日比谷濠から和田倉濠を散策する途中で、いままで気づかなかった説明板に足がとなりました。
<説明板>
馬場先門?
城跡ブログをやっているのにお恥ずかしい話ですが、こんな場所に城門があったことを知りませんでした。馬場先濠なら知っていましたが、そもそも何で馬場先というかも知らず。
<地図>
位置的には赤い印が現在位置。日比谷濠と馬場先濠の間です。道も広いので何度も通っているのに、いままで説明板に気付きませんでした。
<馬場先門>
説明によれば『門の名は、寛永期(1624〜1644年)に門内の馬場で将軍が朝鮮使節の曲馬を上覧し朝鮮馬場と呼ばれていたことに由来します。門は1629年(寛永6年)に築造されました。』とのこと。
<絵図>
構造的には枡形門ですね。ただ手前は濠なのに橋は無いようです。舟の出入りを想定したのでしょうか?門の奥、右へ曲がった区画では、馬を駆けさせている姿が見えます。
現地での理解は中途半端だったので、帰宅してから調べました。枡形門として築かれたものの、やはり橋は架けられなかったようです。これにより不開御門(あかずのごもん)と呼ばれていました。あと、説明板の内容をもう少し詳しく説明すると、奥の馬場は、徳川家光の将軍就任祝賀に招かれた朝鮮特使団が馬術の芸を披露したことから朝鮮馬場と呼ばれるようになったようです。不開御門はいつしか『馬場先の門』ということで馬場先門と呼ばれるようになりました。
特定の誰かの命名というより、そう呼ばれているうちに、それが定着したということですかね。
ずっと開かずの門だったのか?ということはなく、のちには橋が架けられたようです。きっかけは江戸の大惨事となった明暦の大火(1668年)です。この教訓から、江戸の町は大改造が施され、城の天然堀でもある隅田川に新たな橋も設けられました。逃げ場の確保ということですね。馬場先門の橋も、そういった政策の一環ということですね。
橋が架けられた馬先門は、大名とその家臣だけでなく、通行手形を持つ商人の出入りも許されていたそうです。
<付近の石垣>
だいたいこの付近でしょうか?
ただ、いまは桝形門の石垣すら残っていませんね。
<和田倉門跡>
こちらはもうちょっと北にある和田倉門跡です。門そのものは残っていなくても、普通ならこんな感じで枡形構造の石垣が確認できそうなものですが。
1904年に日露戦争の戦勝祝賀会で市民の行列が馬場先門に殺到し、20人もの死者を出す事件が起きてしまいました。大惨事ですね。枡形は敵の侵入を鈍らせ、進む先の見通しも悪い構造です。これが災いし、押しかける市民の事故につながったようです。枡形門は撤去され、堀の一部が埋め立てられ道路となりました。
枡形門の痕跡すらないには、それ相応の理由があったのですね。
ということで
現在は残っていない江戸城の城門のご紹介でした。日比谷門と和田倉門の間にも枡形門があった。私も知らなかったので、読んで頂いた方の参考になれば嬉しいです。
■訪問:馬場先門跡
[東京都千代田区丸の内]2
お城巡りランキング
2019年10月09日
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