玉置浩二『カリント工場の煙突の上に』二曲目、タイトルナンバー「カリント工場の煙突の上に」です。
まず「カリント工場」はふつうに考えてカリントウを作る製菓工場でしょうね。「カリントウ」と「カリント」と呼ぶのはありそうなことです。旭川でカリントウを作る工場といえば、三葉製菓さんなんですが……あれは工業団地だしなあ、金丸富貴堂さんが神居に工場をもっていたか、ぜんぜん知らないべつの会社があったか、あるいは実はカリントウでないものを作っていた工場があって、何かの勘違いで子どもたちはそれをカリント工場と呼んでいたということじゃないかと思います。
のちの『CAFE JAPAN』にある「フラッグ」のような汗と油のイメージですが、古タイヤが積まれコールタールの塗られたゲートや壁、トタンで区切られた敷地が当時はたくさんありました。当時といったって、玉置さんの少年時代より私の少年時代は15年くらい後ですけども、そんなには違わないと思います。そういう敷地はもちろん立ち入り禁止なんですけど少年たちにそんなこと言ったって無駄です。駆け抜ける「近道」や「秘密の道」は大人たちの営み、つまり「汗と油」だらけです。製材所からは木の匂い、ドブ川には汚水の臭い、道路からはガソリンの臭い、住宅からはヌカミソの臭い、どれも令和時代の若者は耐えられないでしょう。ですが昭和とはそういう時代でした。令和の時代と違って、人の営みのニオイを隠さないんですね。喫煙所を設けてタバコのにおいを隠している現代、病人を施設に隔離している現代、トイレを水洗にしている現代、昭和を10年以上生きた世代の人ならば、これらはウソの世界であるということを知っています。人間の営みとは臭いものなのです。そんななかで、パン工場や製菓工場は甘くおいしそうなニオイを排出し続ける夢のような施設だったのです。
さてその「カリント工場」は玉置さんの少年時代に溶け込んだ景色の中にあって甘いニオイを一日中ふりまき、夕方には大勢の人たちが疲れた顔で家路へとつく、そんな日常を回想するシンボルとしてその存在感を示します。「空よ」と叫ぶ玉置さんの念頭にある「空」は、いつでも「カリント工場」の煙突の上にあったのです。
歌は深めのリバーブのかかった玉置さんの声から始まります。「雲」「太陽」と天上の大きなスケールから「家路」と地上のスケールへとその視点の変化に少しクラクラとしながら、意識はすうっと少年時代へとタイムトリップしていきます。ギター、ベース、パーカッションが少しずつ入りながら、その素朴な音たちが少年時代への旅を彩ります。
ズシーン!とベースが下支えするサウンドにのせて、「万国旗」というグローバルなイメージと「ばあちゃんの家のはなれ」という超ローカルなイメージ、それをすべて包む「星」というイメージ、すべてがスケールの大小を行き来し、視点を一点に絞らせない立体的なスクラップアート……それだけじゃ足りないですね、さらにズームレンズで焦点距離をグリングリンといじられるかのような感覚に襲われます。いや、これは偶然じゃないでしょう。須藤さんがこのように仕組んだんだと思います。
ギターがアルペジオを高らかに鳴らし、「僕は町を捨てた」と衝撃的な叫びが耳をうちます。そうです。町を捨てたんです。わたしたちは若いときにはそこまで考えていませんが、「帰ってくる場所」として旅立った時、人は故郷を捨てているんです。人の営みの臭いを嗅ぎながらその中で育ってきた少年は、その営みの中に入って臭いを嗅ぎながら臭いを発出する側になることを拒否する、つまりその町の産業に加わらないことを決心するのです。エンクロージャー政策によってロンドンやバーミンガムに若者が溢れかえった数百年前のイギリスと同じで、持たざる者は都会に吸い寄せられるに決まっています。ドイルやディケンズの描くロンドンやバーミンガムは昭和の札幌や東京など比較にならぬくっさい街だったと思われますが(笑)、令和の今日、極東の日本にあっても、ネオンの灯りや香水の匂いといったカモフラージュにより、人は都会に夢を求めて集まるのです。昭和四十年代の川崎市は市民の平均年齢が二十歳未満だったといわれるくらい、若者があふれるのが都会でした。ですから活気があります。もたざる者たちばっかりですから活気しかないんですけど。数少ない大人たちはその若者からどうやって搾り取ろうか考えます。ですから、若者が好みそうなものをこれでもかと取りそろえるんです。若者たちは安い給料で働かされて、その給料さえも若者向け産業に搾り取られます。
何か都会に恨みでもあるのかと言われそうですけど(笑)、ありますよわたくし!わたくしの氷河期世代ってのは、90年代にバブルの残り香で引き寄せられた都会で散々に搾り取られ、いまだに若者みたいなライフスタイルを余儀なくされている人たちが何十万人何百万人、へたすると一千万人ちかくいるんですよ!たまにはそれが好きで続けている人もいますけど、いくらなんでも50代に近づいてまでそんな暮らしをしたい人は少数派です。田舎に帰れる人は幸せで、気がついたときには田舎の産業にはそんな人たちを受け入れる体力がなくなっています。「カリント工場」は閉鎖しているんです(玉置さんの歌う「カリント工場」は不況で閉鎖したのでなく火事でなくなったわけですが)。しまった都会に行き過ぎたおれたち……という後悔はすっかり後のカーニバル、正直、リーマンショックあたりが最後のチャンスだったと思います。あのときまだ30代前半とかそれくらいでしたし、親世代がまだ頑張って地元の産業を支えていましたから……でもすべては、おそらくはもう遅いのです。田舎の経済は東京資本海外資本にケツの毛までむしり取られ、反撃の気力すら消耗してしまいました。いずれむしり取るものがなくなったときが都会も終わるときなんですが、毎日を必死に生きている身にとってはそんなこと考えてる余裕もなくなっているのです。
恨み節が長くなりました。さて、曲はAメロに戻り、二小節に一回ずつ打たれる「ズバアン!……シャン!」というスネアとシンバル、「デゥデゥンデゥデゥー・デゥデゥンデゥデゥー」というギター、それに絡む「……シャアン!……シャアン!」というアコギのストローク、見事なアンサンブルです。視点は家の中、白い紙にクレヨンで……参った、これも少年時代を強烈に思いださせます。白い紙は貴重でしたから、チラシの裏とかでなくて、これぞというときの画用紙に描いたんでしょう、ゼロ戦、そして潜水艦……軍用機じゃんと思いますけども、旧軍のメカは当時の少年にも一定の人気があったのです。かつて南太平洋の覇者として海と空を駆け巡ったそれらのメカは、ノスタルジーにも似た一種独特のロマンを感じさせました。そして葡萄色の着物を着ていた母親……これはアルバムジャケットになっている、ネックレスをした短髪の女性でしょう。髪も黒々とした、若き日のお母さんです。きっと授業参観日か何かでおしゃれしたんでしょう、口紅が真っ赤に塗られています。玉置さんの描いたこれらの絵をみながら、玉置さんと須藤さんとで歌詞のコンセプトを話し合い、須藤さんが詞に直していったのでしょう……。平成五年に詞という形で残されたこれら昭和中期の風景は、わたしたち世代がギリギリわかる生活の軌跡であり、それでいて共感性のとびきり高い情景です。わたしは目の覚める思いでした。どれだけの人が当時この歌に救われたのかはわかりませんが、平成初期は、まさにわたしたち氷河期世代が夢をエサに都会に吸い寄せられ、元祖「ウェーイ」世代として明るく呑気に搾取されていたギラギラの時代でした。玉置さんと須藤さんが示してくれたこれら風景の描写がなかったら、わたしは今頃どうなってしまっていたのかと冷や汗が出ます。
さてサビにて、玉置さんちょっとゲイン高いです、音割れてますよ、とエンジニアに言われてそうですが、玉置さんはそんなことお構いなしにとんでもない声量で叫びます。「空よ」「大空よ」「忘れないでくれ」「連れていってくれ」と。「演出上一部ひずませている」そうですが、いやいやこれは録音時からひずんでいたでしょ(笑)。でもこのひずみが、玉置さんの心の叫びを絶妙に表現しているように思えるのです。想定していたゲイン幅をはるかに超える声が、メーターを振り切って絞り出されたのだと思うのです。「カリント工場の煙突」を震わせるんじゃないかってくらいに空に、昭和中期のあの空に向かって叫んだのです。
さて曲は、演奏がすっかり静かになり、玉置さんの声が、ディレイがかかり、きもちリバーブ強くなったでしょうか、ドライ音にリバーブかけすぎです玉置さん、とかエンジニアに言われてそうですけど、そんなのお構いなしにものすごいシリアスさで「あの出来事」を歌います。エンジニアが何といおうとこの場面はこのディレイ、このリバーブでなければならないと玉置さんは判断したのでしょう。幼少のころ、川で溺れた隣家の子どもを救えなかったことを強く後悔し、その後その子の家庭が崩壊してしまったことに心を激しく痛め、誰にも話せないまま少年期、青年期を送ってきた玉置さんが、その出来事を「いまでも泳げない」「堤防から〜花束が〜」と歌います。たったワンシーンですが……どれだけ痛かったんだろうと想像するだに胸が苦しくなります。志田歩さんは『ジョンの魂』におけるジョンのように玉置さんが「トラウマを音楽に昇華させた」とおっしゃっています(『幸せになるために生まれてきたんだから』より)。「昇華」というのはジークムント・フロイトの防衛機制理論に、娘さんのアンナ・フロイトが付け加えたものです。心理学や精神医学にはまるでわたくし不案内ですが、トラウマって「昇華」させるものと違うような気がします。音楽人間である玉置さんがいわゆる「自己開示self disclosure」を行う手段が音楽だった、それに対するわたしたちリスナーの感想や感覚が「返報」であると考えるほうがしっくりきます。玉置さんは何十万人ものリスナーに「自己開示」を行い、それによりわたしたちリスナーが共感し、自分の少年少女時代を思いだせられなんらかの思考を働かせた、人によってはそれを他者に話したり、文章・詩・歌に表現したりしたかもしれません……こういう壮大な心理作用ドラマがあったと思うのです。
「消えた……」と深いリバーブの残響音が消えるまで、曲は伴奏が止まり、一瞬無音になります。そして曲はまたアップテンポになり、少年期の終り〜青年期初期らしき情景が歌われます。深い喪失感と後悔が幸せだった少年時代に影を落とすことになった原因となったあの出来事は、「あの娘」が紅を引きタバコを吸うような年齢になっても、ライブを終えて打ち上げを行った街で破れた金網越しにネオンを見るような活動のライフステージにあっても、ずっと心の一角を占めていたのでしょう。
ところでさびれた商店街ってどこだろう?とは思いました。神居は旭川中心街から川を二つ渡ったところにありますが、商店街ってほどの商店街はなかったような……旭川に限らず北海道の都市は土地をぜいたくに使っていますので、本州の人が想像するようなごちゃっとした商店街や繁華街はそんなにないんです。中心街平和通りと三六街が一番イメージピッタリなんですが、ここを「さびれた」って言ってしまうと北海道のほとんどの街はさびれてることになってしまいますので(笑)、ここは玉置さんと須藤さんのイメージによってつくられたイメージ上の商店街なんだと思いたいところです。中心街もわたしの少年時代よりはだいぶさびれてきてるように思いますけど、わたしの少年時代には人がいっぱいでしたし、ましてや玉置さんの少年時代はそれはそれは賑やかなところだったはずですから。
そしてまたアルペジオ、町に「変わらないままでいて」と強く強く叫び、願います。続けてサビ「空よ」「大空よ」と、叫び願った「あの場所」はすでにありません。空間的には存在しますが、そこにあった営みはすでになく、人たちも入れ替わりながら、町は大きくその姿を変えてゆきました。「再開発」という名のもとに変わってゆく町は、開発のたびに寂しくなっていったのです。どこが開発なんだよまったくもう!と怒りたくなるくらいです。
そしてこの曲随一のアップテンポで、「市営住宅」の広場でリレーしたという思い出が語られます。ここの箇所、アコギが分厚くて、聴き惚れてしまいます。いったい何本重ねたんだろう?右からも左からも「ジャッ!ジャッ!ジャッ!ジャッ!」と鋭い音が聴こえてきて、ピンポンディレイでも使ったかと一瞬思いますが、たぶんその手の小細工は一切せずに、納得いくまで重ねたんだと思います。
市営住宅に子どもが溢れていた時代には、家に帰ってきても周りじゅう友達だらけ、ランドセル置いたらすぐに再出発、広場でボール投げにかくれんぼ、缶蹴り、とうとう飽きてリレー、わたしもやりました。なんだかわかんないけど「帰りの会」で集合がかかって、校区内にある公園や、大きな団地にいつも集まるんです。毎日飽きもせずリレーやったりポコペン(北海道式缶蹴りみたいなもの)やったりと、日暮れまで遊んだものです。だから、今どきの子どもたちが習い事で忙しくしているのをみると、気の毒にさえ思えてくるんです。きっとこの子たちは「元気な町」や「メロディー」の世界を理解できないんだろうな、この曲の「みんなでーええーええー」の叫びが届かないんだろうなと。ですから、「あの場所」はもうないんです。
そして曲は最後のサビへ進みます。「空よ」「大空よ」と、令和初期の現代となってはその願いはとても虚しいものだったとわかってしまう強い強い願いを、玉置さんは渾身の声で歌います。胸が詰まります。「あの場所」は、すでになくなってしまった「カリント工場」の煙突の上、空からみれば、いまでもあるんじゃないか、あってほしいと思ってしまいます。ですからわたしは、たまに帰省してもそういう思い出の場所には立ち入らないことにしています。「あの場所」はまだあの公園にあるんだと思っていたいからです。
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玉置さんはマジで神じゃないかと思うことがあります。どうしてこんな曲を作れるの、歌えるの……あのモーツァルトが神でなく人間だったのと同様に玉置さんだって人間に決まってるんですが、あまりにレベル違いだとわたしたちはそこに神聖なものを感じます。モーツァルトは近世人らしく「人間」関係で消耗し嫉妬によって陥れられていきましたが、中世なら神か悪魔かとみなされてえらい目に遭ったんじゃないかと思います。
玉置さんは、現代人ですから歌手として活躍できていますが、それにしたって不遇でした。もっと評価されないとおかしい、どいつも耳が節穴なんじゃないかといつも思ってました。似たようなことをしてるにすぎない凡百の歌手の中に埋もれ、正当な評価を受けないという、現代ならではの苦労をなさっていたように思います。
弦を切ってマーチンからヤイリですか、貴重なシーンをたくさんご覧に……この曲を、生まれたてのときにお聴きになったのですね。うらやましい限りです。たぶんわたくしなら、しばらく新宿から出られなくなります(笑)。
私が最初に聴いたのが発売から少し前の新宿の日清パワーステーションでの独演会でした。
シードントケアー、ラブセッカンドウーイット、キツイ、なんだ!?、ヘン、スケジュール、などをアメリカで買ったばかりのマーチンギターに合わせて、玉置ワールド全開(笑)MC中に男のお客さんから「ハマクラ〜(笑)」と声をかけられたりしながら、
カリント工場へ。
最初聴いていっぺんに持って行かれた珍しい曲だと思いました。出来たてだからか、歌詞を繰り返すとこもあり、2番のあとギターの弦を珍しく切って横に置いてあった赤のヤイリに持ち替え最後まで唱いきりました。
もう、誰か(あこがれコンサートのパンフに寄稿した長崎監督?)が書いてましたが、玉置さんにはものを表現する神様が本当に宿っていることを間近で観れた貴重な体験が出来ました。
追伸:ただし、開場するまで今からちょうど30年前のこの日、東京新宿のとてつもない寒空の中、来たお客は二時間近くも開場が機材トラブルの為中には入れずに、外でひたすら待ってたことをお伝えしておきます。
ありがとうございました。