『安全地帯VI 月に濡れたふたり』四曲目、「じれったい」です。
大ヒット曲ですよね。何がヒットって、従来の安全地帯がまとっていた歌謡曲的メロディアスさをあえて破り、そのうえでリスナーに受け入れられたという点で、画期的なのです。
いや、わたくしこの曲がメロディアスでないとはけっして思っておりません。これほど心にスルッと入り、覚えやすいメロディーもそうはないでしょう。その点ではたしかにメロディアスなのです。ですが、従来の安全地帯、正確にいえば「ワインレッドの心」以降の安全地帯がほとんど不可避的にもっていた、玉置さんにいわせると「歌謡曲っぽい」メロディアスさではないのです。すると今度は「歌謡曲っぽい」ってなんだよ、という話になるに決まっていますけども(笑)。要するに、多くの人に受け入れ準備(レディネス)ができている曲、ということになります。たとえば宇多田ヒカルさんの「Automatic」が昭和後期の若者に受け入れられる可能性があったか?と問われれば、答えはノーでしょう。つまり「Automatic」は昭和末期においては歌謡曲的ではなく、平成中期にあっては歌謡曲的であったということです。「じれったい」の時点では、「Automatic」が受け入れられる要素は、当時の十代だったわたくしたちにはありませんでした。ましてやその上の世代など、推して知るべしです。「一緒にするな!同年代だけどあの曲があの時代に出てきたらおれは熱烈に支持したぞ!」という方、お気を悪くさせて申し訳ございませんでした。いつの世も先駆的な耳を持つ方はもちろん一定数いらっしゃいますので、きっとそういう方なのでしょう。先駆的でなかったわたしには、R&Bの要素が歌謡曲的、つまり大勢の人の耳になじむもの、つまり受け入れるレディネスができているもの、になるまでに十年以上を要したとしか申し上げられないのです。
しかるに、「じれったい」の時点において、「じれったい」のような曲が受け入れられるレディネスが当時のわたしたちにあったか?と問われれば、じつは、事はそう単純ではないように思われます。
いまの十代〜二十歳前後の若者と、わたし世代との決定的な差は、リズムに関するセンサーです。ラップ、ヒップホップ、ジャングル、グライム等々が小さな頃から身の周りにあった世代には、どうしても敵いません、というか、話が通じません。「そこ違います、ジャーンジャン、ツツジャーンジャンツツです」とか平気で言ってきます。どーでもいいじゃんそんなの!とわたしは思っていますが、向こうはそうじゃありません。フランス人にとって蝶も蛾も同じ「パピヨン」なのに似ています。「触覚に毛がたくさん生えていてキモいじゃん!夜に灯りの周りでバタバタ言ってるのもキモいじゃん!羽を広げて止まるのもキモいじゃん!全然違うよ!」「ん?ああ、たしかにそうだけどさ、そんなの大した違いじゃなくない?事実、アゲハモドキとか一目じゃ見分けられないでしょ」「あのキモさがわからないんて……!話が通じない!」日本人にとってカウもオックスも「牛」であるのも同じで、違うのはわかるけど、どうでもいい違いなので区別しないのです。
むろん、わたくし世代にも、わたくしがハードロック馬鹿であるのと同程度のヒップホップ馬鹿もそこそこはいましたから、純粋に世代の問題ではないかもわかりません。ただ、あのころはヒップホップは明らかにいまよりもマイナーでした。そして、だからこそでしょうか、当時のヒップホップ馬鹿は高度の音楽馬鹿でした(嫉妬を含んだ褒めことば)。
さてさて、「じれったい」は、当時の歌謡曲に似ず、強烈なリズムと抑揚の大きなメロディで、わたくしたちの度肝を抜きました。この曲は、誤解を恐れずにいえば当時の歌謡曲っぽさからは逸脱していたのです。いまの若い人からすれば「じれったい」はそんなに強烈なリズムでもないし、メロディーもふつうにきれいな曲なのでしょう。1987年当時、BOOWYさんの「マリオネット」とかTMネットワークさんの「Get Wild」とかがかなり強烈なロックに聴こえたあのころの若者たちとは、働かせているセンサーがそもそも違うのです。
それなのに「じれったい」がヒットしたのは、わたしたちにそのレディネスがすでにあったからではなく、玉置さんの強烈な歌のうまさ、メロディーセンス、松井さんの巧みな歌詞、安全地帯のアレンジ&演奏力が、強引にわたしたちのレディネスを急遽形成したからなのだと思います。さらに、安全地帯のファンが安全地帯支持力全盛期であったこともその後押しとなりました。この時期でなければヒットしなかったんじゃないかと思われるほど、この曲は実験的・先進的だったといえるくらいです。そう、あのときの安全地帯だからこそ、強引にわたしたちのアタマに新しい音楽スタイルをねじ込むことが可能だったのではないか、とわたくしは推論します。はっきり言って、当時は「じれったい」が新人の曲だったら受け入れられる時代ではありませんでした。「ワインレッドの心」から「好きさ」までがあって、その直後だったからこそ、はじめて人々の耳に届くものです。そして、「太陽」や「俺はどこか狂っているのかもしれない」がほとんど受け入れられなかった事実からも、安全地帯でさえ、セールス全盛期を外すと新しい音楽スタイルの普及に失敗することは明らかだということがわかります。
宇多田ヒカルさんは藤圭子さんのお嬢さんですが、それを世間に公表していたわけでもなく、また、かりに公表していたとしても平成中期の若者にとっては誰それ?ですから、何のバックグラウンドもなかったわけです。つまり、あの頃には「Automatic」へのレディネスがすでにできていたと考えるほか、あの曲が受け入れられた理由はなかったのです。安全地帯でいえば「ワインレッドの心」にあたるでしょう。わたくし宇多田さんのほかの曲は一つも知りませんけども(笑)、それは宇多田ファンのみなさんがかろうじて「ワインレッドの心」と「田園」くらい知っているかどうかであろうことに似ています。
前置きがとんでもなく長くなりました。ようするに、「じれったい」はかなり先進的な楽曲だった、というだけのことなんですけども。
イントロのドラム(シンセドラムかと思うほど加工されています。実際に、kmpのスコアではシンセドラムが指定されています)からして、16分音符がオカズでなくメインのリズムを形成する音符ですから、単純なエイトビートに慣れ切ったわたしたちにはかなりのインパクトです。六土さんのベースもグキグキと歪み、この曲の背骨はかなりインパクトある太さであることを主張してきます。
それに比して、ギターの役割はとても控えめです。矢萩さんは「ギュリギュリギュリギュリギューン!キュルウキュルルルーン!」というオブリを入れる以外はほとんど沈黙しています。ライブと2010バージョンではサビに全音符のディストーションを入れていて、わたくしこれがカッコよくて好きなんですけど、当時のシングルバージョン、アルバムバージョンともに、ほんの数秒しかギターを弾いていないんじゃないかと思われるくらい、役割がありません。武沢さんは「甘いKissで(シャリーン!)」「くいちがいに(シャリーン!)」という印象的な武沢トーンを入れ、サビでカッティング(わたくしこの音大好きですが、すでにこれまでの記事で語りすぎたので自重いたします)を入れていますが、これもないと気づく程度の存在感でしょう。はっきり言ってこの曲は、田中さんと六土さんと玉置さん、そしてほかの要素をみんな隠す大歓声だけで完走できます。BanaNaのディレイをかました「チャチャッ!チャチャッ!チャチャッ!チャチャッ!チャチャッ!……」、そしてサックスのソロ、AMAZONSのコーラスももちろん印象的ですが、すべて骨ではなく肉です。さらに、シングルバージョンではせっかく強かった中西さんのピアノをアルバムではギリギリまで下げ、肉をそぎ落として骨太に骨太にとミックスしたことがわかります。
歌詞の骨太さも、もの凄いです。一聴しただけでは「じれったい」以外のことばが耳に残るか自信がありません。この「じれったい」という言葉の強さたるや、「好きさ」とどっちがワントップをはるか……ガンバ大阪のエムボマなみのインパクトなのです。「好きさ」は、まあ……グランパスのウェズレイですかね。相手に合わせて使い分ける感じでしょう(笑)。
そのエムボマ、初弾から「わからずやの濡れたくちびる」というとんでもない40m超弾丸シュートを放ちます。なんじゃこりゃ、いきなり艶っぽすぎるだろう!こんな強いことば使っちゃって、このあとどう曲を盛り上げていくの?と、もういきなりパニック状態です。と思ったとたんに甘いKissでうまく逃げます。エムボマがゴール前の混戦でごっちゃんゴールをつま先でほいっと決めるくらいイヤらしい攻撃を見せます。
「じれったい!」(一点追加)「じれったい!」(またまた一点追加!)なんじゃあの選手は!ハーフウェーからいきなりドリブルで攻めあがって二連続で決めたぞ!もっと、もっと知りたい!と色めき立つスカウト陣、前半で早くも4−0です。この調子でエムボマ解説していくと終了までに10点は決まりますのでこのくらいにしましょう(笑)。
ちょっと会っただけでとんでもないインパクトを残す女性は実在します。悪女とも、性格破綻者ともちょっと違うんですね。それらは二・三日でなんとなく、あー、きっと幼少期に何かあったのだろう気の毒だなとは思うのですが近づかないようにしておいたほうが無難だと感じさせるアラートを発しているものです。それらとは異なり、アラートが鳴っていないにもかかわらずこちらのセンサーが何かを感知し「パターン赤!使徒です!」的な反応を示します。きっと身内の誰かに似ているんでしょう(笑)。冗談抜きに『冬のソナタ』のカン・ジュンサン並みの何かをキャッチさせて来るのですから、気にならないわけがありません。妙に話のリズムが合うとかたまたまニッチな趣味を共有していたとかほしいと思わせるツッコミを欲しいタイミングで出してくるとか、そういったことは結果にすぎません。原因となるものがあって、それが何なのかを突き止めたくてひとは不安になり、恋に落ちてゆくこともしばしば起こるのでしょう。だからこそ、人のもつ物理的・心理的距離を縮めてゆく必要性が煩わしく、じれったいのです。
さて歌は二番に入ります。「ひとりずつじゃ喜べそうにない」はこの歌最大の謎です。というか、ここ以外に謎はありません(笑)。ほとんどの装飾を排してシンブルなことばで焦燥感をガッツリ押し出してきますから、謎はむしろ邪魔なはずですが、松井さんはここに罠を仕掛けたのでしょう。この言葉が咀嚼しきれず引っかかって私たちの心に残ることを狙ったかのように……「ひとりずつじゃ物足りないわ!数人まとめていらっしゃい!カモン!」とかのパワフル恋愛ロータリーを実践なさるわけではないでしょうから、当然これは比喩だと考えるべきでしょう。
彼女の瞳は揺れています。「マスカレード」のときのような潤んだ美しい揺れ方でなく、渇いているのですから、彼女はまだ恋愛モードに入っていないと考えるべきでしょう。はっきり言えば様子見です。これはやっかいだ……というか逃げようよ、こんな彼女をロックオンしてもミサイル当たるわけないよ、いや、これはおれの獲物だ……当ててみせる、ゲームじゃなく、本気で!ところが彼女はひらりひらりと避けます。熟練すぎて、手ごたえがまるで感じられません。
恋愛は、通常、一対一で行うものです。それ以上ですと、マイケル富岡さんくらいの特殊な人でない限り社会的制裁がかなりきつくなるのは目に見えていますから、通常の手段では一対複とか複対一とかは用いません。ですが!ここは!たとえば嵐の五人とかで一挙に迫り、さあ君の好みは誰なんだい?とでもしないと、彼女の瞳はピクリともしないのでは?と思わせる堅固さなのです。実際にそんなことをするわけではなく、あくまでそれぐらい手ごわい、ということを示す比喩なのでしょう。ちなみに、わたくし嵐の五人は見分けがつきません(笑)。嵐に限ったことではなく、わたくしにとってのジャニーズの皆さんはフランス人にとってのパピヨンくらい区別が難しいです。大野君だけ、歌えばわかりますが。
こんな、最初の一歩から五人がかりを要するんじゃないかと思われるくらい難攻不落では、せっかくのカンジュンサン・サインも感知しっぱなしでちっともキャンセルできません。じれったすぎます。韓国ドラマなら白血病とか失明とか交通事故で記憶喪失とかそういうイベントが起こって事態は進行していきますが、80年代の安全地帯はそういう
さて曲は間奏に入ります。アルバムバージョンとシングルバージョン最大の違いはここですね。アルバムバージョンは、サックスソロの後に玉置さんのうめき声、ブレイクやディレイが入り混じり、かなり現代的ダンサブルナンバーな仕上がりになっています。いや、わたくしダンス音楽にはまるで疎いですから、ちょっと何かの機会で聴いた程度のイメージで言っていますけども(ですから、この箇所の評価をする資格はまるでないと思っております)。もしかしたら10年単位で遅れているかもわかりませんが、少なくともマハラジャとかジュリアナとかのユーロビートよりは後だと思います(笑)。余談ですが、どうみても冷凍食品をチンしただけの料理を提供なさっていた「シェフ」って人たちは、ディスコが消え去った世の中でどうやって身を立てていらっしゃるのか、とても気になります。極めつけにどうでもいい余談でしたが、そういう時代だったんですよ。
さて曲は最終局面に入ります。もうすぐ終わる歌なんですが、「終わらない!」と叫びます。彼女との仲が進展した描写は一切ないですから、延長戦に入ることが決定したのでしょう。「知りたい」と玉置さんが歌唱を終えると、メインリフを一回回しただけで曲は突然に終わるのです。四回くらいないと気持ちが落ち着かない80年代ボーイの私には、とても唐突に聴こえます。もちろんそういう効果を狙ってのことですから、この手法はいまのわたくしを作ってくれたわけですけども、それでも必要に迫られないと思いつきませんね。とても思い切った、見事な終わり方です。
ところで、MIASSツアーのDVDには、この曲でメンバー紹介をしている様子が収録されているのですが、なんと六土さんが自分の番をすっかり忘れており、驚いて笑いながら自分のソロを「ブンーーブンーー」とごまかしているという映像を観ることができます。玉置さんも歌詞を間違ってシャウトするなど、安全地帯らしからぬ様子なんです。田中さんが「Friend」でミスを犯した、とかいってかなり険悪になっているDVDなのに、なんだそりゃーですよね。この気まずさたるや、「五人はそれぞれの道を歩みだした」というエンディングのあったがために、切ないことこの上ありません。
【追記】AMAZONSのみなさんがトーク動画をアップしてらして、いろいろ知らなかったことがわかりました。
価格:1,284円 |
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そう、いまっぽいんですよ。昭和末期では異様な曲の部類に入るんですが、安全地帯はその実力で30年以上も飛び越えたのでしょう、セールスは好調でした。もっとも、当時はいろんな音楽が百花繚乱でもありましたから、異様なやつもたくさんありましたし、その中には「いまっぽい」やつもたくさん混ざっていたのかもしれませんが、ほとんど「いま」にまでは生き残れなかったのです。