武蔵浦和駅近くに有形文化財の長屋門があると聞いて訪問してみました。
<細淵家住宅長屋門>ほそぶちけ
市街地に突然現れる重厚な長屋門。国登録有形文化財に指定されています。長屋門とは江戸時代の城郭や屋敷などでよくみられる門の形式。この長屋門も、江戸時代の武家屋敷のものだそうです。
さいたま市のHPによれば、明治期にこの地に移築されたそうです。向かって右側には潜り戸、番所を持ち、左側は納屋につながっているとのこと。歴史的価値の高い門です。
<豪邸>
あくまで門を見に来ましたが、敷地の広さに愕然としました。ちょっと一般人からは遠い世界。もともとこの地域の豪農、笹目領沼影村名主の家柄のようです。
<現地>
現地はJR武蔵浦和駅西口から徒歩3分程度です。御屋敷は駅前から続く田島通りに面していますが、門はこの路地を入った右手になります。
<個人の家>
あくまで個人宅です。見て良いのは外観のみ。敷地の外といっても、マナーは守って見学しましょう!
■訪問:細淵家住宅長屋門
[埼玉県さいたま市南区沼影]1丁目
お城巡りランキング
■参考
さいたま市HP
「文化財紹介 細淵家住宅長屋門」
https://www.city.saitama.lg.jp/004/005/006/001/016/p002493.html
2024年02月03日
2024年01月27日
佐枝氏館のなごり(岩槻)龍門寺境内の土塁跡
戦国時代の館跡を訪ねました。
<佐枝氏館跡>さえだしやかた
場所はさいたま市岩槻区の龍門寺境内です。佐枝若狭守館土塁であることが記されています。
<土塁跡>
昔はもっと高かったのでしょう。土塁が途切れるところもありますが、虎口の跡なのか、何らかの都合で取り崩したものなのかはわかりませんでした。
<墓所付近の土塁>
こちらは墓所との間をブロック塀で隔てていますが、土塁がよく見えています。迫力があります。
<龍門寺>
お邪魔させて頂いた龍門寺は、1550年に北条家臣の佐枝若狭守秀成が、自身の居館敷地内に開山した寺院です。地形の話をすると、元荒川のかつての流路沿いの微高地に位置しています。元荒川は岩槻城にとって重要な天然堀。佐枝氏の館は、岩槻城の外郭の守りを担っていたと考えられています。
<土塁>
岩槻城は戦国末期(1590年)に豊臣軍によって攻め落とされます。土塁はその時に備えたものか、あるいはそれ以前から館の土塁として存在していたのかは分かりません。豊臣軍来襲時には、館を築いた佐枝秀成は既に亡くなっていたので、後継者の嫡男(佐枝植行)が土塁を築いた可能性もあるわけですね。私個人は、直線の土塁が直角に折れ曲がるところを見て、方形館の土塁を想像しました。まぁいずれにせよ、いまでも生々しい土塁が、戦国時代のなごりであることは間違いありません。素晴らしい遺構です。
最後に
ご先達の方々の城ブログを見ると、龍門寺さんが立ち入りを規制している時期もあったようです。龍門寺さんは岩槻藩主大岡氏の菩提寺でもあり、歴史的に興味深い寺院であることに間違いありませんが、著名な方だけでなく、一般の方々の墓所でもあります。門が開かれていても、寺の関係者ではないことを意識し、マナーを守った見学が望まれます。
<有形文化財の山門>
龍門寺さんのご厚意に感謝申し上げます
■訪問:佐枝氏館
(龍門寺境内 佐枝若狭守館土塁)
[さいたま市岩槻区日の出町]
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■参考及び出典
・Wikipedia:2024/1/27
・猫の足あと「龍門寺」
https://tesshow.jp/saitama/saitama/temple_iwa_ryumon.html
<佐枝氏館跡>さえだしやかた
場所はさいたま市岩槻区の龍門寺境内です。佐枝若狭守館土塁であることが記されています。
<土塁跡>
昔はもっと高かったのでしょう。土塁が途切れるところもありますが、虎口の跡なのか、何らかの都合で取り崩したものなのかはわかりませんでした。
<墓所付近の土塁>
こちらは墓所との間をブロック塀で隔てていますが、土塁がよく見えています。迫力があります。
<龍門寺>
お邪魔させて頂いた龍門寺は、1550年に北条家臣の佐枝若狭守秀成が、自身の居館敷地内に開山した寺院です。地形の話をすると、元荒川のかつての流路沿いの微高地に位置しています。元荒川は岩槻城にとって重要な天然堀。佐枝氏の館は、岩槻城の外郭の守りを担っていたと考えられています。
<土塁>
岩槻城は戦国末期(1590年)に豊臣軍によって攻め落とされます。土塁はその時に備えたものか、あるいはそれ以前から館の土塁として存在していたのかは分かりません。豊臣軍来襲時には、館を築いた佐枝秀成は既に亡くなっていたので、後継者の嫡男(佐枝植行)が土塁を築いた可能性もあるわけですね。私個人は、直線の土塁が直角に折れ曲がるところを見て、方形館の土塁を想像しました。まぁいずれにせよ、いまでも生々しい土塁が、戦国時代のなごりであることは間違いありません。素晴らしい遺構です。
最後に
ご先達の方々の城ブログを見ると、龍門寺さんが立ち入りを規制している時期もあったようです。龍門寺さんは岩槻藩主大岡氏の菩提寺でもあり、歴史的に興味深い寺院であることに間違いありませんが、著名な方だけでなく、一般の方々の墓所でもあります。門が開かれていても、寺の関係者ではないことを意識し、マナーを守った見学が望まれます。
<有形文化財の山門>
龍門寺さんのご厚意に感謝申し上げます
■訪問:佐枝氏館
(龍門寺境内 佐枝若狭守館土塁)
[さいたま市岩槻区日の出町]
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■参考及び出典
・Wikipedia:2024/1/27
・猫の足あと「龍門寺」
https://tesshow.jp/saitama/saitama/temple_iwa_ryumon.html
岩槻城大手門のなごり
岩槻城のかつての大手門付近を探索しました。
<岩槻城大手門跡>
ここは大手門があった場所です。正確な位置が分からないので、とりあえずこのプレートを目指して歩いてきました。柵の向こう側はかつての大手門の堀跡になります。
<堀跡>
内部は私有地(宗教法人敷地)となっているため、立ち入ることはできません。道から見える範囲で撮影しました。今でも結構な高低差があります。この堀は三ノ丸・二の丸・本丸といった城の中核部を取り囲む巨大沼と繋がっていました。沼の水が堀まで入ってきていたのか、それとも空堀の状態だったのかは分かりません。
<堀の上部>
こちらも道から見える範囲で撮影。土が露わになっているため、いかにも城跡という雰囲気が漂います。
岩槻城の歴史は室町時代の末期から始まりますが、江戸時代も存続した近世城郭です。さいたま市のホームページに記載がある通りで、岩槻城は戦国時代の関東の歴史において欠かすことのできない重要な城郭でありながら、今では江戸時代の面影さえも失われつつあります。急速な近代化の波に飲み込まれ、跡形もなく取り壊されてしまったわけですね。それはそれで仕方のないことですが、人が手を加えた地形がそのまま残っているということは、とても貴重なことだと思えます。姿を消した城のなごりですね。
<付近の地形>
大手門跡のすぐ近くで撮影しました。縄張り図を見る限り、マンションの駐車場となっているこの窪みも、別の堀のなごりと思われます。
私には難しい文献を解読する力がありませんが、専門の方々の研究の成果を、実際に足を運んで感じるくらいのことならできます。情報を得るだけならネットで充分ですが、現地へ行ってみると、思ったより距離があったとか、距離はないが高低差があったとか、現地ならではの発見があったりします。
<大手口>
こちらは大手門へ通じる大手口の跡です。古い街並みが残っているわけではないので、石柱がなければただ通り過ぎたことでしょう。こうして記してもらうだけでありがたいです。こういう目印と有難い古地図とを見比べ、あとは勝手に想像する。それだけで満足とまでは言いませんが、来れて良かったという気持ちにはなります。
街のなかの城跡巡り
似たような感覚をお持ちの方と共有できれば幸いです。
<城のなごり>
大手門付近の城のなごりです
■訪問:岩槻城大手門跡
[埼玉県さいたま市岩槻区太田]1丁目5
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■参考
・Wikipedia:2024/1/27
・さいたま市HP
>文化財>知って楽しむ文化財>深掘り文化財>
「岩槻城跡を探る」
https://www.city.saitama.lg.jp/004/005/006/013/002/p078002.html
<岩槻城大手門跡>
ここは大手門があった場所です。正確な位置が分からないので、とりあえずこのプレートを目指して歩いてきました。柵の向こう側はかつての大手門の堀跡になります。
<堀跡>
内部は私有地(宗教法人敷地)となっているため、立ち入ることはできません。道から見える範囲で撮影しました。今でも結構な高低差があります。この堀は三ノ丸・二の丸・本丸といった城の中核部を取り囲む巨大沼と繋がっていました。沼の水が堀まで入ってきていたのか、それとも空堀の状態だったのかは分かりません。
<堀の上部>
こちらも道から見える範囲で撮影。土が露わになっているため、いかにも城跡という雰囲気が漂います。
岩槻城の歴史は室町時代の末期から始まりますが、江戸時代も存続した近世城郭です。さいたま市のホームページに記載がある通りで、岩槻城は戦国時代の関東の歴史において欠かすことのできない重要な城郭でありながら、今では江戸時代の面影さえも失われつつあります。急速な近代化の波に飲み込まれ、跡形もなく取り壊されてしまったわけですね。それはそれで仕方のないことですが、人が手を加えた地形がそのまま残っているということは、とても貴重なことだと思えます。姿を消した城のなごりですね。
<付近の地形>
大手門跡のすぐ近くで撮影しました。縄張り図を見る限り、マンションの駐車場となっているこの窪みも、別の堀のなごりと思われます。
私には難しい文献を解読する力がありませんが、専門の方々の研究の成果を、実際に足を運んで感じるくらいのことならできます。情報を得るだけならネットで充分ですが、現地へ行ってみると、思ったより距離があったとか、距離はないが高低差があったとか、現地ならではの発見があったりします。
<大手口>
こちらは大手門へ通じる大手口の跡です。古い街並みが残っているわけではないので、石柱がなければただ通り過ぎたことでしょう。こうして記してもらうだけでありがたいです。こういう目印と有難い古地図とを見比べ、あとは勝手に想像する。それだけで満足とまでは言いませんが、来れて良かったという気持ちにはなります。
街のなかの城跡巡り
似たような感覚をお持ちの方と共有できれば幸いです。
<城のなごり>
大手門付近の城のなごりです
■訪問:岩槻城大手門跡
[埼玉県さいたま市岩槻区太田]1丁目5
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■参考
・Wikipedia:2024/1/27
・さいたま市HP
>文化財>知って楽しむ文化財>深掘り文化財>
「岩槻城跡を探る」
https://www.city.saitama.lg.jp/004/005/006/013/002/p078002.html
2024年01月20日
総構えの北の守り(岩槻市)新正寺曲輪のなごり
今回は岩槻城の北側の守りの要だった新正寺曲輪の話です。
<新正寺曲輪跡>
岩槻城の歴史は長いですが、今回訪問の新正寺曲輪が注目されるのは戦国時代末期。1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の時です。秀吉は小田原城を大軍で包囲するとともに、別働隊で関東に点在する北条配下の城を落としていきました。当時北条配下だった岩槻城は、その別働隊によって攻め落とされます。
「別働隊」といっても小隊ではなく、約2万の大軍です。いくら堅固な城といっても、2万の攻め手に対し、守る側は2千です。更に、城主・太田(北条)氏房と主力は小田原城へ移っていたため、兵力の差は明らか。城を任された家老・伊達房実を中心に岩槻城は奮闘しますが、城兵約1千の死傷者を出して、降伏となりました。
岩槻城を攻め落としたのは浅野長政率いる豊臣軍ということになりますが、本多忠勝や鳥居元忠といった徳川勢も加勢しています。守りの固かった当時の岩槻城に対し、豊臣軍は北側からの攻撃を選びました。秀吉からの催促もあり、持久戦にはしませんでした。
<新正寺曲輪石柱>
こちらは岩槻区宮町の久伊豆神社前の新正寺曲輪の石柱です。新正寺曲輪は岩槻城本丸から巨大な沼を隔てた北側に設けられた防衛施設。石柱を設置してもらったお陰で、かつての城跡にいることが実感できます。
<石柱の説明文>
側面に岩槻市教育委員会による説明が記されています。平成元年のものですね。この10年後、岩槻市はさいたま市岩槻区となっています。内容を以下に転記させて頂きます。
『元荒川沿いに広がり、沼を隔てて本丸を南に望む。西は新正寺口より田中町に続き、東は明戸口より岩槻城主郭に連なる。曲輪内には岩槻城総鎮守・久伊豆神社がある。』
説明文に登場する新正寺は、久伊豆神社の別当・光明院の寺号で、曲輪の名の由来でもありますが現在は存在しません。
<縄張り図>
[出典:岩槻城址公園説明板]
こちらは別の日に岩槻城址公園で撮影した説明板です。ご覧の通り、岩槻城は沼地を利用した平城です。近くに元荒川が流れる台地上に、城の中核がありました。岩槻城は江戸時代を通して存続しましたが、城の中核と地形は戦国末期も同じです。
大きくカーブしている元荒川の内側に、新正寺曲輪があります。川と沼にはさまれた微高地だったのでしょう。ここをあえて曲輪とする理由は、まずは天然の堀である元荒川を敵が渡ろうとするのを妨害するため。そして、川を越えられてしまった場合は、敵が久伊豆神社の境内を含む広々とした微高地を足場にしかねないため、予め城に内包して守りを強化しておく必要があった。そんな感じでしょうか(他にもいろんな評価があるかと思います)。
そんな守る側の心配が的中したのでしょうか。豊臣軍はこの新正寺曲輪から攻め込んだと伝わります。結果は先述の通りです。多大な犠牲者を出しながらの抵抗は3日で終了しました。
ちょっと殺伐とした内容で終わってしまうので、簡単ではありますが、かつての新正寺曲輪に現在も鎮座する久伊豆神社をご紹介しておきます。
<久伊豆神社参道>ひさいずじんじゃ
岩槻城を築城した太田道灌が、城の鎮守としたと伝わります。
<鳥居>
久伊豆神社は元荒川沿いに多く、埼玉県では有名な神社です。創建はかなり古く6世紀頃とされています。
<拝殿>
この日も多くの人で賑わっていました。人を避けての撮影は無理だったので、ちょっと画像を加工させて頂きました。
<本殿>
ここが本社と勘違いするほど立派な神社です(本社は加須市)。岩槻の総鎮守として地元民に親しまれています。
■訪問:新正寺曲輪石柱
(久伊豆神社鳥居前)
[埼玉県さいたま市岩槻区宮町]2
お城巡りランキング
■参考及び出典
・新正寺曲輪石柱説明文
・岩槻城址公園説明板
・Wikipedia:2024/1/20
・MY神社HP 埼玉の神社一覧
「武州岩槻総鎮守 久伊豆神社」
https://myjinja.com/jinja/detail/id/15
・久伊豆神社HP
【説話】岩槻城落城伝説と久伊豆神社
https://www.hisaizu.jp/infomation03/269/
<新正寺曲輪跡>
岩槻城の歴史は長いですが、今回訪問の新正寺曲輪が注目されるのは戦国時代末期。1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の時です。秀吉は小田原城を大軍で包囲するとともに、別働隊で関東に点在する北条配下の城を落としていきました。当時北条配下だった岩槻城は、その別働隊によって攻め落とされます。
「別働隊」といっても小隊ではなく、約2万の大軍です。いくら堅固な城といっても、2万の攻め手に対し、守る側は2千です。更に、城主・太田(北条)氏房と主力は小田原城へ移っていたため、兵力の差は明らか。城を任された家老・伊達房実を中心に岩槻城は奮闘しますが、城兵約1千の死傷者を出して、降伏となりました。
岩槻城を攻め落としたのは浅野長政率いる豊臣軍ということになりますが、本多忠勝や鳥居元忠といった徳川勢も加勢しています。守りの固かった当時の岩槻城に対し、豊臣軍は北側からの攻撃を選びました。秀吉からの催促もあり、持久戦にはしませんでした。
<新正寺曲輪石柱>
こちらは岩槻区宮町の久伊豆神社前の新正寺曲輪の石柱です。新正寺曲輪は岩槻城本丸から巨大な沼を隔てた北側に設けられた防衛施設。石柱を設置してもらったお陰で、かつての城跡にいることが実感できます。
<石柱の説明文>
側面に岩槻市教育委員会による説明が記されています。平成元年のものですね。この10年後、岩槻市はさいたま市岩槻区となっています。内容を以下に転記させて頂きます。
『元荒川沿いに広がり、沼を隔てて本丸を南に望む。西は新正寺口より田中町に続き、東は明戸口より岩槻城主郭に連なる。曲輪内には岩槻城総鎮守・久伊豆神社がある。』
説明文に登場する新正寺は、久伊豆神社の別当・光明院の寺号で、曲輪の名の由来でもありますが現在は存在しません。
<縄張り図>
[出典:岩槻城址公園説明板]
こちらは別の日に岩槻城址公園で撮影した説明板です。ご覧の通り、岩槻城は沼地を利用した平城です。近くに元荒川が流れる台地上に、城の中核がありました。岩槻城は江戸時代を通して存続しましたが、城の中核と地形は戦国末期も同じです。
大きくカーブしている元荒川の内側に、新正寺曲輪があります。川と沼にはさまれた微高地だったのでしょう。ここをあえて曲輪とする理由は、まずは天然の堀である元荒川を敵が渡ろうとするのを妨害するため。そして、川を越えられてしまった場合は、敵が久伊豆神社の境内を含む広々とした微高地を足場にしかねないため、予め城に内包して守りを強化しておく必要があった。そんな感じでしょうか(他にもいろんな評価があるかと思います)。
そんな守る側の心配が的中したのでしょうか。豊臣軍はこの新正寺曲輪から攻め込んだと伝わります。結果は先述の通りです。多大な犠牲者を出しながらの抵抗は3日で終了しました。
ちょっと殺伐とした内容で終わってしまうので、簡単ではありますが、かつての新正寺曲輪に現在も鎮座する久伊豆神社をご紹介しておきます。
<久伊豆神社参道>ひさいずじんじゃ
岩槻城を築城した太田道灌が、城の鎮守としたと伝わります。
<鳥居>
久伊豆神社は元荒川沿いに多く、埼玉県では有名な神社です。創建はかなり古く6世紀頃とされています。
<拝殿>
この日も多くの人で賑わっていました。人を避けての撮影は無理だったので、ちょっと画像を加工させて頂きました。
<本殿>
ここが本社と勘違いするほど立派な神社です(本社は加須市)。岩槻の総鎮守として地元民に親しまれています。
■訪問:新正寺曲輪石柱
(久伊豆神社鳥居前)
[埼玉県さいたま市岩槻区宮町]2
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■参考及び出典
・新正寺曲輪石柱説明文
・岩槻城址公園説明板
・Wikipedia:2024/1/20
・MY神社HP 埼玉の神社一覧
「武州岩槻総鎮守 久伊豆神社」
https://myjinja.com/jinja/detail/id/15
・久伊豆神社HP
【説話】岩槻城落城伝説と久伊豆神社
https://www.hisaizu.jp/infomation03/269/
天然と人工の二重堀(岩槻城総構え北側)赤間堀緑地
岩槻市の赤間堀緑地を訪ねました。
<赤間堀緑地>
この付近は岩槻城総構えの北側に位置し、古くは荒川(のちの元荒川)が流れていました。
<窪んだ地形>
ということは、この窪みが川跡ということだな
ごく自然にそう思いました。しかし、この日は岩槻の地形や湧水に詳しい方と散策していたので、そうではないことを教えて頂きました。
<元荒川沿いの堀川>
元々の荒川(以下元荒川)はこの緑地よりもう少し北側、この画像だと右手の道路より更に先を流れていたようです。ではこの窪みは何かというと、川に沿うように設けられた堀でした。もう少し具体的に言うと、岩槻城の堀と繋がって、水路の役割を担っていたようです。
どんな堀だったのでしょうね?
純粋に水を引き込むためだけなのか、物資の運搬に耐えうるものなのか、あるいは、土塁も兼ね備えて防衛施設としての堀を兼ねたものだったのか、勝手な想像だけが膨らみました。
まぁどうであれ
岩槻城は城の外側に防衛ラインを拡張したいわゆる総構えだったわけですから、大きな意味では防衛施設と言えなくもないですね。
<自然堤防>
周囲の状況からして、赤間堀緑地そのものが元荒川により形成された自然堤防です。
ということで
岩槻城の天然堀により形成された自然堤防には、更に人工の堀があったというお話でした。
訪問は2024年の1月中旬で、とても寒い日でした。豊臣軍の岩槻城攻めのルートを訪ねてみようということで、私を含めた4名で岩槻の街を歩き回りました。ご紹介の赤間堀緑地内に人の手による堀があったことは事実として、今回の投稿内容には私個人の妄想も多分に含まれます。その点はご理解をお願いします。
<久伊豆神社>ひさいず
こちらは緑地のすぐ南側に鎮座する久伊豆神社です。この付近は新正寺曲輪と呼ばれ、岩槻城の北側を守る重要な防衛施設でした。地形的には元荒川に接する台地の端っこです。そして、豊臣秀吉による小田原征伐(1590年)の際に、豊臣軍の別働隊が当時北条配下だった岩槻城へ攻め込む時に突破した曲輪跡でもあります。神聖な神社の境内ですが、当ブログがきっかけで、そんなことを思い出してくれる方がいれば嬉しいです。
<赤間堀跡>
■訪問:赤間堀緑地
[埼玉県さいたま市岩槻区宮町]1丁目
お城巡りランキング
--------追 記--------
文中の「岩槻の地形や湧水に詳しい方」のブログを紹介させて頂きます。「大宮台地の湧水巡り」を中心に、街歩きを含む探索を続けている『いこ〜』さんのブログです。ご紹介は、たくさんある記事のほんの一例に過ぎませんが、ご興味のある方はのぞいてみて下さい。
さいたま市岩槻区南下新井「宮前の湧水」
https://iko.hatenablog.jp/entry/2020/12/12/230519
<赤間堀緑地>
この付近は岩槻城総構えの北側に位置し、古くは荒川(のちの元荒川)が流れていました。
<窪んだ地形>
ということは、この窪みが川跡ということだな
ごく自然にそう思いました。しかし、この日は岩槻の地形や湧水に詳しい方と散策していたので、そうではないことを教えて頂きました。
<元荒川沿いの堀川>
元々の荒川(以下元荒川)はこの緑地よりもう少し北側、この画像だと右手の道路より更に先を流れていたようです。ではこの窪みは何かというと、川に沿うように設けられた堀でした。もう少し具体的に言うと、岩槻城の堀と繋がって、水路の役割を担っていたようです。
どんな堀だったのでしょうね?
純粋に水を引き込むためだけなのか、物資の運搬に耐えうるものなのか、あるいは、土塁も兼ね備えて防衛施設としての堀を兼ねたものだったのか、勝手な想像だけが膨らみました。
まぁどうであれ
岩槻城は城の外側に防衛ラインを拡張したいわゆる総構えだったわけですから、大きな意味では防衛施設と言えなくもないですね。
<自然堤防>
周囲の状況からして、赤間堀緑地そのものが元荒川により形成された自然堤防です。
ということで
岩槻城の天然堀により形成された自然堤防には、更に人工の堀があったというお話でした。
訪問は2024年の1月中旬で、とても寒い日でした。豊臣軍の岩槻城攻めのルートを訪ねてみようということで、私を含めた4名で岩槻の街を歩き回りました。ご紹介の赤間堀緑地内に人の手による堀があったことは事実として、今回の投稿内容には私個人の妄想も多分に含まれます。その点はご理解をお願いします。
<久伊豆神社>ひさいず
こちらは緑地のすぐ南側に鎮座する久伊豆神社です。この付近は新正寺曲輪と呼ばれ、岩槻城の北側を守る重要な防衛施設でした。地形的には元荒川に接する台地の端っこです。そして、豊臣秀吉による小田原征伐(1590年)の際に、豊臣軍の別働隊が当時北条配下だった岩槻城へ攻め込む時に突破した曲輪跡でもあります。神聖な神社の境内ですが、当ブログがきっかけで、そんなことを思い出してくれる方がいれば嬉しいです。
<赤間堀跡>
■訪問:赤間堀緑地
[埼玉県さいたま市岩槻区宮町]1丁目
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--------追 記--------
文中の「岩槻の地形や湧水に詳しい方」のブログを紹介させて頂きます。「大宮台地の湧水巡り」を中心に、街歩きを含む探索を続けている『いこ〜』さんのブログです。ご紹介は、たくさんある記事のほんの一例に過ぎませんが、ご興味のある方はのぞいてみて下さい。
さいたま市岩槻区南下新井「宮前の湧水」
https://iko.hatenablog.jp/entry/2020/12/12/230519
2024年01月18日
鎧の宮(岩槻)城攻めの豊臣軍が布陣した八幡神社
岩槻城攻撃の際に豊臣軍が出陣準備をした地を訪ねました。
<鎧宮八幡神社>よろいのみや
現地は岩槻区南辻の八幡神社です。古くは、ここ辻村の鎮守社でした。
岩槻城を攻める豊臣軍がこの地に集まり、鎧兜を整えてから出陣したと伝わります。このことから、鎧宮八幡と呼ばれています。これに関連して、ある伝説が残されています。紹介している資料やサイトによって微妙に言い回しが異なるので、ここでは「猫の足あと」さんのサイトに掲載されていた「埼玉の神社」による「鎧宮八幡神社の由緒」の一部を参考にさせて頂きます(『』内転記)。
『水嵩の増した元荒川を前にして、秀吉方の軍勢が岩槻城を攻めるのに攻めあぐね、一呼吸置いて休んでいたところ、白馬に乗った人物が川を渡ったのと見て、八幡神社の前が浅いということがわかってしまい、それがもとで城は攻め落とされてしまった。この時、白い馬に乗って川を渡ったのは、辻の八幡様で、総攻撃が近いことを岩槻城内に知らせようとしたわけであるが、かえって仇になってしまった。』
八幡さまが仇に…
神様のご厚意が仇になるというのは、ちょっと受け止め方に苦慮する伝説ですね。八幡神は多くの武将から崇敬され、有名な武将が必勝祈願した話などもよく耳にします。攻め手である豊臣軍を導いたというなら、何となく筋が通りますが、それでは立て籠もる岩槻城の城兵が見捨てられたようで気の毒ですし、何とも言えません。
<昔の荒川の流路>
鎧宮八幡神社の目の前です。一部は調整池になっていますが、水の姿はありません。当時の荒川(のちの元荒川)はここを流れていました。そして、鎧宮八幡側から見て対岸は岩槻城の北側の守り「新正寺曲輪」でした。伝説に登場する白い馬に乗った人物は、この付近を駆け抜けていったことになります。
川の浅瀬を承知している地元の者が、豊臣軍の攻撃が始まることを察し、良かれと思って川を渡った。あるいは、豊臣軍に強要されて仕方なく川を渡った。元の話はそんな感じだったと思いたいですね。または、城内からの脱出用に、川底に石を敷いた場所があったという話もありますので、伝令のために城内に入ろうとした兵が豊臣勢に見つかってしまった。納得できるとしたら、そんな感じでしょうか。まぁどうであれ、八幡さまが仇になるというのは、ちょっと酷な伝説です(あくまで個人の感覚の問題です)。
<八幡神社本殿>
この地の八幡神社は、岩槻城落城後も辻村の鎮守であり続けました。つまり辻村の人たちに慕われ続けたのです。長い時を経るうちに、いろんな人の思惑が絡みあって伝承され、いつの間にか八幡さまにとって厳しい伝説になった。私は地元民ならではの繊細な事情は分かりませんので、その程度に受け止めたいと思います。
<南辻の八幡神社>
ここに集結した豊臣軍は、鎧兜を整えてから川を渡った。そんなことが想像できるだけで充分です。
<つわものどもが夢の跡>
秀吉の命令により、豊臣軍は岩槻城攻めにあまり時間をかけられなかった、つまり辛抱強く待つという選択は許されなかったそうです。力攻めを敢行するしかなかった豊臣の兵たちは、どんな思いでここから出陣したのでしょうね。
■訪問:鎧宮八幡神社
(南辻の八幡神社)
[埼玉県さいたま市岩槻区南辻]68
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■参考及び出典
・Wikipedia:2024/1/18
・猫の足あと「鎧宮八幡神社」
https://tesshow.jp/saitama/saitama/shrine_iwa_szji.html
<鎧宮八幡神社>よろいのみや
現地は岩槻区南辻の八幡神社です。古くは、ここ辻村の鎮守社でした。
岩槻城を攻める豊臣軍がこの地に集まり、鎧兜を整えてから出陣したと伝わります。このことから、鎧宮八幡と呼ばれています。これに関連して、ある伝説が残されています。紹介している資料やサイトによって微妙に言い回しが異なるので、ここでは「猫の足あと」さんのサイトに掲載されていた「埼玉の神社」による「鎧宮八幡神社の由緒」の一部を参考にさせて頂きます(『』内転記)。
『水嵩の増した元荒川を前にして、秀吉方の軍勢が岩槻城を攻めるのに攻めあぐね、一呼吸置いて休んでいたところ、白馬に乗った人物が川を渡ったのと見て、八幡神社の前が浅いということがわかってしまい、それがもとで城は攻め落とされてしまった。この時、白い馬に乗って川を渡ったのは、辻の八幡様で、総攻撃が近いことを岩槻城内に知らせようとしたわけであるが、かえって仇になってしまった。』
八幡さまが仇に…
神様のご厚意が仇になるというのは、ちょっと受け止め方に苦慮する伝説ですね。八幡神は多くの武将から崇敬され、有名な武将が必勝祈願した話などもよく耳にします。攻め手である豊臣軍を導いたというなら、何となく筋が通りますが、それでは立て籠もる岩槻城の城兵が見捨てられたようで気の毒ですし、何とも言えません。
<昔の荒川の流路>
鎧宮八幡神社の目の前です。一部は調整池になっていますが、水の姿はありません。当時の荒川(のちの元荒川)はここを流れていました。そして、鎧宮八幡側から見て対岸は岩槻城の北側の守り「新正寺曲輪」でした。伝説に登場する白い馬に乗った人物は、この付近を駆け抜けていったことになります。
川の浅瀬を承知している地元の者が、豊臣軍の攻撃が始まることを察し、良かれと思って川を渡った。あるいは、豊臣軍に強要されて仕方なく川を渡った。元の話はそんな感じだったと思いたいですね。または、城内からの脱出用に、川底に石を敷いた場所があったという話もありますので、伝令のために城内に入ろうとした兵が豊臣勢に見つかってしまった。納得できるとしたら、そんな感じでしょうか。まぁどうであれ、八幡さまが仇になるというのは、ちょっと酷な伝説です(あくまで個人の感覚の問題です)。
<八幡神社本殿>
この地の八幡神社は、岩槻城落城後も辻村の鎮守であり続けました。つまり辻村の人たちに慕われ続けたのです。長い時を経るうちに、いろんな人の思惑が絡みあって伝承され、いつの間にか八幡さまにとって厳しい伝説になった。私は地元民ならではの繊細な事情は分かりませんので、その程度に受け止めたいと思います。
<南辻の八幡神社>
ここに集結した豊臣軍は、鎧兜を整えてから川を渡った。そんなことが想像できるだけで充分です。
<つわものどもが夢の跡>
秀吉の命令により、豊臣軍は岩槻城攻めにあまり時間をかけられなかった、つまり辛抱強く待つという選択は許されなかったそうです。力攻めを敢行するしかなかった豊臣の兵たちは、どんな思いでここから出陣したのでしょうね。
■訪問:鎧宮八幡神社
(南辻の八幡神社)
[埼玉県さいたま市岩槻区南辻]68
お城巡りランキング
■参考及び出典
・Wikipedia:2024/1/18
・猫の足あと「鎧宮八幡神社」
https://tesshow.jp/saitama/saitama/shrine_iwa_szji.html
2024年01月12日
高岡城のなごり
<高岡城跡>
晩秋の高岡城を訪ねました。
■ 現地訪問 ■
水堀に囲まれた城跡は、市民のための公園として整備されています。
<高岡古城公園入口>
私は城の南側のこの橋を渡って城内に入りました。
<現地説明板>
地図と歴史が記された説明板です。先ほどの橋(駐春橋)を渡ったところに設置されていました。左中央が現在地ですので、南外堀を渡って、いま二の丸にいることになります。この平面図だけだと、関東平野によくある沼地の城を連想してしまいますが、全て人が掘った堀です。城の規模は長辺648m,短辺416m。敷地の3割が水郷となっています。
<説明板拡大>
曲輪が本丸を取り囲むように配置されていますね。ただ、本丸の西側(この図だと上)だけは曲輪を配置することなく、水堀のみです。現地では想像できませんでしたが、後で調べると、こちら側は段丘となっており、その先の低地は沼を含む湿地帯だったようです。
天然の地の利を背にして、残りの方角の守りは厚くする。この縄張りは、前田家に客将として招かれていた築城の名手・高山右近と言われています。
<城内の土橋>
二の丸と本丸を結ぶ土橋です。この土橋の両側の石垣は、築城当時のものとのこと。つまり江戸時代初期のものということですね。
<石段>
土橋の袂(本丸側)から下へ降りられます。下からの方が土橋も石垣も良く見えます。
<江戸初期の石垣>
廃城になっても残された貴重な遺構です。最近は石垣を復元している城跡も多いですが(それはそれで魅力ですが)、当時のままというのはやはり感慨深いですね。
<野面積み>のづらづみ
自然の石をほぼそのまま積み上げています。いわゆる「野面積み」です。
石垣のみならず、高岡城は二の丸や三の丸といった曲輪が、ほぼ築城時のまま残り、それらを取り囲む堀も、むかしの姿を維持しています。この保存率の高さが、専門家から評価されている理由なのかもしれませんね。
ところで
<西内堀>
案内図だと城内の堀は全て水堀ですが、外堀と比較すると、ここはやや雰囲気が異なりますね。
<外堀>
満々と水が張られた外堀。幅は一番広いところでは約50mにもなるそうです。
城巡りをしていると「昔はもっと水があった」という例は珍しくありません。地下水の水位が下がってしまったとか、付近の川が整備されて伏流水が減ったとか、理由はいろいろです。高岡城の事情は分かりませんが、内堀は外堀と繋がっていますし、少なくとも昔は、土橋の近くまで水があったのかもしれませんね。
<相撲場>
本丸西側の土塁の内側が土俵になっています。
<力士像>
高岡は相撲熱が高いようですね
<土塁跡>
こちらにも土塁跡。左手土塁の向こう側は先ほどの内堀になります。分類すると平城ですが、曲輪は周囲より高い印象です。巨大な堀を掘ったわけですから、残土は土塁のみならず、城内に盛られたことでしょう。
<射水神社>いみずじんじゃ
こちらは明治になって本丸跡に遷座された射水神社です。創建は奈良時代という歴史ある神社です。
<本丸広場>
広々とした本丸跡。
<自然な雰囲気の堀>
のどかです。ただ、これはもともとの地形ではなく、あくまで人の手による城の防衛施設です。
<晩秋の古城公園>
高岡城は桜の名所でもありますが、残念ながら私の訪問は11月。それでも、残された紅葉に癒される思いがしました。それぞれの季節で、自然の美しさを満喫できる城跡なのでしょう。
■ 前田利長の城 ■
築城者の前田利長は、前田利家の長男です。豊臣・徳川の双方に配慮せねばならない難しい環境下で、加賀藩の礎を築きました。利長は跡継ぎがいなかったため、弟の利常を養子としたあと家督を譲って隠居しますが、その後も藩政に深く関わりました。徳川政権下で外様の前田家が高い地位を確立できたことは、利長・利常の兄弟藩主(形の上では親子)の功績と言っても過言ではありません。
高岡城築城のきっかけは、隠居した利長が居城としていた富山城の焼失です。新たな居城として築いたのが高岡城でした。隠居のための城ということになりますが、まだまだ情勢が不安定な時期の築城です。戦いに耐えうる念入りな構造の城を完成させました。利長の死後間もなく、徳川幕府が一国一城令を発したため、高岡城は廃城となりました(1615年)。
<瑞龍前田公遺徳碑>ずいりゅう
本丸広場の北側のこの石碑は、前田利長の遺徳を偲ぶものです。瑞龍は利長の法名です。
<石碑のレリーフ>
鷹狩りの最中でしょうか?腕に鷹を止まらせた利長の姿が描かれています。
<前田利長像>
高岡城の設計は高山右近と一般的には言われていますが、築城者である利長本人が場所を選び、縄張りの指示も出していたという話もあります。
<つわものどもが夢の跡>
高岡城は築城から6年にも満たないで廃城となりましたが、実際は奉行所管理下で米蔵や火薬蔵などとして利用されたようです。つまり間接的には加賀藩の軍事拠点としての機能し続けたわけですね。保存状態の良い城跡は日本100名城に選ばれるとともに、古城公園として市民の憩いの場として活かされています。
--------■ 高岡城 ■--------
築城者:前田利長
築城年:1609年(慶長14)
城 主:前田利長
廃城年:1615年(元和元)
現 況:高岡古城公園
[富山県高岡市古城] 1-1
お城巡りランキング
■参考
・現地説明板
・Wikipedia:2024/1/12
・とやま観光ナビ
「高岡古城公園(高岡城跡)」
https://www.info-toyama.com/attractions/21103
[補足]
とても参考になるコメントを頂きました。コメント欄も見て頂けると嬉しいです。
晩秋の高岡城を訪ねました。
■ 現地訪問 ■
水堀に囲まれた城跡は、市民のための公園として整備されています。
<高岡古城公園入口>
私は城の南側のこの橋を渡って城内に入りました。
<現地説明板>
地図と歴史が記された説明板です。先ほどの橋(駐春橋)を渡ったところに設置されていました。左中央が現在地ですので、南外堀を渡って、いま二の丸にいることになります。この平面図だけだと、関東平野によくある沼地の城を連想してしまいますが、全て人が掘った堀です。城の規模は長辺648m,短辺416m。敷地の3割が水郷となっています。
<説明板拡大>
曲輪が本丸を取り囲むように配置されていますね。ただ、本丸の西側(この図だと上)だけは曲輪を配置することなく、水堀のみです。現地では想像できませんでしたが、後で調べると、こちら側は段丘となっており、その先の低地は沼を含む湿地帯だったようです。
天然の地の利を背にして、残りの方角の守りは厚くする。この縄張りは、前田家に客将として招かれていた築城の名手・高山右近と言われています。
<城内の土橋>
二の丸と本丸を結ぶ土橋です。この土橋の両側の石垣は、築城当時のものとのこと。つまり江戸時代初期のものということですね。
<石段>
土橋の袂(本丸側)から下へ降りられます。下からの方が土橋も石垣も良く見えます。
<江戸初期の石垣>
廃城になっても残された貴重な遺構です。最近は石垣を復元している城跡も多いですが(それはそれで魅力ですが)、当時のままというのはやはり感慨深いですね。
<野面積み>のづらづみ
自然の石をほぼそのまま積み上げています。いわゆる「野面積み」です。
石垣のみならず、高岡城は二の丸や三の丸といった曲輪が、ほぼ築城時のまま残り、それらを取り囲む堀も、むかしの姿を維持しています。この保存率の高さが、専門家から評価されている理由なのかもしれませんね。
ところで
<西内堀>
案内図だと城内の堀は全て水堀ですが、外堀と比較すると、ここはやや雰囲気が異なりますね。
<外堀>
満々と水が張られた外堀。幅は一番広いところでは約50mにもなるそうです。
城巡りをしていると「昔はもっと水があった」という例は珍しくありません。地下水の水位が下がってしまったとか、付近の川が整備されて伏流水が減ったとか、理由はいろいろです。高岡城の事情は分かりませんが、内堀は外堀と繋がっていますし、少なくとも昔は、土橋の近くまで水があったのかもしれませんね。
<相撲場>
本丸西側の土塁の内側が土俵になっています。
<力士像>
高岡は相撲熱が高いようですね
<土塁跡>
こちらにも土塁跡。左手土塁の向こう側は先ほどの内堀になります。分類すると平城ですが、曲輪は周囲より高い印象です。巨大な堀を掘ったわけですから、残土は土塁のみならず、城内に盛られたことでしょう。
<射水神社>いみずじんじゃ
こちらは明治になって本丸跡に遷座された射水神社です。創建は奈良時代という歴史ある神社です。
<本丸広場>
広々とした本丸跡。
<自然な雰囲気の堀>
のどかです。ただ、これはもともとの地形ではなく、あくまで人の手による城の防衛施設です。
<晩秋の古城公園>
高岡城は桜の名所でもありますが、残念ながら私の訪問は11月。それでも、残された紅葉に癒される思いがしました。それぞれの季節で、自然の美しさを満喫できる城跡なのでしょう。
■ 前田利長の城 ■
築城者の前田利長は、前田利家の長男です。豊臣・徳川の双方に配慮せねばならない難しい環境下で、加賀藩の礎を築きました。利長は跡継ぎがいなかったため、弟の利常を養子としたあと家督を譲って隠居しますが、その後も藩政に深く関わりました。徳川政権下で外様の前田家が高い地位を確立できたことは、利長・利常の兄弟藩主(形の上では親子)の功績と言っても過言ではありません。
高岡城築城のきっかけは、隠居した利長が居城としていた富山城の焼失です。新たな居城として築いたのが高岡城でした。隠居のための城ということになりますが、まだまだ情勢が不安定な時期の築城です。戦いに耐えうる念入りな構造の城を完成させました。利長の死後間もなく、徳川幕府が一国一城令を発したため、高岡城は廃城となりました(1615年)。
<瑞龍前田公遺徳碑>ずいりゅう
本丸広場の北側のこの石碑は、前田利長の遺徳を偲ぶものです。瑞龍は利長の法名です。
<石碑のレリーフ>
鷹狩りの最中でしょうか?腕に鷹を止まらせた利長の姿が描かれています。
<前田利長像>
高岡城の設計は高山右近と一般的には言われていますが、築城者である利長本人が場所を選び、縄張りの指示も出していたという話もあります。
<つわものどもが夢の跡>
高岡城は築城から6年にも満たないで廃城となりましたが、実際は奉行所管理下で米蔵や火薬蔵などとして利用されたようです。つまり間接的には加賀藩の軍事拠点としての機能し続けたわけですね。保存状態の良い城跡は日本100名城に選ばれるとともに、古城公園として市民の憩いの場として活かされています。
--------■ 高岡城 ■--------
築城者:前田利長
築城年:1609年(慶長14)
城 主:前田利長
廃城年:1615年(元和元)
現 況:高岡古城公園
[富山県高岡市古城] 1-1
お城巡りランキング
■参考
・現地説明板
・Wikipedia:2024/1/12
・とやま観光ナビ
「高岡古城公園(高岡城跡)」
https://www.info-toyama.com/attractions/21103
[補足]
とても参考になるコメントを頂きました。コメント欄も見て頂けると嬉しいです。
タグ:日本100名城
2024年01月07日
北陸の国宝建築物(高岡市)前田家ゆかりの瑞龍寺
城巡りで訪問した富山県で、貴重な国宝建築物を見学させて頂きました。
<瑞龍寺>ずいりゅうじ
堂々とした佇まいの山門。ここは高岡市の瑞龍寺です。山門と仏殿、法堂が国宝となっています。
やや暗い画像で恐縮です。高岡城を訪問したあと、日が暮れるまでの僅かな時間でお邪魔させて頂きました。
<惣門>
この総門を潜ると冒頭の山門と仏殿、そして法堂が一直線に並んでいます。
<山門>
広く整然とした境内。真正面に山門、両脇には玉砂利が敷き詰められています。
<山門の金剛力士像>
山門には阿形・吽形の金剛力士像。悪しきものの侵入を許さないように両側から睨みをきかせています。楼上には釈迦如来と十六羅漢を祀ってあるそうです。
そして
<仏殿>
瑞龍寺は曹洞宗の寺院。本尊は釈迦如来です。
<法殿>
こちらには前田利長の位牌が安置されています。本来なら、古い建築物と美しい芝のコントラストが魅力のようです。私は薄暗いなかで撮影したため、この程度の画像となってしまいました。
瑞龍寺の建物は江戸時代初期を代表する禅宗建築と言われています。国宝に絞ってご紹介させて頂きましたが、他も重要文化財に指定されている貴重な寺院です。
実は、訪問した時は国宝を見たいという思いより、前田利家の後継者である利長ゆかりの寺院を訪ねたいという思いだけでした。建物の貴重さを実感したのは、現地に到着してからです。
<前田利長>まえだとしなが
こちらは瑞龍寺の近く(八丁道)で撮影した前田利長像です。あの前田利家の長男ですね。利長は父に代わって豊臣家五大老に名を連ねました。その立場で、徳川家康との関係も保つ必要がありました。苦しい板ばさみを乗り越えて、初代藩主として加賀藩の立場を確立した武将です。
その利長が、当時はまだ荒野に等しかったこの地に、新たな城を築いたことが、今日の高岡市の繁栄に繋がっています。
利長の死後、菩提をとむらうため、第2代藩主となった利常によって瑞龍寺は建立されました。(1614年)。利常は前田利家の四男です。利長にとっては腹違いの弟になります。利長には跡継ぎがいなかったため、利常を養子としたあと家督を譲りました。利長と利常の二人は、厳しい環境下で加賀百万石の礎を築いた名君です。
高岡城の南方に位置する瑞龍寺は、防衛の拠点としての性格を有していたとも言われています。高岡城は表向きは既に廃城となっていたのに、事情が複雑ですね。
利常はこの凄い寺院を一気に造り上げた?わけではなく、完成までに約20年もの歳月を費やしたそうです。加賀前田家ゆかりの古刹、そして建築物が国宝という寺院。高岡市の瑞龍寺は、富山県のみならず、北陸を代表する寺院のひとつです。
■訪問:高岡山瑞龍寺
[富山県高岡市関本町]35
お城巡りランキング
■参考
・Wikipedia:2024/1/6
・とやま観光ナビ
「国宝 高岡山瑞龍寺」
https://www.info-toyama.com/attractions/21009
・国宝高岡山瑞龍寺 公式HP
https://www.zuiryuji.jp/
<瑞龍寺>ずいりゅうじ
堂々とした佇まいの山門。ここは高岡市の瑞龍寺です。山門と仏殿、法堂が国宝となっています。
やや暗い画像で恐縮です。高岡城を訪問したあと、日が暮れるまでの僅かな時間でお邪魔させて頂きました。
<惣門>
この総門を潜ると冒頭の山門と仏殿、そして法堂が一直線に並んでいます。
<山門>
広く整然とした境内。真正面に山門、両脇には玉砂利が敷き詰められています。
<山門の金剛力士像>
山門には阿形・吽形の金剛力士像。悪しきものの侵入を許さないように両側から睨みをきかせています。楼上には釈迦如来と十六羅漢を祀ってあるそうです。
そして
<仏殿>
瑞龍寺は曹洞宗の寺院。本尊は釈迦如来です。
<法殿>
こちらには前田利長の位牌が安置されています。本来なら、古い建築物と美しい芝のコントラストが魅力のようです。私は薄暗いなかで撮影したため、この程度の画像となってしまいました。
瑞龍寺の建物は江戸時代初期を代表する禅宗建築と言われています。国宝に絞ってご紹介させて頂きましたが、他も重要文化財に指定されている貴重な寺院です。
実は、訪問した時は国宝を見たいという思いより、前田利家の後継者である利長ゆかりの寺院を訪ねたいという思いだけでした。建物の貴重さを実感したのは、現地に到着してからです。
<前田利長>まえだとしなが
こちらは瑞龍寺の近く(八丁道)で撮影した前田利長像です。あの前田利家の長男ですね。利長は父に代わって豊臣家五大老に名を連ねました。その立場で、徳川家康との関係も保つ必要がありました。苦しい板ばさみを乗り越えて、初代藩主として加賀藩の立場を確立した武将です。
その利長が、当時はまだ荒野に等しかったこの地に、新たな城を築いたことが、今日の高岡市の繁栄に繋がっています。
利長の死後、菩提をとむらうため、第2代藩主となった利常によって瑞龍寺は建立されました。(1614年)。利常は前田利家の四男です。利長にとっては腹違いの弟になります。利長には跡継ぎがいなかったため、利常を養子としたあと家督を譲りました。利長と利常の二人は、厳しい環境下で加賀百万石の礎を築いた名君です。
高岡城の南方に位置する瑞龍寺は、防衛の拠点としての性格を有していたとも言われています。高岡城は表向きは既に廃城となっていたのに、事情が複雑ですね。
利常はこの凄い寺院を一気に造り上げた?わけではなく、完成までに約20年もの歳月を費やしたそうです。加賀前田家ゆかりの古刹、そして建築物が国宝という寺院。高岡市の瑞龍寺は、富山県のみならず、北陸を代表する寺院のひとつです。
■訪問:高岡山瑞龍寺
[富山県高岡市関本町]35
お城巡りランキング
■参考
・Wikipedia:2024/1/6
・とやま観光ナビ
「国宝 高岡山瑞龍寺」
https://www.info-toyama.com/attractions/21009
・国宝高岡山瑞龍寺 公式HP
https://www.zuiryuji.jp/
2024年01月06日
高岡大仏(高岡市)人をひきつける大きな阿弥陀如来坐像
今回は富山県高岡市の大仏をご紹介します。
<高岡大仏>たかおかだいぶつ
奈良の大仏(東大寺)と鎌倉大仏(高徳院)と並ぶ日本三大仏の一つら数えられています。細かいことを言うと、奈良と鎌倉は別格として、三つ目の大仏には複数の候補があります。ここ高岡の大仏もそのひとつということになります。
高さは台座を含めて約16m。重量は65t。 初代と二代目は木造大仏でしたがそれぞれ焼失し、現在の青銅製の大仏で3代目になります(1933年)。銅器の街と呼ばれる高岡市に相応しい姿ですね。
<大佛寺>だいぶつじ
場所は大佛寺境内です。阿弥陀如来を本尊とする浄土宗のお寺です。
ところで
高岡大仏は「日本一イケメンな大仏」とも言われています。
<イケメン>
イケメンの基準がよく分かりませんが、それくらい見る人が親しみやすさを感じるということなのでしょう。地元職人の銅器製造技術、そして地元民大勢の思い入れが凝縮されたお姿です。
<文化財>
銅造阿弥陀如来坐像として高岡市指定有形文化財に指定されています。
生きとし生けるものすべてに、永遠の幸福と繁栄をもたらす仏様です。ずっと高岡市民を見守っています。
■訪問:高岡大仏
(鳳徳山大佛寺)
[富山県高岡市大手町]11-29
お城巡りランキング
■参考
・Wikipedia:2024/1/6
・とやま観光ナビ
「高岡大仏」
https://www.info-toyama.com/attractions/21108
<高岡大仏>たかおかだいぶつ
奈良の大仏(東大寺)と鎌倉大仏(高徳院)と並ぶ日本三大仏の一つら数えられています。細かいことを言うと、奈良と鎌倉は別格として、三つ目の大仏には複数の候補があります。ここ高岡の大仏もそのひとつということになります。
高さは台座を含めて約16m。重量は65t。 初代と二代目は木造大仏でしたがそれぞれ焼失し、現在の青銅製の大仏で3代目になります(1933年)。銅器の街と呼ばれる高岡市に相応しい姿ですね。
<大佛寺>だいぶつじ
場所は大佛寺境内です。阿弥陀如来を本尊とする浄土宗のお寺です。
ところで
高岡大仏は「日本一イケメンな大仏」とも言われています。
<イケメン>
イケメンの基準がよく分かりませんが、それくらい見る人が親しみやすさを感じるということなのでしょう。地元職人の銅器製造技術、そして地元民大勢の思い入れが凝縮されたお姿です。
<文化財>
銅造阿弥陀如来坐像として高岡市指定有形文化財に指定されています。
生きとし生けるものすべてに、永遠の幸福と繁栄をもたらす仏様です。ずっと高岡市民を見守っています。
■訪問:高岡大仏
(鳳徳山大佛寺)
[富山県高岡市大手町]11-29
お城巡りランキング
■参考
・Wikipedia:2024/1/6
・とやま観光ナビ
「高岡大仏」
https://www.info-toyama.com/attractions/21108
2024年01月03日
お見舞いを申し上げます(令和6年能登半島地震)
石川県で震度7を観測した能登半島地震の発生から3日目となりました。亡くなられた方々に心からのお悔やみを申し上げるとともに、被災された方々にお見舞いを申し上げます。
<金沢駅前>
普段は仕事に追われていますので、年末年始は毎日ブログを更新するつもりでした。しかしそのような浮ついた気分は吹き飛ばされ、自然の脅威を実感する正月となりました。
<金沢城>
2023年10月から11月にかけて、金沢城について投稿させて頂きました。今回の地震で石垣の一部が崩れてしまったという話を耳にしました。それはそれで残念ですが、全ては人の命、暮らしがあってのこと。石垣の復旧は先の話で良いと思います。
あまり気の利いたことも言えませんが、またぜひ北陸を旅したいと思っている私にとって、そこで暮らす人たちの平穏が、一日も早くもどってくることが一番の望みです。ただの城好き会社員ですが、そう強く願っております。
2024年1月3日
<金沢駅前>
普段は仕事に追われていますので、年末年始は毎日ブログを更新するつもりでした。しかしそのような浮ついた気分は吹き飛ばされ、自然の脅威を実感する正月となりました。
<金沢城>
2023年10月から11月にかけて、金沢城について投稿させて頂きました。今回の地震で石垣の一部が崩れてしまったという話を耳にしました。それはそれで残念ですが、全ては人の命、暮らしがあってのこと。石垣の復旧は先の話で良いと思います。
あまり気の利いたことも言えませんが、またぜひ北陸を旅したいと思っている私にとって、そこで暮らす人たちの平穏が、一日も早くもどってくることが一番の望みです。ただの城好き会社員ですが、そう強く願っております。
2024年1月3日