玉置浩二『カリント工場の煙突の上に』四曲目、「西棟午前六時半」です。
このアルバムは、この曲から不吉な影が漂い始めます。それもそのはず、この曲は傷つき病んだ玉置さんが入院させられた精神病院の歌なのです(『幸せになるために生まれてきたんだから』より)。「アルマイトの食器」?「山盛りの錠剤」?最初は薬師丸ひろ子さんのきれいな声に騙されてよくわかりませんでしたが、これらは病院が舞台だったことを示しています。
意味が分かると、冒頭「グーテンモーガン」さえ、むかしは医者がドイツ語必須だったからか、なるほどー、と思わず納得してしまうくらいです。『ブラック・ジャック』とか読んでるとわかりますよね、看護婦さんのことをプレ(プフレーゲ)といったり、患者のことをクランケといったり腫瘍のことをイレウスといったりしています。ただ「ゲンさん」が何者か問題が残りますが(笑)。まあー、たんなるボンヤリしたイメージなんでしょうけども。昭和末期〜平成初期はまだ医学といえばドイツ語というイメージはあったのです。いまでもメスとかガーゼとかカルテって言いますもんね。
さて曲はかすかなウィンドチャイムから始まります。シンバルが響き、ベース、アコギ(おそらく二本)とともに薬師丸さんの声、それに合いの手を入れる玉置さん……なんて歌っているんでしょうね?「why」だと思うんですが……なんでぼくはこんなところ(精神病院)にいるんだろう?なんで六時半に起きてラジオ体操とかやってるんだろう?と、いまいち状況を飲み込めてない感覚を表しているのだと思います。思いますが、なにぶん歌詞カードに記載がありませんので、これも戯言にすぎません。「スズメたちの合唱」から「イチ、ニ、サン、シ」と掛け声が入り始め、その後最初のサビが終わるまで掛け声が続きます。「ロールパンふたつ」のところで一時掛け声がやみますから、ああ、朝食になってラジオ体操終わったのかなと思ったんですが、「山盛りの錠剤」以降また掛け声が入りますから、そういうわけでもなかったようです。薬飲んだらまたラジオ体操ってことはないでしょう。ただ、薬飲んだら長時間眠るということを繰り返していたそうですから(『幸せになるために生まれてきたんだから』より)、ロールパン食べて薬飲んで寝たら気がついたときにはまたラジオ体操の時間だったということはありえなくはないです。まあ、ふつうに、「六時半」に起こっていることをずっと歌っている、だからつねにラジオ体操がバックグラウンドミュージックだったんだという可能性が一番ありそうですが。
この掛け声、非常にカオスです。心の中はグチャグチャになっているという内容の歌詞なのに、それに反しひたすら規則正しく澄んだ声で聴こえてきます。自然の無秩序にムリヤリ折り目を入れるような……アメリカの州境やアフリカの国境のように不自然なのです。マモルは朝顔と話しているし、裸足の友達は思い出の中、丘で猫を追いかけているし、洗面器の水からは自由に舟を漕ぎ出す舟が連想されるし……思惟は乱れっぱなし、だからこそ自然なのですが、そこにムリヤリ折り目を入れる残酷さをこの掛け声は演出しているかのようです。
そして「ラジオ体操始まる」の直後に入る鍵盤らしき音とともに、曲はBメロからサビへと向かいます。それまでアクセント的に入っていたパーカッションのほかに、ここでスネアがズバアン!ズバアン!と異様にいい響きで入ります。上述したように、午前六時半にラジオ体操の掛け声が響く中、洗面器の水に映った太陽に海を連想し、自由に海原を進む想像を膨らませるという、悲愴すぎる歌です。これを、薬師丸さんの美しい歌に玉置さんが導かれるように、のびやかに歌うのです。体はどこも悪くないのに松葉杖ついた歩みのような、そんな不安定で頼りない歌を薬師丸さんが支えているかのようです。薬師丸さんは新人の頃から異様に音程なり拍なりが安定した歌い手でした。それにこの澄んだ美しい声で……こういっては何ですが機械のように正確で乱れないんです。それがなんとこの歌を導くのに適格であったか……偶然なんだとは思うんですが、こういう時期に伴侶であった人が薬師丸さんでなければこの歌は生まれなかったか、生まれていたとしてもその迫力は半減していたことと思われます。「いいね、きっと……」と、なにが「いいね」のか全く根拠のない希望を発出して一番は終わります。どこでも、ここでないどこかなら「いい」んだと、そこまで追い詰められた心情が痛いほど伝わります。
「シャシャシャシャシャ……」と爽快さのないシンバルが響くなか希望の一番が終わり、絶望の二番がはじまります。アルマイトの食器にロールパンという給食然とした食事、たくさんの毒々しい色した錠剤、それらを摂取してまた眠りに就くのです。駐車場ではおたまじゃくしが水たまりの中で泳ぐ……もちろん水たまりが乾けば死にます。どうやってそこで孵化までいったのかは問わないにしても、理不尽極まりない出自、生活環境です。このおたまじゃくしはかわいそうな生物でなくて音符のことか?病院という水たまりで生まれた、記録のすべのない音楽のことだろうかと思わなくもないのですが、それにしたって消えゆく運命です。
歌はBメロ、裸足で猫を追いかけるってサザエさんかよという野暮なツッコミはナシにしても、現代人が裸足で追いかけるってことは現実には起こらないでしょう。足痛いし(笑)。これは思い出の中で、「自由」のイメージが膨らんでいるということなのでしょう。立ちふさがる壁のない丘で、現代人の制約たる靴を抜ぎ、ランダムに逃げ回る猫を追いかけるという規則性のない行動、まさに自由なのです。それが自分でなくて「友達」であるということがまた悲しいのです。
曲はサビ、いろいろ自由のイメージを膨らませてもそれは自分でなく、自分は西棟で規則正しく六時半に起き出して規則正しい掛け声に合わせてラジオ体操をしている。「いつまで(いつまで)ここに(ここに)いるのだろうか」と、薬師丸さんのリードを外れてまで復唱せざるを得ないくらい「いつまで」「ここに」は、わからないという不自由極まりない思いを抱えて。「欠けた(欠けた)心のまま(心の)かけた体のまま(体の)」と、今度は薬師丸さんがあなた病人なのよと念を押すかのように復唱の側に回ります。これはたまりません。「楽しそうに笑う朝」は、そこにいた人々が笑っているのか、「朝」が笑っているという比喩表現なのか……いずれにしろ玉置さんは笑うどころではないでしょう。「それでも」玉置さんが笑うのかもしれません。悲愴な心情で、それでも朝のさわやかさに生き物として爽やかさを感じずにいられないという業のようなものを感じてしまっている……という「笑う」だったとしたら、なんとつらい笑いでしょう。
間奏、バスドラが「ドッ・ドドッ……ドッ・ドドッ……ドッ・ドドッ……」と規則的に打たれ、歓声と……「グーテンモーガン」……イチ、ニ、サン、シ……玉置さん自身の声で「背伸びの運動!腕を前から上げて!」……これはカオスです。少しも楽しそうではありません。一秒も早くここから出たいという気持ちにさせてくれることでしょう。しかし、これが一番肝心なことですが、カオスなのはおそらくは西棟ではなく、玉置さんの心だったのです。実際には三日で脱走して旭川に帰り静養していたそうですから(『幸せになるために生まれてきたんだから』より)、最高でも午前六時半は三回しか経験しなかったと思うんですけども、よほど組み合わせが悪かったのでしょう。玉置さんのストレスが最高潮に高まり、それなのに懸命に落ち着かせようとする周囲、それがまたストレッサーとなって悪循環となったように思われます。
歌は最後のサビに向かいます。また洗面器の水で漕ぎ出そうとします。もちろんそんなことムリですし、ご本人だってよくわかっています。でもそうイメージされて仕方ない「いつか だから もっと」と、「いつか」以外は直接的に修飾する語句がない、不明瞭な希望を感じさせる接続詞や副詞です。それを叫ぶように、多重録音で……感じられない希望を懸命にもとう、保とうとする叫びのように聴こえます。薬師丸さんの「頑張ろう……頑張ろう……」が、渦中にあるものにとっては救いの糸のように感じられることでしょう。人間、袋小路に追いつめられると、いつ、どうやったら、確実に、その窮地を逃れられるか以外の情報はどうでもいいこととして扱う習性がありますから、「確実なんてないよ、もしかしたら逃れられないかもしれないよ、でも頑張るしかないだろう?」というごく当たり前の忠告は雑音、悪くすると冷やかしにさえ聴こえるかもしれません。それでも、薬師丸さんにいわれたら頑張っちゃうかな(笑)、あ、いや、それはわたくしのことでありまして、玉置さんがどういう意図でここに薬師丸さんのセリフを入れたかは、もちろんわかりません。
そんなわけで、この時期の玉置さんの心の内部、非常に暗く重いテーマを歌った歌たち、その象徴のようなこの「西棟午前六時半」ですが、これですでにお腹いっぱいという方はもうこの先聴きとおせないかもわかりません。この先、ズンズンとさらに重くなっていくのですから……。当時のわたくしは感受性が鈍かったのか「変な感じだなあ」と思っていたので何ともなかったのですが、人によっては重力のきつさをモロに受信してちょっと具合悪くなってしまうなんてことがあるかもわかりません。それはもちろんわたくし本意ではありませんし、なにより玉置さんや須藤さんにとっても本意ではないでしょう。ですからどうかみなさまご自愛くださいますよう心よりお願い申し上げます。
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