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2024年09月24日

平八石(沼田城)旧領奪回を夢見た勇将・沼田平八郎の最期

沼田氏の築城に始まる沼田城。捨て曲輪と呼ばれるところに、いわくつきの石が置かれています。
<平八石>
Heihachirou-Stone-Numatacastle.JPG
平八石と呼ばれています。

<説明板>
Origin-Of-Heihachirou-Stone.JPG
説明板には『沼田平八郎景義の首級を載せた石』と記されています。この説明文によれば、沼田平八郎景義は、沼田城築城者の沼田顕泰の側室の子とのこと。摩利支天の再来とまでいわれたつわものだったようです。身内の争いから沼田勢に追われ会津へ逃れていましたが、時を経て、平八郎は旧領奪還の兵を挙げて沼田に迫りました。この挙兵に対し、武田配下として沼田の地を任されていた真田昌幸は、勝ち目がないことを悟ります。ただし、戦国時代屈指の食わせ者である昌幸が、それで諦めるはずはありません。激突は避け、調略によって平八郎の武装を解き、沼田城内に招き入れて殺害しました。これが1581年の話。沼田平八郎は42歳でした。討ち取られた平八郎の首級は、真田昌幸が実検の後、この石の上に置いたとされています。

<古城>
Heihachirou-Stone.JPG
平八石が置かれた捨て曲輪は「古城」とも呼ばれています。初期の沼田城、つまり沼田氏時代の曲輪なのかもしれません。平八石はその曲輪の西側すみに置かれています。

最後に
説明板によれば沼田平八郎景義の亡骸は、町田町の小沢城に葬られ、沼田大明神として祀られたようです。平八郎の首級は、亡骸を埋めたところまで飛んで行ったと伝わります。領地奪回を夢見た沼田平八郎景義とは、そういう話が語り継がれるほどの勇将だったのでしょう。

<沼田城古城からの眺め>
view-from-Numata-Castle.JPG
つわものどもが夢の跡

■訪問:平八石
(沼田城古城)
[群馬県沼田市西倉内町]


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■参考・出典
・現地説明板(平八石の由来)
・沼田市観光協会HP
>遊ぶ-観る>平八石

https://www.numata-kankou.jp/activity/sight/heihachiishi/index.html
タグ:群馬
posted by Isuke at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]

2024年09月23日

城址公園入口付近に漂う三の丸堀のなごり(沼田城)

<沼田公園>
Numata-Park-Entrance-Gate.JPG
ここちらは城址公園として整備されている沼田公園入口です。門をくぐった左手には駐車場や沼田市観光案内所があります。他にも入口はありますが、ここはこの公園の正面玄関です。

ただ
このまますんなり通過する前に、ちょっと見て頂きたい景色があります。

<空堀跡>
Numatajo-Third-Bailey-Moat-Ruins.JPG
門の左側は谷。劇的な高低差となっています。これはただの斜面ではなく、堀として人の手が加えられています。冒頭の正面入口は沼田城の三の丸ですので、三の丸の外側の堀ということになります。

<土塁跡>
Numatacastle-Thirdbailey-Moat-Ruins.JPG
上部の盛り土はかつての土塁ですね

<堀跡に続く脇道>
Numatajononagori.JPG
堀跡へはこちらから入れます

沼田城の歴史は長いのでもうちょっと補足すると、江戸時代の三の丸の堀跡です。三の丸は二の丸の南側に位置し、侍屋敷が建ち並ぶ曲輪だったようです。

<沼田城址>
Numata-Park-Entrance.JPG
冒頭の入口から中へすすめば、公園内は見どころたくさんですが、当ブログがきっかけで、入口の手前で足を止めてくれる人がいれば嬉しいです。

■訪問:沼田公園
[群馬県沼田市西倉内町]


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■参考
・沼田公園案内図
・沼田市観光協会冊子・地図
(上州沼田 真田の里 沼田城址)

タグ:群馬
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2024年09月22日

天空の城下町の出入り口(沼田市)滝坂口

河岸段丘上に築かたれ城下町沼田。滝坂口と呼ばれた町の出入り口を訪ねてみました。
<滝坂口>たきさか
Takisaka-Numata-Terrace.JPG
滝坂と呼ばれる急な坂道を登り切ったところから撮影しました。ここはかつての城下町の西側の入口でした。

<河岸段丘>
Takisaka-Guchi-Numata.JPG
坂の向こうの景色を見れば、沼田の城下町が低地に面した丘の上に築かれていることが良く分かります。

ここ滝坂口のすぐそばに、かつては沼田城の城門「滝坂門」がありました。現地に標柱や説明板はないので正確な位置はわかりませんでしたが、滝坂を登り切り、左折して(北側へ曲がって)すぐの地点に門が設けられていたようです。滝口門付近には、大手門付近から続く外堀もあったようですが、今はそのなごりを留めるものは確認できませんでした。

<橋と水路>
Takisaka-Waterway.JPG
こちらは滝坂口付近の橋と水路。現地では、これが外堀のなごりであろうと思って撮影しました。いまでもそう思いたいのですが、古地図を見る限りでは、堀はもうちょっと…もうちょっとだけ北側に記されています。

<水路>
Takisaka-Numata-Gunma.JPG
滝坂沿いは深い谷になっています。これも外堀の延長で掘られたなごりだろうと現地では思ったのですが…

ちなみに
冒頭の画像は滝坂の一部に過ぎません(厳密には旧滝坂)。滝坂は段丘の上から、低地まで延々と続きます。

<滝坂>
Takisaka-Numata.JPG
こちらは低地へ向かう途中で撮影した滝坂です。右手奥に見えているのは屋根付きの階段です。かなり急な斜面を克服する必要があるため、私は行きも帰りも利用させて頂きました。滝坂は徐々に傾斜をゆるやかにしながら、沼田駅前まで続いています。

<沼田駅前>
Numata-Ekimae.JPG
滝坂を降り切ったところが沼田駅。市街地とは異なり、沼田市の玄関口である駅は低地にあります。

ということで
「天空の城下町」真田の里の滝坂口をご紹介させて頂きました。外堀の位置などについて、個人的な思い込みが混じっていますので、その点はご容赦願います。ただ、素人なりの楽しみ方が共有できれば幸いです。

■訪問:滝坂口(旧滝坂)
[群馬県沼田市下之町]


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■参考
・沼田市観光協会冊子・地図
(上州沼田 真田の里 沼田城址)
タグ:群馬
posted by Isuke at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]

2024年09月21日

沼田城大手門跡と外堀のなごり

沼田城の大手門跡とされる場所を訪ねました。
<沼田城大手門跡>
Otemon-Gate-Numata-Castle.JPG
冠木門が設けられています。門の奥は沼田小学校です。

<冠木門奥の左手>
Otemon-Numatajo.JPG
沼田城の大手門は、現在設置されている冠木門の左側が正面になります。学校ですので立ち入りませんでしたが、門をくぐった左手には、大手門跡の説明板と石柱が設置されていました。

<沼田小学校>
Primary-School-Numata.JPG
せっかく来たので、校庭の西側からしみじみと眺めさせて頂きました。児童がいたら、ヘンなオッサンがいると通報されそうです。でも私の訪問は猛暑が続く8月。夏休みで、ほとんど人はいませんでした。ここは大手門の内側ですので、大手門からの登城ルートを取り囲むように、家臣の屋敷などが建ち並んでいたと思われます。

沼田城の縄張り図を見ると、大手門付近には堀が設けられていたようです。ただ、真田家が改易になった後、沼田城の建物は破却され、堀はほとんど埋められてしまいました。勝手に想像するのも楽しいですが、現地ならではの実感もちょっとだけ欲しいところです。

<高低差>
Numatajo-Sotoboriato.JPG
おお、これはもしや…

大手門跡の南側で撮影しました。この窪み、埋められなかった堀のなごりと思われます。予備知識のないまま訪問していたので、ちょっとした感動でした。

<外堀のなごり>
Near-Otemon-Differenceinelevation.JPG
帰宅してからいろいろ調べましたが、確かな証拠はみつかりませんでした。ただ、縄張り図を参考にすると、沼田城の外堀と位置的に一致します。外堀はここから更に西(画像右方向)へ延びてから南下し、沼田城の別の城門(滝坂門)付近まで繋がっていました。遺構とまではいいませんが、堀のなごりを感じるには充分な光景です。

ということで
沼田城大手門跡を訪問したら、外堀跡と思われる窪みを見つけたというお話でした。


最後に
沼田城の大手門というと、真田昌幸が息子の嫁の小松姫に門前払いにされた話をどうしても思い出してしまいます。昌幸が孫の顔が見たさに沼田城に立ち寄ったものの、敵方についた者を城内に入れるわけにはいかないと、城の留守を預かる小松姫に追い払われるという逸話です。その逸話の舞台、ここだったのかもしれませんね。まぁ沼田城の城門は他にもありましたが、真田昌幸にしてみれば、息子に与えたといっても元々自分の城です。何の躊躇もなく、堂々と正面玄関である大手門から入ろうとしたのではないでしょうか?

<大手門のなごり>
Otemon-Gate-Numatajo.JPG

■訪問:沼田城大手門跡
(沼田市立沼田小学校)
[群馬県沼田市西倉内町]


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■参考
・沼田市観光協会冊子・地図
(上州沼田 真田の里 沼田城址)

・ニッポン城めぐりHP
https://cmeg.jp/w/castles/1912/pins/21392
タグ:群馬
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2024年09月16日

沼田城主・真田信吉墓所(沼田市)天桂寺

沼田城主となって沼田を治めた真田信吉の墓所を訪ねました。
<天桂寺墓所>てんけいじ
Sanada-Nobuyoshi-No-Haka.JPG
沼田市天桂寺の墓所です。奥が真田信吉のお墓です。一般の方のお墓もありますので、画像は多少加工させて頂きました。雰囲気は伝わると思います。

<宝篋印塔>ほうきょういんとう
Sanada-Kawachinokami-Nobuyoshi-Haka.JPG
約3メートルの宝篋印塔。近くで見るとかなり大きいです。沼田市の重要文化財に指定されています。

真田信吉は信之の長男です。生年には諸説ありますが、一般的に1595年とされています。実母についても諸説ありますが、清音院殿(せいいんいんでん)とするのが一般的です。
清音院殿は真田信綱の娘。信綱は、信之の父である昌幸の兄ですので、いとこ同士の夫婦ということになります。清音院殿は正室という立場でしたが、のちに本多忠勝の娘・稲姫(小松姫)が信之の正室として迎えられたため、側室となっています。こういった経緯もあり、真田信吉の実母を稲姫とする説もあります(現地説明板では大蓮院=稲姫と記されています)。ちょっと複雑ですね。

ただまぁ、信吉が戦国屈指の知略の将・真田昌幸の孫であり、存亡をかけた局面を乗り切って真田家を守った信之の嫡子であることははっきりしています。

祖父や父と比較してしまうと地味な存在ですが、信吉は体調不良の父に代わり、大坂冬・夏の陣に弟の信政とともに出陣しています。上田へ移った信之に代わり、沼田3万石を任されているのですから、後継者として期待されていたことがよく分かりますね。この構図は、祖父・昌幸が父・信之に沼田を任せたのと同じです。

<真田河内守信吉の墓>かわちのかみ
Sanada-Kawachinokami-Nobuyoshi-No-Haka.JPG
こちらの説明板には『2代沼田藩主』と記されています。その通りなのですが、当時の沼田は正式には独立した藩ではなく、本家である松代藩の分領でした。ただ信吉が沼田の地を任されていたことは事実であり、やがては松代藩主となることが自然な流れだったのかもしれません。

ところが
父である信之が、当時としては異例の93歳まで生きたのに対し、信吉は40歳の若さで亡くなってしまいました。信之は高齢を理由に、幕府に何度も隠居を願い出ていたのですが、なかなか認められない状態が続いていました。戦国時代を知る最後の武将として、真田信之が将軍家から一目置かれていたことも影響したかもしれません。その結果、既に沼田城主となっていた信吉が、父から藩主の座を譲られることはありませんでした。

説明板には『四十歳で江戸屋敷にて没し沼田の迦葉山で火葬、天桂寺に葬られた』とあります。亡骸は江戸から沼田に運ばれ、丁重に葬られたわけですね。のちに信吉の弟・信政が、信濃松代藩第2代藩主となっています。

■訪問:
真田信吉の墓(
天桂寺)
[群馬県沼田市材木町]144


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■参考・出典
・現地説明板
(沼田市教育委員会)
・Wikipedia:2024/9/16
・沼田市HP
>市指定文化財>真田河内守信吉の墓

https://www.city.numata.gunma.jp/kyouiku/bunkazai/ichiran/shi/1000853.html
タグ:群馬
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2024年09月15日

藩主になるはずだった真田信守墓所(沼田市)舒林寺

沼田市で真田信守の墓所を訪ねました。

<舒林寺山門>じよりんじ
Jyorinji-Temple-Main-Gate.JPG
立派な佇まい。ここ舒林寺は曹洞宗の寺院。初代藩主・真田信之により境内を寄進され真田氏の菩提寺となりました。

<案内板>
Jyorinji-Sanadamatasaburonohaka-Sign.JPG
奥へ進むと「真田又八郎信守の墓」と記された標識をみつけました。

真田信守は信濃松代藩の第2代藩主・真田信政の次男として生まれました。長男の信就は、身分不確かな側室の子であることから、早々に後継ぎを辞退していました。これにより、次男・信守はやがては真田家当主、そして信濃松代藩の藩主となることが期待されていました

しかし
沼田城内で、論争の末に弟の信武を殺害するに至り、自らも自刃しました(1645年)。まだ18歳。真田家としては、身内の争いで一度に二人の男子を失うこととなりました。

その場の論争だけで弟を殺すというのは考えにくいですね。背景にどんな事情があったのでしょうか?兄弟の争いを止めようとした真田家臣の佐久間善八も巻き添えで命を落としています。沼田城で突然起きた、異例の騒動でした。

<宝篋印塔>ほうきょういんとう
Sanada-Nobumori-Haka.JPG
こちらが真田信守の墓です(右側)。周囲には一般の方の墓石もありますので、画像を多少加工させて頂きましたが、宝篋印塔がひときわ目をひく墓所の雰囲気は伝わると思います。

<真田六文銭> さなだろくもんせん
Sanada-rokumon-sen.JPG
信守の墓石には真田六文銭。当主になるはずだった真田の若武者の墓です。

■訪問:舒林寺
[群馬県沼田市材木町]


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■参考
・Wikipedia:2024/9/15
・WEB GUNMA HP
 >真田信守の墓

http://www.webgunma.com/1757/
タグ:群馬
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2024年09月09日

伊奈氏歴代当主が保護した奥秩父の三峯神社

<三峯神社>
Mitsuminejinja-Chichibu.JPG
訪問した三峯神社の御由緒に、関東郡代・伊奈氏のことが記されているのを見つけました。その部分だけ以下に転記させて頂きます(『』内は原文)。
『江戸時代、関東郡代伊奈半十郎検地の折、三里四方を境内地として除地され、寛文元年 現在の本殿が造営されました。』

伊奈氏は関八州の天領の治水や新田開発、検地で功績を上げ、徳川家の関東支配の基盤整備に大きく貢献した一族です。初代の伊奈忠次から始まり、『関東郡代』を十二代にわたって世襲しました。関東の代官の筆頭というポジションですので、秩父と関りがあってもなんら不思議ではありませんが、直接関与していたあたりに、徳川幕府が三峯神社を優遇していたことが伝わってきます。文中の『除地』とは、その土地の税を免除することを意味しています。

さて
御由緒には『伊奈半十郎』と記されていますが、半十郎はあくまで通称です。伊奈氏歴代当主のうち、複数人が半十郎を名乗りました。具体的にはどなたですかね?

現在の本殿が造営されたのが『寛文元年』となっていますが、これは西暦だと1661年。検地と税の免除がほぼ同時だとすると、この時の関東郡代は伊奈忠克ですので、これが半十郎の正体?かと思いましたが、よく調べると、伊奈忠克の通称は半左衛門でした。ちなみに、忠克の先代であり父である忠治と、後継者で息子の忠常の通称は半十郎です。忠常ですかね?(個人的推測です)

いずれにせよ
徳川幕府の意向と、関東の代官の頭である伊奈氏の尽力もあり、三峯神社は江戸時代におおいに栄えて、庶民にも広く知られるようになりました。

God's-Messenger-Mitsuminejinja.JPG
秩父に生息する狼は、猪などから農作物を守る神の使いとされました。

mitsuminejinja-okariya-power-spot.JPG
やがては火防や盗賊除けなど御利益の範囲は広がり、神そのものとしてあがめられました。

最後に
伊奈氏による関東郡代世襲は、十二代目の伊奈忠尊が諸事情で改易(1792)となったことで幕引きとなります。伊奈氏そのものが、幕府の中核からは外れることとなりました。ただ、長年に渡る伊奈一族の功績は否定されるものではありませんでした。幕府は伊奈忠治の三男・忠重の子孫にあたる忠盈(ただみつ)に対し、武蔵国秩父および常陸国信太合せて千石を与えて、伊奈氏の名跡を継がせました。伊奈氏と秩父の関係は、その後も続いたということですね。

■訪問:三峯神社
[埼玉県秩父市三峰]298-1


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■参考及び出典
・現地説明板(御由緒)
・三峯神社HP

https://www.mitsuminejinja.or.jp/keidai/
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2024年09月08日

重忠杉(三峯神社)畠山重忠が奉納した御神木

関東一のパワースポットとも呼ばれる三峯神社には、鎌倉時代の武将・畠山重忠が植樹したと伝わる杉の木があります。
<重忠杉>しげただすぎ
Shigetadasugi-Mitsumine-Jinja-Shrine.JPG
拝殿の手前には、御神木の大杉が2本そびえ立っています。信仰心の厚い重忠が奉献したとされており「重忠杉」とも呼ばれています

<三峯神社>
Mitsumine-Jinja-Shrine.JPG
三峯神社は秩父三社の一社。約2千年前、ヤマトタケルが東国平定の際に三峰山に登り、イザナギノミコト(伊弉諾尊)とイザナミノミコト(伊弉册尊)のためにお宮を祀ったのが始まりとされています。

<日本武尊像>
Yamto-Takeru-Statue.JPG
三峯神社境内のヤマトタケル像

神社の始まりからすると相当あとの話になりますが、中世になると、三峯神社は関東の武将を中心に篤い信仰をうけるようになっていました。

秩父を治めていた畠山重忠が、願いを記した文を収めたところ霊験があり、十里四方の土地を寄進しましたと伝わります。西は甲斐国との境の山までといいますから、かなり広大な土地ですね。以降、三峯神社は関東武士の信仰を集めて大いに栄えました。

<パワースポット>
Power-Spot-Shigetadasugi-Mitsuminejinja.JPG
拝殿向かって左側の御神木に手をかざして祈れば、気が与えられると考えられています。いわゆるパワースポットとして人気です。

ということで
畠山重忠ゆかりの御神木のご紹介でした。

<樹齢800年>
Shigetadasugi-Mitsumine-Shrine.JPG

■訪問:重忠杉
(三峯神社拝殿前)
[埼玉県秩父市三峰]298-1


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■参考
・Wikipedia:2024/9/8
・秩父リゾートHP

https://chichibu-resort.com/2023/07/19/mitsumine/

-----------( 追 記 )-----------
せっかく訪問したので境内の画像を少しだけ追加しておきます。
<三ツ鳥居>みつとりい
Mitsuminejinja-Mitsutorii.JPG
<随身門>ずいじんもん
Mitsuminejinja-Zuijinmon.JPG
<拝殿>
Mitsuminejinja-Haiden.JPG
<本殿>
Mitsuminejinja-Honden.JPG
奥秩父の山中に鎮座する神社です。
タグ:埼玉
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狼を祀るお宮(三峯神社)御仮屋神社

神聖な気に満ちた三峯神社の中で、もっとも霊力が高いと言われる場所を訪ねました。

<御仮屋>おかりや
mitsuminejinja-power-spot-okariya.JPG
神様の使いである狼(大口真神)をお祀りしている社です。

<鳥居>
mitsuminejinja-okariya-torii.JPG
三峯神社拝殿からみて左手の方向にのびる山道を歩くと、鳥居が見えてきます。大きな社ではありません。ただ凛とした空気が漂います。

<説明板>
mitsuminejinja-okariya-explanationboard.JPG
ここは三峯神社のお使い神のお宮であることが記されています。お使い神は深い山中に身を潜めていることから、ここを仮のお宮としてお祭りしているとのこと。遠宮、あるいはお仮屋と呼ばれる所以ですね。

狼(山犬)は、日本武尊の東夷御平定の際に道案内をつとめ、その忠実さと勇猛さによって三峯神社のお使い神(御眷属)となりました

やがてその霊力により三峯信仰の中心となり、山畑を荒らす動物を追い払い、家々を守護する神として崇められるようになりました。

<大口真神>おおくちのまかみ
mitsuminejinja-okariya-stonesteps.JPG
mitsuminejinja-okariya-power-spot.JPG
mitsumine-jinja-okariya-power-spot.JPG
狼は神格化され大口真神と呼ばれています

関東地方で流行した狼信仰の中心がここ三峯神社。境内社は多数ですが、ここが異彩を放っている理由が、何となく理解できました。

mitsuminejinja-okariya-shugoshin.JPG
秩父山地にはかつて日本狼が生息していました。神として崇められながら、もうその姿を見ることはできません。人に目撃されないだけで、奥深い山中にいまも身を潜めている。そう思いたくなる場所でした。

mitsuminejinja-okariya-wolf footprints.JPG
石段の窪みは、神様の使いである狼の足跡と呼ばれています。人知れず増えているといいですね。

■訪問:御仮屋神社(遠宮)
[埼玉県秩父市三峰]298-1


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■参考及び出典
・現地説明板(三峯神社)
・三峯神社HP

https://www.mitsuminejinja.or.jp/keidai/
タグ:埼玉

2024年09月01日

長野堰用水円筒分水(高崎市)

高崎市の住宅地にある円筒分水を訪問しました。
<円筒分水>えんとうぶんすい
Cylindrical-Diversion-Nagano-Weir.JPG
こちらです。水は円の中心から外へ向かって放射状広がり、均等に溢れます。円の外側には、中心からの角度を決めて仕切りを設けてあります。仕切りで分けられた水は各水路へ流れることになりますが、全体の水量が増減しても、分配される水の比率は変わりません

<各水路>
Nagano-weir-Wate.JPG
こちらは円筒分水の下流で撮影しました。交わることのないそれぞれの水路。水の量はそれぞれ違いますが、比率は一定に保たれています。

<長野堰用水円筒分水>ながのぜきようすい
Cylindrical-Diversion-Weir.JPG
現地説明板によれば外円筒12.6m、内円筒8.0m。轟々と音を立てて水が絶え間なく噴き出しているせいか、実物はこの画像以上に迫力があります。水路(長野堰用水)の上流から流れてきた水を、ここで行き先ごとに分けています。

<長野堰説明板>
Explanationboard-Naganoweiwate.JPG
こちらによれば、水を引き込むための堰の形が造られたのは千年以上も前の話。具体的な記載はありませんが、着手したのは戦国時代に名を馳せた箕輪城主・長野業正のご先祖のようです。長野氏が築いたから長野堰。わかりやすいですね。

ここ高崎は烏川と井野川に挟まれていながら、台地となっていることから、水不足に悩まされていた歴史がありました。まぁ川がすぐそばでも、水は高い方へは流れてくれませんからね。川の標高がもっと高いところ、つまり上流で水を引き込んで、水路でつないでくるしかありません。長野堰用水の整備には、現在の用水路の原形を造ったとされる長野業正は勿論のこと、その後の支配者たちも関与しています。高崎にとって、いかに重要なインフラなのか伝わってきますね。

<説明板>
Explanation-Board-Naganoweiwate.JPG
こちらの説明板によれば、長野堰用水は、ここ円筒分水から9q離れたところから水を引き込んでいるようです。灌漑用水として利用され、高崎城址のお堀の水にも利用されているとのこと。そして円筒分水を通過した水は、地獄堰、鳴上堰、矢中堰、倉賀野の4堰に正確に受益分配されるようになっています。

<説明板拡大>
Structure-Nagano-weir-Water.JPG
平面図(上)と断面図(下)。断面図を見ると、円の中心から水が溢れ出る仕組みがよくわかります。理科で習ったいわゆるサイフォンの原理(ここでは逆サイフォンの原理)ですね。平面図には各水路の比率も記されています。地獄堰が28%で鳴上堰は4%、矢中堰31%そして倉賀野堰は37%とのこと。

倉賀野か・・・
実は、私が長野堰を意識したのは倉賀野を訪問した時でした。倉賀野城本丸跡のすぐ近くには、烏川が流れています。ただ高低差があって、城下に水を引き込むことはできません。城下に設けられた水路(五貫堀川)を調べた結果、すぐ近くを流れる烏川のはるか上流の長野堰から水が供給されていたことを知りました。

<記念碑>
Stone-Monument-Renovation-Work.JPG
水路近くのこちらの石碑には「倉賀野・矢中堰改修記念碑」と刻まれています。現代も改良は続けられています。

話を長野堰用水戻すと

<分水地点>
water-diversion-nagamosekiyosui.JPG
水をめぐる集落同士の争いは何百年も続いていました。雨の少ない時には、分水地点であるこの地は修羅場と化したかもしれませんね。円筒分水がその問題を根底から解決してくれたのは昭和になってからです。

ということで
長野堰用水と円筒分水のご紹介でした。円筒分水は地域によっては円形分水とも呼ばれるそうです。水を分配する原理と役割は同じですね。

<世界かんがい施設遺産>
Heritage-Irrigation-Structures.JPG
世界かんがい施設遺産に登録されています

■訪問:長野堰用水円筒分水
[群馬県高崎市江木町]134


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■参考・出典
・現地説明板
(群馬県西部農業事務所)
・Wikipedia:2024/9/1
・高崎市HP

https://www.city.takasaki.gunma.jp/page/5515.html
タグ:群馬
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