2020年06月15日
各地の戦国大名の攻防の場となった城が存在した地!鉢形城跡/寄居町
今日は寄居町の名所「鉢形城跡(はちがたじょうあと)」についての紹介だ。
国の史跡に指定されてからは寄居町による保存事業が開始され、現在は鉢形城公園として観光地化されている。
園内にある鉢形城歴史館では鉢形城にまつわる資料がたくさん展示されているぞ。
鉢形城の歴史
室町時代、武家には当主の代わりに家政を取り仕切る「家宰」という職責があった。
山内上杉家では当主が「上杉 顕定(うえすぎ あきさだ)」、そして家宰は「長尾 景信(ながお かげのぶ)」が務めていた。
ところがその景信は当時敵対していた「足利 成氏(あしかが しげうじ)」を攻める途中に陣没。
急遽家督を継ぐのは誰かを決めなくてはならなくなったんだ。
しかし家督を継いだのは嫡男の「長尾 景春(ながお かげはる)」ではなく、景信の弟「長尾 忠景(ながお ただかげ)」であり、当主の顕定も忠景の登用に同意したんだ。
「なぜ息子の俺じゃなくて叔父が家督を継ぐことになるんだ?」と怒りをあらわにした景春はこの地「鉢形」に城を建て、敵対していた成氏側について顕定に復讐を繰り返すことになる。
北条氏の台頭
しかし鉢形城を舞台に長きに渡り行われていた争いは北条氏が武蔵国の派遣を確立したことでいったん終息を迎えることになる。
北条のものとなった鉢形城には北条 氏邦(ほうじょう うじくに)が入城し、武田家との抗争に備えてより強固な城へと構築していったんだ。
その後鉢形城は北条氏の北関東支配の拠点として重要な役割を担っていったが、同時に各地の戦国大名に狙われる城でもあり、武田信玄や上杉謙信による攻撃も受けたが落とすことはできなかった。
しかし豊臣秀吉による小田原征伐の際は開城せざる得なかったんだ。
鉢形城にいた兵数3000に対して豊臣方の連合軍は35000。
その中には前田利家、上杉景勝、真田昌幸、本田忠勝などの勇将もいた。
氏邦の老臣たちは1か月にわたり籠城して戦ったが、圧倒的な兵数で包囲する連合軍には歯が立たず、ついに開城することになったんだ。
寄居北條まつり
毎年5月に行われる「寄居北條まつり」ではこの時の戦を再現したイベントが開催されているぞ。
玉淀河原で甲冑を着て行われる攻防戦は見ごたえ抜群だ。
ご当地グルメが参加する「北條食の陣」も同時開催されているから食欲も満たされるぞ。
まとめ
しかし逆に言うと自軍の10倍の兵に包囲されて1か月も持ちこたえられるってすごくないか?
行田市の忍城もそうだが、北条軍は守りに関しては突出していたんだな。
実際に史跡を見てみれば守りの強さを垣間見れるかもしれない。
歴史に興味がある者はぜひ鉢形城跡に行ってみてくれ。
アクセス
・玉淀駅から徒歩約16分。
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