駿河と相模の堺となる足柄峠。ここに築城された山城を訪ねました。
<足柄城跡>
あしがらじょう静岡県小山町と神奈川県南足柄市の境です。城は旧東海道の足柄古道に沿いに築かれました。
足柄城は西相模に進出した大森氏が、街道を押さえるために築いたと考えられています。のちに
この地方に台頭した小田原北条氏の氏綱や氏康によって改修されたと考えられていますが、はっきりしたことはわかっていないようです。
1568年に武田信玄の駿河侵攻が始まると、駿河と相模の堺に位置するこの城が重要視され、翌年から数年の間に大規模な改修が行われました。
<足柄峠>
国境の峠ですから、重きをおかれるのは当然ですね
甲斐武田が滅んだのちも、小田原北条氏にとって足柄は重要な防衛ラインでした。
次なる脅威は豊臣秀吉です。一族の氏光を城番として大規模な改修を施しました(1587年)。
北条氏光は、三代目当主・氏康の子ということになりますが、氏康の弟の子を養子としたという説が有力のようです。いずれにせよ、一族の中心に位置する武将です。
そして1590年
豊臣秀吉による小田原征伐が始まります。
北条氏光は足柄城に守将として入り、国境防衛に当たりました。周辺には支砦群も築かれていたそうです。しかし、小田原城の重要拠点のひとつである山中城(三島市)落城の知らせが届き、北条氏光は退却。北条家臣の
依田大膳亮が引き続き足柄城に留まりましたが、井伊直政の攻撃をうけて開城。城はそののち廃城となりました。
■ 訪問記 ■ <足柄城址碑>
道路(足柄道)沿いの城址碑を撮影。背後は石垣ではありません(念のため)。階段を登ればそこはもう城ですが、その前に道の反対側をご紹介しておきます。
<小郭>
ここは道路を挟んで城とは反対側の小郭です。区画の隅の盛り土は土塁のなごりと思われます。この小規模な曲輪により、
足柄城は尾根を開削した切通を挟み込むような構造になっています。
<城本体へ>
では小郭から城の本体へ
その前に
足柄城の大まかな構造を確認しておきます
<案内図>
設置してあった案内図です。現地でかろうじて字が読める程度なので、画像だと見えにくいですね。曲輪の配置だけも分かるように図解させて頂きます。
↓
簡素過ぎて恐縮です。
尾根の要所要所を平らに造成し、それぞれを堀切で仕切る連郭式の縄張りです。この日は、明神郭を除く主要な郭を探索。聖天堂付近から切通しとなっている道(足柄道)を経由して一の郭へ進み、二の郭・三の郭という順で城内を見て回りました。
<一の郭>
かなり広い曲輪です。この山城の主郭=本丸ですね。真っ平に造成したような感じは無く、起伏が目立ちますので、大きな建物が建ち並ぶような感じではなかったのでしょう。
<玉手ヶ池>
一の郭の隅にある池の跡。私の訪問時には水が枯れていましたが、かつては「底知らずの池」などと言われていたそうです。この標高で水が湧き出るポイントがあるのは貴重ですね。籠城する兵の強い味方だったことでしょう。足柄峠の守護神・足柄明神姫玉手姫が池の呼び名の由来となっています。
<足柄峠の碑>
足柄城を象徴する景色です。ここが足柄峠の頂上地点。城兵もここから富士の姿を見つめていたわけですね。
<二の郭へ>
二の郭へ移動してから振り返って堀切を撮影。木の陰になってよく見えませんが、普通の空堀ではなく、尾根を完全に断ち切った堀切の跡です。左手の土橋については詳細不明ながら、少なくともの上部は、公園として整備する際に造成したものでしょう。
<二の郭>
城内でもっとものどかな場所でした。富士山を独り占めできるベンチもあります。
<堀切>
二の郭と三の郭の間の堀切。今度はスケールが伝わるように、同行した友人が映っている画像にしました(顔は加工済)。
城が現役の頃は、もっと深く、そして急こう配だったのでしょう。
<堀切>
逆に三の郭の友人が二の郭側を撮影した画像です。この堀切に土橋はありません。左手の階段で、一旦の堀の底へ降りてから三の郭へ向かいます。
<堀の底>
ちょっと見えにくいですが「空堀跡」と記されていました。
<三の郭>
一の郭・二の郭同様に西側の富士山が良く見えます。下には足柄道が通っていますので、まさに
街道を押さえるための城です。
ここまでは公園として比較的綺麗に整備されています。ここから先、山を下りながら体感する四の郭以降は、いかにも城好きが喜びそうな景色が続きます。
<四の郭>
<四の郭井戸跡>
<空堀跡>
<空堀跡>
かなり高低差があり、竪堀も施されているように映ります。尾根を断ち切っているので「堀切」と呼びたいところですが、かなり幅広いため、普通に「空堀」と呼んだ方がしっくりしますね。次の五の郭も含め、城を拡張した北条氏による造成でしょう。
<五の郭>
<空堀跡>
凄い…
■足柄城のなごり■足柄城は駿河と相模の境となる足柄峠の古道を取り込むように築かれました。拡張を繰り返し、防衛施設としてピークとなったのは豊臣軍襲来に備えた1590年でしょう。そしてその後まもなく廃城。都市開発の波に飲み込まれることもなく、当時の痕跡がいまでも多く残されています。
遺構のひとつひとつに、当時の人たちの思惑が込められています。風雪にさらされ原形は留めていなくても、そこには人の思いが漂っています。一の郭から始まり、先に進むほどそれを感じることができました。
天候にも恵まれ
良い探索となりました。
--------■ 足柄城 ■--------別 名:霞城
築城者:大森氏(推定)
築城年:不明(1392年?)
城 主:大森氏・北条氏
改修者:北条氏綱・北条氏康
廃城年:1590年(天正18)
[静岡県駿東郡小山町足柄峠]
[神奈川県南足柄市矢倉沢]
お城巡りランキング■参考及び出典
現地説明板・立札
(足柄峠城址公園)
Wikipedia:2024/3/23