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旧優生保護法に基づいて障害者らに行われた強制的な不妊手術に関する

 旧優生保護法に基づいて障害者らに行われた強制的な不妊手術に関する、約半世紀前の公文書約80件分が神奈川県立公文書館で見つかった。「育児能力がない」といった偏見や病気を根拠に、手術の適否を審査した状況が具体的に記されている。こうした内容が、実際に用いられた行政資料で公になったのは初めてだ。
 文書は同県優生保護審査会に提出された1962年度38件、70年度10件の手術申請書などと、63年度に実施された34件の手術費明細書など。立命館大生存学研究センターの利光恵子・客員研究員が見つけて分析し、10月に神戸市であった障害学会で発表した。
 「不良な子孫の出生を防止する」ことを目的にした同法は、遺伝性とされた病気、精神障害や知的障害のある人に、本人同意なしの不妊手術を認めていた。「公益上必要」などと医師が判断した場合、都道府県の優生保護審査会に申請した。
 見つかった申請書や検診録には成育歴や症状が書かれ、何代にもわたる親族の病気や職業を調べた家系図も添えられていた。
 知的障害のある10代女性の場合、申請理由に「月経の後始末も出来ない」「一日中座位、幼児の如(ごと)く遊んでいるが、時々興奮、粗暴行為あり」とあった。別の知的障害の女性は子どもがおり、「これ以上生まれては、益々(ますます)生活困窮する」。「仕事熱心で成績は優秀」な男性は、統合失調症を発症した半年後、手術が必要だと判断された。
 ログイン前の続きさらに医師は家族の意見として「両親は病弱であり将来を考え、手術を希望」「育児能力はないと思われる」「一般社会の人にも迷惑がかかることを心配したもの。母親、兄妹全員が手術に賛成」と書き添えていた。
 また、法が認めた不妊手術は卵管や精管を結ぶ方法などに限られるが、手術費の明細から卵巣を摘出した例も判明した。
 文書を分析した利光さんは、「子どもを育てられないといった差別や偏見を前提に、生殖機能を奪うという人権侵害が粛々と進められたことにがくぜんとする」という。
 東京大大学院の市野川容孝教授(医療社会学)は、障害者が子どもを育てるための支援が整っていない中、「本人のため」だとして手術が行われた可能性がある、と指摘。「社会的な理由が優生政策に結びつけられることを、記録で裏付けた。被害者や関係者をたどり、実態解明につなげなくてはならない」と話す。
 被害者救済を阻んでいるのは、行政資料が破棄・紛失されていることだ。宮城県の60代の女性は県に請求し、今年7月、15歳で手術された記録の開示を受けた。本人が記録を入手できた唯一の例とみられる。
 女性は国に謝罪と賠償を求め、来年1月にも提訴する。弁護団によると、こうした手術の違憲性を問う全国初の訴訟という。
 「不良な子孫の出生を防止する」ことを目的とする優生保護法のもと、いかに障害者の人権を無視した強制的な不妊手術が進められたのか。神奈川県立公文書館に残っていた文書は、その実態をありありと示している。
 「独立した社会的生活を営むことは困難である」。手術の申請理由に、そう書かれた重度知的障害の女性がいた。
 性的な被害に遭ったり、加害者になったりする不安を挙げた例もある。「他人に対する警戒心が全くないので被害を受ける可能性は充分(じゅうぶん)考えられる」「何か間違いでも起こしてはとの心配」などだ。
 同県優生保護審査会に提出された申請書などによると、1962年度に強制不妊手術の実施を認めた38件のうち、34件は女性が対象だった。申請理由別では、遺伝性疾患が11件、遺伝性でない精神疾患や知的障害が27件だった。70年度に実施を認めた10件はいずれも遺伝性でない精神疾患などで、8件が女性を対象としていた。
 63年度の手術費明細などには、術後、持続的に発熱した例や、手術前後に感情が不安定になった例が報告されていた。手術が心身に与えた影響がうかがえる。
 優生保護統計などによると、こうした強制不妊手術は約1万6500件行われたとされる。だが、声を上げる被害者は少なく、詳しい実態はわかっていない。
 優生保護法は国内外の批判を受けて96年、優生という文言や強制不妊手術の規定を削除し、「母体保護法」に改定された。97年には市民団体「優生手術に対する謝罪を求める会」が発足し、国に実態解明などを求めてきた。国連人権委員会は98年、強制不妊手術の対象者に補償をするよう日本政府に勧告した。
 「生きているうちに謝罪と補償をしてほしい」。宮城県の女性(71)は、知的障害があるとして16歳のときに知らぬ間に不妊手術をされたと訴え、2015年、日本弁護士連合会に人権救済を申し立てた。日弁連は今年2月、国に対して不妊手術などの被害者への謝罪や実態調査を求める意見書を出した。
 国連女子差別撤廃委員会も16年3月、日本政府に被害の実態調査や補償を勧告している。だが、いずれも国は「当時は適法だった」などとして、応じていない。
     ◇
 〈強制不妊手術〉 1948年施行の旧優生保護法で定められた。遺伝性疾患や、遺伝性ではない精神疾患や知的障害のある人について、医師が申請し、審査会の決定などを条件に実施が認められていた。いずれも本人の同意は不要。優生保護統計などによると49〜92年に全国で計約1万6500件(神奈川県は403件)実施された。同法は96年、優生思想に基づく規定を削除し「母体保護法」に改められた。
2017年12月16日   朝日新聞

阪神大震災被災者の借上げ住宅追い出しに抗議

阪神大震災被災者の借上げ住宅追い出しに抗議
 福島原発事故を逃れて避難した人々が立ち退き訴訟の被告になっている。阪神淡路大震災被災者に対する神戸市の弱いものいじめが、追い出しに通じている。
 阪神淡路大震災はまだ終わっていない。高齢者、病人、貧困者、障害者など社会的に弱い立場の人たちはまだ苦しんでいる。それを助けるのが行政の役割だ。
 あのとき行政は復興住宅に家を失った被災者を収用しようとしたが、被災者が多すぎて間に合わなかった。そこで考え出したのが「借り上げ住宅」。行政がUR(都市再生機構)や民間家主から住宅を賃貸して、被災者に提供するやり方。基本的には「復興住宅」と同じ扱いになるべき性質のものであるが、行政は家主と「20年間」と契約を結んでいた。一般の住宅賃貸と同じく、当時は行政も、期限がきたら契約更新を考えていると説明していた。
 Nさんもそういう被災者の一人。ところが神戸市は彼女に20年期限を理由に立ち退き訴訟をかけた。そして裁判所は、彼女の言い分や行政の約束などを一切取り上げないで、期限があるのだから出て行けと短い裁判で素っ気なく言い渡した。
 このことは地元メディアでも報道されたが、Nさんの事情についてはあまり知られていないので、ここに彼女の言い分を紹介する。
【Nさんのお話】一体私はどこへ行けばいいのか!
──私は、2000年春頃に歩行困難となり、通院治療をしていました。足腰がよわくなった私が、エレベーター付きの段差のない住宅と、市の職員に紹介され今の住宅に住むようにしたのは65歳の頃です。
 神戸市の職員が、79歳の私が追い出されるだろうと思って紹介したとは思えません。神戸市の人も、ここが私の『終の棲家』になると思って紹介してくれたのだと思いたいです。
 私は、その際に、借上げ期間というものがあるという説明を聞いた覚えがないのです。入居の手続きの時にも、50歳代の女性職員の方に「当選するなんてすごいですね」と言われたのを覚えています。
 11年10月には、私は足が弱り、杖がないと外出できない状態になりました。5年くらい前から、歩行器がないと移動することができません。13年5月には、腰部圧迫骨折で入院し、要介護3の認定を受け、入院中に肺炎にかかりました。同じ年の10月の、退院後も腰の痛みは消えず、現在まで歩行器を使って移動しています。肺炎の肺の影も消えていません。
 私は、14年6月まで「要介護3」の認定でしたが、16年1月には「要支援1」に変更されました。
 16年2月には、嘔吐・下血で入院、胃潰瘍が血管を圧迫していると診断され、同じ年の3月まで入院していました。5月には、胃潰瘍からガンが発見され、6月に再度入院しました。17年6月には自宅内でバランスを崩して、歩行器ごと転倒し、右膝を骨折し、「要介護1」の認定を受けています。次に転倒したら終わりだと自分に言い聞かせ、毎日注意して生活しています。
 今、お話ししたようなことを神戸市や裁判官はみてくれません。このような私が、どうして他の場所で生活できるのでしょうか。私のことを何も分かってくれません。先日、私は、裁判所から『この部屋を出て行ってくれ』と言われたとのことですが、一体、私はどこへ行けばいいのでしょうか。みなさま、私は、本当にここでしか生活できないのです。自分が元気でいられる場所はこの部屋しかないのです。神戸市や裁判所は、私にこれ以上、生きてはいけないと言っているのでしょうか。
 私は、今回の判決に対して、既に、高等裁判所の審理をすることで手続きをお願いしています。みなさま、どうぞよろしくお願いいたします。
 Nさん支援のために高裁向け署名運動が行われています。署名用紙は人民新聞に連絡くだされば送ります。
1634号, 社会・文化運動 2017年12月16日

県療育研究会」設立へ~ 病気・障害児支援、教職員と医師ら連携

県療育研究会」設立へ~ 病気・障害児支援、
      教職員と医師ら連携
 病気や障害のある子どもを支援するため県内の支援学校教職員や医師らが2018年度をめどに、連携組織「県療育研究会」の設立を進めている。設立後はセミナーなどを開催し知識を共有。教育と治療を同時に必要とする子どもへの支援の在り方を探る方針だ。
 柏崎市の国立病院機構新潟病院と隣接する県立柏崎特別支援学校が中心となり今春、発起人会を立ち上げた。燕市の県立吉田特別支援学校なども参加する。
 病気や障害のある子どもには、医療と教育、両面からの支援が必要だが、医療が健康回復、教育は発達支援とそれぞれの目的が異なり、両立が難しいケースも少なくない。例えば校外学習は、「友達との交流が深まる」という教育面の効果がいわれる一方、医療の観点では「無理をすると健康面への悪影響が出る」との指摘もある。
 研究会は医療機関と教育機関が連携し、異なる立場の知識を共有することで最適な対応を考えるのが目的。病院や支援学校のほか、研究者や小中学校教師らも交えて定期的にセミナーや勉強会を開く構想を持つ。
 設立を目指し今秋、国立病院機構新潟病院で開かれたキックオフセミナーには、約130人が参加した。各地の現状が報告され、病院への教師派遣による学習支援の取り組みなど、情報を交換した。筋肉性の病気や慢性疾患など、病気によって異なる課題や対応方法も話し合った。
 今後は、専用のホームページを作り、情報提供や意見交換に活用する予定だ。中心メンバーの中島孝・国立病院機構新潟病院長は「関係機関が対話と研究を進め、子どもたちを支援していきたい」としている。
2017/12/16   新潟日報
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