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安全地帯・玉置浩二の音楽を語るブログ、管理人のトバです。安全地帯・玉置浩二の音楽こそが至高!と信じ続けて四十年くらい経ちました。よくそんなに信じられるものだと、自分でも驚きです。
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2023年02月12日

CHU CHU


玉置浩二『JUNK LAND』十曲目「CHU CHU」です。コメントで教えていただいたのですが缶コーヒーJIVEのCMソングでした。The Archive of Softdrinksさんによると、JIVEは2003-4年で販売終了だったようです。うーむもう20年も前か!当時はBOSSが登場して一気に缶コーヒーブームだったんですが、いまやコンビニコーヒーにシェアを奪われだいぶ細々とした感じになってしまっています。

我が愛しのフラッグ」から続く蝉時雨を一気に切り裂くギターの「ジャイーン!」で曲は始まります。武沢さんもそうなんですが、どうしてこんな残酷な音が出せるのでしょう。わたくしの知ってるギターとは違う楽器なんじゃないかと思うくらいです。

玉置さんのボーカル「CHU CHU」が始まり、背景にギター、ハイハット、バスドラとタム、そして……木琴ですかね?テケテケテッテという癖になる音が入っています。主旋律は何の楽器なのか……まったくわかりませんがおそらくキーボードで出したシンセの音でしょう。「……〇×△行くか!(よしそろそろ行くか?)」という玉置さんの声があって須藤さんのベースと安藤さんのピアノが入り、スネアを合図に歌が始まります。

「あのつまらない毎日が素晴らしい」ぬお!1997年秋、つまらない日々をむさぼり、その日々が終わろうとしていることに寂しさを覚えつつ、その日々を閉じる準備をしていたわたくしにクリティカルヒットでした。なぜ泣かせる!何の解決にもならないゴタクを並べていた仲間たちも次々と街を去っていった、ちょうどそんな時期に、よりにもよって……。

当時のわたくし、「つまらない毎日」の閉じ方がわからず、とりあえず必要とされる本を買わなくてはならないのにその金もなく、パチンコ屋に駆け込んでなんとか本代を工面することに成功し、読みふけっている最中でした。この本を読んで、そしてなにがしかの文章を書けばこの毎日は終わってしまう、じゃあ読まなければいいんじゃないか?でもおれが読まない書かないでやり過ごしたとして何が残る?みんないなくなるんだ。残された者とこの日々を続けるか?いや、そいつらもいずれいなくなる。じゃあそれでも残っているやつらと……そんな児童会にいつまでも顔を出すウザい中学生みたいなことしてられっか!ああああ、やっぱ読むしかないよな……などと、頭の中グルグルさせながらひたすらわけのわからない本を読み、飯を食い、洗濯をして、また読んでいました。

「つまらない毎日」は素晴らしかったのです。ああでもないこうでもない、ああでもあるこうでもある、言葉だけが飛び交い中身は何にもない、なくっても構わないのに大問題であるかのように思っているあの毎日、この毎日は夢なんだとわかっていたつもりで、実は全然わかっていなかった……「何のー解決にも、ならないってく」「やんでたー」という当時の人には思いつかない譜割を見事なハモリで歌う玉置さんのボーカルに、自分がいま終わらせようとしている日々がどんなものであるか教えられたような気がしたものです。

場面転換を彩るギターのフレーズ、曲はペースアップ、「自然に」「真剣に」「泣いてりゃいい」「悩んでていい」の組み合わせでわたくしのような迷子の人生を導きます。これまでも十分キャッチーで曲の冒頭からいきなりサビかと思っていたら、実はここからがサビでした的なダブルサビ構成で一気に駆け抜けます。演奏はライドシンバルの連打とアコギのストロークを入れたのか、にぎやかさと疾走感がいや増しています。

素直になれることに自然に泣く……何の得にもならないことに悩む……君と僕で……それでいい、それでいいんだ……

このメッセージは、見栄と向上心と退廃とムダとがドロドロに混在していた青年時代、奇しくもそれに重なった90年代後半の混沌とが相まって、世の中も人生も真っ暗に思えていたのに街はムダにビカビカと安っぽい光で満たされている、そのギャップが生活環境となっていたわたくしにとって、導きの光のように思えました。現代の若い皆さんはご存知ないでしょうけども、90年代は新興宗教ブームで、テロ事件で大騒ぎになったあの教団以外にも、大小さまざまな団体によりさまざまな問題が毎月のように起こされていたのです。ですから当時の若者はそういうものに近づかない!貝になる!という態度を決め込んでいたのです。ほとんどの勧誘は教団の思惑を知らない末端の信者によって善意で行われていたでしょうし、なかには本当に癒しと救いを与えてくれようとした手もさしのべられていたのかもしれませんが、そんなの区別がつくわけありませんから、すべて撥ねつけていました。そうやって自分を守らなくてはならなかったのです。ちょっと大きな駅や交差点には必ず勧誘の人たちが毎日スタンバイしていましたからね。後ろからトントンと背中を叩かれ振り向けばベレー帽をかぶったなにやら可愛らしい女の子がまっすぐに目をみつめてきてニコッと微笑んだかと思うと、私の手を取りボールペンを二本渡してきて、よくみるとテレクラのボールペンだった!きゃーこしゃくなTELクラブかー!感情線で待ちぼうけよー!なんて日常茶飯事です。ゲシュタルト崩壊まっしぐらという雰囲気ただよう世紀末だったのです。とはいえ可愛らしい女の子から折角もらったボールペンですから、例の本を読みながらメモを取るのにしばらく使わせていただきました(笑)。

素直になれること、それは……何の得にもならないこと、それは……とわたくし、本を読みながら考えました。その本は、パチンコで勝った金で手に入れたというダメダメな素性にもかかわらず、わたくしの思考回路をもの凄い速さで回転させてくれました。「つまらない毎日」を数年続けたためにすっかり錆びついた歯車に油をさし、燃料を補給し、そしてプラグに電流を流してくれたのです。そして、音楽は趣味だ、自分の仕事にしてはいけないと思い至ったのでした。人生の転換点といってもいいでしょう。自分の適性やら嗜好性やらからするとわたしが積み重ねるべきことは音楽じゃない、とはっきり分かったのでした。

オッサンが何くだらねえ自分がたりしてんだよとお思いになるのは当然です。ですが、これは多くの人と共有すべき点を含まないでもないのです。もし、わたしがこの時点でこのように思い至れずに音楽の世界を突っ走り、そしていつまでも評価されないと悩み続けていたとしたら……うっかり一発でも当ててしまってその後全然さっぱりになってしまって絶望に苛まれていたとしたら……もしかしたらその先には、あのベレー帽の女の子の微笑みが……ではなく(笑)、偽りの癒しと救いを与えたくて手をこまねいてスタンバイしていたフェイクヒーラー(メタルチャーチ)の彼ら彼女らに取り込まれていたのかもしれないのです。「きみの夢を応援」「生きがい」「自己実現」「なりたい自分に」「キャリア開発」などといううさん臭さ抜群のキャリア産業が看過できない規模の勢力となった現代にあって、これは多くの人に訪れ得る危機といっても過言ではないでしょう。どこの世界によく知りもしない赤の他人の人生に「寄り添う」やつがいる?自分でとことん考えるしかないんだ!真剣に悩むしかないんだ!どんなに悩みが辛くても苦しくても他人にその判断を求めてはいけない!自分にしっくりくるもの、「素直になれること」「泣いてりゃいい」と思えるものに、自然な反応を示すのがベストなんだと、玉置さんは訴えているようにわたしには聴こえてならないのです。

曲は前奏にプラスアルファの「CHU CHU」で二番に入っていきます。

「楽しんでいられなくなる」のは、どうしても何も、人は変わっていくからです。成長するからです。頭の回転を速くする方向に成長することもあれば、身体能力が高くなる方向に成長することもあるでしょう。そうなると、見えるもの、考えることが変わってくるのは当然です。そしてそれは一人ひとり違うのですから、いまの仲間たちはいずれ去ります。そして新たな人たちと新しい人生を作り始めますが、やがてその人たちも去ります。仕方ありません。見えるものも考えることも違うからです。「ダメなんだ」のはどうしてもなにも、変わってしまうからです。「雨に濡れちゃ」った「かけずりまわっていたあいつ」のことも助けてあげられません。助けるには、こっちが見えているものを見ないことにするしかないのです。それは、自分の成長を否定し、人生を放棄して、「あいつ」に捧げてしまうことです。その覚悟がなければ、けっして本当の意味で助けることなどできはしません。それは悲しいことです。タブルボーカルの玉置さんがその悲しさを切々と語ります。これは軽快な曲調とは裏腹に楽しい歌などではなく、変わりゆく自分と人生とを悲しむと言っては言いすぎでしょうが、少なくとも前向きな歌ではありません。切ない歌なのです。

「雨に濡れちゃっても」で一番よりも時間を使ったはっきりしたブレイクがあってまた「自然に」が始まります。ほとんど歌詞は一番と同じですが、「何の為にもならないことに」だけが変わっています。得になること為になることしかしてはいけない的ビームが頭上を飛び交う現代、「コスパ」だとか「タイパ」のようなゾッとする生き方を示唆する醜悪な言葉が飛び交う現代、何の得にもならないことでもいい、何の為にもならないことでもいいと、歌詞をそこだけ変化させることによって浮かび上がらせて玉置さんは力説するのです。

CHU CHU……Thank you John,でしょうか、玉置さんが歌うジョンはレノンしかいないとわたくし勝手に思っておりますが、狂熱のビートルズ全盛期を乗り越えたレノンの生き方はまさに、現代でいえばコスパタイパ完全無視の、傍からは迷惑なんじゃないかってくらい自分に自然な生き方を求めたのでした。軽井沢に避暑に訪れ、ヨーコやショーンと一緒にゆっくりと滞在を楽しみ、ロイヤルミルクティーを飲み……LOVE & PEACEを求めたのです。

木琴が鳴り響き、玉置さんが「自然に真剣に」と繰り返し強調します。スネアが入り「素直に」「素直に」「素直に」……

人生、マジになろうぜ。他人のいうことを真に受けてどうする。誰もがいずれ「雨になっても」「知らんぷり」で去るしかない人生なんだ。自分の人生、自分にしか「自然に」「素直に」なれるピンポイントのことはわからないんだ……迷惑になるかもしれない?それはそうだ。でも、迷惑を避けるように調整するか、迷惑をかけちゃってすべての後始末をするか、どっちかしかないんだ……。これは悲しき真理です。悲しいけれども、でも素晴らしき哉人生、だからこそ新たな出逢いがあって新たな展開がスタートするわけですから、恐れて立ち止まってばかりでもいられません。時代はときに残酷なくらい確実にわたしたちを導きますけども、それはごくごく自然なことだったのです。

かくしてベレー帽のお姉さんにもフェイクヒーラーにも近づかなかったわたくしですが、「ジャイーン!」と時を刻む残酷なギターによって前後が切り取られたこの曲は、そのいっときの悲しさとさみしさ、それと同時に垣間見える希望を意味しているのだろう……玉置さんの爆笑で終わるこの曲には、アイロニカルな笑いでなく、明るい未来を意味する笑いが似合うとわたくし思うのです。



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2023年02月04日

風にさらわれて


玉置浩二『JUNK LAND』九曲目「風にさらわれて」です。JUN TAKEUCHI STRINGSがクレジットされています。

前曲「我が愛しのフラッグ」ラスト、蝉時雨と猫鈴のような音がやまぬうちにアコギのリフでこの曲は始まります。玉置さんのひと唸り、ピアノ、ストリングスが瞬く間に入り、前奏と言えるほどの長さももたぬままストリングスはいったん止み、玉置さんの歌が始まります。

「あのローカル線の〜」という言葉でたちまち意識は旭川に跳びます。安全地帯の合宿所があった永山にのびる宗谷本線が新旭川で石北本線と分かれて、南永山、東旭川へと走っていきます。いまGoogleマップで観るとシネプレックス旭川なんてものができていてちょっとした街みたいになっていますが……このあたり、記憶をたどると一面水田だったような気が……イヤ北海道特有の荒れ地だったか……するのです。東旭川なんて、ほんとに周りなんにもありませんでした。そして電車が旭川に向かう途中、いや電車だったか汽車だったか記憶は定かじゃないですが(笑)、ともかく少しの間国道39号沿いの街並みを走ります。そして39号は繁華街へと曲がってゆき、電車は道北随一の巨大ターミナル、旭川駅へと向かうのです……。

北海道人にとって都市部の列車は速いです。さかさかと走ります。通勤通学に多くの人をさばいているからでしょうね。これが余市より向こうの函館本線とか、先日大リストラにあった日高本線とか胆振線とかだと、もっとキビキビ走れねえかな!とイライラしちゃいます。ですが、必要もないのに急発進急加速急制動を繰り返して車両を消耗させることはありません。それは合理的なのです。「ローカル線」にもこのように多種多様であって、その中に玉置さんが歌った「ローカル線」が入っているのだと思います。安藤さんが弾くピアノのストローク、それにあおりを入れる玉置さんのギターは、その遅いほうを思わせます。

「鉄は錆びついて〜」と序盤なのにいきなりハモリを入れます。セオリー無視というか、聴いてみるとここにハモリを入れずしてどうする!というくらいハマってますね。この曲は、半分くらいハモリが入っていて、もうハモリのほうが通常なんじゃないかってくらいになっています。ハモリによってハモリでないところとのコントラストが生まれ、むしろハモリでないところの鮮やかさが際立つという、ビートルズを彷彿とさせるスタイルでこの歌は紡がれていきます。

あの頃の鉄は錆び、石は砕けてすっかり姿を変えてしまっています。子どもの頃に聴いた祭りばやしも(永山神社例祭ですかね……)車窓を切ってゆく風の音にかき消されてゆき、もう思い出すことができません……。そんな情景をすっかり変わってしまった景色の中に見るのです。「Yeah」と長く伸ばし、一瞬ブレイクがあってから曲は突如サビに入ります。ここ、わたくしギターをボロンボロン弾きながら歌ってみるんですが、かならず失敗します(笑)。そうです、ここは転調なのです。半音一音上がるけど相対的には同じままズレるだけじゃありません。ドレミファソラシドの位置がまるきり変わるのです。半音階の位置が変わるのです。大事件なのです。つまりどういうことかというと音痴なので変化についていけないのです(笑)。安全地帯の頃には頻繁にあったのですが玉置ソロではあまりなかった気がするのでひさしぶりのショック!でも玉置さんの曲がスーパーナイスであることにはなんにも関係がないので、わたしがヘボだとバレただけでした。

曲調も変わりましたが、情景もさらに少年期へと遡っていきます。野球少年だった玉置さんが、空にボールを投げてボールを失った思い出が歌われます。わたくしも誰も来なかった公園で自分でフライ上げて自分で取ったりしてました。わたしがやると惨めくさいだけですが(笑)、玉置さんの思い出だと青い空にまぶしい太陽、そしてどこまでも飛んで行くボールが爽やかに心に浮かぶのが不思議です。竹内ストリングスの魔力でしょうか。いや、これは玉置さん自身の魅力と歌の力ですね。須藤さんのベースが見事なフックを作っているのも見逃せません。

曲は二番、須藤さんのベースが引き続き曲をリードします。二番かと思っていたら「ダダダーン!」と展開が入って「別れはやっぱりつらい」と切ないセリフでブリッジが途切れます。ぶつんと途切れるのでなく、ごく自然に、別れの辛さを描き出す大音量のストリングスとガットギターのソロへと流れてゆきます。

そしてまた泥だらけの手でボールを投げます。さっきは気づかなかった「woo---yeahyeahyeah」の強さ!失われたボールは、別れた人たちでもある……彼らは泥だらけのぼくと一緒にいてくれて、そして豊かな時を過ごしたんだ、だけどいつか、ちょっとしたすれ違いで去っていってしまった……まだまだ一緒にいたかったのに……ぼくは草むらの中、ベンチの下、そして川の水面にきみを探すけども、空に吸い込まれて消えてしまったとしか思えないほど、どんなに探してもみつからないんだ……「woo---yeahyeahyeah」はそんな悲しみを言葉にならない叫びとリズムで表現していたんだ!と気づかされるのです。

曲は一転、ピアノとアコギのアルペジオだけになり、玉置さんのハモリでない歌がクリアに響きます。「楽になりたくて人を許してしまおう」としたけどできなかった……なんという辛さ!エレキギターのアオリが入り、須藤さんのベースが「ドーン!」と入ったかと思うとストリングスが見事なクレシェンドで入ってきて、玉置さんのハモリがさらに入り「今はもう」と無念そうながらに懐かしそうな、不思議な悔恨とも惜別とも望郷ともつかぬ、すこしだけ温かさを感じるくらいにはふるさとに癒された玉置さんの、それでもいまだ強い後悔が胸をうちます。

「楽になりたくて人を許してしまおう」

ハモリでなく歌われたこの詞に、わたくし初聴時から打ちのめされました。初めて聴いたときに打ちのめされるのは、松井さん時代以来かもしれません。玉置さんソロの曲はだいたい、わたくし最初は馴染みがそれほどよくないんです。二回目聴いてむおお!とやっとわかり、何度も聴いて味わい尽くすというリスニングスタイルを採ってきました。それは、松井さんの歌詞と玉置さんの歌詞が、メロディーやリズムとの組み合わせ方、設計思想が異なるからだったのかもしれません。玉置さんの歌詞に一発KOされることはほとんどありませんでしたが、このアルバムではダウンを取られてあやういラウンドがいくつか出てきていたのです。ここへきて、スーパーメガトンパンチをくらって沈むことになりました……。

わたくし、こうみえて論理と倫理、そして義理を愛する人間です、いや、笑わんでください(笑)。ご存知のように音楽ではワガママ一杯ですが、日常生活や仕事では自分の好き嫌いでものごとを判断することはほとんどないのです。いや、ホントですって!、で、ですから、好き嫌いで曲がったことを押し通そうとする人間には基本近づかないようにしております。頭にくるだけですから。そうして前科者認定した人にもあまり近づきません。その人が変わる見込みはないし、こっちが降りて行って合わせる義理はまったくないからです。

ですが、そういう生き方をすることで、ちょっと世界が狭くなることはあるんですよね。絶対にまた頭にきて離れるに決まっているのに、それはまあ落とし前はいったん保留にして、もう一度その人と何かを始めてみようかと思うこともあるのです。許すまでは行かなくても(笑)。

許しちゃうとラクですよね。「始めた頃に一緒に」です。それはわかっています。でもできないです。このもどかしさ!もしかしておれが異常にガンコなだけか?いやそんなことないだろあれだけの不義理を許すほうがおかしい……と苦しみます。相手はどう思っているのか知りませんが飄々としています。ああ、この苦しみは、おれの側だけにある。原因はあやつでも、苦しさはおれの内部で起こっている。その苦しさをなくす手っ取り早い方法は、こちら側だけで苦しみという現象を解消してしまうこと、つまり許してしまうことだ……わかる!わかるよ玉置さん!と勝手に大共感してしまったのでした。ここにおいて、わたしが心の底で松井さんの詞を求めていた気持ちが消えて、完全に現代玉置さんにシンクロできたターニングポイントだったといってもいいかもしれません。そんな記念碑的な曲なのでした。

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2023年01月28日

我が愛しのフラッグ(Instrumental)


玉置浩二『JUNK LAND』八曲目、「我が愛しのフラッグ(Instrumental)」です。

ボロロロロン!とナイスすぎる弦の響きとハーモニクス、なにやら高音の声系シンセ、そしてピアノと(おそらくエレキ)ギターの単音弾きが絡み合ってメインメロディーを、そしてなにやら尺八のような笛の音がオブリを担当し紡がれてゆくインスト曲です。この曲もベースは須藤さんが弾いているとクレジットされていますが、かなり控えめな音で、注意していないと気づきにくいです。

「フラッグ」は十三曲目の「チャチ」と同じく、当時亡くなってしまった愛猫の名前だとどこかで読んだのですが、もうソースは忘れてしまいました。曲の最後にウインドチャイム、セミの鳴き声が入ってそれに重ねて猫の鳴き声、猫鈴の音が入っているのですが、当時のわたくしにはその意図はわかりませんでした。なにしろ玉置さんが猫好きであることすら知らなかったのですから、これはわたくし相当の情報弱者と言わなくてはなりません。

そしてわたくし、猫どころか生き物を飼ったことがありませんのでその生態はわからないのです。ですから、この玉置さんの「我が愛しのフラッグ(Instrumental)」から想像したいと思います。

夏の日、爽やかな風が吹き込む縁側のある部屋で麦茶なんか飲んでいます。猫は縁側に寝そべったり、そこが暑くなるとちょっと涼しい場所に移動してまた寝そべったりしています。きまぐれな猫の思惑はわかりませんが、敵意がないこと、自分にとって快適であることを最優先に行動していること、とつぜん飛び掛かってきて麦茶を倒すようなことはしないこと、つまり飼い主の生活を脅かす意図はないこと、これらは確実であり、一緒にゆっくり過ごすことのできる生き物です。この曲がピアノを中心にして、ギターがそれに気まぐれに合わせてみたり外れてみたりすること、それでも曲としての調和を見事に保っていることからそのように推察できるわけです。ええ、これは名探偵ホームズが落ちていた帽子からその持ち主を「知性のすぐれた人物だ、容積の問題だよ。こんなに頭の大きな人物なら脳も発達しているに違いない」などと推理したくらい無茶です(笑)。

無茶なんですが、結構こうした推理は当たるものでして、玉置さんは猫たちを愛し、きまぐれな猫たちもその愛に答え疲れた玉置さんの心身を癒していたのでしょう。この曲には修羅場のシュの字も感じられません。ただひたすらに心地よく、ひたすらにゆっくりと、ひたすらに自由でありながら全体の調和を崩すことがありません。毎日スタジオに通ってレコーディングし、何か月もツアーに行く玉置さん、その間猫の世話はどうしていたのかはともかく、帰ってきた玉置さんをいつでも自然に迎え、日常をキープさせてくれる存在であったことは想像というか推理に難くないのです。肩の凝らない家族みたいなものです。

データ販売でなくCDをお買いになったかたは、歌詞カードの中に玉置さんと猫のツーショットが三枚含まれていたことにお気づきになられたことと思います。これらの猫ちゃんに「フラッグ」と「チャチ」は含まれていたのでしょうか……何しろ亡くなったとどこかで読んた記憶がありますから、なんともいえないのです。写真は全部で12枚、そのうち三枚が猫ちゃんです。ほかに、ツアーメンバー、野球のユニフォームを来た八人(九人じゃない?)、卓の前のエンジニアらしき人たち、ストリングスのみなさん、パーカッションを叩く玉置さんなどなどの写真に加え、武沢さんを除く安全地帯の四人で撮った写真もあります。どれもこれも、90年代の風景で、わたくし縁もゆかりもないのに、なぜかとても懐かしくなって涙が出てきます……。

猫は平均で十数年を生きます。ですから、フラッグとチャチは80年代から生きて、そしてそのうち何年かを玉置さんとともに暮らし、玉置さんを支えていたのでしょう。ですから、わたしたちはフラッグとチャチに感謝すべきなんです。素晴らしい音楽を届けてくれる玉置さんを支えてくれてありがとうと。玉置さんもそうした感謝の気持ち、惜別の気持ちをもって、この曲を作り、そしてその名前を曲名に残したのだと思われるのです。

いま気づきましたが、こんなこと書いてしまって「おやすみチャチ」の記事では何を書けばいいんだ!(笑)相変わらず後先考えないバカなのでした。

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2023年01月21日

スイスイ


玉置浩二『JUNK LAND』七曲目、「スイスイ」です。

前曲「ラストショー」が終わり、静粛なアフターショー、突如明るいハーモニカの音が響き渡ります。「Yeah」とルーズに玉置さんが言ったかと思うと、突如曲は始まります。パーカッションとアコギのストロークで軽快です。Bメロからはエレキギターのカッティングとホンキートンクなピアノがはいり、さらに軽快、そしてサビでドラムが入り、大合唱の「スイー」で合いの手が入ります。曲はこれを二回繰り返し、アウトロだけなんだかチューニングが合ってないんじゃないのってギターが響いたかと思うと、突如これまでとコードを変えて「暇がない」と連呼し、ふたたびハモニカが響き終わっていくのです。なんという聴きやすいシンプルでノリノリの曲だ!もっと凝るだろ!凝ってドンドン軽快さをダメにしちゃうだろ!なんでこんなに絶妙なんだよ!いま思えば『CAFE JAPAN』の曲たちはここの段階からさらに練り上げて迫力や完成度は上がっているものの、そのぶん軽快さを犠牲にしてしまったんじゃないかと思われる曲が含まれていました。『JUNK LAND』は「デモテープのまま」という玉置さんですが(『幸せになるために生まれてきたんだから』より)、デモテープのままにしたからこそこの曲はこんなにもさわやかなんじゃないかと思えてきます。

さて実はこの曲、わたくし玉置ソロでトップ3に入る好きな曲なのです。上述のように軽快さが一番搾りのまま楽しめる曲であることに加え、青年期から壮年期にいたるわたくしの人生を描いてくれたんじゃないかってくらいシンクロ率が高く、そしてそれがおそらく玉置さんの人生と重なっているんじゃないかなどと、玉置さんからすればキモいことこの上ないことを感じさせてくれる曲なのです。玉置ファンでよかった……と、何十年も思わせてくれる曲なんですよ、そんな曲作ってくれるミュージシャンほかにいませんよ、少なくとも知りませんよ……きっと「田園」や「メロディー」、そして「MR.LONELY」「しあわせのランプ」でそのようにお感じになった方も多いかと推察されるのですが、わたくしにとってはこの「スイスイ」こそがそんなズバリ曲なのです。

アズテック・カメラがヴァンヘイレンの「JUMP」をアコギ弾き語りでカバーするという大事件が1984年にあったのですが、1997年当時のわたくし、まさにそんな気分、〇室プロデュースとか渋〇系とかナメてんのか!と相変わらずオリコンチャートとカラオケと有線に底知れぬ怒りを燃やしておりました。やれやれこんな曲がヒットするなんて世も末だぜとヤサグレていたのです。聴きたくなくても聴こえてくるんですよ当時の曲ってのは……暴力的に聴かせてきますので、うかつに店でウドンも食ってられないのです。ちなみにわたくしヴァン・ヘイレンけっこう好きなんでその所業に怒ってもいいんですが(笑)、アズテック・カメラさんの怒りというかメジャーチャートに対するシラケぶりもよくわかるのです。

さて一番は、多忙な男の独白です。多忙なのは仕事だったりプライベートだったりで用事がギチギチに詰まっているからなのです。「びっしりぎっしりつまって」「いっさいはがされたって言って」と「っ」を活かしたリズムで一気に歌い切ります。このリズム感!言葉のセンス!活舌!ホレボレしますね。わたくしたくさん練習しましたけども、なかなか同じノリは出ません。アコギで弾き語りしようとするとなおさらです。大好きな曲なのに人前で披露するに値する腕前にならないのです。それ以前にわたくし歌わないほうが人類のため(*)なんですが。

(*注)いかりや長介『だめだこりゃ』で、2022年10月にお亡くなりになられた仲本工事さんのことを、歌わないほうが人類のためだといかりやさんが書いていたのですが、それはもちろんいかりやさん一流のジョークで、ドリフターズのリードボーカルを一人選べといわれたら仲本さんだったのは、いかりやさんも認めるところだと思います。仲本さん、どうか安らかにお休みください。

そんなわけでして、「お人好し」と二番に書かれているこの人物、いろんな人から寄りかかられてアップアップしています。仕方ありません、世の中仕事はできる人やれる人に回ってくるものなのです。ろくに仕事をしないくせに自分は潤滑油だとか縁の下の力持ちだとか寝言を言っている人は一定数いるのですが、たのむから潤滑油も縁の下の力持ちも片手間でやってくれ、それで仕事をしている顔をしないでくれと言いたくなります。玉置さんはそんなイヤな感情をあまり持たない人らしく、それでも「大丈夫だよ」って笑ってるタイプの人であるようです。これは自称潤滑油や縁の下の力持ちに骨までしゃぶられること必至です。

いるだろう?そんなやつ?と問いかけ最後にそれは自分だといい、さらに意外なフリをするという、言いかたによっては回りくどい嫌味か!と思わなくもないんですが、玉置さんだと悪気が全然ないことが明らかなので許せちゃう、むしろいつもありがとうと感謝したくなるという清々しさがにじみ出ています。「いるだろう」に続けて「そんなやつ」「友達かい」「ひとりぐらい」「俺かい」と、畳みかけるこの歌、一発で精神の内奥にまで突き刺さり、ずっとずっと頭の中で反芻されます。そしてその一生懸命さと邪気のなさ、公共の福祉を絵にかいたような存在である玉置さんの奮闘ぶりがジワジワと全身に浸透してくるのです。気がつけばこの歌にゾッコン、「おれだーよ!」と口ずさむようになります。みんなを支えているのが自分なんだと叫ぶ快感も相まって、もうこの歌を聴かずには眠れなくなってゆきます(笑)。

そしてブレイクが入りあの娘のために裸になります。「スイー(スイー!)スイー(スイー!)およーいでいって〜」と「ええじゃないか」踊りの時代から日本人の心身に染みついたようなリズム、呼吸で掛け合いが起こります。そして人波に流され溺れそうになっているあの娘を助けるというヒロイックな行為をしている気分を盛り上げてくれます。そうだおれはあの娘のために裸一貫で、どんなに大波だろうが大風だろうが構わず飛び込んで、一目散に助けに行くんだ……実際には部署の残り全員を食わせているだけなんですが(笑)、そんな悲哀が吹き飛ぶほどのヒーローぶりです。

二番も「正真正銘ニッポン人」と天才的なリズムとワードセンス、活舌です。たぐいまれな「き」てんけいて「き」なんてシビれるほどにハマっています。ここにきて、玉置さんの歌詞はわたくしの中で完全に松井さん須藤さんと対等に並び立つ地位を占めました。これまでは松井さん須藤さんの世界に完全に酔いしれ、玉置さんの世界にはハマり切れない感覚があったのですが、この曲あたりをターニングポイントとして、玉置さんの世界に浸りたい!という感情が抑えきれなくなっていきます。いったんこの境地に達してはじめて、それまでなんとなく稚拙に思われていた玉置さん作詞の過去作にもその凄みを見いだすことができるようになったのです。覚えたいですもん!歌詞!この「スイスイ」は、「」「終わらない夏」のときのように歌詞をノートに何回も書いて覚えたい!そんな気持ちにさせてくれた最初の玉置さん作詞の曲なのです。

ところで、わたくしまごうことなき正真正銘ニッポン人なんですが(大和時代とかになるとわかりませんが)、北海道人ですのでちょっとドライなところがあるのかもしれません。北海道はアメリカみたいなもので、みんな先祖代々住んでいませんし、いろんな文化が混ざり合って暮らしていますから、ちょっと道外の人とは感覚が異なるところがあるのかもしれません。ですが、日本の義務教育を修了していますし、テレビも雑誌もみんな日本のもので育ってきていますから、根のマインドは完全に日本人です。それは玉置さんも同様でして、本州に来てからはちょっとずつの違和感を抱えながら暮らし続けることになるのです。あ、そうそう「平和な田舎者」ですよわたくし!(笑)風来坊ではないと思いますが、北海道人ですからここに骨を埋めるとかそういうウェットな気持ちはあんまり持っていませんので、どこか風まかせなところもあるでしょう。

さて今度は「誰かのため」に裸になります。誰なのかわからなくてもいいんです。世知辛い世の中でつらい気持ちになっている人を元気づけるためなら一肌脱いで、輪になって、パアーッとやりますよ!誰がつらくて誰が元気づけられているのかわかりませんけども、そしてカラ騒ぎにウンザリしている人がいるのかもわかりませんが、いいよいいよ、後から悪くなかったなあくらいに思ってくれれば!と鷹揚な気持ちで音頭をとるのです。

「かっこつけてた頃のあの頃のオレ」は、完全に自分のことをミュージシャンとしか思っていなかった痛い中高生時代のわたくしとかでなく(笑)、みんなが一番喜んでくれていたころの自分なのです。玉置さんですとそれこそワインレッド時代かもしれません。わたくしにも音楽関係ではありませんがそんな気分になる時代がそこそこありました。わたくしの場合、こんなこと続けていたら早死にするとわかりましたのでだいぶ前に思い切って転身したのですが、いまでもその頃の自分を取り戻すことで喜んでくれる人たちがいるのです。だから、いまだけは、ちょっとだけはあの頃のオレでいこう……と気分はやや重くなりつつも、それでも全盛期であったのは間違いないのですからちょっとだけうれしい(笑)気分で、自分を奮い立たせてあの頃の足取りで仕事場に向かうのです。玉置さんも「ワインレッドの心」とか「悲しみにさよなら」とかを歌うと喜んでくれるファンたちの前で、ちょっとだけ80年代の玉置さんに戻ってくれるのでしょう。

コードを変えて暇がない……暇がない……暇がない……とアウトロに入ります。そりゃ暇なんかありませんよ、あの頃のオレはいまの自分じゃないのに演じてるんですもん、人のために。そりゃ時間も労力も食われるってもんです。そんなことしないで傍観してりゃいいのに、助けちゃうんですね。お人好しのニッポン人、田舎者ですから。自分が食われていることも半ばわかっています。でも、ちょっと思い切ればできることをしないせいで人が苦しむのはイヤなんです。自分がちょっとムリをして苦しんだほうがマシなんです……。そんな心情を、玉置さんが似たような心境でこの曲を作り、歌っているんだと勝手に想像して重ねて、感動するのです。

人は大人になる際に、自分だけを中心としてみるような生き方をどこかで転換します。子どもが死ぬくらいなら自分が死んだほうがいいくらいに思えて初めて親として一人前であるのに似て、自分が一番活躍できることを喜んでいた時代を過ぎていつか、あの娘のため、誰かのためになるのなら敢えて痛いころの自分さえ取り戻してもいいと思えて初めて人は一人前なのかもしれません。自分だけのことを考えれば、利確して消耗を防げばいいんです。ですが、それなら始めから何もしなければいいと気がついてしまうんですね……それでは何のために生きているのかよくわからないです。人間は、生まれた原因はハッキリしていますが、生まれる理由や目的はありません。そして生きていく目的や理由は自分で見つけるものです。被害に遭わないこと、生命を維持することのために生きているのか?違うだろう?ならば、どんなに損な気がしたってそれ以外のことを全力でやるしかないだろう?そしてあの娘や誰かが助かるんなら、喜ぶんなら、おれの人生それで上等じゃないか!こうして自分をミュージシャンだとしか思っていなかった北海道生まれの少年は大人になります。書くとあっというまですが、実際にはこう思い切るまでに10年単位で時間をかけているのです。「スイスイ」はその過程に寄り添ってくれた名曲ですし、それを作ってくれた玉置さんは人生の師といってもいいのです。

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2023年01月14日

ラストショー


玉置浩二『JUNK LAND』六曲目「ラストショー」です。このアルバムで初めて出会うバラードですね。

なにやらカラカラカラと、洋食屋のドアについた鐘のような音が鳴り響きます。そしてピアノの単音リフ……曲を通して断続、表になったり裏になったりとリズムが曲とは無関係に鳴っている感じのするこの無機質なリフが、本当に効いています。そしてガットギターでメロディーと伴奏のコード弾きが入ってきます。右チャンネルは明らかにガットギターですね。左チャンネルもギターだと思うんですが、これはガットギターかどうか判じかねます。耳を澄ましてもうーむ、ほかの音と混ざってしまって音質がよくわかりません。まあ、わかることが目的ではありませんので問題ないでしょう、必要があればいろんなギターを弾いて一番しっくりするものを選べばいいだけのことです。

「スポットライトが〜」と玉置さんが歌い始めます。なにやら今夜がラストショーで、スポットライトに照らされ、踊り始めるのです。ここでもの凄い音のベースが入りますが、これは須藤さんが弾いたものだとクレジットされています。ゴーン!と歪み味付けの少ない、ベース本来の音ともいうべき音、わたくし好きですこの音。自分がデモを作るときでもこんな感じの音を目指して作り、ゴーンゴーンと鳴っているベースの音に自分で聴き入っておりました。うーん、これは踊るといってもズンドコズンドコ激しいやつでは全くなくて、歌いながらちょっと軽いステップを踏む程度でしょう。

そして曲は一気にサビ、徐々に徐々に、それでも控えめに鳴るストリングスを加え、怒涛の「て」攻勢が始まります。拍手がき「て」、笑っ「て」、いつまでたったっ「て」と、わたくしがよくダメパターンとして指摘する連用止めです(笑)。たいがい、よっぽど言葉にならない想いが表現されていなければ単に作詞が稚拙なだけだと判断するのですが……。「って」の「っ」を合わせた「って」が、この玉置リズムによってメチャクチャ生きているのがみなさん感じられることと思います。「たったって」なんて神業です。背筋がゾワゾワします。歌詞それだけをみたら一本調子の決して巧みではない歌詞にみえなくもありませんが、これを玉置さんが自分の演奏で、自分のリズムで、自分の声で歌うことによって、これは超絶切ないソングとして生きるのです。なんだこれ、泣けるぞ、おれがトシを取っただけか?いやそうじゃない、当時は若くて、ラストショーなんてまだまだ共感できる段階じゃなかったんだ、若くても泣かされるんだよこんちくしょう……卑怯です。「手」を振「って」……と玉置さんが囁いてガットギターを「ぺぺぺぺ」と鳴らし、シンバルをロングで響かせます。余韻もそこそこ、曲は二番に入ります。

素敵な人たちがこのステージで恋をした……ステージで恋なんかするわけないじゃん……とツッコむのは野暮というものです。玉置さんが歌うとほんとにそんなこともあったんじゃないかと思えてきます。ツアーメンバーとして玉置さんと安藤さんはほんとうにこのステージで恋をしたのかもしれませんし、似たようなことはあのバンドこのバンド、あのツアーこのツアーで起こってきたのかもしれません……で、恋をしたように切ない夜だから歌うラストショー、という、因果のぜんぜんわからない歌詞なんですが(笑)、それはわたしたちが因果でものを理解する癖がついているからであって、玉置さんのこういう感性こそが素直なのかもしれません。ステージ上で恋をする、ああ、そりゃ切ないよな、このラストショーも切ないよな、もしかしてこのステージで起こってきた出会いと別れがそういう気分を盛り上げているのかもな、というように、因果でもなんとか理解できるように思考をフルに回転させて補わないといけないわけですが、まあ、わかりますよね。「せつない」がステージ上の恋とラストショーをくっつける接着剤として機能している、というように図的にイメージすればいいだけなのです。

そしてめぐりあ「って」離れ「て」……と「て」攻勢のサビです。きもちストリングスも一番に比べて強めで、さらにここは二段重ねのサビになっていて、「がっかりしたまんまで」ともう一度サビを重ねます。これが、メロディーに泣かされているのか歌詞に泣かされているのかわかりませんが、大号泣モノの歌になっています。なんだよ、なんだよこれ……「なったって」「がっかり」「まんま」と撥音促音を駆使したリズムと歌詞の融合体が玉置さんの声、演奏、メロディーで歌われるのです。これで何も受信できなかったらもう玉置さんの音楽を聴かないほうがいいんじゃないかと思うくらい強烈な切なさパワーを発信しているのです。そして歌われるストーリーがまた……若いころに逢って別れてまた逢って、ダメなところはずっとあの頃と同じ、ガッカリしちゃった……何べんつきあっても好きになるけど、何べんもダメになっちゃう、だけど何べんも好きになっちゃう何でだかわからないけど、いまは抱きあえてうれしい、幸せ……というやるせない心の機微、重ねてきた月日、離れていた月日の重さがトリプルパンチで私たちを殴りつけます。ガツッ!ガツッ!ガツッ!っと。「僕に〜抱きつ〜い〜て〜」と叫び、「うれしいって」と囁く、な、なんという歌の力だ!わたくし、若造だったくせにすっかりラストショーのステージ上にいる壮年歌手のような気分に浸ってしまいました。

そしてまたガットギターで「ぺぺぺぺ〜」とささやかな合間で余韻をたのしみ、また玉置さんが「スポットライトが〜」と歌い始める短いフレーズを迎えます。スポットライトが消えて、ラストショーは終わり、だけど再びめぐり逢えた君を離さない〜って、それ、もう生身の存在じゃないだろ……音楽の精霊か何かなんじゃないかと思えるくらい具体的な光景を想像したら不可思議なんですけど、情景としてはよくわかるのです。明かりの消えたステージで、客電をつけて、お客さんがご退場なさるまで片付けは始められませんから、ステージはとりあえずそのままです。演者がステージを降りるときに機材につまづいたら危ないですからボーダーか何かを薄く点けてはおきますけども、とりあえずステージは終演時のままなのです。楽屋で「おつかれー」とか言って汗を拭いて……あれ、浩二がいないな?まだステージかな?呼んでこようか?よせよお邪魔虫だぜ、ああそうか、という物語が舞台裏で繰り広げられているわけです。その間、ステージでは、抱きあったふたりが……音数の少ないギターソロで急に盛り上がるアウトロをバックに「I Love You so much......」完璧だ!そんなことあるわけないのに完璧だ!(笑)

かように、現実にそれが起こりうるかどうかを考えたらダメになる情景の描かれた歌であるわけなんですが、図的イメージですとかリズムと言葉の組み合わせですとか玉置さんの肉声ですとか、いろいろなものを駆使して楽しまされてしまう美しくも切ない物語なのです。これ、このアルバムで初めて玉置さんの歌を聴きましたって人にはどんな風に感じられるんでしょうね……わたくしのようなヘビーリスナーはヘビーリスナーとしての聴き方しかできなかったわけですから、そういうフレッシュな視点は持ちようがありません。安全地帯を経て、玉置さんのソロを第一作から何年もかけて聴きこんで理解してきたからこそ、こういうふうに理解できるんだと正当化するんです。人間誰だって、自分が何年もかけて体験してきたことがまるごと無意味だったなどと信じるはずがないからです。だからなのです。もしわたしがこのとき20代の若者でなくて中学生くらいで、「田園」のヒットで衝撃を受けて以来このアルバムを楽しみにしていたような年頃だったら……この美しい物語とどのように向き合ったのだろうと想像したくなるのです。

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2023年01月05日

JUNK LAND


玉置浩二『JUNK LAND』五曲目、「JUNK LAND」です。タイトルナンバーです。

これはとんでもない歌です。パープルの「Highway Star」なみにとんでもないです。なにがとんでもないってひたすら車で走っていてサイコーとか愛してるぜとか、とにかく歌詞にストーリー的な意味が希薄です。ひたすら、願いを込めて励ますのです。邦楽でこの境地に達している歌はそうはないです。

ピアノがポロロンとなり、ギターが細かいアルペジオ、ベースがブワーン、スネアが小さい音で時折響き、「どっちいく」「どっちいこう」と玉置さんがゴキゲンな様子で訊ねてきます。ブレイクがあり、繰り返しの短いフレーズを奏でるギターをバックに、玉置さんが譜割の細かいフレーズを一気に歌います。「ほら今日もポンコツ車のエンジン全開にして」から「負けるわーけなーいー」まで、本当に一気です。一気に語られた内容は、非常に前途多難な悪路を、状態の悪い車輛で突っ走る状況です。

ジャジャジャジャジャ!とブレイクが入り曲はBメロに入ります。アコギをジャッカジャカ鳴らし、玉置さんが早口でまくしたてます。突っ走った先には、いろんな人がいるのですが、その人たちのことを思って一気に歌います。誰かを心細く待ってる人、何かで悲しい思いをして泣いている人、困難を抱え困っている人……玉置さんはポンコツ車で彼らの前に全速力で乗りつけて、大丈夫だよって言います。同じくらい波乱万丈な人生を送ってグラグラしている我が身はさておき、いろいろな人たちに希望の光を届けたくって走り回るのです。途中からエレキギター、ピアノ、ベース、スネアが入り演奏はだんだん賑やかになります。それがJUNK LANDたる大都会東京の喧騒を思わせます。その喧騒の中にいるいろいろな人々は迷ったり笑ったり祈ったり遊んでいたり愛していたりと、まことに十人十色の様々な事情を抱えています。でも、誰もが「大丈夫だよ」って言ってほしい不安を抱えているのです。

曲は二番に入ります。ぼろ車で悪路をゆき、いろんな人を励ましに行くというコンセプトは全然変わりません。「僕のスピードじゃ何も変えることができない」とちょっと悲痛な告白もあります。世の大勢なんて変わるわけがありません。ですが玉置さんはポンコツ車をフルスピードで走らせ、自らもまた全力で走り回ってボロボロになり人々を励まして回るのです。

(抱きしめたい)とつぶやき、曲はサビに入ります。チャカチャカ……とパーカッションと極小音量のアコギ、合の手のようにピアノという非常にシンプルな編成の伴奏で、ガラクタだけど心を込めて……とのびやかに歌います。それとは対照的にコーラスは「君を、君を、抱きしめたい」と、何やら切迫した感じです。ストリングスが入り、緑の丘で暮らそう……と願いが語られます。都心部にはわざとらしい緑地しかないわけですから、そんな願いはかなうわけがありません。ですが、ガラクタの人工物に圧倒された都会も、それはひと時の現象にすぎません。街は数年も放置されれば機能は失われ容易には再生されません。原発事故で立ち入り禁止になった街があっというまに自然に侵食されていったさまを、現代のわたしたちは知っています。繁栄を誇る東京だって、いつそうなったっておかしくないのです。アスファルトを剝がせばそこには砂があり、護岸壁を剥がせば上流の恵みはいつか砂を土に変え、雨が降れば、陽が射せば、緑の大地はいずれ復活するのです。ですから、JUNK LANDはかりそめの姿にすぎません。

「おまえがナーガセーナか」
「いえ王よ、わたしがナーガセーナなのではありません」
「ではおまえの精神がナーガセーナなのか」
「いえ王よ、それは誤っています」
「ではおまえの手や足、頭や胴といったものの総体がナーガセーナなのか」
「いえ王よ、そうではありません」
(『ミリンダ王の問い』より)

ヨーロッパ人には理解の及ばない自然の姿、自然の力、それらを祖先は知っていたはずなのに忘れてしまった極東の都、東京の人々、浅はかな繁栄と虚しい享楽に生きる人々、うんざりだ、本当にもううんざりだ、だけど愛してる、心から愛してる、だから僕は走る、ガラクタのポンコツ車で、ひどい道を突っ走って、ガラクタの中に埋もれて暮らしている人たちの間を、大丈夫だよ、心配ないよって伝えたくて走るんだ。

1997年、あの当時、「コギャル」と呼ばれた女子高生たちにはたまごっちなるオモチャが大ブームでした。子どもたちはゲームボーイに夢中、若者はポケベルやPHSで通信しあい、エアマックスなるスニーカーを履き、カシオのG-SHOCKを巻き、ボーダーファッションなるダボダボの衣服に身を包み(てめえらスキーもボードも大して滑れねえだろ!)、茶髪のロン毛をワッサワッサさせて集団で歩き回るという(上からみたらナウシカのラストシーンだろこれ!)、ちょっとした地獄絵図だったのです。わたくし?わたくしちょっと彼らより年上ですから、そのようなブームは横目で見ていただけでした。ああ、全部ゴミだな……と。

何がゴミって、上にあげたものはほとんど子どものオモチャかそれに等しいものじゃないですか。何が流行るかはその時代によって違いますが、根本には確たるスタンダードがあってはじめてそこから外れたものが流行したりしなかったりするんです。せいぜい、「若いうちだけだぞ、さっさとそんなガラクタ卒業するんだぞ」「うるせえなあオヤジにこの良さが分かってたまるか」と言い返す程度のものです。ですが、彼らがオトナになってガラクタを卒業するかと思ったらそんなことありませんでした。なんとポケベルやPHS、たまごっちのかわりにスマートフォンをいじくり回し、相変わらず寝間着と大差ないルーズな服装で歩き回り、腕時計なんかスマホがあれば要らないなどというナメた態度でも文句を言われず生きられるように「ハラスメント」とか「老害」などと連呼して強引に世の中のスタンダードを変えようとすらしています。当時の若者を若者時代から眺めてきたちょっと年上のわたくし、ドン引きです。あのなそれ……まあ、いいや、一生オモチャいじって文句言われず生きていればOKという人生を選択しているんですから、とやかく言ってあげるほど親切じゃないです。

玉置さんが愛のメッセージを精一杯送ったガラクタだらけの街東京、JUNK LANDはいまでもガラクタだらけ、若いうちにガラクタをガラクタだとわからないまま大人になってしまった人たちが今日もガラクタをいじくりまわしガラクタに嬉々として埋もれて生きています。そんな東京を離れて軽井沢に移り住む玉置さんはそこで安全地帯を復活させる基礎を静かに固めてゆくのですが、その話はまたいずれ。

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2022年12月30日

さよならにGOOD BYE


玉置浩二『JUNK LAND』四曲目「さよならにGOOD BYE」です。

前曲「NO GAME」アウトロから途切れなくパーカッションが続き、「デュン!デュデュン!デュン!〜」と玉置さんが歌い始めます。ギターの単音カッティングも背景でパーカッションの一部となってトゥクトゥクトゥクトゥク……とリズムを刻みます。「イエーエ!アー(裏声)」と緩いシャウトがあったかと思うと、「ズン!ズン!……ズン!ズン!ズン!」とベース、ピアノがメインリフを奏で始めます。トゥクトゥクギターとパーカッションのリズムが心地よい……すべて手作りの音ですから暖かく、ぬくもり一杯のリズムセクションです。

OH GOOD BYE!〜さよならにでしょ、とメインリフにあわせて玉置さんがリズミカル&エモーショナルの融合爆弾で歌います。そのエネルギー炸裂は凄まじく、歌詞の意味がまったくわからないのに腑に落ちる感覚すらあります。

冷静に考えますと、さよならにGOOD BYEするというのは、金輪際さよならしないことです。つまりこれまでいろいろな事由でさよならしてきたんだけど、もうしないと決心している状態なのでしょう。よほどいまの関係が心地よくてこりゃーさよならすることはもうないなあ、と思っているか、もしくは、過去にちょっとしたことで次々さよならしてきた自分の薄情さに嫌気がさして、どんなに気まずい関係でももうさよならなんかしないぜと強く誓っているか、あるいはその両方なのでしょう。

と、ここまではなんとかわかるのですが、次の歌詞はマジでわかりません。「ならこうしよう」と提案しておいて、あり?うまくいかない?「あの、もしかして」……(これってムリゲーじゃん)……(一応)「もう一回してもうやめましょか」だとは思うのですが、何をやっているのかはわかりません。リズムが変わりギターもアルペジオになるBメロでも、ムリゲーがうまくいかないからか責められたり、素直にわかりませんといったからか誉められたりと、周囲からの評価もよくわかりません。リスナーからすると完全に意味不明です。この時点では、完全にノリを最優先して意味のない歌詞でもそのまま採用したか、あるいは意図的に意味不明の歌詞にして他人にはわからないプライベート感を演出したか、のように思われます。そんなわけで、意味はまったくわからないんですが、このノリに引き込まれ、「さよならにでしょ!」と口をついて出てくるほどに心身に浸透してきます。もうこの時点で、玉置さんのリズムとメロディー、そしてことばの融合爆弾はもはや完成の域に達していることを示す一曲だといえます。余談なのですが、語尾「しょ」は北海道弁です。ですから、前曲とこの曲はわたくしにとって故郷のノリなんですよ。ですから、意味はもちろん分からないんですが、心情として何か言葉にしがたいものをわたくし受信して深層心理で理解してしまっている可能性がなくもありません(笑)。

そしてサビ、イントロと同じリズム、メロディーで「ジャズなんでしょ ズジャでもいいんでしょ」と極めつけにわけのわからんことが歌われ、いやよくねえよ!というツッコミがフロイトのいう深層心理からほとばしり出るほどの衝撃を受けます。な、なんという感覚だ!こんな心の深いところから全力でツッコミたくなったことはこれまでの人生にはなかった!エロい衝動と同じレベルで心が揺さぶられるって、とんでもないことです。

ちなみに、たしかに80-90年代におもにテレビ業界には逆でいう文化があり、それが外界に漏れ聞こえてくることはあったのです。寿司のことを「シースー」、女のことを「ナオン」、銀座が「ザギン」に六本木が「ギロッポン」、もうあとは忘れましたが(笑)、まあダサいダサい、バカなんじゃないのって感じの業界用語たちでした。逆にいう意味はとくになくて、せいぜい非テレビ業界の人にわかりにくい暗号のような言葉を使うことで自分がそのコミュニティの一員であることを確認して安心していたとかそれで業界人ヅラして優越感に浸りたかったとか、そういうロクでもない意味しかなかったように思います。テレビに出まくっていたころの玉置さんもそのような世界を目の当たりにして、一時期ハマったことがあったのかもしれません。でもまあ、嫌気がさしたんでしょうね。なにしろ本質は才能のサもない人たちがメディアの力を使って才能ある人を束になって食い物にする世界のこと、食われる側がイヤになるのは当然です。「意味はないんでしょ」という喝破にすべてが表されているように思われます。

ジャンケンポン!もちろん勝ち負けはやってみなければわかりませんが、勝ちか負けか引き分けかの三通りに絞られます。ジャンケンなんかしなければ何通りあったかわからないその無限の可能性があった瞬間の選択に、強烈な制限が課せられるわけです。「ほら負けちゃうでしょ」はもちろん「勝ったでしょ」、「引き分けでしょ」の場合もあるわけですが、その三通りしかないのです。白黒つける、だとさらに制限がきつく、二通りになってしまいます。なぜみんなわざわざ制限を課すのか?それは無秩序に耐えられないというわたしたちの心性にその原因がありそうですが、玉置さんからすればその秩序のほうがくだらなくて耐えられないほど退屈なものなのだと歌われているように思われます。勝ち負けを決めないとガマンできない人たち、それをくだらねえなあと思う人たち、そこに結ばれる関係は「異常な関係」であって、「さよならにGOOD BYE」くらいわけのわからない関係なのだ……あ、これはけっこうありそうな解釈だな(笑)。じゃあ、これを試金石にして二番で検証してみましょう。

「さよならにGOOD BYE」と一番が終わったあと間があって、この曲ではごく少ないスネアの連打が鳴り響き、「デュン!デュデュン!デュン!〜」と玉置さんが歌い二番が始まります。前曲もそうなんですが、曲全体で多用されている玉置さんのダブルボーカルはものすごく厚みがあって、それだけで完成した曲として通用してしまいそうです。

さよならでしょ、そうしたんでしょ、GOOD BYEじゃないんでしょ……やはり意味が分からん(笑)。もしかして「さよなら」が今生の別れなみに重い別れで、「GOOD BYE」のほうは「またねー」くらいの軽い別れなのかもしれません。ですからここは軽い別れでなくて重い別れをしたということになるのかもしれません。すると、「さよならにGOOD BYE」とは、重い別れをしたんだけど、それを軽く扱うということを意味しているのかもしれません。今生の別れなんだけどあえて軽く言っているとか……お葬式で棺を占めるときに「バイビー」とかいうくらいの……うわあ、なんかすげえ歌だったのかもしれません!(笑)。ムリヤリ解釈をつなぎ合わせると、めちゃくちゃヘビーなことが起こりまくっているのに、それを軽く扱う業界人などの態度、もしかしたら現代人一般のライフスタイルに嫌気がさしている、ということなのかもしれません。ジャンケンなんかで選択肢絞っている場合か!なあ、冗談だろその態度?わかってんのかお前ら!というシリアスな怒りがこの曲には込められていた(のかもしれません)!わたくしもう二番で検証するなんてどうでもよくなっていますが(笑)、どうせ人を「一般人」呼ばわりして自分たちはそうじゃないと確信して「ザギンでシースー」などとほざいていた人たちのことですから、そんな扱いでテキトーに煙に巻いとけばいいように思います。

Bメロ「たまりません〜なんでどうだか〜」とこれも浸透力抜群でありつつよくわからない歌詞、そんな世界の中でも人は慕ってきたり嫌ってきたりします。そりゃ人間ですから当然でしょう。どんなに心がけの悪い業界にあっても感覚が狂うだけで人間が人間でなくなるわけではありません。だからこそ人は苦悩するのでしょう。

サビに入り、「ジャムがいいんでしょ バターじゃ嫌でしょ」と、パンでも食ってるのかと思われる描写が登場します。ジャムというのは音楽の世界では即興で合奏することを言うのですが、直近に「ジャズなんでしょ」と音楽の話をしていたんですから当然この「ジャム」も音楽のジャムだと思われるわけなんです。そこにとつぜん「バター」が挿入され、音楽の話じゃなかったのかい!まったくいい加減だな!プンプン!という頭がグラグラさせられる感覚に陥ります。「嫌なんでしょ でも大好きでしょ」と相反する感情が吐露され、業界のいい加減さに嫌気がさしているけどもそこにいる人間には当然に情を覚える……ズジャでもいいと思っている人は、あたりまえにジャズ好きからはまともに相手にされません。真剣みがないことが明らかだからです。「やっぱレーコル(コルトレーン)のサークソ(サックス)はサイコーだよね」とか言っている人がいたらバカだと誰もが思うでしょう。才能や実力のない人が才能や実力ある人を使って商売する異常な世界なんですから、こんな倒錯も起こるのかもしれません。玉置さんはその溢れんばかりの才能で無数の選択肢をもっているのに、それを使う側は売れ筋のパターンしか使いたくない、だからジャンケンポンなどと乱暴なことを平気でいうのですが、玉置さんはそれも笑い飛ばすかのように「ほら勝ったでしょ(そりゃそうだジャンケンなんだから勝つか負けるか引き分けるかの三パターンしかないんだよ)」と歌います。ほんとは冗談なんだろ?売れ筋だから売ろうとして言っているだけで、まさか音楽がこんなに不自由なものだと本気で思っているわけじゃないんだろ?「さよなら」という重い重い決断を「GOOD BYE」って軽い言葉で表現しているのは、あえてそうしているだけなんだろ?まさか……本気でそんなに軽く見てるのか?

「音楽をやる場所として東京にいつづけるのは、もう無理」(『幸せになるために生まれてきたんだから』より)と判断して玉置さんはこの後東京を離れます。CAFE JAPANの裏側に位置するガラクタだらけゴミだらけの街JUNK LAND東京、そこはゴミをゴミと思わずに、ガラクタをガラクタだとわからない人たちの街で、ジャズをズジャでもいいと冒涜する人たちに囲まれて暮らす生活に疲れてしまったのでしょう。『LOVE SONG BLUE』で一流ミュージシャンたちの力を借りた玉置さん、人と物が集まる東京の強みを生かしたものの、結局は『CAFE JAPAN』『JUNK LAND』でほぼ一人、せいぜい安藤さん須藤さんと作業するくらいの少人数でレコーディングに臨むだけになります。それ東京にいる意味ないじゃんとお思いになるのは当然です。現代ではDTMでそれを実現している人が多いのですが、玉置さんはなんと90年代にすでにそれと同じ発想をもっていたことがうかがえますね。なんという先進性!安藤さんというパートナーを得た玉置さんが、すでにジャンクランド脱出を決心していたことをうかがわせる曲だといえます。

不協和音のピアノフレーズに、パーカッション、「デュン……デュデュン……」と玉置さんの歌もナチュラルにフェイドアウトしていきます。東京にさよなら、でもさよならなんて言ってやらねえよ、GOOD BYEでたくさんだろ、なんて意地悪な意味はないと思いますです、はい。

さて、2022年はこれで更新を終えようと思います。数えてみましたが、今年は60記事書くことができたようです。がんばりました。これもひとえにいろいろな形で支えてくださるみなさんのおかげです。2023年もどうぞよろしくお願いいたします!

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2022年12月28日

NO GAME


玉置浩二『JUNK LAND』三曲目、「NO GAME」です。

のっけからなにやら通販番組のような男女の声が流れてきます。これっていまでもTVで放送されているんでしょうかね?すっかり地上波を観なくなってしまったわたくしわからないんですが、90年代はこの手の番組はよく放送されていました。昼のマダム向け番組の合間に流されるようなものもありましたが、97年当時もっともホットだったのは深夜のテレコンワールドでした。深夜は観るものがなかったので、ただなんとなく流しておき、カップ焼きそばでもすすりながら横目で観るというライフスタイルが当時の若者にはあったのです。アメリカのバラエティー番組のようなテンションでひとつの商品を30分もかけて紹介し、しかもそれが二つも三つも流れるので、一時間以上やっていた気がします。はっきりいって愚にもつかぬ怪しげな商品ばかりなんですが、とにかくあの手この手で念入りに紹介するのでそのムリヤリ感が面白かったんですね。90年代の空気感をよく表している番組でした。

そんな番組をバックに、誰かが玉置さんを起こしに来ます。そうそう、こういう番組観ながら眠ってしまって、朝には水割り用に用意した氷が全部溶けて床がビチャビチャということがよくあったものです。90年代の夜には通販番組!もっとも、この曲は玉置さんが楽屋でテレビをつけたまま仮眠していて画面には昼のマダム向け通販番組が流れていた、で、実はそれに生出演予定で待機していたら眠り込んでいたところをADが起こしに来た、って設定だとは思うんですが、当時のリスナーには強烈に90年代の夜を思い出させる演出なのです。

「そろそろ起きる時間なんですけど」に答える玉置さんの「どして」、「だめです玉置さん」に答える「なんで」ですでに歌が始まっています。

で、歌の内容は、めちゃくちゃヘビーな性的内容なわけです。なんだこりゃ、ぜんぜん整合性がないじゃないか!さっきまで通販番組だったのに!強引にこじつけるとそういう濃厚濃密な性的生活の合間にムリしてオールバックでTVに出てやりたくもない仕事をやっている、仕事が終わったらさっさとバイクに乗って恋人のもとに舞い戻りまた性的な時空にどっぷりダイブインの「スーパーマン」であるところの玉置さんを描いたものだということはできます。ただねえ、いくらなんでもこんな生活しているわけないじゃないですか。だからかなりマンガ化してますよね。

曲は、「デューンデューンデューン!デュッデュッ!デュデュデュッ!(パララン)」とボーカル重ね録りで作った大コーラスがあって、その後なにやら神楽で使われるようなシンバル(サルがもっているような小さいやつ)にカツカツとしたパーカションで始まり、ベースの高音部で少しずつリズムにリフのメロディーを混ぜてゆき、玉置さんの「えばるんじゃないぞ」を合図にピアノが入り一気にリズムからメロディーの世界へと突入します。ピアノ「ジャッ!ジャッ!ジャジャジャッジャジャッジャッ!」二小節に一回「ブイー!」と音程の上がるベース、クランチトーンでミューミューキュイーいってるギターと、おそろしくキャッチーです。うおーこれはメロディアスでリズミックな感動的ナンバーに違いない!と期待させますが、その期待を裏切り玉置さんはなにやらしゃべり始めます。うっ!これはおれの嫌いなラップだ!玉置さんはわたくしなんぞよりも遥かにいろいろな音楽を楽しむ方ですのでラップを歌っても何の不思議もないのですが、わたくし勝手にガッカリ(笑)。ガッカリしつつももちろん聴き続けます。それは、玉置さんのラップはラップですがラップでないというか、歌心があふれるラップなのです。いま思えば90年代はラップの時代でした。いまもってわたくし違いがわかっておりませんが、90年代後半からはヒップホップなるジャンルがラップと呼ばれるものと混ざってゆき、いつのまにかとってかわっていったように思います。わたしからみればラップだろうがヒップホップだろうがグライムだろうが、全部同じです。モーニング娘とAKBとナントカ坂、ぜんぶ見分けがつかない自信があるわたくし、そんな細かい違いを理解するなど不可能です。数学の苦手な人に微分や積分の区別がつかないのと似たようなものですかね、ぜんぶ謎の記号と数式にしか見えないわけです。

そして何やら卑猥なことを喋り切った玉置さん、「じゃあねえ〜その子を鍛え直して〜」でいつのまにかベリースムーズに歌の世界に移行してゆきます。歌詞カードでは「そこから」ですが「そっから」と歌い、「どっかで」「せっかく」「びっしょり」と韻を踏み、「どうやって」も「どやって」と歌うことで「習って」「やって」「かいて」と韻を踏みます。玉置さん一流の超メロディアスでリズミックなサビにこういうリズムを引き立てるような歌詞を合わせ、『LOVE SONG BLUE』から生まれてきた曲と歌詞の一体感ここに極まれり、一回で全部覚えてしまうとんでもない融合爆弾を脳髄に叩き込んできます。

さらにサビは終わりません。前曲「闇をロマンスにして」で確認されたばかりのサビ二段重ね戦法に、為すすべなくノックアウトされます。大砲を打ち込まれて大破したトーチカにマシンガンを念入りに掃射され、生存者確実にゼロの酷い状況です。イントロからすでに示唆されていたギターのカッティングが合いの手のように響き渡りベースも二小節に一回「ブイー」と音程を上げ続けます。それをバックに「そんなん無理〜」「絶対無理〜」と、ルーズな心情の吐露がメロディアスに歌われ、その合間にまた卑猥な喋りが挟まれるというハイブリッド構成になっています。歌詞的には情けない内容なんですが、このハイブリッド構成のおかげか非常にテンションは高い、性格にはルーズ→ハイテンション→ルーズ→ハイテンションのミルフィーユになっていて心身を上下左右に引き裂かれんばかり、もうそそそんなの無理!そして「お池に「はまって」」と何故か「」の書かれたよく趣向のわからない記述なのに歌としてはスルッと心に入ってくるとんでもない一節!どんぐりじゃあるまいしスーパーマンが池にハマるわけはありません。つまりスーパーマンが湖沼めぐりの趣味にどっぷりハマったか、何か卑猥なことの比喩なのかでしょう、たぶん後者です(笑)。

曲は、間奏というのか?ギターとピアノが不規則っぽく慣らされ、玉置さんがいろいろ笑ったり喋ったり、AD?の「そろそろ起きる時間なんですけど」もサンプラーで「そろそろ起き・そろそろ」のように重ねるように挿入され、実にカオスです。このカオスな感じは『カリント工場の煙突の上に』以来でしょうか。演奏的には『CAFE JAPAN』中「Honeybee」のノリが最も近いのですが、そこに『カリント工場』発のカオスをミックスさせるという手法を採ってきました。これは天才すぎます。玉置さんの音楽をずっと聴き続けてきたからこそ経過がわかるだけで、こんなこと聴いたあとじゃないと思いつきませんよ!一聴して信じがたい手法のミックスに圧倒されます。

そして歌は二番、また卑猥な喋りなんですが、「ずっとそうやってやってれ(n-)ひとりで!」のように、北海道弁を交えながらもの凄いリズム感覚で一気に歌います。喋るように歌っているのか歌うように喋っているのかいずれとも判じかねるのですが、ともあれラップ嫌いのわたしが聴いていて苦痛でないどころか耳を奪われて聴き入ってしまいます。

ちなみに、北海道弁は命令形が「やってろ」でなく「やってれ」なんですよ。仮定形・已然形と命令形が同じなわけです。これは東北〜チバラギにも共通する方言文法なんですが、もう当時でさえ口にしなくなって久しい故郷の言葉でしたから、ちょっと道産子魂を刺激されました。

さてしゃべりはまだまだ続きます。ちゅ、注射?糖尿病でインシュリンとか打ってるわけじゃないでしょうから、やはり非合法的な……?何やら犯罪のニオイがしますが、90年代というのは第三次薬物乱用ブームでたいへん乱れた時代でもありました。「アッパー系・ダウナー系」「スピード」などの隠語が少年少女の読むマンガ誌にまで散見される有様で、それがまた世紀末感やバブル崩壊後のデカダンス感をリアルに表現していたのです。けっして当時の若者がみんなクスリ漬けだったわけではなく、また性行為に「バイブレーション」などの道具を使うことに大ハマりしていたとかそういうこともなく、これは一種の退廃的な雰囲気を演出しているものだと解釈すべきでしょう。

曲はサビに突入、うーむ、これも韻を踏みながら卑猥なことを……これが卑猥なこととわかるのは90年代の若者だからでなく、普遍的にみんな分かると信じたいところですが(笑)、まあ、試行錯誤というか、夢中になっている感が非常に高く表現されていますよね。

そして二段重ねサビ、困難なGAME、人間のGAME、人生のGAME……ゲーム感覚でやっていいことと悪いことがあるというのはもちろんみなさんご了解いただけるものと思うのですが、若いやつってのはパー、少なくとも当時の若者であったわたしたちは……いやわたしの周辺は……いやわたしは(笑)パーと言われても仕方がなかったかもしれません。性行為は「攻略」するようなRPGのダンジョンではありません。性行為だけでなく人づきあい、男女交際、人間、人生……ゲームだとしたら攻略難易度高すぎなんですが、どこか地に足がついていなかったというか、真剣でなかったように思います。当時はスーパーファミコンからプレイステーション、セガサターンに主役が変わった時代で、アーケードゲームだけでなく家庭用ゲームも一気にリアルになりました。リアルったって現代のゲーム機からみたら笑っちゃうようなカクカクポリゴンなんですけど、ともかくゲームのほうからリアルに近づいてくるような感覚があった時代なのです。ゲームセンターからは「あなたにはクンフーが足りないわ」などとひっきりなしにリアルな声が響いていました。ですから、玉置さん世代からみたら、わたしたちの世代というのはゲームと人生の区別があいまいなアホ世代にさえ見えたかもしれません。中学生が進路調査票に「第一希望 勇者、第二希望 賢者」と書いたとか書かなかったとか激烈バカなウワサが流れはしたものの、そこまでアホだったのは一部で、みんなちゃんとゲームとリアルの区別はついていたとは思います。そして玉置さんが「じーん、じーん、じーん、じーん生NO GAME!」(人生はゲームじゃないんだぜ)と連呼し、最後に「いつものリズムで陽気なスーパーマン」と歌い上げます。曲はここに間奏らしき重厚なギターソロが挟まれていたんですけども、言及のタイミングを逃すほどシームレスに組み込まれていたので、あとからになってしまいました。そして歌が終わりまた間奏のようなカオス、そのカオスのまま次曲「さよならにGOOD BYE」へと流れ込んでいきます。この二曲は一体のものとしてつくられていたのでしょう。

さて、この記事はもう十日前から書き始めていて、もうすこしで書き上げてアップせんばかりだったんですが、突然飛び込んできたニュース、田中さんの訃報に打ちのめされて、書き上げることができずにいました……ほんとうに……言葉になりません。わたしみたいに安全地帯の曲を面白おかしく書いていていいのかと悩みました。でも田中さんがくれたたくさんのものを、ほんの少しでも世に残すことになるのかもしれないと考えて、このブログを再開させることにしました。

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感想(1件)



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posted by toba2016 at 10:29| Comment(0) | TrackBack(0) | JUNK LAND

2022年12月25日

田中裕二さんへ

訃報(公式サイトより)

田中裕二さんへ。

忘れません。

あなたのドラミングは安全地帯にあって、そして玉置ソロにあって……たしかにこの世にあったのです。

そしてこれからも数多の作品の中で生き続けるのです。

だからこれまでも今日も、そして明日からも、瞳を閉じてあなたのドラミングに耳を澄まします。

そしてぼくの血や肉になってくれたそのリズムを受け継ぎ、

とるにたりないぼくの作品の中に、その骨格としてこの世に残してゆく、

そんなほんのささやかな恩返しを、ぼくにさせてください。

どうか安らかにお休みください。

posted by toba2016 at 10:36| Comment(2) | TrackBack(0) | その他

2022年12月18日

闇をロマンスにして

玉置浩二『JUNK LAND』二曲目、「闇をロマンスにして」です。

これはもう……初聴時は言葉がなかったですね。新しい形のロック・ポップスを脳髄に叩き込まれて呆然としました。なんてこった!前曲「太陽さん」が別段アップデートなしでもわかる良さだった、ただし超弩級の良さだったわけですが、この「闇をロマンスにして」は新しい時代の玉置ロック・ポップスを聴いていないとちょっと追いつけない部分のある良さだったのです。なんだいまのは!80年代にはじめて「あなたに」とか「」とかを聴いて「いい歌」ワールドの構図が一度ガラガラと崩れ落ち、またすごい勢いで組み替えられて再生されてゆくような快感を味わいました。

「常に新しいのを聴いてないと成長が停まるような気がする。昔から同じものを聴いているとか、一回聴かなくなったものをまた聴くようになるとかしたら、そこが停まった時点だと思う」(うちのドラマー談)

当時、オルタナとかラウド系とか、新しいタイプのロックがロック好きの間で話題になったんですが、わたくしとんと興味がありませんで、中学生くらいから大して変わらずJUDAS PRIESTやLOUDNESSがメタルの最終進化形態という態度でした。もちろんNIRVANAやALICE IN CHAINSなども見事に素通りしており(いちおう聴いてはいるんですよ?たんに好きでないってことです)、ましてや、小学生のころから安全地帯・玉置浩二こそが至高であってそれを一度も変えたことのないわたくし、成長など微塵もしておりません(笑)。人それぞれでいいじゃんと思わなくもないのですが、バンドメンバー間でそれがすれ違いますと案外大問題でして、しばしば「音楽性の違い」で解散せざるを得なくなるものです。「あ、ああ、そうかもね」とやり過ごし、とりあえずデモづくりにはドラマーの車で聴いた現代ヘヴィネスのエッセンスを超適当に盛り込んで、絶賛成長中メタルソングライターの体裁を整えるのでした。

ですが、この「闇をロマンスにして」はそんな小手先のアップデートではありません。全面リニューアルに近いガッツリアップデートです。何が違うって、その抑揚と美麗なメロディーの一体感です。カツカツとパーカッションが刻まれて始まるのはこれまでのソロ作品でもなかったわけではありません。そしてその後ルーズな感じでいろいろな楽器が入るのもこれまでに類例のあったところです。ですが、歌が入って最初はなんかルーズな歌メロだなーと思っているうちにみるみる引き込まれて知らぬ間にいつの間にかテンションも歌メロの魅力もマックスになるこの不思議な浮揚感はあまり経験がありません。ベースがプウーンプウーンとスライドしてそれを煽るようにキューンキューンと入るギター、「ye...ah」とため息のようなボーカル、突如入る旋律、なんでしょうね?何か鍵盤だと思うんですが、弦楽器のような震えも感じられますので、もしかしたら12弦キターとかそういうわたくしあまりなじみがないギターかもしれません。奥で小さくピアノがアルペジオ、これが歌のバックでコードを刻んで存在感が大きくなります。ここで一段階ギアチェンジですね。この段階では、四拍めのタンバリン効いてんな〜でも抑揚の少ない歌メロだし歌詞もピンとこないななんて思っているんですが、ダダンと展開が変わりさらにギアアップ、一気に歌の世界に引き込まれます。「愛情を〜(をー!)もって〜(えー!)」と重厚なコーラスが合いの手に入り、「ロマンスにして〜」でボーカルとハモリコーラスが一緒に美麗に歌うことでテンションマックス!なんだったんだあのルーズな始まりは!というくらい美しいボーカル、コーラスワークで三速くらいから一気に一気にトップギア!おお!攻めてくるな!と驚かされます。しかしこの歌が凄いのはさらにここからで、すでに「闇をロマンスにして」と歌のタイトルを歌ってしまったのですからそこが最高の盛り上がりなはずなのに、まだサビが終わらないのです。「真実にいつだって〜」とシフトレバーをガツガツと下ろしてゆきエンジンブレーキがグワングワンと感じられるあの心地よい感触!「ありがとう〜」とハモリコーラスで巡行するかと思いきや、「少し無理して」とギアアップ、「僕を〜」と心地よいギターがギュイギュイさらにシフトアップ、「見つめて〜」ギュイギュイ!ギュイギュイギュギュギューギュー!とサビの余韻をワウの効いたギターで引きとります。

ふう……!これは凄い!ここまで、Bメロかと思いきや実はサビだった長いワインディングロードを右に左に、やっと130Rを抜けたと思ったらさらにキツいコーナーが二連続くらい、息もできないくらいの緊張感で駆け抜けてきた心地よい疲労感にぐったりです。何だいまのは!こんな曲、前代未聞だ!

曲は間奏もなく二番に突入します。構成もアレンジも基本は同じなんですが、ワウのギターだけはさらに自由闊達にアオリを入れてきます。これが闇の中を私たちにはわからないなんらかの見込みをもって歩き回る自由の歩みを思わせます。闇は一番ですでにロマンスになっているのかもしれません(笑)。そして前奏のフレーズを繰り返し、また楽器が減ってゆきベースがプウーンプウーン、最後にはパーカッションだけになり、フェードアウトしてゆきます。一番二番と三分足らずの間に繰り返されたこのサーキット走行、まるでワークスチームのタイムアタックのようにあっという間に終わってしまいました。これはこれが最適の長さであって、三番などもってのほか、間奏すら要らないと判断なさったのでしょう。おそらくは、リスナーがあまりの抑揚とそのメロディーの美しさというか吸引力、スピード感にボヤっとした状態のところに次のカオスナンバーワン卑猥ナンバー「NO GAME」を叩き込むという作戦なのです。これは効きます。失恋とか復縁とかそういうわりとしんみりした気分だったところに、いきなりハッスルでぐったり濡らしてきます。アルバムってこういうふうに作るもんなんだよなーと、当時この「闇をロマンスにして」で感じさせられたものです。もちろん初聴時はノックアウトですからあとから何回も聴いて気づいたようなことですけども。

さて歌詞なのですが、これはもう恋が終わりかけている、もしくはもう終わっている段階の物語ですよね。「始めた頃」は闇でした。なんにも分からないからです。いまはいろいろ分かって来てますが、今後の見通しが立たないという別の「闇」にハマりこんでしまっています。どっちも闇なのだから、始めた頃の闇だと思ってやり直せばいいんじゃないかという、驚きの逆転発想です。いや、これは気づかなかった!ぜひそうしよう!とはなかなか思えないくらいスーパーブルーな関係に陥っていることが想定されるわけですから、これはなかなか言えるもんじゃありません。たしかに「なくしたもの」はたくさんありますし、最初からやり直せばまた見つけることができるのかもしれません。でもなあ……「少し無理して」じゃないと、いやかなり無理しないと。

これまで長い道のりを歩いてきたし、それもボヤっと歩いていたわけではなく路傍の花もできるだけは摘みとろうと努力してきたつもりです。だから、これ以上一緒にいても明るい未来はなさそうだということが何となくわかってしまっています。真実にありがとうっていう余裕もあるんだかないんだか……そういう日々のいろいろに感謝する態度というのは、けっこう余裕のある時、あるいは気分が一新されて新鮮な視点のもてるときにこそ採りうるものであって、もうすっかり慣れて飽きてしまった恋人と一緒に共有できるものではないのが人情ってものでしょう。それでも「一緒に歩かないかい」「腕を組んでいけばいい」と玉置さんは呼びかけるのです。これは、底抜けの楽観を思わせるものでもありますが、人知を超えたレベルのやさしさと希望がなければできるものじゃありません。旧愛を復活させ、四十年を超えて安全地帯を継続させている玉置さんがそのように人を愛する人であるというのは令和の現代でこそ多くの人が知るところとなっていますが、当時は誰も知らなかったのです。ただ歌だけが、それを語っていたのでした。現代でさえ玉置さんは歌はうまいけどひどくハレンチな人物だ的な人物評が多少残っていて、わたくしなどは、なんであの歌を聴いてなおそんな人だと思えるんだろう?と不思議に思うのですが、まあ、無理もないかもわかりません。多くの人にとってそんなスケールの大きい愛は倫理に抵触するように感じられますし、その時点で理解の外でしょうから。そもそも曲だってちゃんとは聴いていないのでしょう。誰だって気の向かないものを聴きこむ義理なんてありません。違うんだ!玉置さんの愛はそんなものじゃない!キミの想像の範囲に収まるものだなんて思ってはならない!この曲を、アルバムを聴くんだ!とか言ったってムダに決まっています(笑)。もったいねえなあ……。

そんな玉置さんのスーパーマンな愛情が強く感じられ、かつサーキット走行のようなスリル満点の曲だといえるでしょう。

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posted by toba2016 at 14:22| Comment(2) | TrackBack(0) | JUNK LAND