日光街道の宿場跡を訪ねました。
<宿場町通り>
かつての千住宿はJR北千住駅近くのこの商店街にそのなごり留めています。街道整備が進められた江戸時代初期、隅田川に千住大橋が架けられ、千住は宿駅に指定されました。
いわゆる五街道で、日本橋に一番近い宿場を総称して江戸四宿と呼びますが、千住宿もそのうちのひとつ。五街道で宿場は四?日光街道と奥州街道は江戸から宇都宮までは同じ道です。ですから、千住宿は五街道のうち二つの街道の宿場ということになります。
<旧日光街道>
この道がそのままかつての日光街道です。かつて宿場だったエリアには、飲食店ほか多くの店舗が軒を連ね、いまでも賑わっています。私の訪問が日曜日だったこともあり、人を避けて撮影することはできませんでした。
<高札場跡>こうさつば
高札場跡です。宿場町通りの南の方(旧日光街道と大踏切通りが交差する付近)で撮影しました。幕府の通達など、重要な連絡を人目につくように高く掲げておく場所のことですね。どの宿場でも、高札場は比較的人通りの多いところに設けられます。千住宿の場合、宿場の北と南の出入り口に高札場がありました。
<一里塚跡>いちりづか
高札場跡近くの一里塚跡。土を盛った形跡はもう確認できませんが、日本橋を起点に一里毎に設けられた塚の跡です。1里は約4q。ここ千住の一里塚は日本橋から数えて2つ目の塚でした。
<松尾芭蕉像>
北を目指す芭蕉も千住宿を通りました
<問屋場跡・貫目改所跡>
旧街道沿いは建物がぎっしりですがここは広場になっています。
<表示>
広場には問屋場跡や貫目改所跡の場所がかなり具体的に記されています。
<問屋場跡>といや
宿場における問屋は、いわゆる問屋さんとは異なり、人足や馬を用意し、次の宿場までの手助けなどの労務を地元民に課したりする役割を担っていました。その土地の実力者でないと務まらない役割です。
ここで旅人に人馬の手配をしていたわけですね。
<貫目改所>かんめあらためじょ
問屋場のお隣は貫目改所。聞きなれない言葉ですが、字で連想できる通りで、荷物の重量(貫目)を検査するところです。ここで馬に積む荷物の測定や、運賃の算出をしていました。ちなみに、全ての宿場に貫目改所があるわけではありませんので、千住宿にあった貫目改所はかなり重要な役割を担っていたことになります。もうひとつ、荷さばき場という表示がありましたが、これも名の通りで、荷物の仕分けや積み替え作業をする場所のことです。
<日光道中千住宿史跡・旧跡案内図>
こちらは千住ほんちょう公園で撮影しました。この公園は宿場の北側の高札場跡でもあります。こういう地図はなんとなく雰囲気が盛り上あがっていいですね。川に挟まれていることになっていますが、左側の荒川は江戸時代にはありませんでした。
<地図拡大>
旧日光街道を左側の「現在位置」まで歩いてきたことになります。
更に北へ進むと
<遠藤家住宅>
宿場町だったなごりを今に伝える古い建物。こちらの遠藤家住宅は江戸時代後期の建造物(昭和に改修あり)で、足立区の登録有形民俗文化財となっています。
おおまかで恐縮ですが、旧日光街道沿いはだいたいこんな感じです。以下は通り沿いではありませんが、印象に残った寺院をご紹介します。
<金蔵寺>こんぞうじ
[足立区千住]2丁目
本尊は閻魔大王。氷川山地蔵院と号するこちらの寺院には、千住宿の遊女の供養塔があります。
<遊女供養塔>ゆうじょくようとう
金蔵寺の門を入ると左側に石塔が並んでいます。「南無阿弥陀仏」と刻まれている塔(左側)が千住遊女供養塔です。右側の「無縁塔」もかなり大きいです。こちらは天保大飢鐘の餓死者の供養塔です。
<説明板>
現地に掲示されている足立区教育委員会さんによる説明文を参考にさせて頂きました。こちらによれば、遊女の供養塔には『この地で死んだ遊女の戒名が石に刻まれている』とのこと。以下、原文をそのまま転記させて頂きます。
『千住宿には、本陣・脇本陣のほかに五十五軒の旅籠屋があり、そのうち、食売旅籠(遊女屋)が三十六軒あった。江戸後期には宿場以外に江戸近郊の遊里として発達した。そのかげで病死した遊女は無縁仏同様に葬られたその霊を慰めるための供養塔である。』
55軒中36軒が遊女屋ですか…
宿場と聞けば、まず旅する者が宿泊する所としかイメージしませんが、人が集まるところだけに、いろいろあったようです。
千住は日本橋から僅か8qちょっとのところ。旅人の宿泊だけではなく、そういう役割を担う場所でもあったわけですね。ほかの江戸四宿、東海道の品川宿、甲州街道の内藤新宿、中山道の板橋宿も、似た役割を担っていました。ですから、遊女の話はここ千住に限った話ではありません。
<南無阿弥陀仏>
江戸時代の遊女の暮らしに想像は及びませんが、説明文の『無縁仏同様に葬られた』という言葉に重みを感じざるをえません。
最後に
千住という地名と深く関係している寺院へ
<勝専寺>しょうせんじ
[足立区千住]2丁目
こちらは赤い山門がひときわ目をひく勝専寺。赤門寺とも呼ばれるそうです。
<本堂>
隅田川(むかしの荒川)から引き上げられた木造千手観音立像が安置されており、諸説あるものの、千住という地名の由来と言われています。
創建は鎌倉時代という歴史ある寺院。江戸時代には徳川将軍の鷹狩りの際の休憩所にもなりました。そしていまでも地元民に愛され、縁日に多くの人たちで賑わうそうです。
<閻魔堂>えんまどう
年に2回だけ閻魔様とお会いすることもできます。
以上です。
ほんの少しお邪魔させて頂いただけですが、とても有意義な宿場探索となりました。
■訪問:
宿場町通り商店街 他
[東京都足立区千住仲町] 他
お城巡りランキング
■参考・引用
・現地説明板
(足立区教育委員会)
・Wikipedia:2024/11/24
・あだち観光ネットHP
スポット>観る>金蔵寺
https://www.adachikanko.net/spot/id-050
2024年11月24日
2024年11月17日
近世城郭忍城のなごり
つわものどもが夢の跡
行田市の忍城跡を訪ねました。
<忍城跡>おしじょう
忍城址のシンボルとなっている御三階櫓
■ 戦国時代 ■
忍城を築城したのは地元豪族の成田氏(1478年頃)。扇谷上杉家に与する忍一族を滅ぼし、この地に城を築きました。成田氏は強大な勢力に翻弄されながらも、関東七名城のひとつに数えられる忍城を居城に、戦国の世を強かに生き残りました。しかし豊臣秀吉による小田原征伐の際(1590年)、北条氏に与していたことから領地を失うことになりました。要害堅固な忍城は、石田三成を総大将とする豊臣軍の水攻めにも屈しませんでしたが、頼りの小田原北条氏が豊臣秀吉に降伏。北条方で唯一落ちなかった忍城も開城となりました。
<現地説明板>
成田顕泰による築城から始まり、三成による水攻めにも耐えたことなどが紹介されています。そして江戸時代の改修など、明治維新を迎えるまでの歴史も記されていました。
■ 江戸時代 ■
徳川家康が関東へ移ると、忍城には家康四男・松平忠吉が10万石で入城しました。ただし忠吉は幼少であったことから、成人するまでの補佐役として徳川氏家臣の松平家忠が忍城へ移っています。城の補修といった土木技能に長けた家忠は、豊臣軍との戦いで荒れ果ててしまった城や城下の修復を行いました。
その後、忍藩の藩庁となった忍城には、徳川家とゆかりのある大名が代々城主として入りました。関東の要所となる城は、譜代大名や親藩の居城となることが多く、更に城主が幕府の要職に就く傾向にありますが、忍城は老中の排出数だと1です。忍城は佐倉城や川越城と並ぶ幕府のエリートコースでした。
■ 近世城郭 ■
1639年に老中であった阿部忠秋が5万石で城主となると、本格的な拡張工事が施され、忍城は近世に相応しい城郭へと生まれ変わりました。忠秋は、知恵伊豆と呼ばれる松平信綱と並ぶ幕府の中核中の中核で、江戸幕府初期の体制造りに働きのあった人物です。忍城の縄張りは、この時にほぼ完成形に至ったと考えられています。また、城下町の整備もすすみ、陸運・水運機能の向上によって大いに栄えました。
やがて忠秋の孫である正武(藩主在任27年:老中)のときに、忍藩は10万石となり、1702年には御三階櫓が完成しました。阿部氏が白河へ移ると(1823年)、桑名から松平忠堯が入り、以降は松平氏の城となります。
やがて明治となり、忍城も廃城。近世城郭として整備された城内の構造物はほとんど破壊、又は取り除かれました。現在はかつての本丸付近が行田市郷土博物館として整備され、江戸時代の雰囲気を醸し出す建物や石垣が復元されています。
<模擬御三階櫓>ごさんかいやぐら
城の天守に相当する御三階櫓です。阿部正武が築いた櫓は城の解体にともない破却されましたが、資料をもとに外観復元されています(内部は郷土博物館展示室)。本来は別の場所にあったようですが、いまは本丸跡に毅然と佇んでいます。三階櫓とは別に、かつての忍城には二階櫓が2棟あったようです。
<東門>
郷土博物館の正面玄関です。堀に架かるあずま橋を渡り、ここから城内に入ります。
<忍城の鐘の石柱>
松平氏が伊勢桑名藩から忍藩へ移った時(1823年)に、所有していた鐘も忍城へ移されました。鐘楼はもともと二の丸の東隅にありましたが、現在は諏訪曲輪の土塁上に佇んでいます。現在吊るされているのはレプレカで、市指定有形文化財となっているオリジナルの鐘は、郷土博物館に展示されています。
<郷土博物館裏手>
管理が行き届いてとても綺麗な状態
<土塀>
土塁といい城壁といい狭間(攻撃用の穴)といい美しい姿
<石垣>
再建された石垣もかなり立派です
<藩校の表門>
こちらは郷土博物館の駐車場側に佇む門。城と馴染んでいて城門のようですが、もともと藩校の表門だったものが移築されたものと伝わります。
そして
<土塁跡>
こちらは復元ではなく遺構です。本丸の外周を囲んでいた土塁の跡。関東七名城のひとつに数えられる忍城のリアルな名残です。
■近世城郭忍城のなごり■
<忍城鳥瞰図>おしじょうちょうかんず
こちらは忍城址のお隣の忍諏訪神社で撮影しました。神社の境内もかつての城跡(諏訪曲輪)です。ご覧の通り、忍城は沼地に点在する島を曲輪として、橋でつないで城としました。明治以降、城の取り壊しのみならず、沼も埋められ曲輪は消滅しました。近代化を急ぐ時代でしたので、仕方のないことですね。
ただ、城の価値が見直されるようになったいまでは、かつての本丸周辺に、近世城郭を思わせる空間が整備されています。遺構は少なめですが、後世に語り継ごうというひとの思いが、忍城のなごりとなって漂っている。そう感じました。
<近世城郭のなごり>
維持も大変かと思いますが、ここに10万石の城があったことの象徴であり続けて欲しいですね。
-------■ 忍 城 ■-------
別 名:浮き城 亀城
築城者:成田氏
築城年:15世紀後期
城 主:成田氏
松平氏 阿部氏
改修者:阿部氏 他
廃城年:1871年(明治3)
[ 埼玉県行田市本丸 ]
お城巡りランキング
■参考
・現地説明板
(行田市教育委員会)
・市内高札風説明板Gyoda Story
「徳川幕府をささえたのは忍城主」
・Wikipedia:2024/11/17
・行田市HP
>歴史・文化財>指定文化財等>忍城跡
https://www.city.gyoda.lg.jp/soshiki/shougaigakusyubu/bunkazaihogo/gyomu/rekishi_bunkazai/1/2261.html
行田市の忍城跡を訪ねました。
<忍城跡>おしじょう
忍城址のシンボルとなっている御三階櫓
■ 戦国時代 ■
忍城を築城したのは地元豪族の成田氏(1478年頃)。扇谷上杉家に与する忍一族を滅ぼし、この地に城を築きました。成田氏は強大な勢力に翻弄されながらも、関東七名城のひとつに数えられる忍城を居城に、戦国の世を強かに生き残りました。しかし豊臣秀吉による小田原征伐の際(1590年)、北条氏に与していたことから領地を失うことになりました。要害堅固な忍城は、石田三成を総大将とする豊臣軍の水攻めにも屈しませんでしたが、頼りの小田原北条氏が豊臣秀吉に降伏。北条方で唯一落ちなかった忍城も開城となりました。
<現地説明板>
成田顕泰による築城から始まり、三成による水攻めにも耐えたことなどが紹介されています。そして江戸時代の改修など、明治維新を迎えるまでの歴史も記されていました。
■ 江戸時代 ■
徳川家康が関東へ移ると、忍城には家康四男・松平忠吉が10万石で入城しました。ただし忠吉は幼少であったことから、成人するまでの補佐役として徳川氏家臣の松平家忠が忍城へ移っています。城の補修といった土木技能に長けた家忠は、豊臣軍との戦いで荒れ果ててしまった城や城下の修復を行いました。
その後、忍藩の藩庁となった忍城には、徳川家とゆかりのある大名が代々城主として入りました。関東の要所となる城は、譜代大名や親藩の居城となることが多く、更に城主が幕府の要職に就く傾向にありますが、忍城は老中の排出数だと1です。忍城は佐倉城や川越城と並ぶ幕府のエリートコースでした。
■ 近世城郭 ■
1639年に老中であった阿部忠秋が5万石で城主となると、本格的な拡張工事が施され、忍城は近世に相応しい城郭へと生まれ変わりました。忠秋は、知恵伊豆と呼ばれる松平信綱と並ぶ幕府の中核中の中核で、江戸幕府初期の体制造りに働きのあった人物です。忍城の縄張りは、この時にほぼ完成形に至ったと考えられています。また、城下町の整備もすすみ、陸運・水運機能の向上によって大いに栄えました。
やがて忠秋の孫である正武(藩主在任27年:老中)のときに、忍藩は10万石となり、1702年には御三階櫓が完成しました。阿部氏が白河へ移ると(1823年)、桑名から松平忠堯が入り、以降は松平氏の城となります。
やがて明治となり、忍城も廃城。近世城郭として整備された城内の構造物はほとんど破壊、又は取り除かれました。現在はかつての本丸付近が行田市郷土博物館として整備され、江戸時代の雰囲気を醸し出す建物や石垣が復元されています。
<模擬御三階櫓>ごさんかいやぐら
城の天守に相当する御三階櫓です。阿部正武が築いた櫓は城の解体にともない破却されましたが、資料をもとに外観復元されています(内部は郷土博物館展示室)。本来は別の場所にあったようですが、いまは本丸跡に毅然と佇んでいます。三階櫓とは別に、かつての忍城には二階櫓が2棟あったようです。
<東門>
郷土博物館の正面玄関です。堀に架かるあずま橋を渡り、ここから城内に入ります。
<忍城の鐘の石柱>
松平氏が伊勢桑名藩から忍藩へ移った時(1823年)に、所有していた鐘も忍城へ移されました。鐘楼はもともと二の丸の東隅にありましたが、現在は諏訪曲輪の土塁上に佇んでいます。現在吊るされているのはレプレカで、市指定有形文化財となっているオリジナルの鐘は、郷土博物館に展示されています。
<郷土博物館裏手>
管理が行き届いてとても綺麗な状態
<土塀>
土塁といい城壁といい狭間(攻撃用の穴)といい美しい姿
<石垣>
再建された石垣もかなり立派です
<藩校の表門>
こちらは郷土博物館の駐車場側に佇む門。城と馴染んでいて城門のようですが、もともと藩校の表門だったものが移築されたものと伝わります。
そして
<土塁跡>
こちらは復元ではなく遺構です。本丸の外周を囲んでいた土塁の跡。関東七名城のひとつに数えられる忍城のリアルな名残です。
■近世城郭忍城のなごり■
<忍城鳥瞰図>おしじょうちょうかんず
こちらは忍城址のお隣の忍諏訪神社で撮影しました。神社の境内もかつての城跡(諏訪曲輪)です。ご覧の通り、忍城は沼地に点在する島を曲輪として、橋でつないで城としました。明治以降、城の取り壊しのみならず、沼も埋められ曲輪は消滅しました。近代化を急ぐ時代でしたので、仕方のないことですね。
ただ、城の価値が見直されるようになったいまでは、かつての本丸周辺に、近世城郭を思わせる空間が整備されています。遺構は少なめですが、後世に語り継ごうというひとの思いが、忍城のなごりとなって漂っている。そう感じました。
<近世城郭のなごり>
維持も大変かと思いますが、ここに10万石の城があったことの象徴であり続けて欲しいですね。
-------■ 忍 城 ■-------
別 名:浮き城 亀城
築城者:成田氏
築城年:15世紀後期
城 主:成田氏
松平氏 阿部氏
改修者:阿部氏 他
廃城年:1871年(明治3)
[ 埼玉県行田市本丸 ]
お城巡りランキング
■参考
・現地説明板
(行田市教育委員会)
・市内高札風説明板Gyoda Story
「徳川幕府をささえたのは忍城主」
・Wikipedia:2024/11/17
・行田市HP
>歴史・文化財>指定文化財等>忍城跡
https://www.city.gyoda.lg.jp/soshiki/shougaigakusyubu/bunkazaihogo/gyomu/rekishi_bunkazai/1/2261.html
2024年11月09日
浮き城本丸土塁のなごり(行田市)忍城
<土塁跡>
こちらの土塁は本丸の外周を囲んでいた土塁です。
<説明板>
土塁の斜面には小さな説明板が設置されています。本丸の西側を囲む土塁の一部であること、南の二の丸や西の土蔵曲輪と橋で結ばれていたと記されています。
<模擬御三階櫓>
土塁の場所は忍城址のシンボル・御三階櫓からみて南西側になります。
<参考画像>
整備された忍城址には、復元土塁や土塀が設けられているところもあります。これはこれで魅力がありますが、旧状をそのまま残しているのは、今回ご紹介の土塁ということになります。
<忍城鳥瞰図>
もう少し伝わり安いように、忍諏訪神社で撮影した忍城の鳥瞰図を貼っておきます。左下が本丸です。広大な沼地を利用した忍城は、それぞれの曲輪が水辺に面しています。
<浮き城の本丸土塁>
土塁の前面は堀ではなく水辺だったのでしょう。
忍城は戦国時代に築かれ、江戸時代を通じて存在していた城ですが、明治の廃城により徹底的に取り壊されました。よって、遺構は僅かです。城址は行田市郷土博物館として整備され、城郭の雰囲気を醸し出す素敵な空間となっていますが、それだけに、毅然と残っているリアルな土塁の重みを感じます。
<貴重な遺構>
見た目は地味です。ただ、関東七名城のひとつに数えられる忍城で、実際に役割を担っていた土塁の跡です。
■訪問:忍城土塁跡
(行田市郷土博物館)
[ 埼玉県行田市本丸 ]
お城巡りランキング
■参考
・現地説明板
・お城めぐりFAN
>関東の城>忍城
https://www.shirofan.com/shiro/kantou/oshi/oshi.html
こちらの土塁は本丸の外周を囲んでいた土塁です。
<説明板>
土塁の斜面には小さな説明板が設置されています。本丸の西側を囲む土塁の一部であること、南の二の丸や西の土蔵曲輪と橋で結ばれていたと記されています。
<模擬御三階櫓>
土塁の場所は忍城址のシンボル・御三階櫓からみて南西側になります。
<参考画像>
整備された忍城址には、復元土塁や土塀が設けられているところもあります。これはこれで魅力がありますが、旧状をそのまま残しているのは、今回ご紹介の土塁ということになります。
<忍城鳥瞰図>
もう少し伝わり安いように、忍諏訪神社で撮影した忍城の鳥瞰図を貼っておきます。左下が本丸です。広大な沼地を利用した忍城は、それぞれの曲輪が水辺に面しています。
<浮き城の本丸土塁>
土塁の前面は堀ではなく水辺だったのでしょう。
忍城は戦国時代に築かれ、江戸時代を通じて存在していた城ですが、明治の廃城により徹底的に取り壊されました。よって、遺構は僅かです。城址は行田市郷土博物館として整備され、城郭の雰囲気を醸し出す素敵な空間となっていますが、それだけに、毅然と残っているリアルな土塁の重みを感じます。
<貴重な遺構>
見た目は地味です。ただ、関東七名城のひとつに数えられる忍城で、実際に役割を担っていた土塁の跡です。
■訪問:忍城土塁跡
(行田市郷土博物館)
[ 埼玉県行田市本丸 ]
お城巡りランキング
■参考
・現地説明板
・お城めぐりFAN
>関東の城>忍城
https://www.shirofan.com/shiro/kantou/oshi/oshi.html
タグ:埼玉
縁切橋跡(行田市) 城主と妻の悲話が伝わる橋
<縁切橋跡>
行田市の縁切橋跡です。忍城の城主・成田氏長が、正室(由良成繁の娘)を離縁する際、この地に架かっていた橋まで見送ったと伝わります。
<忍城鳥瞰図>おしじょうちょうかんず
こちらは忍諏訪神社で撮影した忍城の鳥瞰図です。成田氏の時代よりあとの姿と思われますが、忍城が広大な沼地を利用した城だったことは見て取れると思います。関東七名城の一つに数えられる忍城は、沼を埋めずに点在する島を曲輪にして、橋で繋いで城としました。当然ながら、橋は多かったことでしょう。
<沼の跡>
方角で判断するとこの道はもともと沼だったことになりますね
城の中核エリアから数えて、ここが何本目の橋だったのかはわかりません。ただ、城主である成田氏長本人が、本丸から少し離れているここまで来て、妻との別れを惜しんだわけですね。
氏長といえば、豊臣秀吉による小田原征伐の時の城主です。小田原北条氏に与する忍城は、低湿地の城であることを逆手にとられ、天下軍の水攻めに苦しむことになります。氏長本人は小田原城の籠城に加わって不在だったため、忍城は親族の成田長親が守りました。いわゆる「のぼうの城」で描かれた世界ですね。
その「のぼうの城」にも登場した城主の長女・甲斐姫の実母は、氏長が橋まで見送って離縁した正室。忍城を去る氏長の妻は橋を渡り、次の橋を渡るところで振り返り、まだ幼い甲斐姫を見て涙ぐんだと伝わります。
成長した甲斐姫は、城主不在の忍城で籠城戦に加わり、武勇を発揮しました。また、豊臣軍を敵に回した成田氏長が、やがて下野国で2万石を与えられたことは、甲斐姫が秀吉の側室となったことと無縁ではないと考えられています。
<悲話が伝わる橋跡>
道路を渡って画像の奥へ進むほど、城から遠ざかります。城主と妻の悲話が伝わるこの橋跡は、甲斐姫が遠くへ消えていく母親を見つめていた場所でもあるわけですね。
■訪問:縁切橋跡
[埼玉県行田市城西]1丁目
お城巡りランキング
■参考
ニッポン城めぐりHP
>縁切橋跡
https://cmeg.jp/w/castles/2065/pins/11248
行田市の縁切橋跡です。忍城の城主・成田氏長が、正室(由良成繁の娘)を離縁する際、この地に架かっていた橋まで見送ったと伝わります。
<忍城鳥瞰図>おしじょうちょうかんず
こちらは忍諏訪神社で撮影した忍城の鳥瞰図です。成田氏の時代よりあとの姿と思われますが、忍城が広大な沼地を利用した城だったことは見て取れると思います。関東七名城の一つに数えられる忍城は、沼を埋めずに点在する島を曲輪にして、橋で繋いで城としました。当然ながら、橋は多かったことでしょう。
<沼の跡>
方角で判断するとこの道はもともと沼だったことになりますね
城の中核エリアから数えて、ここが何本目の橋だったのかはわかりません。ただ、城主である成田氏長本人が、本丸から少し離れているここまで来て、妻との別れを惜しんだわけですね。
氏長といえば、豊臣秀吉による小田原征伐の時の城主です。小田原北条氏に与する忍城は、低湿地の城であることを逆手にとられ、天下軍の水攻めに苦しむことになります。氏長本人は小田原城の籠城に加わって不在だったため、忍城は親族の成田長親が守りました。いわゆる「のぼうの城」で描かれた世界ですね。
その「のぼうの城」にも登場した城主の長女・甲斐姫の実母は、氏長が橋まで見送って離縁した正室。忍城を去る氏長の妻は橋を渡り、次の橋を渡るところで振り返り、まだ幼い甲斐姫を見て涙ぐんだと伝わります。
成長した甲斐姫は、城主不在の忍城で籠城戦に加わり、武勇を発揮しました。また、豊臣軍を敵に回した成田氏長が、やがて下野国で2万石を与えられたことは、甲斐姫が秀吉の側室となったことと無縁ではないと考えられています。
<悲話が伝わる橋跡>
道路を渡って画像の奥へ進むほど、城から遠ざかります。城主と妻の悲話が伝わるこの橋跡は、甲斐姫が遠くへ消えていく母親を見つめていた場所でもあるわけですね。
■訪問:縁切橋跡
[埼玉県行田市城西]1丁目
お城巡りランキング
■参考
ニッポン城めぐりHP
>縁切橋跡
https://cmeg.jp/w/castles/2065/pins/11248
タグ:埼玉
忍藩校のなごり(行田市)伝 忍藩校進修館表門
忍城本丸跡の郷土博物館の南側に、独特の雰囲気を醸し出す古い門が佇んでいます。
<高麗門>
門の型式は城でよくみかける高麗門です。城内の雰囲気と一体となっており、とてもいい感じですが、もともとは忍城の城門ではなかったようです。
<説明板>
現地に設置されている行田市教育委員会さんの説明板です。こちらによれば、門は行田市城西の旧芳川家表門を移築・復元したものとのことで、それ以前は藩校・進修館の表門だったと伝わるそうです。
構造的なことは、説明文をそのまま転記させて頂きます(『』内は原文)。
『一間一戸、高麗門、切妻造、桟瓦葺で、当初は赤彩された赤門であった可能性も指摘されています。また、解体時に発見された冠木柄表面の墨書銘から、天保3年(1832)に御奉行後藤五八、大工町世話方大工宋兵衛によって建立されたことが判明しています。』
奉行も関わっていたのなら、藩としての仕事だったのではないかと考えるのは安易ですかね?門は戦火で一度移築されていることなどから、進修館の門かどうか明らかにはなっていないそうです。
説明文は『現存する行田市唯一の武家屋敷の表門として貴重な歴史的建造物であると言えます』という言葉で結ばれています。私は藩校のなごりと受け止めることにしますが、もしそうでなくても、歴史的価値のある門ということですね。
■訪問:
伝 忍藩校進修館表門
(忍城址・行田市郷土博物館)
[埼玉県行田市本丸]
お城巡りランキング
■参考・引用
・現地説明板
(行田市教育委員会)
・埼玉県立進修館高校HP
>行田市と忍藩
https://shinsyukan-h.spec.ed.jp/blogs/blog_entries/view/137/4dfa4a8940996e3eb7b9db0739ba0940?frame_id=334
<高麗門>
門の型式は城でよくみかける高麗門です。城内の雰囲気と一体となっており、とてもいい感じですが、もともとは忍城の城門ではなかったようです。
<説明板>
現地に設置されている行田市教育委員会さんの説明板です。こちらによれば、門は行田市城西の旧芳川家表門を移築・復元したものとのことで、それ以前は藩校・進修館の表門だったと伝わるそうです。
構造的なことは、説明文をそのまま転記させて頂きます(『』内は原文)。
『一間一戸、高麗門、切妻造、桟瓦葺で、当初は赤彩された赤門であった可能性も指摘されています。また、解体時に発見された冠木柄表面の墨書銘から、天保3年(1832)に御奉行後藤五八、大工町世話方大工宋兵衛によって建立されたことが判明しています。』
奉行も関わっていたのなら、藩としての仕事だったのではないかと考えるのは安易ですかね?門は戦火で一度移築されていることなどから、進修館の門かどうか明らかにはなっていないそうです。
説明文は『現存する行田市唯一の武家屋敷の表門として貴重な歴史的建造物であると言えます』という言葉で結ばれています。私は藩校のなごりと受け止めることにしますが、もしそうでなくても、歴史的価値のある門ということですね。
■訪問:
伝 忍藩校進修館表門
(忍城址・行田市郷土博物館)
[埼玉県行田市本丸]
お城巡りランキング
■参考・引用
・現地説明板
(行田市教育委員会)
・埼玉県立進修館高校HP
>行田市と忍藩
https://shinsyukan-h.spec.ed.jp/blogs/blog_entries/view/137/4dfa4a8940996e3eb7b9db0739ba0940?frame_id=334
タグ:埼玉
2024年11月08日
二の丸に祀られていたから二の丸稲荷社(行田市)忍城跡
忍城と縁の深い忍諏訪神社の境内には、城好きなら誰でも足を止めるであろうお稲荷さんが祀られています。
<二の丸稲荷社>
御祭神は宇賀御霊神。いわゆる稲荷神社です。
<説明板>
忍城二の丸に祀ってあった。説明もそのままですね。明治になってから、諏訪神社境内に移されたようです。興味深いのはその次の文言。『永禄年間(西暦一五六〇年頃)忍城主の成田長泰が見返曲輪内に、若い時に殺生した狐の親子を祀ったものといわれている』とのこと(『』内は原文)。
この情報だけで判断すると、成田氏の時代の見返曲輪(みかえりくるわ)とは、近世城郭となった忍城の二の丸ということで良いようです。また、移転先である諏訪神社境内は、かつての諏訪曲輪です。
成田長泰といえば、小田原北条氏や越後の上杉氏といった巨大な勢力に翻弄されながらも、忍城を拠点に所領を守り続けた戦国武将です。若い頃の無益な殺生を思い出し、純粋に心を痛めたのか、あるいは狐の祟りを恐れたのかはわかりません。いずれにせよ、乱世を生きた武将の願いがこの稲荷社の始まりであり、近世を経て廃城となった城跡にいまでも祀られている。この地に刻まれた歴史の深さを感じずにはいられません。
<忍諏訪神社>おしすわじんじゃ
こちらは諏訪神社
<忍東照宮>おしとうしょうぐう
こちらは東照宮です
諏訪神社と東照宮を目当てに訪問する人が多いと思いますが、当ブログがきっかけで、小さな稲荷社にも手を合わせる方がいれば嬉しいです。
■訪問:二の丸稲荷社
(忍諏訪神社境内)
[埼玉県行田市本丸]12-5
お城巡りランキング
■参考・引用
現地説明板(大野建設)
<二の丸稲荷社>
御祭神は宇賀御霊神。いわゆる稲荷神社です。
<説明板>
忍城二の丸に祀ってあった。説明もそのままですね。明治になってから、諏訪神社境内に移されたようです。興味深いのはその次の文言。『永禄年間(西暦一五六〇年頃)忍城主の成田長泰が見返曲輪内に、若い時に殺生した狐の親子を祀ったものといわれている』とのこと(『』内は原文)。
この情報だけで判断すると、成田氏の時代の見返曲輪(みかえりくるわ)とは、近世城郭となった忍城の二の丸ということで良いようです。また、移転先である諏訪神社境内は、かつての諏訪曲輪です。
成田長泰といえば、小田原北条氏や越後の上杉氏といった巨大な勢力に翻弄されながらも、忍城を拠点に所領を守り続けた戦国武将です。若い頃の無益な殺生を思い出し、純粋に心を痛めたのか、あるいは狐の祟りを恐れたのかはわかりません。いずれにせよ、乱世を生きた武将の願いがこの稲荷社の始まりであり、近世を経て廃城となった城跡にいまでも祀られている。この地に刻まれた歴史の深さを感じずにはいられません。
<忍諏訪神社>おしすわじんじゃ
こちらは諏訪神社
<忍東照宮>おしとうしょうぐう
こちらは東照宮です
諏訪神社と東照宮を目当てに訪問する人が多いと思いますが、当ブログがきっかけで、小さな稲荷社にも手を合わせる方がいれば嬉しいです。
■訪問:二の丸稲荷社
(忍諏訪神社境内)
[埼玉県行田市本丸]12-5
お城巡りランキング
■参考・引用
現地説明板(大野建設)
タグ:埼玉
2024年11月05日
諏訪の大木(行田市)忍城諏訪曲輪のなごり
<諏訪神社>
ここは忍城跡のお隣の諏訪神社境内。諏訪曲輪と呼ばれたかつての忍城の一郭です。神域に足を踏み入れると、ひときわ杉の木が目にとびこんできます。
<大木>
天を衝く大木…
<説明板>
杉の木に関する説明板が設置されています。廃城となる忍城の話も含め詳細が記されていますが、少し長いので、要約してご紹介させて頂きます。
まず、忍城は江戸に近く徳川家と親しい関係を保っていたこともあり、新政府から徹底した取り壊しが命じられたようです。ただ、城内の建物を取り壊すにも費用が足りず、入札という形式で払い下げ、費用に充てました。旧忍城の物件であることを名乗る門や蔵が存在するのは、そういう背景があったからとのこと。そして、建物のみならず、樹木までも伐採されることになり、大木も並木もほとんど切りとられてしまいました。
諏訪曲輪の木も次々と切りとられ、伐採は諏訪神社の拝殿近くに及びましたが、ここで止まりました。以下は原文をそのまま転記させて頂きます(『』内は原文)。
『突然に杉の木から、生血のような赤いものが流れだした。「ご神木から生血が流れた、切る人にバチがあたる」と、人夫だれひとり手をだす者がなくなってしまった。そのために諏訪の森だけは、ご神木ということで、現在まで残ったのである。』
このお話をどのように受け止めるかは、その人しだいです。ただ、神の領域で人が触れてはならないものを察する気持ちは、現代人でも想像が及ぶ範囲ではないでしょうか。
<忍諏訪神社鳥居>おしすわじんじゃ
この地を支配した忍一族が創建したことに始まる神社です。
<忍諏訪神社拝殿>
成田氏が築いた忍城よりも古い神社です。
<忍城鳥瞰図>おしじょうちょうかんず
境内で撮影した忍城の鳥瞰図です。諏訪曲輪は本丸の北側に位置する曲輪です。成田氏が去ったあと、忍城には徳川家とゆかりのある大名が代々城主として入り、江戸時代を通して城として機能し続けました。明治となり、忍県の県庁が置かれたもののその後に廃城。忍城は徹底的に破壊されました。
<行田市郷土博物館の鐘楼>
いまはかつての本丸付近が行田市郷土博物館として整備されています。
<諏訪の大木>
郷土博物館お隣の諏訪神社の大木は、そのまま忍城諏訪曲輪のなごりということになります。
■訪問:忍諏訪神社
[埼玉県行田市本丸]12-5
お城巡りランキング
■参考・引用
・現地説明板
「諏訪の大木」
・猫の足あと
>行田市の神社>忍諏訪神社
https://tesshow.jp/saitama/gyoda/shrine_honmaru_suwa.html
ここは忍城跡のお隣の諏訪神社境内。諏訪曲輪と呼ばれたかつての忍城の一郭です。神域に足を踏み入れると、ひときわ杉の木が目にとびこんできます。
<大木>
天を衝く大木…
<説明板>
杉の木に関する説明板が設置されています。廃城となる忍城の話も含め詳細が記されていますが、少し長いので、要約してご紹介させて頂きます。
まず、忍城は江戸に近く徳川家と親しい関係を保っていたこともあり、新政府から徹底した取り壊しが命じられたようです。ただ、城内の建物を取り壊すにも費用が足りず、入札という形式で払い下げ、費用に充てました。旧忍城の物件であることを名乗る門や蔵が存在するのは、そういう背景があったからとのこと。そして、建物のみならず、樹木までも伐採されることになり、大木も並木もほとんど切りとられてしまいました。
諏訪曲輪の木も次々と切りとられ、伐採は諏訪神社の拝殿近くに及びましたが、ここで止まりました。以下は原文をそのまま転記させて頂きます(『』内は原文)。
『突然に杉の木から、生血のような赤いものが流れだした。「ご神木から生血が流れた、切る人にバチがあたる」と、人夫だれひとり手をだす者がなくなってしまった。そのために諏訪の森だけは、ご神木ということで、現在まで残ったのである。』
このお話をどのように受け止めるかは、その人しだいです。ただ、神の領域で人が触れてはならないものを察する気持ちは、現代人でも想像が及ぶ範囲ではないでしょうか。
<忍諏訪神社鳥居>おしすわじんじゃ
この地を支配した忍一族が創建したことに始まる神社です。
<忍諏訪神社拝殿>
成田氏が築いた忍城よりも古い神社です。
<忍城鳥瞰図>おしじょうちょうかんず
境内で撮影した忍城の鳥瞰図です。諏訪曲輪は本丸の北側に位置する曲輪です。成田氏が去ったあと、忍城には徳川家とゆかりのある大名が代々城主として入り、江戸時代を通して城として機能し続けました。明治となり、忍県の県庁が置かれたもののその後に廃城。忍城は徹底的に破壊されました。
<行田市郷土博物館の鐘楼>
いまはかつての本丸付近が行田市郷土博物館として整備されています。
<諏訪の大木>
郷土博物館お隣の諏訪神社の大木は、そのまま忍城諏訪曲輪のなごりということになります。
■訪問:忍諏訪神社
[埼玉県行田市本丸]12-5
お城巡りランキング
■参考・引用
・現地説明板
「諏訪の大木」
・猫の足あと
>行田市の神社>忍諏訪神社
https://tesshow.jp/saitama/gyoda/shrine_honmaru_suwa.html
タグ:埼玉
2024年10月26日
忍城の城門のなごり(行田市)大手門外升形城門跡
忍城跡を訪問する前に、城門跡とされるところに足を伸ばしてみました。
<升形城門跡>ますがたじょうもん
石碑には「忍城大手門外 升形城門跡」と記されています。そのまま解釈すると、ここには忍城の大手門の外側に設けられた枡形門があったということになります。現在の忍城跡まで少し距離がありますが、かつての城の範囲はここまで達していたということですね。
<市内の案内板>
別な場所で撮影した行田市教育委員会さんの説明板です。左側は現在と過去の様子が比較できる地図になっています。とても分かり安いので、一部を拡大させて頂きます。
<地図拡大>
画像の中央に大手門が記されています(〚18〛)。大手門の前には水堀があり、更に外側(画像右側)が今回訪問の「大手門外升形城門」ということのようです(〚17〛)。
それにしても、こうして地図をながめてみると、ホントに水辺の多い城ですね。広い沼地と自然堤防を利用して築かれた忍城ですから、水に守られていたことはいうまでもありません。ただ、出入り口が無防備ではまったく意味がなくなります。大手門も厳重な管理下にあったことが推測されますが、更に外側に、今回訪問の「大手門外升形城門」があったということのようです。
<直角>
枡形は方形の区画を意味しています。この直角な曲がり角はそのなごりか?などと思いつつも、石碑の裏側の駐車場も綺麗な方形になっており、結局のところ、城門のために設けられた枡形の正確な位置まではわかりませんでした。
忍城跡周辺はすっかり市街地化されていますが、街なかのあちらこちらに「〇〇跡」と記された行田市教育委員会さんの石碑が設置されています。古地図を参考に、それらを訪ね歩くのも面白そうですね。ただこの日の私にはそこまでの余力がなかったので、たまたま近くを通った石碑だけをご紹介させて頂きました。
<城門のなごり>
姿なくとも城門のなごり
■訪問:
忍城大手門外升形城門跡
[埼玉県行田市忍]2丁目
お城巡りランキング
■参考・引用
・案内板「忍城史跡碑」
(行田市教育委員会)
<升形城門跡>ますがたじょうもん
石碑には「忍城大手門外 升形城門跡」と記されています。そのまま解釈すると、ここには忍城の大手門の外側に設けられた枡形門があったということになります。現在の忍城跡まで少し距離がありますが、かつての城の範囲はここまで達していたということですね。
<市内の案内板>
別な場所で撮影した行田市教育委員会さんの説明板です。左側は現在と過去の様子が比較できる地図になっています。とても分かり安いので、一部を拡大させて頂きます。
<地図拡大>
画像の中央に大手門が記されています(〚18〛)。大手門の前には水堀があり、更に外側(画像右側)が今回訪問の「大手門外升形城門」ということのようです(〚17〛)。
それにしても、こうして地図をながめてみると、ホントに水辺の多い城ですね。広い沼地と自然堤防を利用して築かれた忍城ですから、水に守られていたことはいうまでもありません。ただ、出入り口が無防備ではまったく意味がなくなります。大手門も厳重な管理下にあったことが推測されますが、更に外側に、今回訪問の「大手門外升形城門」があったということのようです。
<直角>
枡形は方形の区画を意味しています。この直角な曲がり角はそのなごりか?などと思いつつも、石碑の裏側の駐車場も綺麗な方形になっており、結局のところ、城門のために設けられた枡形の正確な位置まではわかりませんでした。
忍城跡周辺はすっかり市街地化されていますが、街なかのあちらこちらに「〇〇跡」と記された行田市教育委員会さんの石碑が設置されています。古地図を参考に、それらを訪ね歩くのも面白そうですね。ただこの日の私にはそこまでの余力がなかったので、たまたま近くを通った石碑だけをご紹介させて頂きました。
<城門のなごり>
姿なくとも城門のなごり
■訪問:
忍城大手門外升形城門跡
[埼玉県行田市忍]2丁目
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■参考・引用
・案内板「忍城史跡碑」
(行田市教育委員会)
タグ:埼玉
城主八幡とよばれた忍城下の総鎮守(行田市)行田八幡神社
行田の忍城へ向かう途中、地元の八幡神社にお邪魔させて頂きました。
<鳥居>
ここ行田の八幡神社は、子供の夜泣きやかんの虫を封じる「封じの宮」として有名であるとともに、美しい花手水を鑑賞できることでも人気のスポットです。
<拝殿>
私の滞在中に人が途切れることはありませんでした。後ろから失礼します。
<愛宕神社>
こちらは境内の愛宕神社です。境内にはほかに恵比寿神社や大国主神社など多数
<なで桃>
桃も祀られている?病難・災害避けの神として有名だそうです。
<武将ゆかりの神社>
神社のはじまりは、源頼義・義家親子が奥州討伐に向かう途上でこの地に陣を敷いた際に、戦勝を祈願して勧請されたと伝えられています。現在の場所に移転した際に、忍城の城主である成田長泰が社殿を補修して城下総鎮守としたことから城主八幡とも呼ばれたそうです。
成田長泰といえば、上杉謙信の関東管領の就任式で、馬から降りなかったことを理由に謙信にとがめられた城主。下馬しないことは非礼ではないという認識の長泰は、そのまま兵を率いて忍城へ引き上げたという言い伝えがあります。
誇り高き成田氏の当主が、庇護した神社ということですね。
成田氏が去ったあとも、行田八幡神社は忍城の歴代城主の尊崇が篤く、老中にもなった阿部忠秋が城主の時には、八幡大神の御神像が奉納されています。
<行田八幡神社>
地元民の信仰の場であるとともに、城主にとっての八幡様であり続けたわけですね。
■訪問:行田八幡神社
[埼玉県行田市行田] 16-23
<花手水>はなちょうず
行田八幡神社で人気の花手水は人がいっぱいで撮影できませんでした。こちらは忍城跡で撮影したもの。参考に貼っておきます。
お城巡りランキング
■参考
・Wikipedia:2024/10/26
・行田八幡神社HP
https://gyodahachiman.jp/
<鳥居>
ここ行田の八幡神社は、子供の夜泣きやかんの虫を封じる「封じの宮」として有名であるとともに、美しい花手水を鑑賞できることでも人気のスポットです。
<拝殿>
私の滞在中に人が途切れることはありませんでした。後ろから失礼します。
<愛宕神社>
こちらは境内の愛宕神社です。境内にはほかに恵比寿神社や大国主神社など多数
<なで桃>
桃も祀られている?病難・災害避けの神として有名だそうです。
<武将ゆかりの神社>
神社のはじまりは、源頼義・義家親子が奥州討伐に向かう途上でこの地に陣を敷いた際に、戦勝を祈願して勧請されたと伝えられています。現在の場所に移転した際に、忍城の城主である成田長泰が社殿を補修して城下総鎮守としたことから城主八幡とも呼ばれたそうです。
成田長泰といえば、上杉謙信の関東管領の就任式で、馬から降りなかったことを理由に謙信にとがめられた城主。下馬しないことは非礼ではないという認識の長泰は、そのまま兵を率いて忍城へ引き上げたという言い伝えがあります。
誇り高き成田氏の当主が、庇護した神社ということですね。
成田氏が去ったあとも、行田八幡神社は忍城の歴代城主の尊崇が篤く、老中にもなった阿部忠秋が城主の時には、八幡大神の御神像が奉納されています。
<行田八幡神社>
地元民の信仰の場であるとともに、城主にとっての八幡様であり続けたわけですね。
■訪問:行田八幡神社
[埼玉県行田市行田] 16-23
<花手水>はなちょうず
行田八幡神社で人気の花手水は人がいっぱいで撮影できませんでした。こちらは忍城跡で撮影したもの。参考に貼っておきます。
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■参考
・Wikipedia:2024/10/26
・行田八幡神社HP
https://gyodahachiman.jp/
タグ:埼玉
2024年10月20日
忍城の城下町を歩いてみた(行田市)
<埼玉県行田市>
忍城訪問のついでに、城下町のなごりを求めて市街地を散策してみました。
<高札場跡>こうさつば
こちらは高札場跡です。人目のひくような場所に設置されるのですから、城下のなかでも多くの人の行き交う場所だったのでしょう。場所は現在の武蔵野銀行行田支店です。
<武蔵野銀行行田支店>
高札場跡碑が設置されている武蔵野銀行行田支店は、かなり歴史のある建物です。もともとは忍貯金銀行の店舗で、昭和初期の竣工とのこと。忍城の城下町として発展した行田が、そのまま明治・大正・昭和と繁栄したことが伝わってきますね。行田の繁栄を資金面から支えた地元銀行の建物は、いまでは国登録有形文化財となっています。
<本陣跡>
忍城の城下町は街道の宿場という役割も担っていました。
<通り沿い>
現在の通りのあちらこちらに高札場風の説明板が設置されています。
こちらには行田にまつわる話が紹介されています。説明板ごとに掲載内容は異なりますが、やはり忍城ゆかりの話が多いですね。ここには忍城主の娘・甲斐姫の話が紹介されていました。
こちらのタイトルは「浮き城のまち・行田」です
この説明板のおかげで、忍城は老中排出数1だということを知りました。江戸から近いこともあり、幕府から信用されている人しか忍城の城主は務まりません。譜代大名や親藩の居城です。江戸時代のエリートコースだったということですね。
特産品の足袋にまつわる説明板もあります。
行田は江戸後期から足袋の生産が盛んとなり、繁栄は昭和初期まで続きました。足袋産業に関わりのある蔵造りの建物がいまも残り、一部は観光の目玉にもなっています。ただ、やはり忍城の城下町という印象が強いですね。街の演出においても、忍城が前面に打ち出されています。私は城をメインテーマに訪問していますので、何となく嬉しかったですね。
行田市の観光名所はたくさんありますが、私が散策したエリアは忍城跡から徒歩圏内です。城巡りのついでに足を伸ばしてみることをお勧めします。
通り沿いに多数設置されているこんな素敵な童たちが出迎えてくれます。
■訪問:行田市内
[埼玉県行田市行田]本丸 他
----------(追 記)----------
<行田八幡神社>
行田の総鎮守神社とされるこちらの神社も人気スポットです。忍城主ゆかりの神社として、次の投稿で簡単ではありますがご紹介させて頂きます。
お城巡りランキング
■参考・出典
・高札風説明板「Gyoda Story」
・現地説明板(行田市教育委員会)
・Wikipedia:2024/10/20
忍城訪問のついでに、城下町のなごりを求めて市街地を散策してみました。
<高札場跡>こうさつば
こちらは高札場跡です。人目のひくような場所に設置されるのですから、城下のなかでも多くの人の行き交う場所だったのでしょう。場所は現在の武蔵野銀行行田支店です。
<武蔵野銀行行田支店>
高札場跡碑が設置されている武蔵野銀行行田支店は、かなり歴史のある建物です。もともとは忍貯金銀行の店舗で、昭和初期の竣工とのこと。忍城の城下町として発展した行田が、そのまま明治・大正・昭和と繁栄したことが伝わってきますね。行田の繁栄を資金面から支えた地元銀行の建物は、いまでは国登録有形文化財となっています。
<本陣跡>
忍城の城下町は街道の宿場という役割も担っていました。
<通り沿い>
現在の通りのあちらこちらに高札場風の説明板が設置されています。
こちらには行田にまつわる話が紹介されています。説明板ごとに掲載内容は異なりますが、やはり忍城ゆかりの話が多いですね。ここには忍城主の娘・甲斐姫の話が紹介されていました。
こちらのタイトルは「浮き城のまち・行田」です
この説明板のおかげで、忍城は老中排出数1だということを知りました。江戸から近いこともあり、幕府から信用されている人しか忍城の城主は務まりません。譜代大名や親藩の居城です。江戸時代のエリートコースだったということですね。
特産品の足袋にまつわる説明板もあります。
行田は江戸後期から足袋の生産が盛んとなり、繁栄は昭和初期まで続きました。足袋産業に関わりのある蔵造りの建物がいまも残り、一部は観光の目玉にもなっています。ただ、やはり忍城の城下町という印象が強いですね。街の演出においても、忍城が前面に打ち出されています。私は城をメインテーマに訪問していますので、何となく嬉しかったですね。
行田市の観光名所はたくさんありますが、私が散策したエリアは忍城跡から徒歩圏内です。城巡りのついでに足を伸ばしてみることをお勧めします。
通り沿いに多数設置されているこんな素敵な童たちが出迎えてくれます。
■訪問:行田市内
[埼玉県行田市行田]本丸 他
----------(追 記)----------
<行田八幡神社>
行田の総鎮守神社とされるこちらの神社も人気スポットです。忍城主ゆかりの神社として、次の投稿で簡単ではありますがご紹介させて頂きます。
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■参考・出典
・高札風説明板「Gyoda Story」
・現地説明板(行田市教育委員会)
・Wikipedia:2024/10/20
タグ:埼玉