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2023年12月29日

本多忠勝の娘・小松姫のお墓(鴻巣市)勝願寺

本多忠勝の娘・小松姫は、政治的な理由を背景に、真田昌幸の長男・真田信幸に嫁ぎました

一般的には、利発ではきはきとした才色兼備の女性と伝わっています。勇敢な逸話として、関ヶ原直前に夫の信幸と袂を分かつことになった真田昌幸と信繁が沼田城に立ち寄ろうとしたところ、留守を預かる小松姫がこれを門前払いしたという話が伝わっています。さすがは本多忠勝の娘ですね。

<勝願寺本堂>
Shoganji-Kounosu.JPG
徳川家と縁の深い埼玉県鴻巣市の勝願寺です。ここには小松姫の墓があります。

なぜ鴻巣に?

<眞田小松姫の墓の説明板>
Shoganji-Explanationboard-Komatsuhime.JPG
小松姫は生前、勝願寺住職の円誉不残に深く帰依していました。その縁から、一周忌に際して信幸(信之)の次女・松姫(見樹院)が分骨し、境内にお墓を建てたようです。本廟は長野県上田市の芳泉寺にあると記されています。

ここに記載はありませんが、小松姫は病気を患ったため、療養のため江戸屋敷から草津温泉に向かう途中、鴻巣で没したそうです(48歳没)。鴻巣は中山道の中でも比較的大きな宿場。ここで体を休めたものの、病気が悪化したということでしょうか。

<小松姫の説明板>
Familytree-Komatsuhime.JPG
小松姫は本多忠勝の娘ですが、徳川家康の養女となってから真田家に嫁いだという説が有力です。言い換えると、家康の家臣の娘ではなく、家康の娘として真田の嫁となりました。

ところで
信幸(信之)と小松姫の子として信重の名が記されていますね。信重は信濃埴科藩第2代藩主になりましたが三男で、兄も姉もいました。なぜ信重だけが…?

実は、真田信重も亡くなったのは鴻巣でした。そしてここ勝願寺に墓があります。小松姫が亡くなったのは1620年、信重はずっと後の1648年ですので、直接は関係ありません。

ただ
こんな偶然もあるのですね

<墓所>
Konosu-Temple-Shoganji-Graveyard-Samada-Family.JPG
やや離れたところから撮影したうえに、墓石にはぼかしを入れさせて頂きました。大きな墓が並んでいる雰囲気は伝わると思います。一番手前は、小諸藩主にまでなった仙石秀久の墓。こちらも江戸から小諸へ帰る途中に発病し、鴻巣で亡くなったそうです。

そして中央の大小2基が真田信重と正室(鳥居忠政の娘)の墓です。夫婦の墓が並んでいるわけですね。そして、その更に奥が小松姫の墓となります。母と子供夫婦の墓が並んで建てられている構図になります。

小松姫の遺骨は、今回ご紹介の勝願寺と上田の芳泉寺、そして沼田の正覚寺の三か寺に分骨されたとのことです。

■訪問:
眞田小松姫の墓(勝願寺)

[埼玉県鴻巣市本町]8丁目


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■参考及び出典
・現地説明板(勝願寺)
・現地説明板(鴻巣市観光協会)
・Wikipedia:2023/12/29
タグ:埼玉
posted by Isuke at 22:28| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2023年12月28日

参道の脇の土塁は何なのか(鴻巣市)勝願寺

鴻巣市の勝願寺にお邪魔させて頂いた帰り、気になる光景に足が止まりました。

<盛り土>
Raising-Ground-Konosu-Temple.JPG
この盛り上がりは何だろう?

場所は勝願寺の参道沿いです。何かの塚?古墳?あるいは治水のための堤の跡か?

あと思いつくのは防衛のための土塁。というより、一度そう思ったら、そういうふうにしか見えなくなりました。寺が軍事的な意味を持ち、まるで砦の如く土塁や堀が設けられている例はたくさんありますよね。

<勝願寺惣門>
Konosu-Temple-Shoganji-Main-Gate.JPG
勝願寺は古い歴史の寺です。大昔はそんな意味があったのではないか?

陣城として利用されたことがあっても不思議ではなく、更に、あの徳川家康が何度も訪れた寺ですので、警護のための土塁が設けられても不思議ではありません。


結論を言うと
調べに調べましたが、そんな証拠は見つけられませんでした。

Unnatural-Scenery-Konosu-Temple.JPG
じゃこれなに…

現地に説明板でもあれば、ここまで考え込むこともなかったでしょう。城跡巡りを趣味にしていると、土塁にしか見えなかった。もっと正直に言うと、土塁と思いたかった。それだけの話です。成果はありませんが、現地で似たような感覚をお持ちになる人がいるのではないかと思い、投稿させて頂きました。

古墳ですかね?

以上、勝願寺訪問の追記でした。妄想にお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:勝願寺
[埼玉県鴻巣市本町]8丁目
タグ:埼玉

伊奈忠次・忠治墓所(鴻巣市)勝願寺

徳川家康の国造りの陰の功労者である伊奈忠次・忠治親子の墓所を訪ねました。

<惣門>
Konosu-Temple-Shoganji-Main-Gate.JPG
鴻巣市の勝願寺です。号は天照山良忠院。浄土宗の寺院です。

<栴檀林>ぜんだんりん
Konosu-Temple-Shoganji-Name-Plate.JPG
僧侶の養成所を意味しています。勝願寺は関東における浄土宗の僧侶養成のための十八カ寺(関東十八檀林)のひとつです。

<仁王門>
Shoganji-Nioumon-Kounosu.JPG
もともとは結城城から移設された仁王門がありましたが明治に焼失。再建された際に秩父の三峯神社から贈られた仁王像が立ち並んでいます。

<鐘楼>
Konosu-Templebell-Shoganji.JPG
屋根をよく見ると、三つ葉葵の紋があります。

<本堂>
Shoganji-Kounosu.JPG
鎌倉時代創建の古い寺院です。16世紀末期に清巌上人によって中興されました。

こんなにも立派な寺院を拙ブログではご紹介できませんので、のちに深い関りを持つことになる徳川家康、そして伊奈氏との接点に話を絞ると、戦国時代末期ということなります。鷹狩りの際に勝願寺を訪れた家康は、住職(円誉不残)の教養と徳の高さに感銘を受けます。自ら帰依するとともに、同行していた伊奈忠政と伊奈忠家らに檀家になるように命じました忠政は伊奈忠次の長男、忠家は父です。勝願寺と伊奈氏の関係は、おそらくこの時から始まったわけですね。

<伊奈忠次・忠治墓>いなただつぐ・ただはる
Konosu-Temple-Shoganji-Graveyard-Ina-family.JPG
こちらが伊奈氏墓所です。周囲の墓と比べれば大きく立派なため目立ちますが、関東郡代(厳密にいうと関東代官頭)という役割を担ったことを思うと、やや地味な印象です。ただ、この辺りが、いかにも庶民に信頼された役人という感じもします。4基の墓(宝筺塔)が並んでいるので、忠次と忠治、他も伊奈家当主のものかと思いましたが、それぞれの妻のものとのこと。この時代にして、夫婦が並んでいるという構図です。

<説明板>
Konosu-Temple-Shoganji-Explanationboard-Ina.JPG
伊奈忠次と忠治に関する説明が記されています。私の主観も入りますが、引用(『』内)を含めながら簡単に説明させて頂きます。

まず初代の伊奈忠次について
『三河国幡豆郡 小鳥の城主伊奈忠家の嫡子』として生まれ、徳川家康の近習を経て関東郡代に任ぜられ、武蔵国鴻巣・小室で一万石を賜わったと記されています。のちのち関東郡代を継承した伊奈一族始まりということですね。忠次は『関東各地を検地し桑・麻・楮の栽培や水利の便を開く等、関八州は彼によって富む』といわれたそうです。茨城県の特産物として有名な結城紬が、忠次の奨励によるものという話は初めて聞きました。きっとこれも功績の一例に過ぎないのでしょうね。
忠次は江戸幕府の財政の基盤造ったことで知られていますが、検地検税は忠次が採用した方法が基本となったようです。やがて『従五位下に叙せられ備前守に任ぜられた(のち大正元年正五位を追贈)』とあります。忠次が築いた水路が備前堀などと呼ばれるのは、この官職に由来しているわけですね。


次に伊奈忠治について
ここには記されていませんが、忠次には先ほど名をあげさせて頂いた忠政という兄がいました。関東郡代の2代目である忠政は、大坂冬の陣では外堀を埋め立てる際に奉行を任されるなど、徳川の家臣として既に活躍し始めていました。

ただ、忠政は34歳の若さで亡くなってしまいます。本家の家督はまだ幼い忠政の子が引き継ぎ、事業は弟である忠治が引き継ぎました。忠治はすでに独立していたので、実家(現在の伊奈町)とは別の足立郡赤山(現在の川口市)を拠点に活動しました。

続きは鴻巣市教育委員会さんの説明を転記させて頂きます。
『元和四年(一六一八)関東郡代を嗣ぎ、武蔵国赤山(現埼玉県川口市)に陣屋を構え七千石を領し、父忠次と同じく新田の開拓、河川の付け替え、港湾の開さく等に努めた。その在任は三十五年の長さに及び、幕府の統治体制確立の重要な時期に郡代兼勘定奉行として民政に尽くした功績はきわめて大きい。』

絶賛されていますね。初代の忠次あってのことですが、次男で3代目の忠治によって、伊奈氏の関東郡代としての地位は盤石なものとなりました。幕府直轄領約30万石を管轄する関東郡代・伊奈氏は、12代(約2百年)続くことになります。


<関東郡代の墓所>
Konosu-Temple-Shoganji-Graveyard-Ina.JPG
伊奈忠次・忠治親子は、全国的にはあまり有名ではありませんが、徳川家康から絶大な信頼を得ていました。幕府のおひざ元である関東において、治水や新田開発、検地といった仕事で国造りに関わった影の功労者の墓です。

■訪問:伊奈氏墓(勝願寺)
[埼玉県鴻巣市本町]8丁目


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■参考及び出典
・現地説明板(鴻巣市教育委員会)
・Wikipedia:2023/12/28
・こうのす広場HP
「勝願寺にでかけよう」

https://kounosu-portal.jp/article/shoganji_kounosu
・鴻巣商工会HP
「勝願寺」

https://www.syokoukai.or.jp/syokokai/kohnosu/060/20140403180048.html
posted by Isuke at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2023年12月24日

中山道鴻巣宿 将軍ゆかりの宿場町

<鴻巣本陣跡>こうのすほんじんあと
Post-Station-Center-Konosu.JPG
鴻巣宿の本陣跡です。中山道六十九次のうち、日本橋から数えて7番目の宿場でした。

WIKIさんによれば、江戸末期(1843年)の調べで、宿場内の人口は2千人以上、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠58軒とのこと。69ある中山道の宿場のなかで、比較的大きい方だったようです。

<旧中山道>
Cityscape-Post-Station-Konosu.JPG
この街並みは宿場として栄えたなごりです。鴻巣宿はもともと北本市にあり、中山道が整備された時に、北本宿を鴻巣宿として移設してできたとのこと。

また
鴻巣宿は将軍家ゆかりの宿場でもあります。徳川家康に始まり、秀忠、家光が鷹狩りの際に利用した鴻巣御殿もありました。

<鴻巣御殿跡>
ToshoguKonosu.JPG
Explanation-Board-Toshogu-Shrine-History.JPG
地元豪族所有の土地に建てられた将軍の為の御殿。跡地には東照宮が祀られました

<御成町>
Related-to-Tokugawa.JPG
将軍が御成りになった街です

<勝願寺>
Shoganji-Nioumon-Kounosu.JPG
Shoganji-Kounosu.JPG
境内のあちらことらに三つ葉葵の紋。徳川ゆかりの寺院です。


鴻巣宿は桶川宿と熊谷宿の間に位置し、将軍ゆかりの宿場であるとともに、忍行田道・松山道といった街道の分岐点でもあました。交通の要衝として栄えた鴻巣は、古くから雛人形の生産地としても知られています。

<本陣跡の標石>
Post-Station-Konosu.JPG
長きに渡って重要な役割を担った街なのです

私を含めた埼玉県民にとって、鴻巣は運転免許センターのある街です。用事だけ済ませて帰ってしまう方が多いと思いますが、せっかくですので、長くて深い鴻巣の歴史に触れてみては如何でしょうか。

拙ブログがそのきっかけになれば幸いです。

■訪問:鴻巣本陣跡の碑
[埼玉県鴻巣市本町]4丁目6-21


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■参考
Wikipedia:2023/12/24



-----------( 追 記 )-----------
宿場と直接関係しませんが、鴻巣は古くから源氏ゆかりの地でした。
<伝源経基館跡>
Castle-Ruins-Konosu.JPG
武蔵介となって関東へ下った源経基が館を構えたのは現在の鴻巣市でした

<大野神社>
Ono-Shrine-Konosu.JPG
古くは源仕(みなもとのつこう)が社を造営したと伝わります

また近年では花火も有名です
<鴻巣駅前>
In-front-of-Konosu-Station.JPG
四尺玉打ち上げで元世界一(重さ)
タグ:埼玉 中山道
posted by Isuke at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 街道・古道

小さな東照宮(鴻巣市)鴻巣御殿のなごり

埼玉県鴻巣市の「小さな東照宮」にお邪魔させて頂きました。

<東照宮>
Toshogu-Torii-Konosu.JPG
私の知る限り、もっとも小規模な東照宮です

<紫の幟>
Flag-Toshogu-Shrine-Konosu.JPG
通りにこの幟がなければ、素通りしてしまったでしょう。

<東照宮入口>
Toshogu-Konosu.JPG
石柱に「東照宮入口」の文字。この奥で間違いなさそうです。ただ、足を踏み入れて良いものか躊躇しました。

<狭い参道>
Approach-to-Toshogu-Shrine-Konosu.JPG
狭い…本当に通ってよいものか…。奥にも幟が立っていますので、とりあえず進んでいきした。なんとなく速足で…

<境内>
ToshoguKonosu.JPG
ここは個人宅の敷地?のようにも思えたのですが、説明板が設置してあるのでホッとしました。

<説明板>
Explanation-Board-Toshogu-Shrine-History.JPG
鴻巣市教育委員会さんによる説明文です。標題は「東照宮」ではなく「鴻巣御殿跡」です。これはどういうことでしょう?

以下に転記させて頂きます。
『鴻巣御殿は文禄二(一五九三)年、徳川家康によって鷹狩や領内視察などの宿泊や休憩所として建てられ、その敷地は一町四反歩(約一・四ヘクタール)に及んだ。その後、秀忠、家光の三代にわたって将軍家の鷹狩の際の休泊所として利用されたが、寛永七(一六三〇)年頃を最後として、以後使用されなくなった。明暦三(一六五七)年の江戸大火後は、その一部を解体して江戸城に運ばれ、天和二(一六八二)年頃には残りの建物も腐朽して倒壊し、元禄四(一六九一)年には御殿地に東照宮を祀り除地とした。その東照宮も明治三十年代に鴻神社に合祀され、旧御殿地はその後民有地となった。』

将軍の鷹狩りの際の休憩所がまずあって、その跡地に東照宮ができたという順番のようです。つまり遡ればここは将軍の休憩所。

鴻巣は中山道の宿場町です。街道を移動した将軍も、この地で休憩したのでしょう。将軍の鷹狩の話はよく耳にしますが、説明文にもある通り、領内の視察を兼ねています。ただの遊びではなく、仕事の一環。環境を整えて、警備もいき届いた御殿で、その疲れを癒したのでしょうね。

<江戸図屏風>
Konosu-Goten-Explanation-Board.JPG
名の通り御殿ですね。警備も厳重だったのでしょう。この絵で分かるだけでも、奥まで進むには三つの門を潜る必要があります。

将軍による鷹狩り兼視察の頻度が減った頃、明暦の大火(1657年)で大打撃を受けた江戸の復興のため、御殿の一部が解体され江戸へ運ばれたようです。なるほど。以前訪問した越谷市の御殿跡でも、似たような話を耳にしました。ここ鴻巣からわざわざ運んででも、建築材を確保する必要があったのですね。

やがて御殿は姿を消し、跡地に東照宮が祀られた。

説明文の続きによれば『最近まで鴻巣御殿跡地の比定地も明らかでなかったが、平成六年の試掘調査によってその一部が確認された。』とのこと。ここが御殿跡と判明したのは平成になってからということですね。

<石碑>
Toshogu-Konosu-Stonemonument.JPG
東照宮 敷地奉納記念碑

<石祠>せきし
Toshogu-Shrine-Konosu.JPG
石の祠と、どなたかのお供え。説明文によれば、東照宮は明治30年代に市内の鴻神社へ合祀されたとのこと。しかし今もこうして人が訪れます。

無宗教のため、私には厳密なことは分かりませんが、いまも人が訪れて、思いを馳せたり願いを込めたりすることに意義があるのだと思います。

<御成町>おなりちょう
Related-to-Tokugawa.JPG
将軍が御成りになった町です

■訪問:御成町東照宮
(鴻巣御殿跡)
[埼玉県鴻巣市本町]4丁目8-26


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■参考及び出典
・現地説明板
(鴻巣市教育委員会)
・鴻巣市HP
「鴻巣御殿模型について」

https://www.city.kounosu.saitama.jp/page/2369.html
タグ:埼玉
posted by Isuke at 20:40| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2023年12月23日

強運の御神木(芝東照宮)

<大イチョウ>
Sacred-Tree- Shiba-Toshogu.JPG
芝東照宮の大イチョウです。徳川家光が植樹したと伝わる神木です。説明板によれば推定樹齢は350年。それ以上というお話も耳にします。都の天然記念物に指定されています。

<芝東照宮>
Shiba-Toshogu-Shrine.JPG
芝東照宮は日光・久能山・上野と並ぶ四大東照宮のひとつとされ、もともとはかなり豪勢な造りでした。しかし東京大空襲により社殿は焼失。現在の社殿は1969年に再建されたものです。それだけ大きな被害を受けた時でも、御神木の大イチョウは無事でした。

強運の御神木

<御神木>
Located-inside-Shiba-Park.JPG
理屈で説明できない神域をここに感じてしまうのは、きっと私だけではないと思います。

<年末の銀杏>
Big-Ginkgo-Shiba-Toshogu-Shrine.JPG
私の訪問は12月も既に半ばを過ぎていましたが、まだまだ黄葉が見事

強運の大イチョウは、再建された東照宮のそばで毅然と佇んでいます。

■訪問:芝東照宮の大イチョウ
[東京都港区芝公園]4丁目8-10


■当ブログ過去記事■
芝東照宮については過去に投稿させて頂いております。ブログを始めた頃の拙い内容ですが、良かったら覗いてみて下さい。
shirononagori221 (7).JPG
港区芝公園の東照宮
(クリックで記事に移動します)


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■参考
現地説明板(東京都教育委員会)

タグ:23区

2023年12月17日

上野東照宮 震災も戦火もくぐり抜けた強運の社殿

東照大権現とは、徳川家康が亡くなったあとに贈られた神号のこと。権現とは、神仏が人という仮の姿でこの世に現れる事を意味します。2023年の大河ドラマ「どうする家康」では、3代将軍となる家光の乳母・春日局が、家康を指して「神の君」と呼んでいました。その言葉通り、家康は死後に神として崇められました。

<上野東照宮>
Ueno-Toshogu-Shrine-Dedicated-spirit-Tokugawa-Ieyasu.JPG
東照宮は東照大権現、つまり神格化された徳川家康を祀る神社です。家康の死後、徳川家と関係の深い大名家が競うように建立したため、東照宮そのものは全国に多数あります。しかしここ上野の東照宮は、日光や久能山に準じる存在感を放っています。

上野東照宮の創建は1627年(寛永4年)。藤堂高虎が、自身の屋敷地に創建したことに始まります。藤堂高虎は築城の名手としても知られ、江戸城を造り直した徳川家の重臣でした。

<水舎門>
Ueno-Toshogu-Shrine-Gate.JPG
鳥居の先のこの門は、元々は社殿の水舎として使用されていたものとのこと

<五重塔>
Precinct-Ueno-Toshogu.JPG
境内から見える旧寛永寺五重塔。老中・土井利勝の寄進で東照宮の塔として建てられましたが、一旦焼失し、その後再建。明治の神仏分離により寛永寺に譲渡され、のちに都に寄贈されています。寛永寺といえば、将軍家が重用した天海僧正を開祖とする徳川家の菩提寺。上野東照宮はもともとは寛永寺の境内社でした。

<神楽殿>
Ueno-Toshogu-Shrine-Kagurahall.JPG

<御水舎>
Ueno-Toshogu-Shrine-Purification-Fountain.JPG

<鈴が吊るされた御水舎>
UenoToshogu-Shrine-2.JPG

<銅燈籠>
Precinct-Ueno-Toshogu-Shrine.JPG
全国の大名から奉納された銅燈籠

<唐門>
Ueno-Toshogu.JPG
1651年造営の唐破風造り四脚門。重要文化財です。

そして

<社殿>
UenoToshogu-mainbuilding.JPG
豪華な造りの社殿。この社殿は徳川家光が改築(1651年)したもので、国の重要文化財に指定されています。現在は家康、吉宗、慶喜が祀られていますが、創建当初の祭神は家康と天海僧正、そして藤堂高虎だったようです。

Ueno-Toshogu-The-shrine-gold.JPG
金色殿とも呼ばれています

The-shrine-gold-Ueno-Toshogu.JPG
見事な彫刻です


Ueno-Toshogu-Shrine-main-building.JPG
東京のど真ん中でありながら、戦災や震災でも崩壊を免れて今に至ります。凄いことですね。

強運の神が祀られている

そんな思いからでしょうか。都内屈指のパワースポットと言われています。


■訪問:上野東照宮
[東京都台東区上野公園]9-88


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■参考■
・・Wikipedia:2023/12/17
・現地説明板
・上野東照宮HP

https://www.uenotoshogu.com/
タグ:23区

2023年12月10日

小峰城の富士見櫓(白河市)富士山は見えたのだろうか

<小峰城富士見櫓跡>
Fujimiyagura-ato-Kominejo-Fukushima-Prefecture.JPG
富士見?福島県からも富士山は見えるのだろうか?

小峰城探索中の素朴な疑問です。遠くを眺めましたが、見える気配はなし。天候にもよると受け止め、現地ではあっさり諦めました。ただブログをまとめるにあたり、どうしても気になって、調べることにしました。

<縄張り図>
Reconstruction-Diagram-Kominejo.JPG
こつらは白河駅近くの歩行者トンネル内に展示されているパネルです。小峰城の復元図ですね。本丸には小峰城のシンボルである三重櫓、そして城の要所要所に櫓が設けられています。問題の富士見櫓は本丸の南西角(この画像だと本丸の左上隅)です。富士見櫓という名は江戸城をはじめ、多くの城郭で耳にしますが、ここは福島県ですからね。

<本丸の南西角>
Fujimiyagura-Ato-Kominejo.JPG
ここを登ってすぐが富士見櫓跡

<櫓跡の下>
Fujimi-Yagura-Ato-Kominejo.JPG
本丸より一段下の帯曲輪から見るとこの石垣の上あたり

方角的には分かるが…

結論を言うと、ここ白河市より更に北でも富士山は見えるそうです。WIKIさんによれば、富士山が見える最北端は、同じく福島県の川俣町と飯舘村の堺にある花塚山とのこと。ただし、これは辛うじて確認できるというレベルのようです。


ということで
福島県南端の白河市から富士が見えても何ら不思議ではないというお話でした。日記が如き内容にお付き合い頂き、ありがとうございました。

<富士見櫓跡の石碑>
FujimiyaguraatoKominejo-Fukushima.JPG
きっと見える、あるいは見えたのでしょう

■訪問:小峰城富士見櫓跡
[福島県白河市郭内]

■参考
・白河駅歩行者通路展示パネル
「復元図想定図(日本建築研究所蔵)」
・Wikipedia:2023/12/10


[補足]
今回はこちらの記事の追記として投稿しました。よかったら覗いてみて下さい。
Komine-Castle-tower.JPG
矢之門から帯曲輪へ
(クリックで記事に移動します)

■当ブログ過去記事■
小峰城は2018年にも投稿しています。
shirononagori260 (1).JPG
小峰城 戊辰150年の夏
(クリックで記事に移動します)
タグ:福島
posted by Isuke at 23:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]

矢之門から帯曲輪へ(白河市)小峰城

<小峰城>こみねじょう
Komine-Castle-tower.JPG

■2023年再訪■
白河市の小峰城跡は、2011年の東日本大震災により、石垣崩壊やひび割れなど多大な被害を受けました。深い歴史が刻まれ、盛岡城・若松城とともに東北三名城のひとつとされる名城です。そしてなにより、白河市のシンボルです。本格的な復旧工事が2013年から始まり、2018年に完了しました。

私の前回の訪問は2018年です。戊辰戦争から150年という年であり、復旧作業にも目途がたったという情報を得て、現地を訪問しました。城は見事に復旧していました。ただ、ちょっと早すぎたのか、城の裏側(北側)はまだ立ち入り禁止の状態でした。その時の続きのつもりで、今年再訪しました。

<城山公園入口>
Revisit2023-Komine-Castlet-Entrance.JPG
現地到着

<城内案内>
Revisit2023-Komine-Castle-Guide-Post.JPG
今回はまず矢之門方面へ

<堀跡>
Revisit2023-Kominejo.JPG
この景色は前回も見ていますが、二の丸の外側の曲輪跡と勘違いしていました。あとから縄張り図を見てびっくり。埋められた堀の跡です。

そして

<城門跡>
Kominejo-Castlegate-Yanomon.JPG
堀が途切れるところに城門があります。本丸からみて西側の矢之門の跡です


■小峰城の帯曲輪■

<矢之門跡>やのもん
Shirakawa-Kominejo-Castle Gate-Yanomon.JPG
ここから探索スタートです

<矢之門説明板>
Shirakawa-Kominejo-Yanomon-Explanation-board.JPG
矢之門が『本丸を囲む帯曲輪の北東側の出入口』であることが記されています。右下に再現イメージがありますね。今は石垣だけですが、こういう櫓門が設けられていたようです。

<三重櫓と帯曲輪>おびくるわ
Kominejo-Castletower.JPG
実質天守の三重櫓。正面から見た美しさとは別の魅力です。こちら側から見上げると、妙な迫力がありますね。右に広がるのが今回のお目当ての帯曲輪です。まぁ私が攻め手なら、ここから直接本丸を攻めようとは思いません。

<石垣の説明板>
Stone-Wall-Explanationboard.JPG
一部の石垣が、不定形で粗く割った面が表面になっていることから、江戸時代開始前後に築かれたと考えられるとのこと。

<石垣>
shirakawa-Kominejo-Stone-Wall.JPG
石垣の裾野の部分ですね。なるほど。勉強になりました。

<高低差>
Kominecastle-Stonewall.JPG
平面図で見ればお隣の曲輪同士ですが、実際は凄い高低差。小峰城は標高約370mの丘に築かれた城。本丸を頂点とする山城です。

<帯曲輪>
Kominecastle-Obikuruwa.JPG
そして広い帯曲輪。一段低くなった位置から、大切な本丸をととり囲んでいます。帯曲輪というと、主たる曲輪の補助的な施設で、形状は細長いというイメージですが、ここは違うようです。独立した別の曲輪に思えます。

<石垣の再生>
Shirakawa-Kominejo-Ishigaki.JPG
凄いなぁ…壮大な帯曲輪と石垣。前回この景色は見られなかったので、再訪して良かったと思える瞬間でした。

<修復に関する説明板>
Stone-Wall-Explanation-Board.JPG
石垣崩落したの様子が記されています。写真を見る限りかなり広範囲です。石材の個数だと1201個になるとのこと。

積み上げるだけでも大変ですが、ここ小峰城の修復では、石材に番号をつけ、伝統的な工法に従って石垣を造り直しました。それって、かなり地道な作業になりますよね。その経験値は、熊本地震で石垣が崩落した熊本城の修復作業にも活かされています。

<西側>
Stone-Wall-Kominejo.JPG
この付近も幅にして21mの崩落があったそうですが、見事に修復されています。

<南西角>
Shirakawa-Kominejo-Kuruwa.JPG
城の南西角に設けられた富士見櫓付近です。角を曲がると城の大手側(南側)になります。

<帯曲輪門>
Kominejo-Castlegate-Obikuruwamon.JPG
帯曲輪はここまでです。画像は帯曲輪から内部へ通じる虎口に設けられた帯曲輪門跡。

ということで
小峰城の裏側を中心に、帯曲輪をゆっくり見学したというお話でした。

<城の正面>
Shirakawa-Kominejo-2023.JPG
あいかわらず見事な前門と三重櫓

小峰城は国の史跡に指定され、日本100名城のひとつにも選ばれています。

--------■ 小 峰 城 ■--------
別 名:白河小峰城 白河城
築城年:1340年
築城者:結城親朝
改修者:丹羽長重
城 主:結城氏・丹羽氏
榊原氏・松平氏 他
廃城年:1871年
[福島県白河市郭内]

■参考及び抜粋
・現地説明板(白河市)
・Wikipedia:2023/12/10



お城巡りランキング

■当ブログ過去記事■
2018年に訪問した時の投稿です。よかったら覗いてみて下さい。
<小峰城>
shirononagori260 (1).JPG
小峰城 戊辰150年の夏
(クリックで記事に移動します)
posted by Isuke at 22:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]

熊谷直実像(熊谷駅前)日ノ本一の剛の者

今回は、源平合戦などで活躍し、源頼朝から「日ノ本一の剛の者」と讃えられた武将の銅像の話です。

<熊谷直実像>くまがいなおざね
Naozane-Kumagai-Statue.JPG
ここは熊谷駅の北側のロータリー広場です。

熊谷で下車するのは初めてではありませんし、この銅像の存在は以前から知っていました。ただ、ロータリーが広く遠くから眺めるだけだったので、わざわざ足を止めることはありませんでした。改めてよく見れば、かなり迫力のある銅像ですね。Wikiさんによればこの銅像は北村西望作とのこと。私は彫刻に詳しくないですが、あの有名な長崎平和祈念像を造った方といわれれば納得です。

<熊谷次郎直実>
Naozane-Kumagai -Brave-Samurai.JPG
熊谷直実は現在の熊谷市出身。通称は次郎。源頼朝の御家人となり、鎌倉幕府成立に大きく貢献しました。義経の奇襲として有名な「ひよどり越え逆落とし」にも、畠山重忠や和田義盛らとともに加わっています。この時、敵陣に一番乗りで突入したものの、死にかけたという猛者です。

銅像からも荒々しさが伝わってきます。
ただ、人情味溢れる逸話も伝わっています。

これも源氏と平氏が激突した「一ノ谷の戦い」でのこと。敗走する平家の武将を呼び止め、一騎討ちに至りますが、相手が我が子と歳の変わらぬ若武者であることに気付き、とどめを刺すのを躊躇います。状況からして討ち取らないわけにはいかず、涙ながらに若者の命を奪うことになりました。心の傷となり、この世の無常を感じたことが、のちの出家につながったと伝わります。

少し大ざっぱですが、こんな感じのお話で「平家物語」の中にも描かれています。儚さ、虚しさが漂う悲話ですね。直実が討ち取ったのは、平清盛の甥にあたる敦盛でした。


<熊谷駅北口ロータリー>
Kumagaya-Staion-North-Rotary.JPG

冷静沈着というより、人間味溢れる直情型の武将だったのかもしれません。根強い人気の理由かもしれませんね。

■訪問:熊谷直実像
[埼玉県熊谷市筑波]


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■参考及び抜粋
・Wikipedia:2023/12/10
・熊谷商工会議所HP
「熊谷次郎直実とは」

https://www.kumagayacci.or.jp/events_information/kumagai_jjiro/
タグ:埼玉
posted by Isuke at 22:31| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地
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