲が目白押しになっています。ぜひ皆様も二曲目にご注目を!「Love ”セッカン” Do It」とか(笑)。いや実際、「Love ”セッカン” Do It」の凄さはあとから沁みてくるんですよ!

さて、「Love ”セッカン” Do It」に比肩するくらいリズムが心地よいこの「甘んじて受け入れよう」ですが、ブルース・カントリー色のあるリズムのギターリフでイントロ、歌と進んでいきます。そしてBメロなくサビに突入していきなりリズムが変わりジョン・ロードのハモンドオルガンみたいな音が入り(これは安藤さんの得意技だと思います)急降下してゆく感触が味わえます。それを大サビを挟んで繰り返してギターソロ、そして唐突に終わります。また、二回目のAメロから入る「ガガッガガー」という深く歪んだギター、これが実に効いています。ソバつゆのシイタケ出汁のように他を引き立てます。この歪んだ音、どうやって出すのと思ってます。自分はこんな音を出したことがありません。これがうわさに聞くファズってやつかしら?と訝るくらいこの手の音には無縁です。BIG MUFFいちおう持ってるんですが、出番がなく使ったためしがありません(笑)。そして最後はこの歪んだ音だけを残して曲は終わるのです。くわーカッコいい!2001年にこのカッコよさに気がついていたらわたしの音楽人生もだいぶ違った軌道を描いたような気がするのですが、当時はなんだ古くせえ音だなくらいにしか思ってませんでした。人間学ぶ姿勢ってものがないとアンテナも鈍ってしまい優れたものを受信できずに実に様々なことをスルーしてしまうという好例でしょう。

さてこの曲、すさまじい歌詞とすさまじい歌いっぷりです、一曲目が抒情的でわかりやすいメロディーでしたからすっかり油断していたんですが、二曲目ではやくも強烈パンチを繰り出してきました。歌詞は、絶望的な見通しの中で自分の実力のみを頼りに突き進むという内容です。「絆」とか「つながり」とか歌ってる現代「アーティスト」たち!この境地がわかるか?おててつないで皆で「ええじゃないか」みたいに大挙して突っ込んでいけば何とかなるのは、内申書の評価が甘い都道府県の公立高校入試くらいのものだ!と教えてやりたくなるくらい切実な生き残りを賭けた闘いの歌詞なのです。

一寸先も見えない暗闇、頼れるのは自分だけ、どうにかこうにかやって……玉置さんだからこその説得力です。もちろん歌がうまいから説得力があるわけでもあるんですが、ここまでの人生がその説得力をいや増しています。2006年に志田さんの『幸せになるために生まれてきたんだから』が出るまで多くの人は玉置さんの苦難に関しては詳細は知らなかったわけですし、いまもって何も知らない人のほうが大多数でしょう。当然、2001年のわたくしも知りませんでしたから、そのストーリーという味付けのない状態でこの歌の説得力を味わうことができたわけなんですが、当時自分の人生がめちゃくちゃなバッドストーリーだったんで別の説得力を感じてしまっていました(笑)。サラの状態で音楽と出会うのはなかなか難しいようです、というか不可能でしょう。

そしてリズムが変わるサビ、「夜明け」に向かって……つまり、バッドストーリーは終わりハッピーストーリーが始まると信じているわけです。この「地球(ほし)」は廻る……そりゃ当たり前ってもんです。自転してますから。自転が止まるか太陽がなくなるかしない限り、かならず夜明けは来ます。これはわたしたちの誰もが知る事実ってもんです。ですが、禍福の行き来ってやつは誰も仕組みがわかりません。そもそも行き来しているのかどうかさえわかりません。へたするとパチンコのように負け続けもありえるでしょう。でも「オンボロになるまで行くぞー!」と玉置さんは明るく元気に叫んでくれます。オンボロになったらその時点で多くの人は文句を言うでしょう。だからあやしい宗教に引っかかるわけです。オンボロになるまえに禍福が入れ替わって福になる保証なんて初めからないんです。ですが、わたしたちは自分がオンボロになるまでしか勝負できない。オンボロになったら試合終了なんですが、それを怖がって勝負できないのでは仕方ありません。もともと千円しか持ってないのに確変をねらうような確率しかないのかもしれません。もしかしたら五千円くらい、あるいは数万円くらいが「オンボロ」になる地点なのかもしれませんけども、実際いくらくらいなのかは想像もつきませんし、ましてやそれで当たる保証なんてありません。そんなのってないよ神様!なんですが、仕方ありません。そこがうまい仕組みになっていると期待するほうが想像力が不足していますし、だからそれに付け込まれるんだよというほかありません。ですが、時が永遠かそれに近いくらい長く続くと仮定するならば、いつかは入れ替わることもあるでしょう。それを「夜明け」と呼び、近いか遠いかもわからないのに、「行くぞー!」これは勇気づけられる……ですが、ある種の人たちには、もしかしたら現代の多くの若い人たちには、まったく何を言っているのかすらピンとこないかもしれません。

勝ち目がないならじっとしてたほうがマシだ、それはわからないでもありません。勝ち目があるなら思い切って賭けてみよう、これはわかります。勝ち目があるけど負けるのが嫌だからじっとしていよう、これもわからないでもありません。じゃあ、勝ち目があるかないかわからない場合には?ここが分かれ目でしょう。ここで賭けないのが上記の人たち(の多数)だと思われるのです。だってバカにされるもん(笑)。到底わかりあえる気のしない世代の違いというものがあるのですが、どの世代にも共通しているのは、周囲にバカにされることを嫌がるという習性です。

「足腰」「柔軟な考え方」「見渡す眼差し」……これらは雑にまとめると「実力」です。十分な実力をもって、慎重にそして綿密に勇敢に「途中くらい」までたどり着きます。途中くらいってどれくらいだよ!(笑)。それでも玉置さんは賭けます。「夜明けに向かって」いると確信しているからです。地球の自転は二十四時間ですが、禍福の自転はもしかしたら56億7000万年くらいかもしれません。もしかして自転などしてないのかもしれません。十分な実力があろうともそれはすべて無に帰すかもしれないのです。これは腰が引けてしまっても仕方ありません。

こんな状況下で進み続ける玉置さん、大サビでそれらを貫く考え方が叫ばれます。

善いことだと思うからやるんです。実際にあとから良かったかどうかなんてわかりゃしない、「どっちにしたって何か言われるんだ」、ならば「甘んじて受け入れよう」とブレイクが入り、これで背筋がゾクゾクっときます。そうだ、どっちにしたってバカにしてくるやつ、文句言ってくるやつはいる、これは全世代共通でしょう。そんなの気にしてたら何もできないし、実際何もしてないに等しい人が多いのも全世代共通でしょう。文句言ってるのが一番楽だし、手ひどい負けはないんですから賢いのかもしれません。でも嫌だねそんな人生と思っている人とは犬猿の仲で、この対立も全世代共通でしょう。バカにしたいならしろ、文句言うなら言え、こっちは勝負しているんだから。

そして最後のサビ、急降下の「夜明けに向かって……」「オンボロになるまで行くぞー!」そしてギターソロ、歪んだギターですが、フレーズ自体は非常に控えめです。ですが、この「ギャーン!……」というトーンが嚙みついてきます。忘れられません。心に爪痕をがっつり残されます。これはバカにしたり文句を言っていたりする人にもガッツリ刺さりこむでしょうし、玉置さんのように賭けよう、もがこうとする人たちの胸にも同志の刻印を色濃く残してゆきます。

さて二月はぜんぜん更新できず、ようやっと「このリズムで」を更新したくらいだったのですが、あれおかしいぞ、一ヶ月更新しなかったときに表示される広告が消えない!なんだこれウゼエな(暴言)。いちいち指先立ててバツマークとか押してられっか!運営に文句言ってやろうかくらいに思っていたのですが、よくよく考えますと「このリズムで」の下書きを最初に作成したのが一月でしたから、それ以降一ヶ月以上経ってたんで、記事をアップしたのが二月後半でも、プログラム的には一ヶ月以上新しい記事はないという扱いになっていたんでしょうね。運営さまウゼエとかいってすみませんでした!さて三月も思ったよりヒマにならない感じなんで、どれだけ更新ペース守れるかわかったもんじゃないんですが、最低限あのうぜえ広告が出ないくらいには更新してゆきたいと思っております!

スペード [ 玉置浩二 ]

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posted by toba2016 at 10:38| Comment(4) | TrackBack(0) | スペード

2024年02月23日

このリズムで

玉置浩二『スペード』一曲目、「このリズムで」です。アルバム同時発売シングルという珍しいんだかよくあるんだかわたしにはよくわからない戦略でリリースされました。わたしなら絶対買わないですね、カネないもん(笑)。ただ、ビデオか何かがついているバージョンがあったようで、いちおう特別感はありました。カップリングは「願い」(Live Version)でした。

「キュワー」というシンセ、「ズーン」というベース、そしてドラム、いやパーカッションを背景に、低音のギターリフとアコギアルペシオを組み合わせた前奏で、一気に神妙な気分にさせられます。むむ、前作とは違ってまたしんみりしたアルバムだな、と思わされます。そして玉置さんのボーカル……もういちいち「玉置さんの」と付記する必要もないし、ギターだってベースだってドラムだって「玉置さんの」と前置きしなくてはならないうえに矢萩さんのギターとはもはや区別付きませんから、やめるように意識したいと思います(笑)。で、そのボーカルもきわめてしんみりと、ささやかながら強い強い決意を歌います。ひどい目に遭った、おれもひどいことをしてしまったかもしれない、ともかく傷だらけになってしまったけど、いつだっておれはこのリズムで立ち上がって進んでいくんだ……なんという説得力!一人語りなんですが、こんな一人語りがありますか。あのつらい辛い90年代を超えた世代でこれで共感をぜんぜん感じないような人はこういうアルバム聴かないほうがいいです。それがお互いのためってもんです。ついでにいうと2000年代もさらに悪夢じみた辛さでしたから、その後の10年間のことさえすべてが思い出されてくるような一人語りです。この歌は魔法の詠唱か!そしてこの演奏……玉置さんに合の手を入れる安藤さんのさりげないピアノ……すべてが魔術か!こんなの一人語りじゃないやい!と叫びたくなるくらいのハードタイム・リコーラーです。

無理しないで行く……他人の痛みがわかるように……いやそれが難しいんですよ!他人の痛みがわかるためにはかなり頑張らないといけません。ああ傷んでるなとはわからなくもないですが、どのくらい痛いかは似たような経験をしてなお不十分です。だから、リラックスしているわけじゃないんです。必死なんです。必死なんだけど「無理しないで行こう」「やってみよう」と一人つぶやく……

Bメロに入りまして「身を粉にして働いて」と、とても無理しないではできないような強い決意が漏れます。家族に何か残すというのは、今と自分しかみえていない若者から大人になったということなのです。コスパタイパと小賢しいうるせえ奴らは黙っていろこちとら自分のためだけに生きてるんじゃねえんだよ、と、多くの場合攻撃的な口調になりかねないメッセージなのですが、玉置さんはさらっとやさしく、しかし強く、そっと歌うのです。このさりげない強靭さ壮健さは、もはや色気すら感じさせます。

「ドン!」と静かに、しかし強く一瞬のブレイクからつづけざまにギターに導かれてサビに入ります。少しずつ少しずつ……と、きわめてシンプルで力強い歌詞です。松井さんが「悲しみにさよなら」でシンプルに書くことを心掛けた心境に近かったのでしょうか、大したことは言っていないのに(笑)このメッセージの強さ!転んでも立ち上がって歩く……ただそれだけなんです。ですがそれが難しいと骨身に沁みてしまった世代には涙モノの強さなんです。手ひどく転んでしまい、もう立ち上がる気力をなくしかけた2000年ころ、そして寒々しい21世紀を迎えて病んでゆく心身、立ち上がるってどうやってやるんだよ……立ち上がったところですぐまた転ぶに決まっているじゃねえか……もはや、「沼」を攻略した後すべてのカネと気力を失い坂崎家に居候していたカイジなみのダメぶりです。考えようによってはカイジより酷く、ただただテレホーダイタイムが始まるのを横たわって待つしかない無気力に陥っていたわたくし、弦の錆びたFenderストラトキャスターは埃をかぶり、再び弾かれる日なんて来るのやら、部屋の隅でじっとかつての相棒だったダメ青年をみつめていたのでした。さて、この短いサビ、「ン・ターンタンター、ン・ターンタンター」を繰り返す生々しい単音とストロークの組み合わせのアコギ、そして曲の冒頭からずっと鳴り続けるリフ、ピアノ、これらがベースとパーカッションの隙間から、聴くたびに違う楽器が目立って聴こえるかのように重層的に、しかし控えめに折り重ねられています。それによって数十年かけて作り出した蕎麦屋の返しのように全く飽きの来ない聴き味を出しているのです。これは凄い……。

そして曲は二番、今度は心を明るく保とう!と語ります。一念発起してようやっと立ち上がって歩き始めたばかりのわたくし、すでにグロッキーです(笑)。「慌てないで」「救われるように」「今度は人を好きになれるように」……「すきーになれるよーうにー」?……(ブワッ)、なんだなんで泣かせるんだよ!「悲しいことがなくなって」?なんでそんなに、グリグリといま痛いところを衝いてくるんだよ……勘弁してよ玉置さん……。まだ立ち上がったばかりのわたくしにはハードルが高すぎるのですが、でも、そこにたどり着かなければならないのは明らかで、玉置さんがそれをはっきりと示してくれたような感じさえするのです。

わたしはこれを聴きながら、学生時代に読んだマックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を思い出していました。簡単に言うと、救われる人リストはすでに確定していて、自分がそれに含まれていると信じたいから人は天職に邁進する、という禁欲的宗教と資本主義の合体仮説です。もちろん読んだときはもっと若かったですから「フン!」って感じでしたけども(笑)、若い時に読書はしておくもので、歳を取ってからいろんなタイミングに効いてくるんですねーこれが。救われるとか救われないとか、なにマジになって信じちゃってるんだよ、そんなことあるわけないだろくらいに強気だったのが、悪夢の90年代を通過するともういけません、ああそうか、いまのおれは救われてないんだ……死んだ後のことは死んでみないとわからんが(ただし、死んだ後も何かを分かる状態だった時だけわかるし、たぶんそれはない)、少なくとも生きてるいまだってこれ以上ないダメぶりじゃないか……これは救われなかったということだ……死んだらもう必ず負けるバクチみたいなものでしかないから頑張りようもないけど、生きているいまならまだ救われるように頑張れるかもしれない……とかなんとか、すっかり気分は敬虔なプロテスタント風味になり、神の声(玉置さんの歌)に引き寄せられるように導かれてゆきます。

そして「少しずつ、少しずつ」わたしは歩き始めます。一日に一歩でいい、前に歩こう、ときには一歩に何日かかかるかもしれないが、それでも確実に歩いて行こう。まずはバイクを直しました。クラッチが擦り切れて坂を上らなくなっていたひどい状態です。でもこれがなければ進めません。人に頼んで部品屋に連れて行ってもらい、一番安い非純正の輸入品だか逆輸入品だかを手配しました。工賃なんて払えないので、オートバックスとかで買ってきた一番安いオイルを用意して、油まみれ砂まみれになって修理しました。そして残っていた洗剤とワックス、コンパウンドをかけて、何日もかかってピカピカにしました。よし、これで動ける!次は散髪だ!すっかりボサボサになっていた髪を千円床屋で切り落とし、髭をそりました。ワイシャツに袖を通し背広を羽織るとブカブカ!うわこんなに痩せてたのかと驚きつつ、いくつかの仕事場にアポを取ってわたくしは動き始めました。すっかり人間嫌いになっていたわたくし、かなりムリして表情を作り言葉を絞り出しながら仕事を獲得していきました。「腕を振って」、そうそう「このリズムで」、「真直ぐに」、「歩いて行こう」……サビのオーケストレーションが、その楽器のフレーズ一つひとつが、並列四気筒の排気音、踏切の音、そして人々の声の合間に聴こえてきてわたしを前に進ませてくれます。倒れても転んでもいい、そうしたらまた立ち上がって歩き出すまでだ。ニコニコ笑って、人を頼ったって構わない、時代も社会も、最悪のときにわたしはめぐり合わせてしまって酷い目に遭わされたかもしれないが、少なくとも出会う人たちは鬼なんかじゃないんだから……。

最後のサビ、歪んだエレキギターが「ギュイーン!」と入り、曲が最高潮に達したタイミングでわたしはいつもあの2001年を思い出します。立ち上がらなくちゃ、歩き出さなくちゃ、救われない、救われない、救われてない……「自民党をぶっ壊す」と登場した小泉純一郎が自民党総裁、内閣総理大臣に就任したあの2001年4月、小泉が着々と支持を集めてゆくのを横目に、わたくしもまた再起をかけて動き始めました。シーズンインした野球では、新庄がメッツに加入していました。さらっと書いていますけど野手がMLBに挑戦するのはいかにも無謀に思えたあの時代、新庄は孤軍奮闘します。衛星放送で英語の解説を聴きながらガンバレ、ガンバレ新庄……と自分の行く末を勝手に重ねあわせて祈ります(おれも頑張ってみるよとは恥ずかしくて思わないようにしているけど思っている)。そして辛いときは「このリズムで」「このリズムで」と、ギターソロに合わせて玉置さんが繰り返すアウトロをいつでも思い出します。そうだ、リズムを守っていればいい、そうしたらどうしたって体は動いているんだから。体が動けば頭も動く。止まらないことだ。

さて、久しぶりの記事更新となりました。一ヶ月くらい沈黙していたでしょうか。もう何が何だかわからないくらい次から次へと何かしらすべきことを抱えてしまい、ようやくひと段落したところです。まさに「身を粉にして働いて」なんですが、自分一人でできることなどたかが知れてますから、その成果もあやしいもんです。そんな中で「家族に何か残してやれるように」と願うことの尊さというかその気持ちというかが、四半世紀近く経って当時の玉置さんよりだいぶ年上になってからわかってきたように思います。あのとき、『スペード』がなければ……そして「このリズムで」がなければ、四半世紀後にこんな心境に至れることはなかったんじゃないか、この曲に「救われた」んじゃないかと思っております。あのときのストラトキャスターももちろん健在ですよ。だいぶ手を入れてしまってあまり当時の部品は残ってないですが(笑)、いまでも相棒(あちき)の指先の動きにいい音で応えてくれてます。

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posted by toba2016 at 12:50| Comment(4) | TrackBack(0) | スペード