『安全地帯VIII 太陽』四曲目、「いつも君のそばに」です。先行シングルで、カップリングは「俺はどこか狂っているのかもしれない」でした。
六土さんのベースと、何やらボイス系のシンセを背景にハモニカ的な音でメインテーマが奏でられます。そして一気にドラムとギターが入り、「情熱」のイントロでも用いられたようなキラキラ系のシンセ音がリードを奏でます。いきなりシンセ多用で、シンプル路線を突っ走った前作『夢の都』からやや従来路線に回帰したのかと思わせるサウンドです。「Seaside Go Go」くらいシンプルなのを聴いて驚きさめやらぬ1991年のわたくし(買い遅れて1992年でしたが)、安全地帯はこの先どこまでシンプルになっていくのかと正直心配しておりました。いっぽうこの曲では、「マスカレード」的ギターが細かいフレーズをずっと刻み続けており、安全地帯はこうでなくっちゃなと、従来のリスナーを安心させる「普通の」シングル曲になっていました。
いま思えば、「太陽」のような強烈な曲をこそシングルにすべきだったと、傍からは思えます。ベスト的なものしか聴かない層にとって、この時代の代表曲は『BEST2』に収録されたこの「いつも君のそばに」と「朝の陽ざしに君がいて」でしょう。違うんだ!このころの安全地帯は、『太陽』とか『SEK'K'EN=GO』とかの一種狂気じみたスリリングソングと、「花咲く丘」「黄昏はまだ遠く」とかの信じがたいほどの切ない慟哭ソングが同居する危険地帯なんだよ!「いつも君のそばに」とか「朝の陽ざしに君がいて」みたいな曲を期待してこのアルバム買ったら、中毒者になる二割くらいの人以外はみんな逃げちゃうよ!と思うくらい、この「いつも君のそばに」は普通の曲です。ああ、安全地帯もずいぶん大人になったねえ、わたしたちも年をとったなあ、なんて呑気に酒場でプロ―モーションビデオを観るくらいのものでしょう。
とまあ、印象はこのようにごく「普通」のシングル曲なのですが、さすが円熟期のバンドとしての側面をもつ安全地帯(実態は危険地帯)、よくよく作り込まれた力作になっています。そして、これは一見気づきにくい安全地帯の変化を示すものなのですが、こんなやさしく穏やかなラブソングがかつての安全地帯シングルにあったでしょうか。「じれったい」とか「好きさ」みたいな、もっともっとカモン!的な激しい系か、「碧い瞳のエリス」とか「悲しみにさよなら」的な、ラブラブのくせに何か悲しがってる悲愴系か、「Friend」とか「月に濡れたふたり」みたいなやっちまった終わった系か、とにかく修羅場でないことが珍しいバンドでしたから、こんな穏やかな気持ちで二人で過ごしていこう安心しておくれ的ソングは、のちの玉置さんソロ「太陽になる時が来たんだ」くらいまで思いつかないレベルの穏やかさです。まあ、さかのぼれば「萌黄色のスナップ」とかありますけど。そんな、一見普通ではありますが、安全地帯の歴史上決して普通ではない穏やかソングです。
さて、歌に入り、細かく刻むギター(たぶん武沢さん)と、比較的大きめの音符でアルペジオ的に流すギター(たぶん矢萩さん)のコンビネーションで、うっとりさせてきます。「微笑みに乾杯」のときのような、やるせなさが感じられない、やる気に満ち溢れた黄金コンビ復活といった趣です。
BメロらしきBメロはなく、いわゆるAダッシュメロのままサビに突入するんですが、ここでシンセが追加されただけでなく、「カカカカカンカカ……」と何か打楽器が細かく打たれていますね。ギターの音と溶け込んでいますんで気をつけないと聴き逃すんですけど、気がつくとその音ばかりを追ってしまう、なんだか中毒性のある音です。
曲はまたキラキラのシンセを擁するイントロフレーズに戻り、AメロAダッシュメロサビを繰り返します。そして、こういうのを大サビというのかラスサビというのか、業界用語は難しいですねえ、繰り返しになりますがAメロBメロって言い方自体がおかしい(本人たちのリハーサル譜をみないとAもBもない)ので何の意味もない言及の仕方なんですけども、ともかくここだけのフレーズが挿入されます。
またまたシンプルなイントロフレーズ、そして曲はサビを繰り返して終わります。従来にもごくたまにあったことですが、この曲はアウトロが一分も続き、美しいストリングスのメロディーを流麗なギターコンビネーションの響く中で聴かせてくれます。この、安全地帯にたまにあるやけに長いアウトロの解釈はいろいろありうるんでしょうけども、星さんのストリングスが美しすぎたんでもう少し聴いていたくなるねとメンバーが思ったか、あるいは、ギターのコンビネーションがあまりに心地いいのでもうしばらく続けることにして、そこに星さんが美しいストリングスを重ねたか……「いつも君のそばにいるよ」が、無言のまま「いつまでも君のそばにいるよ」に醸成・変化してゆく効果をねらったか……ありとあらゆる解釈が成立しそうで楽しい箇所でもあります。のちの「ひとりぼっちのエール」もむやみにアウトロが長いのですが、不思議と自然で、いつまでラララやってんねん!とは腹が立たない秘密がここに隠されていそうです。まだまだ研究ですね。
さて歌詞ですが……松井さんが安全地帯に向けて送ったエールであるという仮説はいったん置いておくとして、ここは素直に男女のラブソングとして考えてみましょう。だってこのアルバム、すげえ少ないですよ!普通のラブソング!たまに語ったっていいじゃないですか!もうかつてのテンションで書ける自信がすっかりなくなるくらい遠ざかってますけども。
ある夢をひとりで見ている女性に出逢います。その時点でかなり限定されたシチュエーションですけども。彼女は夢を追い、傷つき、その過程において恋愛的な何かでも失意を味わい、結果として「ひとりで」遠い夢を見ることになってしまうのです。これまた限定的な!もうわたくし自信がなくていけません(笑)。かつてはアメリカでダンサーになるとかわけのわからない妄想を自信たっぷりに書き散らかしていたというのに。
夢はですね、どんな夢かわかりませんけど、ひとりが二人になれば、達成までの道のりは一気に半分になったような気がするものです。ほんとうは全然そんなことはなくて結局は一人で追うことになるんですけども、誰かが伴走してくれているという事実はとても心強いものなのです。いかりや長介がみていた夢は、荒井注という伴走者がいてこそ達成に近づいたのでしょう。ですが、二人がみていた夢は実は違うものでした。結果として荒井は脱退し、いかりやは一人で夢を追うことになったのです。荒井が脱退して代わりに入ったのが志村だったのですが、志村はもっと別な夢を持っていたのでしょう。いかりやの夢は……ああ、いかんいかん、男女のラブソングとして話すんだった(笑)。
その挫折は「さみしい心」として、誰にも話せないまま、彼女は失意に沈んでいます。そういうさみしい心っていうのはなかなか話しづらいことで、話すときはそれこそ「心をあずける」くらいの気持ちで話してくれるんだと思うんです。だから、そういう話をきいたときにはわたくしはけっして他言しませんし、受け取ったものを忘れたふりなどしません。あずけてくれたぶん、ちゃんと守ります。話したそうだったら聴きますし、話しづらいことを聴きたいふりもしません。ただ、聴いて、守ればいいんです。そういう人間だと見込んでくれたのですから、ただ自然に、期待を裏切らなければいいんです。わたくし、矢萩さんの「クジラ笑った」に出てくる「散歩のおじいさん」みたいなものです。
この歌の彼女は、そういうおじいさんでなく、誠実な青年に出逢い、いつもそばにいて、一緒に夢をみます。ちょうどそう、このころの玉置さんや松井さんくらいの、若者の終盤期というか壮年の入り口あたりにいる、分別盛りの青年がいいでしょう。それくらいでなければ、彼女の心はあずかりきれないんですね、重くて。せめて30くらいにならないと自分のことで精一杯、周りのことも見えてないものですから。
そういうことのできるお年頃に達しているからこそ、「昨日までの思い出」も忘れるのでなく隠すのでもなく、分かち合うのです。もちろんそんな話は、往々にして余計な火種を持ち込むだけですから、慎重に持ち出さなければなりません(笑)。ああ、きっとこの人もいろいろあったんだろうけど、いま聴いても受け止めきれないな……という段階に、それを受け止められるほど愛したい、そういう「愛」が欲しいと思う瞬間があるものです。
「まぶしい風」につつまれる感覚は、キラキラのお年頃と、過去のいろいろなことを受け止めきれるお年頃の、ちょうど移行期に出逢ったふたりに特有の、気分の盛り上がりなのでしょう。ふたりはこれから、時を重ねて少しずつお互いのことを受け止め、不確かな未来を誓うのです。いつも君のそばにいるよと。これは、環状線で待ちぼうけになったりすり減ったリップスティックから誰かのKissを思いだすの?とか嫉妬したりしていた段階からは卒業し、明らかに大人になった男女のこれからを生きる歌なのです。だからこそ、「生きてゆく勇気を胸に抱いて」、刹那の感情に身を任せていた時期とは違い、数年、数十年とも知れない未来へ共に進む決意を示せるのです。
「ひろがる夢」は、大人になりつつある過程で、広がりつつもかなり現実的なものへと姿を変えてゆきます。だからきっと、ちょっとだけ叶うんです。叶えてあげられたという感覚が少しあるくらいには叶えられるんです。小さな小さな奇跡として、ふたりの人生に共通の痕跡を残します。それが今後ずっといつもそばにいることを確定させるものでは必ずしもないんですけども、人生というのは何も起こらない日々がメインですし、そのメインをこそ大事にしなければならないのはよくわかっていながらも、小さな奇跡が胸の奥でかすかな光を放っていて、たまにそれをちょっとのぞき見できるくらいにはしたいじゃないですか。
それにしても、90年代は胸の奥の思い出としてでしたけど、現代の男女は動画とかでスマートフォンに保存しておくんですかね。その感覚はちょっとついていけないなあ。そんなのうっかりネット上に流出とかしたら失踪モノですから(笑)、自分がVHSとかの時代でよかったなあとしみじみ思うのです。
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ファンクラブそんなにいるんですか。小さい市の人口くらいいますね。玉置市です。すげえなあ。
クルマはなんとなく覚えてますよ。カリーナでしたっけ。カリーナっていまでもあるんですかね?
でも我々は
音を出して楽しもう!とするほうにいますし、私は土壇場で昨年1回だけガーデンシアターをあとからチケットを取りまして、やっと観に行くくらいで充分です。
昨年のその公演はブルーレイで発売されるようです。萌黄色、プルシアンブルーがカッコよかったです。新しい若いドラムの方、頑張っていらして良い表情でドラム叩いてました。
いつも君のそばには、車のCMソングでした。私は何故か随分と前から苦手な採血や献血の時に無意識にこの歌のサビを心のなかで口ずさむ習性がついてしまいいつも唄っています。「いつも〜いつも〜シュー、シュー」
いつも君のそばにでした。
新曲の情報は……うーん、テレビラジオ雑誌新聞口コミですね。安全地帯の情報はクラスメイトとかから入ってくるわけはなかったので、自分で得るしかなかったです。ラジオで誰かがリクエストした「悲しみにさよなら」がかかって、DJが安全地帯新曲出るみたいですよーとかしゃべるというパターン、新曲情報だけ集めた雑誌を立ち読みで見るパターン、レコード屋のポスターやポップで知るパターンと、複合的だった気がします。わたくし北海道ですから、北海道新聞に記事が載って知るというパターンもありました。何せ当時は公式サイトとかないですからね。ファンクラブ会報がそれに一番近かったと思うのですが、わたくし入っておりませんでした‥…。何にせよ、レコード屋に並んでから知るというパターンも無かったわけではないですから、偶然に頼るか、かなり頑張るかしないと新曲情報を事前に知ることはできない時代だったといえるでしょう。
これがシングル曲っていうの初めて知りました!ちょっと思ったのですが、昔はネットとかなかったけど、新曲が出るっていう情報はどうやってみんな手に入れてたんでしょうか?歌番組とかかな?