2016年の大河ドラマ「真田丸」でも大きく取り上げられた上州沼田(群馬県沼田市)。この地は北関東の要衝であることから、越後の上杉氏、小田原北条氏、そして甲斐の武田氏による三つ巴の争奪戦の的となりました。沼田城はそんな激戦区の城。沼田特有の地形「河岸段丘」の台地に築かれた丘城です。
<本丸西櫓台虎口の石垣>
■河岸段丘の地の利■ かがんだんきゅう
河岸段丘とは、川沿いに水の浸食によってできる階段状の地形。平坦な部分と傾斜が交互に現れます。沼田の河岸段丘は有名(NHKのブラチモリでも紹介されました)。沼田城は、利根川・薄根川によって造られたこの河岸段丘を地の利として活かした城です。
■真田の城■
沼田城は1532年に沼田顕泰により築かれますが、後に小田原北条氏配下となります。秀吉の小田原征伐後、沼田領は北条氏から真田氏の手に。沼田城へはまず真田昌幸が入り、次に長男・真田信幸が支配することになります。
信幸(のちの信之)、つまり真田幸村のお兄さんですね。1600年の関ヶ原の戦いでは、父と弟が西軍についたのに対し、信幸は東軍につきました。勝敗は言うまでもなく、結果として父と弟は紀州九度山に幽閉され、信幸は沼田領に加えて上田領も継承することとなります。沼田と上田を合わせると9万5千石。いろいろ苦悩はあったはずですが、とにかく数字としては凄いですね。上田城は既に破壊されていたので、本拠はしばらく沼田城のままだったそうです。
やがて信幸は上田に移り(1616年)、ここ沼田城には信幸の長男・信吉が城主として入りました。
■江戸時代以降の沼田■
江戸初期、真田家が五代91年間続き、その間に5層の天守や3層の櫓が建てられました。この頃の沼田城、さぞ立派な城だったのでしょうね。しかし天和元年(1681年)、五代目の信利が幕府に領地を没収されてしまいます。詳しく説明したら長くなるので省略しますが、この五代目信利、いろいろと問題を起こし、領民まで苦しめられたようです。
ご先祖さまは頑張ったんですがね。残念です。
本家から独立した沼田藩3万石はこれで廃藩。翌年幕府の命により、沼田城はなんと破却処分。堀まで埋められたそうです。沼田にあった真田オリジナルの城は、この時失われてしまいました(1682年)。沼田藩真田家はここで消滅です。真田本家は上田藩から松代藩(現在の長野市)へ移り、明治維新まで続きます。
■真田家が去った沼田■
沼田は天領となり、だいぶ長い時を経て、1703年に本多正永が入封。沼田藩2万石として再興されました。その後は黒田氏(譜代大名)、土岐氏と続き、土岐氏12代目の時に明治維新を迎えます。この間、沼田城が真田時代のような本格的な城として整備されることはなかったようですが、藩庁として機能し続けたようです。
<沼田公園>沼田城址
廃城になった城跡は、旧沼田藩士の久米民之助さん(衆議院議員)によって購入・整備された後、沼田町(現沼田市)に寄付されたそうです。よくぞ守ってくれました。現在の姿は沼田公園。
<復原された本丸太鼓櫓>
本丸・二の丸跡が公園になっています。静かな気分で散策させてもらいましたが、公園内には200本以上の桜があるそうなので、春だったら人でいっぱいだったでしょうね。
<城内を散策>
かなり公園として整備されていますが、遺構もあちらこちらに残されています。また、地形そのものは嘘をつきませんので、公園の周辺も含めて探索することをお勧めします。
<本丸西櫓台の石垣>
<堀の跡>
真田の城跡で堀がテニスコート?沼田にいながら、江戸城の四谷濠を思い出しました。
[参考:四谷濠跡] 上智大学グラウンド
四谷濠跡です。現在は上智大学のグラウンド。電車まで通ってます。この付近の工事を任されたのは沼田藩初代藩主の真田信之。よって真田濠とも呼ばれています。
ということで
沼田城のご紹介でした。拙ブログを最後までお読み頂きありがとうございました。
--------■ 沼田城 ■--------
築城主:沼田顕泰 (万鬼斎)
築城年:1532年
改修者:真田信幸 他
城 主:沼田氏・猪俣氏・真田氏
廃 城:1682年(最初の破却)
その後の藩主:黒田氏・土岐氏
<交通>
電車:沼田駅から徒歩20分
バス:沼田駅から約5分
「沼田局前」下車徒歩約5分
[群馬県沼田市西倉内町]
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------------追 記------------
沼田氏・真田氏・本多氏・土岐氏の崇敬を受けた神社も訪問しました。JR沼田駅から徒歩で8分程度です。
<沼田 榛名神社>
細い参道をただただ真っ直ぐ
到着です
本殿御扉の上には真田家の家紋の六文銭も描かれています。パワースボットで有名な榛名神社はまた別。そちらは高崎市榛名山町になります。
[群馬県沼田市榛名町]
------------番外編------------
現地では城跡だけでなく、地形を実感するために周辺をできるだけ歩き回りました。とにかく坂が多かったですね。
<河岸段丘暗渠(あんきょ)>
この画像はまだ城址公園へ向かう途中、まだ街中です。この堀のような状態の段差を登りきっても、またその先は急な坂道が続きます。結果として水の通り道(まぁ主に側溝ですが)も急こう配となっており、車や人のためにしっかりと蓋がしてありました(つまり暗渠になっていました)。まぁこういったことを感じるのも現地ならではの楽しみ。できれば、NKHのブラタモリで紹介されていた水路をもっと見てみたかったですね。
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