■薬研堀■やげんぼり
城好きが「薬研堀」と聞けば、断面がV字型の堀を思い浮かべますよね。角度が急で、底が狭くなっているシャープな空堀を。それがそのまま地名となっている。だったら、そこはかつての城郭の一部?勝手な想像が膨らみます。
<現地訪問>
場所は東日本橋です。こんなところに江戸城の堀があったのでしょうか?
前からちょっと気になっていたのですが、訪問を機に初めてその実態を調べることに。広島市にも「薬研堀」という地名があるようですね。由来は広島城の堀とのこと。なるほど。で、今回訪問の薬研堀は・・・こちらは城郭そのものとは直接関係ないようですね。城好きとしては残念。まぁ位置的にちょっと無理がありましたかね。堀は堀でも、城下町の堀川のようです。
■堀川のなごり■
現在の東日本橋には、かつて矢ノ倉と呼ばれる米蔵があり、そこへ通じる堀川が整備されていました(東日本橋1丁目から2二丁目付近)。まぁ物流のための運河ですね。隅田川と繋がっていました。その形状から「薬研堀」と呼ばれたそうです。やがて米蔵もなくなり、運河としての役割を終えた薬研堀は埋め立てられました。
舟のための運河が薬研堀のような形?ちょっと、想像できませんが、皆がそう呼んだのだから、きっとそうなんでしょう。
そもそも薬研とは、薬を作る道具。具体的には薬草や木の身などを粉砕しながらひく器具で、時代劇などで時々目にしますね。堀の形状が、その「薬研」のようであることから、薬研堀という呼び名が生まれました。お城ファンの間では良く知られた城用語です。
<イメージ画像>
こちらは山形県の某城跡で撮影したものです。遺構ではなく、観光用です。薬研掘の形状、つまり断面がV字という意味、伝わりますでしょうか?
■地名も消滅?■
日本橋薬研堀町。いい名前ですね。中央区の正式な地名…でした。過去形です。1971年に東日本橋とされ、薬研堀の名は消滅しました。またまた残念。
ただし、それは住所表示上のお話。みながそう呼び続ける以上、それは残っているのと同じです。いや、もっと価値のあることかもしれません。
■医者町■
このエリア、医師が多く住んだことから「医者町」と呼ばれた時期もあったそうです。堀川が薬研堀のようだからではなくて、堀川のあったこの地に、薬研を使いこなす医師や薬剤師が集まったことで薬研堀と呼ばれたのではないか?とも思いましたが、そういう説を唱えている人はいないようです。ということで、あくまで素人のたわごとでした。
「医者町」らしいお話としては、順天堂の始祖・佐藤泰然がこの地にオランダ医学塾を開いたとされています。この日本最古といわれるこの西洋医学塾が、いまの順天堂大学へと繋がっているわけですね(薬研堀から始まり、佐倉藩に招かれて佐倉にて「順天堂」を開いたとのこと)。
あと、この地は七味唐辛子の発祥地でもあります。七味唐辛子は「漢方薬をヒントに開発された」と言われると、なんとなく納得できますね。
■薬研堀不動院■
かつての堀川、更に住所表示すらなくなりましたが、薬研堀のなごりを感じることはできます。
<薬研堀不動院>やげんぼりふどういん
かつての地名を冠する寺院。目黒不動、目白不動とともに江戸三大不動とされています。あの「川崎大師」の東京別院にもなっているとのこと。八角形の屋根が独特ですね。
<境内の様子>
奥は「納めの歳の市碑」その手前は「梵字不動尊」
こちらは弘法大師像
ビルの谷間でちょっと窮屈そうに見えますが、歴史は古く、始まりは中世末期。紀州の根来寺(ねごろじ)が、豊臣秀吉に攻められ焼失した時、層が不動尊像を背負って東国へ逃れ、この地に寺を創建した。そう伝えられています。
秀吉とあまり関係なさそうな江戸の町で、そんな話があるのですね。当時の根来寺は所領といい兵力(まぁ僧兵というんでしょうか)といい大名のような一大勢力。信長とはうまく関係を保っていたようですが、秀吉の時に関係が悪化。その結果、最盛期の寺院は戦火により失われました。再建され今に続く根来寺は、和歌山県内有数の観光名所。ちょっとそこまで行けませんが、ここ薬研堀にて、不動尊像を守った層に思いを馳せて私なりに満足。探索を終了させました。
今回訪問の「薬研堀」は、都営地下鉄東日本橋駅から徒歩数分のところです。「堀」というキーワードだけで探索を始めましたが、期待したものがない代わりに、いろんなことを知る機会となりました。
こんな拙ブログですが、多少でもどなたかの参考になれば嬉しいです。
■訪問:薬研堀不動院
[東京都中央区東日本橋]2丁目
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