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2020年06月20日

馬場は馬の居場所とは限らない(高天神城 馬場平)

いわゆる『馬場』といえば、軍馬が待機したり馬術の練習をする場というのが一般的な解釈です。ただ山城を巡っていると『こんな高いところまで馬を連れてきたのか?』などと思うことはありませんでしょうか?まぁ実際に馬が待機していたのかもしれませんが、馬場の『馬』はあて字の場合もあるということを知っていると、ちょっと見方も変わりますね。
<高天神城 馬場平>
shirononagori439 (3).JPG
ここだけ見ると落ち着けそうな曲輪ですが、険しい山城の上層に位置していまする

<険しい山城>
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[現地撮影:高天神城想像図]
左側の山のほぼ頂上です。周囲は崖で、隣の大きな曲輪(西の丸)との間は堀切で仕切られています。

<堀切>ほりきり
sn440Takatenjinjo (1).JPG
西の丸との間の堀切です。西の丸側から撮影していますので、奥が馬場平です。
sn440Takatenjinjo (2).JPG
堀切内部の説明板です。切割とありますが意味は堀切と同じですね。

これではとても馬が自由に出入りできるような場所ではありませんね。それでも馬場平というのでしょうか?

以下は現地の説明板の写しです。これが答えです。
『馬場とは番場のあて字で、見張番所があったと思われる』(以下省略)

見張番の場ということですね。これなら高い位置にあっても納得です。むしろ、高い位置にある方が良いということになります。

shirononagori439 (2).JPG

今回は高天神城の馬場平を例にご紹介しましたが、ほかの山城でも、比較的高い所で『馬場』と名の付く区画を見かけることがあるかと思います。そんな時に、『これはいわゆる馬場か、それとも見張番の場ということか?』などと想像してみるのも、城の楽しみ方だと思います。

以上です。
馬の居場所とは限らない『馬場』のお話でした。

■訪問:高天神城 馬場平
[静岡県掛川市]


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タグ:城用語
posted by Isuke at 06:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[中部]

2020年06月18日

犬戻り猿戻り(高天神城)横田甚五郎が抜け去った尾根道

つわものどもが夢の跡
今回は天然の地形を巧みに活かした高天神城の険しい尾根道と、そこを駆け抜けた戦国武将の話です。
<甚五郎抜け道>
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ここは険しい山城の抜け道。細い尾根道が続き『犬戻り・猿戻り』とも言われる難所です。意味ですが、たぶん機敏な犬や猿ですら行きかけて戻ってきてしまう険しさということでしょう。
<説明板>
shirononagori439 (4).JPG
軍艦の甚五郎が落城を報告すべく駆け抜けたということですね。以下に転記します。

『天正九年三月落城の時、二十三日早朝、軍艦横田甚五郎尹松は本国の武田勝頼に落城の模様を報告する為、馬を馳せて、是より西方の約一千米の尾根続きの険路を辿って脱出し、信州を経て甲州へと抜け去った』『この難所を別名犬戻り猿戻りとも言う』
[大東町教育委員会]

なるほど。大東町は掛川市と合併する前の町名ですね。『天正九年三月落城』ですから、これは当時武田が支配していた高天神城が、宿敵徳川勢に包囲され、兵糧攻めのあげく落城した時のお話です(1581年:第二次高天神城の戦い)。補給路も断たれ、城は本国に救援を求めましたが援軍は来ず、最後は城将の岡部元信らが城から討って出ますが、率いた兵とともに討ち死に。高天神城は落城となりました。この壮絶な戦いの最後に、軍監の横田甚五郎が難所から脱出し、本国の武田勝頼に落城を報告したということです。

<馬場平>
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城の西端の曲輪です。ここ馬場平から更に西へ延びる尾根道が『甚五郎抜け道』と呼ばれています。

■横田甚五郎尹松■ただとし
武田信玄にも仕えた武将です。祖父は武田二十四将の一人に数えられる原虎胤(とらたね)といいますから、古くから武田家に仕えた家柄ということですね。この時は猛将で知られる岡部元信とともに高天神城に入っていました。岡部元信が城を死守すべく武田勝頼に援軍を求めたのに対し、横田甚五郎は『武田全体の兵力の温存を優先すべき』という内容の書状を密かに勝頼に送っていたようです。つまり、戦略上重要拠点ではあるものの、高天神城に拘らないことを勧めたということですね。武田勝頼は一時期の破竹の勢いを既に失っており、取り巻く状況も複雑だったので、両者のどちらが正しかったのか分かりません。ただ少なくとも、岡部元信と横田甚五郎とでは、武田にとって良かれと思う選択が異なっていたわけですね。

岡部元信らの最後の奮闘もありましたが、高天神城は落城。

城が徳川勢に屈したことを甲州の勝頼に伝えるべく、横田甚五郎は冒頭の細い尾根道を馬で駆け抜けたそうです。犬や猿でも躊躇する難所を馬でですか。かなり厳しい道のりですね。勝頼は死地から生還した横田甚五郎を褒め、太刀を与えようとします。劣勢の勝頼としては、側近の帰還は素直に嬉しかったのではないでしょうか。しかし甚五郎はこれを断ったそうです。

負け帰って褒美を貰ったのでは
筋がたたない

甚五郎にもいろんな思いがあったのでしょうね。

■つわものどもが夢の跡■
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武田滅亡後、甚五郎は徳川家康の家臣となります。この尾根道を駆け抜けた先に、そんな将来が待っていようとは思いもよらなかったでしょうね。やがて江戸幕府が開かれると旗本となり、当時としては長生きをして、82歳で没しました(1635年)。

■訪問:高天神城 馬場平
甚五郎抜け道(犬戻り猿戻り)
[静岡県掛川市]


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posted by Isuke at 21:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[中部]

2020年06月15日

城用語 井戸曲輪 (いどくるわ)

城には本丸や二の丸といった主要な曲輪以外に、大小様々な区画が設けられています。ネーミングも様々ですが、今回は比較的よく耳にする『井戸曲輪』について触れさせて頂きます。

■井戸曲輪■いどくるわ
名前の通りで、井戸が設けられている曲輪ですが、溜池が確保されているとか、要するに城内の貴重な水を確保している区画という大きな意味で受け止めてもらった方が良いかもしれません。
<高天神城の井戸曲輪>
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<高天神城の絵図>
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[現地撮影:高天神城想像図]
中央に大きく「井戸曲輪」と記載されています。単なる水汲みの場ではなく、一定の区画を設けて曲輪としています。

<井戸>
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『かな井戸』と呼ばれる井戸があります。現地説明文によれば、『かな』は鉄分が含まれていることと関係がありそうです
sn438 (1).JPG
内部が石積された深い井戸です

籠城の際などは、飲み水などを供給できる井戸曲輪は生き残りをかけた生命線となります。防衛上重要な役割を担う場所ということですね。


別の城の井戸曲輪を見てみますかね

<石垣山城の井戸曲輪>
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ここは山中の湧水地。そしてその四面を石垣で囲むという大掛かりな曲輪です。

<井戸跡と説明板>
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もともと沢のようになっていた地形を利用して造られたようです。井戸は『淀君化粧井戸』とも呼ばれているそうです。秀吉が呼び寄せた淀君もここを利用したのでしょうね。

<石垣>
sn438ad.jpg
野面積みのこの石垣は当時のまま。多少は崩れているものの、何度も大きな地震を経験しながら形を保っていることが驚きです。

重要な曲輪。頑丈に造られていたわけですね。

以上です。水手曲輪(みずのてくるわ)という言葉を耳にすることもありますが、同じ意味です。
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2020年06月11日

城用語 一城別郭 (いちじょうべっかく)

今回は一城別郭について説明します。
■一城別郭■いちじょうべっかく
これは字の如くで、ひとつの城でありながら、本丸が2つある城の構造を指す言葉です。
<高天神城絵図>たかてんじんじょう
shirononagori437b.JPG
[出典元:現地説明板]
静岡県の高天神城という山城を例に説明します。この城の場合、2つの峰に別々に本丸的な役割を担う曲輪を設けています。本丸・二の丸・三の丸といった曲輪が連続して儲けられている一般的な縄張りとは明らかに異なりますね。まぁ本丸が2つというのも紛らわしいので右手が『本丸』で左手は『西の丸』と呼んでいますが、実質は2つの城があるかの如き構造となっています。山頂の2つの曲輪はどちらも中核たる曲輪として機能し、攻め手に対して双方から攻撃を仕掛けたり、片方へ向かった敵に対して別角度から攻撃するといった、普通の城には無い戦い方が可能となります。また、仮にどちらかが攻め落とされても、戦いは終わりません。

高天神城に限らず、一城別郭の場合は二つの本丸(主郭)の間に谷や堀といった隔たりを確保した上で城全体を設計します。高低差のある山城が分かり易いですが、平城でも中核となる曲輪を意識して2つ設ける場合は、やはり一城別郭に該当します。

一城別郭の『郭』は単なる『くるわ』を指しているのではなく『主たるくるわ』とお考え下さい。

以上です。

<説明板>
sn438d.JPG
冒頭の画像は友人二人と赤丸の現在位置で撮影した説明板です。当日は大手門とは逆側、いわゆる搦手門から登城しました。

<高天神城の搦手門跡>
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<高天神城跡>
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武田と徳川が激戦を繰り返した一城別郭の山城です
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2020年06月09日

大岡忠光ゆかりの地 (龍門寺)9代将軍とともに生きた生涯

<龍門寺>
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岩槻の龍門寺です。3百石の旗本の家に生まれ、2万石の岩槻藩主となった大岡忠光のお墓があります。忠光は9代将軍徳川家重の難のある言葉を唯一理解できた側近で、信頼も厚かったとのこと。あの大岡越前の遠縁でもあります。

■大岡忠光■おおおかただみつ
忠光は旗本の長男として生まれました。徳川吉宗の後継者となる家重の小姓となったことで城詰めの侍となり、以後側近として長らく家重を支え続けた人物です。徳川家重はあまり体が丈夫ではない上に、話す言葉がはっきりせず、家臣たちに直接語り掛けることは困難でした。しかし幼少よりお仕えしている忠光は家重の発する言葉を聞き取り、趣旨も理解できたそうです。
公私ともにお手伝いをしてきたわけですからね。普通の人に難儀なことも、忠光にとっては慣れ切ったことなのかもしれません。
当然の流れですが、家重から全幅の信頼を得ることになり、結果として異例の出世となりました。

■時代劇での悪役■
上記のような史実から、時代劇では時々ヒール役として登場する場合もあります。将軍の言葉を唯一理解できる。将軍に代わってこれを家臣団に伝える。そこに私意を混ぜ込めば、確かに悪いこともできてしまいますよね。
でも実際にはそんなことはなく、大岡忠光は私欲どころか、政治そのものに口を挟むこともしなかったようです。ただただ家重のために尽くしました。当時、将軍の身の回りで起きる事がどの程度城外に伝わるのかわかりませんが、庶民からの評判も良かったようです。

■岩槻藩主■
徳川家重との出会いがなければ、大岡忠光は普通に江戸中期の普通の旗本で生涯を閉じたのかもしれません。しかし上総勝浦藩1万石の大名、そして最終的には2万石武蔵岩槻藩主となりました(1756年)。岩槻藩主の座は、忠光の子である忠喜に引き継がれ、以降明治まで大岡家が代々藩主を務めました。


■龍門寺訪問■
<龍門寺入り口>
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日光御成道に面した古い寺院です。

<山門(三解脱門)>
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<山門内側>
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<開期霊屋>
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<聖観世音菩薩>
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<鐘楼>
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<七福神>
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<境内>
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<本堂>
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宗派は曹洞宗です。龍門寺は忠光以降、大岡家の菩提寺となりました。

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■つわものどもが夢の跡■
<大岡忠光墓所>
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大岡忠光は岩槻藩主となった4年後(1760年6月9日)に没しています。9代将軍徳川家重は、その後まもなく長男(家治)に将軍職を譲っています。そして1761年7月13日に没しました。

■訪問:龍門寺
[埼玉県さいたま市岩槻区日の出町]


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2020年05月31日

暗渠と城跡22 岩槻城の天然堀のなごり(元荒川の旧流路)

今回は岩槻城の天然堀だった元荒川の話です。

sn435motoarakawa (5).jpg
この日は岩槻の総構え(大構え)の更に外側を探索しました。画像は元荒川のかつての流路に位置する暗渠。水の姿はありませんが、この付近には川のなごりが漂います。

■暗渠■あんきょ
まずこの見慣れない文字を説明します。そのまま「あんきょ」と読みます。「地下に埋設された川や水路」という意味に受け取って下さい。蓋をされて人目につかなくなった水の流れ。まぁそんな感じです。

■総構え■そうがまえ
これは城の防衛施設の構造を説明した言葉です。城そのものだけでなく、城下町全体を堀や土塁で囲む構造のことを言います。総曲輪(そうぐるわ)とも言います。小田原北条氏による小田原城総構えが有名ですね。そして実は江戸も総構えでした。これは小田原征伐に参陣していた徳川家康が町造りの参考としたからと言われています。

■岩槻城の総構え■
小田原ほど有名ではありませんが、岩槻も堀や土塁で町を囲む総構えの構造でした。岩槻では大構えと呼ばれていますが意味は同じです。岩槻城の歴史は相当長いですが、総構えにしたのは戦国末期。北条氏房が太田氏の家督を継いで岩槻城主となっていた時の話です。そうなる背景として、豊臣秀吉と北条氏の関係が悪化がありました。
ざっくりと説明しましたが、当ブログでは岩槻城の総構えについて一度投稿していますので、良かったら覗いてみて下さい。
→『記事へすすむ

さて
今回の探索はその「総構え」の更に外側です。堀や土塁で囲んだ城下町の外側に、更に天然の堀が存在していました。

■元荒川■もとあらかわ
名前のとおりむかしの荒川のことです。詳細は省略しますが、戦国時代の話をしていますので、当時の荒川と受け止めて下さい。とはいえ荒川と元荒川は現在別々に存在していますので、あえて元荒川という言葉を使わせて頂きます。

<元荒川>
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こちらは別の日に岩槻より上流で撮影した元荒川。蓮田市付近です。護岸などもしっかり整備されてはいますが、荒川と比較するとまだまだ自然な雰囲気が漂う川です。

ちょっと前置きが長くなりましたが、そろそろ本題に

■蛇行していた元荒川■
古地図などを見ると、元荒川はいまと違ってあちらこちらで蛇行しています。岩槻付近では、南下したあと再び北へ向かい、岩槻城を通り過ぎてまた南へ流れていたようです。つまり岩槻城の北側を大きく迂回するように流れていたわけですね。この蛇行は後の治水工事で直進化されて今に至っているので、現地へ行っても中世の天然堀の『配置』を実感することはできません。普通なら

ここからは下手な文より画像とセットで説明します。この日は岩槻駅から北へ向かい、日光御成道を経由して龍門寺というお寺を訪ねました。

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龍門寺[さいたま市岩槻区日の出町]

その帰り道、遠くに不思議な光景を目にすることになり、結果的に足を運ぶこととなりました。

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なんとなく不自然な空き地だなぁ。河川敷のような雰囲気だが何だろう

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これは暗渠だ!しかもそうとう幅広の暗渠

つまりここは水の道です。そして周囲にはもったいないほど広い空き地。これはもしや

この暗渠が決め手になりました。水が集まる場所はすなわちこの付近で一番低い場所。人の手により元荒川そのものの流路が変えられていても、この付近の水はやはりここに集まるのでしょう。そしてあとからネット検索し、確信を得ました。古地図では、中世の荒川は私がついさっき訪問した龍門寺のすぐそばまで迫っています。

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元荒川がこの付近まで迫っていたわけか

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天然堀でもあった元荒川のなごり

見ようによってはただの空き地ですよね。でも足を運んだ甲斐がありました。中世の城、特に岩槻城のような平城にとって、川の位置は重要な意味を持ちます。暗渠に気づき、現在の岩槻城址公園との距離などを頭に入れたうえで、姿を消した中世の荒川を現地で想像することができた。満足な瞬間でした。

以上です。ちょっとマニアックですかね?そこに本来あったものを想像してみる。そんな楽しみ方が共有できれば幸いです。今回はそのきっかけが暗渠だった。そういうお話でした。拙ブログに最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:元荒川の旧流路跡
[さいたま市岩槻区宮町ほか]


--------追 記--------
[約2ヶ月後]
岩槻を再訪して城址公園で撮影
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これは分かりやすい!
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龍門寺を見つけました。すぐそばを流れる元荒川も。間違いありませんでした。



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posted by Isuke at 06:05| Comment(5) | TrackBack(0) | 暗渠と城跡

2020年05月30日

岩槻大構のなごり 愛宕神社の土塁

今回は神が祀られているが故に残された城のなごりの話です。
<岩槻愛宕神社>いわつきあたごじんじゃ
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岩槻愛宕神社です。太田道灌(または父・道真) が城の外濠と土塁を造った際に小さな祠を見つけ、土塁上に祀ったことに始まります。かつて城下町の外周を囲んでいた土塁はほとんど姿を消しましたが、ここは神社が祀られていることで壊されずにすみました。貴重な城のなごりです。

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やや横から撮影。手前の赤い鳥居は境内社の稲荷社です。

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ま横から撮影。柵の右手は線路です

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神社の外側から撮影。堀は埋められ面影もありませんが、コンクリで補強されていても土塁は土塁。なごりを留めていますね。

だいたいこんな感じです。
土塁を見に来ましたが、せっかくですので愛宕神社の境内の画像も貼っておきます。

<狛犬>
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ちょっと失礼します

<愛宕神社拝殿>
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防火に霊験のある神が土塁の上に鎮座しています。道灌がみつけた小さな祠には迦具土命(かぐつちのみこと)と記されていました。火の神として知られる神ですね。町を守る土塁に祀った道灌の思いが伝わってくるようです。この拝殿は関東大震災後に再建されたもの。左右には天水桶(てんすいおけ)が。まぁシンプルに防火用水と受け止めることにします。

<松尾神社>
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土塁下の境内社

愛宕神社の境内はこんな感じです

■大構とは■おおがまえ
<境内の説明板>
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大構えとは一般的に言う『総構(そうがまえ)』と同じ意味です。簡単に言ってしまえば、城そのものだけではなく、城下の町の外周も堀や土塁で囲む構造のことです。小田原が有名ですが、ここ岩槻も『総構え』の構造でした。巡らされた囲いは8qにも及んだそうです。現地の説明板などによると、ここでは『大構』という言葉を使っています。この説明文だと、全体の構造ではなく、具体的な『堀と土塁』を指してそう呼ぶようにも受け取れますが、私ちょっと国語力不足なのでここまでにします。

さて
ではいまも街のあちらこちらに堀や土塁が点在しているのか?

これが残念ながらほぼ残っていないのです。岩槻はこのエリアの中核都市です。関東でかつて名城と呼ばれた他の城と同様、開発で遺構のほとんどが失われました。これは仕方がないことです。岩槻城の中心部分(現在の城址公園付近)ですら遺構は僅かですので、城の外側ともなると遺構は無いに等しいです。だからこそ、ここ愛宕神社の土塁は貴重と言えます。

■つわものでもが夢の跡■
<土塁のなごり>
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線路側から撮影

岩槻城の大構が本格化するのは北条氏房の時代と思われます。太田道灌の時代に、どこにどの程度の土塁が設けられていたのかわかりませんが、道灌と関わる言い伝えがこの土塁にはある。それだけで充分です。

■訪問:岩槻愛宕神社
[埼玉県さいたま市岩槻区本町]

■用語:大構え:
現地で見た表示:大構(『え』はなし)
同じ意味の用語:
総構え(そうがまえ)惣構(そうがまえ)


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-------追 記-------
ご紹介した愛宕神社は、いわゆる岩槻城跡(城址公園)からはちょっと離れていますが、岩槻駅からならすぐ近くです。駅前から北東(春日部方面)に歩いて5分程度でしょうか。当ブログがきっかけで、足をはこんでくれる人がいたら嬉しいです。入口が目立たないのですが、ちょうど東武野田線の踏切付近と思っていれば大丈夫です。
shirononagori433 c.jpg
途中こんな案内もありますので迷うこともありません

また、ひな祭りでは冒頭の画像の石段一杯にひな人形が飾られることでも知られています(日は限定されているようです)。私は城下町として訪問していますが『人形のまち岩槻』ですからね。以上です
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2020年05月23日

岩槻城主太田氏資 反北条の父と北条の嫁

今回は、岩槻城主の長男として生まれ、自らも城主となりながら若くして亡くなった戦国武将の話です

<太田氏資像>うじすけ
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[撮影:芳林寺]
岩槻城主だった太田氏資の像です。あの有名な太田道灌の流れをくむ岩槻太田家の戦国武将です。諸説ありますが、岩槻太田家は道灌の甥で養子となった太田資家(すけいえ)から始まります。そのひ孫が氏資です。

■太田資正の嫡男■すけまさ
氏資は岩槻太田家の太田資正の嫡男としてこの世に生を受けました(1542年)。父・資正は武蔵で活動した勇猛果敢な武将で、当時関東で勢力を拡大していた小田原の北条家に抵抗し続けた男です。私見になりますが、その粘り強い抵抗ぶりから『反骨の戦国武将』というイメージです。氏資本人も武勇に優れた武将ではありましたが、北条に与する道を選び、悲劇の結末をむかえることになります。

■反北条の父と北条の嫁■
当時の小田原北条家の当主は3代目氏康です。上杉謙信や武田信玄と関東での覇権争いをしたつわものですね。北条氏康は娘を氏資に嫁がせて、岩槻太田家との関係強化を図ります。これに対し、岩槻城主であり太田家当主の資正は、様子をみながらも北条の息のかかった家臣を追い出すなど、反旗を翻さないまでも一定の緊張を保っていました。そして1560年、上杉謙信(当時は長尾景虎)が関東に兵を進めるとこれに呼応し、ついに反北条の態度を明確します。
さて、氏資の嫁は北条氏康の娘です。この時代の政略結婚にはありがちな事ですが、妻の実家と自分の家が争うという事態となってしまいました。義父が北条氏康なら次の当主となる北条氏政や氏照・氏邦といった大物が義兄弟。これはちょっと困りますね。更に氏資の見立てでは、現れては消えてしまう越後の上杉謙信より、小田原を拠点とする北条家と繋がっている方が、関東で生き残る道として有利と思えたのかもしれません(私の勝手な想像です)。いずれにせよ、氏資と父・資正の関係は険悪になっていきます。

こいつではダメだ

資正はそう思ったのでしょう。家督を次男(養子となって梶原家を継いだ梶原政景)に継がせようと考えたようです。氏資はこれを知り、一時出家してしまいました。

■父と弟を追い出す■
氏資にとっての転機は、父・資正の戦での敗北といっていいでしょう。1564年の第二次国府台合戦(北条vs里見[上杉と同盟関係])において、父である資正が里見氏と共に敗退します。資正は落ち延びますが、この太田家の混乱期に出家したはずの氏資は密かに還俗。北条氏康と謀って父と弟を岩槻城から追放し、家督を継いでしまいます。氏資が北条家の家臣となったことで、北条氏康は武蔵の大半を平定するに至りました。

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氏資の元の名は資房。北条氏康から氏の一字を与えられて改名しました

■殿■しんがり
小田原北条家の配下となった太田氏資は、1567年の三船山の戦い(北条vs里見)において、激しい戦闘の末に敗走せざるをえなかった北条軍の殿を務めます。殿、つまり退却する軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ役目であり、最も危険な仕事ですね。北条軍を敗走させるのですから、この時の里見軍は勢いがありました。

岩槻城主・太田氏資
この戦いで討ち死にとなりました
まだ25歳という若さです

太田氏資の殿は自ら志願したものと言われています。諸説ありますが、父であり当主である太田資正を追放して北条の家臣となっていることから、『裏切者』といったレッテルが付きまとい、氏資はこれを払拭すべく殿を願い出たとされています。北条家の家臣団において、そこまで負い目を感じる立場に追い込まれていたのでしょうか。また、一説によれば氏資は、このとき岩槻城主に相応しいだけの兵を率いていなかったとされています。氏資はこの合戦のために岩槻城を出たわけではなく、別な理由で小田原城に滞在している時に戦が始まってしまったのです。僅かな手勢のまま参戦し、行った先で討ち死に。氏資の死後、岩槻城に北条家の身内が入ることを考えると、いろいろと想像せざるを得ません。

■芳林寺にて■ほうりんじ
<山門>
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<道灌と氏資に関する説明>
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<太田道灌像>
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<太田氏資像>
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最後に
氏資の妻・長林院は、氏資との間に授かった娘とともに江戸に移り住みます。しばらくの時を経て岩槻城に北条氏政の四男・氏房が入城する際、岩槻太田氏の血を引く娘は氏房の妻となり、長林院も再び岩槻へ戻りました。

氏資の父・太田資正は、1590年の豊臣秀吉による北条征伐の際、小田原に参陣しています。つまり、息子が寝返り、命まで捧げた関東覇者が滅ぶ様子を見届けていたわけですね。その翌年亡くなりました。

■訪問:芳林寺
[さいたま市岩槻区本町] 1-7-10

芳林寺については太田道灌ゆかりの寺として別途投稿しています。よかったら覗いてみて下さい。
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2020年05月16日

明智家ゆかりの地 沼田城

<沼田城址>
ahirononagori432Nimata (2).JPG
沼田城といえば、まず真田家を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか?沼田藩は真田昌幸の長男・信之から始まり、5代続きました。で、そのあとですが、天領を経て本多家が3代、黒田家が2代、そして12代続いた土岐家で明治維新となります。

土岐家は12代!
凄いですね。約130年だそうです。

この土岐家ですが、祖は土岐明智家の出です。武功を重ねて認められ、のちに土岐家の家名再興のため名を改めました。つまり、沼田には明智の流れが受け継がれていたことになりますね。

もう少し具体的に言います。まず、明智光秀で有名な明智氏は、清和源氏土岐氏の支流です。沼田藩土岐家の祖となる土岐定政は、父親が明智定明、母親は菅沼家の菅沼定広の娘でした。詳細はわかりませんが、定政は明智光秀のいとこにあたるという説もあります。父が戦で亡くなると、定政は母方の菅沼家に身を寄せ菅沼姓を名乗ります。やがて徳川家康の家臣となって活躍し、1万石の大名となり、土岐を名乗りました。

土岐家から枝分かれした明智家の出が、また土岐家を名乗った。そういうことですね。

ということで
真田ゆかりの沼田は、ちょっとだけ明智ゆかりの地でもあるというお話でした。名門『土岐氏のゆかり』と言ってしまえば済むものの、2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』に合わせてあえて土岐明智ゆかりの地とご紹介させて頂きました。拙ブログ、最後までお読み頂きありがとうございます。沼田城訪問の記録は別途投稿していますので、よかったらのぞいてみて下さい。

記事:河岸段丘の地の利 沼田城
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訪問:沼田城址
[群馬県沼田市西倉内町]

ahirononagori432Nimata (3).JPG
本丸・二の丸が公園として整備されています


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posted by Isuke at 20:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]

2020年05月15日

米沢特有の墓石 万年塔

万年塔
今回は米沢独特の墓石のお話です。

shirinonagori431 (6).JPG
庭園用ではなく墓石です
[撮影:林泉寺]

中が空洞となっている立方体の石の上に、屋根をのせた形をしています。側面には規則正しく開けられた穴。ここ林泉寺に限らず、米沢ではよく見かけるお墓の形で『万年塔』と呼ばれています。

sn431.JPG
[撮影:普門院]


■直江兼続考案■
万年塔はあの直江兼続により考案されました。独特の形で見た目も良いですが、実はかなり機能を意識して造られています。

お墓で機能?

●戦に備える
<米沢城本丸跡>
shirononagori389 (5).JPG

万年塔が考案された正確な時期はわかりませんが、直江兼続が米沢と関わりを持つのは戦国末期から江戸初期です。まだ緊張状態は続いています。万年塔は、有事ともなれば屋根を外し、積み上げて防護壁とすることを想定していました。

徳川家康を敵に回した代償として、上杉家は会津120万石から出羽米沢30万石へ減移封となりましたが、直江兼続は城下町や新田開発に力を注ぐ一方で、山中で密かに鉄砲を鍛造させるなど、新たな戦を意識していたようです。米沢に限らず、江戸時代初期とはそういう時代なのかもしれませんね。

●氾濫に備える
<松川>
sn431b.jpg
米沢市内を流れる松川

今でこそ整備されている松川ですが、昔はよく氾濫する川だったそうです。万年塔は洪水の際には土を詰め、土嚢とすることも想定していたようです。丈夫でありながら中身が空洞なため、運び安かったかもしれませんね。


最後に
考案者である兼続の墓所をご紹介します。

<林泉寺>
shirinonagori431 (2).JPG
米沢市の春日山林泉寺です。米沢藩主の奥方や重臣たちの墓があることで知られています。

<直江兼続の墓>
shirinonagori431 (3).JPG
こちらが直江お墓です。
sn431ad.jpg
左が兼続で右はお船のお墓。夫婦で同じ形の万年塔です。この時代に男女が同じ場所に並べられている例は珍しいですね。

ということで
米沢独特の墓石のご紹介でした。

あくまで個人的な感覚の問題ですが、当ブログではお墓そのものの掲載は極力避けております。ただ、今回は米沢らしさを共有させて頂きたく、そのまま掲載させて頂きました。

shirinonagori431 (5).JPG
[撮影:林泉寺]
タグ:山形への旅
posted by Isuke at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | その他
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