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2024年10月20日

忍城の城下町を歩いてみた(行田市)

<埼玉県行田市>
Gyoda-Urbanarea.JPG
忍城訪問のついでに、城下町のなごりを求めて市街地を散策してみました。

<高札場跡>こうさつば
Kosatsuba-Edoperiod.JPG
こちらは高札場跡です。人目のひくような場所に設置されるのですから、城下のなかでも多くの人の行き交う場所だったのでしょう。場所は現在の武蔵野銀行行田支店です。

<武蔵野銀行行田支店>
Musashino-Bank-Gyoda-Branch.JPG
高札場跡碑が設置されている武蔵野銀行行田支店は、かなり歴史のある建物です。もともとは忍貯金銀行の店舗で、昭和初期の竣工とのこと。忍城の城下町として発展した行田が、そのまま明治・大正・昭和と繁栄したことが伝わってきますね。行田の繁栄を資金面から支えた地元銀行の建物は、いまでは国登録有形文化財となっています。

<本陣跡>
Oshijuku-Honjin-Ato.JPG
忍城の城下町は街道の宿場という役割も担っていました。

<通り沿い>
Informationboard-Similartokosatsuba.JPG
現在の通りのあちらこちらに高札場風の説明板が設置されています。

Information-Board-Kaihime.JPG
こちらには行田にまつわる話が紹介されています。説明板ごとに掲載内容は異なりますが、やはり忍城ゆかりの話が多いですね。ここには忍城主の娘・甲斐姫の話が紹介されていました。

Information-Board-Gyoda.JPG
こちらのタイトルは「浮き城のまち・行田」です

Information-Board-Oshicastlelord.JPG
この説明板のおかげで、忍城は老中排出数1だということを知りました。江戸から近いこともあり、幕府から信用されている人しか忍城の城主は務まりません。譜代大名や親藩の居城です。江戸時代のエリートコースだったということですね。

Information-Board-Tabi-Industry.JPG
特産品の足袋にまつわる説明板もあります。

行田は江戸後期から足袋の生産が盛んとなり、繁栄は昭和初期まで続きました。足袋産業に関わりのある蔵造りの建物がいまも残り、一部は観光の目玉にもなっています。ただ、やはり忍城の城下町という印象が強いですね。街の演出においても、忍城が前面に打ち出されています。私は城をメインテーマに訪問していますので、何となく嬉しかったですね。

Directions-Oshijo.JPG
行田市の観光名所はたくさんありますが、私が散策したエリアは忍城跡から徒歩圏内です。城巡りのついでに足を伸ばしてみることをお勧めします。

Objects-Along-Street.JPG
X-Isuke-20240923.JPG
通り沿いに多数設置されているこんな素敵な童たちが出迎えてくれます。

■訪問:行田市内
[埼玉県行田市行田]本丸 他

----------(追 記)----------

<行田八幡神社>
Gyoda-Hachiman-Shrine-Gate.JPG
行田の総鎮守神社とされるこちらの神社も人気スポットです。忍城主ゆかりの神社として、次の投稿で簡単ではありますがご紹介させて頂きます。


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■参考・出典
・高札風説明板「Gyoda Story」
・現地説明板(行田市教育委員会)
・Wikipedia:2024/10/20

タグ:埼玉

行田兵衛尉館のなごり(行田市)

行田市を散策中にこんな石碑を見かけました。
<行田兵衛尉館跡>
Yakata-ato-Stone-Monument.JPG
行田兵衛尉?

行田市教育委員会と刻まれていることからきっと歴史的に意味深い館跡なのだろうと思い、裏側を見ると説明がなされていました。ちょっと読みにくいところもありましたが、大筋では、成田氏六代助広の三男・助忠が源義経の出陣(一の谷合戦)に従軍し、その功によって行田の地を与えられ、ここに館を構えて行田氏を名乗ったということのようです。

といっても…

<現地>
NTT-Gyoda.JPG
現地はすっかり市街地化されており、遺構があるわけでもありません。石碑の背後のビルはNTT東日本。その敷地の片隅に、ひっそりと石碑が佇んでいるだけです。

まぁ、ここは成田氏の居城として知られる忍城跡のすぐ近く。館の主である行田兵衛尉が、忍一族を滅ぼしてこの地を支配した地元豪族・成田氏の庶流であることが分かり、何となく納得して現地を去りました。

■訪問:行田兵衛尉館跡
[埼玉県行田市忍]2-17-18 


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■参考:
行田兵衛尉館跡碑説明文
(行田市教育委員会)

タグ:埼玉
posted by Isuke at 20:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]

2024年10月19日

忍宿のなごり(行田市)日光脇往還の宿場

忍城の城下町として栄えた行田日光脇往還の宿場という役割も担っていた町です。
<忍宿本陣跡>
Oshijuku-Honjin-Ato.JPG
こちらが本陣跡です。現在は埼玉県信用金庫となっている敷地に、御本陣跡と刻まれた石碑が設置されています。屋敷等の遺構はないものの、位置的に納得する場所です。

日光脇往還は八王子から日光までを結ぶ古くからある道で、江戸時代には、幕府の家臣団である八王子千人同心が、日光東照宮の火の番を勤める時に通る道として整備されました。八王子千人同心の歴史をさかのぼると甲斐武田時代にまでなってしまうので省略しますが、治安維持を主な目的に八王子に配置され、のちに東照大権現として家康がまつられている東照宮の防火と警備にあたるようになりました。八王子から、江戸を経由しないで直接日光へ向かうための道が日光脇往還であり、忍城の城下は、その途上の宿場でもありました。具体的には吹上宿(埼玉県鴻巣市)と川俣宿(群馬県明和町)の間に位置する宿場です。

<忍宿のなごり>
Oshijuku-Post-Station.JPG
日光脇往還は八王子街道、あるいは千人同心街道などとも呼ばれます。ただ、他の主要な街道と比べると、あまり有名ではありませんね。繁栄した行田の町には、いろんな顔がありますが、日光脇往還の宿場というやや地味ながら重要な大役も担っていました。

■訪問:忍宿本陣跡
[埼玉県行田市行田]5-13


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■参考
・Wikipedia:2024/10/19
・八王子市HP
八王子の歴史・文化財>八王子の歴史
>八王子千人同心の歴史

https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/003/002/p005303.html
posted by Isuke at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 街道・古道

2024年10月18日

東京駅近くで感じる江戸城外堀のなごり(丸の内)八重洲北口

東京駅のすぐ近くで城のなごりを感じてきました。

Edo-Castle-Stones.JPG
ここは東京駅八重洲北口から徒歩数分のところです。ただの植え込みと思って通り過ぎてしまいそうですが、よく見れば立派な石が積まれています。

これらはもともと江戸城の一部だったもの。江戸城外堀で使用されていた石材のようです。

Explanation-Board-Castle-Stones.JPG
設置してある説明板には、鍛冶橋門北方の江戸城外堀を発掘調査した際に出土した石材を移築再現したものと記されています。鍛冶橋門は現在の東京駅の南に位置する城門ですので、その北側ということは、東京駅八重洲南口付近ということになります。八重洲北口から歩いて数分、すぐ近くということですね。

その付近の外堀の石垣は、高さ約10mで、発掘調査の段階では、土台の2段程度が積んである状態だったと記されています。使用された石材は、神奈川県真鶴の安山岩と瀬戸内海沿岸の花崗岩。はるばる江戸まで運ばれ、江戸城外堀の一部を構成していたわけですね。

Stone-Wall-Yaana-Ruins.JPG
石の隅の凸凹は矢穴のあとですね。石を割るために開けた穴の跡です。

ところで…
頑丈そうな大きな石材とは別に、小さな目の石材も目立ちますね。この答えは説明板をよく見れば分かります。

Explanation-Board-Map.JPG
説明板を拡大しました。右上の外堀跡とは別に、赤く塗られたエリアで見つかった石材も含まれているようです。外堀に沿うように武家屋敷が建ち並んでいたようなので、屋敷や水路などで使われていた石材も混じっているのかもしれません。まぁこの時代、そして総構えの江戸城の場合、城と城下町はセットのようなもの。どちらも城の遺構と言えなくもありませんね。

ちょっとマニアックなことを言うと、移築再現と表現されていますが、石垣内部まで再現しているわけではないので、あくまで見た目の再現ですね。ただ、出土した実物が積まれていることは事実ですので、歴史の重みを感じます。

Stone-Wall-Ruins-Edojo-Sotobori.JPG
この付近の外堀は既に埋められています。すぐ近くを通る外堀通りが、かつての外堀です。そして、武家屋敷街も姿を消しました。ここに積まれた石材はすべて、姿を消してなお残さる余韻のようなもの。かつてあった巨大な江戸城のなごりと言えますね。

■訪問:江戸城外堀跡の石垣
 (東京駅八重洲北口付近)
[東京都千代田区丸の内]1丁目


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■参考:現地説明板
タグ:23区
posted by Isuke at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[都内]

2024年10月14日

真田の里の総鎮守(沼田市)沼田榛名神社

沼田城を訪問した帰りに、沼田の榛名神社にお邪魔させて頂きました。
<榛名神社鳥居>
Haruna-Shrine-Numata.JPG
創建 1529年(享禄二年)。沼田城の支配者は何度も入れ替わりましたが、榛名神社は代々の城主が崇敬した沼田の総鎮守です。特に真田氏とゆかりは深く、1615年(元和元年)に真田信之が社殿を改築したと伝わります。本殿扉には真田六文銭が描かれています。

実は…
過去に一度参拝しているし、この日は沼田市内と坂道を歩き続けて疲れていたので、榛名神社にはお邪魔しないつもりでした。ところが駅へ向かう途中、遠くの方に巨大な鳥居が見えてしまい、方向を変えてのろのろと歩き続けました。

<一の鳥居>
First-Torii-Gate-Haruna-Shrine.JPG
かなり大きいです(高さは約9m)。これは平成になってから設けられた鳥居だそうです。

<二の鳥居>
Second-Torii-Gate-Haruna-Shrine.JPG
ここからは長い参道を一直線に進むたけ

<三の鳥居>
Third-Torii-Gate-Haruna-Shrine.JPG
何となく速足になる

<四の鳥居>
Fourthi-Torii-Gate-Haruna-Shrine.JPG
ほぼ到着です

あとはゆっくりと…

<榛名神社>
General-Guardianship-Numata.JPG
神社独特の空気が漂いながらも何となく和める雰囲気

<手水所>
Ginmeisui.JPG
銀明水と名付けらた手水は湧水とのこと。『御鎮座よりよりはるか昔から湧き出ている』と記されています。

<境内>
Haruna-Shrine-Kagura.JPG
授与所の奥に神楽殿

<拝殿>
Shrine-Building-Numata-Haruna.JPG
何かを具体的にお願いする習慣がないので、ご挨拶の気持ちを込めて参拝させて頂きました。

<お守り>
Sanada-Rokumonsen-Charm.JPG
すっかり雰囲気に浸って、真田六文銭が記されたお守りを購入させて頂きました。

<真田の里>
Sanadayukarinojingya.JPG
私は真田ゆかりの神社のつもりで訪問していますが、沼田城を築いた沼田氏から始まり、真田が去ったあと藩主として沼田の統治にあたった本多氏土岐氏にとってもゆかりの神社です。本多氏は荒廃してしまった沼田領内の再興に務め、土岐氏は明治まで12代に渡って沼田藩主を務めました

<榛名神社扁額>
Guardian-of-Numata.JPG
足が棒になりつつも、お邪魔できてよかったです

■訪問:榛名神社
[群馬県沼田市榛名町] 2851


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■参考
・Wikipedia:2024/10/14
・利根・沼田の総鎮守 榛名神社HP

http://harunanomori.org/harunajinjya/010_history.html
タグ:群馬
posted by Isuke at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2024年10月13日

真田信之正室・小松姫のお墓(沼田市)正覚寺

沼田市にある小松姫墓所を訪ねました。
<小松姫墓所>こまつひめ
Komatsuhime-Grave-Numata-City.JPG
こちらです。沼田市の重要文化財に指定されています。周囲の墓石には少しだけ画像に手を加えさせて頂きました。

徳川四天王に名を連ねる本多忠勝の長女・小松姫は、その当時の政治的な理由を背景に真田家に嫁ぎました。相手は真田昌幸の長男・真田信幸(のちに信之に改名)でした。

小松姫は本多家からではなく、一旦徳川家の養女となってから、真田家に嫁いでいます。つまり徳川家からの嫁入りです。一方、真田信幸には既に正室がいましたが、側室に格を変更してから小松姫を迎え入れています。この大掛かりな婚姻には、対立関係にあった真田・徳川両家の緊張緩和の意味が込められていました。

しかし豊臣秀吉がなくなると、その関係は再び悪化。その結果、夫である信幸は徳川方に留まりますが、家康の与力大名だった義父・昌幸が義弟の信繁(幸村)とともに離脱し、石田三成の挙兵に呼応する道を選びました。

いろんな板挟みの中で、真田・徳川両家の調整役を担い、夫を支え続けた小松姫。いろいろな逸話があり、どれが史実か分かりませんが、総じて褒めたたえる内容が多く、利発で才色兼備の女性という評価が一般的です。

江戸屋敷で暮らしていた小松姫は、48歳の時に病を患います。療養のために上州草津に向かいますが、その途中の武蔵国鴻巣で没しました(1620年)。小松姫の遺骨は分骨され、鴻巣の勝願寺と上田の芳泉寺、そしてここ正覚寺にそれぞれ葬られました。

<正覚寺山門>
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沼田市指定重要文化財の山門。現地説明板によれば、建築技法や彫刻に、江戸時代後期の特徴をとどめている貴重に文化財のようです。

奥へ進むと

<境内標識>
Shogakuji-Temple-sign.JPG
これなら迷うこともありません

そして

<大蓮院殿の墓>だいれんいんでん
Daireninden-No-Haka-Numata.JPG
稲姫とも称された小松姫の戒名は大蓮院殿英誉皓月大禅定尼。説明板によれば『総丈二七一センチの宝篋印塔。塔身に、「阿弥陀三尊(梵字)大連院殿 英誉皓月 元和六年庚申二月廿四日 施主敬白」の刻銘がある。相輪の蓮華が細かく屋蓋の彫りは強く、塔身・基礎は荘重な形で、江戸時代初期の宝篋印塔の特徴を良く表している』とのこと。

<説明板>
Shogakuji-Temple-Information-Board.JPG
小松姫に関する説明文です。有名な逸話の部分を転記させて頂きます(『』内)。
『翌年七月信幸は沼田城主となり、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の役において徳川方に従い、東軍に付くことになった。敵味方に別れた信幸と父昌幸、弟信繁(幸村)が佐野犬伏から上田に帰る途次に沼田城を訪れた際、入城を拒んだ大連院殿は女丈夫とうたわれた。』
じょじょうふ?今ではあまり使われない言葉ですが、要するに気も強くしっかりしているという意味ですね。さすが本多忠勝の娘です。

<墓所からの眺め>
Distantview-Numata.JPG
正覚寺からは、利根川に沿った低地が一望できます。小松姫がいまも見守っている景色です。

以上
小松姫のお墓の紹介でした。

<小松姫の墓>
Daireninden-Grave-Numata-City.JPG

■訪問:
小松姫の墓(正覚寺)
[群馬県沼田市鍛冶町]938


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■参考
・Wikipedia:2024/10/13
・沼田市観光協会HP
「大蓮院殿の墓」

https://www.numata-kankou.jp/sanada/index.html
タグ:群馬
posted by Isuke at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2024年10月05日

真田の城 上州沼田城

つわものどもが夢の跡
真田の城として知られる沼田城を訪問しました。
<沼田公園の鐘楼>しょうろう
Numata-Park-Symbol.JPG
沼田公園のシンボルとなったてる鐘楼です。かなり以前に訪問した時も真夏でした。まったく同じ景色です。土地の有力者である沼田氏築城から始まる城は、やがて関東の覇権を巡る軍事上の重要拠点となりました。


<沼田公園入口>
Numata-Park-Entrance-Gate.JPG
沼田城跡はかつての本丸・二の丸を中心に、周辺の曲輪の一部も含めて公園として整備されています。こちらは公園のメインケートです。冠木門風の門には「天空の城下町」と表示されています。城が山の上で城下町は麓という例はたくさんありますが、沼田の場合、城も城下町も同じ丘の上に築かれています。

<堀の跡>
Numatajo-Third-Bailey-Moat-Ruins.JPG
入口の左手の斜面は人の手が加えられた堀の跡です。上部には土塁跡が確認できます。

<沼田公園>
Numata-Park-Entrance.JPG
奥へ進んだところで撮影しました。この付近は三の丸。沼田城は比高で約60mの河岸段丘上に築かれ、本丸の周りに曲輪を拡張しながら近世城郭としての完成に至った城です。この付近には武家屋敷が建ち並んでいたと思われます。説明板が設置されていますので、引用させて頂きながら、歴史の概要を説明させて頂きます(『』内は原文の転記です)。

<説明板>
Numata-Castle-History-Explanation-Board.JPG
まず沼田城は『天文元年(一五三二)に三浦系沼田氏十二代万鬼斎顕泰が約三ヶ年の歳月を費やして築いた』とされています。当時は蔵内城と称したようです。私は真田の城というイメージで訪問していますが、沼田氏から始まる城ということですね。
やがて築城から48年後、『天正八年(一五八〇)武田勝頼の武将真田昌幸が入城し、城の規模を広げた。天正一八年((一五九〇)昌幸の長子信幸が沼田領二万七千石の領主となり、慶長年間に五層の天守閣を建造した』とあります。城の完成度のピークは、真田の時代ということですね。
しかし『天和元年(一六〇一)に真田氏五代城主伊賀守が江戸幕府に領地を没収され、翌二年一月に沼田城は幕府の命により破壊』されました。伊賀守とは真田信利(信直)のことです。松代藩相続争いに始まり、最後は独立した藩として沼田藩を立藩したものの、松代藩への対抗意識から石高を実際より多く幕府に報告し、領民には重税を課しました。領内で多数の餓死者を出し、治世不良で幕府から改易されました。領民思いの真田信幸とは真逆の統治者の出現で、真田家による沼田支配は幕引きとなりました。

そして…
その後の沼田城について。『本多氏が旧沼田領一七七ケ村のうち四六ケ村・飛地領合わせ四万石の藩主として入封し、幕府の交付金で城を再興し三の丸に屋形を建てた。次いで、黒田氏二代、土岐氏一二代の居館となったが、明治になって版籍奉還し、屋形も取り壊された。時を経て本丸・二の丸跡が、現在の沼田公園に変貌した』

少し補足すると、荒れ果てた城跡を旧沼田藩士の家の久米民之助さん(土木技術者・衆議院議員)が私財を投じて整備し、旧沼田町に寄付したことが沼田公園の始まりです。

<あずまやと寿楽園碑>
Numata-Park-Azumaya-Monument.JPG
炎天下の訪問のため少しだけ休ませて頂いたあずまやです。奥に見えている石碑は寿楽園碑。久米民之助さんは整備した公園を「寿楽園」と名付けました。しかし市民は「久米公園」と呼んでいたそうです。感謝の気持ちの現れですね。

<本丸堀跡>
Numata-Castle-Moat-Ruins.JPG
本丸と三の丸を隔てる堀跡を本丸側から撮影しました。以前訪問した時には、柵の向こう側はテニスコートでした。発掘調査の影響で、今回の訪問時にはただの平らな区画となっていました。

<沼田城本丸発掘調査説明板>
Numata-Castle-Honmarubori-Explanation-Board.JPG
説明文によれば、現存の石垣は堀底から約1m50p程度ですが、元々は6mくらいだったようです。真田時代に築かれたと考えられています。

<鐘楼>
Numata-Park-Bell-Tower.JPG
本丸跡に再建された鐘楼。沼田城に城鐘が設置されたのは真田信吉の時でした。鐘は複製で、現物は群馬県重要文化財の指定を受け、現在は沼田市歴史資料館に展示されています。

<西櫓台の石垣と石段>
Numata-Castle-Nishiyagura-Stone-Steps.JPG
こちらは西櫓台の石段と石垣。発掘調査で明らかになりました。名の通り、ここは本丸の西隅です。

<西櫓台の石垣>
Numata-Castle-Nishiyagura-Stone.JPG
沼田城の貴重な遺構です。真田時代の石垣と考えられています。

<西櫓台の西側>
Numata-Castle-DoNotEnter.JPG
以前はここも通れましたが、立ち入り禁止となっていました。城の隅っこですからね。

<西櫓台の北側>
Numata-Castle- (11).JPG
こちらはもともとの地形ではなく堀切跡ですね

次に
本丸西櫓跡からお隣の曲輪跡へ。高低差はあるものの本丸と地続きとなっている捨曲輪です。

<捨曲輪からの景色>すてぐるわ
view-from-Numata-Castle.JPG
捨曲輪からの景色。河岸段丘の上から利根川の低地を見渡すことができます。沼田城は利根川と薄根川の合流点付近の台地上に築かれています。捨曲輪は古城とも呼ばれ、沼田氏が築城した時の中心的な曲輪と推定されています。

<名胡桃城遠望>
Distantview-Nagurumijo.JPG
沼田城から北西を眺めた景色です。やや山の陰となりますが、利根川に架かる橋の左側、で記したところが名胡桃城です。豊臣秀吉の裁定で、川の向こうの名胡桃城は真田、そして沼田城は小田原北条氏のものとなります。しかし沼田城の城代となった北条配下の猪俣邦憲が名胡桃城を略奪するに至り、これが秀吉による小田原征伐のきっかけとなりました。言い換えると、同時の沼田城の支配者に起因して、北条氏は滅んでしまいました。その戦後処理で、沼田城は真田に返還されました。

<平八石>
Heihachirou-Stone.JPG
捨曲輪には、真田昌幸が沼田平八郎景義の首を載せたと伝わる石が置かれています。沼田氏の子孫である沼田平八郎は、沼田領奪回を目論み挙兵しましたが、騙し討ちにより命を落としました。

<天狗堂>
Numatajo-Suteguruwa-Tengudo.JPG
捨曲輪の隅の天狗堂と呼ばれるお堂です。堂内には巨大な木彫りの天狗面が安置されています(造られたのは昭和)。

<堀切>
Numata-Castle-Suteguruwa-Horikiri.JPG
捨曲輪の向こう側に住宅が見えています。地続きの台地を削った堀切跡ですね。

捨て曲輪から再び本丸へ

<本丸と捨曲輪の高低差>
Numata-Castle-Suteguruwa.JPG
本丸と捨曲輪の間の傾斜です。本丸が城の要であるのに対し、捨曲輪は戦闘になった場合に本丸から打って出るための区画で、形勢によっては放棄するつもりで築かれた曲輪です。本丸と捨曲輪は高低差があるだけで繋がっています。

かなり大きな石碑に足が止まりました。

<五大尊講碑>
Numata-Castle-Godaimyoou-Stone.JPG
台座に説明が刻まれていますが、私にはちょっと難解でした。ただ、沼田を治めた土岐氏と関係があることだけは分かりました。五大尊とは不動明王ほか五大明王の総称。土岐氏が城内に建立した寺が廃寺となり、代わりにこの石碑に五大明王が祀られているものと思われます(個人の推定含まれております)。

<真田信之と小松姫>
Stone-Statue-Numata-Castle.JPG
本丸跡の真田信之・小松姫夫婦の石像です。

真田信之は真田昌幸の長男。父から沼田領を任され、沼田城主として北上州を治めました。天下分け目の関ヶ原の戦いでは父・弟と決別し、徳川家康率いる東軍に与する道を選びました。最終的には信濃松代藩の初代藩主となっています。一般的には弟の信繁(幸村)の方が有名ですが、信之は真田家を守り、領民思いの統治を行った名君として知られています。

妻の小松姫は、徳川四天王のひとり本多忠勝の娘です。政治的な理由で、徳川家の養女を経て信濃国上田を本拠とする真田家に嫁ぎました。真田家と徳川家の調整役を担い、夫を補佐して難しい局面に立たされた真田家を守り抜きました。小松姫は男勝りの勇ましさ、機転に富んだ行動力、そして深い情を備えた女性だったようです。

<利根英霊殿>
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本丸の東側には利根沼田地区出身の戦没者が祀られています。奥が盛り土で高くなっており、天守はこの位置にあったのではないかとも言われています。ただ、西櫓台跡のような石垣も確認できず、更に正確な位置もわかっていないようです。

<沼田城の絵図>
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どこまでがリアルな城の姿なのか分かりませんが、沼田城には関東では珍しい五層の天守があったとされています。

<二の丸跡>
Numata-Castle-Ninomaru.JPG
広大な二の丸跡です。低くなっているので、初めて見た時は堀跡と勘違いしましたが、曲輪の跡です。家臣団の屋敷が建ち並んでいたと思われます。この区画の更に外側(画像右側)、現在は住宅地や学校になっているところも、かつては城内でした。

<つわものどもが夢の跡>
Numata-Castle-Ruins.JPG
真田の城として有名な沼田城は、奪い奪られ、そして奪い返しが繰り返された城跡です。深い歴史が刻まれた城跡は、続日本100名城に選定されています。


--------■ 沼田城 ■--------
別 名:倉内城
築城者:沼田顕泰
築城年:1532年
城 主:沼田氏 猪俣氏
    真田氏 他
改修者:真田信幸 他
廃城年:1682年
(のちの藩庁時代除く)
[群馬県沼田市西倉内町]


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■参考・出典
・現地説明板
(沼田市教育委員会)
・Wikipedia:2024/10/5
・沼田市観光協会HP
 >沼田城

https://www.numata-kankou.jp/sanada/index.html
タグ:群馬
posted by Isuke at 20:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]

2024年10月04日

関東唯一の五層天守(沼田城)

<真田時代の沼田城>
Numata-Castle-Pictorial-Diagram.JPG
沼田城本丸跡に設置されている説明板です。真田家五代で91年間続いた沼田城の姿です。ひときわ高い位置に描かれた天守の姿が目をひきます。

あくまで個人的にですが、沼田城の天守については長らく懐疑的でした。しかし最近の沼田市教育委員会による発掘調査では、天守の柱を支えていたとみられる礎石や、大きな石を抜き取った痕跡などが見つかっています。

<利根英霊殿>
Numata-Castle- (12).JPG
こちらは沼田城本丸跡の利根英霊殿。利根沼田地区出身の戦没者が祀られています。奥が高くなっていて、この付近に天守台があったのではないかと推定されています。沼田市教育委員会による発掘調査も、この付近で行われました。

<説明板>
Numata-Castle-Tower-Explanation-Board.JPG
こちの説明板には「上野国沼田城絵図」と天守に関する説明が掲載されています。左側の絵図は、江戸幕府が全国の城の様子を絵図で提出させた時のものですので、現実と乖離していることは考えにくいと思います。軍事に関することなので、報告と実態が異なれば、罰せられることもありえる時代ですからね。真田氏として4代目の城主となる信政の時代の沼田城の姿です。

右側に天守に関する説明が掲載されています。懐疑的だった私の主観が入らぬよう一旦そのまま転記させて頂きます(『』内は原文)。

『沼田城の天守は、真田氏初代城主となった信之(幸)が慶長年間(1596〜1614)に建造したと伝えられ、城絵図や古文書から規模は柱間で9間☓10間(推定18m四方)の5層であったとされています。天守は、この右奥に位置していたと考えられますが、幕府に提出したこの絵図によると、天守東の石垣は堀の底から8間もの高さがあり、屋根には千鳥破風(三角形の屋根)が多くみられ、最上階には高欄が巡っていた様子が分かります。関東における5層の天守は江戸城以外は沼田城だけであったことや、天守付近から金箔瓦(金箔を張った瓦)も見つかっていることから、関東において沼田城は特別な城であったと考えられます。
 この名城も、残念ながら5代伊賀守が天和元年(1681)に改易となった後に、幕府によって全て破却されて、以後、天守や櫓は再建されることはありませんでした。』


天守を築城したのは真田信之。信之の時に沼田城は本格的な近世城郭に生まれ変わっていますので、その大改修の目玉が天守だったのかもしれませんね。沼田と聞くと、あまり大きくはない藩をイメージしてしまいますが、真田信之は沼田と上田を合わて約10万石の大名になっていました。そして、父・真田昌幸が居城としていた上田城が破壊されて使用できないため、信之の本拠はしばらく沼田城のままだったそうです。それらを考慮すると、まったく身の丈と合わない投資とも言えないような気もしますね。

ただ、それにしても天守が五層とは凄いです。説明文にもある通り、関東で5層の天守があったのは江戸城と沼田城だけでした。しかも、江戸城の天守は明暦の大火(1657年)で焼け落ち、それ以降再建されていません。

ということは…
沼田城が廃城となるのは1682年ですので、その間の四半世紀は関東で5層の天守があったのは沼田城のみだったことになります

<五層の天守>
Numatajo-Castle-Tower-Image.JPG
かなり特殊なケースと言えますね

■訪問:沼田城本丸跡
[群馬県沼田市西倉内町]


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■参考・出典
・現地説明板
(沼田市観光協会)
(沼田市教育委員会)
・Wikipedia:2024/10/4
・沼田市観光協会HP
 >沼田城

https://www.numata-kankou.jp/sanada/index.html
タグ:群馬
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2024年09月28日

城址公園のシンボル(沼田城)真田信吉が思いを込めた城鐘のなごり

<沼田公園の鐘楼>しょうろう
Numata-Park-Bell-Tower.JPG
いまや沼田城跡のシンボルとなったてる鐘楼。鐘の始まりは、沼田城主が真田信吉の時でした。

信吉は真田信之の長男です。父である信之が祖父・昌幸から沼田を任されたように、信吉も父から沼田の統治を任されました。領内の安泰を祈願して、城鐘を鋳造させたそうです。父同様、領民思いの城主だったようです。

信吉亡きあとの話になりますが、真田家による沼田統治は五代91年で幕引きとなります。終焉を迎えるにあたり、沼田城は徹底的に取り壊されました。信吉が思いを込めた城鐘はどうなったのでしょうか?

以下は沼田市教育委員会さんによる鐘楼の説明文です(『』内は写しです)。
『真田氏が沼田城主時代は城内に建てられていたが、廃城により取りこわされた。明治二十年ごろ沼田町役場(藩役所跡 現市役所)東北隅に楼を建て柳町歓楽院の梵鐘を借りて時の鐘にした。十年後に楼を修復した際その鐘を返し平等寺で保存の城鐘を懸け替えた。
以来鐘楼は鐘橦堂と呼ばれ、戦時下にも供出をまぬがれたその鐘の音は、永く市民に親しまれてきた。昭和三十九年市役所庁舎建設に際し撤去されたが、市民の熱望により城の本丸跡のここに移して復元新築された。』


真田時代の鐘は、城の破却で役割を終えたわけですね。城鐘を活用しようと動きだしたのは、かなりあとの明治になってから。鐘の音は長きに渡って市民に親しまれ、その市民の要望に応えるかたちで、城跡である沼田公園内に新たに復元されたということのようです。

<城鐘>じょうしょう
Numata-Castle-Bell.JPG
市民の思いが込められています

少し補足すると、現在の鐘は複製で、城鐘のオリジナルは、群馬県重要文化財の指定を受けて沼田市歴史資料館に展示されています

<沼田公園のシンボル>
Numata-Park-Symbol.JPG
沼田公園のシンボルは真田時代のなごりといえますね

■訪問:沼田城本丸堀跡
[群馬県沼田市西倉内町]


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■参考・出典
・現地説明板
(沼田市教育委員会)
・沼田市観光協会HP
 >沼田城

https://www.numata-kankou.jp/sanada/index.html
タグ:群馬
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2024年09月27日

発掘調査後の本丸堀跡(沼田城)公園のテニスコートそのものは堀跡ではなかった

再訪した沼田城跡で、本丸堀の勉強をさせて頂きました。
<沼田城本丸堀跡>
Numata-Castle-Moat-Ruins.JPG
発掘調査後の沼田城本丸堀跡です。

<沼田城本丸発掘調査説明板>
Numata-Castle-Honmarubori-Explanation-Board.JPG
こちらは調査に関する説明板です。左下の図解が分かり安い。これによれば、現存の石垣は堀底から約1m50pですが、もともとは6mくらいだったようです。石垣の更に上に塀を設けていたとすると、かなりの高さになります。また石垣の裏側に積まれる小石などは、堀底から約3mのところまで確認できたとのこと。沼田城につぎ込まれた技術を知る貴重な調査結果です。

<沼田城本丸跡説明板>
Numata-Castle-Honmarubori-InformationBoard.JPG
こちらには『幕府に提出した絵図(正保城絵図)によると、本丸側に唯一石垣が積まれた沼田城で最も規模が大きな堀』と紹介されています。また『絵図には堀幅12間(約24m)で本丸に入る櫓門付近の石垣高は3間(約6m)と記されています』とのこと。以下は要約すると、平成9年の調査で、植え込みの中から石垣の一部や、崩された石や瓦が多数出土したようです。このことから、地中にはさらに石垣の下部が現存しており、城が壊された時に埋められた大量の瓦や石が埋没していると考えられているそうです。(『』内は原文のまま)

前回訪問した時には、本丸の南側にはテニスコートがありました。

<ビッフォー>
Numatajo-Before-Excavation-Survey.jpg
前回訪問時に撮影した本丸の南側です。市民の憩いの場として活用されていることが伝わってくる光景です。テニスコートの区画がくっきりと整備されていたため、私はこの敷地がそのまま堀跡だと受け止めました。

<アフター>
Numatajo-after-Excavation-Survey.JPG
しかし今回の訪問でわかったことは、かつての堀はテニスコートの一部(北側)で、他は公園として整備した時のものだということ。そして本来の本丸堀は、お隣のグラウンド(東側)からこの区画を通り越し、現在の観光案内所(西側)付近までつながっていたということ。

再訪したおかげで、やっと本当の姿を知ることができました。

説明板によれば、調査で出土した瓦には、信州上田城との類似性が認められるそうです。沼田城の歴史は長いですが、本丸堀付近の造作は真田時代のなごりということですね。戦国の乱世を生き残り、ここ沼田にも根をはった真田家は五代続きました。専門家による発掘調査により、そのなごりがまた明らかになったということですね。

<本丸堀石垣跡>
Numata-Castle-Honmaru-Moat.JPG
つわものどもが夢の跡

■訪問:沼田城本丸堀跡
[群馬県沼田市西倉内町]


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■参考・出典
・現地説明板
(沼田市教育委員会)
・沼田市HP
> 沼田市教育委員会 > 歴史・文化財
> 沼田城発掘調査事業 >

https://www.city.numata.gunma.jp/kyouiku/bunkazai/1012083/1010197.html
タグ:群馬
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