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玉置浩二『スペード』四曲目「太陽になる時が来たんだ」です。何でしょうねこの曲、ネット上ではぜんぜん言及されている様子がありません。わたくしこの曲がアルバムナンバーワンだと思っているのに。アルバムの展開的にそろそろほしいアコースティックバラードです。
ある夜、わたくしはイヤホンで音楽をかけっぱなしにして眠り込んでしまいました。中学生時代とやってることが変わらなくて自分でも笑っちゃうんですが、たまにそういうことが起こります。そのまま朝まで眠り込んでしまうこともあれば、途中で半覚醒してその時流れている曲に聴き入り、しばらくしてからハッと目を覚まして、あれいまおれすごくいい曲聴いていたような気がするな、誰のなんて曲だろうとプレーヤーを確認することもあります。で、そういうふうに気づいた曲というのはたいがいレム睡眠中でなければ気づかなかった様々な要素が脳に刻み付けられているもので、その後すっかり愛聴曲になるものなのです。わたくしそういう曲が人生においていくつかありまして、古くはツェッペリンの「アキレス最後の戦い」、井上陽水「御免」、プリンス「Nothing Compares 2 U」といったあたりから新しいものでは……新しい曲なんてぜんぜん好きでなくてわざわざ端末に入れて聴く気にならないのでそういう出会い方するのは古い曲だけでした(笑)。へたするとこの「太陽になる時が来たんだ」が2001年で一番新しいかもしれません。
この「太陽になる時が来たんだ」、もうろうとした意識の中でわたしは若き日の野口五郎が歌っていると思い込んで聴いていました(笑)。すげえいい音のギターだな音源古いのに……長髪で何かヒラヒラした服装の野口五郎が切々と「いま二人がこうしていられるのは……」と歌っています。映像は完全に70年代末期〜80年代初期の歌番組です。わたしの幼少期です。ああ心地いい……と、目が覚めます。え?いまの曲なに?野口五郎?一枚も持ってないよ。えーと、ああ玉置さんの「太陽になる時が来たんだ」じゃん、よく知ってる曲なのに、異様にハマってたな野口五郎……と、ぼやけた頭で考えていたものです。
それからは妙に気になる一曲になり、何度も「太陽になる時が来たんだ」を聴きました。歌詞カードも見ました。口ずさんでもみました。なんならアコギもってコピーして歌ってみました。どんどんハマっていきます。気がつくと玉置ソロのお気に入りベストスリーに入るんじゃないかと思うくらいの曲になりました。ありがとう野口五郎さん!(笑)。
さて、この曲は虫の声から始まり、アコギとエレキ、手で叩いたと思しきバスドラ、スネアをはじめとしたオリジナルとおぼしきパーカッション(『幸せになるために生まれてきたんだから』等、志田さんが玉置さんにインタビューして明らかになった驚愕の音たちです)で演奏されています。ほかには安藤さんが弾いたであろうちょっとしたアオリ的な鍵盤の音と、ストリングス系のシンセが入っていますが、それは雰囲気づけみたいなもんですね。安藤さんお得意の流麗なピアノとは違います。
ジャーン……ポロロ……とのんびりと弾かれたギターをバックに玉置さんが「レンゲ草〜」と歌い始めます。情景は夏の太陽の下、草原、小川、森……『太陽』では絶望と希望をつかさどる神にも似た信仰の対象としての太陽、『あこがれ』では玉置さんの視界を歪めるほどに苛んだ太陽、『JUNK LAND』では僕をいつも見つめ励ます慈父慈母のような太陽……なんとなくだんだん太陽の立ち位置が近くなってきています。そしてとうとう自分が「太陽になる」ほどに親しい「友だち」になってきました。西洋の思想がいつも自然克服の発想であるのに対して東洋の思想は自然の一部であることを自覚し当然に共存していることを受容してゆこうとする思想であるとはよく言われるところではありますが、「太陽になる時が来たんだ」では共存を通り越してもはや一体化しています。これは玉置さんが西洋人だったのが東洋思想にかぶれたといっているのではなく(笑)、東京から軽井沢に変わった環境、安藤さんとの安らぎの日々によって気づかされていったものと思われます。
わたしが環境保護系の話が大嫌いだということはここで言っておかなくてはいけません。環境保護の主張には、自分が保護する側だという西洋起源的な驕りが常に見えます。壊すとか保護するとか思っている時点で自分が自然の一部ではないと思っているわけです。何愉快なこといってるんだ三年くらい禅寺で修行するかミャンマーで瞑想でもするといいんじゃないかと思うんですが、そういう人に限って聴く耳を持たないんですねえ。で、一世紀ちかく前の西洋人であるアルベール・カミュが『異邦人』において描写した、太陽が暑かったからアラブ人を射殺した、という境地は、不条理とかなんとかいろいろに評論されていますが、そんなの不条理でも何でもありません。太陽もアルジェの気候も泉の環境も、そしてムルソーも被害者のアラブ人もその脳神経も、どれもこれも自然の一部なのです。わたしらの知らぬところで崖が崩れたり川の流れが変わったり海岸の岩が崩壊したりしています。もちろんこれらは自然の仕組みによって起こっており、そこに意図はありません。ですが、意図なりなんなり人間の精神作用も、つきつめれば脳神経細胞の片方からもう片方に電気信号が伝わることの積み重ねにすぎません。いってみれば、これは崖が崩れることと何ら変わらぬ自然現象であるわけです。それを取り調べとか裁判の審問とかの人間の意図的行為であることを前提とした言葉に無理やり変換してゆく不条理な過程にムルソーは苦しめられる、ああやっぱり不条理だな(笑)という話なのでした。いや、西洋人にもそうしたことに気がつき文学的・哲学的に優れた示唆を残した人がいるというのに……というわたくしの嘆きですよ、これは。トホホ。
さて、真偽明らかならぬ思想の解説が最近の芸風である弊ブログですが、そんな芸風でいいのか(笑)、これはちゃんと意図があって書かせていただいていおります。「理由もなく手をつないでた」「自然に涙が流れた」これらは、上述の東洋思想的な自然の一部であるという確信なくして、どのように解釈できるというのでしょう。ボロロロ〜ポロロロ〜と音階を登るアルペジオにのせて玉置さんが「わけもなく(ボロロロ〜)」「手を(ポロロロ〜)つないでた〜」と歌うこの凄味は、そうした自然と一体化した自然そのものであるところの玉置さんが、これまた自然そのものである恋人たちが、自然の窮極態であり始原である「太陽」になるんだと思うほどに自然現象の粋である愛を感じている様子を歌うところにあるのだと、まあこういうことを言いたかったわけです。だって、愛って、燃え上がりますしね。あ、いや、ギャグで言っているんじゃなくて(笑)、恋人、夫婦、家族の始まりたる愛がそこに起こるということは、宇宙に太陽が生じるのと同じことじゃないですか。ちょっと(だいぶ)スケールが違うだけで。
川を渡れば水しぶきが上がる、森で遊んでいれば肌は焼ける、時間がたてば帰り道はオレンジ色に染まる……これは誰かが意図してそうしているわけではなく、すべて自然の営みです。そしてふたりがこうしていられるのも、愛おしくも安らかな気持ちでいられるのも、ふたりの意図を超えたところに作用している自然の営みであり、そんなふたりが太陽のように燃え上がって新しい現象を紡いでゆくのもまた自然の営みです。これを玉置さんは「太陽になる時が来たんだ」とシンプルかつ本質をとらえた言葉で歌ったのだとわたくしにはそう思えてなりません。ほ、本物の天才だ!最近流行りの太陽な感じ?のラヴァーズになりたいような気がしなくもないから行きずりのアフェアー?でもしようぜ!夜に向かって駆けだそうぜ闇に君の名を呼ぶううううう!みたいな底抜けに浅はかで愚かな世界を完全に超越していて、かつそれをビシッとシンプルに表現する詞と歌の力が、まさに唯一無二、空前絶後といってもいいでしょう。あの寺田ヒロオが悩める赤塚不二夫のネームを見て「ぼくならこの原稿から五つのまんがを作るな。きみのはつめこみすぎだよ、あれもかきたいこれもかきたいでスジが一本通ってない!」と喝破したエピソード(手塚治虫ほか『まんがトキワ荘物語』祥伝社新書より)にあるように、不本意ながら耳に入ってしまう現代の曲たちはどれもこれもゴチャゴチャしていて辟易とさせられるわけなのですが、このころの玉置さんは神がかった一本スジの通し方、シンプルさを極めていてわたしの精神もおだやかでいられるというもんです(笑)。二番では何を歌うんだろう?と思わせたらアウトで、ほんとうによくできた歌というものはこれをずっと聴いていたいと思わせるものです。
さて曲は二番、自分で言及の意味を潰してしまったのでもう語ることがないんですけども(笑)、当然に情景はビシッと一本筋を通して同じです。「どんなときも離れないでいよう」という愛はきわめて強く、それいでいて穏やかで自然なものとして表現されます。
そしてオレンジ色の帰り道のあと、あたりは暗くなり星を見つめる時間になります。シンセが強めに背景を彩り、涙が自然に流れてくる、やさしくいられる、その当り前さ、自ずからそうであるところをそのまま受け入れられるということの、ふたりの関係をつかさどる自然の雄大なスケールを感じさせます。なにもストリングスを生楽器でやらなくてもこういうシンプルなもので十分だ、というか、そもそもそういう不満を思いつかせないところにこのシンセのさりげなさと巧さがあります。そして背景の音はそのまま、おそらくは玉置さんのアコギによるギターソロが、違和感ゼロのまま歌と同等の表現力を保たせたまま、最後のサビに突入します。
信じてきたものがあるから自然に涙が流れる……それはもちろん、優しくいられるなら太陽になれるんだということを信じてきたのであり、いまその時が来たんだ、だから涙が流れてくるんだ……ということなのでしょう。玉置さんはそういう時が来るのをずっとひそかに信じていたんじゃないかと思います。ぜんぜん売れない初期安全地帯、とつぜん売れてしまいスーパーアイドルとして祭り上げられた安全地帯の人気絶頂期、そして様々なムリを抱えて崩壊してゆく安全地帯と、玉置さんの精神……という悲劇を経て、絶望と孤独の中人工的な治療を拒否して自然療法を行った旭川の日々、そして再始動とソロ活動の絶頂期、それも落ち着いてたどり着いた軽井沢の日々……不自然、人為的、作為的なものに苦しめられ何度も裏切られたのにそれでも信じていたことがやっと現実のものになったという感動と安堵にひたりきることができたのです。それがどれほどの幸福であるか、余人には量りがたいものがあります。心無い人は「玉置はすっかり自分の世界に入っちまったよ、ケッ使えねーな、素直にワインレッド歌っとけばいいんだよ」くらい思ったかもしれません。心がないんだから当然耳もないわけですし仕方ないでしょう。そういうカネと快楽しか見えてない、信じてない人とは初めから生きている世界が違うとしか言いようがありません。
そしておそらくは矢萩さんのギターソロで曲は終わっていきます。これまた短いながらも、ものすごいソロです。矢萩さんのソロを聴いていていつも思わされるのは、どうしてそこで止まるの(間を取れるの)ということです。わたしならぜったいここで一番高音部まで駆け上がってキュインキュインやっちゃうよといつも思います。ここを止められるか止められないかに、自己顕示とか出しゃばりとかそういう大自然の中ではノイズ的なものでしかないものが発出してしまうんだろうなと、反省することしきりなのです。
さて、また一ヶ月くらい経ってしまいましたかね。無茶苦茶な忙しさで、ちょっとずつ書きためては下書き保存してはいたんですが、結局は広告でみなさんを煩わせていないことを祈るしかないくらい間隔があいてしまいました。ここんとこたまの休みもグダッとして体を休めるしかない……わたくしすっかり五月病です。そんなわけで、太陽になる時はわたしにはいつ来るのよ!もう来てよ今日来てよなんなら今来てよと思いつつちょっとずつ書いてきた「太陽になる時が来たんだ」の記事でした。繰り返しになりますが、このアルバムで一番のお気に入りです。
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優しさと強さを感じて、好きです!
また、こういった新曲が、聴きたいですね。
歌でも小説でも人でも、特有のノリというかリズムというか、そういう斉一性ありますよね。それにふれて思い出すような。
すなわち、太陽なって皆を照らす時がついにやって来た!的な感謝のうたです。
忘れてしまった気持ちも沢山ありますが、歌というフィルターを通すと不思議と蘇る風景と時間の流れがあって、それはこの曲のように自然な気持ちになれて初めて味わうことの出来る境地なのでしょう。