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2020年10月28日

神仏混淆の形式をそのまま残す【高塚愛宕地蔵尊】大分県日田市



高塚愛宕地蔵尊(たかつかあたごじぞうそん)は、
大分県日田市天瀬町馬原(まばる)にある地蔵尊です。

神仏混淆(しんぶつこんこう)の形式をそのまま残している
珍しい地蔵尊として知られています。
地元では「高塚さん」の愛称で呼ばれています。

天平十二年(740)
行基という偉い僧が聖武天皇の命を承けて、
筑紫の国を巡られました。

帰路、豊後の国日田郡を経て求来里村杉原にいたり、
みどり深い東西の地形を眺めたとき、
行基は身の引きしまるような霊気と、
言いようのない有り難さに心を打たれ
『この地こそ、国や人々の悩みを救う大権現様の出現される
 霊地に違いない』
と予言されたのでした。

行基はそれから岩松ヶ鼻(現在の天瀬町馬原の鞍形尾)を通って、
この高塚の里に着かれました。

山中で一心に地蔵菩薩を念じていた或る晩のこと、
東南方にそびえる大きな公孫樹(いちょう)の中辺に、
突然、金色の光を放つ三個の玉を見たのです。

行基はおどろき、我が祈りが地蔵菩薩に届いたおしるしであろうと、
なお一心に祈り続けました。

夜が白みかけても玉の光はおとろえません。

行基は従者をしりぞけ、ひとり、いちょうの大木に登ってみると、
三個のうち、ひときわ光る一個は乳房の形をした宝珠でした。

宝珠を捧げて地に降り立った行基は早速、
みずからのノミをにぎって一体の地蔵菩薩を彫り、
里人たちに
『まことの心をもって宝珠、地蔵菩薩に祈願するなら
 広く万物は産み栄え、一切のご利益を与えられよう』
と説かれたのでした。

その後、いちょうの大木は『乳銀杏』(ちちいちょう)と呼ばれ、
永い歴史の間、子宝を恵む霊樹、母乳をさずける霊樹、
子供のすこやかな成長をかなえる霊樹として、
人々の崇敬を集めてきました。

行基は天平二十一年(749)二月二日、八十二才で亡くなりました。

その後天暦六年(952)二月、
行基の御遺徳を偲んだ里人たちが、
大いちょうのかたわらに小さな御堂を建立し、
行基のきざんだ地蔵菩薩を祀ったのが
『高塚愛宕地蔵尊』の始まりです。

病気平癒、学業成就、商売繁盛などの諸願成就に
ご利益があるとされています。

大分県日田市天瀬町馬原3740


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2020年10月27日

瀬織津姫を祀る【有王社】大分県日田市の神社



有王社(ありおうしゃ)は、
大分県日田市大字夜明にある神社です。

由緒
人皇八十代高倉天皇の御代、
大蔵永秀の豊後国の関門守護を任として
築城の櫛崎城に鎮座の処、
宝永2年(1705)現今の地に御鎮座奉斎す。
当時は有王宮と称す。

御祭神  瀬織津日女命

境内社
天満宮  御祭神 菅原神(菅原道真)
水天宮  御祭神 二位尼霊(二位尼時子)

鎮座地
日田市大字夜明3185


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2020年10月23日

日本三大妙見の一つ【八代神社(妙見宮)】熊本県八代市の神社



妙見宮(みょうけんぐう)、妙見さんと称される。

旧社格は県社。

福島県の相馬妙見、大阪府の能勢妙見と並んで、
日本三大妙見の一つといわれています。

八代神社は、白鳳9年(680年)に
中国の明州から妙見神が亀蛇に乗り竹原の津に上陸し、
鎮座したのが始まりとされています。

享保15年(1730)に書かれた『妙見宮実紀』によれば、
延暦14年(795)、横岳頂上に上宮を創祀。永暦元年(1160)、
中宮を建立。1186年(文治2年)に、後鳥羽天皇の勅願で、
検校散位(けんぎょうさんみ)大江朝臣隆房により
下宮(現在の八代神社)が創建されました。

最盛時には周辺に15もの天台宗・真言宗の寺院があり
妙見宮十五坊(みょうけんぐうじゅうごぼう)と呼ばれました。

中世から江戸時代にわたり、
相良、加藤、細川、松井と歴代の八代城主の
崇敬(すうけい)を受け、
社殿の再建や社領の寄付が行われてきました。

1870年(明治3年)までは妙見宮と呼ばれていました。

妙見神とは、北極星・北斗七星の象徴である。

神道と仏教の両部の宮寺で、広く崇敬を受け、
八代、下益城、芦北三郡の一の宮として栄えました。

1871年(明治4年)、神仏分離令により、
天之御中主神、国常立尊を祭神とし、
社名を八代神社と改められました。

御祭神
天之御中主神
国常立尊

御利益
天下泰平、五穀豊穣、商売繁盛、厄除けなど

境内社
大宮神社
御祭神:日本武尊

稲荷神社
御祭神:保食神

九州三大祭りの一つ【妙見祭】は、
江戸時代から続く妙見宮(八代神社)の秋の祭礼行事です。

11月22日に神幸行列(お下り)、
御夜、23日に神幸行列(お上り)が行われ、
獅子や笠鉾、亀蛇など、伝統ある出し物が数多く参列します。

2011年3月に国の重要無形民俗文化財に指定され、
2016年12月にはユネスコ無形文化遺産に登録されました。

鎮座地
熊本県八代市妙見町405


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2020年10月21日

【塩屋八幡宮】熊本県八代市の神社



塩屋八幡宮(しおやはちまんぐう)は、
熊本県八代市八幡町にある神社です。

旧社格は村社。

由緒
1632年(寛永9年)、
細川忠興(三斎)が八代城に隠棲するに伴い、
崇敬する宇佐神宮を勧請し
八幡浜(現・若宮神社の地)に創建しました。

1655年(明暦元年)、
松井興長が現在の地に社を移し、
八代城下西域の守護神とした。

九州三大祭りの一つである八代神社の妙見祭において、
神幸行列の御旅所となっている。

御祭神
応神天皇、神功皇后、仁徳天皇、武内宿禰

ご利益
安産 子育て 健康 学業

境内社
金刀比羅宮
御祭神 : 大物主命、崇徳天皇

稲荷神社
御祭神: 倉稲魂神、猿田彦命、大宮女命

鎮座地
熊本県八代市八幡町1−11


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2020年10月20日

妙見神渡来の地【竹原神社】熊本県八代市の神社【天之御中主神】



竹原神社 由緒
この地は、妙見神が渡来した竹原の津跡と考えられています。

「肥後国誌」などによると、
天武帝白鳳9年(680)の秋、中国明州(寧波)から妙見神が
眼深検校・手長次郎・足早三郎の三人に姿を変え、
亀蛇の背に乗って海を渡り、
この八代郡土北郷八千把村竹原ノ津に上陸し、
約3年間仮座したと伝えています。

その後、天武帝白鳳11年(682)
益城郡小熊野村の千代松が峯に移って鎮座し、
さらに天平宝字2年(758)に八代郡土北郷横嶽ノ峯に移り、
その地に妙見上宮が創建されました。

その由来により、この地に妙見神を奉り、
竹原妙見宮と呼ばれました。

文治2年(1186年)、
後鳥羽天皇の時代に現在の宮地妙見宮が建てられたのに続いて、
竹原妙見宮が建てられたと伝えられています。

天正16年、小西行長の兵火にかかり焼失。
後、加藤清正によって再建されました。

そして、明治元年(1868)に神仏分離令が出されたため、
明治4年(1871)に竹原妙見宮から竹原宮(現在の竹原神社)
となりました。

御祭神:天之御中主神

鎮座地
熊本県八代市竹原町2225


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2020年10月19日

【野原八幡宮】熊本県荒尾市の神社



野原八幡宮(のばらはちまんぐう)は、
熊本県荒尾市野原にある神社です。

旧社格:郷社。

社記には、延暦十五年(796)桓武天皇九州静謐のため勅命により勧請、
或は天慶年中(938-947)平将門討滅のため、
当国の太守尾藤少郷肥後守隆房が国中に七社を建立した
その一社であるという。

かつて荒尾郷と呼ばれた地域の総氏神(一の宮)であり、
地元では「のばらさん」の愛称で親しまれている。

御祭神
住吉大明神、神功皇后、応神天皇

ご利益
交通安全、家内安全、五穀豊穣など

鎮座地
熊本県荒尾市野原1529


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2020年10月14日

筥崎宮の元宮【大分八幡宮】と【椿八幡宮】福岡県飯塚市の神社



●椿八幡宮
由緒
神功皇后が新羅、百済、高句麗よりの帰途この地に立ち寄られ、
その折り堅い木で作られた御剣の鍔(つば)を奉納され、
日本の平和と繁栄を祈願された所と伝えられており、
これにより「ツバキ」(椿)の名が起ったといわれています。

椿八幡宮は、寛平9年(897)勅命により当時九州の政治外交を司った
大宰府政庁が創建し、穂波新宮と云われ、
椿庄の惣社として氏子はもとより広く朝廷幕府の崇敬厚く、
政庁の官人等も礼を尽くして参拝していたと云われています。

これが「椿八幡宮」の起こりです。

その後、幾度かの再建、再興がなされ現在に至っていますが
最盛時には穂波郡全村を管轄していたと言い伝えられています。

御祭神
品陀別命 (應神天皇)、息長足姫命(神功皇后)、武内宿祢命

鎮座地
福岡県飯塚市椿352

●大分八幡宮
大分八幡宮(だいぶはちまんぐう)は、福岡県飯塚市にある神社。

旧社格は郷社。

由緒
神亀3年(726)の創建と伝えられる大分八幡宮は、
神功皇后の所縁の地で、筥崎宮の元宮とされています。

神功皇后は、三韓征伐から帰国した後、
粕屋の宇美邑にて応神天皇を御出産され、
その翌年の春、粕屋と嘉穂の郡境にある
大口嶽(大口嶽の乳呑坂)を越えて当地に至ります。

神功皇后は、当地にて引率していた軍士を解隊し、
それぞれの故郷に返します。

その大分から大分と称されるようになったと伝えられています。

御祭神である応神天皇(八幡大神)の神霊は、
欽明天皇32年(571)に豊前国宇佐郡に所在する
馬城嶽(御許山)に出現したと伝えられ、
神亀2年(725)に現在の宇佐神宮の鎮座地である
小倉山社へ遷座します。

その翌年の神亀3年(726)、
御神託により豊前地方と穂波地方、太宰府を行き来する拠点であり、
大分の由緒ある当地に鎮西第一といわれる壮麗な
社殿、穂浪宮(大分宮)が造営されたのが
大分八幡宮の創始とされています。

宇佐宮御託宣集の延喜21年(802)6月1日の件にて
『我宇佐宮より穂浪の大分宮は本宮也』と記され、
箱崎の松原への遷座の神託があり、
3年後の延長元年(923)に遷御したことから
筥崎宮の元宮とされています。

その遷座の前からの御神体で、
神功皇后が腰裳に挟んでいたとされる「くしみ玉」は、
大分八幡宮にて奉斎されていたとされています。

代々朝廷の御崇敬も篤く、
神事祭礼の折には太宰府庄庁の官人が参詣して執り行われ、
承平5年(935)の「天慶の乱」の際には、
朱雀天皇の勅願により平将門、藤原純友らの追討祈願のため
九州に宇佐八幡五所別宮(第二肥前千栗宮・第三肥後藤崎宮・
第四薩摩新田宮・第五大隅正八幡宮)が造立されますが、
大分八幡宮は、その第一とされました。

中世も朝廷からの崇敬厚く、
焼亡を受けての治暦3年(1071)の再建では
筥崎宮と同等の規模の本殿であった記録されています。

応仁の乱以降、衰微しますが、
天正5年(1577)に秋月種実によって再建。

この再建の時、現社殿の後方、
丘の頂上の嶽宮から現在地に遷座しました。

しかし、秋月種実が日向へ移封されたことで神領を失い再び衰微。

江戸期に入り、福岡藩の関与と共に鳥居などの寄進も相次ぎ、
享保6年(1721)8月15日には途絶えていた放生会も復活。
享保8年(1723)には流鏑馬、その翌年の享保9年(1724)には
村人が石清水八幡宮で習得してきた獅子舞が奉納され、
神事祭事が整えられることとなり、篤く崇敬されています。

御祭神
応神天皇、神功皇后、 玉依姫命

御利益
武勇長久、勝利祈願、出世開運、安産祈願、
子育大願、交通安全、健康、所願成就

鎮座地
福岡県飯塚市大分1272


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2020年10月13日

【春日神社】福岡県田川市の神社



春日神社は、福岡県田川市にある神社です。

由緒
豊櫛弓削高魂産霊命(とよくしゆげたかみむすびのみこと)則ち
高皇産霊命三世孫、天日鷲翔矢命(あめひわしかけやのみこと)と
御子(みこ)の長白羽命(ながしらはのみこと)は、
天磐樟船(あめのいわくすふね)で共に天降り座す。
〔古き伝えで御社より申酉(さるのとり)方、
およそ数十丁に船尾山有り、
是即ち神の乗られし磐樟船山と成る古跡也〕

長白羽命子孫達は
祖先の豊櫛弓削高魂産霊命、布都主命、武甕槌命の
三柱を祀り弓削太神、弓矢の神と齋奉る。
〔宮処を眺め常に木、栄えたる地を常盤山と名付け氏神として祀る〕。

故に此の地を弓削の郷と言う、
後に郷の名と大御神の御名と同じを恐れ、
田の一字を加え弓削田と言う。

然に光仁天皇 宝亀六年(775)に
天日鷲翔矢命より三十一世孫の
弓削連豊麿(ゆげのむらじとよまろ)豊前守に成るや、
神代より深き因縁有ると
神官官職数多引連れ奈良都春日大社の御分霊を
勧請し弓削太神と合わせ奉る成り。

弓削田春日大明神と齋奉り、
豊前国、一国一社の弓矢神と鎮座する。

御祭神
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
布都主命(ふつぬしのみこと)
豊櫛弓削遠祖高魂産霊命
(とよくしゆげのとうそたかみむすびのみこと)
天津児屋根命(あまつこやねのみこと)
姫大神(ひめおおかみ)

この地は「饒速日尊」の降臨伝承地であるとも伝えられています。

水神社
御祭神:罔象女神(みつはのめのかみ)

須佐社
御祭神:素戔嗚尊

鎮座地
福岡県田川市宮尾町6番13号


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【 風治八幡宮】福岡県田川市の神社



風治八幡宮(ふうじはちまんぐう)は、
福岡県田川市魚町にある神社です。旧社格は郷社。

風治八幡宮は古くは「伊田大神」と称して海津見神を祀る地主神でした。

神功皇后御征韓の折り、にわかに暴風雨に見舞われたため、
社前の大石に腰を掛け、愛用の太刀を献上して
伊田大神に祈願したところ暴風雨は忽然と治まり、
つつがなく穴門(下関)に至られた。

その後、弘仁五年(814)六月、大旱害に見舞われた際、
郡司が伝教大師最澄に請願し伊田大神に祈念してもらうと、
たちまち雨が降り五穀が潤ったという。

後の弘仁八年(817)、その霊験あらたかな奇瑞を後世に伝えるため、
伊田宮山に社殿を造営し風の一字を加えて風宮とし、
蓮台寺・長松寿院の両院を開いて神宮寺とした。

貞観三年(861)九月、宇佐より八幡神を勧請。

元禄元年(1688)三月、
国主小笠原氏、聖后御凱旋の神徳にちなみ風治の字を贈り、
風治八幡宮と改称。現在に至る。

御祭神
應神天皇・仲哀天皇・神功皇后・海津見神・豊玉姫命・玉依姫命

御利益
強運隆昌、厄除開運、社業繁栄、五穀豊穣、殖産工業、交通安全など

鎮座地
福岡県田川市魚町2-30


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2020年10月10日

神武東征ゆかりの【岡田宮】福岡県北九州市の神社



岡田宮(おかだぐう)は、
福岡県北九州市八幡西区にある神社です。
正式には岡田神社。 旧社格:村社、神饌幣帛料供進社。

岡田宮の創建は不詳。

かつて崗地方(旧遠賀郡)を治めた熊族が
祖先神を祀ったのが始まりとされ、
古事記においては、神武天皇が東征(神武東征)の途上に、
一年間この岡田宮に滞在されたことが記載され、
また、神功皇后が新羅征討の折に
親祭したと伝わる北部九州有数の古社です。

古来より、岡田宮の鎮座する地は北部九州の要路に位置し、
このために朝野の崇敬篤く、祭礼法度を定めて
社領18ヶ所・末寺9坊と大いに栄えました。

建久5年(1194)に東国の御家人である
宇都宮重業(山鹿氏・麻生氏の祖)が源頼朝より当地を与えられ、
波多野兼直に祭祀させたといいます。

御祭神
中殿(岡田宮)
神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコノミコト)[神武天皇]

右殿(熊手宮)
大国主命(オオクニヌシノミコト)
少彦名命(スクナヒコナノミコト)
県主熊鰐命(アガタヌシクマワニノミコト)

左殿(八所宮)
高皇産霊神(タカミムスビノカミ)
神皇産霊神(カミムスビノカミ)
玉留産霊神(タマツメムスビノカミ)
生産霊神(イクムスビノカミ)
足産霊神(タルムスビノカミ)
大宮売神(オオミヤノメノカミ)
事代主神(コトシロヌシノカミ)
御膳神(ミケツカミ)

鎮座地
福岡県北九州市八幡西区岡田町1-1


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2020年10月08日

【戸明神社】福岡県北九州市の神社



戸明神社(とあけじんじゃ)は、
福岡県北九州市若松区にある神社です。

天岩戸神話に登場する神、
天手力雄大神・天児屋根大神を主祭神として祀る
福岡県下では珍しい神社です。

創建の時期については不詳ですが、
戸明神社 第六代大宮司幡掛元成が記した
「戸明神社縁起書 序」(天文五年 1536)に、
「昔、戸明神社は岩屋・柏原との間、戸明浜に御社有りて
 甚だ厳しき宮造りなりしを、享禄(1582〜1532)の年頃
 この地に移し奉るなり」とあるので、
この地に遷座されたのは室町時代後期である事がわかります。

また、安屋・有毛・大鳥居・高須に鎮座する「戸明神社」の本宮で、
稲国・岩屋・脇田・竹並・払川・塩屋・小敷に鎮座するそれぞれの
「産土神社」の総社とされています。

主祭神
天手力雄大神(あめのたぢからおのおおかみ)
天児屋根大神(あめのこやねのおおかみ)

相殿神
事代主大神(ことしろぬしのおおかみ)
素戔嗚大神(すさのおのおおかみ)
高龗神(たかおかみのかみ)
闇龗神(くらおかみのかみ)
御歳大神(おおとしのおおかみ)

御神徳
開運・出世運・金運・勝負運・恋愛運・健康運など

●御社号
戸明神社は「天岩戸神話」で尽力される、
天手力雄大神と天児屋根大神を主祭神としてお祀りしています。

神話の中では、天児屋根大神は天照大神が御隠れになられた
天岩戸の前で祝詞を奏上された美声の神様と、
天手力雄大神はその岩戸を開かれた力に優れた神様と言われています。

岩戸開きに尽力された神々をお祀りしているという事で、
開運の力神として古来崇敬を集めています。

御社号を「戸明」とされた由来もそこにあると思われます。

天手力雄大神は伊勢神宮内宮の相殿神としても祀られています。
福岡県内ではここ島郷地区だけとなります。

天児屋根大神は、
藤原氏(中臣氏)の祖神として春日神社等に祀られています。

●神社と大相撲力士
御祭神が力の神様であることもあり、
大相撲の力士も参拝に来られます。

直方市出身の元大関の魁皇関が平成12年に、
また、佐渡ヶ嶽部屋の親方が毎年九州場所の前に
安全必勝祈願を受けられます。

その御縁もあり、同部屋所属で、
柳川市出身の大関琴奨菊関が平成23年に参拝に、
関脇琴勇輝関が平成28年に参拝に訪れています。

他にも多数のスポーツ選手や近隣学校の運動部、スポーツ団体、
道場関係者が御神徳にあやかってお参りに訪れています。

鎮座地
福岡県北九州市若松区蜑住974


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2020年10月07日

【国分日吉神社】 福岡県久留米市の神社




国分日吉神社(こくぶひよしじんじゃ)

由緒
承平二年九月(932年)今より約千年余前宮一品、
兼基親王、山王宮を御建立せられる。
これが当地に日吉神社が鎮座された初めである。
戦国時代天正七年(1579)社屋兵火により焼失したが、
寛永九年(1631)国分村庄屋国分十右エ門により再建され
従来住民は産土神(生まれ土地の守護神)として尊崇してきた。
明治四十四年国分村内の八神社の御祭神を当日吉神社に合祀し
六柱の御祭神を奉祀している。
旧社格:村社

史跡 筑後国分寺跡
国分寺は、「鎮護国家」の思想をもとに
奈良時代の天平13年(741年)聖武天皇の勅願によって、
僧寺(金光明四天王護国之寺)と尼寺(法華滅罪之寺)の
二つの寺が国ごとに設置されました。

築後の国の国分寺は僧寺・尼寺と国分町にその遺跡があります。
ここ日吉神社境内に講堂の礎石が残り、
神社を中心に僧寺跡が推定されます。

発掘調査の結果、講堂跡・塔跡が確認され、
伽藍配置は筑前国分寺と同様の配置と思われます。

尼寺跡は、僧寺跡の北約三〇〇メートルをへだてた
「字西村」一帯に推定され、なお「字馬場田」には
瓦窯跡も発見されています。

御祭神
大山昨命(おおやまくいのかみ)
安徳天皇(あんとくてんのう)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
仁徳天皇(にんとくてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
菅原道真(すがわらのみちざね)

御利益
酒造守護・産業繁栄・開運招福・商売繁盛・家内安全
厄除け・方除け・医薬・病気平癒・安産・子育て守護・学業祈願など

鎮座地
福岡県久留米市国分町711-1


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神武天皇の古代斎場跡【一宮神社】福岡県北九州市の神社



一宮神社(いちのみやじんじゃ)は、
福岡県北九州市八幡西区にある神社です。

この地方の氏神、王子宮(現在地)、諏訪神社、大歳神社の
三社を合せ祀り一宮神社と称します。

●王子宮は古事記のいわゆる、神武天皇御東征の砌、
 一年間この地において天神地祗を祀り、
 国の安泰を祈った場所といわれています。
 一宮神社は、岡田宮(北九州市)の元宮と言われています。

●大歳神社は、六国史の内三代実録に載る式外社で、
 平安時代以前に祀られた由緒ある神社です。

●諏訪神社は花尾城主麻生氏が信州の諏訪神社を
 御手洗池のほとりに分祀し、厚く祭られた神社です。
 爾来麻生家の崇敬篤く流鏑馬、猿楽等が奉納されていました。

表参道二の鳥居南側に、
神籬磐境の斎場があり神武天皇が御自らお祭りをされた遺跡と
伝えられています。

●古代斎場 神籬磐境(ひもろぎいわさか)
 この磐境は古事記によれば神武天皇東征のみぎり、
 豊前国 宇佐よりこの筑前国のこの地に御滞在された旧蹟と
 言われています。

 神武天皇(神倭伊波禮毘古命)が滞在中、磐境を設け
 天神地祇を招いて御親祭された斎場と伝えられています。

 昭和28年12月、伊勢神宮の造営局長で、
 神社建築史の大家、国学院大学教授 角南隆博士が参拝され、
 「この形式の遺跡は全国でも極めて数少ないもので
  考古学的にも貴重な資料である。」
 と言われたそうです。

御祭神
【王子神社】天忍穂耳命、神倭伊波禮毘古命(神武天皇)
【大歳神社】大歳神
【諏訪神社】建御名方神、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇

主祭神、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命は、
古くより勝運の神様として崇められ、
今ではスポーツ選手はもとより、受験に勝つ、病気に勝つ、
仕事に勝つなど勝運祈願に多くの参拝者が訪れています。

鎮座地
福岡県北九州市八幡西区山寺町12-36



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【福島八幡宮】福岡県八女市



福島八幡宮は福岡県八女市にある神社です。

旧社格:郷社。

寛文元年(1661)九月十八日に、
城外東部にある土橋八幡宮から
旧福島城の辰巳(東南)やぐらのあったところに勧請されました。

御祭神
応神天皇
息長足姫尊(神功皇后)
武内宿禰

鎮座地
福岡県八女市本町105−1


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2020年10月06日

【到津八幡神社】福岡県北九州市の神社



到津八幡神社(いとうづはちまんんじんじゃ)は、
福岡県北九州市小倉北区にある神社です。

到津八幡神社の歴史は古く、神功皇后が三韓征伐の後、
宇美の里で御子応神天皇をお産みになり豊浦宮へお帰りの時、
御座船を当地に着けられました。

後に一祠を建て皇后の和魂をお祀りしたのが
到津八幡神社の起源といわれています。

神功皇后の御霊をお祀りしたことから、
人々は安産を願うようになりました。

社前の川水を汲み、
産湯として使われるようになったといわれています。

現在、この川は板櫃川という名称ですが、
別に「産川」(ウブカワ)とも云います。
また、川の付近には「産川町」という町名もあるそうです。

文治4年(1188年)宇佐八幡大神を勧請し、
祭祀には宇佐の支族が任ぜられました。

永禄4年(1561年)大友義鎮が宇佐宮を攻め
廟社堂一宇も残らず焼きはらいました。

やむなく、宇佐宮の神官・社僧は神輿を守護し奉り、
天正11年(1583年)までの23年間、神璽を到津社に遷座しました。

以後、細川氏・小笠原氏の篤い崇敬を受け社殿等の改築がなされ、
現在に至っています。

旧社格:縣社、企救郡大社。

御祭神
応神天皇、神功皇后、多紀理比賣命
多岐都比賣命、市寸嶋比賣命、豊日別命

ご利益
安産守護、子どもの成長守護、水陸交通の安全
開運厄除け、家内安全、除災招福

鎮座地
福岡県北九州市小倉北区上到津1丁目8−1


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2020年10月02日

ニギハヤヒノミコトを祀る【福童神社】福岡県小郡市の神社



福童神社(ふくどうじんじゃ)は、
福岡県小郡市寺福童神屋敷にある神社です。

現在の神社明細帳には不詳とあるが、神殿内の古い木札によれば
弘治三年(1557)、室町時代末期に創建されたものと思われます。

木札の表面には
  彦山大権現
  高良大菩薩
  寳滿大菩薩
伊勢天照大神宮
  八幡大菩薩
  住吉大明神
  □□□□□(判読不可能)

裏面には、弘治三天(てむ)丁己(ひのとみ)朧月(ろうげつ)
十一月二日霊松山善福禅寺 住持比丘安叟老納誌之
(じゅじびくあんそうろうのうこれをしるす)とあり、
その当時は神仏混淆時代で、
善福寺の住職が神主をも兼ねていたことがうががわれます。

旧社格:村社。

御祭神
天照國照彦火明命(饒速日命)
アマテルクニテルヒコホアカリノミコト(ニギハヤヒノミコト)

菅原神(無格社 天滿神社を大正7年4月合祀)

鎮座地
福岡県小郡市寺福童神屋敷846


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2020年10月01日

ニギハヤヒノミコトを祀る【伊勢天照御祖神社】福岡県久留米市の神社



伊勢天照御祖神社
(いせあまてらすみおやじんじゃ/いせあまてるみおやじんじゃ)は、
福岡県久留米市大石町にある神社です。通称 大石神社。

創祀年代は不詳。式内社・伊勢天照御祖神社の論社。
旧社格:懸社。

国司越前守の何某かが、伊勢大神宮の瑞垣内の小石と古鏡を
ここに祀ったと伝えられています。

大石太神宮ともいわれ、古くは、伊勢御前神社、
あるいは天照御前神社と記されていたが、後に大石御前と記される。

『延喜式』神名帳は、筑後国三井郡三座のうちに
「伊勢天照国照御祖神社」を記すが、
久留米市御井町の高良大社の末社と当社に比定が分かれ、
他に『筑後国神名帳』の三潴郡「正六位上大石兵男神」を
当てる説もある。

古代の郡界が不明のため本来の所在地は定めがたい。
矢野一貞は『諸社捨実鈔』で当社を式内社としているが、
その論拠は注目に値する。

いわく
「社後の土中に許多の齎瓮埋もれたり、掬うべし、
 千年外の祭器なること疑いなし」。

現在の神社は市街地になっているが、
台地と筑後川の自然堤防の上に、
大石神社遺跡・速水遺跡・南崎遺跡など弥生時代中〜後期の遺跡が
ひろがっている。

大石町の当社の神体は、本殿土間にある巨石で、
支墓の上石あるいは古墳石室の蓋石かと推測されているが、
江戸時代の『筑後志』や社伝は、
この霊石が年々肥大するという伝承を伝える。

また石の大きさは「方九尺」、別に「方三尺」という。

この巨石を祀る伝承が神社発祥にひきつがれているとすれば
祭祀はより古く、巨石は磐座であるかも知れない。

またこの神社も、社名と祭神から見て物部氏の日神祭祀に
関連していたと思われる。

御祭神
天照国照彦天火明尊(饒速日命)
あまてるくにてるひこあめのほあかりのみこと(にぎはやひのみこと)

九州最強の河童王 「九千坊河童」
「九千坊河童」のふるさとは
中央アジアタクラマカン砂漠を流れるヤルカンド河の源流。

約二千年前のこの地方は
猛烈な寒気に襲われ酷寒と食糧不足に耐えかねた一族は、
移動することを決意し、中国の東部をめざして出発、
まずヤルカンド川を下り楼蘭を通過、敦煌、王門関等を経て、
一応青海に落着いたのであるが、
ここも依然として食糧不足に見舞われたので、
一族は蓮来島(瑞穂の国・日本)に渡ることを決意し、
九千坊は部下の九千匹を引連れて黄河を下り、黄海に出て、
仁徳天皇の治世の頃に熊本・八代の浜辺に辿り着き、
球磨川を安住の地と定め、千余年を平穏におくった。

千六百二十年頃のあるとき、肥後城主加藤清正公は、
清正公の小姓が河童に殺された事を理由に河童が最も苦手とする
猿の大群を用いて球磨川から追放した。

追放された九千坊一族は、
その後久留米の有馬藩主の許しを得て筑後川に移住した。

有馬公は寛大にも「今後人畜に悪さをせぬと誓うなら以後、
我が領土にて暮らす事を許してつかわす」と「九千坊」に申し渡した。

「九千坊」は有馬公に感謝し、
以後、水天宮(水の神様)の眷属として領民を水害から守る事を
誓ったと言う。

寛永15年ごろ、江戸の有馬家下屋敷に水神様分霊を祭ることになり、
九千坊一族もまた江戸品川に移住し、墨田川に住みついた。

しかし、九千匹の中には、好色なものや、酒癖の悪いもの、
悪戯者等もおったので頭目から破門されたものも数知れず、
破門された河童は利根川を始め次第に全国の河川に散らばっていった。

正保4年ころ、部下を統率するのには、
問題が多いと判断した九千坊は、再び藩主の許しを乞うて古巣、
筑後川に帰って来た。

鎮座地
福岡県久留米市大石町字速水132


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