太田道灌が築城したと伝わる東京都北区の稲付城。現在は静勝寺となっています。今回はその境内にある太田道灌堂の話です。
<太田道灌堂>
太田道灌の坐像が納められています。
■稲付城■いねつけじょう
<稲付城跡>
この城跡については、当ブログでも何度かご紹介させて頂いております。赤羽駅から近いため、埼玉県民の私にとっては気軽に訪問しやすい城跡。山城です。
<説明板>
道灌築城と伝わります。同じく道灌築城の江戸城、そして岩槻城の中継基地として機能したと考えられています。昭和62年の発掘調査で、寺の南側に空堀が確認されたと記されています。
■静勝寺■じょうしょうじ
かつての城の本丸部分は現在静勝寺となっています。
<山門>
階段を登りきった所。東側の山門です(山門はもう一か所あります)。
<本堂>
他に弁天堂や観音堂などなど。立派なお寺ですが、話を道灌堂に絞らせて頂きます。
■太田道灌堂■
<太田道灌堂>
ここへは何度も来ています。しかし、扉が開いているのは初めて。道灌の命日にちなみ、毎月26日に扉開されるという話は聞いていたのですが、なかなかそういう日に訪問できず。今回は三が日ということで特別なようです。
<太田道灌の坐像>
初めて見る道灌像。良く見ると、道灌は頭を丸めた上に仏具を手にしています。私が勝手に思っている武将・道灌とは、ちょっとイメージが違いますね。まぁそもそも、道灌は太田資長(すけなが)の法名。厳密に言えば出家したあとの呼び名です。これが「道灌」らしいのかもしれません。いずれにしても貴重な木造。お目にかかれて嬉しかったですね。
<説明板>
一部だけ抜粋します。
『像は、道灌が没してから二百年以上も後に像立されたものでありますが、その風貌を伝える唯一の木造として大変に貴重で、平成元年 1月に北区の指定有形文化財に指定されました。』
■道灌ゆかりの静勝寺■
道灌の死後、孫の資高とその子である康資がこの地に館を築いていたと伝わります。廃城後、城跡に道灌を弔う堂が建立されて道灌寺となったことが、静勝寺のはじまりとされています。正式名は自得山(じとくざん)静勝寺。太田道灌とその父・道真(資清)の戒名によりそう改められました。
道真:自得院殿実慶道真庵主
道灌:香月院殿春苑静勝道灌大居士
『自得』は父、『静勝』は道灌です。
<静勝寺>
道灌寺という意味ですね
■訪問
自得山静勝寺
[東京都北区赤羽西]1-21-17
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本文はお正月の訪問でしたが、新緑がまぶしい5月に訪問できたので画像を貼っておきます。26日ということで、太田道灌堂の扉が開いているの日。道灌が没したのは文明18年7月26日(1486年8月25日)です。
石段と途中の稲荷社
山門・参道・太田道灌堂
本堂・辯天堂から六角堂へ
以上です
----------(追々記)----------
追記の追記になりますが、桜の季節に訪問した画像も貼っておきます。
2021年4月の訪問です。
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