今回はまた「暗渠」のお話です。
以前『赤羽の暗渠の果て』と題して、稲付川の暗渠の下流をご紹介したことがありました。今回は、同じ場所から上流へ向かい、川にまつわる人の記憶と出会ったという内容です。よかったらお付き合い下さい。
<稲付川の暗渠>いなづけがわ
ただの道ではありません。かつては川でした。前回同様ここ(北区赤羽西)を起点に、今度は上流へ向かいます。
<川筋>
更に進む。冒頭の地点は、川が広い低地に出るところ。進んでいる先は台地の谷間です。ここからは住宅が密集していてちょっと撮影しにくかったですね。その状況を簡単に説明すると、暗渠の道の両側が丘(場所によっては崖に近い)、水が集まることを納得する地形です。暗渠は適度に蛇行し、姿なくとも水の流れを感じずにはいられません。
そして
その谷を抜けて少し行ったところで、私の足は止まりました。
<地蔵尊>
通り過ぎるところでしたが、凄い場所にあるので立ち止まりました。
<石碑と説明板>
何だろうと覗き込んだ説明板。そこに辿ってきた「稲付川」の文字をみつけることになりました。
<説明内容>
稲付川が存在していたこと。そして、その川に架かる橋がこの地にあったこと。暗渠をかつての川と信じて歩いてきているので、何となく嬉しかったですね。
橋の名は姥ケ橋。名前だけは聞いたことがありましたが、実在した橋の名だったのですね。名の由来はやや悲しいお話。私の下手な説明より、しっかりした文をそのまま転記します。原文は長いので、多少抜粋させて頂きます。
『像は、「姥ヶ橋の地蔵様」と呼ばれて親しまれています。姥ヶ橋とは、稲付川に架かっていた橋の名称です。稲付川は石神井川の支流であり、根村用水とも北耕地川ともいって農業用水として利用されていました。姥ヶ橋には、誤って川に子どもを落して死なせてしまった乳母が、自ら責めを負ってこの橋から身を投げて命を落としたという伝説があります。そして地蔵尊の造立は、乳母の供養のためと伝えられていますが、銘文によれば川に架かる石橋の安全供養のためによるものです。』
[原文:北区教育委員会]
環七通りが出来る時に、川は暗渠化され、橋も姿を消したようです。
<姥ヶ橋延命地蔵尊>
地蔵尊は江戸時代から橋の脇にあったそうです。工事の関係で多少場所が変わったようですが、だいたいこの辺り。赤羽駅から歩いてきましたが、ここは赤羽西を通り越して上十条です。左側は子育地蔵尊です。
<姥ヶ橋の地蔵様>
石材を丸彫りした地蔵菩薩
かつてここで暮らしたであろう人たちの営み。その一部が、橋の名前として残っている。その橋跡に記されている稲付川の文字。稲付川は「忘れ去られた川」と思っているだけに、川の記録と出会えたことは嬉しかったですね。そして伝わる話が悲話とはいえ、川にまつわる人の思いがいまでもが漂っている。暗渠化されて姿はありませんが、それら全てがかつてあった川のなごりと言えますね。
<姥ヶ橋の地蔵様>
姥ヶ橋の地蔵様は地元に人たちに親しまれ、特に縁日には多くの人が訪れるそうです。
以上です。最後までお読み頂きありがとうございました。
■訪問:姥ヶ橋延命地蔵尊
[東京都北区上十条]4-12-4
----------(追 記)----------
稲付川の下流を訪ねた記事はこちらになります。よかったら覗いて見て下さい。
2018年07月15日
記事→『赤羽の暗渠の果て』
2019年01月05日
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