つわものどもが夢の跡
年始の休みを利用して、城のなごりを求めて岩槻を訪問しました。
<城のなごり>
[さいたま市岩槻区]
これ道路だろ!
はい。そうとも言います。しかしただの道路ではありません。ここはかつての堀の跡。名城「岩槻城」のなごりです。
城跡は岩槻城址公園じゃないの?
はい。ここは本丸などいわゆる城の中枢があった城址公園からは離れた場所。岩槻城総構えのなごりなんです。
ソウガマエ・・・?
ということで、以下はいつも通りの説明です。
■総構え■そうがまえ
簡単に言えば、城そのものだけでなく、城下町全体を堀や土塁、石垣で囲む構造のことを言います。総曲輪(そうぐるわ)とも言います。小田原北条氏による小田原城総構えが有名ですね。約9kmにも及ぶ堀で囲んでいたそうです。秀吉に従って小田原征伐に参陣していた徳川家康も、後の江戸の町造りの参考としたそうです。
■岩槻城の総構え■
埼玉県が誇る名城・岩槻城(わたくし埼玉県民です)。やはり総構えでした。小田原城ほど世間に知られていませんが、堀や土塁で囲んだ長さはほぼ同じスケールです(約8km)。凄いことです。岩槻城そのものの歴史は長いですが、総構えにしたのは戦国末期。北条氏房(太田氏房=小田原北条氏3代当主・氏政の子で、太田氏の家督を継ぎました)によって構築されました。ちょうど秀吉と小田原北条氏の関係が悪化していた時期ですね。
都市開発によってその遺構はほぼ消えてなくなりましたが、街を探索すると、そのなごりは残されています。
<土塁>
愛宕神社の土塁です。
<愛宕神社>
簡単に言うと「土塁の上に神社」がある。神社がある故に、土塁は壊せなかった。まぁそういうことですね。
<土塁の高さ>
ちょっと失礼して上から撮影(ちゃんと手を合わせました。正月ですし)。階段があるからいいですが、結構な高さです。
<土塁の別角度>
神社の裏手です。土塁が削られ、断面はコンクリで補強されています(この土塁の上が先ほどの愛宕神社)。手前は岩槻駅前方面へ通じる交通量の多い道路。これも堀の跡です。
■大構え■おおがまえ
<愛宕神社の説明板>
ふむふむ。ここでは大構えという言葉を使っていますね。意味は総構えと同じです。丁寧な説明で助かります。細かいことを言うと『え』は不要で大構、これで『おおがまえ』と読みます。
さて、この日は城址公園よりその外側を念入りに探索
<堀跡>
ここも
<大構の小径>
おお・・・
大構の小径。ここでグッとくる名前が登場しました!何となく佳境に入ってまいりましたが、陽が傾いてきたので残り時間もわずか。まぁ地元埼玉ですから遅くなっても平気ですが、暗くなってから狭い路地をよそものがウロウロすると怪しまれますし、迷惑ですよね。
<ウロウロ>
ちょっと速足で
■大構の暗渠■
<堀跡に水路>
さんざん歩いてたどり着いた小径。岩槻中学の裏手になります。ここは堀跡が水路となっていたのでしょう。そして今では暗渠(あんきょ)です。存在意義が薄れた橋の存在がまたなんとも愛おしい (ちょっと暗渠マニアなのでここはご容赦下さい)
<暗渠と城跡>
水の姿すら消えてしまいました。しかしこれは水堀のなごり。左手は畑にしか見えませんが、かつて土が盛ってあった場所。土塁のなごりです。いまでもちょっとだけ、本当にちょっとですが高くなっていますね。
ということで、けっこう満足してこの日の探索を終了しました。
<時の鐘>
[岩槻区本町]6-229
まだ陽が落ちてないので、こんなところも立ち寄りました。その名の通り、領民に時刻を知らせるためのもの。県内だと川越の「時の鐘」が有名ですがここにも。なんと歴史はこちらの方が古いそうですよ。
<芳林寺>
[岩槻区本町] 1-7-10
比較的駅に近い(徒歩約5分)太田道灌ゆかりの寺です。岩槻城の築城者は道灌ですが、今回のテーマの「総構え」はもっとあとの時代の話なので、こちらはまた別途投稿させて頂きます。
<駅近く>
埼玉では有名な十万石まんじゅう。といっても拠点は行田市。10万石は岩槻藩ではなくて忍(おし)藩の石高ですね。
<岩槻駅>
そして駅へ到着。総構えの外周全てというわけにはいきませんでしたが、最低5qは歩いたと思うので、いい運動にもなりました。
以上です。
拙ブログにお付き合い頂きありがとうございました。
----------( 追 記 )----------
■当ブログ過去記事■
岩槻城跡そのものの訪問記はコチラになります。桜が咲く頃に訪問しました。
<城址公園内>
こんな感じの画像とともに記事を書かせて頂きましたので、良かったら覗いて見て下さい。→『記事へ進む』
お城巡りランキング
2018年01月04日
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私も最近知ったのですが、岩槻愛宕神社は、城の外濠と土塁を造る時に見つかった古い祠を改めて祀ったところから始まるらしいです。その土塁ですが、もともとの地形を利用しながら造成する場合もあるので、どこまでが人の手によるものかはちょっと分かりませんね。ただ、岩槻の街開発がすすんでも、神社があるがゆえに土塁が残されたというのはステキな話ですね。
コメントありがとうございます。
以前から愛宕神社の部分だけが高台になっているのが、不自然に思っていたのですが、人造的に盛り上げた土塁上に建立させたとは存じませんでした。