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2021年09月20日
高良玉垂命の9人の皇子『九躰皇子』を祀る【王子神社】福岡県朝倉市
王子神社(おうじじんじゃ)
第六十六代 一条天皇の御宇 正暦元年(990)、
筑後国御井郡阿志岐村高良山から現在地の西にあたる
宮原の地へ勧請されます。
人々の尊崇が高まる中、保安3年(1122)に本宮の森へ、
さらに建保5年(1217)にご神託で高良山を拝む現在地に遷座。
旧社格:村社
御祭神
九躰皇子(玉垂命の子供9人)
朝日豊盛命、暮日豊盛命、斯礼賀志命、渕上命
谿上命、那男美命、坂本命、安志奇命、安楽応寶秘命
八幡大神(応神天皇)
住吉三神(表筒男命、中筒男命、底筒男命)
神功皇后
御神徳
無敵の勝利、農産牛馬守護、厄除、安産、子育て守護
開運招福、病気平癒、国家鎮護、家運隆昌、海上安全
漁業・海運・貿易・造船業守護、陸上交通・航空安全
鎮座地
福岡県朝倉市下浦796
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2021年09月16日
2021年09月08日
【廣田八幡神社】 福岡県みやま市
廣田八幡神社
社記によると、
元明天皇の和同6(713)年に
日向国隼人、川上静が朝廷に謀反したため
しばしば征討の軍を進められましたが、
皇軍はその都度敗れました。
のちに元正天皇の養老4(720)年に
豊前守宇努首男人を将軍に、再度賊徒征討の勅命がありました。
この時、皇軍の戦勝を宇佐太神の広前に祈願し、
三日三夜にして次のようなご神託がありました。
「筑紫なる御心廣田原に遷し、廣田県主廣田速彦麿を以て、
吾御前を祭らば皇軍必ず勝つなむ、吾こそは八幡大神なり」と。
それで、この事を朝廷に奏上し、
凱旋後筑紫廣田原に遷し奉ることを神前に誓い、
仮宮を宇佐小山田に建て、廣田家第36代嫡孫廣田速彦麿が
分霊の宮に斎祀したことは、ご神託の通りでありますが、
この時始めて廣田速彦麿は廣田県主と神主とを兼ね、
初代神官になりました。
而して此の年8月15日、
征討将軍は凱旋して、宇佐太神の広前に参詣、
凱旋報告と放生会を行い、ご神慮をお慰め申し上げました。
その後、神主速彦麿は養老7(723)年3月朔日83歳、
宇佐小山田で死去し、嫡子速胤が廣田県主兼神主となりました。
聖武天皇の神亀元(724)年2月、
廣田県内田地五百町余の奉納があり、勅命により
「此の奉れる五百町余の田地を以って廣田大神の神戸代と定め、
汝速胤神主となりて父速彦麿の跡を継ぎ、
即ち廣田大神を筑紫の廣田原に遷し奉れ」
との仰せに従い、
宇佐小山田より廣田県村部邑(現大字本郷)の仮宮に、
同年5月15日遷幸安置し奉りました。
神亀5(728)年3月には
従三位太宰師大友宿祢旅人は太宰少弐石川朝臣足人、
並に前記征討将軍豊前守宇努首男人を差遣わし、
更に三万坪の社地を
(現定めて宮殿を廣田県方司邑(現大字文広字芳司)に建て、
同年11月19日ほぼ現在地に近く新宮殿を建立し、
廣田大神には主祭神として宇佐ご本宮と同じく
誉田別天皇(應神天皇)を祭祀しました。
廣田八幡神社は前記のように、
古来「廣田大神」または現社殿掲額の「廣田宮」と
呼ばれてきましたがが、
光格天皇の文化(1808)年、
石鳥居新規建立の際 法人法等の制令により、
現在呼ばれる「廣田八幡神社」となりました。
御祭神
住吉宮 表筒男神 中筒男神 底筒男神
八幡宮 誉田別天皇(應神天皇)
春日宮 武甕槌神
御利益
国家鎮護、殖産産業、家運隆昌、延命長寿、縁切り、縁結び、安産、
子孫繁栄、武道上達、海上安全、厄除開運、悪病災難除け
鎮座地
福岡県みやま市瀬高町文廣207