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2016年03月29日
徐福上陸地 金立神社 下之宮(金立権現社)
徐福上陸地
約2200年前、秦の始皇帝の命を受け不老不死の仙薬を求めて
日本に渡来したと伝えられる。方士(徐福)
徐福一行がまず着いたのは、杵島の竜王ア(佐賀県白石町)でしたが、
上陸に適さなかったので、海に大盃を浮かべ、これが流れ着いた
筑後川下流の搦(からみ)に上陸しました。
この古事に由来する浮盃という地名が今も町内に残っています。
浮盃(ぶばい)の地名の由来(佐賀市諸富町)
有明海にたどり着いた一行は、盃を浮かべて流れ着いたところから
上陸することにしました。
この故事から人々は盃が流れついたこの地を「浮盃(ぶばい)」
と呼ぶようになりました。
上陸しようとしたとき、暴風雨となり、船が転覆しそうになったが、アミ(小海老に
似た甲殻類)が船の間にびっしりとつかまって転覆をまぬがれたたため搦の人は、
その後アミをとらなくなったという。
徐福は生い茂るアシ(芦)の葉を手でかき払って上陸したので葉が片側だけについて
片葉のアシになってしまい、その落ちた部分がエツになったと伝えられている。
一行は上陸したあと井戸を掘って手洗ったので手洗いの井、
その音が訛って、てらい(寺井)地名になったといわれています。
徐福たちはしばらく同所に滞在し、やがて仙薬を求めて北方にそびえる
金立山に向って旅立ったと伝えられています。
金立神社 下之宮(金立権現社)
ここにあった金立権現社の跡地には「徐福上陸地」の石造の標識が立ち、
金立神社誌の記念碑があります。
約2200年前、秦の始皇帝の命を受け不老不死の仙薬を求めて
日本に渡来したと伝えられる。方士(徐福)
徐福一行がまず着いたのは、杵島の竜王ア(佐賀県白石町)でしたが、
上陸に適さなかったので、海に大盃を浮かべ、これが流れ着いた
筑後川下流の搦(からみ)に上陸しました。
この古事に由来する浮盃という地名が今も町内に残っています。
浮盃(ぶばい)の地名の由来(佐賀市諸富町)
有明海にたどり着いた一行は、盃を浮かべて流れ着いたところから
上陸することにしました。
この故事から人々は盃が流れついたこの地を「浮盃(ぶばい)」
と呼ぶようになりました。
上陸しようとしたとき、暴風雨となり、船が転覆しそうになったが、アミ(小海老に
似た甲殻類)が船の間にびっしりとつかまって転覆をまぬがれたたため搦の人は、
その後アミをとらなくなったという。
徐福は生い茂るアシ(芦)の葉を手でかき払って上陸したので葉が片側だけについて
片葉のアシになってしまい、その落ちた部分がエツになったと伝えられている。
一行は上陸したあと井戸を掘って手洗ったので手洗いの井、
その音が訛って、てらい(寺井)地名になったといわれています。
徐福たちはしばらく同所に滞在し、やがて仙薬を求めて北方にそびえる
金立山に向って旅立ったと伝えられています。
金立神社 下之宮(金立権現社)
ここにあった金立権現社の跡地には「徐福上陸地」の石造の標識が立ち、
金立神社誌の記念碑があります。
徐福と日本神話の神々 [ 前田豊 ] |
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2016年03月25日
2016年03月22日
三笠神社
高橋主膳正鎮種(入道号 高橋紹運)
室 齋藤兵部太夫鎭實の妹
男 立花直次
紹運八世の孫立花出雲守種周若年寄となり幕政に参與。
事により退けられ三池郡の封を失い奥州伊達郡の中五千石賜る。
此所に於いて紹運公の義烈を顕彰せんとし神祇伯に請い霊神号を給わり、
伊達郡下手渡村に社殿を新築し三笠神社と号す。
天保六年(西暦1835年)乙未七月五日。
後又三池郡中五千石を賜りしを以て明治三年八月三池郡 今山村東山に御遷座。
福岡県大牟田市鳥塚町
日本の神社完全名鑑 [ かみゆ ] |