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安全地帯・玉置浩二の音楽を語るブログ、管理人のトバです。安全地帯・玉置浩二の音楽こそが至高!と信じ続けて四十年くらい経ちました。よくそんなに信じられるものだと、自分でも驚きです。
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2024年03月23日

△(三角)の月

スペード [ 玉置浩二 ]

価格:2385円
(2024/1/20 11:09時点)
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玉置浩二『スペード』三曲目「△(三角)の月」です。

こういう曲調、なんていうんでしょうかね、わたしのあんまり得意でないブルース、ですかね。「ドッドドッドドッドドッド……」とひたずら単調なパーカッションに合わせてベースが響き、オルガンとギターはひたすら合の手を入れる手法です。玉置さんがこういうオールドな感じの曲にのびのび挑戦できるのって、矢萩さんがいてくれるから、そして安藤さんがきっちり合わせてくれるからなんじゃないかな、と思うんですね。「五郎ちゃんがいてくれるから」とか「田中が叩いてくれるから」みたいな感じで、グループ、バンドってのはやる曲が決まったり変わったりすることはよくあるんです。一人ひとりにバックグラウンドの音楽があるのは当然として、それをよく知っている者同士で音楽を作ることになると、どうしたってその集団で気持ちのいい音楽というのはあるものなのです。玉置ソロだからといって玉置さんがパーフェクトに自分百パーセントの世界を繰り広げているわけではなくて、安藤さんと矢萩さんとの三人で音を出そうと思ったらこういう曲が守備範囲に入ってくるってことなのでしょう。逆に言うとまったく一緒に作る音をイメージできない相手というのも存在しますから、組める相手と組めない相手っていうのがどうしても出てきます。わたしだってトミー・アルドリッジが目の前でドラムに座っていたら「BARK AT THE MOON」みたいな曲作りますよそりゃ。逆に、目の前でビル・エヴァンスがピアノに座っていたって、何一つ曲が浮かびません(笑)。ですから、90年代は須藤さんと、2000年前後は安藤さん矢萩さんと、2000年代中盤から後半は矢萩さんと土方さんと、というように、組む相手によってつくる音楽が変わってきているという視点で玉置さんソロの変遷をたどってみるのも一興でしょう。逆に、音楽が変わってきているからそれに合わせて組む相手を変えてきたという見方もできなくはありません。バンドマンの心情的にはメンバーが先、音楽が後、なんですけども、玉置さんのことですから出てきた音楽が特定のメンバーを要求したという形もあり得るでしょう。

そんなわけで、矢萩さんの渋い趣味と共鳴しながら作ったと思われるこの「△(三角)の月」、わたくしのあまり得意でないリズムと雰囲気で始まりつつ、それでもムムウ!と唸らざるを得ないメロディーのよさ、ドラマチックな展開で聴かせてくれます。一瞬ジェイコブ・ディランのWallflowersのような抑揚のないひたすらな渋さを警戒したわたくし(当時、ゴジラの映画でデヴィット・ボウイの「Heroes」を歌ったのがやけによかったのですが、ほかを聴いてみるとぜんぶ一本調子だったので、やっぱこういうのおれには合わねえわと思ったのでした)、やっぱり玉置さん(と矢萩さん)だスゲエ!と感激しきりでした。

Aメロではベースのダッタダッタ……のリズムに乗って三角だったりまん丸だったりする月が、泣いたり笑ったりします。ぜんぜん泣いてそうでも笑ってそうでもないリズムなんですが(笑)、Bメロで一気に歌が泣きのメロディーに変わります。この急激でドラマチックな展開はまぎれもなく玉置さんの歌によってもたらされています。そろそろオーディエンスのレディネスも温まってきたからドラムを派手にしてシンセを入れて盛り上げてサビを入れようか的な小賢しい曲展開メソッドなどどこ吹く風、玉置さんが四拍目に「雨の」と言ったら次の小節からは一気にサビなのです。後から気づくことではありますが、歌詞をよくよく見るとAメロでは「〜の月」と助詞のない主語を頭に置くほかはすべて終止形「〜る」、サビではすべて未然形「〜う」、しかもほとんど「〜そう」ですね。最後だけ「〜ろう」ですけども。これは無理して揃えたんでなくて、曲のノリが自然に生んだ秩序なんじゃないかとわたくしは考えています。曲にノリを生むために歌詞をこのように作るということは当然ありそうなものなんですけども、玉置さんの場合曲のノリが歌詞の秩序を自然に生んだんじゃないかと思わせるくらい言葉選びと歌唱がナチュラルすぎるのです。

△の月というのは存在しませんので、雲などの具合で三角に見えるということでしょう。つまり、明るい月夜ではなくややボンヤリした月明かりであると推測できます。月の周りに雲があってそれに月明かりが吸収されてしまい、まるで泣き腫らした目のようになんだかボヤっとしているのでしょう。そんなパッとしない天候の夜、明日会いに行くあの娘のことを思い、拡散してしまっている月光の下、希望をかき集めて車を走らせます。

高速に乗ると雨が降っています。ハイドロプレーニング現象が起こるかもしれませんからスピードの出し過ぎは禁物です。なお、わたくしハイドロプレーニング経験したことがないんですが、いったい何キロ出したらそんなことが起こるのでしょう。おそらく常識的な速度では起こらないか極めて起こりにくいのでしょう。それなのに教習で教わるということは、常識的なスピードを超えて突っ走るおバカさんがそれなりの割合で存在するということなのでしょう。ヤメてくれマジで!

ああ、すっかり話がそれました。えーと、雨の高速に乗り、風まかせで遠くに行けそうな気分で突っ走ります。「あの娘」に会いに行くのは明日ですから、今日は「ひとりぼっち」で「サビつきそう」な気分で帰るしかありません。ですが心ははやり、ついつい要らぬ高速などに乗って車を気ままに走らせるのです。△の月は泣き腫らした目からさらに雨を降らせてきます。もう月が泣いているんだか自分が泣いているんだかわからない、誰のために泣いているのかもわからない、光景も思考も全体的に湿った夜なのでした。

さて、高速を走っているうちにおそらく雲間にフルで満月が姿を現したのでしょう、こんどは「〇(まんまる)な月」です。月が笑っているのです。これはもちろん主人公の気分でもあります。今夜の夢はさぞ楽しいだろう、あの娘を抱きしめるところまでストーリーが進むだろうか、なんせ明日会えるんだからなと気分はすっかり躁状態です。

ですが、まだ高速道路を風任せに走っているうちにまた鬱になってきます。明日を楽しみにしつつも、悲しみの予感が主人公を苦しめます。歳を重ねると、恋人に会うのもあと何回あるんだろうなんて余計なことを考えてしまって純粋に楽しめないというか、一回一回を惜しむようになってきます。わたくし既婚者ですからそんな気分になったことないだろそれとも浮気でもしてんのかって誤解をさせそうですが(笑)、いやいや、結婚したころだってその前だって、そこそこ歳いってたんでわかるんですよ、という意味です。とはいえ当時の初婚平均年齢とドンピシャだったんですけども。おれの同年代結婚しなさすぎ!というか、まるで結婚しない人が多くて、結婚する人だけ平均するとこういう年齢なのかとしみじみしちゃいました。そんなわけで、ここで結婚しないでどこまでも突っ走ることもできるんじゃないかという気持ちと、もちろんそれをやるといつまでも走るハメになって「ひとりぼっちになりそう」「枯れ果てそう」という恐怖、危機感とに板挟みにされて苦しめられる、という気分が、なんとなく分らんでもないような気がしなくもない、ということなのです。ホントに、何のために生きてるんだろう、と考えずにはいられないんですね。結婚することと結婚しないことは両立できませんから、こればかりはえいやっと思い切るしかありません。そもそも昔はこんなこと悩むまでもなかったんですから、悩めるだけありがたいと思わないといけません。喉元過ぎれば熱さを忘れるわたくし!

そしてアコギによるソロ、「タララタララ」と三連符を多用する古典的なロックンロールの定番ソロなんですが、とてもブルージーに聴こえます。安全地帯でも、そしてこれまでの玉置ソロでもここまでブルージーでオールドな曲はなかったように思われますから、決して派手な曲ではありませんけども新機軸といっていいでしょう、この曲もソロも。そしてもちろん各種記事に書かれて有名な手作りパーカッションによるものと思われる左右に振られてアクセントをつけている音色たちも。オールド風なのに実は何もかもが新しいわけです。すでに書いたことですけども、わたくしこういうのあんまり得意でないですから、何度も聴いていくうちにこりゃいいやと思えるようになったわけなんですけども、最初はウワ古くせえ感じ!だったのです。そもそもアルバム全体が派手でないですから、こういう曲の凄さというのは聴きこまなければスルーしてしまいがちになるでしょう。『GRAND LOVE』以降、軽井沢時代はこんなのばっかりですから、「田園」近辺で獲得したファンもだいぶ離れたことでしょう。

考えてみれば安全地帯でも「ワインレッドの心」から「じれったい」あたりまで爆発的にファンを増やした後に、ヌルいファンは要らねえ!と人を突き放すかのように『太陽』をガツンと叩きつけたということがありました。玉置さんは、作って壊す、いや壊してなくて作り続けているんですけども、それでもファンの人数をわざと減らすかのように周期的に自分の世界にガツッと入っていく癖があるのです。『太陽』のように後年その凄味が理解されて名盤としての評価を得てゆくなんてことも起こったわけですから、この『スペード』もそうなるんじゃないのと思わなくもありませんが、いまはまだその時ではないようです。

さて歌は最後のサビ、どうやら結婚するほうに決意を固めたようです(笑)。いや結婚しないまでも、ハイウェイのつづくどこか遠くで「二人きりで暮らそう」「やり直そう」と決意します。やり直すからには何か失敗したんでしょうけどもそれが何なのかはわかりません。過去には誰だっていろいろ失敗しているもんですから(玉置さんならなおさら!)、痛い目も見たけどもう一度やってみようと気持ちは晴れやか、涙が出るのですがそれは雨のせいであって実際には泣いていない(ような気分な)のです。

そしてベースとパーカッションだけがリズムを取り続け、ボーカルが再び絡んでいきます。オルガン、ギターがそれに続きますが、サビほどの音の厚みはありません。シンプル、あっさりな印象のアウトロになっています。

ふたたび三角の月、つまりまた鬱になったのです(笑)。決意したら決意したでまた頭の痛いことがあるのでしょう。でも、今夜は夢を見て、そして明日になってあの娘に会えて、そして実際に抱きしめて……きっとやれる、どうにかやれると思わせてくれる程度にはゆく道を照らしてくれている三角の月なのでした。

「テレレテレレテレレ……バーンバーン!」と書くとアホみたいですけども、最後のギターからの終わり、決まってますね。これはいっぺんで頭に入ります。オールド風味だからすべてダサくて聴いてられねえぜって態度だった若き日のわたくしにも刺さりこんで、すっかり虜にされてます(笑)。こういう、秀逸というか刺激的というか、ともかく心に刻印を残すものがこのアルバムこの曲にはたくさん仕込まれていて、聴けば聴くほどそれらが味を出してきます。あのダメダメだった90-00年代にこんなアルバム作るんだからもう……ありがとうございますとしか言いようがないのでした。

スペード [ 玉置浩二 ]

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posted by toba2016 at 14:23| Comment(4) | TrackBack(0) | スペード

2024年03月02日

甘んじて受け入れよう

玉置浩二『スペード』二曲目「甘んじて受け入れよう」です。玉置ソロだけでなく安全地帯でもありがちなことだったんですが、アルバムの一曲目が異様にシリアスだったのに比べて二曲目はグッと砕けた感じになっています。典型的には『安全地帯IV』の「夢のつづき」「デリカシー」ですね。なんだよせっかくシリアスにいい気分だったのに!とその緩急差というか寒暖差というか、ともかくテンションの違いについていけずしばしば二曲目は駄曲扱いでスキップされてしまうわけですが、それはもったいない!玉置・安全地帯マニアならばこの二曲目にこそ妙があると気がついてしかるべきなのです。実際、二曲目は何度も聴いていくとハマりきってしまう魅力ある曲が目白押しになっています。ぜひ皆様も二曲目にご注目を!「Love ”セッカン” Do It」とか(笑)。いや実際、「Love ”セッカン” Do It」の凄さはあとから沁みてくるんですよ!

さて、「Love ”セッカン” Do It」に比肩するくらいリズムが心地よいこの「甘んじて受け入れよう」ですが、ブルース・カントリー色のあるリズムのギターリフでイントロ、歌と進んでいきます。そしてBメロなくサビに突入していきなりリズムが変わりジョン・ロードのハモンドオルガンみたいな音が入り(これは安藤さんの得意技だと思います)急降下してゆく感触が味わえます。それを大サビを挟んで繰り返してギターソロ、そして唐突に終わります。また、二回目のAメロから入る「ガガッガガー」という深く歪んだギター、これが実に効いています。ソバつゆのシイタケ出汁のように他を引き立てます。この歪んだ音、どうやって出すのと思ってます。自分はこんな音を出したことがありません。これがうわさに聞くファズってやつかしら?と訝るくらいこの手の音には無縁です。BIG MUFFいちおう持ってるんですが、出番がなく使ったためしがありません(笑)。そして最後はこの歪んだ音だけを残して曲は終わるのです。くわーカッコいい!2001年にこのカッコよさに気がついていたらわたしの音楽人生もだいぶ違った軌道を描いたような気がするのですが、当時はなんだ古くせえ音だなくらいにしか思ってませんでした。人間学ぶ姿勢ってものがないとアンテナも鈍ってしまい優れたものを受信できずに実に様々なことをスルーしてしまうという好例でしょう。

さてこの曲、すさまじい歌詞とすさまじい歌いっぷりです、一曲目が抒情的でわかりやすいメロディーでしたからすっかり油断していたんですが、二曲目ではやくも強烈パンチを繰り出してきました。歌詞は、絶望的な見通しの中で自分の実力のみを頼りに突き進むという内容です。「絆」とか「つながり」とか歌ってる現代「アーティスト」たち!この境地がわかるか?おててつないで皆で「ええじゃないか」みたいに大挙して突っ込んでいけば何とかなるのは、内申書の評価が甘い都道府県の公立高校入試くらいのものだ!と教えてやりたくなるくらい切実な生き残りを賭けた闘いの歌詞なのです。

一寸先も見えない暗闇、頼れるのは自分だけ、どうにかこうにかやって……玉置さんだからこその説得力です。もちろん歌がうまいから説得力があるわけでもあるんですが、ここまでの人生がその説得力をいや増しています。2006年に志田さんの『幸せになるために生まれてきたんだから』が出るまで多くの人は玉置さんの苦難に関しては詳細は知らなかったわけですし、いまもって何も知らない人のほうが大多数でしょう。当然、2001年のわたくしも知りませんでしたから、そのストーリーという味付けのない状態でこの歌の説得力を味わうことができたわけなんですが、当時自分の人生がめちゃくちゃなバッドストーリーだったんで別の説得力を感じてしまっていました(笑)。サラの状態で音楽と出会うのはなかなか難しいようです、というか不可能でしょう。

そしてリズムが変わるサビ、「夜明け」に向かって……つまり、バッドストーリーは終わりハッピーストーリーが始まると信じているわけです。この「地球(ほし)」は廻る……そりゃ当たり前ってもんです。自転してますから。自転が止まるか太陽がなくなるかしない限り、かならず夜明けは来ます。これはわたしたちの誰もが知る事実ってもんです。ですが、禍福の行き来ってやつは誰も仕組みがわかりません。そもそも行き来しているのかどうかさえわかりません。へたするとパチンコのように負け続けもありえるでしょう。でも「オンボロになるまで行くぞー!」と玉置さんは明るく元気に叫んでくれます。オンボロになったらその時点で多くの人は文句を言うでしょう。だからあやしい宗教に引っかかるわけです。オンボロになるまえに禍福が入れ替わって福になる保証なんて初めからないんです。ですが、わたしたちは自分がオンボロになるまでしか勝負できない。オンボロになったら試合終了なんですが、それを怖がって勝負できないのでは仕方ありません。もともと千円しか持ってないのに確変をねらうような確率しかないのかもしれません。もしかしたら五千円くらい、あるいは数万円くらいが「オンボロ」になる地点なのかもしれませんけども、実際いくらくらいなのかは想像もつきませんし、ましてやそれで当たる保証なんてありません。そんなのってないよ神様!なんですが、仕方ありません。そこがうまい仕組みになっていると期待するほうが想像力が不足していますし、だからそれに付け込まれるんだよというほかありません。ですが、時が永遠かそれに近いくらい長く続くと仮定するならば、いつかは入れ替わることもあるでしょう。それを「夜明け」と呼び、近いか遠いかもわからないのに、「行くぞー!」これは勇気づけられる……ですが、ある種の人たちには、もしかしたら現代の多くの若い人たちには、まったく何を言っているのかすらピンとこないかもしれません。

勝ち目がないならじっとしてたほうがマシだ、それはわからないでもありません。勝ち目があるなら思い切って賭けてみよう、これはわかります。勝ち目があるけど負けるのが嫌だからじっとしていよう、これもわからないでもありません。じゃあ、勝ち目があるかないかわからない場合には?ここが分かれ目でしょう。ここで賭けないのが上記の人たち(の多数)だと思われるのです。だってバカにされるもん(笑)。到底わかりあえる気のしない世代の違いというものがあるのですが、どの世代にも共通しているのは、周囲にバカにされることを嫌がるという習性です。

「足腰」「柔軟な考え方」「見渡す眼差し」……これらは雑にまとめると「実力」です。十分な実力をもって、慎重にそして綿密に勇敢に「途中くらい」までたどり着きます。途中くらいってどれくらいだよ!(笑)。それでも玉置さんは賭けます。「夜明けに向かって」いると確信しているからです。地球の自転は二十四時間ですが、禍福の自転はもしかしたら56億7000万年くらいかもしれません。もしかして自転などしてないのかもしれません。十分な実力があろうともそれはすべて無に帰すかもしれないのです。これは腰が引けてしまっても仕方ありません。

こんな状況下で進み続ける玉置さん、大サビでそれらを貫く考え方が叫ばれます。

善いことだと思うからやるんです。実際にあとから良かったかどうかなんてわかりゃしない、「どっちにしたって何か言われるんだ」、ならば「甘んじて受け入れよう」とブレイクが入り、これで背筋がゾクゾクっときます。そうだ、どっちにしたってバカにしてくるやつ、文句言ってくるやつはいる、これは全世代共通でしょう。そんなの気にしてたら何もできないし、実際何もしてないに等しい人が多いのも全世代共通でしょう。文句言ってるのが一番楽だし、手ひどい負けはないんですから賢いのかもしれません。でも嫌だねそんな人生と思っている人とは犬猿の仲で、この対立も全世代共通でしょう。バカにしたいならしろ、文句言うなら言え、こっちは勝負しているんだから。

そして最後のサビ、急降下の「夜明けに向かって……」「オンボロになるまで行くぞー!」そしてギターソロ、歪んだギターですが、フレーズ自体は非常に控えめです。ですが、この「ギャーン!……」というトーンが嚙みついてきます。忘れられません。心に爪痕をがっつり残されます。これはバカにしたり文句を言っていたりする人にもガッツリ刺さりこむでしょうし、玉置さんのように賭けよう、もがこうとする人たちの胸にも同志の刻印を色濃く残してゆきます。

さて二月はぜんぜん更新できず、ようやっと「このリズムで」を更新したくらいだったのですが、あれおかしいぞ、一ヶ月更新しなかったときに表示される広告が消えない!なんだこれウゼエな(暴言)。いちいち指先立ててバツマークとか押してられっか!運営に文句言ってやろうかくらいに思っていたのですが、よくよく考えますと「このリズムで」の下書きを最初に作成したのが一月でしたから、それ以降一ヶ月以上経ってたんで、記事をアップしたのが二月後半でも、プログラム的には一ヶ月以上新しい記事はないという扱いになっていたんでしょうね。運営さまウゼエとかいってすみませんでした!さて三月も思ったよりヒマにならない感じなんで、どれだけ更新ペース守れるかわかったもんじゃないんですが、最低限あのうぜえ広告が出ないくらいには更新してゆきたいと思っております!

スペード [ 玉置浩二 ]

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2024年02月23日

このリズムで

玉置浩二『スペード』一曲目、「このリズムで」です。アルバム同時発売シングルという珍しいんだかよくあるんだかわたしにはよくわからない戦略でリリースされました。わたしなら絶対買わないですね、カネないもん(笑)。ただ、ビデオか何かがついているバージョンがあったようで、いちおう特別感はありました。カップリングは「願い」(Live Version)でした。

「キュワー」というシンセ、「ズーン」というベース、そしてドラム、いやパーカッションを背景に、低音のギターリフとアコギアルペシオを組み合わせた前奏で、一気に神妙な気分にさせられます。むむ、前作とは違ってまたしんみりしたアルバムだな、と思わされます。そして玉置さんのボーカル……もういちいち「玉置さんの」と付記する必要もないし、ギターだってベースだってドラムだって「玉置さんの」と前置きしなくてはならないうえに矢萩さんのギターとはもはや区別付きませんから、やめるように意識したいと思います(笑)。で、そのボーカルもきわめてしんみりと、ささやかながら強い強い決意を歌います。ひどい目に遭った、おれもひどいことをしてしまったかもしれない、ともかく傷だらけになってしまったけど、いつだっておれはこのリズムで立ち上がって進んでいくんだ……なんという説得力!一人語りなんですが、こんな一人語りがありますか。あのつらい辛い90年代を超えた世代でこれで共感をぜんぜん感じないような人はこういうアルバム聴かないほうがいいです。それがお互いのためってもんです。ついでにいうと2000年代もさらに悪夢じみた辛さでしたから、その後の10年間のことさえすべてが思い出されてくるような一人語りです。この歌は魔法の詠唱か!そしてこの演奏……玉置さんに合の手を入れる安藤さんのさりげないピアノ……すべてが魔術か!こんなの一人語りじゃないやい!と叫びたくなるくらいのハードタイム・リコーラーです。

無理しないで行く……他人の痛みがわかるように……いやそれが難しいんですよ!他人の痛みがわかるためにはかなり頑張らないといけません。ああ傷んでるなとはわからなくもないですが、どのくらい痛いかは似たような経験をしてなお不十分です。だから、リラックスしているわけじゃないんです。必死なんです。必死なんだけど「無理しないで行こう」「やってみよう」と一人つぶやく……

Bメロに入りまして「身を粉にして働いて」と、とても無理しないではできないような強い決意が漏れます。家族に何か残すというのは、今と自分しかみえていない若者から大人になったということなのです。コスパタイパと小賢しいうるせえ奴らは黙っていろこちとら自分のためだけに生きてるんじゃねえんだよ、と、多くの場合攻撃的な口調になりかねないメッセージなのですが、玉置さんはさらっとやさしく、しかし強く、そっと歌うのです。このさりげない強靭さ壮健さは、もはや色気すら感じさせます。

「ドン!」と静かに、しかし強く一瞬のブレイクからつづけざまにギターに導かれてサビに入ります。少しずつ少しずつ……と、きわめてシンプルで力強い歌詞です。松井さんが「悲しみにさよなら」でシンプルに書くことを心掛けた心境に近かったのでしょうか、大したことは言っていないのに(笑)このメッセージの強さ!転んでも立ち上がって歩く……ただそれだけなんです。ですがそれが難しいと骨身に沁みてしまった世代には涙モノの強さなんです。手ひどく転んでしまい、もう立ち上がる気力をなくしかけた2000年ころ、そして寒々しい21世紀を迎えて病んでゆく心身、立ち上がるってどうやってやるんだよ……立ち上がったところですぐまた転ぶに決まっているじゃねえか……もはや、「沼」を攻略した後すべてのカネと気力を失い坂崎家に居候していたカイジなみのダメぶりです。考えようによってはカイジより酷く、ただただテレホーダイタイムが始まるのを横たわって待つしかない無気力に陥っていたわたくし、弦の錆びたFenderストラトキャスターは埃をかぶり、再び弾かれる日なんて来るのやら、部屋の隅でじっとかつての相棒だったダメ青年をみつめていたのでした。さて、この短いサビ、「ン・ターンタンター、ン・ターンタンター」を繰り返す生々しい単音とストロークの組み合わせのアコギ、そして曲の冒頭からずっと鳴り続けるリフ、ピアノ、これらがベースとパーカッションの隙間から、聴くたびに違う楽器が目立って聴こえるかのように重層的に、しかし控えめに折り重ねられています。それによって数十年かけて作り出した蕎麦屋の返しのように全く飽きの来ない聴き味を出しているのです。これは凄い……。

そして曲は二番、今度は心を明るく保とう!と語ります。一念発起してようやっと立ち上がって歩き始めたばかりのわたくし、すでにグロッキーです(笑)。「慌てないで」「救われるように」「今度は人を好きになれるように」……「すきーになれるよーうにー」?……(ブワッ)、なんだなんで泣かせるんだよ!「悲しいことがなくなって」?なんでそんなに、グリグリといま痛いところを衝いてくるんだよ……勘弁してよ玉置さん……。まだ立ち上がったばかりのわたくしにはハードルが高すぎるのですが、でも、そこにたどり着かなければならないのは明らかで、玉置さんがそれをはっきりと示してくれたような感じさえするのです。

わたしはこれを聴きながら、学生時代に読んだマックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を思い出していました。簡単に言うと、救われる人リストはすでに確定していて、自分がそれに含まれていると信じたいから人は天職に邁進する、という禁欲的宗教と資本主義の合体仮説です。もちろん読んだときはもっと若かったですから「フン!」って感じでしたけども(笑)、若い時に読書はしておくもので、歳を取ってからいろんなタイミングに効いてくるんですねーこれが。救われるとか救われないとか、なにマジになって信じちゃってるんだよ、そんなことあるわけないだろくらいに強気だったのが、悪夢の90年代を通過するともういけません、ああそうか、いまのおれは救われてないんだ……死んだ後のことは死んでみないとわからんが(ただし、死んだ後も何かを分かる状態だった時だけわかるし、たぶんそれはない)、少なくとも生きてるいまだってこれ以上ないダメぶりじゃないか……これは救われなかったということだ……死んだらもう必ず負けるバクチみたいなものでしかないから頑張りようもないけど、生きているいまならまだ救われるように頑張れるかもしれない……とかなんとか、すっかり気分は敬虔なプロテスタント風味になり、神の声(玉置さんの歌)に引き寄せられるように導かれてゆきます。

そして「少しずつ、少しずつ」わたしは歩き始めます。一日に一歩でいい、前に歩こう、ときには一歩に何日かかかるかもしれないが、それでも確実に歩いて行こう。まずはバイクを直しました。クラッチが擦り切れて坂を上らなくなっていたひどい状態です。でもこれがなければ進めません。人に頼んで部品屋に連れて行ってもらい、一番安い非純正の輸入品だか逆輸入品だかを手配しました。工賃なんて払えないので、オートバックスとかで買ってきた一番安いオイルを用意して、油まみれ砂まみれになって修理しました。そして残っていた洗剤とワックス、コンパウンドをかけて、何日もかかってピカピカにしました。よし、これで動ける!次は散髪だ!すっかりボサボサになっていた髪を千円床屋で切り落とし、髭をそりました。ワイシャツに袖を通し背広を羽織るとブカブカ!うわこんなに痩せてたのかと驚きつつ、いくつかの仕事場にアポを取ってわたくしは動き始めました。すっかり人間嫌いになっていたわたくし、かなりムリして表情を作り言葉を絞り出しながら仕事を獲得していきました。「腕を振って」、そうそう「このリズムで」、「真直ぐに」、「歩いて行こう」……サビのオーケストレーションが、その楽器のフレーズ一つひとつが、並列四気筒の排気音、踏切の音、そして人々の声の合間に聴こえてきてわたしを前に進ませてくれます。倒れても転んでもいい、そうしたらまた立ち上がって歩き出すまでだ。ニコニコ笑って、人を頼ったって構わない、時代も社会も、最悪のときにわたしはめぐり合わせてしまって酷い目に遭わされたかもしれないが、少なくとも出会う人たちは鬼なんかじゃないんだから……。

最後のサビ、歪んだエレキギターが「ギュイーン!」と入り、曲が最高潮に達したタイミングでわたしはいつもあの2001年を思い出します。立ち上がらなくちゃ、歩き出さなくちゃ、救われない、救われない、救われてない……「自民党をぶっ壊す」と登場した小泉純一郎が自民党総裁、内閣総理大臣に就任したあの2001年4月、小泉が着々と支持を集めてゆくのを横目に、わたくしもまた再起をかけて動き始めました。シーズンインした野球では、新庄がメッツに加入していました。さらっと書いていますけど野手がMLBに挑戦するのはいかにも無謀に思えたあの時代、新庄は孤軍奮闘します。衛星放送で英語の解説を聴きながらガンバレ、ガンバレ新庄……と自分の行く末を勝手に重ねあわせて祈ります(おれも頑張ってみるよとは恥ずかしくて思わないようにしているけど思っている)。そして辛いときは「このリズムで」「このリズムで」と、ギターソロに合わせて玉置さんが繰り返すアウトロをいつでも思い出します。そうだ、リズムを守っていればいい、そうしたらどうしたって体は動いているんだから。体が動けば頭も動く。止まらないことだ。

さて、久しぶりの記事更新となりました。一ヶ月くらい沈黙していたでしょうか。もう何が何だかわからないくらい次から次へと何かしらすべきことを抱えてしまい、ようやくひと段落したところです。まさに「身を粉にして働いて」なんですが、自分一人でできることなどたかが知れてますから、その成果もあやしいもんです。そんな中で「家族に何か残してやれるように」と願うことの尊さというかその気持ちというかが、四半世紀近く経って当時の玉置さんよりだいぶ年上になってからわかってきたように思います。あのとき、『スペード』がなければ……そして「このリズムで」がなければ、四半世紀後にこんな心境に至れることはなかったんじゃないか、この曲に「救われた」んじゃないかと思っております。あのときのストラトキャスターももちろん健在ですよ。だいぶ手を入れてしまってあまり当時の部品は残ってないですが(笑)、いまでも相棒(あちき)の指先の動きにいい音で応えてくれてます。

スペード [ 玉置浩二 ]

価格:2417円
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2024年01月20日

『スペード』

スペード [ 玉置浩二 ]

価格:2385円
(2024/1/20 11:09時点)
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玉置浩二オリジナルアルバム九枚目『スペード』です。発売は2001年3月、先行シングルはなく「このリズムで」が同時リリースされました。

おそらく、玉置さんのアルバムの中で一番話題になることが少ないアルバムの一つでしょう。そもそも他のアルバムに比してあまり売れてないのですから、聴いた人が(相対的に)少ないのです。まあー、ムリもありません。なにせ話題性ってものがありません。この時期、他人から玉置さんの話を聞いた記憶が全くないのです。当時はわたし自身に余裕が全くなかったからでもあるんですが、もう海外との情報交換もしておりませんでしたし、当時はネット上でアルバムレビューなんてやってる人はほとんどいませんでした。まあ今だってそんなに多くはないんですけども、今は探せば見つかるじゃないですか。当時はそもそもそういう「情報」がほとんどないのです。ないのが当たり前でしたからあんまり気にもしていませんでしたけども。

だいたい、他人の感想なんかアテにするほうが間違っています。他人は自分でないからです。音楽でも小説でも食べ物でも、それが自分の感性にどのようにキャッチされるのかは自分でそれを経験する以外に知る方法がありません。自分にはバニラの味がするソフトクリームを他人が食べると、彼/彼女は自分がチョコを食べたときの味わいを感じているという可能性は当然のようにあって、それはどんな事実とも矛盾しませんが、それを知る方法はお互いに存在しないのです。他人の評判をアテにしてタイパコスパ言っている現代ではそんな話そもそも通じないんだとは思うんですがね。わたくし自分のブログの存在意義を真っ向から否定する危険すら冒して警告しているというのに(笑)。

そうはいいつつ、もちろんこれまでの玉置さんが作った音楽に酔いしれた人というのは膨大な数いらっしゃったわけですし、そうした人たちならば「ある程度まで似た」ような感性を持っている「可能性がある」わけですから、そうした人たち同士の間でなら、まったくアテにならないレビューとばかりもいえないかもしれません。さらにいうと、玉置さんは変化・成長しています。わたしたちも当然に変化・成長しています。このアルバムまでたどり着くような重度の安全地帯・玉置浩二ファンであるのならば、その変化・成長の道のりを決して短くない時間重ね合わせてきたことになるでしょうから、そこに幸せな共感が生まれる可能性も生じることでしょう。それに賭けたいとわたくしは思うのです。

1.「このリズムで」:なんでこんないい曲が話題にならないのと不満になるブルースポップスです。
2.「甘んじて受け入れよう」:玉置さん得意のダイナミックな展開、リズムのロックです。
3.「△(三角)の月」:ジャジーな雰囲気の大人ロックです。
4.「太陽になる時が来たんだ」:わたくし的にはこのアルバムNo.1のアコースティック・バラードです。
5.「夢見る人」:ロッドの「マンドリン・ウィンド」を彷彿とさせるアンプラグドソングです。
6.「アンクルオニオンのテーマ」:導入曲……ですかね、次の「スペード」の。猫の鳴き声です(笑)。
7.「スペード」:渋いブルースロックです。アコギのリフがたまらなく格好いい!
8.「ブナ (Instrumental)」:安藤さんの真骨頂ともいえる(作曲は共作ですが)美しいピアノ曲です。
9.「君だけを」:前曲「ブナ」を歌詞の冒頭に使った、玉置さんらしい陰のあるバラードです。
10.「美味しいジュース」:これまた玉置さんらしいミドルテンポの不思議ソングです。
11.「気分がいいんだ」:ぜんぜん気分良くなさそうな詞なんですが、曲はひたすら楽しいです。
12.「メジャーマン」:前曲につづいて、玉置ソロ初期のような楽しい仕掛けの曲です。
13.「どうなってもいい」:オールドロックのノリで軽快な、でも陰が仄見えるブルースロックです。

このアルバム全般にいえることですが、デレク&ドミノスか?と思われるようなオールドへの接近が見て取れます。逆に言うとこのアルバムが好きな人はきっとクラプトンもお気に召すことでしょう。もう、玉置さんが好きなことをやりまくっている感じがあふれています。くわー渋い!カッコいいなあ!とわたくしなんかは思うのですが、「ワインレッドの心」的なものを求める方にはまったくお勧めできないアルバムだとも言えます。あれからもう20年近くが過ぎ、世紀まで変わってしまったのです。そう、世紀末に安全地帯とソロで突っ走った玉置さんはまったく何事もなかったかのように、1999年七の月を乗りこえ(笑)、軽井沢で好きな音楽三昧をなさっていたのでしょう。まことにうらやましい世紀越えです。わたくしなど、2000年問題でパソコン暴走したらおもしれえなあ、とか思いながら鬱々と迎えた新世紀でした。何かが変わったかといえば全然そんなことはなく、相変わらず今日は昨日の続きだし、明日も今日の続きなのでした。ですがそんな日々が20年ちかくも積み重なると、「ワインレッドの心」も「このリズムで」に変わるくらいの大変化が起こるのです。小学生低学年だったわたしも20代中盤の青年になっていました。

四十代前半に差し掛かっていた玉置さん自身も売れる音楽とそうでない音楽の両方をさんざん経験していますから、売れる努力をすることは当然にできたのでしょうけども、ことこのアルバムではそれをした気配がありません。ひたすらに、自分の感性だけを羅針盤にして作っていったんじゃないかと思えるほどに、むしろ他人を寄せ付けないようにしたんじゃないかってくらい、孤高のアルバムになっています。テレビに出るとか雑誌のインタビューがバンバン来るとかそういう時代はとうに過ぎ去って、まるでそれを避けるかのように玉置さんは進みます。玉置さんが不調だったわけではありません。玉置さんがその気になればバンバン注目を集めることができるというのは、さきの「田園」でものちの安全地帯復活でも明らかであって、これは実証されているわけです。つまり、このアルバムの時点では、売れる気はなかったということになります。だって好きなことできなくなるもん、気が向いたらやるよってくらいでいいに決まってるじゃないですか。

そんなわけで、このアルバムはディープな玉置ワールドに浸りたい人、もしくはオールドロックの愛好者向けということになります。前回の記事でカヴァーデール・ペイジのことを書いたんですが、カヴァーデールは最初ブルースやりたかったんですね。リッチーブラックモアはそれを嫌ってパープルを抜けましたし、それでパープルも立ち行かなくなってしまってホワイトスネイクを作ったわけなんですけども、ブルースじゃ売れないとわかってホワイトスネイクがどんどん派手になっていったんです。アホみたいに売れましたけど、さぞ無念だったでしょう。売れるってどういうことか、カヴァーデールも玉置さんも骨身にしみているわけです。カヴァーデールはそのまま止まれないマグロのように泳ぎ続けていきましたけども、玉置さんはそうでない境地に達することができた、これは奇跡ですし、わたしのようなヘビーな玉置ミュージックジャンキーにとっても、好きなことをやっている玉置さんの作品を楽しむことができるという僥倖に浴することができたという、まことに稀有な時期だったといえるんじゃないかと思われるわけです。

スペード [ 玉置浩二 ]

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2024年01月13日

ニセモノ

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玉置浩二『ニセモノ』十三曲目、「ニセモノ」です。

ピアノとギターのユニゾンで、ちょっと覚えづらいメロディーが奏でられてこの曲は始まります。こういうの損していると思うんですがね……でも別にムリして売れようとしていないのがわかって、こっちも落ち着いて翻弄されていられるってもんです。ベースが入りピアノがアルペジオになるとグッと安心しますが、それはこれまで翻弄されているからです。おお、(ふつうの)曲になった、という感覚です。

「クワアアアアア……」という効果音的なシンセがときおり入る以外は、基本的にギター、ベース、ピアノ・エレピと、ドラムのシンプルなアレンジで最後まで進んでゆく静かなバラードです。

タイトルはずばり「ニセモノ」、このアルバムがニセモノであることを自ら宣言した玉置さんの心情をもっともよく表した曲、いわば本丸です。

「自分で確かめて」ニセモノだと見破ったら胸が痛む……わたくしべつに痛くありませんでした(笑)。そりゃそうです、当時わたくし全然事情知りませんで、このアルバムがそもそも安全地帯でレコーディングを始めたものであることすら知りませんでしたから、見破るもヘチマもありません。

曲はサビ、「変わらないでいたい」「虚しい」「黙って騙されていようよ」……玉置さんが「変わらないでいたい」と願ったのはきっと安全地帯、そしてその再現を願うのは「虚しい」から、だからニセモノに騙されて夢を見ていればいい……これは悲痛な叫びです。しっとりとしたバラードなのに、叫んでいます。

2000年当時、わたしはまだ安全地帯を生々しく覚えていて、その復活を心から願っていました。91年の『太陽』、92年のアコースティックツアー、そして93年の、わたしの知らないところで起こっていた崩壊と活動休止、武沢さんの脱退……それ以降七年間の玉置ソロの間も、安全地帯を待ち焦がれていました。だから、もしこの『ニセモノ』が安全地帯の新作としてリリースされたなら、きっと狂喜して飛びついたに違いないのです。そして武沢さんのいないことに気づき、そして音源を聴いてそのサウンドや曲が玉置ソロの延長であることにいつか気づいてしまい、なんともいえない違和感に苦しめられていた、つまり「見破っ」てしまって胸を痛めていたのだと思います。安全地帯なんだけど安全地帯じゃない……。

玉置さんの歌は静かでやさしく、ギターとピアノがつねに寄り添って一体となっています。これは安全地帯ではなくこの時期の玉置ソロの特徴です。この曲を安全地帯で演奏するイメージはちょっとできません。「このままでいようよ」と思わせるものです。逆に言うと、玉置さん自身にもソロで積み上げたものの影響が強すぎて、安全地帯を始める準備ができていなかったことを示しています。

そして全部自分でレコーディングをやり直すという暴挙に出てしまい、そのことを玉置さんはカラッと「僕が我慢できなくて田中と六ちゃんを裏切っちゃったんだよねーハハハー」って感じで話すんですけど、それは甘えているんでなくて、メンバーを、安全地帯を守ったんじゃないかとわたくし今になって思うのです。それこそ「気が付いたら涙がこぼれる」思いで。

安全地帯が崩壊した1993年、『カヴァーデール・ペイジ』が突如登場しました。パープル・ホワイトスネイクのボーカリストで有名なデヴィッド・カヴァーデールと、レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジが組んだアルバムです。ジミーとしてはツェッペリンをやりたかったそうなんですが、ツェッペリンのボーカリストであるロバート・プラントの腰があんまり重いので業を煮やしたか、デヴィッドを起用して始めたプロジェクトですね。それまでのソロ活動では精彩を欠いたジミー、このアルバムでは思う存分本領を発揮して、まさにツェッペリンの再来!というイメージのアルバムに仕上がっています。デヴィッドはそのぶんちょっとプラントのイメージに引きずられ気味な感じはしますが、ツェッペリン再結成の夢を見たかったファンには感涙モノのアルバムに仕上がっていたのです。ですが、それはやっぱり「ニセモノ」でした……ボンゾはもういなかったにしてもジョンジーはバリバリ現役ですし、ロバートだってぽつぽつとジミーとコンサートやっていたんだから(出来はボロボロだったそうですが)、ツェッペリンの三人が揃うことは不可能ではなかったんだと思います。ましてやその後ペイジ&プラントで二枚アルバム出してるんですから。でも、それらもやっぱり「ニセモノ」なのです。みんな、わかっていました。どんなに似ていても、どんなにぼくたちがそれらのユニットにツェッペリンの影を重ねても、「ニセモノ」なんです。

わたくしの世代は、ツェッペリンをリアルタイムで聴けた世代ではありません。82年に解散していますし、『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』『コーダ』という言及することさえ一種ためらわれる作品が最新作であった時代にようやく小学校に入る前後ですから、そもそもツェッペリンの名前すら知らないのです。ですから、厳密な意味では「ホンモノ」のツェッペリンを知りません。これって20年前のものだよねって感じで『II』や『IV』などを高校生の頃からポツポツ聴いていたに過ぎません。だから、ある意味『カヴァーデール・ペイジ』のほうがよっぽど「ホンモノ」なんですよ。だけど、一連の作品を聴きこんでいくとわかってしまいます。ああ、これは「ニセモノ」なんだって……だから、玉置さんが全部自分で録り直した幻の安全地帯音源がリリースされたところで、それは時がたって歴史の語るところとなれば「ニセモノ」であることがわかるものだったのでしょう。

80年代の日本という文脈に埋め込まれたホンモノの「安全地帯」を私たちがいくら求めたって、そしてメンバー本人たちがそれを懸命に再現しようとしたって、おそらくはもうできないんだと思います。2010年の『Hits』はその夢を垣間見せてくれましたし、わたしもしばらく酔ったものですが、もう彼らから新曲として「熱視線」や「じれったい」が出てくることはないことに気が付いて、80年代の安全地帯という意味での「ホンモノ」の安全地帯はもうないんだ、と思うに至りました。ロバート・プラントはそのことをよくわかっていたんだと思います。同じことはできないししたくもない。玉置さんだってもちろんそれはわかっていたのでしょう、新しい安全地帯を新しい「ホンモノ」として始めない限り、再集結の意味はないんだって。玉置ソロに安全地帯のメンバーが参加しましたってだけの「ニセモノ」になってしまう。

そう、玉置さんは安全地帯でレコーディングしたものを全部自分でやり直したからこれは「ニセモノ」なんだって説明をなさっていたのですが、わたしが思いますにそれは逆で、「ニセモノ」だったから自分でやり直したんだと思うのです。安全地帯を心から大事に思うからこそ、こんな「ニセモノ」を世に出すわけにはいかない……。

安全地帯を再始動するならそれは新しい「ホンモノ」でなくてはならない、そしていまその準備は整っていない、だからどんなに手間がかかっても、どんなにメンバーに不義理なことになっても、これは世に出しちゃいけないから全部自分で録り直して玉置ソロとして出す、という判断を玉置さんはなさったんだと思います。玉置ソロは玉置ソロであって安全地帯ではない……これは、歌しか聴いていない層には決してわからないバンドマンの感覚です。

「変わらないでいたい」「忘れないでいたい」「嘘はもうつかない」と歌う玉置さんの心の叫びが、こうした「ニセモノ」と「ホンモノ」の違いをめぐる葛藤から生まれてくるんじゃないかと思えてならないのです。新しい「ホンモノ」としての安全地帯が生まれるのはここからさらに二年かかったわけですが、何年かかるかは当然当時は誰もわかりませんから、このアルバムを『ニセモノ』と名付ける決断はけっして軽いものではなかったことでしょう。何年かかったっていい、場合によってはその結果再始動できなくたってかまわない、くらいの気持ちでないと自分で録り直すなんてできるものではありません。その苦渋の思いと決断がもっとも端的に示されているのがこのラストチューン「ニセモノ」なのだとわたくし思う次第です。

さて、このアルバムも終わりました……なんかすごい時間がかかった気がします。曲数がやや多いからでもあるんですが、正直、難産でした。2000年当時はとても辛くて正直この時期を振り返るのが苦しかったものですから、その後の聴きこみが足りなかったアルバムだったのです。記事を書くためにこのアルバムを何度聴いたことか……次は『スペード』ですね。2001年も負けず劣らず辛い思い出のある時代ですからやや気が重いわけなのですが、そのぶん新しい発見がたくさん埋もれているに違いないと考えております。さらにその次はいよいよ復活する安全地帯なんですが、その前に『THE VERY BEST of 安全地帯』ってのがあって、そこに未発表曲だった曲があるんで、それを扱ってからになります。

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2024年01月08日

虹色だった

玉置浩二『ニセモノ』十二曲目、「虹色だった」です。先行シングルで、カップリングは「夢のようだね」でした。

音の低いシンバルが高鳴り、なにやら高音の楽器(多分ギター、スライドギターってやつでしょうか)とベースの高音部を使ったユニゾンとでメインテーマが奏でられます。アコギのストロークがバック、玉置さんの必殺技ともいえる「ジャリリーン!」でメインテーマが締められ、そのままアコギのストロークを伴奏のメインに歌が始まります。

淋しそうに星空を見ている君のそばにいるよ、眠るまでそばにいるよ……あ、ダメなやつだこれ、わたしこういうのに超弱いです。太陽はいつも輝いている、みんなが仲良く幸せにいられるように……この短い一番でもう、わたくし魂が震えてなりません。演奏はもちろん玉置ソロの集大成ともいえるシンプルなものを組み合わせてつくられる渋さが最高潮に達しているわけなんですが、なによりわたしの琴線を触れるどころでなくビシバシと叩きまくるのは玉置さんのボーカル、歌詞なのです。「君がもしも〜」のやさしさ、「太陽は〜」のたくましさ、強さ、ドーンと頼れる感じ……。

さっちゃんと会って、さっちゃんと音楽作っていくようになって、またみんなと会うようになって、その中で変わっていった」(志田歩『玉置浩二 幸せになるために生まれてきたんだから』より)

玉置さんをこの境地に導いたのは、まぎれもなく安藤さんなんです。ご本人がどう思ってらっしゃろうとも。あんなに惚れたはれたで苦しい思いをしてきた玉置さんが「世界中に愛があふれているんだ」なんてこんなに力強く歌えるようになったことを「成長」と呼ばずしてなんと呼ぶべきかわたくしにはまったくわかりません。安藤さんとの音楽生活がとんでもない安定感安心感を玉置さんにもたらしたことは確かでしょう。玉置さんの音楽につねに影をさしていた危険な香り(「安全」地帯なのに!)がすっかり消えているのです。

「太陽は〜」のサビに入る直前からエレキギター、ドラムが派手に入り、曲が一気に盛り上がります。まるで「メロディー」の再来です。もの悲しくも美しい旋律に優しくあたたかい歌詞が、玉置さんのセルフコーラスと矢萩さんのギターで彩られているのもまさに「メロディー」のようです。違うところといえば、もの悲しさも歌詞のあたたかさも数段レベルアップしているところでしょうか。そうです。この曲はひどく悲しいのにひどくあたたかいのです。これが「メロディー」のころにはドンピシャに近かった多くの人の望むものからズレていたところなのでしょう……この「虹色だった」は「玉置浩二ショー」で歌われるまで話題に上ることの極めて少ないシングル曲に甘んじていたわけです。

イントロ度同様の間奏を経て曲は二番、今度は「街灯り」「暗闇」です。また夜か!サビでは「太陽」が輝いているのに!「争ったり間違ったり」しているわたしたちを許し、しあわせにしてくれる太陽が輝いている……だから夜だってば!いや、もちろん地球の反対側では太陽が照っているんですが……ああそうか!そうだ、たとえ夜でも太陽が輝いていることには違いないですね、わたしたちがそれを見られないだけで。わたくし、20年以上たってやっとわかりました(笑)。これは太陽系スケールの視点で見れば太陽がいつも輝いている、わたしたちの地球(のどこか)を照らしてくれている、という壮大なシーンと、「淋しそうに星空を見てる」とか「争ったり間違ったり」という極めて身近なシーンとを一気に行き来するという歌だったのです。

二度目のサビを経て、「ジャーン!」とエレキギターが入り、「パーンパパパパーンパーン・パーンパーン」というキャッチーなリフ(なんでしょうねこの音?弦の響きだからギターだと思うんですが、それとシンセのユニゾンです)が入りまして、玉置さんが掛け合いのように力強く歌っていきます。「七色の虹の中を〜」おお、ここでやっと「虹色」というタイトルの言葉が出てきます。さきほど地球全部を丸ごとみるような大きな視点を発見したばかりですから、もう頭の中はRainbowの『Down to Earth』のジャケットのようになっています(笑)。そしてその視点では、自分が虹をくぐりぬける、君と僕が笑っているという身近なことと、世界中に愛があふれているという壮大なこととがミックスしていて、曲のダイナミックな展開も相まってもう大混乱というか、忙しいことになって、映像や文章で表すことの難しい音楽独自の境地が感じられるのです。

曲は「ダダダダッ!ダダダダダダダ!」と激しいスネアが入りまして最後のサビに入ります。とどめの太陽系視点、太陽そのものであるかのような玉置さんの愛があふれるボーカルがみんなをしあわせに、仲良くさせる勢いで響きます。「みんなー」と叫んだところからスローダウン、楽器も演奏を止め、ブレイクがあったかと思うと「ウウン!」とベースが鳴りすぐさまイントロ同様のアウトロへと流れていきます。これも、息をのむスリルというか、絶対痛い目には遭わないとわかっているジェットコースターのようなスリルを味わわせてくれます。

独文学の世界で「教養小説Bildungsroman」と呼ばれるジャンルがあります。ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』がその代表格なのですが、典型的には少年が田舎から都会に出て見聞を広め、親友、たいてい女と出会い(笑)人生や世の中のなんたるかを(それが正しいか否かはともかく)知ってゆくという、悩める若者の成長がメインテーマです。

なんの話をしていたかというと、わたくし、不遜なことかもわかりませんが、志田さんの『玉置浩二 幸せになるために生まれてきたんだから』を初めて読んだとき(2006年ですね)、まるで教養小説のようだと思ったんです。ずっとガキのころから安全地帯・玉置浩二の音楽が好きだったわけなのですが、わたくし玉置浩二さんその人そのものにはそんなに興味なかったんです。どんな音楽が好きだったんだろうとか、少年のころはどんなバンドやってたんだろうくらいはもちろん知りたいですよ。ですが、石原さんはその後どうなったとか、薬師丸さんや青田さんとはどうやって知り合ったんだろうとか、好きな食い物は酒はなんだろうとか、ほとんど興味ないんです。だから石原さんとのゴシップがあった80年代に週刊誌も読みませんでしたし(そもそも小学生でしたから床屋くらいでしか読めませんが)、インタビューもあんまり読みませんし写真集やグッズみたいなものにも手を出しません。コンサートで玉置さんがすぐ後ろの通路を通ったって、おおー近いなーと思うだけで手を伸ばしてさわろうなんて全く思いません。楽屋でメンバーやスタッフとどんな話してるんだろうとか好きな服のブランドはなんだろうとか、どうでもいいです。教えてくれるなら聞かなくはないですが(笑)、玉置さんの音楽世界、玉置さんが意図して私たちにリリースして届けてくれる作品以外のものにしいて触れようと思わないのです。それは、作家・芸術家である玉置さんの意図・人格を尊重するからです。たとえ屁をこきながらギター弾いていたってかまいません。かりにマイクがオフのときにファンに呪いの言葉をつぶやいていたって知ったことじゃありません。モーツァルトの書いた楽譜にどんな汚いことが書かれていたとしても、遺体がゴミのように共同墓地の穴に放り投げられたとしても、モーツァルトが届けようとした音楽だけを聴いていればいいのと同様に、玉置さんの私生活がどうであろうとそこに作家としての意図はないとわたくし考えています。いいところどりなんでしょうけども、その「いいところ」を作品として届けようとするのが作家・芸術家ってもんです。だから、『玉置浩二 幸せになるために生まれてきたんだから』も音楽的背景とか制作にのぞむ様子とかわかればいいなくらいの気持ちで読み始めて、その教養小説なみの人生が赤裸々に描かれていて大ショックでした。

教養小説の主人公はその後革命に突っ走ったり、あるいはひどく挫折して傷心のうちに川で溺死したりと、まあ大概ろくな目に合わなくて後味が悪いです。ですが、『玉置浩二 幸せになるために生まれてきたんだから』は玉置さんは鮮やかに復活し、安藤さん松井さんと穏やかに音楽を作っている時点で筆が置かれています。こんな後味のいい教養小説ないですよ。やあ、よかったよかった(笑)。

もちろんこんなことはこのアルバムを初めて聴いているときには知らなかったわけなんですけども、いまやわたくし知ってしまって、この「虹色だった」における穏やかさ、玉置さんの安定ぶり、そして……安全地帯の崩壊時に子どもたちが手を伸ばしていた燃え上がる「太陽」が、この歌ではみんなを見守る存在、みんなを「しあわせになれるように」どんなときも照らす存在として歌われていたという事実を認識したのです。では、この、ほとんど10年間での変化を何と呼ぶべきでしょう?「成長」とか「発展」と呼ぶべきでしょうか。それは進歩史観・成長史観に毒されているんだ、ただ「変化」は「変化」でありそれがばらばらに起こっているだけなのだ……とお決まりの指摘もあるでしょうか。そうなのかもしれません。ですが、わたしはこの玉置さんの「変化」のようなものを「進歩」や「成長」という言葉で人間は呼んでいるんだと考えています。そうでなくては、たいがいろくな終わり方をしない教養小説が百年も二百年も読み継がれるはずがありません。人間は「進歩」「成長」しますし、そこに他にないドラマ性を覚え感動するのです。

『ヴィルヘルム・マイスター』にはミニヨンという少女が出てきて、ときおり歌います。シューベルトが歌に書き、ハイネがはるかにイタリアに思いを馳せた『ミニヨンの歌』です。ヴィルヘルムの愛した女たちのことは誰もぜんぜん覚えていないのに、誰もがその愛らしさと運命の悲しさを覚えているミニヨン……『玉置浩二 幸せになるために生まれてきたんだから』という物語(実話なんですけども)における玉置さんの音楽は、『ヴィルヘルム・マイスター』におけるミニヨンとその歌のように、誰もが胸にその魅力を強烈に刻み込まれます。玉置さんの人生と玉置さんの音楽とが、ゲーテと何の関係もないというのは、そりゃそうです、わたしが強烈に関連を感じ、こじつけただけです(笑)。「太陽」の扱いが劇的に変わっただけのことで、何にも進歩も成長もしていないのかもしれません。ですがわたしはそこに進歩や成長を感じ感動するのです。そのもっとも強力なトリガーとなるのがこの「虹色だった」であり、そのとき想起されるのがゲーテだったというだけのことでした。

Nur wer die Sehnsucht kennt,あこがれを知っている人だけが
Weiß, was ich leide!わかるの、わたしが苦しんでいるって
Allein und abgetrennt von aller Freude,ひとり寂しくあらゆる喜びから切りはなされて
Seh' ich ans Firmament nach jener Seite.わたしは見るの、彼方の蒼穹を
(『ヴィルヘルム・マイスター』内『ミニヨンの歌』より)

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2023年12月31日

夢のようだね

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玉置浩二『ニセモノ』十一曲目、「夢のようだね」です。

アコギの重ね録りにちょっとシンセで「ホワンホワン」と厚みを増すくらいで、ごくごくシンプルなアレンジのバラードです。「大切な時間」「星になりたい」「愛を伝えて」の系譜上にあるひたすらにやさしくあたたかい曲といえるでしょう。こういう曲にハズレはありません、というか安全地帯玉置浩二にハズレは一曲もないというのが当ブログの趣旨ですから当たり前なんですけども。ここでは一回聴いただけでいい曲だと思い、その後聴き続けても飽きることなくいい曲だと思い続けられる、という意味ですね。

あたたかいガットギターの音でアルペジオ、すぐに歌が入ります。

ふたりで寄り添って星をみる夜は夢のようだね。
ふたりで手を取り合って風を感じる朝も夢のようだね。

……え?それだけ?

それだけなんです。

短い曲なんです。小品なんです。それだけに内容が、冷静に考えれば「え?それだけ?」で終わってしまう……にしても「それだけ」すぎます。なんという潔さ!松井さんがかつて試みた手法、物語を書こうとするんでなくて、瞬間瞬間の切り取られた感情をそのまま歌詞にするという手法を、玉置さんがここにおいて完成した感すらあります。

「それだけ?」に思えるのは、歌詞カードを眺めて冷静に考えてしまったからであって、音楽というのはそうやって歌詞カードに書かれたものだけでその内容の豊富であるか貧弱であるかを判断するものではありません。事実、歌詞カードを見る前は内容の貧しい曲だなんて感じなかったのですから。

試みに考えてみましょう。仮にこの曲が「夢のようだね」でなくて「別荘地の夜と朝ときみ」などというタイトルがついていたとします。暖炉が燃える、薪がパキパキいう、顔は熱いけども背中はちょっとヒンヤリします。ぼくはギターを手に取ってすこし爪弾く、するときみがお茶と菓子をもって暖炉にやってくる。こんなのどう?とぼくはちょっとだけ昔を思い出すような歌を歌って聴かせる。きみの笑顔がこぼれる。ああ、わかってくれたんだ、じゃあこんなのどう?きみは顔をすこし赤らめたり、一瞬だけ神妙な顔になったり、少しの間遠くを見つめたりする。いろいろあったね、たいへんだったね、でも幸せだね。……暖炉がだいぶ熱くなってきたなあ、ちょっと外に出てみようか、今日は星がきれいなんじゃないかな。うわ結構冷えるね寒い寒い、ねえ早く入ろうよ?せっかく出てきたんだからちょっとは星みようよ。冬の夜空は一等星が多くて豪華だよ、そう、あのボヤっとしたのがプレアデス、昴、いくつ星が見える?えーとひとつふたつ……七つ……もうわかんない……寒いのと視線を一緒にする必要があるのとで、いつのまにか顔と顔が近づいて、すっかり密着状態、あたためあう格好になっている……うーむ、くどい!(笑)。こういう世界は決して嫌いではないしノリノリで書いてもみますが、こんな冗長な歌詞は嫌です。ここまで書かないと情景が想像できないのかとイライラします。だから、「ふたりで寄り添って星をみる夜は夢のようだね」で十分なのでした。むしろ場面設定を完全に省いた「夢のようだね」という感情表現だけから上のようなシーンを想像するほうがいいし、それが松井さんの意図していたこと、玉置さんが完成させたこと、そしてわたしの骨身にしみ込んだものであるわけです。

そしてこの、簡潔な感情表現から場面や物語を想像するという精神作用に身を任せる感覚を自分でモニタリングしていくと(ミャンマー仏教の瞑想に近いです)、「こうやって」「そうやって」の美しさが、自分の期待するすべてを満たしてくれていることに気がつきます。「こう」とか「そう」とかは指示語にすぎませんから、何がどうなっているのかはもちろん全然わからないんですが、不思議にぜんぶわかってしまうような気がするわけです。ログハウス、暖炉にギター、満天の星、そして霧の中の朝、鳥のさえずり、風と葉擦れの音、緑の匂い、恋人のあたたかさ、やわらかさ、すべてがこの「こう」「そう」から思われてくるのです。これは「別荘地の夜と朝ときみ」などというクソ曲では味わえない感覚です(笑)。だって、「こう」「そう」からすべてがジワーっと自分の中から出てくるんですよ。これは歌詞に場面と物語がすでに書かれていたら起こらないことです。ああそう、わかった、で終わりです。歌詞の役割は「伝えること」ではなく、「ジワッと出させること」だ、そしてその「ジワッと出させる」のが音楽の醍醐味だと松井さんも玉置さんもよくわかっていた、あるいはそういう境地を発見して極めたということになるでしょう。音楽には大きく「鑑賞」と「表現」という二つの楽しみ方があるわけなのですが、「鑑賞」をインプット、「表現」をアウトプットと単純に考えているうちは、この境地は決してわかりません。「積極的鑑賞」とでもいうべき、この「ジワッと出てくる」感覚を自覚することによる楽しみは、音楽家に限らずおそらく芸術家ならだれでも意図していることではあるのでしょう。それなくしてはゴッホの『ひまわり』は単に不気味な絵なのですが、『ひまわり』を見たときにジワッと出てくるもの、不安、怒り、憎悪、哀れみ……といった自分の内面まで自覚することで、はじめて『ひまわり』の価値(の一部)がわかるのでしょう。

つまり、この「夢のようだね」は「え?それだけ?」と思われるような内容の貧しい歌などでは全くなく、積極的鑑賞の作用を引き起こすとんでもない豊かなトリガーをもった曲だということができます。もちろん、「え?それだけ?」はわたくしが勝手に思ったことであって、はじめから誰もそんなこと思っていなかったんでしょうけども(笑)。わたくしも歌詞カードをみて内容を紹介しようと思うまでは「え?それだけ?」なんて思っていなかったわけですから、無意識にこの曲のもつ豊かさを感じていたわけです。このマッチポンプじみた小芝居文章で、その魅力をはじめて言語化することができました。思えば、「大切な時間」も「星になりたい」も「愛を伝えて」もそうだったのでしょう。とんだ無理解で、しょうもない妄想を書き散らして文字数を増やしまくっていただけの気がして、ちょっと背筋が寒くなってきました(笑)。これはどうしようもありません、何年もかけて安全地帯・玉置浩二の曲を全部記事にすると決めたのですから、どうしたって昔には気づいていなかったことに気づいてゆくという過程はあるものです。

ちょっと昔の調子でもう少し書いてみますと、このギターの音、めちゃくちゃ生々しいです。どうやって録音したのってくらい、まるで自分が弾いて筐体の振動を感じているかのような錯覚に襲われます。かつては玉置さんの声の生々しさ、耳元で歌われているような感覚に驚くだけでしたが、このギターもとんでもない音であるということにいままた驚かされています。最近は大き目のDTM用モニタースピーカーで聴くのが常なのですが、胸に音圧が来るんですよ……。2000年当時はふつうのオーディオで聴いていましたからそれが違うのかな?と怪しみ、いまちょっと手元のバブルラジカセ(PanasonicのDT80)で再生してみました。うーん、やっぱりギターの生々しさがすこし弱いです。よかった私の感覚は当時もそんなに鈍くなかった!と胸をなでおろしたのですが、しかし同時にスピーカーが片方ビビりが入っていることに気が付いてしまいました(笑)。ありゃりゃ……これはリング交換かもだな……疑わなければよかった!後のカーニバル。

さて、前回の記事で今年は終わりにするつもりだったのですが、もう一つ書いてみました。ことしは40くらい書けたと思っていたのですが、もしかして連絡を除くと39なんじゃないのか?と思えてきまして、うわー気持ちよくないなもう一つ書いておきたいと書くに至った次第です。で、いま数えてみたらもう40書いてました(笑)。そんなわけで、2023年は41記事、お世話になりました。今度こそ年内最後の記事です。これからモチ米を浸すとか天ぷらや上生菓子を買いに行くとかの年越し作業に入ります。みなさまもどうぞよいお年を。

ニセモノ [ 玉置浩二 ]

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2023年12月25日

あの丘の向こうまで

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玉置浩二『ニセモノ』十曲目、「あの丘の向こうまで」です。

JUNK LAND』にみられたような、リハ中のスタジオの音をそのまま録ったような「キュンキュン」というギターの音と、なにやら談笑する声につづけて「ワンツースリー」とセッション開始の掛け声のような音声が入っています。この音はアンプに直接シールドを入れたような生々しい音で、とてもこれからすぐにセッションするような段階には思えません。ですからあとからそれらしく録ったか、かなり初期の段階に録っておいたものをくっつけか……たまにこういう演出が玉置さんのアルバムには入っているんですが、その意図するところはたいていすぐにはわかりません。

曲自体は、スローな「CHU CHU」、もしくは「スイスイ」ですね。軽快で、事態の深刻さや思い出の深さを思わせる曲の多いアルバム後半にあって、さわやかな一陣の風を思わせる曲です。

イントロ、フロントピックアップで弾いたような丸っこいギターの音によるこの曲のメインリフ、それにイントロで聴いたほとんどナチュラル音のカッティングがこ気味よく「〜カカッ!」と四拍目の裏に鳴ってくれることによって、この曲のもつノンビリしたリズム感をピリッと全体的に引き締めています。普通に考えればこれだけでもう十分にいい曲なんでこれだけ最後まで突っ走っていいんじゃないのと思うのですが、そこは玉置さんですから、魂のこもったボーカルを重厚にさらに聴かせてくれます。

弊ブログでもさんざん書いてきたことだと思うことですし、コメントでもみなさんがそのように思うとお寄せくださっていることでもあるのですが、玉置さんはおそらく曲の頭から曲作りを始めて最後まで流れで作っていると思われるのです。そして最初に思いつくのは歌メロでなくてリズムとかギターのリフだと思うのです。そこからインプロビゼーションのおもむくまま発展させて歌メロも含めて一曲の骨格を作ってしまう、そこからが他のメンバーとかアレンジャーの出番で肉づけを行っていくんだろうとわたくし考えています。私が知る限りこれはヘビメタのバンドがやるやり方で、あまりポップスの世界では聞かない方法です。通常の発想ですと、いかにも売れそうなサビの歌メロを思いついてからその脇を固めてゆく、その過程でキャッチーなギターリフが生まれれば採用する、みたいなサビ中心の曲作りになるでしょう。売れることに色気があればなおさらです。だってギターのリフなんてどんなに一生懸命つくっても、少なくとも90-00年代に何十万枚何百万枚もCDを買ってくれてた人の大半はそんなところ聴いていなかったのは明らかだからです。玉置さん自身も昔はそんな世界に身を置きつつもずっと変わらぬヘビメタ的発想で曲をつくり続けて誰にも文句を言わせない実績を積み、とうとうその世界を超越した、つまりレコード会社のプレッシャーで売れることに色気を出す必要がなくなったわけですから、もうやりたい放題です。安全地帯の崩壊、ご自身の崩壊とそこからの再生という誰も真似したくない修羅場からの復活という離れ業を十年もかけてここまでやってきた玉置さんに、怖いものなどありません。だからなのでしょう、「どこにでもあるようでないような生き方」を探していたり「誰にでもありそうでなさそうな気持ち」を忘れていたりしていた、そんな心境に至った、そしてそれをメインリフに絡めるようなAメロにしたわけなのだとわたくし思うのです。

曲はBメロ、コーラスを入れて一気に緊張感が高まるサウンドですが、歌詞は「花を咲かせてみたい」「雲にかくれていた」などというなんだかメルヘンな世界を描きます。メルヘンなんですが、玉置さんの魂のこもった歌の迫力で、歌の力でほんとに花が咲くんじゃないか、宙に浮いて雲にかくれていたんじゃないか、「あの丘の向こうまで」「あの空の向こうまで」と、風に吹かれ歌いながら歩いていくんじゃないか……そこまでは思わないにしても(笑)、メインリフがサビに続けて流れることによって、ああなるほどこれは確かに歩き出したくなる、それこそあの丘の向こうまで、どこまでも軽やかに歩いて行きたくなるな、と思わせてくれます。だから、これはリフを中心に、リフを盛り上げるために、そして同時にリフがサビを生かすように作った曲だということがわかるのです。これは他人であるアレンジャーやギタリストがあとから肉付けしてできるレベルの一体感じゃないでしょう。

さて、二回目のサビにはすこしリズムを変えた「ほら きれいだろう」とそれに続くギターソロが直後に付け加わることがこの曲の構築美とでも言いますでしょうか、単純な様式美を予想するメタルバカ(あちき)には予想を裏切られた感覚がもうゾワゾワと快感!(変態)を掻き立ててくれる要素となっています。だから、玉置さんはメタル的な発想の持ち主だとわたくし昔から確信しているんですが、特にこの時期の玉置さんはたまにそれを超えてくれるからたまんないんです。しかも売れることに色気を出さないから、90-00年代J-POP、J-ROCKのクサさ(激臭でしたよホントに!)が一切感じられないのが本当にありがたかったです。コンビニのお湯かけるだけのソバと、産地で食べる新ソバほどにも違うのです。

曲は間奏後、Aメロにドラムを入れない部分がありつつも、基本的には一番と同じです。同じなんですが、ちょっと一番とは違う箇所がありまして、河原に下りて草むらに寝っ転がるという、その気になれば今すぐ誰にでもできることをお望みになります。下りて寝っ転がればいいじゃないですか……と思いつつも、じゃあ一緒に行こうかって言われたら「遠慮しときます」ですよね(笑)。その気にはなかなかなれません。そんなことではあの丘の向こうまで風に吹かれて歩いて行くことなどおぼつきません。服が汚れるとかガードレールを超えたら何か条例とかに引っかかるんじゃないかとか、つまらないことが気になってしまうのがわれわれの限界で、玉置さんはそれをあっさり超えますから(条例違反をジャンジャンやるとかそういう意味ではなく、発想が自由だということです)、それによってメルヘンだった一番と同じであるところの「どこにでもあるようでないような生き方」という言葉が新しい意味を持つのです。自由な発想と生き方、それはかつて若者だったわたしが当然だと思っていたもので、それなのに耐えられなくて自分から手放してしまったものだと気づかされ、ハッとさせられます。いまのおれは河原に下りることすらできないじゃないか!そこらじゅうに花なんか咲くわけないじゃないか花咲かじいさんじゃあるまいし……雲の散歩なんかできるわけないドラえもんの長編映画じゃあるまいし……河原になんか下りられるわけないじゃないか……ん?いや下りられる!でも下りられない!あああなんてこった!そこまでおれは不自由になっているのか!こんなことでは風に吹かれて歩くどころではありません。縛ってくれー自由を制限してくれーなどと、言ってはいないのに何十年もかけてそう思うに至っていた自分に気づいて愕然とします。

「ふたりで行こう」と言われて応じられる人がどれだけいるのか……曲はその「ふたりで行こう」からもう一度サビを繰り返します。もはや花を咲かせてみたいわけじゃない、雲に隠れていたと言ってみたいわけでもなく、もちろん河原にだって下りてみたいと思えなくなっていた自分に、玉置さんがダメ押しといわんばかりにどこまでも自由な歌を浴びせてくれます。……眩しいぜ……「風に吹かれて行こうか」で伴奏はブレイク、ベースの余韻が消えるか消えないかのところで、イントロに使っていたような生々しい音のギターがジャリンと鳴って玉置さんが「あの丘の向こうまで」とゆっくりと歌い上げます。イントロの後、裏で聴こえてきていた小さいカッティングのために控えめに弾いていたのがこの「ジャリン」で一気に主役に躍り出ます。これでやっとイントロから引っかかってきたものが解けて「ああそうか」と思うわけなのですが、「ああそうか」の「そう」はしばしば言語化できません。しいて言うと、こうするとハッとするよね、カタルシスがあるでしょ、くらいのものです。ハッとするのもカタルシスを感じるのもその人の勝手ですから、そもそもが他者と共有することのできない感覚なんですけども、でもそれこそが音楽的表現を支えるものですし、わけのわからない凡百の「多様性」「個性」の海に沈めてはならない価値あるものだと思うのです。だからこそ、どんなに共感されない自分勝手な感覚でもここに記しておきたいわけなのです。もう何十年も経てすっかり自由さを失ったわたくしの感性ですけども、それくらいの意地はあります。

曲はメインリフから、「ほら きれいだろう」の裏切り(笑)に似た流れで終わっていきます。これはクセになります。なんならそこばっかり繰り返し聴きたくなるくらいカタルシスがあります。このように限られた箇所、ここぞという箇所にだけ限定された展開があると、わたくしはメタリカに感じていたような展開の美、構築美を感じる性癖がありまして、玉置さんがいい具合にツボを押してくれるのが気分良くてたまらないのでした。

さて、年内の更新はこれで終わりか、できてもう一つだと思います。今年はちょっと夏から秋にかけてお休みいただいていましたんで、書けたのは40くらいですかね。2021と2022は50くらい書けてましたからちょっとペースダウンしました。とはいえ、来年はさすがに『安全地帯IX』には届くだろうと見込みが立ってちょっと安心しています。『カリント工場の煙突の上に』を書いていたころは、ほんとに安全地帯復活までいくのなんていつのことやらと気が遠くなっていましたから。ときおり励ましてくださるみなさんのおかげです。本当にありがとうございます。どうかよいお年を。新年が皆さまにとってよい一年でありますことを祈念しております。

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2023年12月16日

御伽話

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玉置浩二『ニセモノ』九曲目、「御伽話」です。前記事で言及しましたけども、のちの『安全地帯IX』の雰囲気を色濃くまとっています。なんというか、盛り上がっているんだけど盛り上がり切ってない感じのする、一歩手前でスッと引いてしまった美しさです。はじめから突き抜ける気がないんですね。「熱視線」が「踊ろう〜」からジャッ!ジャッ!ジャッ!「抱きしーめてー」とサビに行かず、「戻っては来ないそぶりで〜」と二番に進行してしまう感じです。今テキトーにたとえていいましたけど、実はその「熱視線」いいかもしれない!(笑)。この時期の玉置ソロが昔からの安全地帯ファンに支持されなかった(アルバムの売り上げ枚数は残酷なことに1/10くらいになっています)理由は案外この辺にあるのかもしれません。

さて曲は「チャインチャイ〜〜ン」というあんまりギターっぽくない、なんだか中国南部よりもっと南の国的なイメージの音階をもったリフレインで始まります。やったことないんではっきりわからないんですが、これはスライドギターってやつかもしれません。要所要所に繰り返されるため、これが玉置さんの御伽話のイメージをもったメインフレーズだったのだと思います。それに「モンワー」というシンセ、タッタカタッタ!と鋭く入るパーカッションがスポット的に入り、じわじわと緊張感を上げていきます。そしてそれらがスッと消えて玉置さんの歌が始まります。

ドラムはごくごく小さくフレーズもシンプル、ベースも音量は控えめながらよく動って目立っています。ギターはガットギターの音色でアルペジオです。これら最小限ともいえる伴奏が玉置さんの抑制した歌をよく支えます。

歌の内容は、旅人の話です。そりゃ「御伽話」なんですから、ナントカ太郎が鬼の征伐に行くとか、姫のリクエストに応えてムチャクチャナものを探しに行くとか、亀を助けたら海底につれて行かれるとか、御伽話にはとかく旅がつきものです。当然のことながら食糧はたっぷり持って行くとか途中で子分をたくさん雇い入れるとか、あるいは宮殿にたどり着いてたいへんな歓待を受けるとか、ともかくそんなに大変な旅ではないのが定番の展開なんですが、この玉置さんが歌う御伽話はそんなに豊かな旅ではなさそうです。「雨風しのげりゃどうにかなる」とか「君らのスピードにゃもうついていけない」などと、その旅路の苦難が歌われるのです。いやだよそんな御伽話。白土三平『カムイ伝』に、正太郎のお姉さんだったかが変態大名に捕まって「夜伽を命ずる……」と言われ翌朝井戸に身を投げたというシーンがあったと思うのですが、わたくしそれを読んだ中学生くらいのときはじめて「伽」の意味を知りました。御伽話の「伽」って一緒に寝ることなのか!だから親が寝床で話してくれる昔話のことを御伽話っていうんだ!わーおれひとつ賢くなったぞ!変態大名のおかげだ!とすっかり喜んだ記憶がございます。マンガとはいえお姉さんが変態のオモチャにされて亡くなってしまったわけですから、喜んでいいものではないんですけども。

そんなわけで玉置さんの歌も、どこか哀愁を帯びています。いや間違いました。そんなわけでではなく、玉置さん自身が語る「御伽話」は変態大名とは全く関係なく、どこか悲壮感のあるお話になっています。Aメロでは空手でさまよってくたびれてしまった……いきなりなだれ込むBメロが急転直下で「どうにかなるもんさ」「もうついていけないよ」とマイペースを貫く宣言につづけて「想い出して」と言葉を短く切ってスピード感を出しつつ、あたたかでおだやかだった昔を想起させるという、その切迫した歌い方と歌われる内容ののんびり感がいかにもアンバランスであやうい魅力に満ちています。そして最初のサビ、ドラムが激しくなりアコギがストロークになりと厚みを増し、「戦いたいなら」相手になるぞ、「愛されたいなら」何度もくればやっぱり相手になるぞという、これまた相反する両方の感情を包み込む覚悟をコーラス入りの重厚な歌で示します。一気に畳みかけたかと思いきや盛り上がりもそこそこにコーラスを重ねたまま「おいで、えーえーええー」と語尾を伸ばしたサビが終わり、そして「タタタタタタタ……」と小さくロール、「ジャイーン!ジャッ!」とアコギのストローク、途切れ途切れにメインリフが奏でられます。こういう、聴きなれないとなんだか煮え切らない感じのするところが、かつての安全地帯や初期玉置ソロにはあまり見られなかった特徴であるように思うのです。もっとバーン!と長尺の泣けるメロディーで、これでもかと何度も繰り返してもっと泣かせてくれよ!とわたくしも当時思っていたような記憶がかすかにございます。ですが、例によって聴きまくったのでそんなイメージはいつのまにか吹き飛んで、これでいいんだよ、あっさりなのがいいんだ、と思うようになりましたから、そのうちこれがあっさりなのだなどとも思わなくなったわけなんですが。後から思えば次の『スペード』や『安全地帯IX』はこの感覚ばっかりですので、ここでこの感覚に慣れておいてよかったと思わずにはいられません。

曲はまた淡々とした二番に入ります。「罪なら捨てていきな」……むむ、なんだかわからないぞ!(笑)。これは、邪心を捨てようという玉置さんのおススメ処世術なのだとわたくしは考えています。人間、これは墓場まで持って行かなければならない……とか深刻に思い悩んでいるものが一つや二つあるんだと思いますが、よくよく考えてみると大したものでないのに酔っているだけだったり、実際大したことなんだけど思い悩んでもどうにもならないものだったりします。そういうものは捨てる、捨てない・捨ててはならないものでもとりあえず「束ねて」しまう、そうすることによって前途を暗いものにしてきた「迷いもおそれも」忘れるのではなく捨て去るのでもなくさしあたりは目の前からどけてしまう、そうすることによって一歩でも前に進むと違う景色が見えてくるんだ、だから進め、人生の長い宿題にしつつ進め、「思いあがってなけりゃなんとかなるもんさ」……ホントにそうです。かつては思い上がっていたからうまくいかなかったし、弾かれてしまった、それがわからなかったがゆえに舐めた辛酸を思ってハッとさせられているうちに、いつのまにかまたまた急転直下のBメロになだれ込み「なんとーかなーるもんさー」と玉置さんに力強く励まされます。「想い出して」のスピード感から「ささやかな夢を」と若き頃の思いを想起させられると、そのメッセージと自分の思い出とがリンクして混ざり合ったものによって泣かされてしまう、そんな強力な歌の力が胸を直撃してきます。もう物足りない、煮え切らないなんて思いません。もう十分煮えています。これ以上煮ると不味くなるだけです。そしてこれ以上の量はおいしく食べられません。もう自分の失敗したこととそこからの道のりをさんざん想い出しておなかいっぱいです(笑)。

そして必要十分な泣きのサビ、またしてもコーラスを重ねた重厚な歌、優しさと痛みをわけあいたい、バラバラになった心と心(これ安全地帯のことでしょ!)をふたたび重ねあいたい、バラバラになったときの痛みを共有している仲間としてふたたび一緒になりたい、痛みを知っている者同士だから、そしてそのとき分かれざるを得なかったのはある意味でお互い優しかったから……その優しさも分かち合いたい、あのときは心がバラバラになった絶望に支配されていたけども、じつはみんな地球上で一番同じ気持ちを感じていたはずなんだ……これは、たしかに「御伽話」です。御伽話らしく寓話化されていますけども、たしかに玉置さんの身に起こったことなのです。そして寓話化したことによって、わたしたちの誰もが抱く同じような胸の痛みにダイレクトに届く癒しの歌になっているのです。こんな話、寝る前のテンションでないと話せない……!(笑)

抱きしめたいならいつでもおいで、愛されたいならおいで、ぼくはいつでも相手になるよ……このどこまでもやさしく大きい包容力こそが玉置さんの性格であり覚悟なのです。だからこそ「おいで……ええーええ……」の説得力があまりに大きく、これ以上の冗長なメロディーや言葉はいらないのです。

歌詞カードはここまでなんですが、このあと慟哭のギターソロがピアノをバックに入れられ、また「チャインチャイ〜〜ン」とリフが入るんですが、そのあと歌詞カードにない歌があります。

生まれた街も……帰るところも求めているものも違っているけど……想いだして……

これほどはっきりした歌詞なのに歌詞カードに掲載しなかったのはなぜでしょう。載せ忘れたか?(笑)わたくし思いますに、これは個人的なメッセージなんじゃないでしょうか。どストレートに言えば武沢さんへの。ツアーメンバーに起用された武沢さんは、マジメですからきっとこの『ニセモノ』を隅から隅まで何度も聴くでしょう……そしてこの歌詞が掲載されていないことにお気づきになるんだとわたくし想像するのです。え?ぜんぶ妄想?そりゃそうですこのブログはぜんぶ妄想です。ですけども、そんな妄想を膨らませてもいいじゃないですか。御伽話なんだから。

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2023年12月09日

淋しんぼう

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玉置浩二『ニセモノ』八曲目、「淋しんぼう」です。前曲、緊迫のポップチューン「常夜灯」から一転、ゆったりと聴かせるバラードになっています。

この曲は、当時の玉置さんが安全地帯でやりたかった曲なんだと勝手に思っています。というのは、『安全地帯X 雨のち晴れ』後半に曲調が酷似しているからです。この曲だけじゃありません。次の「御伽話」「あの丘の向こうまで」は『安全地帯IX』に入っていてもおかしくありません。『ニセモノ』という自嘲気味なアルバムタイトルは、こうした安全地帯でやりたくて作った曲を安全地帯でない自分がやってしまって安全地帯ふうになっている、ということを示しているのは周知のとおりです。ですが、わたくしその話を後年聞いたとき、ちょっと不思議に思っておりました。え?そうなの?と。そう知ってから冷静に聴いてみますが、「凡人」から「常夜灯」まではどこがニセモノなんだろう?と思わせるほど玉置ソロの成熟度を思わせる曲です。サウンドや曲調が後年の安全地帯を思わせるのはこれ以降でした。アナログだとA面にあたるぶんは玉置ソロ色そのものであって、B面は安全地帯色が強いということです。むろんわたしが勝手にそう思っているってだけなんですが。

そして後年、この「淋しんぼう」に似た曲のつづいた『安全地帯X 雨のち晴れ』後半は、皮肉にも逆に玉置ソロの延長を思わせるものとなってしまいました。それが2003年末から六年ほど続いた安全地帯活動休止の遠因になったとわたくし思わずにはいられないのです。

さて、曲はギターの、二つの弦で同じ音程を抑え交互に高速で弾いたような(実際そうだと思います。一弦は開放弦、二弦は5フレットでどちらもE)音が遠くからやってきて、それにさらにアルペジオのギターを重ねています。そしてベース、ドラムを入れるという非常にシンプルな……バンドっぽい……前奏で始まります。

玉置さんのシンミリ度の異様に高い歌が入って、開放弦ギターがアオリに回ります。このほかに、ときおりガットギターが効果音的に入り、最終盤でシンセが入ります、基本的にはこれだけです。安全地帯の五人と安藤さんがいればできる……四人ではできない……サウンドで曲は最後まで通してしまいます。ですから、いま振り返ってみれば2002-2003の安全地帯を先取りした曲だったのは明らかです。もちろん当時はわたくしそんなこと知るわけもなく……武沢さんのいない安全地帯でレコーディングを始めたことすら知りませんでしたから、そんな視点をもってはいなかったのです。ただし、この『ニセモノ』ツアーに武沢さんが参加されたのは当時から知っていました。香港のファンから、空港にギターをもった武沢さんが現れたことを知らせてもらったからです。なぜ日本人のわたしのほうが情報が遅いのかというツッコミはともかく。

夕方の街を眺めて見たものが歌われます。「やせこけた」のは街路樹か野良猫かその両方か……野良猫ですから当然に人間を簡単に信用しません。ですが、イエネコという生き物は街で野良のままで生きていけるものではありません。わたしたちが野良猫を見ることがあるのはただその数が多いからであって、その多くは病気に倒れ、あるいは交通事故に遭い、早死にしてしまいます。「淋しんぼう」なのは本能的にそれを知っているからでしょう。一緒にいたい、守ってほしい、それが圧倒的な本心でありながら、辛い経験が原因でそれをできなくなっている。これは家庭や学校がなければ生きていけないのに家庭や学校に反発している少年少女のような状態です。もちろん玉置さんはこの野良猫に自分を重ねていたことでしょう。あれだけあけっぴろげな玉置さんにそんな一面があるのかと意外な気がしなくもないのですが、この歌声の真に迫り方はもう、安藤さんという伴侶の登場によって得られた圧倒的な安心感、心の平安をもって少し前の自分を眺めるような目で野良猫を愛おしく見る境に至っていたに違いないのです。ガットギターがメロディーをなぞる「淋しんぼう」という圧倒的にやさしい歌声、「〇〇ぼう」というやさしい言葉の選び方、それらが示す心の余裕!よくぞここまで……90年代は玉置さんの30代にほぼ重なります。30代の前半に安全地帯崩壊の衝撃を受けて再起不能に近いところまで追い詰められてから、思えばまだ数年しか経っていない2000年にこんな歌を歌う心境に至るとは……。

わたくしはこのように一曲ずつ記事を書いて、だいたい三年分の玉置さんの作品を一年で振りかえるというペースでやらせていただいていますけども、『カリント工場の煙突の上に』の記事を書いていたのは思えば二年くらい前だったと思うのです。あれから……100記事くらいも書いてだいぶ時間が経ったような気がしますけどもそれだって二年、実際の時間は六年〜七年ですね。あっという間なのです。自分のことを振り返ってみても、30代後半から時間のすぎるのがとにかく早いはやい。ボヤっとしてるとあっというまに一年また一年と過ぎていきます。玉置さんが過ごした30代後半だってあっという間だったでしょうに……失われた友情や傷ついた心が回復できるなんて到底思えないくらい短いのです。だから逆に、玉置さんがどれほどの密度で時を過ごされていたのか、安全地帯のメンバーとの絆がどれほど確かだったのか、まさに驚異的な回復だと言わなければなりません。

さてリズム隊が加わった以外は前奏とほぼ同じテンションの間奏を経て曲は二番に入ります。どんな色が好きかと訊くと水色と答えてきた「君」は、そこにない水ではなく空を指します。なら空色といえばいいのにと思わなくもないのですが、そうではないのでしょう。あくまで好きなのは水色で、それに近いものが空色だったのか、あるいはとても自由な精神の持ち主で、空を空色でなく水色と言っても自分で違和感を抱かない人物なのかもしれません。あるいは人を信じられず天邪鬼なことをいう状態に至っているのかもしれません。真相はわかりませんが、「君は淋しんぼう」なのだけは確かなのです。

そんな君と一緒なのかそうでないのか、「僕」は坂道を登っています。「ちんじゅの森」というのはいわゆる寺社林のことでしょうけども、それに囲まれている小さな町並みというのは寺社林にしてはちょっとスケールが大きすぎます。「ふるさと」が見えてくるのですから、かりに旭川市レベルの街だとすると、この森は大雪山クラスの山塊のことを指していることになるでしょうし、それは寺社林などではありません。神居地区レベルだって幌内山地がそれに該当するといえばいえる、くらいで、首都圏でいえば筑波山高尾山まるごとって言っているようなものです。もちろん、この「ふるさと」が旭川や神居のことである保証はまるでないんですが、それにしたって町並みがその中に囲まれているのですから、通常の意味での「鎮守の森」なのではありません。遠目にそう見えるってことでしょう。ああ、ふるさとが山に囲まれている、遠目にはまるで寺社林に囲まれているみたいだな……このような比喩の意味を込めて「鎮守」なのではなく「ちんじゅ」なのだと思われます。ふるさとを前に思わず涙と笑みがこぼれ、いつまでもさよならができない自分のことを「淋しんぼう」と呼びます。

クリスタル・キングが旭川の合宿所に来訪したとき、玉置さんは東京に出ず北海道で音楽をやっていく的なことをおっしゃっていました。それが武沢さんのテープをきっかけに陽水のバックバンドとして上京するかしないかの選択肢が浮上します。そのときメンバーたちは傷だらけで、星さんが登場しなかったら崩壊しかねない状況だったと推察されます。そんな思い出のあるふるさと、そしてすべてを残し後にしたふるさと、あれから異郷で突っ走りまくって気がつけば自分一人になってしまった、その不安と淋しさは想像を絶するものでしょう。でも一つ、また一つと取り戻しつつあったこの時期、ああ、僕は淋しんぼうなんだ、だからいまこうして涙が出るんだ、笑っているんだと気がつかされた……こんな心境なのでしょう。……人生がつらいのは当たり前、登り坂だからです。その坂を登ったらまた新しい景色が見えます。遠くにはきっと……森に護られたふるさとだって見えるのでしょう。そして涙で見えづらくなった目にかつて袂を分かった仲間たちが一人二人と映ってくるとき、みんなで同じ坂を登っていたことに気がつかされるのでしょう。

『カリント工場の煙突の上に』を彷彿とさせる高音の「オーオーエエイー」でこの曲が閉じられることに、はっとさせられます。具体的にどの曲っていうのは思いつきませんが、最後の大サビ、オルガン的なシンセが流れていますよね、これ、わたしにはジョン・レノンのイメージなのです。

Old Dirt Roadを、ジョンはひとり歩んでゆきます。ひどく喉が渇きますが水はありません。でもいいんだ、土砂崩れになるよりはマシなんだ……それでも冷たい水さえあれば!……(「Old Dirt Road」より)

『カリント工場の煙突の上に』以来、この孤独な道を玉置さんも歩んできたのでしょう。やさしい人になりたい、逃げずにいたい、そうできるかなとずっと心の奥で叫びながら。ジョンは異国に住み、とうとうバンドを再結成させることなく逝ってしまいましたが、玉置さんはそうではありません。玉置さんは仲間に、ふるさとに、僕は淋しんぼうなんだって少し甘えながらまたみんなでできるよねって言って、ニコニコと笑って、そして泣くのでしょう。

わかっているんだ、ぼくがなんとかやってこられたのは君のおかげなんだって。僕は願うんだ、どうかそこにきみにいてほしい(「Now And Then」より)

たまたま時期が重なりましたが、「Now And Then」を聴いて、ジョンが叶えられなかった(叶える気があったかどうかもあやしいですが)ものを、玉置さんは叶えることが出来たんじゃないかと思われて、涙がこぼれました。なんでお前が泣くんだよとお思いになるのかもしれませんが、わたくしにだって安全地帯玉置浩二マニア以外の人生ってものがあるんですとも!(笑)いろいろ思われてくるのは人としてむしろ自然なことじゃないですか。

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