<福島城内堀土塁>
こちらの画像は福島市内で撮影しました。奥は小学校の校舎、手前の盛り土は福島城の土塁堀跡です。
土塁は、川から水を引き込んだ内堀に沿って設けられていましたが、今は街中から消しました。ですから、ごく一部とはいえこうして残っていることは貴重なことです。
同じく、土塁とセツトの内堀も埋められてしまい、今はその姿を確認することはできません。
ただし
そのなごりを感じることはできます。
<土塁の西側>
先ほどの土塁の西側。城の内側からみて、土塁の向こう側です。なにやら木製の板が張りつめられていますが…
この雰囲気…怪しい…
<暗渠>あんきょ
蓋が掛けられていて分かりにくいですが、これは明らかに水路です。いわゆる暗渠です。
当時の縄張りから判断して、ここは明らかに水堀の跡です。城が取り壊されたあと、堀が水路に転用されている例は珍しくありません。ここもきっとそうだったのでしょう。
<縄張り図>
こちらは阿武隈川沿いに設置されていた国土交通省福島河川国道事務所による案内板の一部を拡大したものです。中央(二の丸)のやや左側に、大手門と記されています。小学校の東側です。その付近から左(西)へ向かってのびる土塁と堀は、途中で下方向(南側)に向きを変えます。これがまさに、今回訪問した場所と一致します。
縄張り図にある堀の全てというわけではありませんが、少なくとも小学校付近の短い区間は、水の通り路として今も活かされていることは間違いありません。
学校脇の道路と校庭の間の細長い道。コンクリ蓋の場合が多いですが、木製というところがいいですね(個人的に)。
ということで
やや曖昧さも含みながら、福島城の内堀土塁跡と、内堀跡にひっそりと設けられた暗渠のご紹介でした。
<暗渠と城跡>
堀跡の暗渠に気付くことは、城のなごりに気づくのと同じです。ですから、暗渠に気付くアンテナがあると、都市化されてしまった城跡の探索が一層楽しくなります。
そんな感覚を共有できれば幸いです。
拙ブログに訪問頂き、ありがとうございました。
■訪問:福島城内堀土塁跡
(福島第一小学校)
[福島県福島市杉妻町]1-24
お城巡りランキング
■参考及び出典:
・Wikipedia:2024/8/3
・現地説明板「福島城と土塁」
(福島市・福島教育委員会)
・現地説明板「隈畔周辺の歴史」
(国土交通省福島河川国道事務所)
2024年08月03日
失われた城の残存土塁(福島城)
遺構はほぼ無いと思っていた福島城跡で、見事な土塁跡を見ることができました。
<土塁跡>
福島城跡の大半はいま福島県庁になっています。この土塁は県庁西庁舎の南側。阿武隈川に面した駐車場付近です。ありがたいことに、説明板も設置されています。
<説明板>
説明文によれば、城が現役の時は阿武隈川にまで達する土塁が設けられており、この土塁跡はその一部のようです。
実は、訪問は今回で二度目です。言い訳になりますが、あまり予習をしないで訪問したため、小学校の敷地で偶然みつけた土塁を、福島城唯一の遺構と受け止め退散してしまいました。最近になって今回訪問の土塁の存在を知り、改めて訪問しました。まぁ福島市内、他にも見どころはたくさんありますので、満足な再訪となりました。
<城だった証>
これも福島城のなごり
■訪問:福島城
(福島県庁西庁舎南側)
[ 福島県福島市杉妻町 ]
お城巡りランキング
■参考:
・現地説明板
(福島市観光コンベンション協会)
・Wikipedia:2024/8/3
・福島市HP
地図から探る城下町・福島
>福島城下散策マップ
https://www.city.fukushima.fukushima.jp/bunka-kyodo/fureai/jokamachi/fureai07-01/index.html
-----------( 追 記 )-----------
最初の訪問記です。とりあえず行ってみたという程度の内容ですが、よかったら覗いてみてください。
<福島城本丸跡>
■投稿:2018年09月04日
■タイトル:福島城のなごり
→『記事へすすむ』
<土塁跡>
福島城跡の大半はいま福島県庁になっています。この土塁は県庁西庁舎の南側。阿武隈川に面した駐車場付近です。ありがたいことに、説明板も設置されています。
<説明板>
説明文によれば、城が現役の時は阿武隈川にまで達する土塁が設けられており、この土塁跡はその一部のようです。
実は、訪問は今回で二度目です。言い訳になりますが、あまり予習をしないで訪問したため、小学校の敷地で偶然みつけた土塁を、福島城唯一の遺構と受け止め退散してしまいました。最近になって今回訪問の土塁の存在を知り、改めて訪問しました。まぁ福島市内、他にも見どころはたくさんありますので、満足な再訪となりました。
<城だった証>
これも福島城のなごり
■訪問:福島城
(福島県庁西庁舎南側)
[ 福島県福島市杉妻町 ]
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■参考:
・現地説明板
(福島市観光コンベンション協会)
・Wikipedia:2024/8/3
・福島市HP
地図から探る城下町・福島
>福島城下散策マップ
https://www.city.fukushima.fukushima.jp/bunka-kyodo/fureai/jokamachi/fureai07-01/index.html
-----------( 追 記 )-----------
最初の訪問記です。とりあえず行ってみたという程度の内容ですが、よかったら覗いてみてください。
<福島城本丸跡>
■投稿:2018年09月04日
■タイトル:福島城のなごり
→『記事へすすむ』
タグ:福島
2024年08月01日
前田慶次ゆかりの資料館(米沢市)宮坂考古館
米沢市の宮坂考古館を訪問しました。
<宮坂考古館>
宮坂考古館には、初代館長が長年かけて収集した米沢ゆかりの貴重な資料、甲冑や火縄銃といった文化財が収蔵されています。
<公益財団法人>
郷土史の研究に熱心だった館長は、旧米沢藩の文化財が、散り散りになったまま行方がわからなくなることを惜しみ、その収集と保存に力を尽くしたそうです。個人で始めた資料館は、いまは公益財団法人となっています。
<考古館入口>
その集大成を、我々は見学することができるわけです。
<前田慶次>
実は、訪問は初めてではありません。「花の慶次」のファンである私は、慶次所用と伝わる甲冑を見るために、過去に何度かお邪魔させて頂いています。
<宮坂考古館冊子>
受付で頂いた冊子。やはり表紙は前田慶次の甲冑。展示品はそれだけではありませんが、やはり慶次の甲冑見たさに訪問する人は多いようです。
館内は撮影できませんので、冊子に掲載されている甲冑だけでもご紹介させて頂きます。
<冊子裏面を撮影>
左から
伝 上杉謙信所用・伝 上杉景勝所用
伝 直江兼続所用・伝 前田慶次所用
詳細は宮坂考古館のホームページに掲載されています。ここでは、前田慶次の分だけもう少し具体的にご紹介させて頂きます。
朱漆塗 紫絲素掛威 五枚胴具足
しゅうるしぬり
むらさきいとすがけおどし
ごまいどうぐそく
[宮坂考古館HPから引用]
漢字の羅列でちょっととっつきにくいですが、分割すれば納得できます。まず朱の漆を塗るは文字の通りですね。糸が紫もそのまま。素掛(すがけ)は札状の板の上下を重ねることで、次に威ですが、これは「おどし」と読み、糸で札状の板を連結する手法のことです。ですから素掛威(すがけおどし)は札状の板を重ねて糸でつなぐ手法を意味しています。で、胴の板は五枚使用。まぁそんな感じです。冊子だと素掛紫絲威五枚胴具足となっていますが、漢字それぞれの意味は同じです(私は専門家ではないのでその程度に受け止めて下さい)。
南蛮笠風の朱色の兜や、鱗のような模様の袖がひときわ目をひきます。他の武将の風格漂う甲冑とは異なり、かなり個性的だと思います。傾奇者の慶次に相応しい甲冑ですね。出で立ちそのものが、慶次の生き方すら表しているのではないでしょうか。
もっと奇抜でも良いような気もしましたが、新品だとどんな感じだったのでしょうか。そして何より、この甲冑は、数多くの逸話がある前田慶次のどのシーンで身につけたのでしょうか…
私は前田慶次と呼ばせてもらっていますが、正式な名は前田慶次郎利益(とします)。織田信長に仕えた滝川 一益の血縁者、つまりもともとは滝川氏です。諸々の経緯で前田利久の養子となり、前田を名乗りました。あの前田利家の甥となったわけです。のちに出奔し、京などを転々として過ごし、直江兼続と出会いがきっかけで上杉景勝の家臣となりました。上杉家とともに米沢へ移り、晩年は米沢郊外の堂森に居を構えました。
慶次が晩年を過ごしたここ米沢に、本人が使用した甲冑も保存されている。慶次ファンにとっては、感慨深いことです。ちなみに「花の慶次」ではかなりの大男という設定になっていますが、甲冑のサイズは普通でした。
ということで
久々に訪問した宮坂考古館のご紹介でした。
今回は常設の展示とは別に、企画展として上杉家臣団の甲冑も展示されており(期間:令和6年4月16日〜11月24日)、とても満足な訪問となりました。
■訪問:宮坂考古館
[山形県米沢市東]1丁目
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■参考・出典:
・宮坂考古館小冊子
・宮坂考古館HP
https://www.miyasakakoukokan.com/
<宮坂考古館>
宮坂考古館には、初代館長が長年かけて収集した米沢ゆかりの貴重な資料、甲冑や火縄銃といった文化財が収蔵されています。
<公益財団法人>
郷土史の研究に熱心だった館長は、旧米沢藩の文化財が、散り散りになったまま行方がわからなくなることを惜しみ、その収集と保存に力を尽くしたそうです。個人で始めた資料館は、いまは公益財団法人となっています。
<考古館入口>
その集大成を、我々は見学することができるわけです。
<前田慶次>
実は、訪問は初めてではありません。「花の慶次」のファンである私は、慶次所用と伝わる甲冑を見るために、過去に何度かお邪魔させて頂いています。
<宮坂考古館冊子>
受付で頂いた冊子。やはり表紙は前田慶次の甲冑。展示品はそれだけではありませんが、やはり慶次の甲冑見たさに訪問する人は多いようです。
館内は撮影できませんので、冊子に掲載されている甲冑だけでもご紹介させて頂きます。
<冊子裏面を撮影>
左から
伝 上杉謙信所用・伝 上杉景勝所用
伝 直江兼続所用・伝 前田慶次所用
詳細は宮坂考古館のホームページに掲載されています。ここでは、前田慶次の分だけもう少し具体的にご紹介させて頂きます。
朱漆塗 紫絲素掛威 五枚胴具足
しゅうるしぬり
むらさきいとすがけおどし
ごまいどうぐそく
[宮坂考古館HPから引用]
漢字の羅列でちょっととっつきにくいですが、分割すれば納得できます。まず朱の漆を塗るは文字の通りですね。糸が紫もそのまま。素掛(すがけ)は札状の板の上下を重ねることで、次に威ですが、これは「おどし」と読み、糸で札状の板を連結する手法のことです。ですから素掛威(すがけおどし)は札状の板を重ねて糸でつなぐ手法を意味しています。で、胴の板は五枚使用。まぁそんな感じです。冊子だと素掛紫絲威五枚胴具足となっていますが、漢字それぞれの意味は同じです(私は専門家ではないのでその程度に受け止めて下さい)。
南蛮笠風の朱色の兜や、鱗のような模様の袖がひときわ目をひきます。他の武将の風格漂う甲冑とは異なり、かなり個性的だと思います。傾奇者の慶次に相応しい甲冑ですね。出で立ちそのものが、慶次の生き方すら表しているのではないでしょうか。
もっと奇抜でも良いような気もしましたが、新品だとどんな感じだったのでしょうか。そして何より、この甲冑は、数多くの逸話がある前田慶次のどのシーンで身につけたのでしょうか…
私は前田慶次と呼ばせてもらっていますが、正式な名は前田慶次郎利益(とします)。織田信長に仕えた滝川 一益の血縁者、つまりもともとは滝川氏です。諸々の経緯で前田利久の養子となり、前田を名乗りました。あの前田利家の甥となったわけです。のちに出奔し、京などを転々として過ごし、直江兼続と出会いがきっかけで上杉景勝の家臣となりました。上杉家とともに米沢へ移り、晩年は米沢郊外の堂森に居を構えました。
慶次が晩年を過ごしたここ米沢に、本人が使用した甲冑も保存されている。慶次ファンにとっては、感慨深いことです。ちなみに「花の慶次」ではかなりの大男という設定になっていますが、甲冑のサイズは普通でした。
ということで
久々に訪問した宮坂考古館のご紹介でした。
今回は常設の展示とは別に、企画展として上杉家臣団の甲冑も展示されており(期間:令和6年4月16日〜11月24日)、とても満足な訪問となりました。
■訪問:宮坂考古館
[山形県米沢市東]1丁目
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■参考・出典:
・宮坂考古館小冊子
・宮坂考古館HP
https://www.miyasakakoukokan.com/
2024年07月31日
2024年(令和6年)米沢詣での帰り道
猛暑がつづく7月下旬、また「米沢詣で」をしてきました。
<米沢駅>
8時半には既に米沢に到着していました
<松が岬公園>まつがさき
いつも通り、まずは松が岬公園へ。米沢城の本丸跡です。
<懸かり乱れ龍>かかりみだれりゅう
力強く柔らかな字体で記された龍のひと文字。不動明王を表しています。上杉謙信が掲げた軍旗が風になびいていました。
<英雄たちの像>
上杉の英雄たち。そして上杉神社の鳥居
<上杉神社>
ここは特別な場所。いつも凛とした気持ちになります。
さて
ここからどこへ行くのかは、来るたびに違います。やや郊外へ行くこともあれば、市街地でまだ歩いたことがないエリアを探索することもあります。今回はこのあと福島へ向かうつもりだったので、市街地探索としました。昨年は米沢城の北側を歩いたので、東側と南側をゆっくり見て回りながら駅へ向かうことにしました。
<ウコギ垣>
道路沿いにはウコギ垣。ウコギはトゲがあることから防犯に役立つ一方で、薬効もあり、非常食にもなります。江戸時代に下級武士の屋敷の垣根として奨励され、今では米沢の名物となっています。
その後もこまごまと足を止めながら、最終ゴールの宮坂考古館へ
<宮坂考古館>みやさかこうこかん
[米沢市東1丁目]2-24
かなり久しぶりの訪問となりました。詳細は省略しますが、武将ゆかりの貴重な収蔵品を見学することができます。
<前田慶次>
私は「花の慶次」のファンです。宮坂考古館には、前田慶次郎所用と伝わる甲冑も展示されています(館内の撮影できません)。初めてお邪魔した時のわくわく感が蘇りました。
<帰り道>
満足感を味わって、あとは駅へ向うだけ。宮坂考古館を出たところで、今度は小さな説明板「旧町名由来」に足が止まりました。
<上花沢信濃町>かみはなざわしなのまち
上花沢…花沢はかつての村名として、信濃町とは?
説明文によれば、この付近には信濃から移ってきた下級武士たちが住んだそうです。これが名の由来。また、市内の堂森善光寺に通じる町だからという説もあるようです。
米沢で信濃か…
上杉家はもともとは越後。信濃というと広範囲になってしまいますが、北信濃とは密接な関係にありました。上杉配下の信濃武士が、上杉とともに会津へ移り、最終的に米沢に定着した。よく考えれば、自然な流れです。上杉家において中核となっていた信濃武士も多いかと思いますが、ここではあくまで下級武士の話。彼らは、この付近に居を構えたということのようです。
<信濃町横断歩道橋>
宮坂考古館のすぐ近くで撮影しました。会津と米沢をむすぶ八谷街道に架けられた歩道橋です。現在の地名だと「東」ですが歩道橋には「信濃町」の文字。この付近、そして更に南へ進んだエリアが、原方衆と呼ばれる半士半農の下級武士たちが暮らしていた場所なのです(現在の地名だと通町や芳泉町など)。
会津120万石から米沢30万石に減封となった上杉家では、連れてきた家臣を全て城下に住まわせることができませんでした。下級武士たちには手つかずの荒地があてがわれ、自力で開拓することが求められました。ほぼ農夫という暮らしながらも、あくまで上杉の武士です。城の南側を守る役割を与えられていました。
あまり意識しないで歩いてきたが、
そういうエリアに既に足を踏み入れていたということか…
そんな感慨深さもありながら、滞在時間が残り少なくなったことから、やや速足で駅へ向かいました。もう寄り道はしない。そのつもりでしたが…道沿いにまた気になるものを見つけてしまいました。
<道沿いの木陰>
なんだこの光景は…
かなり古い二体のお地蔵さん。『いぼころり地蔵』と記されていました。「いぼ地蔵」とか「いぼ取り地蔵」という言葉はよく耳にしますので、それと同じでしょう。まわりの小さな石でこすると、イボが取れるのだそうです。まぁイボといっても、軽いものから悪性のものまであり、症状はまちまち。昔はいまと違って、身近にして深刻なものだったのでしょう。
左手の説明板には『ここは昔の原方士族(半士半農)の村はずれ』と記されています。そう、むかしこの付近を通り過ぎたのは、城下からはみ出した下級武士たちです。彼ら、そしてその家族は、道沿いのこの地蔵尊に、切実な願いを込めていたのかもしれません。
<いぼころり地蔵>
このお地蔵さんは、そんな人たちの人間模様をずっと見てきたわけですね。かなり疲れたご様子ですが、そう思うと尊いお姿に映ります。
原方衆の暮らしの場は、城下と比べれば決して恵まれた環境ではなかったはず。それでも、あくまで米沢藩士です。強い集団に欠かせないのは現場の力。そして当時の経済の基本はなんといっても農業。土と向き合った武士たちの奮闘が、困窮した米沢藩の財政再建に大きく貢献したことは言うまでもないことですね。
ということで
米沢へ来ると指導者たちに思いを馳せることが多いのですが、今回はそんなことを再認識する帰り道となりました。
<原方衆の地蔵>
ご利益はイボ取りだけではなさそうですね
令和6年7月
----------■ 参考画像 ■----------
参考として別の日に芳泉町で撮影した画像を貼っておきます。
<下級武士屋敷跡>
原方衆と呼ばれる下級武士の屋敷跡です。右手前に映っているのはウコギの垣根。藩の改革を推し進めた上杉鷹山が推奨したと伝わります。
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<米沢駅>
8時半には既に米沢に到着していました
<松が岬公園>まつがさき
いつも通り、まずは松が岬公園へ。米沢城の本丸跡です。
<懸かり乱れ龍>かかりみだれりゅう
力強く柔らかな字体で記された龍のひと文字。不動明王を表しています。上杉謙信が掲げた軍旗が風になびいていました。
<英雄たちの像>
上杉の英雄たち。そして上杉神社の鳥居
<上杉神社>
ここは特別な場所。いつも凛とした気持ちになります。
さて
ここからどこへ行くのかは、来るたびに違います。やや郊外へ行くこともあれば、市街地でまだ歩いたことがないエリアを探索することもあります。今回はこのあと福島へ向かうつもりだったので、市街地探索としました。昨年は米沢城の北側を歩いたので、東側と南側をゆっくり見て回りながら駅へ向かうことにしました。
<ウコギ垣>
道路沿いにはウコギ垣。ウコギはトゲがあることから防犯に役立つ一方で、薬効もあり、非常食にもなります。江戸時代に下級武士の屋敷の垣根として奨励され、今では米沢の名物となっています。
その後もこまごまと足を止めながら、最終ゴールの宮坂考古館へ
<宮坂考古館>みやさかこうこかん
[米沢市東1丁目]2-24
かなり久しぶりの訪問となりました。詳細は省略しますが、武将ゆかりの貴重な収蔵品を見学することができます。
<前田慶次>
私は「花の慶次」のファンです。宮坂考古館には、前田慶次郎所用と伝わる甲冑も展示されています(館内の撮影できません)。初めてお邪魔した時のわくわく感が蘇りました。
<帰り道>
満足感を味わって、あとは駅へ向うだけ。宮坂考古館を出たところで、今度は小さな説明板「旧町名由来」に足が止まりました。
<上花沢信濃町>かみはなざわしなのまち
上花沢…花沢はかつての村名として、信濃町とは?
説明文によれば、この付近には信濃から移ってきた下級武士たちが住んだそうです。これが名の由来。また、市内の堂森善光寺に通じる町だからという説もあるようです。
米沢で信濃か…
上杉家はもともとは越後。信濃というと広範囲になってしまいますが、北信濃とは密接な関係にありました。上杉配下の信濃武士が、上杉とともに会津へ移り、最終的に米沢に定着した。よく考えれば、自然な流れです。上杉家において中核となっていた信濃武士も多いかと思いますが、ここではあくまで下級武士の話。彼らは、この付近に居を構えたということのようです。
<信濃町横断歩道橋>
宮坂考古館のすぐ近くで撮影しました。会津と米沢をむすぶ八谷街道に架けられた歩道橋です。現在の地名だと「東」ですが歩道橋には「信濃町」の文字。この付近、そして更に南へ進んだエリアが、原方衆と呼ばれる半士半農の下級武士たちが暮らしていた場所なのです(現在の地名だと通町や芳泉町など)。
会津120万石から米沢30万石に減封となった上杉家では、連れてきた家臣を全て城下に住まわせることができませんでした。下級武士たちには手つかずの荒地があてがわれ、自力で開拓することが求められました。ほぼ農夫という暮らしながらも、あくまで上杉の武士です。城の南側を守る役割を与えられていました。
あまり意識しないで歩いてきたが、
そういうエリアに既に足を踏み入れていたということか…
そんな感慨深さもありながら、滞在時間が残り少なくなったことから、やや速足で駅へ向かいました。もう寄り道はしない。そのつもりでしたが…道沿いにまた気になるものを見つけてしまいました。
<道沿いの木陰>
なんだこの光景は…
かなり古い二体のお地蔵さん。『いぼころり地蔵』と記されていました。「いぼ地蔵」とか「いぼ取り地蔵」という言葉はよく耳にしますので、それと同じでしょう。まわりの小さな石でこすると、イボが取れるのだそうです。まぁイボといっても、軽いものから悪性のものまであり、症状はまちまち。昔はいまと違って、身近にして深刻なものだったのでしょう。
左手の説明板には『ここは昔の原方士族(半士半農)の村はずれ』と記されています。そう、むかしこの付近を通り過ぎたのは、城下からはみ出した下級武士たちです。彼ら、そしてその家族は、道沿いのこの地蔵尊に、切実な願いを込めていたのかもしれません。
<いぼころり地蔵>
このお地蔵さんは、そんな人たちの人間模様をずっと見てきたわけですね。かなり疲れたご様子ですが、そう思うと尊いお姿に映ります。
原方衆の暮らしの場は、城下と比べれば決して恵まれた環境ではなかったはず。それでも、あくまで米沢藩士です。強い集団に欠かせないのは現場の力。そして当時の経済の基本はなんといっても農業。土と向き合った武士たちの奮闘が、困窮した米沢藩の財政再建に大きく貢献したことは言うまでもないことですね。
ということで
米沢へ来ると指導者たちに思いを馳せることが多いのですが、今回はそんなことを再認識する帰り道となりました。
<原方衆の地蔵>
ご利益はイボ取りだけではなさそうですね
令和6年7月
----------■ 参考画像 ■----------
参考として別の日に芳泉町で撮影した画像を貼っておきます。
<下級武士屋敷跡>
原方衆と呼ばれる下級武士の屋敷跡です。右手前に映っているのはウコギの垣根。藩の改革を推し進めた上杉鷹山が推奨したと伝わります。
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2024年07月08日
関城書 苦戦する関城から送られた北畠親房の書状
(関城の追記です)
<関城跡>せきじょう
茨城県筑西市の関城跡です。この城は南北朝時代の関東で、南朝方の重要拠点となりました。戦いの最中に、籠城していた南朝方の重鎮・北畠親房は、白河の結城親朝に来援を求める書状を送っています。
■関城書■ かんじょうしょ
関城書は関城に籠城していた北畠親房が、白河の結城親朝に送った書状です。結城親朝は南朝方の有力武将のひとりだった結城宗広の子で、宗広の病死(1338年)後、その動向が北朝方からも南朝方からも注目されていました。北畠親房が送った書状はで約70通にも及びます。一般的には、そのうちの一通(1342年3月22日付書状)を指して関城書と呼びます。
北畠親房は後醍醐天皇に仕えた上流貴族です。身をなげうって京から東国へ移り、劣勢の南朝を支え続けました。漢文による格調高い書面で記された親房の書状は、南朝の苦戦を伝えるだけではなく、神代以来の国のあり方を記し、本来の朝廷(つまり南朝)に尽くすことが武士の役割であることを説いています。あくまで結城親朝に決起を促すものですが、この時に親房が記した関城書は、後世の思想に少なからず影響を与えました。
■結城親朝■ ゆうきちかとも
北畠親房からの要請を受け、結城親朝はこれに応えるべく周辺の北朝方と交戦を続けました。白河の関を実質支配する結城親朝の奮闘は、南朝朝廷からも高い評価を得ています(修理権大夫任じられています)。
ここまでは北畠親房の期待通り。ただ、近衛経忠による北畠親房排除の動きが、東国の南朝勢に混乱を招くことになり、その流れで結城親朝と北畠親房の関係も徐々に悪化。最終的には、結城親朝の北朝方への寝返りに至りました。
<参考:小峰城>こみねじょう
[福島県白河市郭内]
日本100名城に選ばれている白河小峰城。戊辰戦争にも巻き込まれた歴史の長い城ですが、始まりは結城親朝による築城でした。当初の小峰城は、現在の本丸付近だったと考えられています。
結城親朝は、父である宗広とは別の基盤を自力で築いた武将です。父亡きあと、子である顕朝(あきとも)に白河結城氏の家督を継がせ、自らは独立した立場を貫き、小峰城を築いて居城としました(1340年)。
寝返りという言葉だと悪い印象しか残りません。ただ、周辺の諸勢力に囲まれながら、孤立した状態で南朝であり続けることは、身を滅ぼしかねない状況だったのかもしれませんね。
北畠親房からの書状は、たとえ筋が通っていたとしても、目の前の現実と照らし合わせると無理な要請。南朝方が分裂し始めていることも把握していたでしょうし、己の力を頼りに生き残ってきた親朝としては、受け入れられなかったのかも知れませんね。
<関城跡>
関城書に込められた北畠親房の願いは、結局のところは叶いませんでした。受取人も、発送元である関城の城主・関宗祐も結城氏の出です。血縁であっても、敵と味方に分かれせざるを得ない状況下。南朝の正統性、そして武士の本分を説いた書状が、結城親朝の心変わりに歯止めをかけることはありませんでした。
■訪問:関城
[茨城県筑西市関館]
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■参考
Wikipedia:2024/7/8
<関城跡>せきじょう
茨城県筑西市の関城跡です。この城は南北朝時代の関東で、南朝方の重要拠点となりました。戦いの最中に、籠城していた南朝方の重鎮・北畠親房は、白河の結城親朝に来援を求める書状を送っています。
■関城書■ かんじょうしょ
関城書は関城に籠城していた北畠親房が、白河の結城親朝に送った書状です。結城親朝は南朝方の有力武将のひとりだった結城宗広の子で、宗広の病死(1338年)後、その動向が北朝方からも南朝方からも注目されていました。北畠親房が送った書状はで約70通にも及びます。一般的には、そのうちの一通(1342年3月22日付書状)を指して関城書と呼びます。
北畠親房は後醍醐天皇に仕えた上流貴族です。身をなげうって京から東国へ移り、劣勢の南朝を支え続けました。漢文による格調高い書面で記された親房の書状は、南朝の苦戦を伝えるだけではなく、神代以来の国のあり方を記し、本来の朝廷(つまり南朝)に尽くすことが武士の役割であることを説いています。あくまで結城親朝に決起を促すものですが、この時に親房が記した関城書は、後世の思想に少なからず影響を与えました。
■結城親朝■ ゆうきちかとも
北畠親房からの要請を受け、結城親朝はこれに応えるべく周辺の北朝方と交戦を続けました。白河の関を実質支配する結城親朝の奮闘は、南朝朝廷からも高い評価を得ています(修理権大夫任じられています)。
ここまでは北畠親房の期待通り。ただ、近衛経忠による北畠親房排除の動きが、東国の南朝勢に混乱を招くことになり、その流れで結城親朝と北畠親房の関係も徐々に悪化。最終的には、結城親朝の北朝方への寝返りに至りました。
<参考:小峰城>こみねじょう
[福島県白河市郭内]
日本100名城に選ばれている白河小峰城。戊辰戦争にも巻き込まれた歴史の長い城ですが、始まりは結城親朝による築城でした。当初の小峰城は、現在の本丸付近だったと考えられています。
結城親朝は、父である宗広とは別の基盤を自力で築いた武将です。父亡きあと、子である顕朝(あきとも)に白河結城氏の家督を継がせ、自らは独立した立場を貫き、小峰城を築いて居城としました(1340年)。
寝返りという言葉だと悪い印象しか残りません。ただ、周辺の諸勢力に囲まれながら、孤立した状態で南朝であり続けることは、身を滅ぼしかねない状況だったのかもしれませんね。
北畠親房からの書状は、たとえ筋が通っていたとしても、目の前の現実と照らし合わせると無理な要請。南朝方が分裂し始めていることも把握していたでしょうし、己の力を頼りに生き残ってきた親朝としては、受け入れられなかったのかも知れませんね。
<関城跡>
関城書に込められた北畠親房の願いは、結局のところは叶いませんでした。受取人も、発送元である関城の城主・関宗祐も結城氏の出です。血縁であっても、敵と味方に分かれせざるを得ない状況下。南朝の正統性、そして武士の本分を説いた書状が、結城親朝の心変わりに歯止めをかけることはありませんでした。
■訪問:関城
[茨城県筑西市関館]
お城巡りランキング
■参考
Wikipedia:2024/7/8
タグ:茨城
2024年07月07日
関城の天然堀 大宝沼のなごり
関城を訪問した帰り道、こんな標柱と出会いました。
<大宝城跡の標柱>だいほうじょうあと
大宝城跡?ここって城跡なの?
場所は関城跡の目の前です。
<関城跡>
たったいま関城の南端の遺構を確認して…
<下り坂>
微高地から低地へ降りたばかり…
関城の天然堀だった沼へ降り立ったことは意識していましたが、急に「大宝城跡」と言われても、意味が分かりませんでした。とりあえず現地からX(旧twitter)で冒頭の画像をアップ。すると、この付近に詳しいフォローワーさんからすぐに連絡からあり、標柱はこの付近のかなり広範囲に設置されていることを教えてもらいました。
更に現地でネット検索すると、大宝城そのものは、ここからもう少し南へ行った大宝八幡宮付近であることが分かりました。直線距離で2kmちょっと。本来なら余裕で徒歩圏内です。
行ってみたいなぁ…
ただ、この日は午前中が小山市、午後から筑西市探索というスケジュール。既に体力を使い切っていました。
また来られるとは限らないが…
断念しました(残念)。
仕方なく、帰宅してからゆっくり調べ直すことに。そこで分かったことは…
<国指定史跡>
設置されている標柱には『国指定史跡大宝城跡』と記されていますが、大宝城本体だけでなく、大宝城の天然の堀だった大宝沼をも含めた範囲を指しているということ。むしろ史跡指定区域の大半は、かつての大宝沼と重なるようです。
つまり私が出合った標柱は、ここがかつての大宝沼であることの目印になっていたわけですね。その沼の北岸に築かれたのが関城なのですから、やっと納得できました。
更に分かったことは
<飛び地あり>
関城のまん前なので、私は筑西市のつもりで歩いていましたが、市境となるこの付近は、ところどころ下妻市の飛び地となっているようです。下妻市の城の標柱が、この付近に点在していることも納得できました。
■大宝城とは■
せっかくですので、大宝城について。茨城県教育委員会さんのホームページによれば、大宝城は『西、北、および東方の一部を旧大宝沼に囲まれた台地の自然の地形を利用して造築された城郭であり、東方も古い時代は沼か湿地であったと思われることから三方断崖に面した要害の地でした。』とのこと。北側に向かって突き出した舌状台地に築かれた城だったようですね。そして、その範囲は東西288m、南北576mといいますから、相当広かったようです。
(『』内はHPの原文をそのまま転記)
大宝城主の築城者は下妻長政。元の名は小山長政です。つまり下野の小山氏の出です。下妻の地頭となり、そのまま地名を名乗りました。そして孫にあたる下妻政泰の時に、南朝・北朝の壮絶な戦いに巻き込まれることになりました。
私が訪問した関城同様、南朝方の重要拠点だったようです。というより、戦においては関城とセットで機能していたようです。関城には北畠顕家が、大宝城には同族の春日顕国が南朝の征夷大将軍・興良親王を奉じて入城。南朝方の二大拠点という感じですね。ただその後の戦況は好ましくなく、北朝方による激しい攻撃に晒され続けます。長期の籠城戦の末に大宝城は関城とほぼ時を同じくして落城(1343年)。城主である下妻政泰は命を落としました。
<水田地帯>
大宝沼は大宝城と関城の天然の堀でした。いまは御覧の通りで、水田に姿を変えています。私の訪問は3月下旬のためこんな眺めでしたが、いずれ稲穂がたなびく素晴らしい景色になるのでしょう。
ということで
関城跡を訪ねた帰りに、大宝沼のなごりを感じ、帰宅してから大宝城についても調べてみたという内容でした。会社員の拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
<内沼川>うちぬまがわ
この水の流れも沼地だったなごりですね
■訪問:大宝沼の跡
(大宝城指定区域)
[茨城県筑西市関舘]
[茨城県下妻市福田](飛び地)
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■参考及び出典
・Wikipedia:2024/7/7
・茨城県教育委員会HP
いばらきの文化財>大宝城跡
https://kyoiku.pref.ibaraki.jp/bunkazai/kuni-94/
<大宝城跡の標柱>だいほうじょうあと
大宝城跡?ここって城跡なの?
場所は関城跡の目の前です。
<関城跡>
たったいま関城の南端の遺構を確認して…
<下り坂>
微高地から低地へ降りたばかり…
関城の天然堀だった沼へ降り立ったことは意識していましたが、急に「大宝城跡」と言われても、意味が分かりませんでした。とりあえず現地からX(旧twitter)で冒頭の画像をアップ。すると、この付近に詳しいフォローワーさんからすぐに連絡からあり、標柱はこの付近のかなり広範囲に設置されていることを教えてもらいました。
更に現地でネット検索すると、大宝城そのものは、ここからもう少し南へ行った大宝八幡宮付近であることが分かりました。直線距離で2kmちょっと。本来なら余裕で徒歩圏内です。
行ってみたいなぁ…
ただ、この日は午前中が小山市、午後から筑西市探索というスケジュール。既に体力を使い切っていました。
また来られるとは限らないが…
断念しました(残念)。
仕方なく、帰宅してからゆっくり調べ直すことに。そこで分かったことは…
<国指定史跡>
設置されている標柱には『国指定史跡大宝城跡』と記されていますが、大宝城本体だけでなく、大宝城の天然の堀だった大宝沼をも含めた範囲を指しているということ。むしろ史跡指定区域の大半は、かつての大宝沼と重なるようです。
つまり私が出合った標柱は、ここがかつての大宝沼であることの目印になっていたわけですね。その沼の北岸に築かれたのが関城なのですから、やっと納得できました。
更に分かったことは
<飛び地あり>
関城のまん前なので、私は筑西市のつもりで歩いていましたが、市境となるこの付近は、ところどころ下妻市の飛び地となっているようです。下妻市の城の標柱が、この付近に点在していることも納得できました。
■大宝城とは■
せっかくですので、大宝城について。茨城県教育委員会さんのホームページによれば、大宝城は『西、北、および東方の一部を旧大宝沼に囲まれた台地の自然の地形を利用して造築された城郭であり、東方も古い時代は沼か湿地であったと思われることから三方断崖に面した要害の地でした。』とのこと。北側に向かって突き出した舌状台地に築かれた城だったようですね。そして、その範囲は東西288m、南北576mといいますから、相当広かったようです。
(『』内はHPの原文をそのまま転記)
大宝城主の築城者は下妻長政。元の名は小山長政です。つまり下野の小山氏の出です。下妻の地頭となり、そのまま地名を名乗りました。そして孫にあたる下妻政泰の時に、南朝・北朝の壮絶な戦いに巻き込まれることになりました。
私が訪問した関城同様、南朝方の重要拠点だったようです。というより、戦においては関城とセットで機能していたようです。関城には北畠顕家が、大宝城には同族の春日顕国が南朝の征夷大将軍・興良親王を奉じて入城。南朝方の二大拠点という感じですね。ただその後の戦況は好ましくなく、北朝方による激しい攻撃に晒され続けます。長期の籠城戦の末に大宝城は関城とほぼ時を同じくして落城(1343年)。城主である下妻政泰は命を落としました。
<水田地帯>
大宝沼は大宝城と関城の天然の堀でした。いまは御覧の通りで、水田に姿を変えています。私の訪問は3月下旬のためこんな眺めでしたが、いずれ稲穂がたなびく素晴らしい景色になるのでしょう。
ということで
関城跡を訪ねた帰りに、大宝沼のなごりを感じ、帰宅してから大宝城についても調べてみたという内容でした。会社員の拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
<内沼川>うちぬまがわ
この水の流れも沼地だったなごりですね
■訪問:大宝沼の跡
(大宝城指定区域)
[茨城県筑西市関舘]
[茨城県下妻市福田](飛び地)
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■参考及び出典
・Wikipedia:2024/7/7
・茨城県教育委員会HP
いばらきの文化財>大宝城跡
https://kyoiku.pref.ibaraki.jp/bunkazai/kuni-94/
タグ:茨城
2024年06月28日
関城のなごり (筑西市)
つわものどもが夢の跡
南北朝時代の関東で、南朝方の重要拠点となった城跡を訪ねました。
<関城>せきじょう
ここは茨城県筑西市。旧関城町の城跡です。
■ 南朝の城跡 ■
関城の築城は鎌倉時代。名族・結城氏当主(朝広)の四男だった朝泰が、領地の一部を相続して関氏を名乗り、居城を築いた時から始まります。
南北朝時代に突入すると、本家の結城氏が北朝方だったのに対し、関氏は南朝方につきます。親戚関係ではありますが、利害が一致しなかったのでしょう。城主の関宗祐(せき むねすけ)は、小田治久の南朝離反を機に、それまで小田城在城だった北畠親房を関城に迎え入れます。北畠親房は南朝方の重鎮です。高師冬ら北朝軍の攻撃は激しさを増しましたが、籠城戦でこれに耐え続けました。この間に、北畠親房は小田城で着手していた歴史書『神皇正統記』に筆を加えて完成させています。
<北畠親房が籠城>きたばたけちかふさ
神皇正統記は日本の神国としての成立からはじまり、歴代天皇の事績を第97代天皇・後村上天皇までをまとめあげ、南朝の正当性を記した歴史書です。ここ関城は、戦の重要拠点であったと同時に、日本の歴史観に多大な影響を与えた歴史書が完成した場所もあります。
■ 現地訪問 ■
私は城の北側から徒歩で現地へ向かいました。
<関城跡案内図>
こちらは関城駐車場で撮影した地図です。関城は沼に向かって半島のように突き出した台地の南端に築かれました。つまり北を除く三方向が天然の水堀に守られていました。とはいえここは関東平野のど真ん中。台地と低地に劇的な高低差があるわけではありません。分類すると平城ということになります。
<関城北側の土塁>
沼に囲まれた城が、唯一台地続きとなるのが北側です。こちらはその付近に設けられた土塁の跡。開発により遺構がほとんどない関城にあって、この土塁は良好な状態で残されています。当時の姿からはほど遠いのでしょうが、ありがたい遺構です。
<八幡神社>
土塁はこちらの神社の境内で撮影しました。神域であるが故に、開発から取り残されたのでしょう。
ところで
土塁のあった八幡神社のすぐ近くで、こんな遺構と出会いました。
<関城坑道跡>こうどうあと
坑道跡です。設置されている筑西市の説明板によれば、この坑道は南北朝時代に北朝方の高師冬の指揮で、関城の物見櫓を攻め落とすために掘られたものとのこと。地盤の柔らかさから崩落し、作戦は失敗に終わりますが、城の土塁のすぐ外側で、こんな工事がなされていたわけです。別な見方をすると、城の間近に攻め寄せながら、ここから先が難儀だったのでしょう。
<城の東側>
南へ移動しながら振り返って、先ほどの八幡神社付近を撮影。あの付近から続く左手(西側)の微高地は全て関城跡ということになります。逆に右手の低地はかつての沼(大宝沼)。沼の畔を歩いている感じなのでしょうか?あるいは、足が水に浸かった状態なのかもしれませんね。
地形に従って歩き続け、城の南端へ回り込むと
<関城通り>
おお。こういうのが目に入ると気分が盛り上がりますね。あとで知りましたが、左手の斜面の奥は、沼に舟を出すための船着き場があったようです。
<地蔵尊>
低地から台地へ。坂を登るとお地蔵さんが出迎えてくれました。向きは逆ですが…
そして
<関城跡>
冒頭の画像の場所に到着。ここが本丸跡と思ってやってきましたが…
<縄張り図>
厳密に言うとこの地点は本丸ではなく、そのすぐお隣といった感じのようです。まぁ広大な関城の中心付近であることに違いはありません。
<説明板>
南北朝対立争乱の時代に、関城が小田城などとともに南朝方の拠点であったことが冒頭に記されています。少し抜粋させて頂くと『関城と運命を共にして戦死した城主関宗祐、宗政父子の墓や北朝方の武将で関城攻撃で戦死した結城直朝の墓があります。』とのこと。
<宝篋印塔>ほうきょういんとう
正面の宝篋印塔が関宗祐の墓と伝えられています。右側の石柱には「関宗祐之墓」と刻まれていますが、現地の説明文からして、宗祐・宗政父子の墓と受け止めてよいのでしょう。すぐお隣、左手に小さく映っているのが、北朝方として関城に攻め込み戦死した結城直朝の墓。直朝は当主だったため、弟が結城氏の家督を継ぐことになりました。
全体的に画像が見づらくてすみません。当ブログ、お墓そのものは遠くから撮るようにしています。
<土塁跡>
宝篋印塔の背後には土塁の跡。ここが城であった証が形として残っています。
■ つわものどもが夢の跡 ■
朝廷が二つに分かれた余波は、全国に拡大しました。関城での攻防戦は、日本中で約半世紀続いた動乱の一部に過ぎませんが、焦点を絞ってじっくりと城跡と向き合うと、その壮絶さが伝わってきます。
<関城のなごり>
心にとどめおくべき先人たちのなごりですね
------■ 関 城 ■------
築城者:関朝泰
築城年:鎌倉時代
城 主:関宗祐 他
廃城年:不明
[ 茨城県筑西市関館 ]
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■参考及び出典
・現地説明板(筑西市)
・Wikipedia:2024/6/28
・筑西市HP
国指定文化財>関城跡
https://www.city.chikusei.lg.jp/page/page000268.html
南北朝時代の関東で、南朝方の重要拠点となった城跡を訪ねました。
<関城>せきじょう
ここは茨城県筑西市。旧関城町の城跡です。
■ 南朝の城跡 ■
関城の築城は鎌倉時代。名族・結城氏当主(朝広)の四男だった朝泰が、領地の一部を相続して関氏を名乗り、居城を築いた時から始まります。
南北朝時代に突入すると、本家の結城氏が北朝方だったのに対し、関氏は南朝方につきます。親戚関係ではありますが、利害が一致しなかったのでしょう。城主の関宗祐(せき むねすけ)は、小田治久の南朝離反を機に、それまで小田城在城だった北畠親房を関城に迎え入れます。北畠親房は南朝方の重鎮です。高師冬ら北朝軍の攻撃は激しさを増しましたが、籠城戦でこれに耐え続けました。この間に、北畠親房は小田城で着手していた歴史書『神皇正統記』に筆を加えて完成させています。
<北畠親房が籠城>きたばたけちかふさ
神皇正統記は日本の神国としての成立からはじまり、歴代天皇の事績を第97代天皇・後村上天皇までをまとめあげ、南朝の正当性を記した歴史書です。ここ関城は、戦の重要拠点であったと同時に、日本の歴史観に多大な影響を与えた歴史書が完成した場所もあります。
■ 現地訪問 ■
私は城の北側から徒歩で現地へ向かいました。
<関城跡案内図>
こちらは関城駐車場で撮影した地図です。関城は沼に向かって半島のように突き出した台地の南端に築かれました。つまり北を除く三方向が天然の水堀に守られていました。とはいえここは関東平野のど真ん中。台地と低地に劇的な高低差があるわけではありません。分類すると平城ということになります。
<関城北側の土塁>
沼に囲まれた城が、唯一台地続きとなるのが北側です。こちらはその付近に設けられた土塁の跡。開発により遺構がほとんどない関城にあって、この土塁は良好な状態で残されています。当時の姿からはほど遠いのでしょうが、ありがたい遺構です。
<八幡神社>
土塁はこちらの神社の境内で撮影しました。神域であるが故に、開発から取り残されたのでしょう。
ところで
土塁のあった八幡神社のすぐ近くで、こんな遺構と出会いました。
<関城坑道跡>こうどうあと
坑道跡です。設置されている筑西市の説明板によれば、この坑道は南北朝時代に北朝方の高師冬の指揮で、関城の物見櫓を攻め落とすために掘られたものとのこと。地盤の柔らかさから崩落し、作戦は失敗に終わりますが、城の土塁のすぐ外側で、こんな工事がなされていたわけです。別な見方をすると、城の間近に攻め寄せながら、ここから先が難儀だったのでしょう。
<城の東側>
南へ移動しながら振り返って、先ほどの八幡神社付近を撮影。あの付近から続く左手(西側)の微高地は全て関城跡ということになります。逆に右手の低地はかつての沼(大宝沼)。沼の畔を歩いている感じなのでしょうか?あるいは、足が水に浸かった状態なのかもしれませんね。
地形に従って歩き続け、城の南端へ回り込むと
<関城通り>
おお。こういうのが目に入ると気分が盛り上がりますね。あとで知りましたが、左手の斜面の奥は、沼に舟を出すための船着き場があったようです。
<地蔵尊>
低地から台地へ。坂を登るとお地蔵さんが出迎えてくれました。向きは逆ですが…
そして
<関城跡>
冒頭の画像の場所に到着。ここが本丸跡と思ってやってきましたが…
<縄張り図>
厳密に言うとこの地点は本丸ではなく、そのすぐお隣といった感じのようです。まぁ広大な関城の中心付近であることに違いはありません。
<説明板>
南北朝対立争乱の時代に、関城が小田城などとともに南朝方の拠点であったことが冒頭に記されています。少し抜粋させて頂くと『関城と運命を共にして戦死した城主関宗祐、宗政父子の墓や北朝方の武将で関城攻撃で戦死した結城直朝の墓があります。』とのこと。
<宝篋印塔>ほうきょういんとう
正面の宝篋印塔が関宗祐の墓と伝えられています。右側の石柱には「関宗祐之墓」と刻まれていますが、現地の説明文からして、宗祐・宗政父子の墓と受け止めてよいのでしょう。すぐお隣、左手に小さく映っているのが、北朝方として関城に攻め込み戦死した結城直朝の墓。直朝は当主だったため、弟が結城氏の家督を継ぐことになりました。
全体的に画像が見づらくてすみません。当ブログ、お墓そのものは遠くから撮るようにしています。
<土塁跡>
宝篋印塔の背後には土塁の跡。ここが城であった証が形として残っています。
■ つわものどもが夢の跡 ■
朝廷が二つに分かれた余波は、全国に拡大しました。関城での攻防戦は、日本中で約半世紀続いた動乱の一部に過ぎませんが、焦点を絞ってじっくりと城跡と向き合うと、その壮絶さが伝わってきます。
<関城のなごり>
心にとどめおくべき先人たちのなごりですね
------■ 関 城 ■------
築城者:関朝泰
築城年:鎌倉時代
城 主:関宗祐 他
廃城年:不明
[ 茨城県筑西市関館 ]
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■参考及び出典
・現地説明板(筑西市)
・Wikipedia:2024/6/28
・筑西市HP
国指定文化財>関城跡
https://www.city.chikusei.lg.jp/page/page000268.html
タグ:茨城
2024年06月23日
劣勢の南朝を支え続けた北畠親房の足跡(筑西市)関城跡
筑西市の関城は、南北朝時代に南朝の重鎮だった北畠親房が、歴史書・神皇正統記を完成させた場所としても知られています。
<北畠親房が入城した関城跡>
関城跡です。この付近が城の中心だったと思われます。
当時、関城の関宗祐・宗政親子は南朝方でした。北畠親房は同じく南朝方の小田城に入城していましたが、北朝方の激しい攻撃で小田治久が降伏したのをきっかけに、関城へ逃れます。関城は北朝方の標的となりながら2年にもわたって抵抗を続けます。北畠親房はその籠城期間に、既に取り掛かっていた神皇正統記を完成させました。
<説明板>
関城に関する説明板です。最後のほうに、北畠親房が『小田城で書いた日本史の「神皇正統記」に筆を加えて完成したことでも有名です』と記されています。
神皇正統記は日本の神国としての成立からはじまり、歴代天皇の事績を第97代天皇・後村上天皇までをまとめあげ、南朝の正当性を記した歴史書です。後醍醐天皇から信任を受けた北畠親房は、状況が厳しい環境下でこれを書きあげました。
<関城土塁跡>
のちの時代の日本の歴史観に大きく影響した歴史書が、ここ茨城県筑西市で書き上げられたわけですね。
やがて関城は北朝側からの総攻撃を受けて陥落。関宗祐・宗政親子は討死しました。北畠親房親房は、落城寸前に落ち延び吉野に逃れ(1343年)、その後も南朝方の中心人物として活躍を続けました。
<宝篋印塔>ほうきょういんとう
こちらの宝篋印塔は関宗祐の墓と伝えられています。
<つわものどもが夢の跡>
南朝の公家・北畠親房が関東武士・関氏とともに籠城した城跡です。
■訪問:関城跡
[茨城県筑西市関館]
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■参考及び出典
・現地説明板(筑西市)
・筑西市HP
国指定文化財>関城跡
https://www.city.chikusei.lg.jp/page/page000268.html
<北畠親房が入城した関城跡>
関城跡です。この付近が城の中心だったと思われます。
当時、関城の関宗祐・宗政親子は南朝方でした。北畠親房は同じく南朝方の小田城に入城していましたが、北朝方の激しい攻撃で小田治久が降伏したのをきっかけに、関城へ逃れます。関城は北朝方の標的となりながら2年にもわたって抵抗を続けます。北畠親房はその籠城期間に、既に取り掛かっていた神皇正統記を完成させました。
<説明板>
関城に関する説明板です。最後のほうに、北畠親房が『小田城で書いた日本史の「神皇正統記」に筆を加えて完成したことでも有名です』と記されています。
神皇正統記は日本の神国としての成立からはじまり、歴代天皇の事績を第97代天皇・後村上天皇までをまとめあげ、南朝の正当性を記した歴史書です。後醍醐天皇から信任を受けた北畠親房は、状況が厳しい環境下でこれを書きあげました。
<関城土塁跡>
のちの時代の日本の歴史観に大きく影響した歴史書が、ここ茨城県筑西市で書き上げられたわけですね。
やがて関城は北朝側からの総攻撃を受けて陥落。関宗祐・宗政親子は討死しました。北畠親房親房は、落城寸前に落ち延び吉野に逃れ(1343年)、その後も南朝方の中心人物として活躍を続けました。
<宝篋印塔>ほうきょういんとう
こちらの宝篋印塔は関宗祐の墓と伝えられています。
<つわものどもが夢の跡>
南朝の公家・北畠親房が関東武士・関氏とともに籠城した城跡です。
■訪問:関城跡
[茨城県筑西市関館]
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■参考及び出典
・現地説明板(筑西市)
・筑西市HP
国指定文化財>関城跡
https://www.city.chikusei.lg.jp/page/page000268.html
タグ:茨城
2024年06月17日
関城の北を守った土塁跡(筑西市)関舘の八幡神社
難攻不落と言われた関城の土塁が、良好に残っている八幡神社にお邪魔させて頂きました。
<鳥居>
こちらです
<八幡神社>
言うまでもなく、多くの武将から崇敬された八幡神を祀る神社です。
<拝殿>
まずは手を合わせたものの、社殿裏手の土塁に気付いてしまっているので、やや興奮を抑えられませんでした。
<本殿と土塁>
関城の土塁跡です
関城は南北朝時代に戦乱に巻き込まれた城です。南朝方の重要拠点であったことから、北朝方の激しい攻撃に晒され続けました。今回お邪魔させて頂いた八幡神社は城の北側です。
<関城跡案内図>
これは別な場所(関城駐車場)で撮影した地図です。城は巨大な沼に半島のように突き出した台地の南端に築かれました。よって東・南・西の三方向は天然の水堀に守られています。台地続きとなるのは北側のみで、ここに人の手で土塁や空堀を配置するのはごく自然な流れと言えます。この地図だと、右上に八幡神社が記されています。城を囲んでいた土塁は、途中から既に失われていますが、八幡神社内だけは残っていることがわかります。
<土塁>
貴重な城のなごりです。開発により遺構が少なくなっている関城跡ですが、八幡神社境内の土塁は、かなり良好な状態といえます。
<良好な遺構>
神域であることが幸いした結果ですね
■訪問:関城 北側土塁跡
( 八幡神社 )
[茨城県筑西市関舘]
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■参考及び引用
・関城跡案内図 [関城駐車場設置]
・関城坑道跡説明板(筑西市)
・筑西市HP
国指定文化財>関城跡
https://www.city.chikusei.lg.jp/page/page000268.html
・城郭図鑑HP>関城
http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/008ibaraki/033seki/seki.html
<鳥居>
こちらです
<八幡神社>
言うまでもなく、多くの武将から崇敬された八幡神を祀る神社です。
<拝殿>
まずは手を合わせたものの、社殿裏手の土塁に気付いてしまっているので、やや興奮を抑えられませんでした。
<本殿と土塁>
関城の土塁跡です
関城は南北朝時代に戦乱に巻き込まれた城です。南朝方の重要拠点であったことから、北朝方の激しい攻撃に晒され続けました。今回お邪魔させて頂いた八幡神社は城の北側です。
<関城跡案内図>
これは別な場所(関城駐車場)で撮影した地図です。城は巨大な沼に半島のように突き出した台地の南端に築かれました。よって東・南・西の三方向は天然の水堀に守られています。台地続きとなるのは北側のみで、ここに人の手で土塁や空堀を配置するのはごく自然な流れと言えます。この地図だと、右上に八幡神社が記されています。城を囲んでいた土塁は、途中から既に失われていますが、八幡神社内だけは残っていることがわかります。
<土塁>
貴重な城のなごりです。開発により遺構が少なくなっている関城跡ですが、八幡神社境内の土塁は、かなり良好な状態といえます。
<良好な遺構>
神域であることが幸いした結果ですね
■訪問:関城 北側土塁跡
( 八幡神社 )
[茨城県筑西市関舘]
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■参考及び引用
・関城跡案内図 [関城駐車場設置]
・関城坑道跡説明板(筑西市)
・筑西市HP
国指定文化財>関城跡
https://www.city.chikusei.lg.jp/page/page000268.html
・城郭図鑑HP>関城
http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/008ibaraki/033seki/seki.html
タグ:茨城
2024年06月16日
関城を攻めた北朝軍のなごり(筑西市)関城坑道跡
関城跡へ向かう道中、攻め手が掘った坑道跡に立ち寄りました。
<関城坑道跡>せきじょうこうどうあと
まもなく関城到着という地点です。遥か彼方に筑波山。手前には説明板が設置されています。
<現地説明板>
なるほど、分かりやすい
■高師冬による坑道跡■こうのもろふゆ
現地の説明文によれば、坑道は南北朝時代に北朝方の高師冬の指揮で掘られたようです。関城跡は南朝方の拠点です。説明文をそのまま引用させて頂くと『関城の物見やぐらを攻め落とすために抗夫を募って地下道を掘ったあと』とのことです。
凄い作戦に出ましたね。城内の櫓の支柱を地下から破壊しようとしたのでしょう。攻め手が城の東北から掘りはじめると、関城の城兵も城の外に向かって掘り進んだと記されています。これは、どうするつもりだったのでしょうね?いずれにせよ、地盤の軟弱さから攻め手の坑道が落盤してしまい、結局は双方が坑道の掘削を中止したようです。
<未完の坑道>
その時の坑道跡が発見されたのは大正時代。関館の青年2人が、八幡宮西部里道の側面に偶然発見し、世に知られるようになったそうです。『日本3坑道の一つとして戦史上貴重な価値を有するもの』とのこと。念のため他の二つを調べてみましたが、分かりませんでした。(『』内は原文のまま転記)
地盤の弱さから落盤した南北朝時代の坑道が、大正時代まで残っていたことが奇跡ですね。今はコンクリで補強されています。
<坑道入口>
まさか入ろうとは思いませんが、ちょっとで良いので中をのぞいてみたかったですね。ただ御覧の通り立入禁止の鎖が張られています。ルールを守って外からの撮影だけにしました。
<坑道跡石碑>
こちらは説明板背後の盛土の上に設置されている石碑です。周囲に縄が張ってあるので近づけず、ちょっと厳しい角度から撮影しました。盛ってある土は穴を掘った時のなごりでしょうか?あるいは関城の土塁のなごり?石碑の向こうに森が見えていますが、そこはかつての関城の城内で、現在は八幡神社となっています。
<八幡神社鳥居>
説明文にあった八幡様です。
<八幡神社境内>
関城北側の土塁がはっきり残っています。土塁はいまでこそ境内のみですが、城が現役の時には、坑道口付近まで繋がっていたようです。この堅い守りを、北朝方はどうしても突破したかったわけですね。
<つわものどもが夢の跡>
見た目は地味ですが、存在そのものが貴重です
■訪問:関城坑道跡
(八幡神社近く)
[茨城県筑西市関舘]
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■参考及び出典
・現地説明板(筑西市)
・筑西市HP
国指定文化財>関城跡
https://www.city.chikusei.lg.jp/page/page000268.html
<関城坑道跡>せきじょうこうどうあと
まもなく関城到着という地点です。遥か彼方に筑波山。手前には説明板が設置されています。
<現地説明板>
なるほど、分かりやすい
■高師冬による坑道跡■こうのもろふゆ
現地の説明文によれば、坑道は南北朝時代に北朝方の高師冬の指揮で掘られたようです。関城跡は南朝方の拠点です。説明文をそのまま引用させて頂くと『関城の物見やぐらを攻め落とすために抗夫を募って地下道を掘ったあと』とのことです。
凄い作戦に出ましたね。城内の櫓の支柱を地下から破壊しようとしたのでしょう。攻め手が城の東北から掘りはじめると、関城の城兵も城の外に向かって掘り進んだと記されています。これは、どうするつもりだったのでしょうね?いずれにせよ、地盤の軟弱さから攻め手の坑道が落盤してしまい、結局は双方が坑道の掘削を中止したようです。
<未完の坑道>
その時の坑道跡が発見されたのは大正時代。関館の青年2人が、八幡宮西部里道の側面に偶然発見し、世に知られるようになったそうです。『日本3坑道の一つとして戦史上貴重な価値を有するもの』とのこと。念のため他の二つを調べてみましたが、分かりませんでした。(『』内は原文のまま転記)
地盤の弱さから落盤した南北朝時代の坑道が、大正時代まで残っていたことが奇跡ですね。今はコンクリで補強されています。
<坑道入口>
まさか入ろうとは思いませんが、ちょっとで良いので中をのぞいてみたかったですね。ただ御覧の通り立入禁止の鎖が張られています。ルールを守って外からの撮影だけにしました。
<坑道跡石碑>
こちらは説明板背後の盛土の上に設置されている石碑です。周囲に縄が張ってあるので近づけず、ちょっと厳しい角度から撮影しました。盛ってある土は穴を掘った時のなごりでしょうか?あるいは関城の土塁のなごり?石碑の向こうに森が見えていますが、そこはかつての関城の城内で、現在は八幡神社となっています。
<八幡神社鳥居>
説明文にあった八幡様です。
<八幡神社境内>
関城北側の土塁がはっきり残っています。土塁はいまでこそ境内のみですが、城が現役の時には、坑道口付近まで繋がっていたようです。この堅い守りを、北朝方はどうしても突破したかったわけですね。
<つわものどもが夢の跡>
見た目は地味ですが、存在そのものが貴重です
■訪問:関城坑道跡
(八幡神社近く)
[茨城県筑西市関舘]
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■参考及び出典
・現地説明板(筑西市)
・筑西市HP
国指定文化財>関城跡
https://www.city.chikusei.lg.jp/page/page000268.html
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