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安全地帯・玉置浩二の音楽を語るブログ、管理人のトバです。安全地帯・玉置浩二の音楽こそが至高!と信じ続けて四十年くらい経ちました。よくそんなに信じられるものだと、自分でも驚きです。
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2021年07月11日

黄昏はまだ遠く


安全地帯VIII 太陽』十曲目、「黄昏はまだ遠く」です。

とうとうこの曲までたどり着きました……短い活動休止期間はあったものの、このアルバムを最後にもう安全地帯はなくなるんじゃないかと思わされた「あの」十年間を控えた『太陽』の、最後の曲です。実際にはこの後シングル「あの頃へ」「ひとりぼっちのエール」がリリースされてますし、アルバムも『アナザー・コレクション』や『ベスト2』のリリースがありましたから、しばらくは安全地帯がなくなったという感覚はなかったんですけど、長い活動休止期間中に、振り返るとあそこが終わりだったんだ……とわたくしが思える地点が、この「黄昏はまだ遠く」なのでした。それほど終わり感が高い曲で、その点ではあの「To me」ですら及ばないんじゃないかと思っております。

その「終わり感」は、おそらく、歌詞に表された様々な感情、たとえば、注ぐあてが見つからないのにまだ燃えたぎる情熱を心身のうちに抱えている感覚、夢や幸福を探し求め迷い続ける感覚、その中で、消えてゆく憧憬、手元には愛だけが残されたからそれをけっして失うまいと思う感覚、こうしたものを、歌う玉置さんだけでなく、メンバー全員が曲にたたきつけたような演奏によって生まれているのだと思います。

ビートルズの「The Long and Winding Road」は、厳密にはビートルズ最後の曲ではありませんが、あの曲に込められた思いがビートルズが終わったことを示していたと信じるわたくし、「黄昏はまだ遠く」は安全地帯の「The Long and Winding Road」だと思っております。なおその後ビートルズは『アビー・ロード』で本当に終わっちゃいますけど、安全地帯は戻ってきましたので、めでたしめでたしです。余談ではありますが、「The Long and Winding Road」にストリングスを付け加えられたとポールが不満だったというのは意外でした。めちゃくちゃ合ってるじゃないですか、ストリングス。『LET IT BE naked』で聴くことのできるストリングスなしバージョンは、わたくしにはどうもしっくりきません。まあ、こういうふうに作りたかったんならポールが不満だったのもわかるんだけどねえ、という感じです。

さて、曲はエレクトリックピアノのソロで、サビのフレーズを奏でるところから始まります。そのまま玉置さんのボーカル、六土さんのベースが入り、そして「ドス!」という田中さんのバスドラから、Bメロにはいるときにスネアが「バシ!」とリバーブたっぷりに響き、ギターのアルペジオで一気に盛り上げ、ストリングスをまじえたサビに入ります。サビはあっさり終わり、二番もだいたい一番と同じ……今度は最初からスネア、途中から薄いストリングスを入れて進みます。二度目のサビはあっさり終わらず二回繰り返し、そのまま間奏に向かいます。

この間奏ですが……わたくしこれ、安全地帯史上最高のギターソロだと思っております。とくに難しいことはしていないのですが、泣けて仕方ありません。「泣きのギターソロ」とはよくいいますけど、これほど泣けるソロは安全地帯史上どころかほかのアーティストまで入れてもお目にかかったことがないかもしれません。ときおりバックに響き渡る「シャリーン……」という武沢トーンも、安全地帯史上最高の悲しい響きです。この二人以外の音は基本的にごくごくシンプルです。「ドッ……ドドッ……ダン!」と響く田中さんのドラム、そのリズムにピッタリと合わせる六土さん、星さんのストリングスもごく薄く、ギターの二人を前に出そうとする意図が感じられます。矢萩さんの、ハーモニクスを入れたまるで嗚咽のようなとぎれとぎれのフレーズが、終盤に向かうにつれ旋律の形を成して最後におそらくディレイによる繰り返しフレーズまで、とてもなめらかとはいえない全体像を構築し整理のつかない感情を見事に表現してゆくのです……これは参ります。どうしてこういうソロを思いつくのでしょうか。もしかしてですが、こういう効果をはじめからねらって何回もアドリブで録り重ねてゆき、後からつなぎ合わせる……いや、それはごく普通の手法といや手法なんですが、安全地帯はフレーズを決定してからパーフェクトになるまでリハをして、ほぼ一発オーケーのレコーディングができるようにしているというわたくしの思い込みがあるものですから、こういう偶然に出来上がったのではないかと思われるソロに出会うと、(わたくしのもつ)安全地帯のイメージが混乱に陥るわけです。そのくらい、このソロはリアルな感情の動きに迫っています。この後玉置さんソロ時代でも矢萩さんはよくソロをお弾きになり、これと似た設計思想だと思われるソロもいくつか思いだされるわけですが、わたくしの思う矢萩さんのソロはどの曲よりも第一にこの「『黄昏はまだ遠く」なのです。逆にいうと、わたくしこのソロをもって矢萩さんのソロのノリというものを同定できるようになった(気がしている)といっても過言ではありません。

そしてソロは終わり、チェロっぽい低音の入るストリングスだけを伴奏にした玉置さんの多声レコーディングによるアカペラから、一気にフル構成のサビを一回だけ繰り返し、曲はアウトロに入っていきます。

このアウトロもハモリのツインギターで泣かせに来ます。間奏と違い、フル構成の伴奏に、歪んだ音でツインギターのハモリです。泣かないわけがありません。レコーディングではソロ担当バッキング担当で分業し、ソロ担当がツインのフレーズを両方レコーディングするという手法があって、そのほうが手間や時間を節約できることが多いのですが、このツインギターは矢萩さん武沢さんがお二人ともお弾きになったのではないかと思います。音で分かるとかそういう玄人っぽい判別をしたわけではなく……ただ、そうなんじゃないかと思ったのです。安全地帯というバンド、矢萩武沢というコンビならば、そういう効率を優先した手法を採るだろうか、効率を優先せざるを得なかった怒涛の『安全地帯V』を乗り越え、一度目の活動休止を経て再開した安全地帯が『夢の都』『太陽』のレコーディングで、そういう手法を採用するとはちょっと思えないのです。これはもう「ちょっと思えない」以上のことではないですし、多くの人にとってはどうでもいいことですので(笑)、わたくし強くそう思います!というだけの記述ですが、書かずにいられないわけなのです。ツインギターのハモリって難しいんですよ、レコーディングでキレイに合わせるのが。でもこの二人ならあっさりできるんじゃないか、と思うんですね。

歌詞に関しては上でもうある程度語っちゃったんですが、すこし書き足しておこうと思います。このとき安全地帯にとっては、バンドが終わるとき、そして「若者」である時期が終わるときが、重なってしまったのです。「黄昏」とは昼間の終りであり一日の終りを強くイメージさせますが、じつは24時まで「一日」はまだ続きます。あくまで、デイタイムの終りにすぎないといえばそうなんですが、それ以降を「晩」と呼びますから、人生でいえば晩年に入る直前ということになります。いや、そりゃまだ遠いでしょう、と思うんですが、これだけの全力疾走でデイタイムを突っ走ってきた安全地帯が終わるのですから、このあと爆睡していつのまにか24時を過ぎていたなんてことになりかねません。現場ではバンドの終りを誰もが感じていたこの時期に、松井さんは「黄昏まではまだまだだよ!」とメンバーに訴えかけたのではないかと思うのです。メンバーたちも、ここでバンドは終わることはわかっていたことでしょう。ですが、同時に「まだまだこれからだ」と気づかされ、自分を奮い立たせることになったのではないかと思います。

そして、若者である時代が終わる寂しさは、なにもメンバーでなくともわかります。これは、わたしたちリスナーに向けて作られた人生の応援歌でもあるのでしょう。わたくし当時の安全地帯リスナーの中ではかなり若輩でしたが、メインリスナー層はやはりメンバーたちとだいたい同時に若者時代の終わりを迎えていたのです。

「憧憬が消える」「信じてたもの」を泣きながら捜す、生きることに痛みを感じるようになる……ああ、こういうとき人は生命保険に入るのでしょう(笑)。生命保険が役に立つときっていうのは、究極死ぬ時ですから自分には役に立たないんです。誰かを残して死ななければならないリスクを受け容れられない立場になったとき、そのリスクを回避できるよう人は自分の命をカタに入れるのです。「めぐり逢うひとのあたたかさ」に感謝し、「愛」が与えてくれる人生の意味を確信しつつも、「終わらない夢」「駈けぬけるあこがれ」のような、もう一つの意味が消えてゆく感覚に苦しめられ、それを追いかけたくなる衝動さえ覚えるのです。ひらたくいえば生命保険は解約して家庭を放棄し、趣味人として生きることを決心する……しまったひらたくいい過ぎた!(笑)もちろん多くの人はそんなことしないんですけども、それでもすこし胸の痛みを覚えながら生きているんだと思うんです……あ、あれ、そんなの、わたくしだけです?しまった、わたくし友人とこういう人生の肝心なことを腹を割って語りながら酒を飲むとかそういう習慣がございませんもので、よくよく考えたら知らないで想像でしゃべっておりました。うーむ、わたくし、もしかしてものすごく寂しい人生を送っているんじゃないかと、我がことながらちょっと心配になってきました(笑)。

とうとうこの曲まで語ってしまいました……。弊ブログを始めたとき、全曲語るという気持ちではもちろんいたのですが、きっとこの曲まで語ったら満足するんだろうなあ、とはうすうす自分でも思っていたのです。もちろんここでブログをやめるということではなく全曲目指して今後も書き続ける所存ではありますが、それくらい、ここの区切りはわたくしにとって大きいものだったのです。十代の少年だったわたしは、この十年間で二十代後半になり、その間に多くの出会いと別れを繰り返し、大人に染まっていったのです。その間、安全地帯の音楽はつねに人生の教科書であり、支えであったのですから……。なお、約十年の時を経てリリースされた『安全地帯IX』の一曲目「スタートライン」を聴くその瞬間まで、この曲がわたくしにとって安全地帯ラストの曲でありましたから、この曲はいまだにわたくしの時をちょっと止めます。安全地帯が終わる瞬間を何度も何度も味わい、そしてしばし呆然とするのです。完全な後遺症です。この曲はいまだにいちアルバムのラスト曲ではないのです。

次は、アルバムリリースの順番でいえば玉置さんソロの『あこがれ』になります。もちろん「あの頃へ」や「ひとりぼっちのエール」のほうがリリースが早いんですけど、それらが収録されたアルバム『安全地帯ベスト2 〜ひとりぼっちのエール〜』は若干後になりますので、アルバムリリース時優先という弊ブログの方針上、後になります。この方針でいうと、「萠黄色のスナップ」とか「置き手紙」とかが「あの頃へ」「ひとりぼっちのエール」と同じ時期になるという怪奇現象が起こるんですけど(笑)、まあ、それも一興でしょう。

それではまた!

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2021年07月04日

朝の陽ざしに君がいて


安全地帯VIII 太陽』九曲目、「朝の陽ざしに君がいて」です。

素晴らしいバラードです……わたくし、勝手にこれを「夢のつづき」大人バージョンだと認定しております。「だれも」とボーカルから入るところ、アコギが伴奏の大きい部分を占めるアレンジであること、テンポが似通っていること、等々、似た箇所はいくらも挙げられるんですが、何より似ているのは、歌詞の世界です。夕暮れと朝の違いは、まあこの際おいておくとして(笑)。

曲はサビから入ります。「夢のつづき」よりも明るめの、ブライトなアコギの音で玉置さんの歌を支え、そして一番へと向かう間奏でドラム、ベース、明るめのシンセが入ります。

一番でも最初はアコギ一本、そしてかなり控えめなドラムとベース、そしてBメロ…とでも言うべき箇所でギターが二本になります。サビに入り、シンセが加わりドラムとベースの音数が増える……増えるといってもそんなに多くないですから、終始控えめな演奏になります。

二番のサビ前から、何か弦楽器……わたくしこれも詳しくないのですが、たぶんバイオリンだと思います、が入りますね。このあとずっと美しい音色と旋律を響かせてくれます。間奏では二本かそれ以上重ねられて、思わずうっとりしてしまいます。星さんのストリングスアレンジが美しすぎて、わたくし安全地帯活動休止期間中に他のどんなストリングスでもあまり満足できなくなってしまいました。どうしてくれるんです星さん!(笑)これは安全地帯の後遺症のひとつといっていいでしょう。

曲はサビを一回だけ繰り返した後、アウトロに向かっていきます。アウトロではエレキギターが主導し、美しいストリングスに支えられつつ、フェイドアウトしていきます。ふう美しい曲だった……と余韻に浸っているとすぐさま「黄昏はまだ遠く」の凛としたピアノに全神経を刺激され、まったく油断も隙もあったもんじゃないと思わされます。まったく、このアルバムはあまりの緊張感の連続で、こんな穏やかな歌を聴いていてさえ五秒後にはどうなるのかわからないという一抹の不安をぬぐえないという、とんでもない力作になっています。だからこそ、この後10年ほども安全地帯が活動していなくても、わたくしはずっと安全地帯を楽しんでいられたのだといってもいいくらいです。

さて歌詞です。愛しい人、これは恋人でもご夫人でもいいんですけども、そういう人の存在そのものが過去のいろいろを癒し、現在と未来を生きる勇気、そして幸福を与えてくれているということに気づき、そして感謝する歌であるというところが、「夢のつづき」と似ているのです。もちろん似ていて構いません、わたくし大好物ですから(笑)。前回の記事でヘビメタ野郎だった過去を大暴露しておきながら、こういう曲が好きでたまらないんだぜという白々しい記事を書くのもいかがなものかと思いますけども。

「ひとは一人で生きられない」と、若い人が言うと、きみ本当にわかってるの?と訊きたくなります。大人にそう言わされているんじゃないの?きみがそれを本当の意味で知るのはきっと、もっと後のことなんだよ……とお節介にも言いたくなります。しかし、おじさんがそういう気分になっているとき、おじさんは忘れているのです。自分もそれを本当にはまだわかっていないんじゃないかということを。

恋人ができ、そして恋人と別れ、しばらく一人でいることに慣れ、そしてまた恋人と出逢う……いつしか恋人は伴侶となり、子どもができ家を構え、もう一人で生きていくということがあんまり現実感のないイメージになった歳になっても、まだ本当の意味では「誰もひとりでいられない」ということをわかっていないのかもしれません。だって子どもはいずれ出ていくし(出ていかないと逆に困りますからいいんですけども)、夫婦だってどちらかが必ず先に死にますから。さすがに松井さんもそこまでは想定して書いていないでしょうから、きりのない話はこれくらいにするとしても、自分がほんとうにはわかっていないのかもしれないという心がけは必要でしょう。だから、この「誰もひとりでいられない」は、「ほんとにそういえる」にしても、「心からそう思っている」というより、「心からそうだと信じてる、信じられるんだ、君といると」という意思表明に近いものだとわたくし考えております。「出会ってまだ半年なのに、君といないともう寂しくってたまらないよ、ぼくたち結婚できないかい」とかいう段階はとっくの昔(『安全地帯V』とか)に何度も経験したであろう玉置さん世代の、オトナの歌ですからね。

「愛」はそっとやさしく「ふれてくる」という、なんという秀逸な表現!もう、あからさまなことばや行動は要らないのです。そんなの演技できるじゃないですか。ふとした瞬間にわかる、そうした感触があることに気がつく。ことばはいつだって記憶され、どんなとんでもないことばでも保存され、スナップ写真のように場面場面が蓄積されていきます。でも、こういう「ふれてくる」愛は、いつでも動的でうつろうものです。もちろん、ことばがあったっていいんです。無言のほうがブキミですから。ことばは添え物程度ってことでいいんじゃないですかね。旅行に行った思い出に添えるスナップ写真があるように。スナップ写真だけ撮りに行ったアリバイ旅行みたいなのだって同じ写真は撮れてしまいますけど、そんな旅行の思い出は面白くもなんともないものでしょう。だから、愛のことばに酔うのは程々にしておくのが無難ってもんです。「君」といる時間もまた、「好きな香り」を放つ花に似ていて、いつか消耗し消え去るものかもしれません。ですが、その記憶はことばによってではなく、「微笑み」というビジュアルの記憶によって場面場面の記憶とともに保存されている(刻まれている)のです。

「なんとなく呼ぶ」だけで「振り向いた君の瞳」には、そうしたことばでは語りつくせない、幸福になる、幸福にするということへの希望がつまっているのです……そう、とても自然に!年収600万はないとダメとか長男はイヤとか、そういうことでなくて、いやそういうことももちろん大事なんですけど(笑)、それはもうクリアしたか後で考えればいいことにしたとして。仕事が忙しいとか金がなくて困ってるとか見た目が派手だとか貧相だとか過去に騙されたとかいま警戒モードだとか、いろいろなことがそういう自然な性質を覆い隠し見えにくくしているだけで、人には自然にそういう幸福に向かう性質があって、それを見せてくれる、見せあえる人が現れた、そう気づいたときにこそ、ひとは一人でいられないとわかるのかもしれません。

「心に」花が咲く、いっけんこれは巧みな表現ではないかもしれません。えー安全地帯ってもっとこう、「鏡の疲れた背中」とか「手紙がいまだにあなた宛てにとどく」とか、そういう普通の人が気がつかない現象を鮮やかに切り取る系の歌詞じゃないの?と思うわけです。ですが、人間の幸福を求める性質が自然なものであればあるほど、「花が咲く」という自然現象によってしか喩えようがないものであるような気がしてきて、ここに松井さんの凄みを感じるのです。さらっとこういうシンプルな、だがおそろしく的確なことばを選んだ……これはもう、神業といってもいいかもしれません。「手のひらに春風が吹いてくる」のもシンプルでありながら、春風という自然現象でしか表現できない、わたしたちの心身の「自然」を表している、しかもそれが「いつか」なんです。「いつか」はいつなのかわかりません。真冬かもしれません。でも、「君」さえいれば、いつだって「春風」は吹いてくるのです。

日本語だとうまくなじむ言葉がありませんが、natureを辞書で引くと「自然」とか「性質」とか出てきます。自然と、その性質というものをあまり区別しないんですね。最初はこれがピンときません。日本語だと「自然」を森とか川とか山とか海とかそういう「もの」だとみなしているからです。試験管の中で起こっていることだって、大都会のビル風だって、みんな自然の仕組みに従って起こっていることなのに、わたしたちは「自然が失われた」とか言います。自然を「もの」だと思っているから、それがなくなったときに失われたと思うんですね。いい悪いではありません。西洋と日本とでは「自然」のとらえ方が違うというだけのことです。あ、いや、べつに英語の講釈をしたいわけではなく、この歌における松井さんの歌詞は、愛しい気持ちという人間の「自然」を、「花が咲く」とか「春風が吹いてくる」とか、そういう自然現象で比喩している、ということを言いたかっただけなのです。

ひとりでいられないことも、愛がそっとふれてくることも、それでさみしさが消されてゆくことも、すべては自然の仕組みに従っており、ひとは自然の仕組みに素直であればあるほど、それはムリをしないということでもあるのですが、穏やかな気持ちでいられるのでしょう。ムリをしまくり、肩に力をいれまくり、つま先立ちをしまくりやってきた20代は終わり、ひとは大人になることを受け容れていきます。そうしたときに巡りあえたおなじ波長の人をおだやかに「自然に」愛そうと思えた……「夢のつづき」の「つづき」とは、そんな大人の愛だったと、わたくしは思うのです。

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2021年06月27日

ジョンがくれたGUITAR


安全地帯VIII 太陽』八曲目、「ジョンがくれたGUITAR」です。

元ロック少年号泣必至の名曲!切れ味鋭いリズム隊とアコギで描かれる青春の日々!18のあの夏、ぼくたちはいっぱいの夢と、そして将来への不安を抱え、ギターを片手に仲間たちと、そしてまだ少女だった彼女と……泣けてきます。いや、ウソです(笑)、わたくしそんな健全なロック少年ではありませんでした。わたくし、当時はこんなロックをやっておりました。

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こんなんで、将来「大人になった彼女が微笑む」わけねーじゃんかよ!バカにしやがって!ちくしょう!(泣)

そんなわけでして、わたくし個人的にあんまり感情移入できないような気がしていたのですが、よくよく歌詞を読んでみますと、「彼女が微笑む」以外の箇所、つまり「長い髪がかっこよかった」とか「汚れたシャツ」とか、ショーウィンドウにギターがあってそれを見ていたとか、そういうところは見事に思い当たる節があるのです。ただ一点のみ!そこだけが合わない!なんという重大事でしょう、そこが一番肝心なのに(笑)。

モトリーとかハノイとか、そういうロックはもちろん流行っていましたが、それはなんというか、中学とかでうっかりバンドに興味をもち文化祭でボウイとかやってキャーキャー言われてそれで満足して飽きてしまったような人たちでない一隅(ズバリ、アチキです)の間で流行っているのであって、けっして教室中がモトリーの新譜の話題で持ち切りとか、やっぱマイケルモンロー最高にかっこいいわーシビれちゃう!とかいう女の子がたくさんいたとか、そういうことは起こっておりませんでした、全く、はい。それどころか高校内にはメンバーがおらず複数の高校のメンバーでしたもので文化祭に出るとかそういうこともなく、バンドマンであるという認知すらされていなかったと思われます。されたところで、なんかアブない音楽やってるブキミな人、という認識になったことでしょう。ダメだ―、もっと昼休みに校庭の木陰でアコギ弾いてチャゲアス歌うとか、そういうアピールしておくべきだった!チャゲアス一曲も知らないけど!(笑)

ちなみにこのたった数年後、今度は日本でビジュアル系ロックブームが起こり、モトリーとかハノイにちょっと近い(見た目の)ロックが流行りますけども、わたくしすこしも興味がありませんで、「紅」とかのギターをヘルプで弾く程度しかかかわっておりません。もしこのときに将来微笑む「彼女」が傍らにいたら、わたくしあまり詳しくありませんが、それはきっと「バンギャル」という種類の女性であるかと思われます。

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暗い!なんだか暗いぞ!どこで間違った俺!たぶん最初だ!(笑)きっとSHOW WINDOWになつかしく眠ってたGUITARもこんな感じのギターでしょう。

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ジョンは絶対こんなギターくれねえー(笑)。

アホな話はこれくらいにして、とりあえず「ジョン」はレノンですよね。フルシアンテとかペリーとか(それは「ジョー」だ!)ペトルーシとかなわけはありません。つまり、ビートルズのやジョンの活動を幼少期から少年期のころにリアルタイムで経験していて、90年代初期に大人になって彼女と一緒に街歩きをしていたら「おっこのギターは……」と思えるような世代の話であるわけです。わたくし、はじめから全然違うんですね。というか、この曲聴いたときまだ18になってませんでしたし。ですから、大人になったらこんな感じでこのショーウィンドウをみるのかもなーと思っていたものの、全然そうはならなかったわけです。シャツは汚れてましたが。

で、この曲ですが(ようやく本題)、けっこう難しいんですよ、16分でシャッフルというのは、聴くぶんにはノリがよくて心地いいんですけど、演奏するのはけっこうホネでして、それを三分弱とはいえこのペースで完走するのは慣れというか体力と注意力の配分ペースが求められます。ですから、安全地帯はもちろんこのくらいニコニコしながらやったことと思いますけど、少なくとも楽勝ではなかったことと思います。

ドラムは堅めの音で軽く、バッシン!ンシン!バッシン!ンシン!と駆け抜けます。ベースはどうも他の曲に比して音量が低くミックスされているんですが、「ブブー・ブブ・ブブー・ブブ」を基調として進み、サビのところで音程をすこし動かしながら「ブブー・ブブブ・ブブー・ブブブ」にリズムを変えているように思えます。アコギの曲でそうなりやすいんですが、アコギの低音弦の音に紛れてかなり聴き取りに自信がありません。ギターもアコギで「ジャ・ジャー・ジャジャ!ジャ・ジャー・ジャジャ!」を基調としつつ、エレキギターで細かくアオリを入れつつ、サビではアコギの低音弦で音程を少しずつ動かすアオリのトラックを入れているようです。アコギだからただジャカジャカ鳴らしているだけかと最初思ったのですが、どうしてどうして、なかなか再現難易度の高い複雑な編曲になっています。ライブですとこれにコーラスも入るんですから、息も抜けません。

この曲はイントロからとつぜんサビに入ります。泣きのメロディーで、わたくし初聴時からトリコになりました。ここまで「俺はどこか狂っているのかもしれない」「SEK'K'EN=GO」「エネルギー」と、変わり種曲が続いていましたから、やっと安全地帯「らしい」のが来た!と喜びました。もちろん今でもこの曲は好きなのですが、変わり種三曲もずいぶん好きになりましたので、初めのころのような対比感はもうほとんどありません。それがやや寂しくもあります。

構成の面でも事情は似ています。イントロ後「ジャ!」とキメが入り、AメロA'メロ、Bメロ、キメ、サビと、ごくごく普通な感じで構成されています。この後もあまり意外な展開はなく、「僕をしまってほしい」とちょっとフレーズを変えただけでサビを繰り返し、ふつうに終わります。非常にあっさりです。爽やかな曲調もあいまって、あっさり感がかなり高いものになっているのです。かなり技巧を凝らしたソースのコッテリ料理を連続で出されてきたあとのシャーベットのような感覚を味わうことができます。

そしてこの、アコギの澄んだ音といったら!トップは単板でしょとか弦はヘヴィゲージでしょとか、そういう次元でないですね。ギターももちろんいいものなんでしょうけど、なによりストロークの巧さこそがこの音を実現するのだと思います。安全地帯の三人(玉置さん矢萩さん武沢さん)なら、ギターでなくてバンジョーでもこの雰囲気を再現できるんじゃないかってくらいストロークが巧いんです。わたくしアコギも必要に応じて弾きますが、こんな音が出せたためしがありません。もちろん目指してますし、ギター屋さんで試奏して高めのギターで「ジャ!」とやって(「ジョンがくれたGUITAR」のキメ)、おおこの音は!と一瞬興奮するんですけど、それでもやっぱり違うんですよ。こんな澄んだ鋭い音は出ていないのです。そして、「いい音でしょう?いやこれ一本だけ入りましてねえ」とかおっしゃる店員さんに、「すみません修行して出直してきます……」と言いうなだれて帰ってゆくのです。金がなくて高いギターを買えない口実に使っているわけではけっしてありません(笑)。

さて歌詞ですが……「長い髪がかっこよかった」のは、70年代ですかね、みんな髪長かったです。ツェッペリンやパープルはもちろん、ビートルズだって長くしてましたし、西城秀樹さんとかも長かったです。俳優さんも長かったですねえ。これはもう、若者のブームだったのです。80年代になると、ハードロック、ヘヴィメタル界隈を除いてみなさんだんだん短くなっていきます。90年代ではもう絶滅危惧種です(笑)。ですから、「かっこよかった」と過去形になっているわけなんですね。いまはかっこよく思わないのです。

髪を伸ばして、あこがれのロックスターに近づきたかった少年時代、パンタロン履いてティアドロップのサングラスかけて……「彼女」も、福井ミカさんみたいなバンダナとかして、みんなで集まって音楽を楽しんでいた日々(安全地帯の合宿所は女人禁制でしたが)、もうあんな日はこないとわかっているのです。

ですが、あのころ憧れたギターは、まだ同じショーウィンドウに飾ってあった……たんに売れ残った?それとも一回売れて、持ち主が下取りに出した?いずれにしろ、強烈なデジャヴ感があります。ちょっとおっさんになった自分の顔が、あのころショーウィンドウに映っていた18の少年の顔に戻ったかのように、あのギターへのあこがれの表情、それは、そのギターをもつロックスターへのあこがれの表情でもあるのですが、まったく同じだったわけです。「ジョン」のギターといえば、アコギではD28、エレキだとリッケンバッカーかカジノでしょうかね、いずれにしろ18の少年に買えるシロモノではありません。だからこそ、あこがれはますます募ったのです。もちろん、「ジョン」はなにもレノンでなくても、少年にとってのあこがれのロックスターであればだれでもこの体験はできるでしょう。ペイジのレスポール、ブラックモアのストラトキャスター……今でこそ日本メーカーOEMの国内モノどころか、インドネシア産とかのそれらしい形をしたモノが一万円とかで買えてしまいますけど、当時はそんなものありませんでしたので、どんなに安くても当時の値段で五万円くらいの国内コピーモノを使わざるを得ませんでした。いつかはギブソン、いつかはフェンダーと思いつつ。

余談になりますけど、このころの国内コピーモノが「ジャパンヴィンテージ」とかいって妙に高い値段がついているようです。はあ?それってただの中古じゃないの?そんなこというならわたしのギターなんてほとんどジャパンヴィンテージ(のなりかけ)だよ?と訝しく思うのですが、ブームというものは全く不思議なもので、ほんとにわたくしのボロギターたちにもそれなりの値段が付くようです、驚きです(笑)。

18の少年は夢いっぱいで、「ぶつかるものを恐れもしない心」をもっていたのですが、大人になったいま、「ぶつかるもの」がどんなものか知ってしまったので、恐れまくりです。ですがそのギターを前にした今、表情はあの頃の、怖いもの知らずな顔に戻っていた……ああそうか、おれも大人になったんだな……としみじみ思うわけです。

そのギターがくれたときめき、夢は遠い日のものとなりました。玉置さんならその夢を叶えたといえるでしょうけども、多くの人はもう楽器も手放してしまい「ジャパン・ヴィンテージ」市場を賑わすことになっています。玉置さんも、すでに愛機・名機を購入したりエンドースされたりと、いろいろ入手してしまっているのでいまさらなんですが、ショーウィンドウにあったギターの前で、かつての夢やあこがれを一瞬思いだす、いま手に入れたら……もちろん買えるんです、でも、いらないんですよ。だって、あの頃に手に入れるのと、いま手に入れるのとではぜんぜん違うからです。いまだと、コレクションの一本にしかなりません。もしいまあの頃の少年だった自分に戻ってこのギターを手に入れられていたなら、一生モノのギターとなって、きっと別の音楽体験を積み、人生さえいまとは違ったものになっていたんじゃないか……と思えるんです。もしあの頃ハコスカが買えていたら、きっとおれは暴走族でイキリまくって、バイオレンスな人生を送っていたかもしれない……よかった、あの頃金がなくて、とまではいきませんが(笑)、こういうふうに物品との出会いが人生を変えることは起こっているはずなのです。

さて、そんな人生に、少年のころから伴走してきてくれた「彼女」、でもこの彼女、そんなロマンにはとんと興味がないのかもしれません。ふりむくとそこにいて、「どうしたの?」とニコニコしてる感じです。「あ、いや……」と言葉を濁します。10代のころ、あんなにあこがれたジョンのギターで、きっと当時彼女にも散々語っているはずなんですが、もちろん彼女はそんなことパーフェクトに聴き流していたので覚えているはずもなく(笑)、いまも足を止めた意味がよくわかっていないものと思われます。「うっそお!マジ?これってジョンのギターじゃない?いくら?〇万?買える買える!買っちゃいなよ!」とか一緒に18の笑顔になられたらそれはそれで怖いのでそれでいいんですけども、こういうちょっとした気持ちのすれ違いの「さびしさ」に僕を浸らせてほしいと、唇をかみしめ、しばしショーウィンドウの前にとどまるのです。

さて、後半の歌詞はちょっと謎なのです。大人になったらわかるかなと思っていましたが、1991年当時のメンバーの歳をとうに超えた今でもよくわかりません(笑)。「風のGAME」「消えてゆく幻」とは、普通に考えれば、そのミュージシャンへのあこがれなのだと思います。自分のなかにギリギリ残っていた音楽への情熱、これが完全に消えてしまう前に、さあ、買うんだ!(笑)と一念発起して、買ってしまったんだと思います。だって、そんなギターもう一品物で、逃すと二度と買えません。「あたたかい春の陽ざしがやさしくなるとき」まで、ちょっと山奥のダム工事現場に出稼ぎに行ってくる……だからこのギター、守っていてくれ……くらいの決心が必要な値札が付いていたのかもしれません。もちろん、玉置さんなら数百万の値段がついていてもさらっと買えちゃうんだとは思うんです。だから、ここの箇所はよくわかりませんでした。ですが、かりにこの主人公が玉置さんのような立場の人だったとしたら、きっと少年のころのあこがれのギターを手に入れて、もしかして少年時代のルーツを刺激に新しい創作意欲がバンバン湧いてきて、半年くらい曲作り合宿とかレコーディングとかに入る、ということが起こるのかもしれないなあ、と思えてきました。ですから、現時点では、わたくしのような人間だとダム現場に(笑)、玉置さんのような人だとスタジオに、「彼女」を置いて出かけることになるのかもなあ、とこの歌詞を解釈しています。そこまで大げさでなくても、ちょっとこれから何か月かこのギターに夢中になって、いろいろ昔を思い出して弾いたり語ったりする酔狂な感じになるけど、きっと春頃には覚めるから、それまで、ごめんね、大事な思い出なんだよ、くらいのことかもわかりませんけども。

そんなギターがあるなんてうらやましいなあ、と思います。わたくし、モトリーのギタリストがどんなギター使っていたかよくわかりません(笑)。高崎晃モデルほしいなあとかは思ってましたけど、いまはまったくほしくないので、やはりわたくしには縁のない世界のことだったようです。いいなあ……ギターみてたらふりむく街に大人になった彼女が微笑んでいて……(まだ言ってる)。

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2021年06月26日

エネルギー


安全地帯VIII 太陽』七曲目、「エネルギー」です。

たまーに安全地帯に出てくるボサノバっぽい曲ですね。たまに出てくるだけですので、安全地帯らしいか、らしくないかでいえば、らしくない曲……だと思っておりました。

しかし、よくよく振り返って考えてみますと、『安全地帯V』のころからブルースはやるわジャズはやるわと安全地帯はみずからのイメージを変え続けていたのにもかかわらず、「安全地帯らしい」というイメージが『安全地帯IV』のころで固まってしまっている自分にハッと気づかされるのです。ましてや『ALL I DO』におけるジャンル不明の変な曲、『安全地帯VII 夢の都』におけるオールドスタイルのロックンロール、この『安全地帯VIII 太陽』における民謡・ワールドミュージック等々によって、『安全地帯IV』までのイメージをことごとく自ら壊し進化してきた玉置さん・安全地帯ですから、もはや「安全地帯らしさ」はとっくにリニューアルされており、新しい次元に入っていたとみるべきでしょう。いや、わかる人というか変化に柔軟な人ならとっくの昔に気がついていたのだと思いますが、わたくし、30年も経ってから気づかされたことがいまさら多々あるのです。まるで、ソドムとゴモラの伝説は本当だったのではないか、なぜなら地層をみるとこの時期に死海近辺に硫黄を含んだ巨大隕石が衝突したと思われる痕跡があるからだ!とか、いったい何千年経ってんだよってことを言いだす研究者のような気分です(笑)。あ、いや、あれですよ、西洋では、日本人には計り知れない重要な意義があるんだと思います、そういう研究には。安全地帯マニアを自認するわたくしにとっても『安全地帯V』以降の変化は極めて重大事ですが、安全地帯に興味がある人以外にとっては非常にどうでもいいことであることによく似ています。

さてそんな神の奇蹟的なものを追いかけ続けるわたくし、この曲も、30年前の安全地帯に起こっていた変化をいまから遠く振り返ってその痕跡を……いや、そんなたいしたことはできないので、普段通り気がついたことを書き散らかすだけになるんですけど(笑)。だいたい、リアルタイムで体験していましたからね、わたくし。

曲は、ドラムのいわゆるエイトビートで始められます。歪みの少ないギターがそんなに難しくなさそうな(笑)刻みを主体としたフレーズで絡んでゆき、何やらシンセで出したらしきメインテーマが奏でられます。この裏で、ボン・ボボンと一定のリズムを刻むベース、クリーントーンでアオリ的アルペジオを入れるギター、とフル構成になるんですけども、リズムやメロディーを抜きにすると、なんだか「真夏のマリア」とか「マスカレード」的な、なつかしい安全地帯の黄金パターンであるようにも思えます。

歌に入り、やはりギターが細かい短音フレーズでボーカルを盛り上げます。これもかつての安全地帯によく見られた手法で……と書こうとして、該当する曲を探したのですが、あれ?どうもピッタリくる曲が見当たりません。しいていえば「眠れない隣人」とか「ブルーに泣いてる」なんですけど……どうも違う?もしかして新しいパターンなのかとも一瞬思いましたが、たぶんわたしが思いだせないだけでしょう。安全地帯「らしい」編曲です、とちょっとドキドキしながら書いておきます(笑)。Aメロのボーカルラインはあんまり泣かせる気はないんだろうな、と思えるようなメロディーですので、ここだけをもってわたくし安全地帯「らしくない」とみなしていたようです。

曲は何らの予感も抱かせずに突如リズムを変え、Bメロ的な展開に入ります。この展開、Bメロに行くためにはちょっとしたキメを入れてからのほうがいいよねとか、そういう余計なことを一切考えずにサラッと移行します。サラッとしすぎていて見事です。見事すぎて当時は頭が追い付きませんでした。えっ水彩画なのに絵具を水で溶かずに塗りつけちゃうの?下塗りは薄い色からとかそういうセオリーは無視ですか、みたいな天才の偉業を見せられたわたくし、早くも大混乱でした。そして武沢トーンの「シャーン!」でキメが入り、曲はまたイントロに戻ります。

AメロBメロときて、ここで武沢トーンの二拍子が「シャシャン!」とキメを入れます。うーむ!なんという美しさ!二拍子を入れる手法自体は「Lazy Daisy」ですでにあったんですけど、ムダに入れた変拍子的な感じはまったくなく、カッコよさキレのよさを抜群に表現しています。

そして曲はサビへ入ります。「愛だけがエネルギー」という、力強くも悲しいメッセージ性あることばが玉置さんによって当時のわたくしがハマった泣きのメロディーで語られます。ほかの部分はなんだか平坦なメロディーに聴こえていたのに、ここだけ「うおっ」と反応しました。いま思えば、おそらく他の箇所との対比でここの部分がとりわけ泣けるメロディに感じられたんだと思うんです。ここの部分を聴きたいがばかりにこの曲を何度もリピートしたものです。曲全体でなく、特定の箇所をお目当てに聴きまくるという不思議な体験でした。

そしてさらに曲は展開し、歌なしのBメロのようなフレーズを経て武沢トーン「シャリーン!」からさらにメロディアスな第二サビとでもいうべき箇所、つづけて「接近戦……ない……」という、もうなんというか、デモテープでは玉置さんがいつもの調子で唸りを入れていただけなんじゃないの?と思えるような音に言葉を当てたかのように思われるにフレーズに突入します。そして、ギターソロを伴う間奏なんですが、これも間奏というべきなのか、むしろ「ない……ない……」の箇所を間奏って言うべきなんじゃないのかと、もう頭の中に持っていた様式はグチャグチャです。そしてさらに武沢トーン「シャリーン!」を合図にしたかのように、「愛だけがエネルギー」、そして第二サビは繰り返さず、「どうせどうか……ない……ない……」と、もうやりたい放題です。まるで予想できません。

曲は唐突にイントロに戻り、玉置さんの「ない……ない……」をボイスチェンジャーで加工したような声と、軽く歪ませたギターのフレーズの区別がつきづらい、不思議な感覚を比較的長めのアウトロとして味わわせて、フェードアウトしていきます。

いやこれ!高度すぎでしょ!メタリカの『メタルジャスティス』だってこんなに複雑じゃないよ!とんでもない凝った構成です。どうやったらこんな構成ができるのか……たぶん、いつものことなんですが、パーツをつくってから構成を考えて組み合わせたんじゃないんでしょうね。玉置さん、たぶん一発とか二発でこれか、これに近いデモを弾き語りで作っちゃったんじゃないかと思います。即興で。そうでないとこんな自然なのに複雑な曲の展開にならないと思うんです。もちろん普通に考えればメンバーはたまったもんじゃないんですが、そこは何せ安全地帯ですから、きっと玉置さんのインプロヴィゼーションをリアルタイムに近く受信しつつ鉄壁のアンサンブルを生み出したに違いないのです。ここにこそ、この時期の安全地帯に顕著にみられる「変化」というか、もともと持っていた安全地帯のポテンシャルが、玉置さんの覚醒にも似たこの弾けっぷりによって引き出された奇蹟があると思われるのです。

さて歌詞ですが……安全地帯のテンション高い編曲・演奏と同じく、松井さんも玉置さんがマジでこう言ってるんじゃないかっていうリアルなことばを、抜群のリズム感覚で音に乗せてきます。

一番は男、理屈っぽい男になって禁欲……わかるようなわからないような!玉置さんだからリアルなのであって、わたくしちょっと経験が足りなすぎるようです(笑)。だいぶムリして語るとですね、マジで愛ってわかりっこないんですよ。気分のことなの?それとも行為のことなの?それともそういう「もの」とか「こと」でなくって、それらを形容することばなの?もしそうなら、「もの・こと」でないのだから、「ある」「ない」で語ることは初めからナンセンスで、気分なり行為なりの様態をそう形容するのにふさわしいかふさわしくないかってだけなんじゃないか……やや、もっとわかりっこないことになってしまいました!

二番は女、皮肉っぽい女になって愛欲はもういい……すみません、ぜんぜんわかりません!こちらは経験ゼロです!ですから、めちゃめちゃムリして想像するとですね、「夢」も愛に似て、あるとかないとかじゃないんですよ、様態なんです。だから心に描いていたような「気がする」様態にジャストフィットかそれに近いってことはほぼ起こらないわけなんです。「気がする」だけであって、描いてなどいないんです。だって、「もの・こと」でないものは具体像がありませんから、描きようがありません。ですが、「これじゃない」ことだけはわかるんですね。悲しいことに「どうもこうもない」のです。だから噓だってわかっているんですけど、それらしい幸せに浸ることにしなければならないのです。

だからKISSなんかせまってみたりルナティック(狂気)なふりをしたりと、いろいろやってみるんですが、ちっとも愛や夢で満たされた気分はしないわけです。相手がちゃんとそこにいるのに!そこにいる相手と、瞳と瞳で通じ合ってみたり敢えて肌にふれることを避けてみたりと、なんというか、隔靴掻痒な営みも愛やそれによって実現する夢の形であるには違いないのに、試さずにはいられないのです。そうしたって「これ」じゃないんじゃないか?という、どうにもならない疑念にさいなまれているからです。……ちくしょうラブラブじゃねえかよ、ふつうの愛にはもう飽きたってか?贅沢な!(笑)

なぜそんなに疑っているのか?なぜそんなに信じられないのか?きっと、「愛だけがエネルギー」だと、これだけはわかっているからなのでしょう。だからこそ、肌を合わせなくてもそこに「ある」のが愛だとすれば、きっとふたりは生きてゆけると、信じたからなのです。そう、「愛」がそこに「ある」ならば、「からみつく運命」だって問題ではないのです。それを解決するエネルギーは常に確保されるのです。

「接近戦」「延長戦」「感情戦」は単なる言葉遊びなんじゃないかと少し疑いたくなりますけど(笑)、これもふたりの距離感や交流がいかなる形態をとろうとも、「愛」がエネルギーをくれることを実感することさえできれば、これが愛なのだと信じられるような気がする、という、一種の検査、アセスメント方法なのでしょう。繰り返される「どう」「こう」「そう」「ない」は、どうあっても大丈夫だ、きっと大丈夫だ、だってそれは愛で、そこに「ある」んだから、ほら、エネルギーはどんどん生まれてくるよ……という、おいおい大丈夫かよ愛をそんなに弄ぶもんじゃないよ、と傍からは思わず心配になってしまうほどの切ない愛を描いているように思われるのです。だめだ、そんな愛、高度すぎて理解できねえー(笑)。ふつうに恋人は大事にしたほうがいいんじゃないかなー、と思います!

そんなわけで、わたくしの妄想がぜんぜん追いつく気配すらないほどのアクロバティックな恋愛を描いている歌でした。いや、完敗です。最近ラブソングが少なくて恋愛妄想が書けねえなー腕がなまっちまうぜとかいい気になっておりましたが、どうしてどうして、修行が足りません。

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2021年06月19日

SEK'K'EN=GO


安全地帯VIII 太陽』六曲目「SEK'K'EN=GO」です。

タイトルだけだと"LOVE セッカン DO IT"と同じくらい意味が分からないですね。「世間GO?」「席巻GO?」「石鹸GO?」歌詞カードをみるとすぐに「世間GO」だとわかるんですけども、「せけんごー」でなくて、「せっけんごー」って歌ってますよね。だから、タイトルはそれに近い表音にしたということなのでしょう。

ほとんど終始繰り返される全体のテーマともいえるギターの八分フレーズ(たぶん矢萩さん)、そして間奏での十六分の細かいシンセフレーズ、「WE ARE WE ARE」という祭礼での唱和のような暗いうなり、チャカポコチャカポコ鳴らされるなんらかの打楽器が、この曲全体のイメージを作っています。それに玉置さんの短いフレーズをどんどん重ねてゆくボーカル、武沢さんのサビでのカッティング、小節のシッポからアタマにかけて「ボキボキッ!……ボキボキッ!……」とアクセントを入れる六土さんのベース、響きの少ない乾いた音でそれらすべてを指揮者のように複雑にリードする田中さん(多分この人がいちばん苦労したと思います)が非常にロックっぽい幹を曲の真ん中に通している感じの、まさに意欲作というか、こんな曲世界中みてもなかったんじゃないのと思われる先進的な楽曲です。このアルバムにおけるもうひとつの「太陽」といってもいいでしょう。それくらい存在感のある曲です。

いきなり当時の所感ですが、お子ちゃまだったわたくし、そしてなにより80年代の耳と頭しかもっていないに等しかったわたくし、この曲の魅力はほんとにわかりませんでした。耳も頭もないんだからこの曲が響くわけがありません。アルバムをはじめて通して聴いているときなどは、もうこのへんで「またこういう曲か!そろそろ勘弁してくれ!どうしちゃったんだよ安全地帯!」と頭を抱えていたように思います。安全地帯の進化に追いつけなかったんです。子どもとはいえそれまでの音源はほぼ余さず聴いていたのですから、いっぱしの安全地帯マスターのような気分でいただけに挫折感は大きかったです。な、なんだこれついていけねえ……が正直な感想でした。年単位で聴き込むことで慣れて、そのうち快感に変わってくるという過程を経なければならなかったのです。もちろん今となっては「もう一つの太陽」と思うくらいですから、これでもこの曲の凄さと良さはわかっているつもりではあるのですが、まだまだこれからわかってくる過程にあるかもしれず、油断はできません。

さて、この曲は五分近い大曲ですし、歌詞の量も他曲の二倍くらいあります。どこからどう語るべきか、ちょっと悩みますね。さしあたり「TVショー」とか「慌ててひねる」ってちょっともう現代の感覚でないですから、その辺から搦め手で参りましょうか(笑)。

世界が「困ったモザイク」なのは現代でも同じなんですが、ようするに世界ではモザイク模様のようにあちこちでいろいろなことが、その熱量も濃淡さまざまに同時進行で起こっているわけです。「ひょうきん族」に勝って土曜八時戦争を制した「加トちゃんケンちゃん」もまた視聴率低下に苦しんでいたとかそういうどうでもいいことが日本のTVで起こっているかと思えば、北アフリカでは軍事政権のリーダーが威勢のいいことを言って大国を刺激しているとか、アラブではとある産油国が隣国に侵攻しているとか、ソビエト連邦でクーデターが起こったとかそれで日本に来たばっかりだったゴルバチョフが軟禁されたとか、そういうアチアチの事態も起こりました。そうかと思えば「ターミネーター2」が公開されて、劇場を出てくる人がみんな世界の平和を守るんだ的な顔をしていたりとかフレディー・マーキュリーが亡くなったと聞いて頭の中を「The Show must Go on」がグルグル流れたりとか、そういう文化的というか芸能ごとの世界でも、ちょっと一年で起こるには盛りだくさん過ぎるんじゃないのと思えるようなことが次々に起こりました。そうそう、長野五輪の開催が決定したのもこの年でしたね。ついつい、マジかよ?と思って夕刊を開いたり、まだボタン式でなく「つまみ」式の残っていたテレビのスイッチを入れたりして(つまみをひねって、そしてチャンネルを変えるためにもスイッチをひねり回して)情勢を確認したくなるようなことが起こったのです。いまだったらとりあえずGoogle Newsを開くような場面かもしれませんが当時はそんなものなかったので、ニュースが一番速いのはTVだったわけなのです。ニュースのロボットなのは当時も今もかもわかりませんが、そのニュースを速報でリリースするのが主にTVでした。

「世間」というものは実体がありませんので、その幻の像を作るのはマスコミとその視聴者という非常に単純な構図でした。TVが何かを流す、それを観ていた視聴者が周囲の人と共有する、その過程で印象や感想が多少の差こそあれなんとなく統一されてくる、みたいな感覚が当時あったのです。もちろん、これはインターネットを介してソースがいくつかに増えて構造が多少複雑になった現代でも、根本的な事情は変わりません。人間は影響され、そして幻の集団、「世間」をつくるのです。

世間はGOします。GOGOです。そして賛成も称賛もGOGO、非難もGOGOです(笑うところ)。そんなつまらないことに「GAMEの気分」ですし「朝から晩まで夢中」です。そして「どこからどこまでほんとかわからない」のも昔と変わりません。「トレンド」「ゴシップ」「コメント」という非常に自堕落で非生産的なものが、何かいいものであるかのように思われてくる情報社会なのです、いまも昔も。

ところで、これを覚えている人は間違いなく40代以上だと思いますが、湾岸戦争で多国籍軍に日本はもちろん参加せず(できず)、「お金を払えば済む」みたいな態度をとったと非難されたことがありました。バカ言ってんじゃないよ、おカネ稼ぐの大変なんだぞ、命を削って稼いでるんだぞ、その貴重な金を出したのに文句言われるってなんなんだよともちろん今なら思うんですけど、ギリギリバブル崩壊前だった日本は金持ち国だという認識が世界的にありましたから、金持ちが小金を出して日和ったみたいなイメージを持たれてしまったという報道がありました。その後バブルは崩壊しますし、ふんだりけったりです。

このように、松井さんのこの歌詞は、基本的な枠組みは現代でも通じるとは思うのですが、当時を知る人でなければ細部がよくわからないことになると思います。「真剣(勝負)をかわして」マジになるのカッコ悪いよねという態度をとることや、「学歴の差」?そんなの関係ねえーよ!という虚勢をはるのは現代でも似てますかね?当時の若者だったわたくし、たぶん現代の若者よりは学歴の差を気にする世代な気がしますし、現代の若者よりは真剣勝負を好む世代でもあると思いますから、「かわして」「めげない」が単なるポーズであるという本音がよりリアルに感じられるように思います。いまの若い人からみた私たちの世代(氷河期世代)って、その上下の世代に比べて学歴を気にしなかったり、真剣勝負にシラケているように見えますでしょうか?きっとたぶんそうじゃないですよね。当時は若かったですから、そういうポーズをとっていたにすぎないのになんとなく本気でそう思い込んでいたというだけのことです。ですから、松井さんに見透かされて、玉置さんのボーカルで喝破されてしまったというわけです。

曲はAメロBメロ、WE ARE WE ARE、またAメロBメロときて、サビに行きます。「破裂NIGHT」のところです。ここの、おそらく武沢さんのカッティング、猛烈にかっこいいですね。いや、もちろんロックでは標準的なカッティングなんですけども、武沢さんがやるとそのトーンとタイミングの切れについ耳がいくんです。玉置さんのボーカルが珍しく「NIGHT」「CRAZY DANCE」なんて英単語を使っていてもその従来との違和感などどうでもよくなるくらい武沢さんの音を追うのです。こうなるともう重度の武沢病といってもいいでしょう。

そしてシンセ16分フレーズの間奏が入ります。このとき、非常に地味なんですが、後半で武沢さんのカッティングワークが入ります。もっと音大きく入れればいいのに!そしてまたAメロBメロ、サビで、間奏に入ります。例の16分シンセフレーズがまた始まり、今度は音量充分で矢萩さんソロが、武沢さんカッティングとともに響きます。このふたつの間奏がけっこうなボリュームがあって、この後の落ちサビ、そしてWE ARE WE ARE〜DANCE DANCEで終わる曲と一体化してゆく様は見事な構成美を見せられた!と感動させられます。

これだけ皮肉の効いた歌詞に、この見事な演奏と曲の構成、これはまさに当時の安全地帯でなければ成し得ない曲であって、そして当時のモザイク世相があってはじめて曲全体のイメージが成立するという、いってみれば世界全体を舞台とした劇場……いや、当時の安全地帯が石原さんとの恋愛物語であって日本全国のうわさやゴシップまで含んだ壮大な劇場装置だという話はだいぶ前に書いた気がしますが、この時代の安全地帯は、恋愛に限らぬさまざまな人間模様を世界スケールで表現する劇場装置へと変わっていったとでもいうべきでしょうか、ともかく、恋愛劇場に取り残されていた当時のわたしには理解できるものではなかったように思われるのです。

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2021年06月06日

俺はどこか狂っているのかもしれない


安全地帯VIII 太陽』五曲目、「俺はどこか狂っているのかもしれない」です。

内容も文字数も衝撃的なタイトルです。これがシングルのカップリングとして曲名がシングル盤のジャケットに印刷されていたんですから、かなり攻めてるんですけども、攻めたから売れるとは限らない……何ィ!あの安全地帯が「俺はどこか狂っているのかもしれない」だとォ?いったいどんな曲なんだ?これは聴かねば!とはなりそうもありませんから、もちろん売れるための仕掛けではなかったことでしょう。わたくしの友人などは「最近玉置は陽水病にかかってるな」などと言っていましたが、陽水さんにもここまで攻めたスタイルの曲はなかったと思います。ちなみに1991年当時、その陽水さんは「少年時代」で大ヒットを飛ばしています。

安全地帯の必殺技、遠くから響いてきて粘っこく絡みついてくる矢萩さんのギターで始まり、武沢さんの「ジャッ!ジャキーン!ジャッ!ジャキーン!」というカミソリストロークで空間を切り刻みます。六土さんの歪みを押さえたベースがそのリズムを下支えし、田中さんのドラムが、早め早めのスネアで、しかし決して先走らず絶妙のスピード感を維持します。こりゃまさに安全地帯の王道アンサンブル手法です。曲調がぜんぜん従来の王道安全地帯のそれではないだけです。ほかに、イントロ等で聴かれるシンセが「ココココーン(ココーンココーンココーン、とディレイ)…」と入ってますね。とても印象的です。

そしてこの曲は、以前どこかの記事で書いたのですが、安全地帯が当時(1992年でしょうね)お正月特番か何かに出たときに、三曲ばかりライブやったんですよ。この曲はその一曲でした。よりによってこの曲を?と不思議に思った記憶があります。うすーい記憶ですが、そのとき武沢さんが使っていたギターがいつものターナーでなくてストラトだったのが驚きであるとともにちょっとうれしかったです。わたくしストラト使いですから。

武沢さんがターナー以外で演奏するのも異常事態といえば異常事態だったわけですが、なにより異常だったのはこの曲調です。なにしろメロディーが泣かせに来る気ゼロ!「すげぇ」とか言ってるし!「デリカシー」の攻撃的・先鋭的な個所だけ強調して恋愛要素を完全に廃したかのような、もはや安全地帯に人々が求めるものをワザと外したんじゃないかと思われる演奏と歌詞の内容です。そもそも、安全地帯がとんでもない腕の立つロックバンドだということはまだまだ認知を得ていませんでした。多くの人々にとっては、玉置さんが渋くて、やたらめったらロマンチックな曲をやるバンド、という立ち位置だったのです。ですから、この曲の魅力がすぐに理解されることはかなり難しかったといっていいでしょう。当時このアルバムを買った人16万人強と、その人たちから借りて聴いた人や店でレンタルした人がどのくらいいたかわかりませんが、まあ数百万人ってところでしょうかね、その人たちのうちでこの魅力に気づく人たちだけに訴えかけるという戦略になってしまっています。まあ安全地帯は、セールス的にはもう頂点極めたことがありますから、セールスはある程度どうでもよくて新しい方向に進もう、自分たちの好きな音楽をやりたいようにやろうという意図が多少なりともあったのかもしれません。

それにしても「俺はどこか狂っているのかもしれない」なんて!玉置さん何言ってんの?ですよね。『幸せになるために生まれてきたんだから』では、志田さんが当時の玉置さんの、ほんとうに狂わんばかりの苦悩を推し量っていろいろお書きになっているんですけども、すごく要約すると、好きな音楽をやりたい、でもそうすると売れない、そもそもバブルが崩壊して世の中全体に低調だから仕事があんまりない、売れなくて仕事がないとギスギスしてくる、その直前期に売れ過ぎたことで心身の疲労が蓄積しすぎていたという要素が絡んで仕事のリズムが狂う、といったようなことなんです。これは、バブルとその崩壊を経験した世代で、さらにその影響をモロに受けたことのある人でないと想像しにくいかもしれません。わたしも当時学生でしたから、知っているといや知ってるけど、厳密にはちょっと年上の人たちの話ですね。ですから、その辛さは本当にはわからないのです。金なんてなければないでどうにかなるじゃん、どうなったってバンドはできるじゃん、と、どこかで思ってしまいます。でも、それはデフレ時代の省エネな生き方を若いころから強いられてきた世代の考え方で、それでは到底実現できない活動のスケールというものを想像する器量と、その中にいた人たちの実存というものへのリスペクトが決定的に欠けているわけです。高校生が来月から月100円の小遣いでなんとかしろって言われるようなもので、ジュースも買えねえよ!彼女とマックにもいけねえじゃねえか!え?公園で散歩して水飲めばいいって?あ、あのなあ……と思うに決まってるじゃないですか。うーむ、どうもたとえまでスケールが小さくていけません(笑)。省エネ世代ですから、わたくし。

何はともあれ、狂ってるんじゃないのかと自分で心配になるほどの苦悩を抱えていた玉置さんと、その心情を推し量って歌詞を書いた松井さんですが、その見事な表現力で当時の世相と人間の悲しさを浮き彫りにしてくれています。「財テク」なんてことばいま通じるんですかね。「イタリアもの」がカッコいいって感覚ももう今はもうないんじゃないでしょうか。イタリア料理は「イタメシ」といってオシャレフード扱いでしたし、F1ではフェラーリがしばらく最高の成績を残し続けます。「なんとかーノ」とか「なんとかンチ」みたいなブランドが服飾の世界にはあふれていました。わたしがコナカとかで買ってたツルシの背広ですら「なんとかンチ」で、「イタリアものじゃない?これ」とか言っていました。外車はさすがにランボルギーニとかフェラーリに乗っている人はほとんどいませんでしたが、BMWをレンタカーで借りて恋人を迎えに行くくらいのことはしてたご時世です。人間関係つっぱるんですよ。いまだと「バブル世代はこれだからイヤだねえ」という評価が相場ってものでしょう。SPEED早すぎていまどころか過去もよく見えてませんでした。ランニングと縞パンツのまま朝飯で飯食った茶碗にお湯入れて沢庵とかボリボリやってる生活なのに、そのあとなんとかンチに着替えて花束買って外車借りて恋人を迎えに行くんですからそのギャップの凄まじさといったら、SPEEDが早すぎるどころか時空を超えたかのようです。

そんな、いまからみるとある種滑稽な光景の中ででしたが、それでも真剣だったんですよ。「君は」誰かを傷つけてたかもしれない……「君は」本気で恋をしてたかもしれない……「君は」誠実だと思われてたかもしれない……あれ、よくみると「君は」ばっかりじゃん!「俺」はどこに行ったんだよタイトル詐欺だ!いやいやいや、たぶんそうではなくてですね、俺も君も、狂ってるんじゃないかと思えるくらい、世の中ぜんぶがちぐはぐに見えたってことなんです。何が正しいとか何をしておけば安心とか何が標準的だとか、そういうことが異様に気になるようになったんですよ。たまたまわたくしがその時期多感な発達段階でそういうことを気にするようになっただっただけという可能性もなくはないですが、松本ちえこさんの「恋人試験」みたいな歌詞が刺さる時代なんです。あれ、それは70年代だったかも(自爆)。

狂気と正気というものはきっちり線が引けるものでは本来なくて同じ線上にあって、いくつかの線の上をみんな段階的に移行しています。そしてまあおおむねこのへんを正気、このへんから先を狂気ってことにしましょうと、なんとなく世間的に了解しています。アメリカ精神医学会によるDSM(診断マニュアルの一種)をちらっとでも覗いてみるとその内容に驚かされることでしょう。こんなことまで!という「症例」がてんこもりで、この世にこれらに一つも当てはまらない人なんていないんじゃないの?と思うほどです。わたしもあなたも、「俺」も「君」も、どこか狂っているのかもしれないし、どこも狂ってないのかもしれない……などと、わけのわからないことを考えさせられます。ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』のように、狂気と正気の境界はあいまいなのに、その扱いを片方に属するほう(とされるほう)が一方的にキッパリと決めるというこの社会が、とてもあやういものであることに気がつかされます……。

「だんだん本当のことをやっていきたくなった」という玉置さんの叫び(『幸せになるために生まれてきたんだから』より)は、「独裁者にだけはなれそうもない」というやさしさと、「見果てぬ夢しか憧れられない」という激しさの間に埋没していきます。ですから、この曲でさえ、ほんとうは玉置さんの「ほんとうのこと」よりはメンバーに配慮したもの、リスナーに寄せたものであるのかもしれません。その「ほんとうのこと」は、もしかしてわたしたちが狂気と呼ぶ域にあるのかもしれませんが、玉置さんはそれをよく自覚していて、「ほんとうのこと」ができていないと感じるギリギリの作品を生み出していきます。そんな中途半端な状況に置かれた玉置さんの辛さがにじみ出た曲と、それを代弁する松井さんの詞、それを支えるしかないメンバーたちの演奏が織りなす苦悩の渦は、いかばかり深かったことかと、想像するだに胸が苦しくなります。

仕事がそんな調子であるだけでなく、プライベートでも息苦しい思いは消えません。「君が好き」で、抱きしめても、正気と狂気に二分しようとする世間、それが「飾り物のウソ」と「ほんとうのこと」とを隔てる壁のように機能し、まるで曇りガラスの向こうにいる相手と歯切れの悪いことばで会話しているような嘘くささしか感じられず「真実味」がない……。「笑わせて」とお願いして何か気の利いたことを言ってもらっても、もうぜんぜん面白くない、自分の感性が狂気と見まごうような域に達してヒリヒリしているときには、ごくごくつまらないダジャレのような陳腐さしか感じられない……。これでは薬師丸さんも苦労されたんだなあと思えてきました。

曲は、一本調子に思えて、じつは結構バリエーションに満ちていて、約三分程度であるこの短めの曲を駆け抜けます。「さみしさに 惑わされて」と、お?Bメロに入るのかと思いきや、また「ジャッ!ジャキーン!ジャッ!ジャキーン!」と武沢さんのカミソリが炸裂し、あれまだAメロなのかなと思わせ、「ギュイーン!」とブレイクを置きます。なんというスピード感!同じパターンで「君に詫びるも」と始まり、ああはい、また「ギューン」とブレイク入れてAメロでしょと思っていたら曲は一気にスローダウンして「オーオオーオーオーオ」と朗々と玉置さんが歌うパートに入ります。まるで先を予想させる気がありません。

二番でも「君が好きでも」と始まり、ハイハイまた「オーオー」ねと思っていたら一気にテンポアップ、「街はにぎやかな蜃気楼〜つっぱろう〜SAY HELLO〜」と韻を踏みまくりのサビに突入します。キャッチーでありつつ、おそろしく攻撃的で、「ほほえんでさよなら〜」的なサビを望む人たちを拒絶するかのような、強いメッセージをグイグイと示してきます。そしてまたスローダウン、アルペジオで間奏に入ります。これは卑怯です。まだこっちは「最後に勝ちたいそうだろう」を消化できてないのにまた曲想が変わったよ!残像が残りすぎて曲想の変化についていけないよ!と思っていたら、またAメロのスピーディーなリフが始まります。「いまはいまだと逃げちまうしかない」と、永遠の真実を求めつつもそれの叶わぬ有限なる身を嘆く……というより達観したかのような諦念を吐き捨てて、曲は次のBメロ的な個所で突然に終わるのです。うーむ!最初から最後まで展開を予想できませんでした。いや、いまなら覚えてますからできますけど、それは予想したって言いませんよね。初聴ではまずムリです。当時ももちろんできていなかったと思います。

これはひとえに、あまり金のない学生だったから一回買ったCDは超ヘビーローテーションだったことと、このアルバムが10年もの間最新アルバムであったことによります。覚えてしまったんですね、体で。もはや一つひとつのフレーズが口をついて出てくるほどに染みついています。ここまで聴いたのでなければ、この曲を語る気になれるところまで好きになれたか……ちょっと自信ありません。ですが今となっては大好きな曲ですから、このブログを立ち上げてからというものこのアルバムが一番好きだとおっしゃる方や、このアルバムが最高傑作だと思うとおっしゃる方たちの存在を知ることができて、ほんとうにうれしく思ったものです。ここまで玉置さんが、そして安全地帯が苦しんで生み出したアルバムの、その一つの象徴であるこうした曲の路線が、「狂っているのかもしれない」という苦悩を受け止めることのできる人々のもとに時を超えて届いていたのだ、そしていまこうして、その感動を分かち合えるんだと、知ることができたのです。

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2021年05月29日

いつも君のそばに


安全地帯VIII 太陽』四曲目、「いつも君のそばに」です。先行シングルで、カップリングは「俺はどこか狂っているのかもしれない」でした。

六土さんのベースと、何やらボイス系のシンセを背景にハモニカ的な音でメインテーマが奏でられます。そして一気にドラムとギターが入り、「情熱」のイントロでも用いられたようなキラキラ系のシンセ音がリードを奏でます。いきなりシンセ多用で、シンプル路線を突っ走った前作『夢の都』からやや従来路線に回帰したのかと思わせるサウンドです。「Seaside Go Go」くらいシンプルなのを聴いて驚きさめやらぬ1991年のわたくし(買い遅れて1992年でしたが)、安全地帯はこの先どこまでシンプルになっていくのかと正直心配しておりました。いっぽうこの曲では、「マスカレード」的ギターが細かいフレーズをずっと刻み続けており、安全地帯はこうでなくっちゃなと、従来のリスナーを安心させる「普通の」シングル曲になっていました。

いま思えば、「太陽」のような強烈な曲をこそシングルにすべきだったと、傍からは思えます。ベスト的なものしか聴かない層にとって、この時代の代表曲は『BEST2』に収録されたこの「いつも君のそばに」と「朝の陽ざしに君がいて」でしょう。違うんだ!このころの安全地帯は、『太陽』とか『SEK'K'EN=GO』とかの一種狂気じみたスリリングソングと、「花咲く丘」「黄昏はまだ遠く」とかの信じがたいほどの切ない慟哭ソングが同居する危険地帯なんだよ!「いつも君のそばに」とか「朝の陽ざしに君がいて」みたいな曲を期待してこのアルバム買ったら、中毒者になる二割くらいの人以外はみんな逃げちゃうよ!と思うくらい、この「いつも君のそばに」は普通の曲です。ああ、安全地帯もずいぶん大人になったねえ、わたしたちも年をとったなあ、なんて呑気に酒場でプロ―モーションビデオを観るくらいのものでしょう。

とまあ、印象はこのようにごく「普通」のシングル曲なのですが、さすが円熟期のバンドとしての側面をもつ安全地帯(実態は危険地帯)、よくよく作り込まれた力作になっています。そして、これは一見気づきにくい安全地帯の変化を示すものなのですが、こんなやさしく穏やかなラブソングがかつての安全地帯シングルにあったでしょうか。「じれったい」とか「好きさ」みたいな、もっともっとカモン!的な激しい系か、「碧い瞳のエリス」とか「悲しみにさよなら」的な、ラブラブのくせに何か悲しがってる悲愴系か、「Friend」とか「月に濡れたふたり」みたいなやっちまった終わった系か、とにかく修羅場でないことが珍しいバンドでしたから、こんな穏やかな気持ちで二人で過ごしていこう安心しておくれ的ソングは、のちの玉置さんソロ「太陽になる時が来たんだ」くらいまで思いつかないレベルの穏やかさです。まあ、さかのぼれば「萌黄色のスナップ」とかありますけど。そんな、一見普通ではありますが、安全地帯の歴史上決して普通ではない穏やかソングです。

さて、歌に入り、細かく刻むギター(たぶん武沢さん)と、比較的大きめの音符でアルペジオ的に流すギター(たぶん矢萩さん)のコンビネーションで、うっとりさせてきます。「微笑みに乾杯」のときのような、やるせなさが感じられない、やる気に満ち溢れた黄金コンビ復活といった趣です。

BメロらしきBメロはなく、いわゆるAダッシュメロのままサビに突入するんですが、ここでシンセが追加されただけでなく、「カカカカカンカカ……」と何か打楽器が細かく打たれていますね。ギターの音と溶け込んでいますんで気をつけないと聴き逃すんですけど、気がつくとその音ばかりを追ってしまう、なんだか中毒性のある音です。

曲はまたキラキラのシンセを擁するイントロフレーズに戻り、AメロAダッシュメロサビを繰り返します。そして、こういうのを大サビというのかラスサビというのか、業界用語は難しいですねえ、繰り返しになりますがAメロBメロって言い方自体がおかしい(本人たちのリハーサル譜をみないとAもBもない)ので何の意味もない言及の仕方なんですけども、ともかくここだけのフレーズが挿入されます。

またまたシンプルなイントロフレーズ、そして曲はサビを繰り返して終わります。従来にもごくたまにあったことですが、この曲はアウトロが一分も続き、美しいストリングスのメロディーを流麗なギターコンビネーションの響く中で聴かせてくれます。この、安全地帯にたまにあるやけに長いアウトロの解釈はいろいろありうるんでしょうけども、星さんのストリングスが美しすぎたんでもう少し聴いていたくなるねとメンバーが思ったか、あるいは、ギターのコンビネーションがあまりに心地いいのでもうしばらく続けることにして、そこに星さんが美しいストリングスを重ねたか……「いつも君のそばにいるよ」が、無言のまま「いつまでも君のそばにいるよ」に醸成・変化してゆく効果をねらったか……ありとあらゆる解釈が成立しそうで楽しい箇所でもあります。のちの「ひとりぼっちのエール」もむやみにアウトロが長いのですが、不思議と自然で、いつまでラララやってんねん!とは腹が立たない秘密がここに隠されていそうです。まだまだ研究ですね。

さて歌詞ですが……松井さんが安全地帯に向けて送ったエールであるという仮説はいったん置いておくとして、ここは素直に男女のラブソングとして考えてみましょう。だってこのアルバム、すげえ少ないですよ!普通のラブソング!たまに語ったっていいじゃないですか!もうかつてのテンションで書ける自信がすっかりなくなるくらい遠ざかってますけども。

ある夢をひとりで見ている女性に出逢います。その時点でかなり限定されたシチュエーションですけども。彼女は夢を追い、傷つき、その過程において恋愛的な何かでも失意を味わい、結果として「ひとりで」遠い夢を見ることになってしまうのです。これまた限定的な!もうわたくし自信がなくていけません(笑)。かつてはアメリカでダンサーになるとかわけのわからない妄想を自信たっぷりに書き散らかしていたというのに。

夢はですね、どんな夢かわかりませんけど、ひとりが二人になれば、達成までの道のりは一気に半分になったような気がするものです。ほんとうは全然そんなことはなくて結局は一人で追うことになるんですけども、誰かが伴走してくれているという事実はとても心強いものなのです。いかりや長介がみていた夢は、荒井注という伴走者がいてこそ達成に近づいたのでしょう。ですが、二人がみていた夢は実は違うものでした。結果として荒井は脱退し、いかりやは一人で夢を追うことになったのです。荒井が脱退して代わりに入ったのが志村だったのですが、志村はもっと別な夢を持っていたのでしょう。いかりやの夢は……ああ、いかんいかん、男女のラブソングとして話すんだった(笑)。

その挫折は「さみしい心」として、誰にも話せないまま、彼女は失意に沈んでいます。そういうさみしい心っていうのはなかなか話しづらいことで、話すときはそれこそ「心をあずける」くらいの気持ちで話してくれるんだと思うんです。だから、そういう話をきいたときにはわたくしはけっして他言しませんし、受け取ったものを忘れたふりなどしません。あずけてくれたぶん、ちゃんと守ります。話したそうだったら聴きますし、話しづらいことを聴きたいふりもしません。ただ、聴いて、守ればいいんです。そういう人間だと見込んでくれたのですから、ただ自然に、期待を裏切らなければいいんです。わたくし、矢萩さんの「クジラ笑った」に出てくる「散歩のおじいさん」みたいなものです。

この歌の彼女は、そういうおじいさんでなく、誠実な青年に出逢い、いつもそばにいて、一緒に夢をみます。ちょうどそう、このころの玉置さんや松井さんくらいの、若者の終盤期というか壮年の入り口あたりにいる、分別盛りの青年がいいでしょう。それくらいでなければ、彼女の心はあずかりきれないんですね、重くて。せめて30くらいにならないと自分のことで精一杯、周りのことも見えてないものですから。

そういうことのできるお年頃に達しているからこそ、「昨日までの思い出」も忘れるのでなく隠すのでもなく、分かち合うのです。もちろんそんな話は、往々にして余計な火種を持ち込むだけですから、慎重に持ち出さなければなりません(笑)。ああ、きっとこの人もいろいろあったんだろうけど、いま聴いても受け止めきれないな……という段階に、それを受け止められるほど愛したい、そういう「愛」が欲しいと思う瞬間があるものです。

「まぶしい風」につつまれる感覚は、キラキラのお年頃と、過去のいろいろなことを受け止めきれるお年頃の、ちょうど移行期に出逢ったふたりに特有の、気分の盛り上がりなのでしょう。ふたりはこれから、時を重ねて少しずつお互いのことを受け止め、不確かな未来を誓うのです。いつも君のそばにいるよと。これは、環状線で待ちぼうけになったりすり減ったリップスティックから誰かのKissを思いだすの?とか嫉妬したりしていた段階からは卒業し、明らかに大人になった男女のこれからを生きる歌なのです。だからこそ、「生きてゆく勇気を胸に抱いて」、刹那の感情に身を任せていた時期とは違い、数年、数十年とも知れない未来へ共に進む決意を示せるのです。

「ひろがる夢」は、大人になりつつある過程で、広がりつつもかなり現実的なものへと姿を変えてゆきます。だからきっと、ちょっとだけ叶うんです。叶えてあげられたという感覚が少しあるくらいには叶えられるんです。小さな小さな奇跡として、ふたりの人生に共通の痕跡を残します。それが今後ずっといつもそばにいることを確定させるものでは必ずしもないんですけども、人生というのは何も起こらない日々がメインですし、そのメインをこそ大事にしなければならないのはよくわかっていながらも、小さな奇跡が胸の奥でかすかな光を放っていて、たまにそれをちょっとのぞき見できるくらいにはしたいじゃないですか。

それにしても、90年代は胸の奥の思い出としてでしたけど、現代の男女は動画とかでスマートフォンに保存しておくんですかね。その感覚はちょっとついていけないなあ。そんなのうっかりネット上に流出とかしたら失踪モノですから(笑)、自分がVHSとかの時代でよかったなあとしみじみ思うのです。

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2021年05月22日

花咲く丘


安全地帯VIII 太陽』三曲目「花咲く丘」です。

「はなー」といきなりボーカルが始まり、「なー」に併せて深めのシンセ、そしてベース、アルペジオのアコースティックギターが始まります。これは、サビでアコースティックギターがストロークになること、そしてピアノ的な鍵盤が加わり、間奏以後にはドラムが加わる以外には大きな変化なく曲が終わるまでこの構成で進みます。このほかには、わたしの耳がある程度たしかならの話ですが、ギターはだんだんアルペジオの音数を増やしていますし、音もだんだん大きくなるようにミックスされていると思います。

このように、あっさり書いてしまいますけども、これ、大型のスピーカー、そう、最低でも300Wとかですね、そういうコンサート用のやつで聴いてみたら驚くほど臨場感が感じられるんですけども、ゾクゾクゾクッとくるんですよ。だんだんギターが大きくなってくるところに、このストリングスのシンセ、ズシーン!バシャーン!というドラムが絡んでくるのですが、そこに玉置さんの残響音たっぷりのボーカルが思い切り前に出てくるようにミックスされているんですが、思わず失禁しそうになります(笑)。これはわたくし安全地帯のコンサートでこの曲を聴いたときに、なんだこの感覚は!と驚いたんですが、それを再現したくて機材をフル活用してやってみたわけです。そうそうそう、こんな感じだった(かも!)と、悦に入ってピクピクしているんですね。傍からみるとどうみても変態です。

志田歩さんは「どうしようもない寂しさを感じさせる」(『幸せになるために生まれてきたんだから』より)とこの曲を評しています。わたくし、ピクピクと寂しさに酔っていたことになるわけですが……

なにせ花咲く丘も、小さな鳥も、静かな森も、手を振る君も、みんな「My Dream」なのです。でも「夢じゃない」「わかってる」のですから、それらはあるといえばあるのです。ですが、「こんなに遠くにいる」のですから、簡単には手の届かないくらい距離やら時間やらが離れているわけです。

『安全地帯V』までノリノリだった安全地帯が(玉置さんは石原さんのことでそれどころじゃなかった時期がありますけども)、一旦休憩してソロ活動等を行い、リフレッシュしたところで再集結、元気いっぱいの『安全地帯VII 夢の都』をリリース、余勢をかってリリースしたこのアルバムですが、その頃にはバブル崩壊により世の中のムードが暗転、激減する仕事、設立したマネジメント事務所ミュージカル・ファーマーズも空転、玉置さんの嫌いな打ち込み音楽の時代が到来と、「とにかく変わり目だった」と玉置さんが述べるように(『幸せになるために生まれてきたんだから』より)、音楽性を変える要素がありまくりの状況が安全地帯を襲います。「故郷に帰りたくなった」「本当のこと」(音楽)「をやっていきたくなった」等々といった玉置さんの願望は願望のまま、安全地帯は崩壊への階段を駆け上がらざるを得ない状況に追い込まれてゆきます。

この数年後にリリースされた玉置さんのソロアルバムに含まれていた「花咲く土手」「カリント工場」「ダンボール」「蜜柑箱」といったイメージは、きっと、遠くにあったMy Dreamなのでしょう。傷つき、倒れ、立ち直る過程でやっと形にしたMy Dreamはあれほどまでに素朴で寂しいものだったのだと何年も後に知って誰もが涙をこぼすという、結果的にそういうとんでもない仕掛けになったわけだったのでした……。そりゃ、これは安全地帯ではできない……少なくとも、「じれったい」からわずか三年とかの安全地帯にはムリだ……と、あれから三十年も経った現代でさえわかるのに、当時はだれも想像もできないことだったのです。ただ一人、玉置さんの心情を察し続けてきた松井さんを除いては。その松井さんだって、さすがにハッキリとは見えてなかったと思いますけども。

「あふれる涙」は頬をつたっていないため見えません。でも泣いているのです。「伝える声」は空気を振動させていないため伝わりません。でも発しているのです。まだ形にならないMy Dreamたちを思い、そして表現したくて、玉置さんの心は震えっぱなしだったのでしょう。そして残念ながら当然のように、安全地帯は徐々に機能不全を起こしていきます。

「何処まで行くの」……きっと崩壊まで……「どうして行くの」……わからない、でも行くしかないだろう?ほかに道なんてないんだ。「あきらめないで」……大丈夫だよ、きっと、なんとかなるさ……「生命を守りたい」……そうだね……すべてが終わったあときっと君は、花咲く丘で手を振るんだ。そしてぼくはそんな君をみて微笑むんだ、だから約束だよ、あきらめないで!

なんでしょう、わたくし、渾身のエモ文章を書いてネタにしようと企んでいたのですが、書いていて自分で少し泣けてきましたよ(笑)。

するとこのMy Dreamは、玉置さんのやりたい音楽という意味と、松井さんが思っていた安全地帯・玉置さんの将来像という意味の、二つの意味があったんじゃないかと思えてきました。松井さんにとっては、いったんバラバラになった安全地帯がまた復活し、こうしてまた一緒に活動をしていて、これは夢なんじゃないかと思えるくらいうれしいことなんだけども、何か違う、何かが遠い、ギリギリの綱渡りをしているような緊張感が現場を支配していて、これはいずれ破綻する……と暗い予感ばかりなわけです。だからこそ、玉置さんがほんとうにやりたかったけれどもできない音楽と、松井さんが焦がれるナイスな活動、それはどこにあるのかわからないくらい当時の安全地帯からは遠いものだったわけですが、それをMy Dreamと呼んだのではないかと思えるのです。

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2021年05月16日

太陽


安全地帯VIII 太陽』二曲目、タイトルナンバー「太陽」です。すみません、更新期間が空きました。この曲難しいんですよ。そんなこと言ったらこのアルバムぜんぶ難しいんですけども。

ディレイの効いたギターが遠くから、その旋律を絡めながら近づいてきます。そして「ア〜イ〜」という声にならない声が、そして和太鼓を思わせるリズムが「シャリーン!パララ〜」という定番の武沢クリーンのギターとともに「ズンタタッタッタ……ズンタタッタッタ……」と始まります。おおよそロックバンドの操るリズムではないですので何事かと驚かれた人もいることでしょう。わたくしですか?もちろんひっくり返りましたとも、三十年も前に。

当時、珍しくこのアルバムを貸してくれという級友がいたので貸してみたところ、「二曲めがなんか、アフリカの民族音楽っぽくていいね」という感想を寄せられて、こいつはなんと適応が早いんだ!と驚いたのを覚えています。安全地帯のアルバムを貸してなんていう人は、「悲しみにさよなら」とか「Friend」みたいなのを期待しているライトリスナーに決まっているだろと決めつけていたわたくし、反省しきりでした。そうか、これはそういう楽しみ方をするアルバムだったのか、とそこで気づかされたのです。

そして抑揚の大きくはないボーカルとコーラス、緊張感あふれるリフを刻むアコギ、節目節目に「ボキボキッ」と合いの手を入れるかのようなベース、そして通常のキットでこの音は出せないんじゃないと思われる音を忙しく鳴らすドラム、どれもこれも従来の安全地帯からは予想できないサウンドなんですが、かといって安全地帯以外にこの音を出せるバンドがほかに思いつかないという、唯一無二の安全地帯サウンドを展開します。

Bメロに入り、高音のシンセが足され、玉置さんのボーカルの抑揚が大きくなります。いま聴くとなんというメロディアスさでしょうか!「燃え上がる〜」も「子どもたち〜」も、ここしかないというラインをウリウリと攻めてきます。もうサディスティックなんだから!このどS!と顔を赤らめたくなるほどの徹底ぶりです。

「ジャ!サジッ!」とリズムを切って、曲はいきなりサビに入ります。コーラスを伴う、なんじゃこりゃ!というボーカルラインです。これ、一緒に歌おうと思ったこともなかったのですが、わたくし記事を書こうと思い立ってはじめてCDにあわせて歌ってみることを決意いたしました。ムリでした(笑)。舌がよじれてカタ結びになるんじゃないかと思うくらい試みましたが、どういう舌の動きしてんだ!と驚くばかりなのです。

「アーアア・アアアアア・イー」なんじゃないかと思うんですが……仮にこれで聴きとりが正しいとして、「アアアアア」の五連符がムリです。後半は「アーアア・アアアアアア・アーア・アーアア・アアアアア・アーアアア」だと思いますが、六連符はさらにムリです。ゆっくりでもできませんでした。そういや『幸せになるために生まれてきたんだから』で玉置さんの御祖母堂がたいへん歌のうまい秋田民謡の人で、玉置さんはそれを幼少のころから近くで聴いてマネしていたと書いてあったと思うのですが、それが「太陽」サビのもとになった……というのは、同本にはみつけられなかったのでなにかTVでご本人が話しているのを聞いたんだと思うんですけど、民謡の節回しなんですね、ようは。彼が「民族音楽みたい」といったのは、まさに当たっていたわけです。アフリカではないですけど。それをいうならわたくしのバアちゃんだって江差追分の先生だったのですが、わたしには少しも受け継がれていないのは、ひとえに才能の差というやつなのでしょう(笑)。

歌は二番に入り、アレンジには一番と違ったところは見当たらないんですが、サビの後で聴くAメロBメロは深刻さ切実さが違いますね。「涙さえ枯れるほど心から祈る」とか、マジで太陽に祈っている雨乞の儀式を思わせます。

怒涛の「アアアアア」が終わり、静寂の間奏……リズムと、アコギのストローク、エレキギターのハーモニクス、うすいコーラスだけの、音数としては決して多くないスッキリした音なんですが、とんでもない含蓄がありそうで息をのみます。神楽の幕間なんじゃないか、鬼が熱湯の入った柄杓もって飛び出てくるんじゃないか、といった緊張感にあふれる「無用の用」を音で表現してしまった間奏になっています。ジョン・ケージ?いや、あれはちょっと違う……お好きな方、楽譜もありますので、どうぞ!

そして曲はメロディアスなBメロと「アアアアア」のサビを繰り返し、フェードアウトしていきます。いつもいつも同じ話で恐縮なんですがわたくしフェードアウトは原則嫌いです。ですが、これは夜通し続く祈りの場から、自分がそっと立ち去った感覚があるため、あそこではいつも祈りが行われているんだという空間の感覚さえ与えられるように思えて、フェードアウトこそが最善の選択だと思えるのです。

手塚治虫の『火の鳥 太陽編』を読んだのが、ちょうど30年ほど前で、このアルバムを聴いていた時期にあたります。『太陽編』は古代と近未来の宗教戦争の話がクロスしながら話が進む構成になっているのですが、壬申の乱を勝ち抜いた大海人皇子が太陽神を信じることにしたというくだりがあるのです。土着の神々の支持を得て、仏教を推し進めてきた政権側の、心ならずも代表になってしまった大友皇子を倒したという宗教戦争の勝者になったにもかかわらず、あっさり土着の神々でなく太陽神(大日如来?)に帰依するのですから、これでは土着の神々も信仰の自由を安堵はされたものの、何か複雑な面が残ったことでしょう。

「燃え上がる太陽」は、まさに唯一神とすら呼べるレベルの存在感をもっていますが、わたしたちが逢いたいのは「幸せにしてくれる神様」なんです。太陽は別に意志なんて持ってなさそうに思えますから、わたしたちの幸不幸にはまるきりニュートラルでしょう。それに対して、仏は(『太陽編』では)信賞必罰的な態度で服従を強いてきますので、まあ、場合によっては幸せにしてくれそうです。土着の神々も、人を不幸にする気はあんまりなさそうに描かれていますから、まあ、どちらかといえば私たちを幸せにしてくれる側でもあるでしょう。ですが、いずれも太陽神のパワーと存在感には圧倒されます。わたしたちは、圧倒的なパワーと存在感には憧れますし畏怖の感情をもちますが、それでも「信仰する」わけではありません。「ひとりでは生きられない」からこそ、人間味のある交わりと精神的作用をもたらす神を求めます。ですから「太陽に手をのば」したって、求める相手が違うのです。ですが、それでもわたしたちは太陽を信じるのです。

「なつかしい母の歌」は、もう聴くことができません。まだ年若く娘さんのようだった母は、ピアノを弾いて歌ってくれたものです。あれならまた聴きたいものだなと一瞬思わなくもないのですが、それはもはやいまの母には不可能でしょうし、べつに再現してくれとも思いません。あれは思い出の中にあるだけでいいのです。

「消えてゆく物語」は、記憶がありませんが、自分が親になってわかりました。子どもは、たわいもないお話を求めるのです。ですから、その場で思いついたような即席のお話がいくつも生み出されます。即席ですのでかなり浅くてどうでもいい話が大半ですから、話した本人も聴いた子どもも端から忘れていきます。それは「母の歌」と同じくらい儚く、脆いものだったのです。

「母の歌」も「消えてゆく物語」も、そして幼少のころに森羅万象の中に潜んでいるように思えた八百万の神々も、わたしたちが大人になるにつれて、その存在感を薄め、やがて意識の中から消えていきます。ですが、「太陽はどんなときも輝いて」(これは別の歌ですが)、幼少のころと変わらぬ、「いつまでも変わらない愛」のような存在感を保ちつづけるのです。さすが大海人皇子が骨肉の権力闘争と宗教戦争の果てに帰依しただけのことはあります(笑)。

わたしたちが「日本古来の」と感じるものの多くは、おそらくは江戸期に形成されたもので、比較的近年のものが大半でしょう。玉置さんの御祖母堂が歌っておられた民謡も、この曲が連想させる和太鼓のようなリズムも、おそらくは江戸期の産物なのであって、そんな壬申とか仏教がどうとかの時期からの文化ではないのでしょう。ですが、「母の歌」が遥かな昔のものであるかのように思えるのと同様に、この曲も太古の昔から受け継がれてきたエトスのようなものを感じさせるのです。そしてその太古の昔から、太陽はわたしたちを同じように照らしそこに在りつづけてきたのだと、とんでもないスケールで悠久のストーリーを感じさせるわけです。安全地帯史上最高のエポックメイキングな傑作といっていいでしょう。

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2021年04月03日

1991年からの警告


安全地帯VIII 太陽』一曲目、「1991年からの警告」です。

政治とか外交とは難しいものでして、バランスを崩すとこの歌が警告するようなことがあっさり起こります。何せ外国ですから、こちらのコントロールなど効かないということをよくよく承知・覚悟していなければなりません。1991年からの警告発表からちょうど30年を経て、冷戦終了後から新たな国際的緊張のただなかにステージを進めた現在、この曲は一気にわたくしの中でとてつもない名曲にランクインすることになりました。

さて、曲は前小節末尾から引き続いているようなベースで始まりますので、いきなり「あれ?」とリズムに乗り損ないそうになりますが、「SIREN」のようなシンセが規則的に鳴り響きますし、すぐにドラムも始まりますので、「おっととと……ほい、ほい!よし!」という感じでついていくことができます。スキー場のリフト乗り場で、よく見ないでちょっと早く腰を下ろしたら尾骶骨あたりにリフトがゴツンとあたり、「あたたた!お、よっとと!」って感じで無事に搭乗できたような感覚です。痛い腰をさすっていたらストックを落下させてしまうのもお約束でしょう。

さてその六土さんベース、素晴らしい音色で「ブ・ブ・ブブ!ブ・ンボ・ブ!ボボボボ」等と繰り返す単調なもので、ちっとも快活でも爽快でもありません。不穏で、陰鬱です。いやそれがカッコいいんですけども、これまでの安全地帯のイメージを大いに裏切るものだったです。なんか、『夢の都』あたりから同じことばっかり書いているような気がしますが(笑)、とにかく転換期だったのです。これは当時売れなくても仕方ありません。わたくしこのアルバムが安全地帯の最高傑作だと思っておりますし、同じように感じていらっしゃるリスナーも多く後世の評価が極めて高いのですから、転換は見事に成功していたんですけども、その成功は当時ではわたくし含め多くの人にはわからなかったのです。

「フン〜ウウーン〜」とうめくように歌う玉置さんの声がイントロから響き、すぐに歌本編に入ります。ささやくように、しかしはっきりと、自分たちに直接的責任のあるわけではない政治的不均衡によりもたらされた絶望的な状況を歌います、淡々と。時折「OH 狂おしく〜」等の、また抑制の効いたシャウトが、その切実なやりきれなさを表現します。かつて安全地帯といえば惚れたはれたしか視界に入れないようなとことんロマンチックな歌詞を、とろけるように情熱的なボーカルで歌っていたものですが、そんな日々はとっくに去っており、国家とか政治とか世界に組み込まれた人生というどうしようもない縛りの中で、それでもタフに人を愛するという姿勢を表現するようになっていたのでした。そういう姿勢、すでにわたくし大好物になってはおりますが、そりゃそんなに売れないよね(笑)。この曲、このアルバムが聴き捨てられずいまこうして名盤の地位を確立しているのは、ひとえにこのアルバムが十年間も最新作であり続けたために、わたくしのようなしつこいリスナーが何百何千回も聴いたことと、さらには、新しい、若い世代がこの音楽的クオリティの高さをその敏感なアンテナで感知したことによるものなのでしょう。

さてギターは、矢萩さんの深い歪みと武沢トーンによるアルペジオ&シャリーン!ストロークの組み合わせでいつもどおり、というか過去最高のキレとコンビネーションで曲を彩ります。間奏の矢萩さんによる「ガーッ!ガッガー!」というリフ弾きと、その末尾に「シャリーン」と響く武沢ストロークの組み合わせは、失神しそうになるほどにカッコいいです。この二人はほんとうに、誘惑だろうが色情爆発だろうが修羅場恋愛だろうが国際政治緊張だろうが一切変わらず、いつでも職人の音色とコンビネーションを聴かせ続けてくれるのです。

田中さんのドラムなんですが……わたくしの耳は相変わらずポンコツですのでぜんぜんあてにはならないんですけども、どうもテンポが一定でないように聴こえます。具体的には、Bメロから「SIREN SIRENが鳴り響く」のとこになったばかりの箇所になると少し速くなってるんじゃないかと思います。フレージングでそう聴こえるだけなのか?曲の展開がスリリングすぎて聴感上そう感じるだけなのか……機械で測ってみればハッキリするんでしょうけど、それはしないでおきたい気分です。いずれにしろバンドの演奏はパーフェクトにあっていますし、かりにそこだけ速いのだとしても、それは田中さんがリズム感が狂ったわけではありえませんから、安全地帯が意図的にそうしたのだと思います。ならば、バンドの意図として聴くだけのことだからです。

かつてはこのように、各パートの特徴を思いついたことだけ書き散らかしたあと、じっくり歌詞の解説というか妄想大会というか、そんなものを書くのが当ブログ記事の通例だったのですが、もうなんか……妄想が思いつきませんね、シリアスすぎて。そんなことではいけないと、一生懸命キーボードをたたくのですが、安全地帯リスナーの世界を盛り上げるというわたくしのささやかな野望に反するくらいダメな妄想を書き連ねては、Back Spaceキーを連打しております。スマホ(Android)でいうと「←」です。iPhoneはわかりません(笑)。なんと中途半端な変化への対応!さすがに一太郎とかはもう使っておりませんが、だんだんと時代に取り残されてゆくのを実感する日々です。

さて「ボタン」が押されたとき、わたしたちはリアルの生活を営んでますから、いきなりそれを脅かされるわけです。それこそメロドラマ見て「いかしたKiss」に「うひょー」とか言ってるそのときに、SIRENはあっさり鳴り響きます。果たせると思っていた「果たせない未来」、「愛しつづけたい」君、「やわらかい肌」に、「感情までのプログラム」ですら、みんなみんな、わたしたちは続けていけると思い込んでいたにすぎないと、一気に目が覚めてしまいます。安全地帯のこの曲が発表された当時、この曲が提示する詞の世界は、わたくしにはやや「心配しすぎじゃないの?」という感じでした。だって、「Lonely Far」の記事で申し上げたようにベルリンの壁は壊れてますし、冷戦も終わりつつあったのですよ。松井さん新聞とかあんまり読まない派なのかなと思ったほどです(笑)。

『北斗の拳』におけるケンとユリアがそうであったように、そんな状況でも男女は惹かれ合い愛し合います。世界が明日滅ぶかもしれないのに、自分たちは明日の朝日をみられないかもしれないのに、そんな中でも人はタフに愛を紡いでゆくのです。あのころ、1999年7の月にどうせ世界は滅ぶから恋愛とかしないでいたのさ、ぼくは愛するものをつくって悲しみをこれ以上地球に増やしたくないんだフフフ……とか悲愴な余裕ぶっこいていたお兄さんたちは、いま何をしているんでしょう。ちょっと背筋が寒くなりますが、それもこれも、タフに人を愛し、かつ、運よくホッとできる場所がまだ地球上に残ることに成功していたからです。それはたまたまラッキーだったというだけで、何かのきっかけであのお兄さんたちが正しかった未来があったのかもしれません。

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