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障害者週間にあわせて玉川島屋、FC東京でPR活動実施決定

障害者週間にあわせて玉川島屋、FC東京でPR活動実施決定
郵便局内や企業オフィス、大型催事イベントなど、様々な場所でヘルプマークの普及啓発活動が進んでいます!
 東京都は、義足や人工関節を使用している方、内部障害や難病の方、妊娠初期の方など、援助や配慮を必要としている方々を対象に配布している「ヘルプマーク」の普及推進活動を行っています。
 これまで、ヘルプマーク特設サイトやヘルプマーク作成・活用ガイドライン等を通じて、広く都民の皆様や民間企業への普及を図り、また、他自治体にも活用を働きかけるなど、広域的な普及にも取り組んできました。
■玉川島屋S・CにてヘルプマークのPRを実施
 玉川島屋S・Cでは、12月3日(日)から9日(土)の障害者週間にあわせて、ヘルプマークの推進活動を実施いたします。
 本館1階グランパティオにて、ヘルプマークのパネル掲示やポスター掲出などを行い、3日(日)と9日(土)は世田谷区と東京都も参加し、来場された方からの質問などにお答えします。
■FC東京 2017明治安田生命J1リーグ第34節にてヘルプマーク・ヘルプカードのPRを実施
 東京都では、より多くの都民の方にヘルプマーク・ヘルプカードを認知いただくため、12月2日(土)に味の素スタジアムで開催される2017明治安田生命J1リーグ第34節 FC東京vsガンバ大阪戦(14:00キックオフ)にてヘルプマーク及びヘルプカードのPR活動を行います。
 この活動は、従来から「もっと住みよい東京づくりのお手伝い」に力を入れてきたFC東京に、ヘルプマーク・ヘルプカード普及活動の趣旨にご賛同いただくことで、2014年から毎年行っており、今年も実施することが決定しました。
【詳 細】
◆日程:2017年12月2日(土)
◆場所:味の素スタジアム・アジパンダ広場(青赤横丁内)
◆内容:下記を実施いたします
1.PRブース設置(青赤横丁内)
2.ヘルプマークオリジナルグッズの配布(青赤横丁内PRブースにて)
3.スタジアム内大型映像機でのPR動画放送
4.FC東京オフィシャルマッチデープログラムへの情報掲載
◆備考:試合詳細はこちら
FC東京オフィシャルホームページ
http://www.fctokyo.co.jp

盲重複障害者に安心の場を 来春岐阜に施設開所へ、支援グループ発足

盲重複障害者に安心の場を 来春岐阜に施設開所へ、支援グループ発足
 全盲や弱視の視覚障害に、知的障害なども加わる「盲重複(もうちょうふく)障害」への理解を広めようと、障害のある子の親たちが岐阜市で支援グループを立ち上げた。県内には、盲学校を卒業後に安心して通える盲重複障害者のための専門施設がなく、来春にも活動の場となる施設を市内につくろうと、準備を進めている。
 グループは「盲重複障害児・者のこれからを考える会 ポコアポコ」。県立岐阜盲学校(岐阜市北野町)に通う児童、生徒の親らで今春に発足し、メンバーは二十八人になった。会の世話役で同校講師の渡辺美輝子さん(62)は「(対象となる)人数の少なさもあり、ほとんど知られていない障害」と話す。
 目が見えないハンディキャップに、知的面での理解・判断力の発達遅れが重なり、情緒の不安から適応障害などの二次的障害を発症することも多い。渡辺さんは「症状は百人百様。それぞれの子どもに合わせたケアが必要」と力を込める。
 ただ専門にケアできる施設は全国でもわずか。県内の福祉作業所などに通っても、適した環境が整っていないために孤立したり、適応できなかったりして結局、在宅を余儀なくされることが多い。メンバーには盲学校を卒業後、自宅から離れた施設に入所したものの、慣れない生活になじめず、拒食や自傷行為で退所した男性もいる。
 グループは盲重複障害者が安心して日中、活動に取り組める施設をつくろうと企画。こうした障害に理解あるスタッフを配置し、通所者がお菓子を焼いたり、手織りの布製品を作ったりする計画だ。既に岐阜市内に建物を借りており、来年四月からの運営開始を目指し、近く市に、生活介護事業所として申請する。資金は寄付を募っているほか、親子で作った手織りグッズなどを販売して集めている最中だ。
 長男(5つ)に盲重複障害と脳性まひの身体障害がある副会長の木原奈央子さん(39)は「(盲重複障害者は)予定通りに事が進まないと混乱するなど、自分のペースでしか動けない。そうした特徴を(スタッフに)理解してもらい、安心して過ごせる場所が必要」と期待を寄せる。
 グループ名の「ポコアポコ」は、音楽用語で「少しずつ」を意味する。渡辺さんは「名前の通り、ゆっくりと歩みながら、本人と家族が安心して過ごせるための場にしたい」と意気込んでいる。
 問い合わせや寄付の協力などはインターネットで「ポコアポコgifu」と検索する。
◆高くない専門性
 盲重複障害者の専門施設23施設でつくる「全国盲重複障害者福祉施設研究協議会」によると、全ての身体障害者の1割弱を占めるとされる視覚障害者のうち、盲重複障害者がどの程度いるかという統計はない。協議会に加盟する施設の利用者は約1000人だが、把握されていない潜在的な障害者は多いとみられる。
 これまで、身体障害者福祉法と知的障害者福祉法の「法の谷間」の存在だった。2006年の法改正で、身体、知的、精神の3障害が一元化されたが、その後も支援の専門性は高まっていない。
 協議会の担当者は「視覚障害を専門にケアできるスタッフですら少ないのに盲重複となればなおさら。支援の質を上げていく必要がある」と指摘している。
2017年11月27日   中日新聞

障害者の食費負担、軽減廃止を提案 検討会議

障害者の食費負担、軽減廃止を提案 検討会議
 厚生労働省は27日、来年度の障害福祉サービスの報酬改定をめぐり、障害者の自立支援や就労支援などを行う通所系サービスで、食費負担の軽減措置の廃止を検討会議で提案した。しかし、対象者は数十万人に上るとみられ、委員からは「唐突だ」など慎重な意見が相次いだ。
 サービス事業所が、施設内で調理して利用者に食事を提供した場合、1回約300円が事業所への報酬に加算される仕組み。調理などの人件費相当分を公費で賄い、利用者は食材費のみを負担する。
 国が報酬加算の対象としているのは、おおむね年収600万円以下の世帯の障害者。軽減措置が廃止された場合、月最大6600円(22日間)の負担増になる可能性がある。
 2006年の旧障害者自立支援法で食費は全額自己負担が原則とされた。激変緩和で時限措置が設けられたが、今年度末で期限を迎える。厚労省は延長しないと提案したが、今後、対象者や加算額の規模を推計するなどし、議論を続ける。
毎日新聞   2017年11月27日

時期物は高い

ト○ザらスでは、11月にセールを行う。
サンタさんはセールの時きっと買いたいだろう。
クリスマスプレゼントを前から買い置きも出来ないであろう。子供の欲しい物はあれもこれもと絞るまでに時間がかかるし、楽しみな時間でもある。
時期物は高くなって当然でもある。
いつもは、エビの天ぷらが120円で買えるのに、大晦日は250円〜350円にはねあがる。
もっとも良いエビを使っているが。

業務が出来る人が評価を得る

施設で働いている人と話をする。
業務をちゃんと滞りなく業務が出来る人が評価を得る。
利用者さんの評価よりも、上司の評価を意識してしまう。
訴えの多い利用者さんを上手く訴えをなくし、業務を滞りなくこなす方が評価される。
現場では、職員の目を気にして業務を行っているような気がする。
介護の現場は利用者を見ていないのではないか?
自分たちが施設の悪口を言うと自分の評価につながるから言えない。
そんなふつふつしたものがある。
もちろんそんな施設ばかりではない。
しかし、愚痴るところがないのも事実。

障害者施設で28歳入居者が死亡 手足拘束されて就寝後

15日午前5時50分ごろ、東京都青梅市の障害者支援施設から「入所している28歳の男性が布団で亡くなっている」と110番通報があった。警視庁などによると、男性がうつぶせで倒れており、その場で死亡が確認された。男性はガーゼのような布で手足を拘束されていたといい、16日に司法解剖して死因などを詳しく調べる。

http://www.asahi.com/articles/ASKCH3DYRKCHUTIL00D.html

当事者から専門医になった"私の発達障害"

当事者から専門医になった"私の発達障害"
小学生の私は、同年代の児童に簡単にできることがことごとくできず、始終ぼんやりと空想にふけり、話せば吃音があり、服装はいつもだらしなく、ポケットの中はがらくたでいっぱいで、口を開けばとんちんかんなことばかり言うので、学校では常に嘲笑の的であり、いじめっ子たちからは毎日のようにいじめられたり、からかわれたりしていました。そんなときどう返したらいいのかわからず、うつむいてただ黙ってやり過ごし、家に帰って悔し涙を流したこともあります。ぼんやりした性格とはいえ、やはり心は傷つき、悲しく悔しい思いをしました。
小学校の高学年になるといじめられた後にこみあげてくるものは、悲しみや悔しさより、「自分はダメな人間だ」という絶望や空しさでした。落ち込むことも多くなり、「生きていたくないな」と思うこともありました。一生懸命努力してもだらしないのです。
しかし、当時、ひとりだけでしたが、私をかばってくれる親友がいてくれたおかげで、学校に通うことができました。たったひとりでも、自分を理解してくれる友人がいることは、私にとっては大きな希望でした。その後も交友関係は狭く、決して友人の数は多くはありませんでしたが、中学、高校、大学時代にできた数人の親友にどれだけ世話になり助けられたことでしょう。彼らには当時も今も感謝の気持ちでいっぱいです。
興味のある分野を見つけた中学生時代
不器用さは一向に変わりませんでしたが、中学では得意科目と呼べる教科ができました。英語と社会です。自分が興味を持った科目の勉強をしたり、大好きな本やマンガを読むときなどは、わくわくと心が躍り、何かのスイッチがカチリと入り、頭の中が研ぎ澄まされるのが感じられました。
英語とは別にこの時期に私がこだわりを持ってのめりこんだことに、高校野球の勝利予測があります。全国の都道府県で行われる予選大会の試合を観戦し、データを分析し、優勝高校を予測するという作業は、この上なく楽しい時間でした。
得意科目ができ、打ち込める趣味もみつかった私は中学、高校と学校へ通うことがかなり楽になっていました。吃音もあまり出ないようになったことで口数も次第に増えました。
医師だった父の影響を受け、小学生のころより医者になることを目標にしていた私は、大学医学部を目指し受験しました。3校受けましたが結果はすべて不合格。しかし迷うことなく浪人することを決め「石にかじりついてでも絶対に医者になってやる!」と強く心に誓いました。カチリと例のスイッチが入った瞬間でした。
発達障害特有のこだわりや集中力が発揮されたのでしょうか、浪人中の1年間はそれこそ寝食を忘れるほど徹底的に勉強に打ち込みました。そのかいあってか、翌年、福島県立医科大学医学部に合格。家からは通えない距離なので、大学の近くに安アパートを借り、人生初のひとり暮らしを始めることになりました。
発達障害を抱える私にとって日常生活全般における「管理」は難題でした。使った鍋や食器は洗わずにそのまま放置し、食べたら食べっぱなし、服も本もすべてが出しっぱなしです。先の見通しやビジョンを描くことが苦手な私は、お金の使い方もまるで計画性がなく、1カ月分の仕送りを2週間で使い切ってしまい、いつも親に無心していました。どうしたってライフスキルが低くなりがちな発達障害者には「ひとり暮らしは向かない」というのが、自身の経験から痛感したことです。
精神科への関心と、愛妻との出会い
大学での生活もまた困難続きでした。板書をしない教授の授業がとりわけ苦手でした。耳からの情報だけでは頭の中が混沌となり、物事を理解、整理できないのです。またレポート課題はいつも先延ばしにし、提出期限を守れません。
在学中、医学生はすべての診療科を回りますが、私は精神科に興味がありました。特にこのころからすでに発達障害に強い関心を寄せていました。当時は自分が発達障害だという認識などありませんでしたが、やはり潜在的に魅かれるものがあったのかもしれません。
医学部の5年生になると、県内の精神科の専門病院を訪れ、患者さんとの面接をさせていただくようになりました。その病院の受付にいたのが、現在の妻です。週に1回、日曜日に病院を訪れる私と彼女は顔なじみになり、自然と親しくなっていきました。5年生から2年近く付き合い、大学卒業後の医師国家試験の後に結婚する約束をしました。妻と出会えたことは私にとってこの上ない幸運であり、神様からの恩恵だったと思っています。
しかし、彼女との結婚を果たすためにはクリアしなければならない問題がありました。まずは医学部の卒業です。このときに手厚くサポートしてくれたのが彼女でした。ノートさえろくすっぽ取っていない私にとって、頼みの綱は優秀な同級生のノートをコピーさせてもらい勉強することしかなかったのですが、彼女が病院のコピー機を使って膨大な数のノートをコピーしてくれたのです。おかげで卒業目前の2月にようやくすべての科目に合格することができました。
しかし、喜びもつかの間、すぐさま国家試験という最大の難関が待っていました。彼女との結婚がかかったこの試験だけはなんとしてでも受からなければなりません。両親には卒業試験に合格した際に、「結婚したい人がいる」と打ちあけていましたが、案の定、「認めない」「とんでもない」と反対されました。両親はかねがね、病院つきのお嬢様のところへ私を婿入りさせる気でいたからです。しかし、私にはみじんもその気はありませんでした。「もう決めたんだ。国家試験に受かったら結婚する。反対なら反対でもいい。結婚式には父さんたちを呼ばないまでです」と宣言しました。頑固は父親譲りでもある気性です。
そんないきさつもあり、医師国家試験は私と妻にとってはどうしても受からなければいけない人生最大の試験になりました。
そこで、過去10年間に出題された、いわゆる「過去問」を徹底的にリサーチし、ヤマを張ることにしたのです。そのとき大いに役立ったのが、10代の頃に夢中になった高校野球の予測分析と、妻の支えでした。ヤマは見事に当たり、医師国家試験に合格することができました。ここでもまた私は、興味を感じる対象には過剰ともいえる集中力が向けられ、もくもくと努力することができる「発達障害」の特性に助けられたのです。
自分の障害を「俯瞰」できるようになった
私は自身も発達障害の当事者であるためか(気がついたのは研究してしばらくたってからのことですが)何かに導かれるように発達障害の研究をライフワークとし、40年以上も夢中になって、臨床、研究に打ち込んできました。その一方でこの分野の医師や研究者を目指す学生への教育指導活動や、発達障害への理解をうながす啓発にも情熱を注いできました。発達障害を抱える私がなぜ今日まで医者としてやってこられたのか、不思議に思われるかもしれません。それはひとえに妻をはじめとする、多くの先輩や友人、同僚たちの理解とサポートのおかげであり、寛容と愛情あってこそだと身にしみて感じています。
私という人間は自由奔放で、超がつくほどのマイペース、そして何より指図されたり束縛されることが嫌いです。「同調」を強いられる窮屈な組織の中では伸び伸びと生きてはいけなかったでしょう。しかし、医師という、比較的自由で変化と刺激に富み、探究と検証が求められる職業を選んだことは幸運でした。そしてなにより、自らも発達障害であるおかげで、患者さんの悩みを理解し共感することができます。精神科医は天職であったと思えるのです。
とはいえ、もともと私は人の話をじっくりと聞くのは苦手な性分です。しかし、長年、さまざまな患者さんと接するうちに、私は自らの「発達障害」を俯瞰(ふかん)できるようになりました。反面教師というのは失礼な物言いかもしれませんが、患者さんから学ぶことはとても多く、診察とともに自分の感情を冷静にコントロールできるようになっていったのです。
障害への理解が2次障害を防ぐ
私の診療は「とことん話を聞いて、これでもかとしつこく尋ねる」問診が主です。まずは患者さんが抱えた思いを存分に語ってもらい、次に患者さん本人だけではなく、家族やパートナーにも質問をします。どんな子ども時代だったのか、両親の言動は? 兄弟や姉妹との関係は? など、詳しく聞きます。小児期における生活ぶりをあきらかにするためにも、家族からの聴取は重要です。「星野流根掘り葉掘り」と言われる入念な問診で、必ず治療の糸口が見えてくるのです。
またご家族やパートナーの方には、一方的に本人を叱ることや感情的に泣いたり落ちこんだりすることは発達障害の改善につながらないことをお知らせし、2次障害を防ぎ、家族がともに考えていく基盤を作るようにしています。
私の育った家庭はいわゆる「機能不全家族」(家族としての機能が果たせず、子どもが健全に育つ条件が欠けている家族のこと)でした。発達障害に機能不全家族が加わると症状の悪化や2次障害を起こしやすくなります。虐待や暴力、ネグレクトなど、自分が子どものころにされたことを自分の子どもにしてしまう世代間伝播という問題も顕著です。しかし、「自分は機能不全家族に育った」という自覚がしっかりあれば、世代間伝播は食い止められます。傷ついた過去をうやむやにしたり、なかったことにするのではなく、しっかりと受け止めて「知ること、感じること、悟ること」が大事なのです。
発達障害者の“純粋なエネルギー”を活かす
70年近い発達障害者としての自身の経験からも精神科医としての臨床経験からも確信を持って言えることは、発達障害は決して無意味で厄介なハンディなどではなく、上手にコントロールし仕事や生活の中で活かせば、人生を深く豊かにする才能であり能力であるということです。
●興味を持ったことに集中し、決してあきらめないこと
●独自のこだわりは強力なエネルギーを生むこと
●人が思いつかないようなことがひらめくこと
●ひらめいたことは猪突猛進で実行すること
など、この純粋なエネルギーは、興味や関心の的と仕事や学業とが一致すれば、きっとその分野ですばらしい業績を残せるはずです。
そのためには、目の前の現実を虚心坦懐に観察すること。
自身も家族もありのままの姿を受け入れ、広い視野で将来を見るようにすれば、苦手なことに悩むことだけに陥らず、得意なことを見つけてそれを活かし生活することができるのです。「気づくこと、受け入れること、そして情熱を注いで生きること」。
本人やご家族、職場を含む周囲の人間が、現実に気づき自分を冷静に見つめなおすことができれば、治療の効果も上がり、改善の方向に向かう可能性は十分にあります。
さらに必要に応じて、薬の使用を検討することも必要です。適切に薬物療法を施していくと、発達障害は調整できます。
そしてぜひ、心から楽しめる「好きなこと」や「わくわくする時間」をみつけていただきたいものです。それが愚にもつかないことに見えても、発達障害を抱えて生きる方や家族の助けとなるでしょう。
星野 仁彦(ほしの・よしひこ)
心療内科医・医学博士。福島学院大学大学院教授。1947年福島県生まれ。福島県立大学卒業後、米国エール大学児童精神科留学。福島県立医科大学神経精神科助教授などを経て現職。専門は児童精神医学、スクールカウンセリング、精神薬理学など。発達障害を専門とする児童精神医学の第一人者。著書に『発達障害に気づかない大人たち』『発達障害に気づかない大人たち<職場編>』(祥伝社新書)、『発達障害を見過ごされる子ども、認めない親』(幻冬舎新書)などがある。
政治・社会 2017.11.27 PRESIDENT Online

当事者から専門医になった"私の発達障害"

当事者から専門医になった"私の発達障害"
小学生の私は、同年代の児童に簡単にできることがことごとくできず、始終ぼんやりと空想にふけり、話せば吃音があり、服装はいつもだらしなく、ポケットの中はがらくたでいっぱいで、口を開けばとんちんかんなことばかり言うので、学校では常に嘲笑の的であり、いじめっ子たちからは毎日のようにいじめられたり、からかわれたりしていました。そんなときどう返したらいいのかわからず、うつむいてただ黙ってやり過ごし、家に帰って悔し涙を流したこともあります。ぼんやりした性格とはいえ、やはり心は傷つき、悲しく悔しい思いをしました。
小学校の高学年になるといじめられた後にこみあげてくるものは、悲しみや悔しさより、「自分はダメな人間だ」という絶望や空しさでした。落ち込むことも多くなり、「生きていたくないな」と思うこともありました。一生懸命努力してもだらしないのです。
しかし、当時、ひとりだけでしたが、私をかばってくれる親友がいてくれたおかげで、学校に通うことができました。たったひとりでも、自分を理解してくれる友人がいることは、私にとっては大きな希望でした。その後も交友関係は狭く、決して友人の数は多くはありませんでしたが、中学、高校、大学時代にできた数人の親友にどれだけ世話になり助けられたことでしょう。彼らには当時も今も感謝の気持ちでいっぱいです。
興味のある分野を見つけた中学生時代
不器用さは一向に変わりませんでしたが、中学では得意科目と呼べる教科ができました。英語と社会です。自分が興味を持った科目の勉強をしたり、大好きな本やマンガを読むときなどは、わくわくと心が躍り、何かのスイッチがカチリと入り、頭の中が研ぎ澄まされるのが感じられました。
英語とは別にこの時期に私がこだわりを持ってのめりこんだことに、高校野球の勝利予測があります。全国の都道府県で行われる予選大会の試合を観戦し、データを分析し、優勝高校を予測するという作業は、この上なく楽しい時間でした。
得意科目ができ、打ち込める趣味もみつかった私は中学、高校と学校へ通うことがかなり楽になっていました。吃音もあまり出ないようになったことで口数も次第に増えました。
医師だった父の影響を受け、小学生のころより医者になることを目標にしていた私は、大学医学部を目指し受験しました。3校受けましたが結果はすべて不合格。しかし迷うことなく浪人することを決め「石にかじりついてでも絶対に医者になってやる!」と強く心に誓いました。カチリと例のスイッチが入った瞬間でした。
発達障害特有のこだわりや集中力が発揮されたのでしょうか、浪人中の1年間はそれこそ寝食を忘れるほど徹底的に勉強に打ち込みました。そのかいあってか、翌年、福島県立医科大学医学部に合格。家からは通えない距離なので、大学の近くに安アパートを借り、人生初のひとり暮らしを始めることになりました。
発達障害を抱える私にとって日常生活全般における「管理」は難題でした。使った鍋や食器は洗わずにそのまま放置し、食べたら食べっぱなし、服も本もすべてが出しっぱなしです。先の見通しやビジョンを描くことが苦手な私は、お金の使い方もまるで計画性がなく、1カ月分の仕送りを2週間で使い切ってしまい、いつも親に無心していました。どうしたってライフスキルが低くなりがちな発達障害者には「ひとり暮らしは向かない」というのが、自身の経験から痛感したことです。
精神科への関心と、愛妻との出会い
大学での生活もまた困難続きでした。板書をしない教授の授業がとりわけ苦手でした。耳からの情報だけでは頭の中が混沌となり、物事を理解、整理できないのです。またレポート課題はいつも先延ばしにし、提出期限を守れません。
在学中、医学生はすべての診療科を回りますが、私は精神科に興味がありました。特にこのころからすでに発達障害に強い関心を寄せていました。当時は自分が発達障害だという認識などありませんでしたが、やはり潜在的に魅かれるものがあったのかもしれません。
医学部の5年生になると、県内の精神科の専門病院を訪れ、患者さんとの面接をさせていただくようになりました。その病院の受付にいたのが、現在の妻です。週に1回、日曜日に病院を訪れる私と彼女は顔なじみになり、自然と親しくなっていきました。5年生から2年近く付き合い、大学卒業後の医師国家試験の後に結婚する約束をしました。妻と出会えたことは私にとってこの上ない幸運であり、神様からの恩恵だったと思っています。
しかし、彼女との結婚を果たすためにはクリアしなければならない問題がありました。まずは医学部の卒業です。このときに手厚くサポートしてくれたのが彼女でした。ノートさえろくすっぽ取っていない私にとって、頼みの綱は優秀な同級生のノートをコピーさせてもらい勉強することしかなかったのですが、彼女が病院のコピー機を使って膨大な数のノートをコピーしてくれたのです。おかげで卒業目前の2月にようやくすべての科目に合格することができました。
しかし、喜びもつかの間、すぐさま国家試験という最大の難関が待っていました。彼女との結婚がかかったこの試験だけはなんとしてでも受からなければなりません。両親には卒業試験に合格した際に、「結婚したい人がいる」と打ちあけていましたが、案の定、「認めない」「とんでもない」と反対されました。両親はかねがね、病院つきのお嬢様のところへ私を婿入りさせる気でいたからです。しかし、私にはみじんもその気はありませんでした。「もう決めたんだ。国家試験に受かったら結婚する。反対なら反対でもいい。結婚式には父さんたちを呼ばないまでです」と宣言しました。頑固は父親譲りでもある気性です。
そんないきさつもあり、医師国家試験は私と妻にとってはどうしても受からなければいけない人生最大の試験になりました。
そこで、過去10年間に出題された、いわゆる「過去問」を徹底的にリサーチし、ヤマを張ることにしたのです。そのとき大いに役立ったのが、10代の頃に夢中になった高校野球の予測分析と、妻の支えでした。ヤマは見事に当たり、医師国家試験に合格することができました。ここでもまた私は、興味を感じる対象には過剰ともいえる集中力が向けられ、もくもくと努力することができる「発達障害」の特性に助けられたのです。
自分の障害を「俯瞰」できるようになった
私は自身も発達障害の当事者であるためか(気がついたのは研究してしばらくたってからのことですが)何かに導かれるように発達障害の研究をライフワークとし、40年以上も夢中になって、臨床、研究に打ち込んできました。その一方でこの分野の医師や研究者を目指す学生への教育指導活動や、発達障害への理解をうながす啓発にも情熱を注いできました。発達障害を抱える私がなぜ今日まで医者としてやってこられたのか、不思議に思われるかもしれません。それはひとえに妻をはじめとする、多くの先輩や友人、同僚たちの理解とサポートのおかげであり、寛容と愛情あってこそだと身にしみて感じています。
私という人間は自由奔放で、超がつくほどのマイペース、そして何より指図されたり束縛されることが嫌いです。「同調」を強いられる窮屈な組織の中では伸び伸びと生きてはいけなかったでしょう。しかし、医師という、比較的自由で変化と刺激に富み、探究と検証が求められる職業を選んだことは幸運でした。そしてなにより、自らも発達障害であるおかげで、患者さんの悩みを理解し共感することができます。精神科医は天職であったと思えるのです。
とはいえ、もともと私は人の話をじっくりと聞くのは苦手な性分です。しかし、長年、さまざまな患者さんと接するうちに、私は自らの「発達障害」を俯瞰(ふかん)できるようになりました。反面教師というのは失礼な物言いかもしれませんが、患者さんから学ぶことはとても多く、診察とともに自分の感情を冷静にコントロールできるようになっていったのです。
障害への理解が2次障害を防ぐ
私の診療は「とことん話を聞いて、これでもかとしつこく尋ねる」問診が主です。まずは患者さんが抱えた思いを存分に語ってもらい、次に患者さん本人だけではなく、家族やパートナーにも質問をします。どんな子ども時代だったのか、両親の言動は? 兄弟や姉妹との関係は? など、詳しく聞きます。小児期における生活ぶりをあきらかにするためにも、家族からの聴取は重要です。「星野流根掘り葉掘り」と言われる入念な問診で、必ず治療の糸口が見えてくるのです。
またご家族やパートナーの方には、一方的に本人を叱ることや感情的に泣いたり落ちこんだりすることは発達障害の改善につながらないことをお知らせし、2次障害を防ぎ、家族がともに考えていく基盤を作るようにしています。
私の育った家庭はいわゆる「機能不全家族」(家族としての機能が果たせず、子どもが健全に育つ条件が欠けている家族のこと)でした。発達障害に機能不全家族が加わると症状の悪化や2次障害を起こしやすくなります。虐待や暴力、ネグレクトなど、自分が子どものころにされたことを自分の子どもにしてしまう世代間伝播という問題も顕著です。しかし、「自分は機能不全家族に育った」という自覚がしっかりあれば、世代間伝播は食い止められます。傷ついた過去をうやむやにしたり、なかったことにするのではなく、しっかりと受け止めて「知ること、感じること、悟ること」が大事なのです。
発達障害者の“純粋なエネルギー”を活かす
70年近い発達障害者としての自身の経験からも精神科医としての臨床経験からも確信を持って言えることは、発達障害は決して無意味で厄介なハンディなどではなく、上手にコントロールし仕事や生活の中で活かせば、人生を深く豊かにする才能であり能力であるということです。
●興味を持ったことに集中し、決してあきらめないこと
●独自のこだわりは強力なエネルギーを生むこと
●人が思いつかないようなことがひらめくこと
●ひらめいたことは猪突猛進で実行すること
など、この純粋なエネルギーは、興味や関心の的と仕事や学業とが一致すれば、きっとその分野ですばらしい業績を残せるはずです。
そのためには、目の前の現実を虚心坦懐に観察すること。
自身も家族もありのままの姿を受け入れ、広い視野で将来を見るようにすれば、苦手なことに悩むことだけに陥らず、得意なことを見つけてそれを活かし生活することができるのです。「気づくこと、受け入れること、そして情熱を注いで生きること」。
本人やご家族、職場を含む周囲の人間が、現実に気づき自分を冷静に見つめなおすことができれば、治療の効果も上がり、改善の方向に向かう可能性は十分にあります。
さらに必要に応じて、薬の使用を検討することも必要です。適切に薬物療法を施していくと、発達障害は調整できます。
そしてぜひ、心から楽しめる「好きなこと」や「わくわくする時間」をみつけていただきたいものです。それが愚にもつかないことに見えても、発達障害を抱えて生きる方や家族の助けとなるでしょう。
星野 仁彦(ほしの・よしひこ)
心療内科医・医学博士。福島学院大学大学院教授。1947年福島県生まれ。福島県立大学卒業後、米国エール大学児童精神科留学。福島県立医科大学神経精神科助教授などを経て現職。専門は児童精神医学、スクールカウンセリング、精神薬理学など。発達障害を専門とする児童精神医学の第一人者。著書に『発達障害に気づかない大人たち』『発達障害に気づかない大人たち<職場編>』(祥伝社新書)、『発達障害を見過ごされる子ども、認めない親』(幻冬舎新書)などがある。
政治・社会 2017.11.27 PRESIDENT Online

ココアのCM

ココアのCMで嵐の桜井さんがナイスナイス体操をしている。
ナイスナイス体操なんてあるの?
と思いながら見ていると、ココアのCMだった。
見終わった後に笑いが込み上げてきた。

http://www.morinaga.co.jp/cm/detail/126

来年8月から「介護離職」が急増するワケ

来年8月から施行される改正介護保険法。多くのメディアは「利用者の負担増」を問題視したが、問題はそれだけではない。改正法では、要介護度が改善した自治体には交付金などの「インセンティブ」が支給されるため、意図的に判定を厳しくする自治体が出てくる恐れがある。現場のケアマネージャーからは「介護離職を増やすつもりなのか」と怒りの声が聞こえてきた――。

http://president.jp/articles/-/23776
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