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玉置浩二『GRAND LOVE』十二曲目、「ぼくらは…」です。この曲でこのアルバムも終わりになります。
このアルバム全般に言えることなんですが、玉置さんの声が生々しく耳元で響きます。「ぼくらは〜」と歌だけで始まるこの曲ではなおさらその衝撃を強く感じることができます。初聴時にヘッドフォンでなかったことを後悔するほどです。
「ぬー」とも「ふー」ともつかぬ低音のコーラス、重ねられたシンセ、これが通常ベースが表現する部分を担当する強力な演奏となっています。そしてこれまた低音の打楽器が「タッ…………タタッ…………ドドドン!」とリズムを取ってはいるのですが、これは曲のリズムというよりも、生命の鼓動を表現しているんじゃないかと思うくらいバイオリズムというか血の流れというか、脳を含むなんらか身体の動きに直接響く効果をもっているように思えます。
時折響くギターのクリーントーンによる細かい高音のリック……その少し歪ませたもの、低音のピアノ、これらが歌の裏に入ることで、静謐さを増します。森の中は動物植物だらけですし、風は吹くし樹々がざわめくし葉擦れはするし沢は流れるしで、本当は音だらけなのにわたしたちはそれを静かだと感じますよね。人工の音が入るとそれを音と認識するのに、森の自然な音はあまり認識しないわけです。玉置さんの作り上げたこの曲は、明らかに人工の音でありながら自然の音なんじゃないかというくらい静かなのです。安藤さんのピアノがあるという環境でなければこの境地にはたどり着けなかったんじゃないかとわたくし考えているんですが、おそらく安藤さんはこの曲でも玉置さんの作りたい音にスバリな形で応えたんだろうと思います。
ぼくらは……君と手をとり……え?「君」はぼくらに入ってないの?と初っ端から違和感を感じますが、ここでの「ぼくら」はたぶん人類とかそういう意味で、「君」はもちろんその中に含まれているんだけども「愛しい人、かけがえのない存在」くらいの意味だろう、とあまり深く考えないのが吉だろうと思い直して、詞の世界を味わってみたいと思います。
手をとる、歩く、みつめる、わかる……全部書くときりがないのですが、この歌詞にはひとつも人工物がありません。『JUNK LAND』のジャケットで全裸になった玉置さんそのままの、人工物ぬきの、自然の姿です。ガラクタだらけの東京から裸になって逃れてきたわけですから偶然ではないんですけども、人工物をひとつも歌詞に入れないようにしようと心がけて書いたわけじゃないと思います。玉置さんの心情・心境、今後の生き方への決心が歌詞から人工物を排する結果になったのでしょう。
愛しい人が欲しい、だから悩む、人と人だから、そこには合図が生まれ、それを交わす……人類が人類と呼ぶにふさわしい知性を獲得した太古の昔から、わたしたちは、「ぼくらは」これを繰り返してきました。何十年前も何百年前も……何百万年前でもきっとそうだったのでしょう、それこそ「嘲笑」の歌詞(ビートたけし)で描かれた時間軸に迫るほどのスケールで、人と人とは交信・交流を重ね、愛しさを発生させ育んできたわけです。
「Ummm〇×△□!」と玉置さんが叫んでキーが変わります。一音アップですね。玉置さんの歌が、こうした人生の、いや人類の歴史全部を称えるように、叫ぶように、歌います。まさにGRAND LOVE壮大なる愛の詠唱です。近年のシンフォニックコンサートで聴くことのできるような、感情をそのまま眼前に生の姿で突き出してくるような鬼気迫る歌い方の原形をここにみることができます。「君」の涙を拾うと……涙という合図の意味は様々です。たんに異物が目に入ったこともあれば、歌に感動したこともあるし、はてまた別れがつらいこともあるでしょう。ぼくらは、その様々な意味を推理します。とはいっても、なんの手がかりもなければ目のゴミも歌の感動も同じような可能性しか持ちません。ですから、ぼくらは考えるのです。感じるのです。自分だったらこのときどうして涙を流すだろうかとほとんど無自覚に考えて、その意味をかなり的確に察知する能力をもっているからです。「マインドリーディング能力」と専門家が呼ぶ、人類においてとくに発達したその能力は、ぼくらにとってはごく普通のことでまったくそんな能力を自分たちがもっているなんて自覚すらしていません。相手に、自分と同じような心があると無自覚に前提して、自分の心だったらこの反応をするのはどのようなときかという推理を一瞬のうちに済ませることができるのです。おそらく人類がまだホモエレクトゥスとかいうサルだったころから、自然選択の結果として先鋭化させ発達させてきた能力なのでしょう。KYとかはたんに程度の問題であって、しかも大した違いじゃありません。現代人類はひとしく、すくなくとも数十万年の進化の結果としていまここに生き残っていて、互いにマインドリーディング能力を発揮させながら生きているからです。ですからぼくらは「君」の涙の意味を知り、そして手を振るんです。大丈夫だよ、愛してるよ、ここにぼくがいるよって、合図を送るんです……ここにぼくがいたよ、幸せだったよ、できることならまた会いたいね……と合図を送りながら、穏やかに死んでゆくんです。
曲は鳥の声を思わせるシンセ音からフェードインの大音量でギターのトリル、いくぶん大きくなった感のあるパーカッションにリズムをまかせ、ジャーンと鳴るピアノ、薄いストリングスをバックにそのままギターソロに入ります。ずいぶんリバーブのかかったギターなんですが、不自然なところはありません。そのままホーミー(コメントで教えていただいたモンゴルの発声法)のような……ただこれもギターでしょうね、音色の違うギターでのソロに引き継ぎ、掛け合いをしながら曲は終わっていきます。そのホーミー的な音が、モンゴルの大草原、いっさいの人工物が見あたらない大地を空から眺めている視界の広がりを感じます。さらにはそのギターが途切れるタイミングで鳥の鳴き声が聴こえて、徹底的な自然の静謐さを表現しようとしていることに圧倒されているうちにこのアルバムは終わります。ここはそのまましばらく余韻を味わうべきタイミングなのですが、わたくしうっかりしていてライブラリの次の曲である「太陽さん」が流れてハッとしました(笑)。いかん、CDだとここで自動で止まるから忘れていた!
【追記】ギターギター言ってますが、志田さんの記事により、これは玉置さんの声にギター用のディストーションをかけた音だということがわかりました!
さて、おかげさまでこのアルバムも終わりました。今年はちょっと忙しくてというか本業や地域のことにちょっとマジになってしまって(笑)、ここ三年くらいのなかでも更新ペースが遅くなっているほうなんですけども、いったん止めるともう年単位で止まっちゃうのは経験済みですんでなるべく種火を絶やさないように続けて参りたいと思います。次は久しぶりの安全地帯、『ONE NIGHT THEATER』を扱う予定です。どうぞ引き続きの御贔屓を!
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誕生日おめでとうございます!
どうも有難うございます。
そして、これからも宜しくお願いします。
こちらこそ、よろしくお願いします。
なんちゃって。
DVDでもその出来事が描写されてましたよね。おお!マー姉ちゃんのお隣!それは貴重な……楽屋突撃とは!さぞびっくりなさったんでしょうね。「ああなっちゃったんだよね」としか言いようがないものなんだと思います。
同郷、しかも同じ居住区で育ったこともあり、「カリント工場〜」同様、原風景を感じる楽曲です。民謡の要素、ルーツを感じるこの曲をこよなく愛しています。
このアルバムツアーは4回聴きに行かせて頂きました。最終日だったか、国際フォーラムでのあの出来事。当日は熊谷真美さんの隣で聞いていました。中止になった際、混乱した真美さんから「私楽屋行ってくる!」と声をかけられた記憶を思い出します。初めてお会いしたんですけどね(汗)
色々な思い出の詰まった一曲であることは確かです。
わたくしのこのようなブログでもお役に立ててるのなら幸いです!若いときにできなかった、思う存分安全地帯や玉置浩二の音楽を語りたい!という一念で書いてまいりました。途中二年くらいほとんど休んでますけど(笑)、それでも何年もやってこれましたのは、このように頂くお声のおかげです。純粋に自分が書きまくりたいだけだときっとこのようにはできていないと思うのです。読んでいただいてる皆様、お声がけ頂く皆様に、重ねてお礼申し上げます。
やはり玉置浩二が滲み出てますよね。「ギターでもあのような音を出せる」、まさに私などは未経験ゆえにそこの認識がいい加減なので、玉置さんとギターが急に融合しても、「まぁそういうこともあるのかな」と受容してしまうのかもしれません(笑)
こちらのブログのおかげで、それまで素通りしていた音を捉えられるようになったり、奏者目線の話を知ることができたり、後追いファンとしても本当にありがたく拝見しております。
次回も楽しみにしています!
トバさんのブログにはいつもヒントを頂いております。
終わりのギターの掛け合いなのですが、ホーミーと表現された部分が玉置さんの声である可能性は低いのでしょうか?ギター→玉置さん→溶け合いながらギター→ギター(ラスト)、という風です。
実は、XIIIの冒頭と同様に声を加工してギターのように歪ませているものとばかり思っていました。
私自身は楽器経験がなく音楽知識も薄弱のため、いつもなら勘違いを正して終わるのですが、この曲を初めて聴いたときに、ギターとの境界を喪失した玉置さんの咆哮(だと思い込んでいた)に衝撃を受けまして、GRAND LOVEでいちばん好きな曲になったのです…。
なので、できれば玉置さんの声であってほしいなぁ…という超個人的な願望があり、恐縮ながらダメ元でお伺いをしてみた次第でございます。
とはいえトバさんの解説を読むと、この曲の前では声かギターかの違いなんて些細なものだと気付かされますね(笑)
今回も素晴らしい記事をありがとうございます!
この曲はあまり言及されることがなかった、少なくともわたしの周りでは聞いたことが全くない、さらにいうとこのアルバム自体話題になったことすらないのです。そんなアルバムの、シングルでもない曲を最高と言って喜びあえる人がいるのは幸せなことだなあと思います。ありがとうございます!
最後は、民謡を唄っているいるようで、ある種のルーツを感じていました。
人間の精神も肉体も自然のものであって流転するものなのですから、人工物のような静止したものとはリズムが違うわけです。ですからわたしたちはその壁を破ろうとして文芸を残そうとするのかもしれません。文章は何百年経ってもまるでその人がいまものを考えているかのように思える精神の記録ですし、音楽はまるでいま演奏しているかのような精神と肉体の記録です。Youtuberが自分たちのことを「クリエイター」と呼んでいるのも、あながち大間違いでないのかもしれません。まるで今そこで何かを考えて行動しているかのような動画を残していますからね。
しかしまー、物価が露骨に上がってますねえ。いままで物価が上がったっていったって、スーパーとかが頑張って吸収してそんなに差額感じない程度の値上がりだったのに、今回はモロに食らってる感覚がありますね。あんまり人工物に依存した生活してると、何もかも値上がりで身動きとれなくなります。考えてみたらアホな話です。原資である太陽の光と雨は決して値上がりしていないんですから。だからそういうアホな仕組みから距離を取りたくなるわけです。音楽だってそうです。打ち込みだのAIだのって、依存すると身動き取れなくなるに決まってます。だから軽井沢時代には玉置さんは太陽とか雨とか、そっち側でありたいと思ったんじゃないかな、なんて思うわけです。
またトランペッターの近藤等則さんが、人間の作った場所でない自然を舞台にして、地球を吹く!と言ってやられてましたが、社会から逸れ、自分の道を切り拓いていくと、社会からお前は違う、と制裁を受けるが、それにへこたれては自分の道は切り拓けない、みたいなことを言ってました。皆、それが出来ず悩むのです。本物のミュージシャンは自分が一番気持ちのよい表現方法を、きっとみつけて知ってるはずです。
要は、生活環境さえ整えられたなら、次は何をやっても本来は自由なはずなのですが、皆、そこまで行ける人は少ない。いい暮らし、快適さを求め過ぎれば結局、不自由な精神で好きなことを追求していくのが逆に困難になるのかもしれません。
人間を本能が壊れた存在だと。
こんな偉そうなことを言っておいて、私はこの物価高にぶっ飛び、来週からは自弁和歌山に戻すことにします(笑)家計がひっ迫感半端ないです。半端そうにNOです。出羽。