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2021年10月06日
【眼の神様】月讀神社【水神様と河童を祀る】馬場瀬神社 福岡県久留米市
●月讀神社
由緒
天文3年正月(1534年)
御原郡高橋城主 高橋三河守長種が城内の月讀神社を、
竹野郡二田村(現:久留米市田主丸町石垣)に創建す。
明治13年6月(1880年)篤志家により当地へ勧請す。
開運眼病平癒の神様として崇敬者多く三夜様と敬稱す。
伝承
昔、竹野郡二田村(旧福岡県浮羽郡田主丸町石垣)に住む
林次郎三郎の母親が目の病に罹り、
いろいろな事をしても回復しませんでした。
そこに村の長老から
月讀尊を祀る祠があることを林次郎三郎は教わります。
それから毎日欠かさずお詣りしていると、
ある日、大雨が降って祠が水没してしまいました。
林次郎三郎は
「また大水がきたら神さまも寒くて大変だろう」
と祠ごと家に運び込んでお祀りし母親ともども拝んでいると、
ある朝、突然母親の目が見えるようになったといいます。
天文3年(1534年)正月23日。
古賀又左衛門という両目を患った者がある夜のこと、
夢の中で月讀尊から
「両目の病を治したければ、月讀の神が鎮座する二田村を訪れよ」
とお告げがあり、林次郎三郎宅を毎日訪れ
「目の病が治りますように」と祈願すると、
わずか17日で目の病が治ったのだとか。
その後、眼病平癒で訪れる人々が絶えず
参拝に訪れるようになったといいます。
寛延2(1749)年。
娘が目を患っていることを気の毒に思っていた
柳川藩(現在の福岡県柳川市)藩主が
月讀神社が眼病平癒にご利益があることを知り、
代参者を林次郎兵衛喜んだ藩主は、
二田村の林次郎兵衛宅の祠を現在の地に移し、
社を建てたのが、現在の二田「月讀神社」といわれています。
御祭神:月讀尊
古来より眼病平癒にご利益があると言われ
目の神様として信仰されています。
開運、厄除け、安産、海上安全、五穀豊穣、大漁にも
御利益があるといわれています。
鎮座地
福岡県久留米市田主丸町田主丸546−2
●馬場瀬神社(ばばのせじんじゃ)
月讀神社の南側境内に「馬場瀬神社」があります。
寛永10年(1633年)田主丸町の開祖・菊池丹後入道(森田長芳)が
水神の罔象女命(みずはのめのみこと)を自宅・田主丸町馬場に
祀ったのがはじまりです。
寛永16年(1639年)田主丸大庄屋 森田大蔵が馬場瀬神社を建立。
明和3年(1766年)菊池嘉平により東町の開作がおこなわれ、
この東町の地に移され「馬場瀬神社」として遷座。
この後、二田村の月讀神社を、明治13年(1880年)6月に勧請して、
現在の月讀神社境内となる。
人々は親しみをこめて「ばばんせどん」と呼んでいる。
御祭神
罔象女神(みずはのめのかみ)
応神天皇(おうじんてんのう)
町民の間では、罔象女命を主神として、
相殿に安徳天皇、平清盛、二位尼徳子、
平清盛の化身である河童であるという。
社殿の中には、五体の木像
(罔象女命・二位尼・九千坊・沙悟浄・平清盛)
が納められており、その内の二体の木像の
「九千坊」「沙悟浄」は田主丸の人々から
『川ん殿』と呼ばれている河童である。
鎮座地
福岡県久留米市田主丸町田主丸546−1
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【恵蘇八幡宮(木の丸殿)・斉明天皇藁葬地】福岡県朝倉市
由緒
斉明天皇七年(西暦661年)建立
斉明天皇は百済救済のため朝倉橘広庭宮
(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に
皇居と大本営を遷されました。
この時随行の中大兄皇子(後の天智天皇)は、
国家安泰と武運長久を御祈願のため、
宇佐神宮の祭神応神天皇の御霊を斉り、
朝倉山天降(あもり)八幡と崇められました。
その後、天武天皇の御代、白鳳元年(673年)
斉明、天智天皇の二神霊を勅命により合せ祭り
恵蘇八幡三柱大神と称しました。
昔は、上座郡中三十三村の総社でしたが、
現在朝倉町の総氏神です。
旧社格:郷社
斉明天皇藳葬地(御殯斂地)
山上には斉明天皇の御陵といわれる
前方後円墳(円墳二基ともいわれる)があります。
斉明天皇は661年5月9日(太陽暦6月14日)
橘広庭宮にお着きになり7月24日(太陽暦8月27日)
病のため御年68歳で崩御されました。
その後、中大兄皇子は御遺骸を、
一時この朝倉山上に御殯葬され百済救済の軍を進めました。
そして白村江の戦いで敗れたことを知り、
後に奈良県高市郡越知岡村へ移されると記されています。
木の丸殿の遺蹟
天智天皇は、斉明天皇の御殯葬のあと、
直ちに御陵山下の山腹に木皮のついたままの丸木で忌み殿を建て、
12日間喪に服されました。
そのため、後世人々が
「木の丸殿」「黒木の御所」と呼ぶようになりました。
御祭神
応神天皇、斉明天皇、天智天皇
ご利益
出世開運、武運長久など
鎮座地
福岡県朝倉市山田166
2021年10月05日
神武天皇が母 玉依姫命(比淘蜷_)の御霊をお祀りした【妻垣神社】大分県宇佐市
神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が日向を発し東征の途中で
宇佐の地に立ち寄られました。
その際、宇佐国造の祖である
宇沙都比古・宇沙都比売(ウサツヒコ・ウサツヒメ)の兄妹は
一行を迎え入れ、宮を造り盛大にもてなしました。
翌朝、天皇は朝霧の素晴らしいこの地をいたくお気に召され、
連なる山々よりひと際輝く共鑰山(別名-妻垣山)の大石に、
母、玉依姫命(比淘蜷_)の御霊をお祀りするため、
自ら祭主となって、玉依姫命の御霊を共鑰山にお迎えし、
社を「足一騰宮」と名付けられました。
このことより妻垣神社の歴史が始まりました。
その後、神武天皇は侍臣の天種子命に廟の守護を命じて、
東征の途についたと伝えられています。
天平神護元年(765)閏十月八日に宇佐大神より神託があり、
社殿が造営され、共鑰山の比淘蜷_と八幡大神が併せて祀られました。
天長年間(823〜834)には宇佐宮より神功皇后を勧請し、
比淘蜷_を主祭神として、八幡大神、神功皇后の三柱の神を祀り、
八幡社と号し、宇佐宮八ケ社の一社に位置付けされました。
旧社格:縣社
御祭神
足一騰宮(上宮)
比淘蜷_(ひめおおかみ 玉依姫命)
本殿(下宮)
一之殿:比淘蜷_
二之殿:八幡大神
三之殿:神功皇后
ご利益
子宝・安産・子育て・厄災除け、出世開運、武運長久など
鎮座地
大分県宇佐市安心院町妻垣203