<三峯神社>
訪問した三峯神社の御由緒に、関東郡代・伊奈氏のことが記されているのを見つけました。その部分だけ以下に転記させて頂きます(『』内は原文)。
『江戸時代、関東郡代伊奈半十郎検地の折、三里四方を境内地として除地され、寛文元年 現在の本殿が造営されました。』
伊奈氏は関八州の天領の治水や新田開発、検地で功績を上げ、徳川家の関東支配の基盤整備に大きく貢献した一族です。初代の伊奈忠次から始まり、『関東郡代』を十二代にわたって世襲しました。関東の代官の筆頭というポジションですので、秩父と関りがあってもなんら不思議ではありませんが、直接関与していたあたりに、徳川幕府が三峯神社を優遇していたことが伝わってきます。文中の『除地』とは、その土地の税を免除することを意味しています。
さて
御由緒には『伊奈半十郎』と記されていますが、半十郎はあくまで通称です。伊奈氏歴代当主のうち、複数人が半十郎を名乗りました。具体的にはどなたですかね?
現在の本殿が造営されたのが『寛文元年』となっていますが、これは西暦だと1661年。検地と税の免除がほぼ同時だとすると、この時の関東郡代は伊奈忠克ですので、これが半十郎の正体?かと思いましたが、よく調べると、伊奈忠克の通称は半左衛門でした。ちなみに、忠克の先代であり父である忠治と、後継者で息子の忠常の通称は半十郎です。忠常ですかね?(個人的推測です)
いずれにせよ
徳川幕府の意向と、関東の代官の頭である伊奈氏の尽力もあり、三峯神社は江戸時代におおいに栄えて、庶民にも広く知られるようになりました。
秩父に生息する狼は、猪などから農作物を守る神の使いとされました。
やがては火防や盗賊除けなど御利益の範囲は広がり、神そのものとしてあがめられました。
最後に
伊奈氏による関東郡代世襲は、十二代目の伊奈忠尊が諸事情で改易(1792)となったことで幕引きとなります。伊奈氏そのものが、幕府の中核からは外れることとなりました。ただ、長年に渡る伊奈一族の功績は否定されるものではありませんでした。幕府は伊奈忠治の三男・忠重の子孫にあたる忠盈(ただみつ)に対し、武蔵国秩父および常陸国信太合せて千石を与えて、伊奈氏の名跡を継がせました。伊奈氏と秩父の関係は、その後も続いたということですね。
■訪問:三峯神社
[埼玉県秩父市三峰]298-1
お城巡りランキング
■参考及び出典
・現地説明板(御由緒)
・三峯神社HP
https://www.mitsuminejinja.or.jp/keidai/
2024年09月09日
2024年09月08日
重忠杉(三峯神社)畠山重忠が奉納した御神木
関東一のパワースポットとも呼ばれる三峯神社には、鎌倉時代の武将・畠山重忠が植樹したと伝わる杉の木があります。
<重忠杉>しげただすぎ
拝殿の手前には、御神木の大杉が2本そびえ立っています。信仰心の厚い重忠が奉献したとされており「重忠杉」とも呼ばれています。
<三峯神社>
三峯神社は秩父三社の一社。約2千年前、ヤマトタケルが東国平定の際に三峰山に登り、イザナギノミコト(伊弉諾尊)とイザナミノミコト(伊弉册尊)のためにお宮を祀ったのが始まりとされています。
<日本武尊像>
三峯神社境内のヤマトタケル像
神社の始まりからすると相当あとの話になりますが、中世になると、三峯神社は関東の武将を中心に篤い信仰をうけるようになっていました。
秩父を治めていた畠山重忠が、願いを記した文を収めたところ霊験があり、十里四方の土地を寄進しましたと伝わります。西は甲斐国との境の山までといいますから、かなり広大な土地ですね。以降、三峯神社は関東武士の信仰を集めて大いに栄えました。
<パワースポット>
拝殿向かって左側の御神木に手をかざして祈れば、気が与えられると考えられています。いわゆるパワースポットとして人気です。
ということで
畠山重忠ゆかりの御神木のご紹介でした。
<樹齢800年>
■訪問:重忠杉
(三峯神社拝殿前)
[埼玉県秩父市三峰]298-1
お城巡りランキング
■参考
・Wikipedia:2024/9/8
・秩父リゾートHP
https://chichibu-resort.com/2023/07/19/mitsumine/
-----------( 追 記 )-----------
せっかく訪問したので境内の画像を少しだけ追加しておきます。
<三ツ鳥居>みつとりい
<随身門>ずいじんもん
<拝殿>
<本殿>
奥秩父の山中に鎮座する神社です。
<重忠杉>しげただすぎ
拝殿の手前には、御神木の大杉が2本そびえ立っています。信仰心の厚い重忠が奉献したとされており「重忠杉」とも呼ばれています。
<三峯神社>
三峯神社は秩父三社の一社。約2千年前、ヤマトタケルが東国平定の際に三峰山に登り、イザナギノミコト(伊弉諾尊)とイザナミノミコト(伊弉册尊)のためにお宮を祀ったのが始まりとされています。
<日本武尊像>
三峯神社境内のヤマトタケル像
神社の始まりからすると相当あとの話になりますが、中世になると、三峯神社は関東の武将を中心に篤い信仰をうけるようになっていました。
秩父を治めていた畠山重忠が、願いを記した文を収めたところ霊験があり、十里四方の土地を寄進しましたと伝わります。西は甲斐国との境の山までといいますから、かなり広大な土地ですね。以降、三峯神社は関東武士の信仰を集めて大いに栄えました。
<パワースポット>
拝殿向かって左側の御神木に手をかざして祈れば、気が与えられると考えられています。いわゆるパワースポットとして人気です。
ということで
畠山重忠ゆかりの御神木のご紹介でした。
<樹齢800年>
■訪問:重忠杉
(三峯神社拝殿前)
[埼玉県秩父市三峰]298-1
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■参考
・Wikipedia:2024/9/8
・秩父リゾートHP
https://chichibu-resort.com/2023/07/19/mitsumine/
-----------( 追 記 )-----------
せっかく訪問したので境内の画像を少しだけ追加しておきます。
<三ツ鳥居>みつとりい
<随身門>ずいじんもん
<拝殿>
<本殿>
奥秩父の山中に鎮座する神社です。
タグ:埼玉
狼を祀るお宮(三峯神社)御仮屋神社
神聖な気に満ちた三峯神社の中で、もっとも霊力が高いと言われる場所を訪ねました。
<御仮屋>おかりや
神様の使いである狼(大口真神)をお祀りしている社です。
<鳥居>
三峯神社拝殿からみて左手の方向にのびる山道を歩くと、鳥居が見えてきます。大きな社ではありません。ただ凛とした空気が漂います。
<説明板>
ここは三峯神社のお使い神のお宮であることが記されています。お使い神は深い山中に身を潜めていることから、ここを仮のお宮としてお祭りしているとのこと。遠宮、あるいはお仮屋と呼ばれる所以ですね。
狼(山犬)は、日本武尊の東夷御平定の際に道案内をつとめ、その忠実さと勇猛さによって三峯神社のお使い神(御眷属)となりました。
やがてその霊力により三峯信仰の中心となり、山畑を荒らす動物を追い払い、家々を守護する神として崇められるようになりました。
<大口真神>おおくちのまかみ
狼は神格化され大口真神と呼ばれています
関東地方で流行した狼信仰の中心がここ三峯神社。境内社は多数ですが、ここが異彩を放っている理由が、何となく理解できました。
秩父山地にはかつて日本狼が生息していました。神として崇められながら、もうその姿を見ることはできません。人に目撃されないだけで、奥深い山中にいまも身を潜めている。そう思いたくなる場所でした。
石段の窪みは、神様の使いである狼の足跡と呼ばれています。人知れず増えているといいですね。
■訪問:御仮屋神社(遠宮)
[埼玉県秩父市三峰]298-1
お城巡りランキング
■参考及び出典
・現地説明板(三峯神社)
・三峯神社HP
https://www.mitsuminejinja.or.jp/keidai/
<御仮屋>おかりや
神様の使いである狼(大口真神)をお祀りしている社です。
<鳥居>
三峯神社拝殿からみて左手の方向にのびる山道を歩くと、鳥居が見えてきます。大きな社ではありません。ただ凛とした空気が漂います。
<説明板>
ここは三峯神社のお使い神のお宮であることが記されています。お使い神は深い山中に身を潜めていることから、ここを仮のお宮としてお祭りしているとのこと。遠宮、あるいはお仮屋と呼ばれる所以ですね。
狼(山犬)は、日本武尊の東夷御平定の際に道案内をつとめ、その忠実さと勇猛さによって三峯神社のお使い神(御眷属)となりました。
やがてその霊力により三峯信仰の中心となり、山畑を荒らす動物を追い払い、家々を守護する神として崇められるようになりました。
<大口真神>おおくちのまかみ
狼は神格化され大口真神と呼ばれています
関東地方で流行した狼信仰の中心がここ三峯神社。境内社は多数ですが、ここが異彩を放っている理由が、何となく理解できました。
秩父山地にはかつて日本狼が生息していました。神として崇められながら、もうその姿を見ることはできません。人に目撃されないだけで、奥深い山中にいまも身を潜めている。そう思いたくなる場所でした。
石段の窪みは、神様の使いである狼の足跡と呼ばれています。人知れず増えているといいですね。
■訪問:御仮屋神社(遠宮)
[埼玉県秩父市三峰]298-1
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■参考及び出典
・現地説明板(三峯神社)
・三峯神社HP
https://www.mitsuminejinja.or.jp/keidai/
タグ:埼玉
2024年09月01日
長野堰用水円筒分水(高崎市)
高崎市の住宅地にある円筒分水を訪問しました。
<円筒分水>えんとうぶんすい
こちらです。水は円の中心から外へ向かって放射状広がり、均等に溢れます。円の外側には、中心からの角度を決めて仕切りを設けてあります。仕切りで分けられた水は各水路へ流れることになりますが、全体の水量が増減しても、分配される水の比率は変わりません。
<各水路>
こちらは円筒分水の下流で撮影しました。交わることのないそれぞれの水路。水の量はそれぞれ違いますが、比率は一定に保たれています。
<長野堰用水円筒分水>ながのぜきようすい
現地説明板によれば外円筒12.6m、内円筒8.0m。轟々と音を立てて水が絶え間なく噴き出しているせいか、実物はこの画像以上に迫力があります。水路(長野堰用水)の上流から流れてきた水を、ここで行き先ごとに分けています。
<長野堰説明板>
こちらによれば、水を引き込むための堰の形が造られたのは千年以上も前の話。具体的な記載はありませんが、着手したのは戦国時代に名を馳せた箕輪城主・長野業正のご先祖のようです。長野氏が築いたから長野堰。わかりやすいですね。
ここ高崎は烏川と井野川に挟まれていながら、台地となっていることから、水不足に悩まされていた歴史がありました。まぁ川がすぐそばでも、水は高い方へは流れてくれませんからね。川の標高がもっと高いところ、つまり上流で水を引き込んで、水路でつないでくるしかありません。長野堰用水の整備には、現在の用水路の原形を造ったとされる長野業正は勿論のこと、その後の支配者たちも関与しています。高崎にとって、いかに重要なインフラなのか伝わってきますね。
<説明板>
こちらの説明板によれば、長野堰用水は、ここ円筒分水から9q離れたところから水を引き込んでいるようです。灌漑用水として利用され、高崎城址のお堀の水にも利用されているとのこと。そして円筒分水を通過した水は、地獄堰、鳴上堰、矢中堰、倉賀野の4堰に正確に受益分配されるようになっています。
<説明板拡大>
平面図(上)と断面図(下)。断面図を見ると、円の中心から水が溢れ出る仕組みがよくわかります。理科で習ったいわゆるサイフォンの原理(ここでは逆サイフォンの原理)ですね。平面図には各水路の比率も記されています。地獄堰が28%で鳴上堰は4%、矢中堰31%そして倉賀野堰は37%とのこと。
倉賀野か・・・
実は、私が長野堰を意識したのは倉賀野を訪問した時でした。倉賀野城本丸跡のすぐ近くには、烏川が流れています。ただ高低差があって、城下に水を引き込むことはできません。城下に設けられた水路(五貫堀川)を調べた結果、すぐ近くを流れる烏川のはるか上流の長野堰から水が供給されていたことを知りました。
<記念碑>
水路近くのこちらの石碑には「倉賀野・矢中堰改修記念碑」と刻まれています。現代も改良は続けられています。
話を長野堰用水戻すと
<分水地点>
水をめぐる集落同士の争いは何百年も続いていました。雨の少ない時には、分水地点であるこの地は修羅場と化したかもしれませんね。円筒分水がその問題を根底から解決してくれたのは昭和になってからです。
ということで
長野堰用水と円筒分水のご紹介でした。円筒分水は地域によっては円形分水とも呼ばれるそうです。水を分配する原理と役割は同じですね。
<世界かんがい施設遺産>
世界かんがい施設遺産に登録されています
■訪問:長野堰用水円筒分水
[群馬県高崎市江木町]134
お城巡りランキング
■参考・出典
・現地説明板
(群馬県西部農業事務所)
・Wikipedia:2024/9/1
・高崎市HP
https://www.city.takasaki.gunma.jp/page/5515.html
<円筒分水>えんとうぶんすい
こちらです。水は円の中心から外へ向かって放射状広がり、均等に溢れます。円の外側には、中心からの角度を決めて仕切りを設けてあります。仕切りで分けられた水は各水路へ流れることになりますが、全体の水量が増減しても、分配される水の比率は変わりません。
<各水路>
こちらは円筒分水の下流で撮影しました。交わることのないそれぞれの水路。水の量はそれぞれ違いますが、比率は一定に保たれています。
<長野堰用水円筒分水>ながのぜきようすい
現地説明板によれば外円筒12.6m、内円筒8.0m。轟々と音を立てて水が絶え間なく噴き出しているせいか、実物はこの画像以上に迫力があります。水路(長野堰用水)の上流から流れてきた水を、ここで行き先ごとに分けています。
<長野堰説明板>
こちらによれば、水を引き込むための堰の形が造られたのは千年以上も前の話。具体的な記載はありませんが、着手したのは戦国時代に名を馳せた箕輪城主・長野業正のご先祖のようです。長野氏が築いたから長野堰。わかりやすいですね。
ここ高崎は烏川と井野川に挟まれていながら、台地となっていることから、水不足に悩まされていた歴史がありました。まぁ川がすぐそばでも、水は高い方へは流れてくれませんからね。川の標高がもっと高いところ、つまり上流で水を引き込んで、水路でつないでくるしかありません。長野堰用水の整備には、現在の用水路の原形を造ったとされる長野業正は勿論のこと、その後の支配者たちも関与しています。高崎にとって、いかに重要なインフラなのか伝わってきますね。
<説明板>
こちらの説明板によれば、長野堰用水は、ここ円筒分水から9q離れたところから水を引き込んでいるようです。灌漑用水として利用され、高崎城址のお堀の水にも利用されているとのこと。そして円筒分水を通過した水は、地獄堰、鳴上堰、矢中堰、倉賀野の4堰に正確に受益分配されるようになっています。
<説明板拡大>
平面図(上)と断面図(下)。断面図を見ると、円の中心から水が溢れ出る仕組みがよくわかります。理科で習ったいわゆるサイフォンの原理(ここでは逆サイフォンの原理)ですね。平面図には各水路の比率も記されています。地獄堰が28%で鳴上堰は4%、矢中堰31%そして倉賀野堰は37%とのこと。
倉賀野か・・・
実は、私が長野堰を意識したのは倉賀野を訪問した時でした。倉賀野城本丸跡のすぐ近くには、烏川が流れています。ただ高低差があって、城下に水を引き込むことはできません。城下に設けられた水路(五貫堀川)を調べた結果、すぐ近くを流れる烏川のはるか上流の長野堰から水が供給されていたことを知りました。
<記念碑>
水路近くのこちらの石碑には「倉賀野・矢中堰改修記念碑」と刻まれています。現代も改良は続けられています。
話を長野堰用水戻すと
<分水地点>
水をめぐる集落同士の争いは何百年も続いていました。雨の少ない時には、分水地点であるこの地は修羅場と化したかもしれませんね。円筒分水がその問題を根底から解決してくれたのは昭和になってからです。
ということで
長野堰用水と円筒分水のご紹介でした。円筒分水は地域によっては円形分水とも呼ばれるそうです。水を分配する原理と役割は同じですね。
<世界かんがい施設遺産>
世界かんがい施設遺産に登録されています
■訪問:長野堰用水円筒分水
[群馬県高崎市江木町]134
お城巡りランキング
■参考・出典
・現地説明板
(群馬県西部農業事務所)
・Wikipedia:2024/9/1
・高崎市HP
https://www.city.takasaki.gunma.jp/page/5515.html
タグ:群馬
2024年08月23日
近藤勇墓所(三鷹市)龍源寺
<近藤勇胸像>こんどういさみ
三鷹市の龍源寺の門前で撮影しました。龍源寺は近藤勇の生家宮川家の菩提寺です。新選組局長・近藤勇(幼名宮川勝五郎)は、ここから徒歩数分のところで生まれました。生まれた家も龍源寺も、古くからある街道に面しています。
<龍源寺門前>りゅうげんじ
山門の左手には六地蔵、奥に冒頭の近藤勇像、縦長の石碑(石柱?)には「史跡近藤勇墓所碑」と記されています。
<天然理心流の碑と庚申塔>
「近藤勇と天然理心流の碑」と庚申塔などが並べられています。
「近藤勇と天然理心流の碑」は字が一部で読みにくいですが、鹿島神道流の修行を積んだ天然理心流創始者・近藤内蔵助長祐のことや、四代目を継承した近藤勇のことが紹介されています。全てはご紹介しませんが、総じて熱を帯びた文面となっており、近藤勇が剣豪の名に相応しいことが伝わってきます。『古武道は日本人の心のふるさとであり貴重な歴史的文化遺産』という言葉が印象に残りました。
<龍源寺参道>
両脇にはイチョウの大木。奥が龍源寺本堂です。
<龍源寺本堂>
御本尊は釈迦如来。曹洞宗の寺院です。近藤勇の墓はこちらの本堂裏手になります
<扁額>
龍源寺の山号は大沢山。ここは旧大沢村ですので地名由来ですね。創建は1644年とのことで、古くからこの地にあったお寺のようです。Wikiさんによれば、人見街道に面していることから、徳川将軍が鷹狩のための休憩所として立ち寄ったこともあるそうです。
<墓所>
複数の墓石が並んでいます。全て一族の墓。うち1基には「近藤勇墓」と刻まれています(この画像だと木の陰になっています)。養子勇五郎の墓もここにあります。近藤勇の墓は東京都指定文化財となっていますが、個人のお墓ですので、遠くからの撮影にさせて頂きました。墓所の雰囲気は伝わると思います。
<墓所内石碑>
墓所内に辞世の碑が設置されています。全て漢字で私には難解ですが、冒頭の「孤軍援絶作囚俘 顧念君恩涙更流」は字の通り受け止めて良さそうです。援軍が絶えて孤立し、囚われの身となり、主君の恩を思うと涙が流れる。そんな感じだと思います(ちょっと雑ですみません)。
<説明板>
三鷹市教育委員会さんによる説明文です。多少補足しながら要約させて頂くと、まず近藤勇が天保5年(1834)武州多摩郡上石原村の生まれであること、宮川久次郎の三男であること、そして15歳で天然理心流近藤周助に入門し、28歳で近藤家の養子となったことが記されています。近藤は近藤周助の後継者となり、天然理心流四代目を襲名しています。
次に、土方歳三らと京都に上ったのが文久3年(1863)で、慶応3年(1867)の大政奉還までの4年間が、新選組として活躍した期間であると記されています。板橋宿で処刑されたのは慶応4年4月25日(1868年5月17日)。享年35歳でした。
<新選組局長>
流山で捕らえられた近藤勇は、その時点で新政府軍の本陣が置かれていた板橋宿に連行され、連日取り調べの後に斬首刑。近藤勇の首は、京都の三条河原で晒し首とされましたが、その後の行方がはっきりしていません。遺体は遺族が引き取り、龍源寺に葬ったと伝わります。
近藤勇の墓については、ここ三鷹の他に、処刑された板橋など、複数存在しています。普通なら墓はひとつですが、時代背景やご本人の影響力からして、自然なことなのかもしれません。それぞれの場所で、幕末の動乱を生きた近藤勇に思いを馳せる人たちがいまもいる。どこが最も有力な墓であるかという議論より、そのことの方が尊いと個人的には思っています。
<龍源寺門柱>
現在の住所だと、龍源寺は三鷹市なのに対し、すぐ近くの近藤勇出生地は調布市になります。市境ですからあり得ることですが、生れ育った者にとってはこの付近全てが故郷。そういう意味で、今回は近藤勇本人の故郷の墓を訪ねたという思いがしました。
ということで
三鷹市の近藤勇墓所のご紹介でした。
■訪問:
近藤勇の墓(龍源寺)
[東京都三鷹市大沢] 6丁目
お城巡りランキング
■参考・出典
・近藤勇と天然理心流の碑
(三鷹市剣道連盟)
・現地説明板
(三鷹市教育委員会)
・Wikipedia:2024/8/23
・みたか都市観光協会HP
三鷹web観光案内>おすすめスポット
>大沢
https://kanko.mitaka.ne.jp/docs/2021111000015/
三鷹市の龍源寺の門前で撮影しました。龍源寺は近藤勇の生家宮川家の菩提寺です。新選組局長・近藤勇(幼名宮川勝五郎)は、ここから徒歩数分のところで生まれました。生まれた家も龍源寺も、古くからある街道に面しています。
<龍源寺門前>りゅうげんじ
山門の左手には六地蔵、奥に冒頭の近藤勇像、縦長の石碑(石柱?)には「史跡近藤勇墓所碑」と記されています。
<天然理心流の碑と庚申塔>
「近藤勇と天然理心流の碑」と庚申塔などが並べられています。
「近藤勇と天然理心流の碑」は字が一部で読みにくいですが、鹿島神道流の修行を積んだ天然理心流創始者・近藤内蔵助長祐のことや、四代目を継承した近藤勇のことが紹介されています。全てはご紹介しませんが、総じて熱を帯びた文面となっており、近藤勇が剣豪の名に相応しいことが伝わってきます。『古武道は日本人の心のふるさとであり貴重な歴史的文化遺産』という言葉が印象に残りました。
<龍源寺参道>
両脇にはイチョウの大木。奥が龍源寺本堂です。
<龍源寺本堂>
御本尊は釈迦如来。曹洞宗の寺院です。近藤勇の墓はこちらの本堂裏手になります
<扁額>
龍源寺の山号は大沢山。ここは旧大沢村ですので地名由来ですね。創建は1644年とのことで、古くからこの地にあったお寺のようです。Wikiさんによれば、人見街道に面していることから、徳川将軍が鷹狩のための休憩所として立ち寄ったこともあるそうです。
<墓所>
複数の墓石が並んでいます。全て一族の墓。うち1基には「近藤勇墓」と刻まれています(この画像だと木の陰になっています)。養子勇五郎の墓もここにあります。近藤勇の墓は東京都指定文化財となっていますが、個人のお墓ですので、遠くからの撮影にさせて頂きました。墓所の雰囲気は伝わると思います。
<墓所内石碑>
墓所内に辞世の碑が設置されています。全て漢字で私には難解ですが、冒頭の「孤軍援絶作囚俘 顧念君恩涙更流」は字の通り受け止めて良さそうです。援軍が絶えて孤立し、囚われの身となり、主君の恩を思うと涙が流れる。そんな感じだと思います(ちょっと雑ですみません)。
<説明板>
三鷹市教育委員会さんによる説明文です。多少補足しながら要約させて頂くと、まず近藤勇が天保5年(1834)武州多摩郡上石原村の生まれであること、宮川久次郎の三男であること、そして15歳で天然理心流近藤周助に入門し、28歳で近藤家の養子となったことが記されています。近藤は近藤周助の後継者となり、天然理心流四代目を襲名しています。
次に、土方歳三らと京都に上ったのが文久3年(1863)で、慶応3年(1867)の大政奉還までの4年間が、新選組として活躍した期間であると記されています。板橋宿で処刑されたのは慶応4年4月25日(1868年5月17日)。享年35歳でした。
<新選組局長>
流山で捕らえられた近藤勇は、その時点で新政府軍の本陣が置かれていた板橋宿に連行され、連日取り調べの後に斬首刑。近藤勇の首は、京都の三条河原で晒し首とされましたが、その後の行方がはっきりしていません。遺体は遺族が引き取り、龍源寺に葬ったと伝わります。
近藤勇の墓については、ここ三鷹の他に、処刑された板橋など、複数存在しています。普通なら墓はひとつですが、時代背景やご本人の影響力からして、自然なことなのかもしれません。それぞれの場所で、幕末の動乱を生きた近藤勇に思いを馳せる人たちがいまもいる。どこが最も有力な墓であるかという議論より、そのことの方が尊いと個人的には思っています。
<龍源寺門柱>
現在の住所だと、龍源寺は三鷹市なのに対し、すぐ近くの近藤勇出生地は調布市になります。市境ですからあり得ることですが、生れ育った者にとってはこの付近全てが故郷。そういう意味で、今回は近藤勇本人の故郷の墓を訪ねたという思いがしました。
ということで
三鷹市の近藤勇墓所のご紹介でした。
■訪問:
近藤勇の墓(龍源寺)
[東京都三鷹市大沢] 6丁目
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■参考・出典
・近藤勇と天然理心流の碑
(三鷹市剣道連盟)
・現地説明板
(三鷹市教育委員会)
・Wikipedia:2024/8/23
・みたか都市観光協会HP
三鷹web観光案内>おすすめスポット
>大沢
https://kanko.mitaka.ne.jp/docs/2021111000015/
タグ:東京
新選組局長ゆかりの地(調布市)近藤勇生家跡と近藤神社
新選組局長・近藤勇の生家跡を訪ねました。
<近藤勇生家跡>
こちらです。現地は調布市と三鷹市の市境付近。標柱と説明板の以外は、勇の産湯に使ったとされる井戸が残っているだけです。
<産湯井戸>
近藤勇はこの地で暮らす百姓・宮川家の三男として生まれ、のちに近藤家の養子となりました。
<説明板>
調布市教育委員会さんによる分かり安い説明板が設置されていますので、以下に転記させて頂きます(『』内は原文:改行省略)。
『この地は新選組局長近藤勇の生家跡である。近藤勇は、天保五年(一八三四)宮川久次郎の三男(幼名勝五郎)としてこの地に生まれ育った。十五歳の時天然理心流近藤周助に入門、翌年理心流の目録を得て周助の養子となり近藤姓を名乗った。当時、宮川家の屋敷は面積約七千平方メートルの広さがあり、建物は母屋のほか蔵屋敷、文庫蔵、乾燥納屋、地下蔵、農具入納屋等があり、周囲はケヤキ、カシその他の大木や竹林が茂っていた。現在の跡地は、屋敷の東南部に位置し、昭和十八年に家がとりこわされるまで使用していた井戸を残すのみである。』
生涯でいろいろな名のある近藤勇の最初の名は宮川勝五郎。のちに養父となる天然理心流・近藤周助に15歳で入門しました。実父の宮川久次郎は比較的裕福な百姓であったようで、屋敷がそうとう広かったことが説明文から伝わってきます。
現在の生家跡は、広い屋敷内の隅っこのごく一部。更に農地もあったのですから、感覚的には、この付近一帯が近藤勇が生まれた場所と受け止めることにしました。宮川家は屋敷の一部を道場として提供するなどしたため、付近の出稽古先として賑わったそうです。近藤勇というと、師匠であり養父である近藤周助の話をよく耳にしますが、実家である宮川家も、剣豪が育つに相応しい環境だったように思えます。
説明文によれば、昭和18年までは家が残っていたようです。ここは調布飛行場の近く。当時の陸軍機の離着陸の都合で取り壊されたようです。
<もうひとつの説明板>
説明板はもうひとつ設置されています。宮川家の説明から始まり、天然理心流入門や4代目襲名、そして板橋で処刑されたことなどが経緯も含めて紹介されています。左側には宮川家の写真や復元図なども掲載されているのですが、私の訪問時にはちょっと色あせておりました。この説明板だと、宮川家は裕福というより、村の中間層だったことになります。どっちみち諸説あるので、私は「比較的恵まれた環境」というふうに理解したいと思います。
そして
<近藤神社>
こちらは生家跡のすぐお隣の近藤神社です。昭和元年、有志の手により建てられました。言うまでもなく、近藤勇が祀られています。
実は
事前のネット検索で見た近藤神社には、木製の鳥居がありましたが、私の訪問時(2024年8月18日)にはありませんでした。
<鳥居の跡>
事情はわかりませんが、鳥居は根元からなくなっています。きちんと切断された断面を見ると、割れ目が柱の内部にまで至っているように見えます。古い木製の鳥居でしたので、付け替えるのかもしれませんね(そう思うことにしたというだけです)。
<近藤勇生家跡と近藤神社>
ということで
近藤勇生家跡と近藤神社のご紹介でした。
<人見街道沿い>
現地は道路に面しています。ここから徒歩数分のところに、近藤勇墓所である龍源寺があります。
■訪問:近藤勇生家跡
[東京都調布市野水]1-6-8
お城巡りランキング
■参考・出典
・Wikipedia:2024/8/23
・現地説明板
(調布市教育委員会)
・調布観光ナビHP
>近藤勇生家跡
https://csa.gr.jp/contents/16004
<近藤勇生家跡>
こちらです。現地は調布市と三鷹市の市境付近。標柱と説明板の以外は、勇の産湯に使ったとされる井戸が残っているだけです。
<産湯井戸>
近藤勇はこの地で暮らす百姓・宮川家の三男として生まれ、のちに近藤家の養子となりました。
<説明板>
調布市教育委員会さんによる分かり安い説明板が設置されていますので、以下に転記させて頂きます(『』内は原文:改行省略)。
『この地は新選組局長近藤勇の生家跡である。近藤勇は、天保五年(一八三四)宮川久次郎の三男(幼名勝五郎)としてこの地に生まれ育った。十五歳の時天然理心流近藤周助に入門、翌年理心流の目録を得て周助の養子となり近藤姓を名乗った。当時、宮川家の屋敷は面積約七千平方メートルの広さがあり、建物は母屋のほか蔵屋敷、文庫蔵、乾燥納屋、地下蔵、農具入納屋等があり、周囲はケヤキ、カシその他の大木や竹林が茂っていた。現在の跡地は、屋敷の東南部に位置し、昭和十八年に家がとりこわされるまで使用していた井戸を残すのみである。』
生涯でいろいろな名のある近藤勇の最初の名は宮川勝五郎。のちに養父となる天然理心流・近藤周助に15歳で入門しました。実父の宮川久次郎は比較的裕福な百姓であったようで、屋敷がそうとう広かったことが説明文から伝わってきます。
現在の生家跡は、広い屋敷内の隅っこのごく一部。更に農地もあったのですから、感覚的には、この付近一帯が近藤勇が生まれた場所と受け止めることにしました。宮川家は屋敷の一部を道場として提供するなどしたため、付近の出稽古先として賑わったそうです。近藤勇というと、師匠であり養父である近藤周助の話をよく耳にしますが、実家である宮川家も、剣豪が育つに相応しい環境だったように思えます。
説明文によれば、昭和18年までは家が残っていたようです。ここは調布飛行場の近く。当時の陸軍機の離着陸の都合で取り壊されたようです。
<もうひとつの説明板>
説明板はもうひとつ設置されています。宮川家の説明から始まり、天然理心流入門や4代目襲名、そして板橋で処刑されたことなどが経緯も含めて紹介されています。左側には宮川家の写真や復元図なども掲載されているのですが、私の訪問時にはちょっと色あせておりました。この説明板だと、宮川家は裕福というより、村の中間層だったことになります。どっちみち諸説あるので、私は「比較的恵まれた環境」というふうに理解したいと思います。
そして
<近藤神社>
こちらは生家跡のすぐお隣の近藤神社です。昭和元年、有志の手により建てられました。言うまでもなく、近藤勇が祀られています。
実は
事前のネット検索で見た近藤神社には、木製の鳥居がありましたが、私の訪問時(2024年8月18日)にはありませんでした。
<鳥居の跡>
事情はわかりませんが、鳥居は根元からなくなっています。きちんと切断された断面を見ると、割れ目が柱の内部にまで至っているように見えます。古い木製の鳥居でしたので、付け替えるのかもしれませんね(そう思うことにしたというだけです)。
<近藤勇生家跡と近藤神社>
ということで
近藤勇生家跡と近藤神社のご紹介でした。
<人見街道沿い>
現地は道路に面しています。ここから徒歩数分のところに、近藤勇墓所である龍源寺があります。
■訪問:近藤勇生家跡
[東京都調布市野水]1-6-8
お城巡りランキング
■参考・出典
・Wikipedia:2024/8/23
・現地説明板
(調布市教育委員会)
・調布観光ナビHP
>近藤勇生家跡
https://csa.gr.jp/contents/16004
タグ:東京
2024年08月17日
伊達政宗生誕の地(米沢城)
戦国武将・伊達政宗は米沢城で生まれました。
<伊達政宗公生誕の地>
米沢城本丸跡の伊達政宗生誕地の石碑。米沢はもともと伊達家の領地でした。
ところが…
最近では、伊達時代の「米沢城」は、現在の米沢城より西方の舘山城の近くに存在したのではないかといわれ始めています。ちょっと言い換えると、伊達政宗の生誕地が米沢城なのはいいとして、当時の米沢城はどっちなのかということになります。その結果、同じ米沢市で、現在の米山城と舘山城の双方が「伊達政宗生誕の地」をアピールしている状態になっています。
<説明板>
現在の米山城本丸跡の説明板です。上杉家御廟所・上杉家と伊達家の家紋に関する説明と並んで、舘山城の紹介も掲載されています。
<米沢城と舘山城>
右側です。私の主観が入らないようそのまま引用させて頂きます(『』内が原文)。
『米沢城跡(松が岬公園)から約3キロ西側の舘山地区に、山城と平城からなる舘山城跡があります。伊達家の正史「伊達治家記録」には、地元の有力者新田氏の居城であったり、伊達輝宗の隠居所、伊達政宗が地割した記載があります。また、平成25年の発掘調査で山城から石垣が発見されました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い以降の石積技術であることから、上杉景勝が築いた石垣とみられます。舘山城は、米沢城の西側の拠点として、伊達家や上杉家が整備した重要な城と考えられます。米沢市はこのような歴史遺産が多く残るまちです。』
舘山城では石垣も見つかっていますが、これは上杉時代のものとのこと。伊達家・上杉家双方に関わりのある城ということですね。そして、見落とせないのは『米沢城の西側の拠点として、伊達家や上杉家が整備した』という表現ですかね。つまり、本城はあくまで現在の米沢城ということになります。
<舘山城画像>
舘山城は南と北に川が流れる舌状丘陵の先端付近に築かれました。画像中央、山麓の平地に居館を配置し、平時はそこに居住していたと思われます。そして山には戦に備えた堀や曲輪。政宗出生地をめぐる論争とは別に、ごくごく普通に魅力的な、そして典型的な中世の山城だと思います。
ということで
政宗生誕の地とされる「米沢城」については、私なりにずっと気になってはいるのですが、今回の米沢再訪で改めて、「上杉家が居城とした米沢城と同じで良いかな…」などと思ったという内容でした。
<米沢城本丸跡>
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:
伊達政宗公生誕の地碑
[山形県米沢市丸の内]
お城巡りランキング
■参考及び引用
・現地説明板(米沢市)
・Wikipedia:2024/8/17
<伊達政宗公生誕の地>
米沢城本丸跡の伊達政宗生誕地の石碑。米沢はもともと伊達家の領地でした。
ところが…
最近では、伊達時代の「米沢城」は、現在の米沢城より西方の舘山城の近くに存在したのではないかといわれ始めています。ちょっと言い換えると、伊達政宗の生誕地が米沢城なのはいいとして、当時の米沢城はどっちなのかということになります。その結果、同じ米沢市で、現在の米山城と舘山城の双方が「伊達政宗生誕の地」をアピールしている状態になっています。
<説明板>
現在の米山城本丸跡の説明板です。上杉家御廟所・上杉家と伊達家の家紋に関する説明と並んで、舘山城の紹介も掲載されています。
<米沢城と舘山城>
右側です。私の主観が入らないようそのまま引用させて頂きます(『』内が原文)。
『米沢城跡(松が岬公園)から約3キロ西側の舘山地区に、山城と平城からなる舘山城跡があります。伊達家の正史「伊達治家記録」には、地元の有力者新田氏の居城であったり、伊達輝宗の隠居所、伊達政宗が地割した記載があります。また、平成25年の発掘調査で山城から石垣が発見されました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い以降の石積技術であることから、上杉景勝が築いた石垣とみられます。舘山城は、米沢城の西側の拠点として、伊達家や上杉家が整備した重要な城と考えられます。米沢市はこのような歴史遺産が多く残るまちです。』
舘山城では石垣も見つかっていますが、これは上杉時代のものとのこと。伊達家・上杉家双方に関わりのある城ということですね。そして、見落とせないのは『米沢城の西側の拠点として、伊達家や上杉家が整備した』という表現ですかね。つまり、本城はあくまで現在の米沢城ということになります。
<舘山城画像>
舘山城は南と北に川が流れる舌状丘陵の先端付近に築かれました。画像中央、山麓の平地に居館を配置し、平時はそこに居住していたと思われます。そして山には戦に備えた堀や曲輪。政宗出生地をめぐる論争とは別に、ごくごく普通に魅力的な、そして典型的な中世の山城だと思います。
ということで
政宗生誕の地とされる「米沢城」については、私なりにずっと気になってはいるのですが、今回の米沢再訪で改めて、「上杉家が居城とした米沢城と同じで良いかな…」などと思ったという内容でした。
<米沢城本丸跡>
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:
伊達政宗公生誕の地碑
[山形県米沢市丸の内]
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■参考及び引用
・現地説明板(米沢市)
・Wikipedia:2024/8/17
竹に雀 類似した伊達家と上杉家の紋
<米沢城本丸跡>
ここ米沢城を居城とした伊達家と上杉家の紋は、どういう訳か似ています。両家ともに「竹に雀」の紋。歴史ファンにはよく知られていることですが、その経緯について、詳しい説明を記した説明板をみかけましたのでご紹介させて頂きます。
<説明板>
こちらです。上杉家廟所・米沢城と舘山城、そして上杉家と伊達家の紋について説明がなされています。
<よく似た「竹に雀」>
左側が家紋に関する説明です。一部を下記に転記させて頂き来ます(『』内は原文のまま)。
『上杉家と伊達家の紋はどちらも「竹に雀」。二羽の雀とともに上杉家は輪竹、伊達家はたくさんの葉が広がる根竹が描かれます。そもそも「竹に雀」を最初に用いたのは藤原氏の一族・勧修寺家ですが上杉家の祖が勧修寺重房であることから、「竹に雀」の紋を使用しました。一方、伊達家は稙宗(政宗の曽祖父)の三男・時宗丸が越後上杉家(謙信が継いだ山内上杉家とは別)の養子に決まり、越後上杉家から「竹に雀」の幕紋(陣幕に描かれる紋)が贈られたことに始まります。養子の幕紋は華やかにアレンジされ伊達家の紋として用いられるようになったのです。』
この説明だと、婚姻にともなう引出物のような形で上杉家から贈られ、受け取った伊達家では、これを原型とした紋を代々受け継いできたということですね。つまりそれ以前、政宗よりわずか三代前まで、伊達家の紋は別のものでした。婚姻の話そのものは、諸事情でなくなってしまいましたが、紋だけは残ったということのようです。
<両家の紋>
伊達家と上杉家。生命力が強い竹と雀の家紋です。
■訪問:米沢城本丸跡
(松が岬公園)
[山形県米沢市丸の内]
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■参考及び引用
・現地説明板(米沢市)
・Wikipedia:2024/8/17
ここ米沢城を居城とした伊達家と上杉家の紋は、どういう訳か似ています。両家ともに「竹に雀」の紋。歴史ファンにはよく知られていることですが、その経緯について、詳しい説明を記した説明板をみかけましたのでご紹介させて頂きます。
<説明板>
こちらです。上杉家廟所・米沢城と舘山城、そして上杉家と伊達家の紋について説明がなされています。
<よく似た「竹に雀」>
左側が家紋に関する説明です。一部を下記に転記させて頂き来ます(『』内は原文のまま)。
『上杉家と伊達家の紋はどちらも「竹に雀」。二羽の雀とともに上杉家は輪竹、伊達家はたくさんの葉が広がる根竹が描かれます。そもそも「竹に雀」を最初に用いたのは藤原氏の一族・勧修寺家ですが上杉家の祖が勧修寺重房であることから、「竹に雀」の紋を使用しました。一方、伊達家は稙宗(政宗の曽祖父)の三男・時宗丸が越後上杉家(謙信が継いだ山内上杉家とは別)の養子に決まり、越後上杉家から「竹に雀」の幕紋(陣幕に描かれる紋)が贈られたことに始まります。養子の幕紋は華やかにアレンジされ伊達家の紋として用いられるようになったのです。』
この説明だと、婚姻にともなう引出物のような形で上杉家から贈られ、受け取った伊達家では、これを原型とした紋を代々受け継いできたということですね。つまりそれ以前、政宗よりわずか三代前まで、伊達家の紋は別のものでした。婚姻の話そのものは、諸事情でなくなってしまいましたが、紋だけは残ったということのようです。
<両家の紋>
伊達家と上杉家。生命力が強い竹と雀の家紋です。
■訪問:米沢城本丸跡
(松が岬公園)
[山形県米沢市丸の内]
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■参考及び引用
・現地説明板(米沢市)
・Wikipedia:2024/8/17
2024年08月13日
草木塔(米沢市)石碑に込められた畏敬の念
<草木塔>そうもくとう
米沢市の松が岬公園で撮影した草木塔。草木への感謝の念を記した石碑です。諸説ありますが、草木塔のはじまりは、江戸の米沢藩邸焼失(1772年)や、米沢城下の大火(1780年)により、山林の木々が大量に伐採されたことがきっかけとなったようです。この時の藩主は、米沢藩の中興の祖となる上杉鷹山でした。
<石碑と説明板>
説明板が設置されています。引用しながらご紹介させて頂きます(『』内は原文)。
『草木塔は、江戸時代中期の安永9年(1780)に現在の米沢市田沢地区に建てられたものが最古とされ』ています。草木塔は草木供養塔ほかいくつかある呼び名の総称とのこと。『全国で34基確認されている江戸期の草木塔のうち、32基が山形県南部の置賜地方に分布し、米沢市には17基が建てられています』。つまり大半は山形県南部、約半数は米沢ということになります。そのうち10基は田沢地区にあり、これにより田沢地区は「草木塔の里」と呼ばれているようです。
田沢地区は米沢の中心からみて西側の山岳地帯。伐採した木材を川を使って輸送する「木流し」が盛んに行われていました。そこで暮らす人々が『草や木にも魂があることを感じ取り、自然への畏敬や感謝、供養の気持ちを込めて草木塔を建立した』と考えられているようです。
ここに記載されていませんが、江戸屋敷再建に際して、藩主である上杉鷹山が感謝の念を込めて草木塔を建てたとも伝わっているようです。また、草木塔の分布が山形県南部集中していることから、鷹山が推奨したのではないかという説もあります。
いずれにせよ
江戸時代中期に生きた人たちが、自然をおそれ敬う思いが石碑に刻まれているわけですね。
以下は原文そのままです。
『近年、「自然との共生」という観点で改めて注目されるようになり、草木塔の精神に共感する人々によって、全国各地や海外にも新たな草木塔が建立されています。なお、米沢市にある江戸期の草木塔は、全て市指定有形民俗文化財となっています。』
自然との共生
現代人がいま最も見つめ直そうとしている観点ですね。
■訪問:草木塔
(松が岬公園)
[山形県米沢市丸の内]
お城巡りランキング
■参考及び引用
・現地説明板(米沢市)
・Wikipedia:2024/8/13
米沢市の松が岬公園で撮影した草木塔。草木への感謝の念を記した石碑です。諸説ありますが、草木塔のはじまりは、江戸の米沢藩邸焼失(1772年)や、米沢城下の大火(1780年)により、山林の木々が大量に伐採されたことがきっかけとなったようです。この時の藩主は、米沢藩の中興の祖となる上杉鷹山でした。
<石碑と説明板>
説明板が設置されています。引用しながらご紹介させて頂きます(『』内は原文)。
『草木塔は、江戸時代中期の安永9年(1780)に現在の米沢市田沢地区に建てられたものが最古とされ』ています。草木塔は草木供養塔ほかいくつかある呼び名の総称とのこと。『全国で34基確認されている江戸期の草木塔のうち、32基が山形県南部の置賜地方に分布し、米沢市には17基が建てられています』。つまり大半は山形県南部、約半数は米沢ということになります。そのうち10基は田沢地区にあり、これにより田沢地区は「草木塔の里」と呼ばれているようです。
田沢地区は米沢の中心からみて西側の山岳地帯。伐採した木材を川を使って輸送する「木流し」が盛んに行われていました。そこで暮らす人々が『草や木にも魂があることを感じ取り、自然への畏敬や感謝、供養の気持ちを込めて草木塔を建立した』と考えられているようです。
ここに記載されていませんが、江戸屋敷再建に際して、藩主である上杉鷹山が感謝の念を込めて草木塔を建てたとも伝わっているようです。また、草木塔の分布が山形県南部集中していることから、鷹山が推奨したのではないかという説もあります。
いずれにせよ
江戸時代中期に生きた人たちが、自然をおそれ敬う思いが石碑に刻まれているわけですね。
以下は原文そのままです。
『近年、「自然との共生」という観点で改めて注目されるようになり、草木塔の精神に共感する人々によって、全国各地や海外にも新たな草木塔が建立されています。なお、米沢市にある江戸期の草木塔は、全て市指定有形民俗文化財となっています。』
自然との共生
現代人がいま最も見つめ直そうとしている観点ですね。
■訪問:草木塔
(松が岬公園)
[山形県米沢市丸の内]
お城巡りランキング
■参考及び引用
・現地説明板(米沢市)
・Wikipedia:2024/8/13
2024年08月09日
福島にある旧米沢藩米蔵(福島市)
<旧米沢藩米蔵>
復原された米沢藩の米蔵です。場所は福島県庁の南側の阿武隈川沿い。福島市御倉町です。
なんで福島に?
米沢藩は有効な物流の拠点として、福島藩内の阿武隈川河岸に米蔵を設けました。当時、阿武隈川を利用した舟運は盛んで、河岸(かし)と呼ばれる荷物の揚げ下ろしをする船着場が設けられ、地元の蔵だけでなく、会津藩や米沢藩の蔵も建ち並んでいました。
<阿武隈川>あぶくま
福島城の南側を流れる阿武隈川です。福島城は江戸初期まで米沢藩の配下でした。しかし藩主の後継者問題に起因するペナルティで米沢藩の所領は大幅に減らされ、福島城も手放すことになりました。
<舟運の拠点>
この地は天領となり、年貢米を江戸へ移送するための拠点となりました。このことが、もともと機能していた舟運が、ますます盛んになるきっかけとなったようです。
<説明板>
後半を転記させて頂きます
『福島河岸は福島城の南にあたり、阿武隈川舟運図(一七六九〜七〇年頃製作)には一番東に城主蔵、その西に御城米(幕領の米)御蔵、その隣に廻米を請け負っていた上総屋幸右衛門の船会所、「上杉弾正大弼様御蔵」米沢藩の米蔵が並んで描かれています。上杉弾正大弼は、上杉鷹山のことです。』
上杉弾正大弼(だんじょうたいひつ)はひとりではありませんが、年代からして上杉鷹山のことですね。藩主の時の名は上杉治憲。財政難のどん底から藩を救った中興の祖も、阿武隈川の舟運を利用していたようです。
<御倉町地区公園>
米蔵は御倉町地区公園(御倉邸)内にあります。
■訪問:旧米沢藩米蔵
(御倉町地区公園内)
[福島県福島市御倉町]1
お城巡りランキング
■参考及び引用
・現地説明板
・Wikipedia:2024/8/9
・福島市HP
公園 > 御倉邸(御倉町地区公園)
https://www.city.fukushima.fukushima.jp/kouen-kanri/machizukuri/koenhiroba/koen/1825/index.html
復原された米沢藩の米蔵です。場所は福島県庁の南側の阿武隈川沿い。福島市御倉町です。
なんで福島に?
米沢藩は有効な物流の拠点として、福島藩内の阿武隈川河岸に米蔵を設けました。当時、阿武隈川を利用した舟運は盛んで、河岸(かし)と呼ばれる荷物の揚げ下ろしをする船着場が設けられ、地元の蔵だけでなく、会津藩や米沢藩の蔵も建ち並んでいました。
<阿武隈川>あぶくま
福島城の南側を流れる阿武隈川です。福島城は江戸初期まで米沢藩の配下でした。しかし藩主の後継者問題に起因するペナルティで米沢藩の所領は大幅に減らされ、福島城も手放すことになりました。
<舟運の拠点>
この地は天領となり、年貢米を江戸へ移送するための拠点となりました。このことが、もともと機能していた舟運が、ますます盛んになるきっかけとなったようです。
<説明板>
後半を転記させて頂きます
『福島河岸は福島城の南にあたり、阿武隈川舟運図(一七六九〜七〇年頃製作)には一番東に城主蔵、その西に御城米(幕領の米)御蔵、その隣に廻米を請け負っていた上総屋幸右衛門の船会所、「上杉弾正大弼様御蔵」米沢藩の米蔵が並んで描かれています。上杉弾正大弼は、上杉鷹山のことです。』
上杉弾正大弼(だんじょうたいひつ)はひとりではありませんが、年代からして上杉鷹山のことですね。藩主の時の名は上杉治憲。財政難のどん底から藩を救った中興の祖も、阿武隈川の舟運を利用していたようです。
<御倉町地区公園>
米蔵は御倉町地区公園(御倉邸)内にあります。
■訪問:旧米沢藩米蔵
(御倉町地区公園内)
[福島県福島市御倉町]1
お城巡りランキング
■参考及び引用
・現地説明板
・Wikipedia:2024/8/9
・福島市HP
公園 > 御倉邸(御倉町地区公園)
https://www.city.fukushima.fukushima.jp/kouen-kanri/machizukuri/koenhiroba/koen/1825/index.html
タグ:福島