<涙橋跡>
なみだばし?そう刻まれた石碑の土台は実際に使われていた橋の一部でしょうか?
涙橋と言えば、思い出すのは荒川区の泪橋。刑場へ向かう罪人が涙ながらに渡ったことからそう呼ばれるようになりました。ここ大宮の涙橋も由来は同じなのでしょうか?
<説明板>
史蹟としてちゃんと名の由来が説明されています。これによれば
『住時大宮宿の辺の中山道を横切って溝川の流れがあり、「中の橋」と呼ばれる橋が架かっていた。当時吉敷町の街外れ、高台橋に罪人の処刑場があって、その親類縁者が「中の橋」でこの世の別れを惜しみ涙を流したことでいつしか「涙橋」と呼ばれるようになったと言われている。』
[出典:現地説明板]
とのこと。中山道を横切る溝川とは、かつてあった大きな沼(鴻沼)に注ぐ水路のことですね。以下は後半の抜粋になりますが、昭和42年の第四銀行大宮支店開業の際の工事で、橋桁の枠石が発見され石碑としたようです。
なるほど。納得しました。
それにしても大宮に刑場ですか・・・
江戸の刑場については調べたことがありましたが、自分にとっての地元・埼玉の刑場については全く考えたこともありませんでした。あって当然ですよね。
大宮は江戸時代に宿場町として栄えました。中山道で日本橋から数えて4番目の宿場です(板橋→蕨→浦和→大宮)。その宿場の南方の原っぱに刑場があったようです。下原刑場というそうです。そこへ送られる罪人がこの世との根性の別れに涙ながらに渡った橋が、いつしか涙橋と呼ばれたわけですね。
人が行きかう中山道沿いです。いろんな人間模様があったのでしょう。下原刑場は地元民の強い要望で明治元年に廃止となったそうです。
石碑そのものは旧中山道から細い路地に入ったところにあります
ちょっと地味ですが、ご興味のある方は探してみてくだい
■訪問:涙橋跡
(第四銀行大宮支店)
[埼玉県さいたま市大宮区下町]2丁目
■当ブログの関連記事■
荒川区の泪橋→『記事へすすむ』
品川区の涙橋→『記事へすすむ』
-------------(追 記)-------------
この日は特に目的もなく、ひとりで大宮区の街探索。宿場として栄えたわりに史蹟が多い街とは言えませんが、良く探せば、興味深い場所がないわけではありません。今回は涙橋からすぐ近くの2つをご紹介させて頂きます。
<加賀前田家の屋敷門>
こちらは中山道沿いで、涙橋がある方とは道を挟んで逆側になります。立派な門ですね。前田家の江戸屋敷から貰い受けたものだそうです。ちょっと選挙のポスターが目立ってしまうので、モザイクを入れさせて頂きました。
次は
悲しい涙橋のお話とは逆に、心温まる言い伝えがある場所です。
<地蔵尊>
涙橋跡からちょっと浦和方面(南)へ移動した小さな路地。塩地蔵尊(左)と子育地蔵(右)が並んでいます
子育地蔵はよく耳にしますが塩地蔵尊?
どんな言い伝えがあるでしょうか
『妻に先立たれた二人の娘を連れた浪人が、ここ大宮宿で病に倒れてしまいます。すると姉妹の夢枕に地蔵が現れ、塩断ちするよう告げて消えました。姉妹は早速塩断ちして、近くの地蔵にお祈りしました。すると父親の病は治り、感謝した姉妹はたくさんの塩を地蔵に供えました。』
ちょっと省略しましたが、現地の説明だとだいたいこういうお話です。内容も良いですが、ここ大宮が人が行き交う宿場だったことが伝わってきますね。
いまでも塩が供えられています。語り継がれている証ですね。
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