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2022年05月04日
【龍王崎古墳群】 佐賀県杵島郡白石町
龍王崎古墳群は
海童神社背後の丘陵に分布する5世紀から6世紀にかけて
築造された約20基の円墳からなっており、
これまでに6基を調査。
墳丘の直径は14〜17mで、
横穴式石室でも早い時期に造られたと思われる
割石積みの石室も見られます。
6号墳の石室入口には家屋文様が線彫りされ、
出土品には金銅製の矢筒金具、国産七獣鏡、金銅製鈴、勾玉など
大陸・朝鮮半島の文化の影響がを受けたものが多く含まれ、
当時この地域で勢力のあった集団を示すものとして
学術的にも大きな価値をもっています。
佐賀県杵島郡白石町
2019年12月18日
久保泉丸山遺跡【縄文時代晩期〜古墳時代の複合遺跡】佐賀市金立町
久保泉丸山遺跡は、
金立山南麓より平野部に突出した丘陵上にあり
調査前は雑木林だった。
調査は昭和52年1月から昭和57年10月まで断続的に実施され、
縄文時代晩期〜弥生時代前期(約2200〜2400年前)の墓と
5・6世紀の古墳群などが発見された。
縄文時代のものには
甕棺(3基)、支石墓(130余基)、石棺(3基)があり、
遺構の内部及びその周辺から、
水稲耕作を裏付ける籾痕のある土器や石器等多数出土した。
古墳は10基あり、そのすべてが径4〜14mの円墳であるが、
内部主体には竪穴式石室、横穴式石室、舟形石棺などがあり
変化に富む。
古墳からの出土遺物としては土器をはじめとして、
鉄製品(剣・刀子・鏇・鉾・釧・斧・鏃等)や
石製品(小玉・管玉・勾玉・琴柱形石製品)がある。
このように丸山遺跡では
墳墓形式や出土品に多種多様なものがあり、
極めて学問的に高い価値をもつ複合遺跡ということができる。
丸山遺跡は九州横断自動車道の建設予定地内に存在していたので、
遺跡の西方約500mに移転され、野外博物館的施設として
活用されることになった。
縄文時代の支石墓に供えられた多くの土器から、
稲作を行なっていたことを裏付ける籾跡が発見されています。
佐賀県佐賀市金立町大字金立
2019年12月13日
『古事記』『日本書紀』に記載がない【応神天皇の曾孫】都紀女加王の墓/目達原古墳群 佐賀県上峰町
都紀女加王の墓 目達原古墳群
佐賀県上峰町坊所一帯の丘陵地には
目達原古墳群(めたばるこふんぐん)として、
大塚古墳・古稲荷塚古墳・稲荷塚古墳・塚山古墳
瓢箪塚古墳・無名塚古墳・横田南古墳等が存在していた。
しかし昭和17年-18年(1942年-1943年)の
目達原飛行場(目達原駐屯地)建設に伴って破壊され、
古墳群のうち主な5基が、7分の1の大きさの墳丘模型で
ここに改葬されている。
都紀女加王墓(つきめかのみこのはか)。
遺跡名は、上のびゅう塚古墳(かみのびゅうづかこふん)という。
昭和18年(1943年)に宮内省(現・宮内庁)によって
都紀女加王の墓に治定された。
都紀女加王は、『先代旧事本紀』に伝わる古代日本の皇族。
第15代応神天皇の曾孫(三世孫)で、
筑志米多国造の始祖とされる。
『日本書紀』『古事記』に記載はない。
『先代旧事本紀』「国造本紀」では、
次の国造が後裔として記載されている。
【竺志米多国造(筑志米多国造)】
志賀高穴穂朝(第13代成務天皇)の御世に息長公同祖の
稚沼毛二俣命孫の都紀女加を国造に定める、という。
のちの肥前国三根郡米多郷(佐賀県上峰町一帯)
または筑前国夜須郡馬田郷・下坐郡馬田郷周辺
(福岡県朝倉市一帯)に推定される。
都紀女加は安康天皇(第20代)・雄略天皇(第21代)の
従兄弟にあたるため、「志賀高穴穂朝」とは
安康天皇(和風諡号は穴穂天皇)を指すとも推測される。
古墳は前方後円墳で、前方部を西に向ける。
墳丘長は49メートルで5世紀の築造と推定されるが、
埋葬施設は明らかでない。
墳丘表面からは埴輪・葺石が見つかっているほか、
墳丘周囲に周溝が巡らされたことが明らかとなっている。
佐賀県三養基郡上峰町坊所