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2021年04月09日
【高木八幡宮】 佐賀県佐賀市
由緒
社記によれば、
平安時代・近衛天皇の久安年中(1145〜1150年)
大織冠鎌足の正統の後裔高木越前守藤原貞永という者、
高木の庄に下向して高木城を構えていたが、
霊験に任せて旭日の形を描いた旗を押したて居城の守護神として
八幡大神を奉祀したとあり、これが八幡神社のおこりである。
この旭日の形を描いた旗じるしが、高木家の家紋の十二日足である。
なおこの十二日足の家紋は、
後に龍造寺家が踏襲し鍋島家の家中でこの紋を用いる者もあった。
旧社格:村社。
御祭神
大鷦鷯天皇(仁徳天皇)
誉田天皇(応神天皇)
気長足姫天皇(神功皇后)
仲哀天皇
御利益
国家鎮護、商売繁盛、縁結び、家内安全、子孫繁栄、安産、子育て、
開運招福、家運隆昌、成功勝利、交通安全、悪病災難除け、厄除け、他
鎮座地
佐賀県佐賀市高木瀬東二丁目12−11
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2021年04月07日
景行天皇の行宮 【彦嶽宮 下宮】 熊本県山鹿市
由緒
第十二代景行天皇の時代に、
日向の国(宮崎県)の熊津彦(くまつひこ)がそむいたので、
天皇は景行十八年四月に御軍を率いて九州に上陸され、
高天山(震嶽)に行宮を営まれました。
熊津彦は土蜘蛛の津頬(つちぐものつつら)と共に兵を進めて
夜中に天皇を襲いました。
天皇が行宮において諸神をお祈りされると、
彦嶽の頂上より高天山に霊感があって、高天山は大いに振動し、
賊徒はたちまち敗走して天皇の大勝となりました。
天皇は進んで日向の国に攻めて、熊津彦及び津頬を誅し給い、
お帰りの途中に神恩に感謝して、彦嶽に上宮・中宮・下宮を
造立されました。
これが、彦嶽三所宮の創建です。
第18代履中天皇の御宇、都邑の県主の後胤 都邑の武彦君の
神記奏上により日籠の峰(彦嶽)に畫日別陰龍王伊弆諾神を
奉祀し神田75町を付け給いました。
第27代継体天皇の22年(西暦529年)に、
筑紫の国造磐井が反乱をおこした時、
大連物部の麁鹿火は征討の命を蒙り筑紫の国に下向し、
彦嶽宮を祈り御井郡の戦に磐井を討平げることができました。
御祭神
天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
倉稲魂神(うがのみたまのかみ)
合殿
素戔鳴神(すさのおのかみ)
健磐龍神(たけいわたつのかみ)
彦御子神(ひこみこのかみ)
御利益
国土安泰、開運招福、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、芸能上達など
鎮座地
熊本県山鹿市津留2248
鎮西鎮護の神【堀江神社】佐賀県佐賀市【景行天皇・神功皇后】
景行天皇の時、熊襲討伐の命を受け、
肥前国小津の入江に着いた小碓尊(おうすのみこと 後に日本武尊)は、
新たに小江を掘り、そこに竜造船をつないで軍議を開き
その地に神を祭って「神野の掘江大明神」と称した。
弘安四年(1281)の元寇の時は、
勅命によって一州一宮一社の神を全国からここに勧請して
元軍の退散が祈願された。
幸い台風が吹いて元軍は敗退し、
以来この神社は鎮西鎮護の神として崇敬された。
旧郷社。
主祭神
景行天皇・神功皇后
他に後宇多帝が蒙古退治を祈願されたとき勧請された
風浪権現(住吉三神)もあわせ祀っています。
合祀神
祭神天照皇大神外八柱は無格社合祀により追加
天照皇大神・応神天皇・大山祗命・倉稲魂命・菅原道真・若比留女命
建御方命・大己貴命・木花咲邪姫命
御利益
国家安寧、厄災除け、諸願成就、無病息災、病気平癒、安産、
子育て守護、学業祈願、厄除け、病魔退散、家内安全、開運招福など
鎮座地
佐賀県佐賀市神野西二丁目2−10