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2024年03月03日

中山道桶川宿のなごり

今回は中山道の宿場町として栄えた桶川宿の話です。いまも昔の名残を留める宿場跡を訪ねました。

<中山道桶川宿>おけがわじゅく
Okegawazyuku.JPG
中山道桶川宿は、日本橋から数えて6番目の宿場です(板橋→蕨→浦和→大宮→上尾→桶川)。日本橋からの距離は10里14町(約40.8 km)。マラソンとほぼ同じくらいですね。日本橋を出た旅人が街道を1日かけて歩き通し、夕方になるのが桶川付近と言われています。よって、宿場町として絶妙の位置にあったことになります。

江戸初期の桶川宿は、宿内の家数が58軒程度でしたが、天保14年(1843年)頃には347軒に達していたそうです。背景には、桶川が紅花などの染料や農作物の集散地となり、経済的に潤っていたことがあります。加賀百万石の前田家を筆頭に、多くの大名が参勤交代の際の宿として桶川宿を利用しました。

■現地訪問■
<桶川宿案内図>
Guide-Map-at-Okegawa-Station.JPG
下車したJR桶川駅の東口で撮影しました。桶川の史跡を全て訪ねるのは大変なので、この日は桶川宿のメインストリートを端から端(南側から北側)まで歩くことにしました。

<旧中山道>
Nakasendo-Okegawa.JPG
少しだけ欲張って宿場の入り口より手前からスタート

<川跡>
Ankyo-Okegawazyuku.JPG
観光スポットではないですが街道沿いの暗渠に足が止まる。中山道から桶川宿に入る手前には川、または水路があったなごりですね

<旧中山道>
Townscape-like-Post-Town.JPG
何となく宿場跡のような雰囲気が漂い始める

<地蔵堂>
Roadside-Jizo-Okegawa.JPG
何となく足が止まる

そして

<木戸跡>きど
Kidoato-Okegawazyuku.JPG
宿場の警備のために出入り口に設置されていた木戸の跡です。つまり、厳密に言うとここからが桶川宿です。

<旅籠>はたご
Takemuraryokan-Okegawazyuku.JPG
宿場の旅籠の姿を今にとどめる武村旅館です。当時の間取りが今もほぼ引き継がれているとのこと。

<武村旅館説明板>
Takemuraryokan-Explanation-board.JPG
嘉永5年(1852)の建築。国登録有形文化財に登録されています。

ここ武村旅館に限らず、街道沿いの歴史的建造物には、桶川市教育委員会さんによる丁寧な説明がなされています。ですから、あまり予習しないで訪問しても充分に楽しめます。

<懐かしいような景色>
Inabayahonten-Okegawa.JPG
古民家のような魚屋さん「鮮魚稲葉屋本店」を通過。更に北へ向かいます。

<島村老茶舗>しまむらろうちゃほ
Simamuraroucyaho-Okegawazyuku.JPG
嘉永7年(1854)創業という島村老茶舗の店舗兼主屋です。こちらも宿場の雰囲気を今に伝える建物です。見た目も良いですが、内部も建設当初の姿をとどめているとのこと。

<土蔵造り>どぞう
Yabeke-Okegawazyuku.JPG
遠くからでも目立つ重厚な土蔵造り。木半の屋号で知られた穀物問屋・矢部家住宅です。いかにも歴史的建造物という佇まいです(現在の建物は明治37年から)。

<元旅籠>
Kobayashike-Okegawazyuku.JPG
こちらの小林家住宅主屋は、江戸時代末期頃に建てられた旅籠を材木商が店舗として利用してきたととのこと。改修されてはいますが、外観は建築当時の姿をとどめているそうです。

続いて

<桶川宿本陣遺構>
Okegawazyuku-Hojin.JPG
[桶川市寿]2丁目
宿場の中央に位置する本陣跡です。先述の通り、名だたる殿様が宿泊・休憩した場所です。15代将軍徳川慶害の父で水戸藩主の徳川斉昭が宿泊し、文久元年(1861)年には皇女和宮が宿泊した記録が残っています。この大変な役割は、代々甚右衛門を襲名した府川家が勤め、宿場の全体の運営にもあたっていました。桶川宿には府川家本陣に加えて、これを補う脇本陣2軒が置かれていました。遺構はありませんが、1軒(武笠家)は本陣のお隣、もう1軒(内田家)は道を挟んだ向かい側です。

<現地説明板>
X-Twitter-Isuke-Okegawa240302.JPG
私の訪問時は中には入れなかったので、入口に設置されている説明板を確認させて頂きました。こんな感じの建物なんですね(画像の左下)。広大な本陣のうち、現存しているのは一部(右下画像の赤で囲んだところ)のようですが、残っているだから大変貴重な遺構です。


<中山道宿場館>
Tourist-information-center-Okegawa.JPG
[桶川市寿]1-11-19
こちらは桶川市観光協会が運営する観光案内所です。

<館内展示物>
X-Isuke-Okegawa240302.JPG
桶川宿に関する展示物が多数。最初にここに寄れば良かったです。春先の訪問のためお雛様も飾られていました。

<宿場の浮世絵>
Ukiyoe-Nakasendo.JPG
こちらは埼玉県内の中山道の宿場。右上から蕨・浦和・大宮、上尾・桶川・鴻巣、熊谷・本庄・深谷。


<休憩所>
Rest-Area-Okegawa.JPG
ちょっと休憩です。宿場跡の案内板も設置されていてトイレも完備。助かりました。


<市神社跡>いちがみしゃ
Ichigamishya-Ato-Okegawa.JPG
現在の東和銀行に設置されている市神社跡の標柱。桶川宿で五と十のつく日に開かれていた「市」の守護神がここに祀られていました。明治になると、交通の妨げとなることから、市神社は桶川稲荷神社へ移されました。合祀され今は八雲社として祀られています。

次は旧中山道から少しだけ南側に入った寺院です

<大雲寺本堂>だいうんじ
Daiunji-temple-Okegawa.JPG
[桶川市西]1丁目
1557年創建と伝わる寺院です。山号は龍谷山。宿場を取り仕切った府川家の場所でもあります。宿場の上方(京側)にありることから「上の寺」とも呼ばれていました。足立坂東三十三箇所霊場の第2番札所です。


<一里塚跡>
Ichirizuka-ato-Okegawa.JPG
歩道橋に設置された桶川市教育委員会さんの説明文によれば、一里塚がこの付近の中山道の両側にあったそうです。杉が植えられ、根元には妙見菩薩が祀られていました。明治になって取り壊されたようです。


<北側の木戸跡>
Okegawazyuku-Signpost.JPG
木戸跡の石柱です。ここが宿場の北側の出入り口です。「北の木戸」または「上の木戸」などと呼ばれています。

これで宿場跡の通り抜けは終了です。かつてのメインストリートを歩いただけですが、充分に楽しめました。

探索の最後に、街道から東側へやや逸れますが、桶川宿の鎮守にお邪魔させて頂きました。

<桶川稲荷神社>
Okegawa-Inari-Shrine.JPG
[桶川市寿]2丁目14-23
創建は1134年又は嘉禄年間(1225-1227)という古い神社です。

<境内>
X-Isuke-Okegawainari240302.JPG
鳥居、稲荷神社拝殿
境内社は雷電社、そして琴平社・八雲社・阿芙利社

<大盤石>だいばんせき
X-Isuke-Chikaraishi240302.jpg
約6百キロの力石!?ちょっと無理かと思いますが…
三ノ宮卯之助なる人物が実際に持ち上げたとされており、日本一重い力石と言われています。現地の説明板をみると、手で持ち上げたのではなく、足を使ったようにも思えましたが、それでも凄いことですよね。三ノ宮卯之助は岩槻出身で、江戸一番の力持ちと評判の力士でした。

そして
<紅花商人寄進の石燈籠>
Stone-Lantern-Okegawainari.JPG
かつての繁栄を物語る紅花商人寄進の石燈籠です。桶川郷の紅花の生産量は、出羽国の最上紅花に次いで全国第2位を誇っていました。気候の違いから収穫が早いという有利さもあったようです。文化が花開く根底には、経済的な基盤があったわけですね。石燈籠は先ほどの力石とともに桶川市文化財に指定されています。

最後に
<欅稲荷神社>けやきいなり
Keyaki-Inari-Shrine.JPG
境内の欅の木の中に稲荷神が祀られていました。私の知る限りでは一番小さな稲荷神社です。

以上です。
桶川宿のなごりのご紹介でした。

蛇足になりますが、日本橋から40qという距離は決して短くありませんよね。飛脚、つまりその道のプロならともかく、普通の人が1日で歩いたのですから、江戸時代の人達はみなさん健脚ですね。

■訪問:桶川宿跡
[埼玉県桶川市寿]他


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■参考
・現地説明板(桶川市教育委員会)
・中山道宿場館パネル他
・Wikipedia:2024/3/3

タグ:中山道
posted by Isuke at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 街道・古道

2024年02月27日

白石様堀のなごり(白岡市)

新井白石ゆかりの堀跡を訪ねました。

<白石様堀>はくせきさまぼり
Hakusekisamabori-Twitter-X-Isuke240224.jpg


■ 現地訪問 ■
この日の探索のスタートはJR新白岡駅

<新白岡駅西口>
Shin-Shiraoka-Station-Weat-Entrance.JPG
駅の東側はニュータウンとなっています。今回の目的地は西側です。

<白石様堀公園>はくせきさまぼりこうえん
Hakusekisamabori-park.JPG
[白岡市新白岡]7丁目
駅近くの白石様堀公園。新田開発を行った新井白石の功績をたたえて名付けられました。目的地はまだ先ですが、実は白石様堀跡は既にここから始まっています

<公園内説明板>
Hakusekisamabori-Explanation-board.JPG
『新井白石と野牛』と題した説明板です。江戸時代に野牛村と呼ばれたこの付近が、1709年から新井白石の領地となったこと、そして明治まで新井家代々が知行したことが記されています。

ちょっと長いので、新井白石の幕府での活躍などは省略させて頂きます。説明文の後半を転記させて頂くと『低湿地であった野牛の田んぼに排水路として、「殿様堀」「白石様堀」と呼ばれる一条の堀を設け、良田に改良するとともに、領民のために飢饉などの備えとして郷蔵を設けた。』とあります。儒学者として名高い白石ですが、領民にとって良き殿様であったことがうかがえますね。文中の郷倉(ごうくら)とは、村や集落といった共同体で管理する米の貯蔵庫のことです。

<説明板の航空写真>
Hakusekisamabori-aeria-photo.JPG
航空写真に白石様堀跡が記されています。とても分かりやすい。これを見ると、堀跡が公園を斜めに横切っていることが分かります。右側(東側)は線路の向こう側に至っています。暗渠と表示されていますので、地下に埋設された状態。直接見ることは叶いません。

見えなくても感じることはできる。

西側を探索する前に、一応線路の向こう側を先に見ておくことにしました。

<線路の東側>
Hakusekisamabori-Ankyo-bicycle-parking.JPG
白石様堀公園のすぐ近くに踏切がありますので、すぐに到着。画像の右側、奥が自転車置き場として利用されているところが、白石様堀の暗渠です。

暗渠は水路ですから、下は空洞になっています。道路のように、重量のある自動車に耐えられる構造ではありません。こういった理由から立入禁止になっている場合もありますが、歩道や自転車置き場として利用される場合も多いです。ここは暗渠の有効活用の典型といえる場所ですね。

さてさて
もう一度公園に戻って、白石様堀の跡を追いかけることにします。

<堀跡の公園>
Hakusekisamabori-koen.JPG
先述の通り、この敷地の一部もかつての白石様堀です。ただ、ここまで綺麗に整備されていると、どこが堀跡なのか分かりません。

分かりやすい暗渠を辿りたいと思います。

<堀跡の暗渠>
Hakusekisamabori-Ankyo-Twitter-X-Isuke240224.jpg
歩道が堀跡。分かりやすいですね。ここをひたすら西へ向かいます

<堀跡の暗渠>
Hakusekisamabori-Ankyo.JPG
気付かなければただの歩道ですが、地下は水路です。

<庚申塔>こうしんとう
Hakusekisamabori-Ankyo-Kousinntou.JPG
進行方向左手の分かれ道に庚申塔。青面金剛立像が見えます。ということは、この脇道は古くからある道なのでしょう。歩道はもともと堀だったわけですから、昔はここに橋が架かっていたのかもしれませんね?(想像です)

<暗渠沿いに神社>
Hakusekisama-bori-Ankyo.JPG
進行方向右手(北側)に神社が見えました。説明板の航空写真にもあった久伊豆神社。地元の歴史と関係が深いはず。立ち寄ることにしました。

<野牛久伊豆神社>
Yagyu-Hisaizujinja-Shiraoka.JPG
久伊豆神社は埼玉県内の特に荒川流域に多く分布する神社です。野牛久伊豆神社の創建は不詳のようですが、村の鎮守として祀ったものと考えられています。

<境内>
Yagyu-Hisaizujinja-Explanation-board.JPG
朝鮮通信使奉納扁額?お隣の説明板によれば、社殿正面に掲げられた篇額が、朝鮮通信使の李礥(り・ひょん)が新井白石のために書いたものであるとのこと。

<朝鮮通信使奉納扁額>へんがく
Yagyu-Hisaizujinja-Hengaku.JPG
久伊豆社の文字。白石が奉納したこの扁額と下書きは、白岡市指定文化財に指定されているとのこと。これも白石がこの付近を領していたなごりと言えますね。

<御嶽神社>みたけじんじゃ
mitakejinjya-torii-shiraoka.JPG
mitakejinjya-shiraoka.JPG
境内はこちらの御嶽神社ほか多数

さて
再び堀跡の暗渠を進みます

<暗渠の終着点>
Hakusekisamabori-Ankyo-Destination.JPG
どうやら暗渠はこの付近までのようです

<暗渠の出口>
Hakusekisamabori-Ankyogate.JPG
地下の水路はここで終わり。水面が見えていますね。ここからは開渠です

<堀跡の開渠>
Hakusekisamabori-Kaikyo.JPG
堀らしくなってきました

<この日のゴール>
Hakusekisamabori.JPG
急に視界が開けました。ここがこの日の探索のゴールです。説明板が設置されています。

<説明板>
Hakusekisama-bori-Explanation-board.JPG
新井白石が領有した野牛村は低湿地でしばしば洪水にあい、排水が悪く良好な農地ではなかった。しかし白石が測渠を堀って排水を良くしたことで、農地は良田となり、収穫量も増えた。ちょっと要約させて頂きましたが、そう記載されています。また、開削当時と比べると、流路も含め姿は変わってしまったものの、今も排水路としての役割を果たしていると記されています。つまり、現在の排水路そのものが、白石様堀のなごりということですね。

<郷倉跡>ごうくら
Hakusekisamabori-Goukura-Ato.JPG
こちらは説明板からすぐ近くの郷倉跡。白石が領民のために設けた郷倉のなごりです。

儒学者である白石は、第6代将軍の徳川家宣のもとで「正徳の治」を行なった政治家でもあります。いわば幕府の中枢にまでなった人物。その一方で、領民の期待に応える顔も持ち合わせていました。白石は若い頃の浪人生活で貧困を経験し、庶民との接点も多かったようです。領民の暮らしを思う気持ちの土壌は、その時に培われたものなのかもしれませんね。

白石は政治の世界では失脚してしまいますが、野牛村の豊かさを願って造った堀は残り続けました。白岡市となったいまも、地元ゆかりの偉人として語り継がれています。

<白石様堀のなごり>
Hakusekisamabori-Ato.JPG
堀の呼び名に「様」がつくのですから、よほど感謝されたのでしょう。


会社員の拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:白石様堀
[埼玉県白岡市野牛]1000

---------■ 参考画像 ■---------

<新井白石像>
Arai-Hakuseki-statue.JPG
[君津市久留里字内山]
千葉県の久留里城跡で撮影しました。現在の白岡市の領主となった新井白石は、君津市の生まれです。白石の父は久留里藩の藩士でした。藩主に才覚を認められた白石は、青年期を久留里の地で過ごしました。


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■参考及び出典
・現地説明板(白岡市教育委員会)
・久伊豆神社説明板( 〃委員会)
・白石様堀公園説明板
・Wikipedia:2024/2/25
・白岡市観光協会HP
 名所案内 › 白石様堀

http://www.shiraoka-kanko.info/hakusekibori.html
タグ:暗渠
posted by Isuke at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 川跡・暗渠

2024年02月24日

日光御成道と鎌倉街道のなごり(川口宿)鎌倉橋の碑

今回は川口の宿場跡に漂う日光御成道と鎌倉街道のなごりの話です。

<鎌倉橋の碑>
Kamakura-Bridge-Monument-Kawaguchi.JPG

■日光御成道とは■にっこうおなりみち
日光御成道とは、将軍の日光社参のために整備された街道を指します。本郷追分で中山道と分かれ、岩槻宿などを経て日光街道に合流するまでの2里30町(約48km)の道のりです。今回訪問した川口もその宿場の一つでした。

■川口宿■
古くからあった鎌倉街道の中道(なかつみち)を利用して整備された御成道は、現在の東京都北区で荒川を渡ります荒川を挟んだ岩淵宿(東京側)と川口宿(埼玉側)は、セツトで宿場の役目を果たしていました。文献によっては、2つをひとつの宿場とみなすようです。合い宿として、月の前半後半で役目を交代していました。

<川口元郷駅>
Kawaguchimotogo-Station.JPG
埼玉高速鉄道の川口元郷駅。この日はここからスタートです。

<国道122号線>
Onarimichi-Kawaguchi.JPG
駅を出たら国道沿いに南へ。この道そのものが日光御成道です。

<上之橋>かみのはし
Kaminohashi-Kawaguchi.JPG
芝川を渡ります。この先で国道を右手(西側)に逸れて川口宿方面へ向かいます。

<芝川>
Shiba-River.JPG
上之橋から撮影した芝川

<旧川口宿>
Kawaguchi-Post-Station-ruins.JPG
かつての川口宿の通りです。地元の商店街となっていますが、いまではやや活気が失われつつあります。

<旧本陣の門>
Kawaguchi-Post-Station-Honjingate.JPG
こちらは旧川口宿本陣表門です。宿場の本陣は、偉い方の宿泊する場所です。川口宿には本陣1軒と脇本陣(本陣の予備施設)1軒、そして一般の旅籠屋が10軒あったそうです。

宿場の遺構とよべるものは少ないですが、かつて賑わった古い町並みの雰囲気は残っています。

<商店>
Kawaguchi-Post-Station-ruins-old-store.JPG
素敵な景色です。

<商店街>
Kawaguchi-Post-Station-Ato.JPG
商店街を通り抜け、振り返って撮影。賑わった街道にシルバーゾーンと記されているのが印象的でした。

そして

<鎌倉橋記念緑地>
Kamakura-Bridge-Monument.JPG
冒頭の「鎌倉橋の碑」です。この画像では伝わりにくいですが、見開き型の碑となっており、左側には文字が刻まれています。

<説明板>
Kaido-History-Information-Board.JPG
『日光御成道と鎌倉街道』というタイトルで説明がなされています。抜粋させて頂くと、日光御成道が中世の鎌倉街道中道をもとにして整備されたこと、奥州への要所であったこと、そして義経記には『源義経が奥州から鎌倉に向う際に小川口で兵をあらためたと記されて』いることが説明されています。鎌倉街道中道が『将軍社参にふさわしい道として整備されたのは寛永年間(1624-44)』といわれているとのこと。

そして鎌倉橋について。以下にそのまま転記します。
『荒川北側の小川に架かっていた土橋は鎌倉橋と呼ばれ、江戸時代においても重要な橋の一つで、たびたび修築を加えられ昭和初期まで残されていました。しかし、荒川の河川改修などにより消滅し、現在はこの緑地内にかっての橋の存在を記念して、石碑が建てられています。』

<地図拡大>
Kamakura-Bridge-pictorial-map.JPG
荒川北側の小川に架かっていた土橋が鎌倉橋と呼ばれたわけですね。そして橋の名に「鎌倉」がつくのは、ここがもともと奥州に繋がる鎌倉街道であることに由来する。納得しました。

鎌倉橋記念緑地の南側は荒川のスーパー堤防です。更に南下するために登ってみました。

<荒川>
Arakawa-River.JPG
堤防の上から撮影した荒川です。徳川家臣の伊奈氏によって荒川の流路は変更され、入間川と合流する川となりました対岸は岩淵宿です。

<善光寺>
Zenkoji-Temple-Kawaguchi.JPG
こちらは川口市舟戸町の善光寺です。独特の雰囲気を醸し出す近代的な建物となっていますが、川口宿の入り口といってもいいこの地に古くからある寺院です。かつては荒川の河川敷でしたが、現在は幅広の堤防上です。

WIKIさんから引用させて頂くと『江戸時代、「日本三大善光寺」の一つとされ、大いに賑わった。『江戸名所図会』『名所江戸百景』でも取り上げられる程の江戸近郊の名所であった。』とのこと。

信濃や甲州と並び称される善光寺だったわけですね。

ということで
川口宿付近の日光御成道・鎌倉街道のなごりのご紹介でした。遺構のようなものは少ないですが、歴史は明らかであり、その雰囲気だけでも共有できれば幸いです。

会社員の拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:鎌倉橋の碑
(鎌倉橋記念緑地)
[埼玉県川口市本町]1丁目8-19

--------■ 参考画像 ■--------

<錫杖寺>しゃくじょうじ
shirononagori311 (2).JPG
こちらは別の日に訪問した川口市の錫杖寺。川口宿の北の外れに位置する由緒正しき寺院です。1622年には、徳川秀忠が日光社参の際に休息所として立ち寄りました。私はこちらの山門が宇都宮城からの移設と聞き、訪問させて頂きました。

<岩淵渡船場跡>いわぶちとせんばあと
Iwabuchi-Ferry.JPG
[北区岩淵町]41先
こちらは対岸の岩淵渡船場跡です。川口の飛地であったことから「川口の渡し」とも呼ばれていました。


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■参考及び出典
・現地説明板
(鎌倉橋記念緑地)
・Wikipedia:2024/2/24

posted by Isuke at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 街道・古道

辻村の三叉路(岩槻)日光御成街道と粕壁道の分岐点

日光御成街道は、将軍の日光東照宮参拝のために整備された街道です。今回はその通り沿いの三叉路の話です。現地はさいたま市岩槻区です。

<分かれ道>
Onatimichi-Iwatsuki-minamitsuji.JPG
左へカーブする日光御成街道、そして右へそれる脇道

<南辻の三叉路>
Onatimichi-Iwatsuki-three-way-intersection.JPG
街道の分かれ道にはありがちな光景ですね

<南辻の地蔵>
Onatimichi-Iwatsuki-Jizo-statue.JPG
祠にはお地蔵さん。やや大きめのお地蔵さんです。

<地蔵菩薩>
Onatimichi-Iwatsuki-Jizo.JPG
雨ざらしではないせいか、保存状態もよいように思われます(素人意見として)。

<お地蔵さんの背中>
Onatimichi-Iwatsuki-Jizo-Back.JPG
Onatimichi-Iwatsuki-Jizo-Back-2.JPG
刻まれた背中の文字もくっきり。ただ…當安楽?證菩提之(處かな?)…全部は読めず、意味も想像できず。菩提だけは確かです。

<路傍の石>
Onatimichi-Iwatsuki-Stone-Carved-with-Letters.JPG
道路沿いのお地蔵さんのそばには丸い石が二つ。文字か刻まれています。奉???ほぼ読めません。力石でしょうか?神社の境内などに、地元で使われていた力石が置かれている光景をよく見ます。この付近はかつて岩槻領に属する辻村でした。村民が実際に使った力石の納まる先が、古くから親しまれているお地蔵さんの足元だったのかもしれませんね。

<石塔>
Onatimichi-Signpost.JPG
こちらには複数の石塔。こちらはまったく字が読めず、私には何だかわかりませんでしたが、街探索のお仲間の話では、これは道しるべのようです。

<粕壁道>かすかべ
Road-to-Kasukabe.JPG
道しるべによればこの脇道は粕壁道。日光御成道から分かれて春日部方面へ向かう道ということになります。そもそも辻という言葉が、道が交差する場所を意味しています。ここがかつて辻村と呼ばれたのは、街道の分岐点だったからかもしれませんね。


<日光御成街道岩槻宿>
Onatimichi-Iwatsukijukuato.JPG
Onatimichi-Iwatsukijuku.JPG
Onatimichi-Iwatsukijuku-Ichirizuka.JPG
岩槻は城下町であると同時に、日光御成道の宿場でした。宿場の本陣他には、名だたる大名や幕府の役人が宿泊したと思われます。さすがに将軍ご本人は、警護の行き届いた岩槻城を宿としましたが、日光御成道の宿場で、将軍が宿泊場としたのは岩槻だけです。

今回訪問の辻村の三叉路は、宿場を北に抜けて少し進んだところです。

ということで
地蔵菩薩に呼び止められたような感覚で足を止めた場所は、日光御成街道と粕壁道の分岐点だったというお話でした。いつもにも増して「字が読めない」を連発して失礼しました。ただの会社員の街探索に過ぎませんので、内容についてもその程度に受け止めてくださるようお願い致します。

<旧辻村の日光御成街道>
Onatimichi-Iwatsuki-1.JPG
都市化の波が押し寄せても、ずっとここを動かないで欲しいですね。お地蔵さんはもちろん、道しるべも力石も。

■訪問:南辻の三叉路
(日光御成道)
[さいたま市岩槻区南辻]1


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タグ:日光御成道
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2024年02月18日

暗渠と城跡37 道路沿いの住宅に漂う岩槻城大構のなごり

鎌倉時代以前に築かれたとされる武蔵国の岩槻城は、戦国時代末期には、城だけでなく、城下町の外周も堀や土塁で囲む総構(そうがまえ)の構造となっていました。ここ岩槻では、総構のことを大構(おおがまえ)といいます。今回はその「大構」のなごり(?)ではないかという道路沿いの風景に触れさせて頂きます。

Iwatskijo-Ruins-of-earthworks.JPG
ここは大構の遺構として知られる場所です。都市化にともない、街なかの堀は埋められ土塁もほとんどが取り崩されましたが、ここだけは残っています。

Iwatski-Atago-shrine-on-earthwork.JPG
コンクリで固められていますが、この高低差は土塁のなごりです。土塁上に愛宕神社があることで、取り崩されなかったのでしょう。

Iwatski-Railroad-Crossing.JPG
土塁をかすめるように東武野田線の電車が通過します。

ここまでは、当ブログで以前投稿させて頂いた内容と同じす。下にリンクを貼っておきますので、よかったらのぞいてみて下さい。

投稿:2020年05月30日
タイトル:岩槻大構のなごり
→記事へすすむ

さて
今回は愛宕神社を通り過ぎで、踏切を渡った先のお話です。

まずは、岩槻城の構造をもう一度確認したいと思います。

<縄張り図>
shirononagoriMAPiwa (5).jpg
[出典:岩槻城址公園説明板]
北側には川、そして本丸などを取り囲む巨大な沼が目を引きますね。今回の焦点は南側。城下に設けられた大構の堀です。

<縄張り図拡大>
Mapfocusedon-Atagojinja.JPG
愛宕神社付近を拡大しました。神社のすく脇に大構の堀が設けられていますね。

<堀跡>
Iwatski-other-side-of-Railroad.JPG
堀跡がそのままこの道ということになります。右手が大構の内側、左側は外側です。

ではまっすぐ進むことにします。

Iwatski-Hori-Ankyo-1.JPG
堀は埋められ道となり、右手歩道が暗渠、つまり水の通り道となっています。

Iwatski-Hori-Ankyo-2.JPG
なんのへんてつも無い道、そして暗渠の歩道

Iwatski-Hori-Ankyo-3.JPG
ただよく見ると、道路の左右で住宅の出入り口の高さが異なります。

Iwatski-Hori-Ankyo-4.JPG
道の右側は少しだけ段差が確保されています。そのまま、建物の基礎部分も高くなっています。

Iwatski-Hori-Ankyo-5.JPG
こちらも

Iwatski-Hori-Ankyo-6.JPG
こちらも

高さが維持されている側が大構の内側です。つまり、古くは堀とセットの土塁が設けられていたということになります。愛宕神社付近のような明確な遺構は確認できませんが、この僅かな高さも、土塁のなごりなのかもしれませんね。

土地が高くなっているのは、歩道が暗渠(地下に埋設された水路)であることと無関係ではないかもしれません。ただ暗渠そのものが堀のなごりと言えるので、どちらにしても、岩槻城大構のなごりだと思えました。

ということで
堀跡の道の片側だけが、やや高くなっているというお話でした。

今回の投稿は、街探索のお仲間で岩槻にかなり詳しい『いこ〜』さんにヒントをもらい、一人で現地確認してきた結果です。今度は当ブログがヒントとなり、現地で似たような思いをする人がいれば嬉しいです。

拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。

<愛宕神社裏手の土塁>
Iwatski-9.JPG

■訪問:岩槻愛宕神社付近
[埼玉県さいたま市岩槻区本町]


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沼が消えても地形は残る(岩槻城)天然堀のなごり

<さいたま市岩槻区>
X-Twitter-Isuke230210.jpg
この下り坂はさいたま市岩槻区で撮影しました。都市化によりコンクリの街となっていますが、坂を下ったところには、かつて岩槻城の天然堀だった巨大な沼がありました。

<久伊豆神社一の鳥居>
Hisaizu-Shrine-Main-Gate.JPG
撮影場所は宮町の久伊豆神社参道入口の南側です。東武野田線(アーバンパークライン)の踏切を渡ってすぐのところで撮影しました。

<縄張り図>
shirononagoriMAPiwa (5).jpg
[出典:岩槻城址公園説明板]
岩槻城はご覧の通り自然地形を利用した平城でした。本丸や二ノ丸・三ノ丸といった城の中核部分は、天然堀である沼に囲まれています。

<縄張り図拡大>
Mapfocusedon-Hisaizujinja.JPG
先ほどの久伊豆神社は、この巨大な沼の北側に設けられた新正寺曲輪に鎮座しています。

沼はやがて姿を消しました。

しかし地形は残り続けます。

<岩槻城の天然堀のなごり>
Iwatsuki-geography.JPG
ここはそのなごりを感じられる場所ということになります。この道を真っすぐ進めば、岩槻城三ノ丸跡になります。

普段当たり前に通り過ぎてしまう都市の風景も、地形を手がかりにちょっと視点を変えると、別なものに映りますね。

■訪問:久伊豆神社前踏切付近
 (新正寺曲輪跡)
[さいたま市岩槻区本丸]2丁目


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posted by Isuke at 20:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]

2024年02月10日

将軍塚と久米川古戦場跡(東村山市)戦いの口火を切った新田義貞の足跡

つわものどもが夢の跡
新田義貞率いる軍勢が鎌倉幕府軍と激突した古戦場を訪問しました。

<久米川古戦場碑>くめがわ
Old-Battlefield-Stone-Pillar.JPG

■新田義貞の挙兵■
1333年(元弘3年)、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞は、鎌倉幕府を倒すべく上野国で挙兵しました。当初は少人数だったものの、鎌倉に向けて南下するほど人数は増え続け、利根川に至ったところで既に7千騎だったと言われています。各地の武士の心は、既に幕府から離れていた証拠ですね。打倒幕府の口火を切ったのが新田義貞でした。

■現地訪問■
最寄り駅は西武鉄道の東村山。駅を出てまずは伝説となったヒーローにご挨拶

<志村けん銅像>
Great-Comedian-Ken-Shimura.JPG
新型コロナウイルスのため急逝した志村けんさん。背後のコメントの通りです。ありがとうございました。

続いて現地へ向かう途中に通った道

<旧鎌倉古道>
Kamakurakodo- Higashimurayama.JPG
この何気ない道は古道だったようです。鎌倉街道に沿って南下した新田義貞も通った道かもしれません

<勝陣場橋>かつじんばばし
Unique-Name-Bridge-Old-Battlefield-SyoujinbaBashi.JPG
いい名前の橋ですね

<将陣場橋>しょうじんばばし
Katsujinbabashi-Old-Battlefield.JPG
こんな橋も

<諏訪神社>
Suwajinjya-Higashimurayama.JPG
地名の由来となった神社です

<丘陵地帯>
Hilly-Area-Sayama.JPG

ここまで平らな道を歩いてきましたが、低層の山が見えてきました。古戦場跡の石碑まであと少しです。

<久米川古戦場跡>
Old-Battlefield-Kumegawa.JPG

目的地に到着です。公園の隅に石碑と説明板が設置されています。

<説明板>
Old-Battlefield-Explanation-Board.JPG

一部を抜粋させて頂きます(『』内は原文転記)。
まず『北川と前川の合流するこの地域の低地と狭山丘陵東端の八国山の麓一帯を鎌倉時代には久米川宿といっていた』とのこと。そして『上野国(群馬県)と鎌倉を結ぶ政治的にも経済的にも重要な交通路であった鎌倉街道上の道の主要な宿駅であった』と記されていいます。群馬で挙兵し、鎌倉を目指す新田軍にとって、この地は通るべくして通った場所ということですね。

新田義貞率いる軍が利根川を越えたところで、足利尊氏の嫡子である千寿王が合流します。こういう言い方もなんですが、足利家は当時の新田家より明らかに格上です。有力者の加勢によりますます兵が集まり、新田軍は数万規模になったとされています。

これを迎撃したい幕府軍は、現在の所沢市北野(手指ヶ原)で新田軍と激突しますが敗退。
今回訪問の東村山市諏訪で、再び新田軍に襲い掛かりました。新田軍は奇襲に失敗して苦戦となりましたが、高台に陣を構えて態勢を整えます。

<八国山>
Hachikokuyama.JPG
八国山は狭山丘陵の東端に位置し、東村山市と所沢市にまたがる山です。説明板の表現をそのまま引用させて頂くと『駿河(富士)、伊豆(天城山)、相模(箱根・大山)、甲斐(多波山)、信濃(浅間)、上野(吾嬬)、下野(日光)、常陸(筑波)、の八か国の山』が見渡せたことが名の由来となっています。

新田軍は高低差を味方につけたわけですね。地理的優位を背景に、新田軍の反撃が始まりました。鎌倉幕府軍の激しい抵抗にあいましたが、最後は新田軍が攻めきり、ここでの勝負を決めました。

久米川の戦い
反幕府軍である新田軍の勝利です

これにより、反鎌倉幕府の機運はますます高まりました。次の戦いの場となる分倍河原(府中市)で、鎌倉幕府は実質滅亡しています。

<八国山登山道>
hachikoku- mountain-trail.JPG
登ってみました

<低層の山中>
hachikokuyama-higashimurayama.JPG
森の道を更に奥へ

<将軍塚>
Shogun-Zuka.JPG
新田義貞ゆかりの将軍塚です。元々ここにあった塚に義貞が旗を立てたことから、将軍塚と呼ばれるようになったといわれています。

鎌倉幕府を倒すことを目標に掲げた新田義貞にとって、久米川の戦いはまだまだ夢の途上での出来事です。最終的には幕府の本隊を滅ぼすことになりますが、この地で勝利を得た夜、どんな思いで次に備えていたのでしょうね。

<将軍塚の石碑>
Shouguntsuka-on-hill.JPG
つわものどもが夢の跡

■訪問:
久米川古戦場碑

[東京都東村山市諏訪町]
将軍塚
[埼玉県所沢市松が丘]


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■参考
現地説明文(東京都教育委員会)
Wikipedia:2024/2/10


posted by Isuke at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[都内]

徳蔵寺塁(東村山市)

東村山市の久米川古戦場跡を訪問した際、すぐ近くに砦跡と関係がありそうな場所があることを知り、足を伸ばしてみました。

<徳蔵寺山門>とくぞうじ
Temple-Gate-Tokuzouji.JPG
こちらです。住宅地に毅然と佇む山門

事前に調べることもなく、地図に記されていた徳蔵寺塁跡という文字だけが頼りの訪問です。素人の勝手な想像として、塁とつく以上は何らかの痕跡が残されているであろうと…

<高低差>
Tokuzoji-Surrounding-Terrain.JPG
結論を言うと、徳蔵寺さんの境内及び周辺を探索しましたが、多少の高低差を実感できるのみでした。

<徳蔵寺橋と前川>まえかわ
Tokuzouji-Bridge-Maekawa.JPG
周辺はすっかり住宅地となり、川も水路のようにコンクリで固められています。ただ、むかしはこの川沿いに低湿地が続き、右手(現在の徳蔵寺)の微高地が浮き島のようになっていたのかもしれませんね。

帰宅してから調べてみると、新田義貞ゆかりの城砦があった、あるいは義貞が戦勝祈願をしたという話を目にしました。しかし出典などが分からず、私としては曖昧なまま終了となりました。

ということで
城跡巡りとしては以上です。


せっかく立派なお寺さんなお邪魔させて頂いたので、迷惑にならない程度にご紹介だけせて頂きます。

<徳蔵寺>
Tokuzoji-Temple-Main-Hall.JPG
長い歴史を誇る臨済宗大徳寺派の寺院です。創立は永禄3年(1560)、開山年は元和年中(1615〜1623)と伝わる由緒正しい寺院です。

<板碑保存館>
Tokuzoji-Temple-Museum.JPG
隣接するこの近代的な建物も徳蔵寺の一部です。国の重要文化財を含め、なんと150を越える板碑が保存されています。ホームページからして、新田義貞にゆかりがありそうな印象でしたが、素人会社員が下手な解釈をするのはやめておきます。参考として、徳蔵寺さんのホームページのリンクを下に貼っておきますので、より深く知りたい方はそちらを参考にお願い致します。

拙ブログにお付き合い頂きありがとうございました。

■訪問:徳蔵寺塁
[東京都東村山市諏訪町]1丁目


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■参考
・徳蔵寺HP

http://www.tokuzo-ji.com/about/
・城郭図鑑
「板倉屋敷」

http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/012tokyo/159itakura/itakura.html
posted by Isuke at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[都内]

勝陣場橋(東村山市)古戦場に架かる橋

<勝陣場橋>かつじんばばし
Katsujinbabashi-Old-Battlefield.JPG
東村山市と所沢市の境を流れる北川に架かる橋です。戦に勝利した軍勢が通ったと伝わる橋です

ここは久米川古戦場跡のすぐ近く。鎌倉幕府を倒すために挙兵した新田義貞の軍勢が、これを阻止せんとする幕府軍と激突した場所です。結果は新田軍の勝利。橋の名は新田義貞にちなんだ呼び名ということになりますね。


<久米川古戦場碑>
Old-Battlefield-Stone-Pillar.JPG
この日の目的地です。古戦場碑と説明板が設置されています。古戦場そのものはこの周辺一帯であるといわていますので、先ほどの橋の付近も古戦場と…言えなくもない。

<古戦場跡の橋>
Katsujinbabashi-Unique-Name-Bridge.JPG
古戦場に架かる橋。せっかく来たので、そう思うことにしました。この付近には他にも将陣場橋、軍勢が勢揃いしたことに由来する勢揃橋があります。いかにも古戦場らしいネーミングですね。

以上です。
歴史素人の会社員ブログですので、その程度に受け止めて頂きますようお願い致します。

■訪問:勝陣場橋
[東京都東村山市久米川町]5


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■参考
・徳蔵寺HP

http://www.tokuzo-ji.com/highlight/
・東京の橋
https://www.djq.jp/bridge_liblary/river_maekita/tokyo_bridge_kita029_katsujinba.php
posted by Isuke at 21:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[都内]

2024年02月03日

いざ鎌倉への道(東村山市)鎌倉古街道跡

所沢市の古戦場へ向かう途中で、こんな標柱に足が止まりました。

<標柱>
signpost-Kamakurakodo.JPG
何となく嬉しい標柱でした。この日は、上州から鎌倉街道を南下して鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞を意識しての訪問だったので。

<古道>
Ancient-Road-Kamakurakaido-Higashimurayama.JPG
東村山駅付近(南側)から府中街道を北上すると、こんな光景が目に入ります。この付近までは右側の道路(府中街道)が鎌倉街道ということになりますが、ここから先は左手の細い道になります。先ほどの標柱もここを入ってすぐのところで撮影しました。

関東統治のため、鎌倉幕府は諸国と鎌倉を結ぶ街道を整備しました。そのうちのひとつ、鎌倉街道上道(かみつみち)は、武蔵国をひたすら北上するように整備された街道です。その通過点である東村山でも、南北に貫くように道が通っています。

<鎌倉古街道>
Kamakurakodo- Higashimurayama.JPG
鎌倉からみれば北上する道ですが、鎌倉へ向かう側にしてみれば南下する道ですね。そのまま新田軍の進軍ルートとなりました。幕府のめだてはなく、幕府を倒すためとなりましたが「いざ鎌倉」への道です。

当たり前のことですが、この時代の関東の中心は小田原でも江戸でもなく、鎌倉なんですよね。

■訪問:鎌倉古街道跡
[東京都東村山市本町]2丁目


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タグ:鎌倉街道
posted by Isuke at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 街道・古道
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