つわものどもが夢の跡
山内一豊の居城として知られている掛川市の山城を訪ねました。
<山頂の復元天守>
■中世から始まる城■
始まりは駿河の守護大名今川氏が、勢力拡大を目論んで築かせた山城でした。築城者は今川氏の重臣・朝比奈泰煕(やすひろ)。以降代々朝比奈氏が城を守っていました。当初は子角山(ねずみやま)と呼ばれる丘陵に築かれていましたが、のちに龍頭山(りゅうとうざん)に移転。この龍頭山は、現在の復元天守が佇む山です。すぐ南側には逆川が流れ、天然の堀として機能していたようです。
<逆川>さかがわ
現在の逆川
<掛川城公園>
龍頭山と復元天守。典型的な山城です。独立峰に築かれていますので、正確には平山城ですかね。比高で30mくらいの山です。
隆盛を極めた今川氏も、桶狭間で今川義元が討ち死にして以降は勢力を失い、掛川城は徳川家康の支配するところとなります。
<霧噴き井戸>
天守丸の井戸。この井戸には逸話があります。今川義元亡きあと、後継者の氏真が家臣の朝比奈氏を頼って掛川城へ逃げ込みますが、徳川家康に城が包囲されると、この井戸から霧が出て城を守ったとのこと。掛川城の別名『雲霧城』はこの逸話に由来します。
実際に霧が影響したかは別として、今川氏の忠臣・朝比奈泰朝は、掛川城に籠城して5ヶ月ものあいだ徳川軍の攻撃に耐え続けました。既に多くの重臣が武田或いは徳川に寝返っている状況で、立派な家臣ですね。ただいくら頑張っても、もう今川氏真救援のために掛川城へ駆けつけてくれる仲間はいません。朝比奈泰朝は主君である氏真の身の安全を条件に開城を決めました。
この攻防戦で、掛川城の守りの堅さを認識した家康は、徳川十六神将の1人に数えられる石川家成に城を守らせます。そして家康が秀吉の命で関東へ移封されたのち、あの山内一豊が掛川城へ入城することとなります。
■山内一豊の大改修■
戦国末期に入城した山内一豊は、掛川城の大規模改修に着手します。現在確認できる掛川城の縄張りは、ほぼ一豊の時代に造られたものです。
山内一豊は10年間在城しました。その間、城の改修に加えて城下町の整備、そして治水工事にも注力しました。城下町掛川の基礎を造ったわけですね。
<天守>
木造による復元天守閣の先駆けです。掛川のシンボルです。1994年(平成6年)に再建されました。
天下分け目の戦に際し、一豊が徳川家康にこの城の提供を申し出た逸話は有名ですね。関ヶ原の戦い後、功績を認められた一豊は土佐国9万8千石を与えられ、掛川城を去ります。
■太田氏の城■
豊臣秀吉の直臣だった山内一豊が去ると、家康の異父弟・松平定勝に始まり、家康と関係が深い大名が次々と藩主となって掛川城に入りました。めまぐるしく藩主が変わる状況は、上野国館林藩より太田氏が入って以降は安定。太田氏は幕末まで7代にわたって藩主を務めました。
<全体図>
■掛川城のなごり■
<復元天守閣>
<天守丸>
本丸より高い位置の天守丸にて
<忍び返し>
鉄剣による『忍び返し』は高知城にもありますね
<狭間>
向うに見えているのは二の丸御殿
<天守下門跡>
<腰櫓台跡>
<荒和布櫓>あらめやぐら
<四足門>
絵図を元に復元された四足門
<三日月堀跡>
麓に設けた堀の跡
<二の丸御殿>
書院造りの二の丸御殿は国の重要文化財に指定されています
■廃城■
やがて明治となり、廃城令によって城郭の建物の大半は壊されました。ただ、城郭の御殿が現存する例は珍しく、とても貴重な文化財として評価されています。1994年に再建された天守も、鉄筋などを使わない復元です。城の縄張りも実感できましたし、とても満足な探索となりました。
<つわものどもが夢の跡>
-------■ 掛川城 ■-------
別 名:懸川城 雲霧城 松尾城
築城年:15世紀後半(1469〜1487)
築城者:朝比奈泰煕(今川家臣)
改修者:山内一豊
城 主:朝比奈氏 山内氏 太田氏
廃 城:1871年(明治4)
[静岡県掛川市掛川]1138-24
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2019年11月16日
欠川と呼ばれた川 掛川城下の逆川にて
この日は駅から徒歩で掛川城へ。まもなく到着というところで、橋を渡ることになりました。
<松尾橋>
山頂に築かれた掛川城天守閣が既に見えていましたが、しばしここで足を止めました。城好きなら当然想像するであろうことを味わうために。
これが天然堀だったわけか
<逆川>さかがわ
川の名は逆川。掛川城の南側を流れる天然の川です。この川はいわゆる暴れ川で、しばしば氾濫したそうです。堤防が欠けるということから欠川とも呼ばれ、それが当地の地名の由来となっています。
<逆川改修記念碑>
松尾橋近くの記念碑です。生々流転の逆川と刻まれています。現地の説明板によれば『昭和57年9月10日、台風18号は掛川市に異常な豪雨を斉らし』て市の中心部に氾濫する濁流が溢れたようです。このため『明治橋より馬喰橋に至る1,800mの区間』を『総額39,7億円』で『昭和57年〜61年に至る5ヶ年事業により改修が完成した。』とのこと。
[出典:逆川改修おぼえがき]
掛川城の天然の堀だった時代は勿論のこと、昭和の終わりごろになっても荒々しい川であり続けていたわけですね。
コンクリの護岸が欠けるということはもう無いでしょう。ただ欠川という呼び名には、今後とも引き継ぐべき深いメッセージがあるのかもしれませんね
■訪問:松尾橋
[静岡県掛川市掛川]
(次の投稿)
松尾橋を渡れば山城が待っています
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<松尾橋>
山頂に築かれた掛川城天守閣が既に見えていましたが、しばしここで足を止めました。城好きなら当然想像するであろうことを味わうために。
これが天然堀だったわけか
<逆川>さかがわ
川の名は逆川。掛川城の南側を流れる天然の川です。この川はいわゆる暴れ川で、しばしば氾濫したそうです。堤防が欠けるということから欠川とも呼ばれ、それが当地の地名の由来となっています。
<逆川改修記念碑>
松尾橋近くの記念碑です。生々流転の逆川と刻まれています。現地の説明板によれば『昭和57年9月10日、台風18号は掛川市に異常な豪雨を斉らし』て市の中心部に氾濫する濁流が溢れたようです。このため『明治橋より馬喰橋に至る1,800mの区間』を『総額39,7億円』で『昭和57年〜61年に至る5ヶ年事業により改修が完成した。』とのこと。
[出典:逆川改修おぼえがき]
掛川城の天然の堀だった時代は勿論のこと、昭和の終わりごろになっても荒々しい川であり続けていたわけですね。
コンクリの護岸が欠けるということはもう無いでしょう。ただ欠川という呼び名には、今後とも引き継ぐべき深いメッセージがあるのかもしれませんね
■訪問:松尾橋
[静岡県掛川市掛川]
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松尾橋を渡れば山城が待っています
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2019年11月11日
千代と一豊と駿馬 清水銀行掛川支店にて
掛川城へ向かう途上、古風な建物と出会いました。
城下町を思わせるこの素敵な外観。良く見たら銀行でした。清水銀行掛川支店です。建物も魅力的ですが、外壁のレリーフがひときわ目をひきます。場所が場所ですから、あの武将は掛川城主にもなった山内一豊?ですよね。お隣は遠くからはよく分からず、個人的にモーゼを思い出してしまいました。そんな組み合わせあり得ませんが・・・
<外壁のレリーフ>
こて絵でしょうか?良くできています。モーゼに見えた人物の正体は一豊の妻・千代でした。千代と馬に跨る一豊です。ということは、この馬はただの馬ではありませんね。駿馬です。このレリーフは有名な逸話を表現したものだったわけです。
逸話とは
ある時、織田信長が配下の武将を集めての大馬揃えを行うことになりました。大馬揃えとは、まぁ簡単に言ってしまえば騎馬の優越を競いあう軍事パレードのようなものです。山内一豊は信長に仕えていましたが、あまり裕福な方ではなく、人前で披露するような馬を用意することはできそうにありません。周囲の者達も、一豊は欠席するのではないのかと噂したそうです。事情を知った妻・千代は大金を差し出し、一豊に駿馬を買うよう勧めました。一豊は、その大金が『夫の一大事に備えよ』と千代の母が嫁ぐ娘に持たせたものだと知ります。
大馬揃え当日、一豊は駿馬にまたがって現れます。周囲の驚きは当然のこと、その姿は信長の目にもとまりました。いきさつを知った信長は、「この馬を織田家中の者が買うことが出来ず、他家の者が手に入れようものなら物笑いの種になったであろう。よくぞ織田家の恥を未然に防いでくれた」と褒めたたえました。
ちょっと省略しましたが、だいたいこんなお話です。
これ以降、一豊は信長、そして秀吉に重く用いられるようになります。掛川城の城主となれたのは、秀吉の小田原征伐に加わった時の功績によるもの。のちには徳川家康に従い、やがて土佐国9万8千石を与えられます。この大出世の陰に、妻の千代あり。司馬遼太郎の小説で描かれた世界ですね。
内助の功、妻のへそくり、銀行預金・・・いろいろと考えさせられる光景でした。清水銀行さん、粋な演出ありがとうございました。
■訪問:清水銀行掛川支店
[静岡県掛川市中町]2-5
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城下町を思わせるこの素敵な外観。良く見たら銀行でした。清水銀行掛川支店です。建物も魅力的ですが、外壁のレリーフがひときわ目をひきます。場所が場所ですから、あの武将は掛川城主にもなった山内一豊?ですよね。お隣は遠くからはよく分からず、個人的にモーゼを思い出してしまいました。そんな組み合わせあり得ませんが・・・
<外壁のレリーフ>
こて絵でしょうか?良くできています。モーゼに見えた人物の正体は一豊の妻・千代でした。千代と馬に跨る一豊です。ということは、この馬はただの馬ではありませんね。駿馬です。このレリーフは有名な逸話を表現したものだったわけです。
逸話とは
ある時、織田信長が配下の武将を集めての大馬揃えを行うことになりました。大馬揃えとは、まぁ簡単に言ってしまえば騎馬の優越を競いあう軍事パレードのようなものです。山内一豊は信長に仕えていましたが、あまり裕福な方ではなく、人前で披露するような馬を用意することはできそうにありません。周囲の者達も、一豊は欠席するのではないのかと噂したそうです。事情を知った妻・千代は大金を差し出し、一豊に駿馬を買うよう勧めました。一豊は、その大金が『夫の一大事に備えよ』と千代の母が嫁ぐ娘に持たせたものだと知ります。
大馬揃え当日、一豊は駿馬にまたがって現れます。周囲の驚きは当然のこと、その姿は信長の目にもとまりました。いきさつを知った信長は、「この馬を織田家中の者が買うことが出来ず、他家の者が手に入れようものなら物笑いの種になったであろう。よくぞ織田家の恥を未然に防いでくれた」と褒めたたえました。
ちょっと省略しましたが、だいたいこんなお話です。
これ以降、一豊は信長、そして秀吉に重く用いられるようになります。掛川城の城主となれたのは、秀吉の小田原征伐に加わった時の功績によるもの。のちには徳川家康に従い、やがて土佐国9万8千石を与えられます。この大出世の陰に、妻の千代あり。司馬遼太郎の小説で描かれた世界ですね。
内助の功、妻のへそくり、銀行預金・・・いろいろと考えさせられる光景でした。清水銀行さん、粋な演出ありがとうございました。
■訪問:清水銀行掛川支店
[静岡県掛川市中町]2-5
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2019年11月10日
駿府城下 上石町のなごり
城下町を訪ねると、職業や身分に由来する地名をよく見聞きしますよね。鍛冶屋さんが住んだであろう鍛冶町、人形を作る職人又は扱う商人が住んだであろう人形町、染物商(紺屋)が多く住んだであろう紺屋町、呉服町、材木町、大工町などなど。身分だと鉄砲足軽が集結していたと思われる鉄砲町、同心町などなど。
今回訪問した駿府城の城下でも、職人や商人を職業ごとに分けて住まわせたなごりを感じることができました。呉服町、両替町などなど。そんななか「え?あぁそういうことだったのか」と思った名がありましたので、ご紹介させて頂きます。
■上石町■ かみごくちょう
<上石町>
まず直感的に「かみいし」と読みました。城下町で石、ならば石材の職人集まった町だったのかな?
漠然と石工を想像しながら脇の説明を読んだら、由来はまったく別のものでした。
<説明>
かみごくちょう?
説明によれば、ここは『本石町』とも呼ばれていたようです。『石』は『穀』の意味といわれており、実際にこの付近には豪商の米座があったとのこと。米座(こめざ)とは、まぁお米商人連合組合のようなものです。
駿府城跡で石垣を見たばっかりだったので、普通に石を想像しましたが、穀物の穀だったとは。米の単位を石で現わす場合がありますが、これと関連付けて受けとめてよいのかもしれません。いわゆる何万石といった時に使う『石』です。ちなみに、1石は大人ひとりの1年分の米の量にほぼ一致すると言われています。
説明の続きによれば、徳川家康の駿府在城時に、穀物販売を上石町と下石町に限定したことにより、穀物商人が集まったようです。
なるほど
駿府の場合、上は北で下は南。ここ上石町の南側が下石町だったわけですね。
これは面白いと思い、帰宅してから調べ直したところ、上石町も下石町も区画整理によりその名は無くなったそうです。歴史の裏付けがある素敵な名と思えたので、ちょっと残念。ただまぁ、だからこそ石碑に記したのですね。
<駿府城公園の家康像>
江戸の町を築いたことで知られる家康さん。ここ駿府においても城下の町づくりに注力していたわけですね。。
ということで
駿府城公園からの帰り道のちょっとした気付きでした。小さなことでも、新たな発見は嬉しいものです。
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今回訪問した駿府城の城下でも、職人や商人を職業ごとに分けて住まわせたなごりを感じることができました。呉服町、両替町などなど。そんななか「え?あぁそういうことだったのか」と思った名がありましたので、ご紹介させて頂きます。
■上石町■ かみごくちょう
<上石町>
まず直感的に「かみいし」と読みました。城下町で石、ならば石材の職人集まった町だったのかな?
漠然と石工を想像しながら脇の説明を読んだら、由来はまったく別のものでした。
<説明>
かみごくちょう?
説明によれば、ここは『本石町』とも呼ばれていたようです。『石』は『穀』の意味といわれており、実際にこの付近には豪商の米座があったとのこと。米座(こめざ)とは、まぁお米商人連合組合のようなものです。
駿府城跡で石垣を見たばっかりだったので、普通に石を想像しましたが、穀物の穀だったとは。米の単位を石で現わす場合がありますが、これと関連付けて受けとめてよいのかもしれません。いわゆる何万石といった時に使う『石』です。ちなみに、1石は大人ひとりの1年分の米の量にほぼ一致すると言われています。
説明の続きによれば、徳川家康の駿府在城時に、穀物販売を上石町と下石町に限定したことにより、穀物商人が集まったようです。
なるほど
駿府の場合、上は北で下は南。ここ上石町の南側が下石町だったわけですね。
これは面白いと思い、帰宅してから調べ直したところ、上石町も下石町も区画整理によりその名は無くなったそうです。歴史の裏付けがある素敵な名と思えたので、ちょっと残念。ただまぁ、だからこそ石碑に記したのですね。
<駿府城公園の家康像>
江戸の町を築いたことで知られる家康さん。ここ駿府においても城下の町づくりに注力していたわけですね。。
ということで
駿府城公園からの帰り道のちょっとした気付きでした。小さなことでも、新たな発見は嬉しいものです。
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2019年11月05日
家康が青春時代を過ごした駿府(今川館)
(駿府城の追記です)
<駿府城本丸跡の家康像>
徳川家康が少年時代を人質として過ごしたことはよく知られていますね。今川義元のもとで預かりの身となり、8歳から18歳までの約10年を駿府(現在の静岡市)で過ごしました。もう少し具体的言うと、今川家が本拠としていた「今川館」ということになります。
今川館のあった場所には、家康の手によって駿府城が築かれました。家康にしてみれば、勝手知ったる場所に新たな城を築いたわけですね。
ただ、立派な城郭が完成した結果、もともとあった今川館の詳細はよくわからない状態になっています。専門家の方々のお話では、駿府城の本丸付近のようですが、詳細はまだはっきりはしていません。
今川家といえばもともと名門家であり、義元が当主の時には、大きな勢力を誇る戦国大名になっていました。ということは、さぞ大きな拠点を構えていたのだろう。そう思う方が普通ですね。私も、駿府城は今川義元の居城を修繕するかたちで築かれたのだと勝手に思っていました。ところが、実際はそうでもなかったそうです。義元はすぐ近くの山に山城を築いていたらしく、館は平時の拠点でした。
駿河の覇者である今川家は、もともと京との交流も盛んで、当時としてはかなり文化レベルが高かったようです。そこに身をよせていた家康には、人質ならではの苦労もあったかと思いますが、一方で、かなり立派な教育を受けていたと伝わります。
人質なのに?
短期的な人質とは事情が異なり、将来は今川配下で、家臣として活躍することが期待されていたようです。しかし家康が19歳の時に、桶狭間の戦いで当主である今川義元が死亡。家康はこれを機に故郷の岡崎へ戻りました。
駿府は家康が晩年拠点とした場所であると同時に、のちの糧となる教育の機会を得た場所なのかもしれませんね。
■訪問:今川館跡
(駿府城公園)
[静岡県静岡市葵区駿府城公園]
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<駿府城本丸跡の家康像>
徳川家康が少年時代を人質として過ごしたことはよく知られていますね。今川義元のもとで預かりの身となり、8歳から18歳までの約10年を駿府(現在の静岡市)で過ごしました。もう少し具体的言うと、今川家が本拠としていた「今川館」ということになります。
今川館のあった場所には、家康の手によって駿府城が築かれました。家康にしてみれば、勝手知ったる場所に新たな城を築いたわけですね。
ただ、立派な城郭が完成した結果、もともとあった今川館の詳細はよくわからない状態になっています。専門家の方々のお話では、駿府城の本丸付近のようですが、詳細はまだはっきりはしていません。
今川家といえばもともと名門家であり、義元が当主の時には、大きな勢力を誇る戦国大名になっていました。ということは、さぞ大きな拠点を構えていたのだろう。そう思う方が普通ですね。私も、駿府城は今川義元の居城を修繕するかたちで築かれたのだと勝手に思っていました。ところが、実際はそうでもなかったそうです。義元はすぐ近くの山に山城を築いていたらしく、館は平時の拠点でした。
駿河の覇者である今川家は、もともと京との交流も盛んで、当時としてはかなり文化レベルが高かったようです。そこに身をよせていた家康には、人質ならではの苦労もあったかと思いますが、一方で、かなり立派な教育を受けていたと伝わります。
人質なのに?
短期的な人質とは事情が異なり、将来は今川配下で、家臣として活躍することが期待されていたようです。しかし家康が19歳の時に、桶狭間の戦いで当主である今川義元が死亡。家康はこれを機に故郷の岡崎へ戻りました。
駿府は家康が晩年拠点とした場所であると同時に、のちの糧となる教育の機会を得た場所なのかもしれませんね。
■訪問:今川館跡
(駿府城公園)
[静岡県静岡市葵区駿府城公園]
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2019年11月04日
駿府城のなごり
つわものどもが夢の跡
今回の訪問は天守台の発掘調査真っ最中の駿府城跡です。一般人も見学できると聞き、訪問しました。
こちらは復元された駿府城の櫓です
■近世城郭■
戦国の世に終止符を打ち、江戸幕府を開いた徳川家康は、将軍職を三男の秀忠に譲り駿府へ移住しました。古い歴史の駿府城は、この時に家康の手によって近世城郭として築城し直されます。
<家康像>
駿府城内で撮影。まぁ分かり易く言えば、駿府城は大御所の拠点ということですね。
<大手門跡>
城の南側の大手門跡。食い違い虎口になっています。
<縄張り図>
三重の堀を持つ輪郭式平城です。近世城郭らしく石垣を廻らせました。本丸の北西には5重7階の天守を配置したと伝わります。
天守はのちの火災(1635年)で焼失してしまい、その後再建されることはありませんでした。でも石垣で固められた天守台は残ります。明治時代に軍の誘致で取り壊され、堀も埋められてしまいますが、今回の発掘調査で地中に埋もれていた天守の基礎部分が明らかにされようとしています。
<発掘調査>
一般人も見学できます。予約も必要なく無料です!
埋められてしまったことが幸いしたとも言えますね。上部が取り壊されても、土中には基底部分が残されていました。
今回の調査で、天守台の下層から別の天守台も発見されたようです。別の天守?
<2つの天守台>
2016年からの発掘調査により、まず家康が築いた天守台が見つかりました。更に、その天守台とは別の天守台が確認されました。これは豊臣時代のもの?というのが有力です。駿府城を築城した家康は、その後関東に国替えしています。もうひとつの天守台は、その後城に入った秀吉の家臣・中村一氏が築いたものとみられています。
奥が深いですね
■駿府城公園■
縄張り図では堀が三重になっていましたが、内側の堀は埋められ、外側の堀は一部埋められ、中堀が当時を思わせる雰囲気で残っている状態です。中堀の内側、つまり二の丸と本丸が駿府城公園として整備され、遺構と復元された櫓により、かつての城のなごりを楽しむことができます。城好きの方々からは厳しい言葉も聞かれますが、都市開発の波のなかで、平城を良くここまで残してくれているなと私は感心しました。
<中堀>
<巽櫓>
<二の丸>
<坤櫓>ひつじさるやぐら
二ノ丸の南西の方角に復元された櫓です。未(ひつじ)と申(さる)は方角を表しています。
公園を中心にご紹介しましたが、外にも断片的に城のなごりが漂います
■つわものどもが夢の跡■
長らく埋められていたことで確認できる遺構。正真正銘のなごりですね。
-------■ 駿府城 ■-------
別 名:府中城 静岡城
築城年:1589年(天正17)
(今川氏居館時代除く)
築城者:徳川家康
改修年:1607年(慶長12)
改修者:徳川家康
城 主:徳川氏 中村氏
内藤氏(松平氏)
廃 城:1869年(明治2)
[静岡県静岡市葵区駿府城公園]
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今回の訪問は天守台の発掘調査真っ最中の駿府城跡です。一般人も見学できると聞き、訪問しました。
こちらは復元された駿府城の櫓です
■近世城郭■
戦国の世に終止符を打ち、江戸幕府を開いた徳川家康は、将軍職を三男の秀忠に譲り駿府へ移住しました。古い歴史の駿府城は、この時に家康の手によって近世城郭として築城し直されます。
<家康像>
駿府城内で撮影。まぁ分かり易く言えば、駿府城は大御所の拠点ということですね。
<大手門跡>
城の南側の大手門跡。食い違い虎口になっています。
<縄張り図>
三重の堀を持つ輪郭式平城です。近世城郭らしく石垣を廻らせました。本丸の北西には5重7階の天守を配置したと伝わります。
天守はのちの火災(1635年)で焼失してしまい、その後再建されることはありませんでした。でも石垣で固められた天守台は残ります。明治時代に軍の誘致で取り壊され、堀も埋められてしまいますが、今回の発掘調査で地中に埋もれていた天守の基礎部分が明らかにされようとしています。
<発掘調査>
一般人も見学できます。予約も必要なく無料です!
埋められてしまったことが幸いしたとも言えますね。上部が取り壊されても、土中には基底部分が残されていました。
今回の調査で、天守台の下層から別の天守台も発見されたようです。別の天守?
<2つの天守台>
2016年からの発掘調査により、まず家康が築いた天守台が見つかりました。更に、その天守台とは別の天守台が確認されました。これは豊臣時代のもの?というのが有力です。駿府城を築城した家康は、その後関東に国替えしています。もうひとつの天守台は、その後城に入った秀吉の家臣・中村一氏が築いたものとみられています。
奥が深いですね
■駿府城公園■
縄張り図では堀が三重になっていましたが、内側の堀は埋められ、外側の堀は一部埋められ、中堀が当時を思わせる雰囲気で残っている状態です。中堀の内側、つまり二の丸と本丸が駿府城公園として整備され、遺構と復元された櫓により、かつての城のなごりを楽しむことができます。城好きの方々からは厳しい言葉も聞かれますが、都市開発の波のなかで、平城を良くここまで残してくれているなと私は感心しました。
<中堀>
<巽櫓>
<二の丸>
<坤櫓>ひつじさるやぐら
二ノ丸の南西の方角に復元された櫓です。未(ひつじ)と申(さる)は方角を表しています。
公園を中心にご紹介しましたが、外にも断片的に城のなごりが漂います
■つわものどもが夢の跡■
長らく埋められていたことで確認できる遺構。正真正銘のなごりですね。
-------■ 駿府城 ■-------
別 名:府中城 静岡城
築城年:1589年(天正17)
(今川氏居館時代除く)
築城者:徳川家康
改修年:1607年(慶長12)
改修者:徳川家康
城 主:徳川氏 中村氏
内藤氏(松平氏)
廃 城:1869年(明治2)
[静岡県静岡市葵区駿府城公園]
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火の玉不動 大宮宿の水路と刑場のなごり
かつての大宮宿南方にあったとされる刑場跡を訪ねました。
<火の玉不動>
さいたま新都心駅近くの『火の玉不動』です。左の道路は中山道です。
江戸の刑場跡を訪問する際はかなり躊躇しましたが、今回の訪問は大宮の『涙橋跡』を目にした時に既に決めていました。縁起の良い場所とは言い難いものの、人が訪れ手を合わせ、何かを感じる方が、忘れさられるより良いように思えるからです。
<火の玉不動とお女郎地蔵>
祠には火の玉不動とお女郎地蔵が祀られています。左側が 火の玉不動です。
江戸時代、この付近には下原と呼ばれる原野が広がり、そこに引かれた高沼用水の流れがありました。そして水路に架かる高台橋のすぐそばに、刑場があったとされています。
高台橋付近では、ふわふわと飛ぶ火の玉が目撃されたそうです。人魂を連想するのが自然ですね。ある男がその正体を突き止めるべく火の玉を斬りつけたところ、不動明王を斬ってしまった。火の玉不動の名はこんな話に由来します。
ちなみに、一緒に祀られているお女郎地蔵は、大宮宿の美しい女郎の悲恋にまつわるもの。思い悩み高台橋から身を投げ、その後まもなく火の玉が飛ぶようになったことから、供養の為に地蔵が建てられたと伝わります。
<現地説明板>
祠の裏側に説明がなされていますが、火の玉不動に関する説明はないようです。『北袋町と吉敷町の境を流れる鴻沼(高沼)用水にかかる橋が高台橋』であることや、水路が造られた経緯が記されています。
当時原野のようだったところに造られた水路なら、水も清らかだったことでしょう。闇に飛び交う蛍が、火の玉に映ってもおかしくない。私は霊感とは無縁の男なので、そんな程度の想像しかできませんでした。
それにしても
いまでは橋はおろか、付近に水路も見当たりませんね。ただ、注意深く見れば、そのなごりは残されています。
<高沼遊歩道>
火の玉不動の左手の道に『高沼遊歩道』と記されています。もう見つけたのも同然です。
<暗渠>
これはただの道ではありません。いわゆる暗渠です。この地下がそのまま水路ということです。個人的に、暗渠をみつけるとその出口を探したくなります。
<暗渠の出口>
この日はすぐに見つかりました。火の玉不動と中山道を挟んだ逆側。つまり駅側です。敷地に入れないのでこんな画像となりますが、線路を潜った水路はここで一瞬空と出会い、再び地下へ隠れます。
高台橋は高沼用水と中山道が交差する場所に架けられた橋ですので、まさにこの地点ということですね。刑場そのものではありませんが、橋の位置は納得です。江戸の刑場は、街道沿いに設けられました。見せしめの意味があったようです。そして大宮宿の刑場も中山道沿い。同じ意味なのかもしれませんね。
最後に
下原刑場は明治時代なってすぐに廃止となっています。つまり古い古いお話です。その後跡地は牧場であったり工場の敷地として使われ、今では立派な商業施設が建ち並んでいます。刑場跡というとあまり良いイメージはありませんが、そもそも当ブログの主たるテーマの城跡も、多くの人が亡くなった場所なのです。気付きもしないより、残された痕跡に足を止めて何かを思う。今回訪問の供養塔も、そういう場所であり続けて欲しいと思いました。
■訪問:火の玉不動
[埼玉県さいたま市大宮区吉敷町]
■当ブログの関連記事■
大宮宿の涙橋→『記事へすすむ』
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<火の玉不動>
さいたま新都心駅近くの『火の玉不動』です。左の道路は中山道です。
江戸の刑場跡を訪問する際はかなり躊躇しましたが、今回の訪問は大宮の『涙橋跡』を目にした時に既に決めていました。縁起の良い場所とは言い難いものの、人が訪れ手を合わせ、何かを感じる方が、忘れさられるより良いように思えるからです。
<火の玉不動とお女郎地蔵>
祠には火の玉不動とお女郎地蔵が祀られています。左側が 火の玉不動です。
江戸時代、この付近には下原と呼ばれる原野が広がり、そこに引かれた高沼用水の流れがありました。そして水路に架かる高台橋のすぐそばに、刑場があったとされています。
高台橋付近では、ふわふわと飛ぶ火の玉が目撃されたそうです。人魂を連想するのが自然ですね。ある男がその正体を突き止めるべく火の玉を斬りつけたところ、不動明王を斬ってしまった。火の玉不動の名はこんな話に由来します。
ちなみに、一緒に祀られているお女郎地蔵は、大宮宿の美しい女郎の悲恋にまつわるもの。思い悩み高台橋から身を投げ、その後まもなく火の玉が飛ぶようになったことから、供養の為に地蔵が建てられたと伝わります。
<現地説明板>
祠の裏側に説明がなされていますが、火の玉不動に関する説明はないようです。『北袋町と吉敷町の境を流れる鴻沼(高沼)用水にかかる橋が高台橋』であることや、水路が造られた経緯が記されています。
当時原野のようだったところに造られた水路なら、水も清らかだったことでしょう。闇に飛び交う蛍が、火の玉に映ってもおかしくない。私は霊感とは無縁の男なので、そんな程度の想像しかできませんでした。
それにしても
いまでは橋はおろか、付近に水路も見当たりませんね。ただ、注意深く見れば、そのなごりは残されています。
<高沼遊歩道>
火の玉不動の左手の道に『高沼遊歩道』と記されています。もう見つけたのも同然です。
<暗渠>
これはただの道ではありません。いわゆる暗渠です。この地下がそのまま水路ということです。個人的に、暗渠をみつけるとその出口を探したくなります。
<暗渠の出口>
この日はすぐに見つかりました。火の玉不動と中山道を挟んだ逆側。つまり駅側です。敷地に入れないのでこんな画像となりますが、線路を潜った水路はここで一瞬空と出会い、再び地下へ隠れます。
高台橋は高沼用水と中山道が交差する場所に架けられた橋ですので、まさにこの地点ということですね。刑場そのものではありませんが、橋の位置は納得です。江戸の刑場は、街道沿いに設けられました。見せしめの意味があったようです。そして大宮宿の刑場も中山道沿い。同じ意味なのかもしれませんね。
最後に
下原刑場は明治時代なってすぐに廃止となっています。つまり古い古いお話です。その後跡地は牧場であったり工場の敷地として使われ、今では立派な商業施設が建ち並んでいます。刑場跡というとあまり良いイメージはありませんが、そもそも当ブログの主たるテーマの城跡も、多くの人が亡くなった場所なのです。気付きもしないより、残された痕跡に足を止めて何かを思う。今回訪問の供養塔も、そういう場所であり続けて欲しいと思いました。
■訪問:火の玉不動
[埼玉県さいたま市大宮区吉敷町]
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大宮宿の涙橋→『記事へすすむ』
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タグ:暗渠
2019年10月27日
大宮宿の涙橋 (さいたま市大宮区)
さいたま市大宮区で橋の痕跡と出会いました
<涙橋跡>
なみだばし?そう刻まれた石碑の土台は実際に使われていた橋の一部でしょうか?
涙橋と言えば、思い出すのは荒川区の泪橋。刑場へ向かう罪人が涙ながらに渡ったことからそう呼ばれるようになりました。ここ大宮の涙橋も由来は同じなのでしょうか?
<説明板>
史蹟としてちゃんと名の由来が説明されています。これによれば
『住時大宮宿の辺の中山道を横切って溝川の流れがあり、「中の橋」と呼ばれる橋が架かっていた。当時吉敷町の街外れ、高台橋に罪人の処刑場があって、その親類縁者が「中の橋」でこの世の別れを惜しみ涙を流したことでいつしか「涙橋」と呼ばれるようになったと言われている。』
[出典:現地説明板]
とのこと。中山道を横切る溝川とは、かつてあった大きな沼(鴻沼)に注ぐ水路のことですね。以下は後半の抜粋になりますが、昭和42年の第四銀行大宮支店開業の際の工事で、橋桁の枠石が発見され石碑としたようです。
なるほど。納得しました。
それにしても大宮に刑場ですか・・・
江戸の刑場については調べたことがありましたが、自分にとっての地元・埼玉の刑場については全く考えたこともありませんでした。あって当然ですよね。
大宮は江戸時代に宿場町として栄えました。中山道で日本橋から数えて4番目の宿場です(板橋→蕨→浦和→大宮)。その宿場の南方の原っぱに刑場があったようです。下原刑場というそうです。そこへ送られる罪人がこの世との根性の別れに涙ながらに渡った橋が、いつしか涙橋と呼ばれたわけですね。
人が行きかう中山道沿いです。いろんな人間模様があったのでしょう。下原刑場は地元民の強い要望で明治元年に廃止となったそうです。
石碑そのものは旧中山道から細い路地に入ったところにあります
ちょっと地味ですが、ご興味のある方は探してみてくだい
■訪問:涙橋跡
(第四銀行大宮支店)
[さいたま市大宮区下町]2丁目
■当ブログの関連記事■
荒川区の泪橋→『記事へすすむ』
品川区の涙橋→『記事へすすむ』
------ 追 記------
この日は特に目的もなく、ひとりで大宮区の街探索。宿場として栄えたわりに史蹟が多い街とは言えませんが、良く探せば、興味深い場所がないわけではありません。今回は涙橋からすぐ近くの2つをご紹介させて頂きます。
<加賀前田家の屋敷門>
こちらは中山道沿いで、涙橋がある方とは道を挟んで逆側になります。立派な門ですね。前田家の江戸屋敷から貰い受けたものだそうです。ちょっと選挙のポスターが目立ってしまうので、モザイクを入れさせて頂きました。
次は
悲しい涙橋のお話とは逆に、心温まる言い伝えがある場所です。
<地蔵尊>
涙橋跡からちょっと浦和方面(南)へ移動した小さな路地。塩地蔵尊(左)と子育地蔵(右)が並んでいます
子育地蔵はよく耳にしますが塩地蔵尊?
どんな言い伝えがあるでしょうか
『妻に先立たれた二人の娘を連れた浪人が、ここ大宮宿で病に倒れてしまいます。すると姉妹の夢枕に地蔵が現れ、塩断ちするよう告げて消えました。姉妹は早速塩断ちして、近くの地蔵にお祈りしました。すると父親の病は治り、感謝した姉妹はたくさんの塩を地蔵に供えました。』
ちょっと省略しましたが、現地の説明だとだいたいこういうお話です。内容も良いですが、ここ大宮が人が行き交う宿場だったことが伝わってきますね。
いまでも塩が供えられています。語り継がれている証ですね。
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<涙橋跡>
なみだばし?そう刻まれた石碑の土台は実際に使われていた橋の一部でしょうか?
涙橋と言えば、思い出すのは荒川区の泪橋。刑場へ向かう罪人が涙ながらに渡ったことからそう呼ばれるようになりました。ここ大宮の涙橋も由来は同じなのでしょうか?
<説明板>
史蹟としてちゃんと名の由来が説明されています。これによれば
『住時大宮宿の辺の中山道を横切って溝川の流れがあり、「中の橋」と呼ばれる橋が架かっていた。当時吉敷町の街外れ、高台橋に罪人の処刑場があって、その親類縁者が「中の橋」でこの世の別れを惜しみ涙を流したことでいつしか「涙橋」と呼ばれるようになったと言われている。』
[出典:現地説明板]
とのこと。中山道を横切る溝川とは、かつてあった大きな沼(鴻沼)に注ぐ水路のことですね。以下は後半の抜粋になりますが、昭和42年の第四銀行大宮支店開業の際の工事で、橋桁の枠石が発見され石碑としたようです。
なるほど。納得しました。
それにしても大宮に刑場ですか・・・
江戸の刑場については調べたことがありましたが、自分にとっての地元・埼玉の刑場については全く考えたこともありませんでした。あって当然ですよね。
大宮は江戸時代に宿場町として栄えました。中山道で日本橋から数えて4番目の宿場です(板橋→蕨→浦和→大宮)。その宿場の南方の原っぱに刑場があったようです。下原刑場というそうです。そこへ送られる罪人がこの世との根性の別れに涙ながらに渡った橋が、いつしか涙橋と呼ばれたわけですね。
人が行きかう中山道沿いです。いろんな人間模様があったのでしょう。下原刑場は地元民の強い要望で明治元年に廃止となったそうです。
石碑そのものは旧中山道から細い路地に入ったところにあります
ちょっと地味ですが、ご興味のある方は探してみてくだい
■訪問:涙橋跡
(第四銀行大宮支店)
[さいたま市大宮区下町]2丁目
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品川区の涙橋→『記事へすすむ』
------ 追 記------
この日は特に目的もなく、ひとりで大宮区の街探索。宿場として栄えたわりに史蹟が多い街とは言えませんが、良く探せば、興味深い場所がないわけではありません。今回は涙橋からすぐ近くの2つをご紹介させて頂きます。
<加賀前田家の屋敷門>
こちらは中山道沿いで、涙橋がある方とは道を挟んで逆側になります。立派な門ですね。前田家の江戸屋敷から貰い受けたものだそうです。ちょっと選挙のポスターが目立ってしまうので、モザイクを入れさせて頂きました。
次は
悲しい涙橋のお話とは逆に、心温まる言い伝えがある場所です。
<地蔵尊>
涙橋跡からちょっと浦和方面(南)へ移動した小さな路地。塩地蔵尊(左)と子育地蔵(右)が並んでいます
子育地蔵はよく耳にしますが塩地蔵尊?
どんな言い伝えがあるでしょうか
『妻に先立たれた二人の娘を連れた浪人が、ここ大宮宿で病に倒れてしまいます。すると姉妹の夢枕に地蔵が現れ、塩断ちするよう告げて消えました。姉妹は早速塩断ちして、近くの地蔵にお祈りしました。すると父親の病は治り、感謝した姉妹はたくさんの塩を地蔵に供えました。』
ちょっと省略しましたが、現地の説明だとだいたいこういうお話です。内容も良いですが、ここ大宮が人が行き交う宿場だったことが伝わってきますね。
いまでも塩が供えられています。語り継がれている証ですね。
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2019年10月14日
暗渠と城跡21 北沢川と三宿城
都内にもある城のなごり
今回は吉良氏が居城とした世田谷城の支城ではないかと伝わる三宿城跡を訪ねました。
<三宿の森緑地>みしゅく
それらしい光景?まるで曲輪を取り囲む土塁の跡のようですね。しかしこれは公園として整備されたもの。事前にお話ししておきますが、三宿城跡とされるエリアで遺構は確認できません。ここを真っ先にご紹介する理由は、高台に築かれたとされる城跡で、最も周辺との高低差を実感した場所だからです。
<丘の上>
柵の向こう側は崖状になっています。下の神社の屋根で、なんとなく伝わると思います。三宿城は多聞寺砦とも呼ばれていますが、この今は無き『多聞寺』の毘沙門天が、屋根が見えている神社(三宿神社)に祀られています。
<公園内>
雰囲気だけ味わう。更に土が盛ってあるのでいろいろ想像してしまいましたが、多分私の思い過ごしでしょう。
<三宿の森緑地入口>
お世話になりました
さて
公園を出て道を挟んだ向かいの小学校へ
<多聞小学校>
三宿の森緑地のすぐ傍の多聞小学校です。こちらを三宿城跡として紹介している記事の方が多いですかね。ともに多聞山と呼ばれる丘の上にあります。
冒頭で世田谷城の支城と紹介しましたが、では誰が築き、誰が城主だったか詳細は不明です。世田谷城主の吉良氏が、居城の東側の拠点として築いたという説もあります。そしてその時期に、三宿村も開かれたのではないかと考えられています。推定ながら、このエリアの中核を担うべくまず砦と寺が築かれ、村も徐々に形成されていった。そんな感じでしょうか。
小学校も公園も明らかに高台に位置していることから、地形には納得できました。そこからいいように想像すると、攻め手を拒む要塞があっても不思議ではない。そう感じました。
現地に行ってみて肌で感じる。それが正解かどうかより、楽しめたので来た甲斐がありました。
ということで
ある程度納得して高台から低地へ移動
<坂道>
時々振り返り、高低差を実感
更に下った先にて
<車止め>
あ、あれはもしや
<北沢川>
川に出ました
これ道でしょ?
はい。そうとも言いますが川です。地下に埋設され、地表が道として利用されている川です。いわゆる暗渠ですね。見慣れない字ですが「あんきょ」と読みます。この『暗渠』に気付くアンテナがあると、都内の城跡巡りが一層深みを増します。
<北沢川緑道>
この暗渠は一般的には緑道と呼ばれています。川のなごりを留めようと、地表に水の流れが再現されています。いいですね。
北沢川はこの位置より下流で烏山川と合流します。今回訪問の三宿城は、この二本の川に挟まれた高台に築かれました。つまり、高台という高低差に加えて、これを挟み込むように流れる二本の天然堀を利用した城だったということですね。低地を流れる川の周辺は、きっと池や沼も点在する湿地帯だったのでしょう。そもそも三宿の名は水宿からきていると言われています。水が宿る地ということですね。
地形に納得。そして暗渠に気付いたことで川の役割にも納得しました。
-------■ 三宿城 ■-------
別 名:多聞寺城 多聞寺砦
築城年:不明(15世紀後半?)
築城者:不明(吉良氏?)
城 主:不明(吉良氏配下?)
廃 城:不明
[東京都世田谷区三宿]
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今回は吉良氏が居城とした世田谷城の支城ではないかと伝わる三宿城跡を訪ねました。
<三宿の森緑地>みしゅく
それらしい光景?まるで曲輪を取り囲む土塁の跡のようですね。しかしこれは公園として整備されたもの。事前にお話ししておきますが、三宿城跡とされるエリアで遺構は確認できません。ここを真っ先にご紹介する理由は、高台に築かれたとされる城跡で、最も周辺との高低差を実感した場所だからです。
<丘の上>
柵の向こう側は崖状になっています。下の神社の屋根で、なんとなく伝わると思います。三宿城は多聞寺砦とも呼ばれていますが、この今は無き『多聞寺』の毘沙門天が、屋根が見えている神社(三宿神社)に祀られています。
<公園内>
雰囲気だけ味わう。更に土が盛ってあるのでいろいろ想像してしまいましたが、多分私の思い過ごしでしょう。
<三宿の森緑地入口>
お世話になりました
さて
公園を出て道を挟んだ向かいの小学校へ
<多聞小学校>
三宿の森緑地のすぐ傍の多聞小学校です。こちらを三宿城跡として紹介している記事の方が多いですかね。ともに多聞山と呼ばれる丘の上にあります。
冒頭で世田谷城の支城と紹介しましたが、では誰が築き、誰が城主だったか詳細は不明です。世田谷城主の吉良氏が、居城の東側の拠点として築いたという説もあります。そしてその時期に、三宿村も開かれたのではないかと考えられています。推定ながら、このエリアの中核を担うべくまず砦と寺が築かれ、村も徐々に形成されていった。そんな感じでしょうか。
小学校も公園も明らかに高台に位置していることから、地形には納得できました。そこからいいように想像すると、攻め手を拒む要塞があっても不思議ではない。そう感じました。
現地に行ってみて肌で感じる。それが正解かどうかより、楽しめたので来た甲斐がありました。
ということで
ある程度納得して高台から低地へ移動
<坂道>
時々振り返り、高低差を実感
更に下った先にて
<車止め>
あ、あれはもしや
<北沢川>
川に出ました
これ道でしょ?
はい。そうとも言いますが川です。地下に埋設され、地表が道として利用されている川です。いわゆる暗渠ですね。見慣れない字ですが「あんきょ」と読みます。この『暗渠』に気付くアンテナがあると、都内の城跡巡りが一層深みを増します。
<北沢川緑道>
この暗渠は一般的には緑道と呼ばれています。川のなごりを留めようと、地表に水の流れが再現されています。いいですね。
北沢川はこの位置より下流で烏山川と合流します。今回訪問の三宿城は、この二本の川に挟まれた高台に築かれました。つまり、高台という高低差に加えて、これを挟み込むように流れる二本の天然堀を利用した城だったということですね。低地を流れる川の周辺は、きっと池や沼も点在する湿地帯だったのでしょう。そもそも三宿の名は水宿からきていると言われています。水が宿る地ということですね。
地形に納得。そして暗渠に気付いたことで川の役割にも納得しました。
-------■ 三宿城 ■-------
別 名:多聞寺城 多聞寺砦
築城年:不明(15世紀後半?)
築城者:不明(吉良氏?)
城 主:不明(吉良氏配下?)
廃 城:不明
[東京都世田谷区三宿]
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2019年10月09日
江戸城 馬場先門のなごり
日比谷濠から和田倉濠を散策する途中で、いままで気づかなかった説明板に足がとなりました。
<説明板>
馬場先門?
城跡ブログをやっているのにお恥ずかしい話ですが、こんな場所に城門があったことを知りませんでした。馬場先濠なら知っていましたが、そもそも何で馬場先というかも知らず。
<地図>
位置的には赤い印が現在位置。日比谷濠と馬場先濠の間です。道も広いので何度も通っているのに、いままで説明板に気付きませんでした。
<馬場先門>
説明によれば『門の名は、寛永期(1624〜1644年)に門内の馬場で将軍が朝鮮使節の曲馬を上覧し朝鮮馬場と呼ばれていたことに由来します。門は1629年(寛永6年)に築造されました。』とのこと。
<絵図>
構造的には枡形門ですね。ただ手前は濠なのに橋は無いようです。舟の出入りを想定したのでしょうか?門の奥、右へ曲がった区画では、馬を駆けさせている姿が見えます。
現地での理解は中途半端だったので、帰宅してから調べました。枡形門として築かれたものの、やはり橋は架けられなかったようです。これにより不開御門(あかずのごもん)と呼ばれていました。あと、説明板の内容をもう少し詳しく説明すると、奥の馬場は、徳川家光の将軍就任祝賀に招かれた朝鮮特使団が馬術の芸を披露したことから朝鮮馬場と呼ばれるようになったようです。不開御門はいつしか『馬場先の門』ということで馬場先門と呼ばれるようになりました。
特定の誰かの命名というより、そう呼ばれているうちに、それが定着したということですかね。
ずっと開かずの門だったのか?ということはなく、のちには橋が架けられたようです。きっかけは江戸の大惨事となった明暦の大火(1668年)です。この教訓から、江戸の町は大改造が施され、城の天然堀でもある隅田川に新たな橋も設けられました。逃げ場の確保ということですね。馬場先門の橋も、そういった政策の一環ということですね。
橋が架けられた馬先門は、大名とその家臣だけでなく、通行手形を持つ商人の出入りも許されていたそうです。
<付近の石垣>
だいたいこの付近でしょうか?
ただ、いまは桝形門の石垣すら残っていませんね。
<和田倉門跡>
こちらはもうちょっと北にある和田倉門跡です。門そのものは残っていなくても、普通ならこんな感じで枡形構造の石垣が確認できそうなものですが。
1904年に日露戦争の戦勝祝賀会で市民の行列が馬場先門に殺到し、20人もの死者を出す事件が起きてしまいました。大惨事ですね。枡形は敵の侵入を鈍らせ、進む先の見通しも悪い構造です。これが災いし、押しかける市民の事故につながったようです。枡形門は撤去され、堀の一部が埋め立てられ道路となりました。
枡形門の痕跡すらないには、それ相応の理由があったのですね。
ということで
現在は残っていない江戸城の城門のご紹介でした。日比谷門と和田倉門の間にも枡形門があった。私も知らなかったので、読んで頂いた方の参考になれば嬉しいです。
■訪問:馬場先門跡
[千代田区丸の内]2
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<説明板>
馬場先門?
城跡ブログをやっているのにお恥ずかしい話ですが、こんな場所に城門があったことを知りませんでした。馬場先濠なら知っていましたが、そもそも何で馬場先というかも知らず。
<地図>
位置的には赤い印が現在位置。日比谷濠と馬場先濠の間です。道も広いので何度も通っているのに、いままで説明板に気付きませんでした。
<馬場先門>
説明によれば『門の名は、寛永期(1624〜1644年)に門内の馬場で将軍が朝鮮使節の曲馬を上覧し朝鮮馬場と呼ばれていたことに由来します。門は1629年(寛永6年)に築造されました。』とのこと。
<絵図>
構造的には枡形門ですね。ただ手前は濠なのに橋は無いようです。舟の出入りを想定したのでしょうか?門の奥、右へ曲がった区画では、馬を駆けさせている姿が見えます。
現地での理解は中途半端だったので、帰宅してから調べました。枡形門として築かれたものの、やはり橋は架けられなかったようです。これにより不開御門(あかずのごもん)と呼ばれていました。あと、説明板の内容をもう少し詳しく説明すると、奥の馬場は、徳川家光の将軍就任祝賀に招かれた朝鮮特使団が馬術の芸を披露したことから朝鮮馬場と呼ばれるようになったようです。不開御門はいつしか『馬場先の門』ということで馬場先門と呼ばれるようになりました。
特定の誰かの命名というより、そう呼ばれているうちに、それが定着したということですかね。
ずっと開かずの門だったのか?ということはなく、のちには橋が架けられたようです。きっかけは江戸の大惨事となった明暦の大火(1668年)です。この教訓から、江戸の町は大改造が施され、城の天然堀でもある隅田川に新たな橋も設けられました。逃げ場の確保ということですね。馬場先門の橋も、そういった政策の一環ということですね。
橋が架けられた馬先門は、大名とその家臣だけでなく、通行手形を持つ商人の出入りも許されていたそうです。
<付近の石垣>
だいたいこの付近でしょうか?
ただ、いまは桝形門の石垣すら残っていませんね。
<和田倉門跡>
こちらはもうちょっと北にある和田倉門跡です。門そのものは残っていなくても、普通ならこんな感じで枡形構造の石垣が確認できそうなものですが。
1904年に日露戦争の戦勝祝賀会で市民の行列が馬場先門に殺到し、20人もの死者を出す事件が起きてしまいました。大惨事ですね。枡形は敵の侵入を鈍らせ、進む先の見通しも悪い構造です。これが災いし、押しかける市民の事故につながったようです。枡形門は撤去され、堀の一部が埋め立てられ道路となりました。
枡形門の痕跡すらないには、それ相応の理由があったのですね。
ということで
現在は残っていない江戸城の城門のご紹介でした。日比谷門と和田倉門の間にも枡形門があった。私も知らなかったので、読んで頂いた方の参考になれば嬉しいです。
■訪問:馬場先門跡
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