犬山城の別称は白帝城。これは川沿いの小高い山に佇むさまが、中国の名城白帝城を連想させることに由来します。名付けの親は江戸時代中期の儒学者・荻生徂徠です。
<犬山城と木曽川>
こんな光景になります。左手の山の頂上に小さく映っている天守閣が犬山城、右手の川は木曽川です。天守の直下を川が流れる要害の城ですね。
中国の白帝城は、地形が険しい長江沿いの山頂に築かれた城です。三国史にも登場する有名な城で、政治的にも軍事的にも重要な役割を担いました。全てのご紹介はできませんが、あの劉備玄徳が没した場所としても知られています。犬山城をこの城に例えた荻生徂徠は、長江から白帝城を見上げたことがあつた?わけではなく、白帝城を詠った李白の詩にちなんだようです。中国に詳しい荻生徂徠が白帝城に例えるのですから、賛辞ということですね。
<木曽川>
ここは昔でいうところの尾張国と美濃国の境です。白帝城と同じく、犬山城も政治的・軍事的に重要な役割を担いました。
ということで
国宝天守で名高い犬山城の別称についてでした。
<現在の犬山城>
■訪問:犬山城
[愛知県犬山市犬山北古券]
■参考
・Wikipedia:2022/4/6
・犬山城内説明板
お城巡りランキング
2022年04月06日
4月6日は城の日 犬山城の国宝天守
4月6日は城の日。公益財団法人日本城郭協会が1974年に定めた記念日です。4と6で「しろ」の語呂合せですね。
日本全国には3万を超す城跡があるであろうといわれています。ただ、これらの大半は一般の方がイメージする城とはかけ離れた「土の城」です。これはこれで魅力的ですが、本日は城の日を意識して、「城らしい城」をご紹介させて頂きます。
<犬山城>
天守が国宝に指定されている犬山城です。
天守がある城は全国にたくさんありますが、その多くは復元されたものです。江戸時代までに建築され、現在に至るまで維持されている城は12城しかありません。重要文化財に指定されているこの現存12天守のうち、国宝にも指定されている天守は5城のみ(国宝五城)。犬山城はそのうちの一つなのです。他は松本城、彦根城、姫路城、松江城です。
犬山城は戦国時代には既に存在していましたが、現在のような佇まいとなったのはいつ頃なのでしょうか?諸説ありますが、江戸時代初期という説が有力です。1617年、徳川家の重臣である成瀬正成が城主となり、この頃の改修によって現在の天守の姿ができ上ったと考えられています。
現状を維持するだけでも大変そう
これは城好きの間では有名な話ですが、犬山城は平成になっても個人所有の城でした。凄いことですね。所有者は成瀬氏。先述の成瀬正成以降、犬山城主は幕末まで成瀬氏代々が務めました。明治の廃藩置県で城は県の所有となり、天守以外の建物は次々と取り壊されました。そして1891年の大地震(濃尾大地震)により、残された天守も半壊。これを修復することを条件に、犬山城は県から旧藩主である成瀬氏に譲与されました。多額の資金が必要となりますが、成瀬氏と犬山町民が募金を募り、修復に至ったそうです。
現在は財団法人犬山城白帝文庫の所有となっています。
ということで
国宝の城のご紹介でした。
■訪問:犬山城天守
[愛知県犬山市犬山北古券]
■参考
・Wikipedia:2022/4/6
・犬山城内説明板
お城巡りランキング
日本全国には3万を超す城跡があるであろうといわれています。ただ、これらの大半は一般の方がイメージする城とはかけ離れた「土の城」です。これはこれで魅力的ですが、本日は城の日を意識して、「城らしい城」をご紹介させて頂きます。
<犬山城>
天守が国宝に指定されている犬山城です。
天守がある城は全国にたくさんありますが、その多くは復元されたものです。江戸時代までに建築され、現在に至るまで維持されている城は12城しかありません。重要文化財に指定されているこの現存12天守のうち、国宝にも指定されている天守は5城のみ(国宝五城)。犬山城はそのうちの一つなのです。他は松本城、彦根城、姫路城、松江城です。
犬山城は戦国時代には既に存在していましたが、現在のような佇まいとなったのはいつ頃なのでしょうか?諸説ありますが、江戸時代初期という説が有力です。1617年、徳川家の重臣である成瀬正成が城主となり、この頃の改修によって現在の天守の姿ができ上ったと考えられています。
現状を維持するだけでも大変そう
これは城好きの間では有名な話ですが、犬山城は平成になっても個人所有の城でした。凄いことですね。所有者は成瀬氏。先述の成瀬正成以降、犬山城主は幕末まで成瀬氏代々が務めました。明治の廃藩置県で城は県の所有となり、天守以外の建物は次々と取り壊されました。そして1891年の大地震(濃尾大地震)により、残された天守も半壊。これを修復することを条件に、犬山城は県から旧藩主である成瀬氏に譲与されました。多額の資金が必要となりますが、成瀬氏と犬山町民が募金を募り、修復に至ったそうです。
現在は財団法人犬山城白帝文庫の所有となっています。
ということで
国宝の城のご紹介でした。
■訪問:犬山城天守
[愛知県犬山市犬山北古券]
■参考
・Wikipedia:2022/4/6
・犬山城内説明板
お城巡りランキング
2022年03月27日
梶原景時子孫の城跡(犬山市)羽黒城のなごり
つわものどもが夢の跡
鎌倉幕府の有力御家人・梶原景時の子孫の城跡を訪ねました。
<羽黒城>はぐろじょう
景時の孫である景親がこの地に拠点を築いたこと始まる城です。場所は鎌倉からは遠く離れた愛知県犬山市です。
■梶原景時一族の滅亡■
梶原景時は源頼朝に仕えて鎌倉幕府設立に尽力した人物。頼朝からの信任も厚く、有力御家人としての立ち位置を確立していました。しかし権力者となった景時に反感を持つ御家人たちも多かったようです。頼朝亡きあと鎌倉から追放されてしまい、上洛を目指す途上で一族の大半が討たれ、景時本人も自害となりました。
私は長らく
ここで梶原氏滅亡と思っていました。
今回の訪問がきっかけで、景時の孫が尾張国へ落ち延び、梶原一族の新たな歴史が始まりまったことを知りました。
■梶原景時子孫の城■
一族の多くが亡くなった梶原氏ですが、景時の次男・景高の子である豊丸が羽黒へ落ちのび、長じて景親と名乗り、館を構えるに至りました。これが今回訪問の羽黒城の始まりです。梶原氏と尾張国との関係ですが、梶原景時がまだ平家に従っていた頃、尾張国府に下向赴任した経緯があったようです。その経緯が直接影響したかどうかわかりませんが、羽黒は豊丸の乳母(お隅の方)の故郷でもあったようです。
<興禅寺>
羽黒城跡の西側は興禅寺。前身は梶原景時が建立した光善寺で、梶原氏の菩提寺です
居を構えた景親を初代として、羽黒の地は梶原氏代々により統治され続けました。17代・影義の時には織田信長に仕えて、3千石の領主となっていたようです。
ところが、本能寺の変(1582年)により主である信長が死亡。梶原影義も明智軍との戦いで討死したと伝わります。当主の死により梶原氏は滅亡。拠点としていた城も、この時に廃城となりました。
<土塁跡>
羽黒城跡は住宅地から隔離された竹藪の中にあります。外からはそこが城跡だということは分かりにくいですが、足を踏み入れれば立派な遺構と出会えます。また、土塁は興禅寺側にも一部残っており、もともとは繋がっていたと思われます。
<土塁と曲輪>
城としての全盛期の一部に過ぎないと思いますが、それでもありがたい遺構です
<高低差>
平城ではありますが、土塁により周囲との高低差もあります
<堀跡>
埋められた堀跡でしょうか?
<物見台跡?>
冒頭の石碑はここを登った先にあります。奥がひときわ高くなっているので、物見櫓を設置した場所なのかもしれません。犬山市には古墳が多く、ここ羽黒城も元々あった古墳の墳丘を利用したとされています
城内はだいたいこんな感じす
■つわものどもが夢の跡■
本能寺の変から2年後、小牧・長久手の戦い(1584年:秀吉vs家康)において、秀吉方がこの地を砦として使用したという記録があります。配下の山内一豊が守ったとのこと。遺構の一部は、この戦いの際に修復されたものも含まれるのかも知れませんね
<つわものどもが夢の跡>
最後に羽黒城を守った山内一豊の実母(法秀院)は梶原氏の出です
-------■ 羽黒城 ■-------
別 名:梶原屋敷
築城主:梶原景親
築城年:13世紀初頭
城 主:梶原氏
廃城年:1582年
改 修:1584年
[犬山市羽黒字城屋敷]
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/3/27
・興禅寺説明板
お城巡りランキング
鎌倉幕府の有力御家人・梶原景時の子孫の城跡を訪ねました。
<羽黒城>はぐろじょう
景時の孫である景親がこの地に拠点を築いたこと始まる城です。場所は鎌倉からは遠く離れた愛知県犬山市です。
■梶原景時一族の滅亡■
梶原景時は源頼朝に仕えて鎌倉幕府設立に尽力した人物。頼朝からの信任も厚く、有力御家人としての立ち位置を確立していました。しかし権力者となった景時に反感を持つ御家人たちも多かったようです。頼朝亡きあと鎌倉から追放されてしまい、上洛を目指す途上で一族の大半が討たれ、景時本人も自害となりました。
私は長らく
ここで梶原氏滅亡と思っていました。
今回の訪問がきっかけで、景時の孫が尾張国へ落ち延び、梶原一族の新たな歴史が始まりまったことを知りました。
■梶原景時子孫の城■
一族の多くが亡くなった梶原氏ですが、景時の次男・景高の子である豊丸が羽黒へ落ちのび、長じて景親と名乗り、館を構えるに至りました。これが今回訪問の羽黒城の始まりです。梶原氏と尾張国との関係ですが、梶原景時がまだ平家に従っていた頃、尾張国府に下向赴任した経緯があったようです。その経緯が直接影響したかどうかわかりませんが、羽黒は豊丸の乳母(お隅の方)の故郷でもあったようです。
<興禅寺>
羽黒城跡の西側は興禅寺。前身は梶原景時が建立した光善寺で、梶原氏の菩提寺です
居を構えた景親を初代として、羽黒の地は梶原氏代々により統治され続けました。17代・影義の時には織田信長に仕えて、3千石の領主となっていたようです。
ところが、本能寺の変(1582年)により主である信長が死亡。梶原影義も明智軍との戦いで討死したと伝わります。当主の死により梶原氏は滅亡。拠点としていた城も、この時に廃城となりました。
<土塁跡>
羽黒城跡は住宅地から隔離された竹藪の中にあります。外からはそこが城跡だということは分かりにくいですが、足を踏み入れれば立派な遺構と出会えます。また、土塁は興禅寺側にも一部残っており、もともとは繋がっていたと思われます。
<土塁と曲輪>
城としての全盛期の一部に過ぎないと思いますが、それでもありがたい遺構です
<高低差>
平城ではありますが、土塁により周囲との高低差もあります
<堀跡>
埋められた堀跡でしょうか?
<物見台跡?>
冒頭の石碑はここを登った先にあります。奥がひときわ高くなっているので、物見櫓を設置した場所なのかもしれません。犬山市には古墳が多く、ここ羽黒城も元々あった古墳の墳丘を利用したとされています
城内はだいたいこんな感じす
■つわものどもが夢の跡■
本能寺の変から2年後、小牧・長久手の戦い(1584年:秀吉vs家康)において、秀吉方がこの地を砦として使用したという記録があります。配下の山内一豊が守ったとのこと。遺構の一部は、この戦いの際に修復されたものも含まれるのかも知れませんね
<つわものどもが夢の跡>
最後に羽黒城を守った山内一豊の実母(法秀院)は梶原氏の出です
-------■ 羽黒城 ■-------
別 名:梶原屋敷
築城主:梶原景親
築城年:13世紀初頭
城 主:梶原氏
廃城年:1582年
改 修:1584年
[犬山市羽黒字城屋敷]
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/3/27
・興禅寺説明板
お城巡りランキング
2022年03月26日
梶原景時ゆかりの寺院(犬山市)興禅寺
梶原景時が開基したと伝わる愛知県犬山市の寺院を訪ねました
<興禅寺山門>こうぜんじ
山号は妙国山
<境内>
梶原景時ゆかりの寺院です
<説明板>
門前の説明板から一部を抜粋させて頂きます
『当寺の開山は1174年(承安4年:平安時代)梶原景時によって真言宗光善寺を創建されたのが始まりといわれている。1476年(文明11年:室町時代)梶原景綱によって臨済宗妙心寺派興禅寺と改めて再興された。1584年(天正12年:安土桃山時代)小牧・長久手の戦いの前哨戦羽黒合戦による戦火ですべて焼失し、廃寺同然になった。1602年(慶長7年:江戸時代)犬山城主小笠原吉次の寄進により、梶原屋敷跡であった現在地に再興され現在に至っている。』
梶原景時と言えば鎌倉幕府の有力御家人であり、いわゆる「鎌倉殿の13人」のひとり。その人物ゆかりの寺院が愛知県犬山市にある。これはどういうことでしょうか?
説明板の右側『羽黒と梶原氏』によれば『羽黒と梶原景時との出会いは、景時が平忠盛(清盛の父)の目代(国主の代理)として尾張国府に下向赴任し、羽黒下大日に真言宗光善寺(興禅寺の前身)を建立したことから始まる。』とのこと。
なるほど
十三人の合議制どころか、まだ源頼朝の敵だった頃のお話ですね。敗走して山中に隠れていた頼朝を見逃す石橋山の戦いが景時41歳の時の話。羽黒の地との出会いは30代くらいでしょうか?(調べましたがわかりませんでした。)いずれにせよ、平家に仕えていた頃のこういった経歴が、頼朝からの高い評価に繋がるのかもしれませんね。
<土塁跡>
こちらは興禅寺に隣接する土塁跡。景時の子孫が居城とした城のなごりです。
源頼朝亡きあと、梶原景時は他の御家人たちにより鎌倉から追放されてしまいます。逃れる途上で一族はことごとく討たれてしまい、本人も自害となりました。しかし子孫の一部がなんとか落ち延び、鎌倉からは遠いここ羽黒に根を張りました。それができたのも、景時が平家に仕えていた頃の縁があってのことなのかもしれませんね。
■訪問:妙国山 興禅寺
[愛知県犬山市羽黒城屋敷]16
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/3/26
・興禅寺説明板
(興禅寺・梶原景時公顕彰会)
(羽黒地区コミュニティ推進協議会)
お城巡りランキング
<興禅寺山門>こうぜんじ
山号は妙国山
<境内>
梶原景時ゆかりの寺院です
<説明板>
門前の説明板から一部を抜粋させて頂きます
『当寺の開山は1174年(承安4年:平安時代)梶原景時によって真言宗光善寺を創建されたのが始まりといわれている。1476年(文明11年:室町時代)梶原景綱によって臨済宗妙心寺派興禅寺と改めて再興された。1584年(天正12年:安土桃山時代)小牧・長久手の戦いの前哨戦羽黒合戦による戦火ですべて焼失し、廃寺同然になった。1602年(慶長7年:江戸時代)犬山城主小笠原吉次の寄進により、梶原屋敷跡であった現在地に再興され現在に至っている。』
梶原景時と言えば鎌倉幕府の有力御家人であり、いわゆる「鎌倉殿の13人」のひとり。その人物ゆかりの寺院が愛知県犬山市にある。これはどういうことでしょうか?
説明板の右側『羽黒と梶原氏』によれば『羽黒と梶原景時との出会いは、景時が平忠盛(清盛の父)の目代(国主の代理)として尾張国府に下向赴任し、羽黒下大日に真言宗光善寺(興禅寺の前身)を建立したことから始まる。』とのこと。
なるほど
十三人の合議制どころか、まだ源頼朝の敵だった頃のお話ですね。敗走して山中に隠れていた頼朝を見逃す石橋山の戦いが景時41歳の時の話。羽黒の地との出会いは30代くらいでしょうか?(調べましたがわかりませんでした。)いずれにせよ、平家に仕えていた頃のこういった経歴が、頼朝からの高い評価に繋がるのかもしれませんね。
<土塁跡>
こちらは興禅寺に隣接する土塁跡。景時の子孫が居城とした城のなごりです。
源頼朝亡きあと、梶原景時は他の御家人たちにより鎌倉から追放されてしまいます。逃れる途上で一族はことごとく討たれてしまい、本人も自害となりました。しかし子孫の一部がなんとか落ち延び、鎌倉からは遠いここ羽黒に根を張りました。それができたのも、景時が平家に仕えていた頃の縁があってのことなのかもしれませんね。
■訪問:妙国山 興禅寺
[愛知県犬山市羽黒城屋敷]16
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/3/26
・興禅寺説明板
(興禅寺・梶原景時公顕彰会)
(羽黒地区コミュニティ推進協議会)
お城巡りランキング
2022年03月20日
街道沿いの町屋のなごり(浜松町)芝神明町町屋跡遺跡
浜松町のこんな光景に足が止まりました。
立派なプレートだなぁ
芝神明町町屋跡遺跡?
心惹かれたのは古地図の方でしたが、説明文をよく読むと、プレートの周辺に積まれている石が、この付近で発掘されたものだと分かりました。
昨日今日の建築材ではなく、昭和末期の再開発の時に行われた発掘調査で出土した石です。長らく地中に埋まっていた間知石が、ここに集められ積まれているようです。
間知石(けんちいし)とは石積みに使用される四角すいの石材のこと。こういう積み方が正しいのかわかりませんが、歴史をいまに伝える貴重な石材です。
低層の乱積みですかね
さて
ここは浜松町1丁目です。そもそも芝神明町とはどのエリアを指すのでしょうか
こちらの説明文によればこの付近、つまり浜松町1丁目は、かつて旧東海道を挟んだ向こう側の芝大門1丁目とともに「神明町」と呼ばれる町人の居留地だったとのこと。いわゆる町屋ですね。
この地図でタテに通っている幅広の道がかつての東海道。現在の第一京浜です。
古地図を拡大。神明町の名が見えます。左手(西側)奥に記されている飯倉神明宮が、地名の由来のようです。飯倉神明宮は現在の芝大神宮です。
こちらは第一京浜。かつての東海道です。道路の左手が先ほどの説明板のあった浜松町、右手が芝大門。むかしは道沿いの両側とも神明町と呼ばれていたわけですね。せっかくですので芝大門側に渡ってみますかね
芝大門側にある商店街の入り口。アーケードに神明の名が記されています。いまの住所表記とは異なる土地の呼び名、いいですね。
ということで
たまたま通りかかっただけですが、とても参考になり、ちょっとした街探索をさせてもらった気分です。プレートを設置してくれた住友不動産さん、ありがとうございます。
最後に
港区教育委員会さんの説明文の終わりの部分をそのまま引用させて頂きます。
『都市はある種の生物といえ、常に成長と変化を繰り返していますが、こうしたモニュメントが、この成長と変化が正しく記録されている証として、永く人々の脳裏の一隅に留められれば大きな喜びといえましょう。』
■訪問:住友浜松町ビル
(芝神明町町屋跡遺跡)
[東京都港区浜松町]1丁目18-16
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/3/20
・住友不動産説明板
(文:港区教育委員会)
お城巡りランキング
立派なプレートだなぁ
芝神明町町屋跡遺跡?
心惹かれたのは古地図の方でしたが、説明文をよく読むと、プレートの周辺に積まれている石が、この付近で発掘されたものだと分かりました。
昨日今日の建築材ではなく、昭和末期の再開発の時に行われた発掘調査で出土した石です。長らく地中に埋まっていた間知石が、ここに集められ積まれているようです。
間知石(けんちいし)とは石積みに使用される四角すいの石材のこと。こういう積み方が正しいのかわかりませんが、歴史をいまに伝える貴重な石材です。
低層の乱積みですかね
さて
ここは浜松町1丁目です。そもそも芝神明町とはどのエリアを指すのでしょうか
こちらの説明文によればこの付近、つまり浜松町1丁目は、かつて旧東海道を挟んだ向こう側の芝大門1丁目とともに「神明町」と呼ばれる町人の居留地だったとのこと。いわゆる町屋ですね。
この地図でタテに通っている幅広の道がかつての東海道。現在の第一京浜です。
古地図を拡大。神明町の名が見えます。左手(西側)奥に記されている飯倉神明宮が、地名の由来のようです。飯倉神明宮は現在の芝大神宮です。
こちらは第一京浜。かつての東海道です。道路の左手が先ほどの説明板のあった浜松町、右手が芝大門。むかしは道沿いの両側とも神明町と呼ばれていたわけですね。せっかくですので芝大門側に渡ってみますかね
芝大門側にある商店街の入り口。アーケードに神明の名が記されています。いまの住所表記とは異なる土地の呼び名、いいですね。
ということで
たまたま通りかかっただけですが、とても参考になり、ちょっとした街探索をさせてもらった気分です。プレートを設置してくれた住友不動産さん、ありがとうございます。
最後に
港区教育委員会さんの説明文の終わりの部分をそのまま引用させて頂きます。
『都市はある種の生物といえ、常に成長と変化を繰り返していますが、こうしたモニュメントが、この成長と変化が正しく記録されている証として、永く人々の脳裏の一隅に留められれば大きな喜びといえましょう。』
■訪問:住友浜松町ビル
(芝神明町町屋跡遺跡)
[東京都港区浜松町]1丁目18-16
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/3/20
・住友不動産説明板
(文:港区教育委員会)
お城巡りランキング
2022年03月19日
街のなかの石垣石(芝公園)お台場の石垣石 第5台場のなごり
港区の芝公園付近を散策中に、こんな光景と出会いました
どこかの石垣の石か?
説明板のタイトルで、これが黒船来航時に江戸幕府が築いた砲台(いわゆるお台場)の石だとすぐに分かりました。詳細については、港区教育委員会さんの丁寧な説明を以下に転記させて頂きます。
『お台場の石垣石
お台場(内海御台場)は、嘉永六年(一八五三)黒船来航により、幕府が急きょ築造した海上砲台です。未完を含め七基の台場のうち、国の史跡指定を受けた、第三と第六の二基を残して、その他は解体、埋め立てられました。
この石は、その時、第五台場(現・港南五丁目)から移されたといわれています。
伊豆周辺から運ばれた安山岩で側面には、約100年の間、波に洗われた跡をとどめています。
-文化財を大切にしましょう-』
お台場というと今ではすっかりレジャースポットとして有名ですが、もともとは砲台を設けた場所。ペリー来航後、再び来るであろう黒船を迎え撃つため、台場を築いて防衛拠点となりました。今でも砲台跡が残されていますが、それらは大半が解体された残りということですね。そして解体された第5台場の石垣の石が、こうして展示されている。
結果的には、お台場から黒船への砲撃はありませんでしたが、その当時として一大事であったことは伝わってきますね。
歴史を刻んだ石垣石。説明文を引用させて頂くと約百年のあいだ波に洗われた跡をとどめる石
第5台場のなごりです
ところで
なんでここなのか?ちょっと分かりませんでした。
場所は芝公園に隣接する港区立みなと図書館の道路沿いです。当ブログがきっかけで、足を止める人がいたら嬉しいです。
■訪問:みなと図書館
(お台場の石垣石)
[東京都港区芝公園]3丁目2-25
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/3/19
・現地説明板
(港区教育委員会)
お城巡りランキング
どこかの石垣の石か?
説明板のタイトルで、これが黒船来航時に江戸幕府が築いた砲台(いわゆるお台場)の石だとすぐに分かりました。詳細については、港区教育委員会さんの丁寧な説明を以下に転記させて頂きます。
『お台場の石垣石
お台場(内海御台場)は、嘉永六年(一八五三)黒船来航により、幕府が急きょ築造した海上砲台です。未完を含め七基の台場のうち、国の史跡指定を受けた、第三と第六の二基を残して、その他は解体、埋め立てられました。
この石は、その時、第五台場(現・港南五丁目)から移されたといわれています。
伊豆周辺から運ばれた安山岩で側面には、約100年の間、波に洗われた跡をとどめています。
-文化財を大切にしましょう-』
お台場というと今ではすっかりレジャースポットとして有名ですが、もともとは砲台を設けた場所。ペリー来航後、再び来るであろう黒船を迎え撃つため、台場を築いて防衛拠点となりました。今でも砲台跡が残されていますが、それらは大半が解体された残りということですね。そして解体された第5台場の石垣の石が、こうして展示されている。
結果的には、お台場から黒船への砲撃はありませんでしたが、その当時として一大事であったことは伝わってきますね。
歴史を刻んだ石垣石。説明文を引用させて頂くと約百年のあいだ波に洗われた跡をとどめる石
第5台場のなごりです
ところで
なんでここなのか?ちょっと分かりませんでした。
場所は芝公園に隣接する港区立みなと図書館の道路沿いです。当ブログがきっかけで、足を止める人がいたら嬉しいです。
■訪問:みなと図書館
(お台場の石垣石)
[東京都港区芝公園]3丁目2-25
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/3/19
・現地説明板
(港区教育委員会)
お城巡りランキング
2022年03月16日
街なかの石垣石(浜松町)赤穂藩森家上屋敷跡
今回は港区浜松町のビルの谷間で味わえる石垣石の話です。
<石垣石>
こちらです
<プラザ神明>
場所は浜松町1丁目のプラザ神明。敷地の南側の路地沿いに、この地で出土した石が並んでいます。
<説明板>
石だけだと素通りしてしまいそうですが、ちゃんと説明板が設置され、港区教育委員会さんによる詳細説明が記されています。
少し抜粋させて頂きます
『プラザ神明のあるこの地は江戸時代、播磨国(現・兵庫県)赤穂藩森家の上屋敷でした。
北隣には旗本屋敷が構えられていましたが、赤穂藩はこの隣地との堺に構築した境堀の護岸として石垣を設けました。また、江戸湾側にも石垣を組み、護岸としました。』
ここは赤穂藩主の屋敷だったわけですね。赤穂藩といえば、思い浮かぶのは浅野家。ただ、赤穂をもっとも長く治めたのは森家なのです。浅野家が当主の刃傷事件で改易となったあと、赤穂は幕領を経たのち永井家が藩主として入り、続いて森家が治めることとなりました。
森家は遡れば織田信長家臣の森可成(蘭丸のお父さんですね)にたどりつく家柄です。18万石を領した時期もありました。一度改易となっており、赤穂藩での石高は2万石だったそうです。約165年間、明治の廃藩置県まで、赤穂藩主は森家代々が務めています。
そのなごりということですね。説明文からまた抜粋させて頂くと『石垣に用いられた石材の大半は安山岩で、積み直しが確認された所もありましたが、江戸時代前半の構築当初の姿をよく留めています。ここに用いられている石垣石は、主に堺堀に使われていたものです。』とのこと。
<説明板の地図>
赤字で赤穂藩森家上屋敷跡と記されいます。古地図の文字だと森山城守。官位からして12代藩主の森忠興ですかね(?)。北側が旗本屋敷で、その境に堀が設けられ、護岸として石垣が組まれた。分かりやすい説明板で助かります。
<プラザ神明の北側>
地図から推定するとここが旗本屋敷との境でしょうか?堀が埋められ暗渠となった?
自転車置場や車止めの雰囲気がいかにも暗渠らしいのですが、ちょっと違うようです。
ということで
赤穂藩森家上屋敷跡を訪ねて、出土した石垣石を見たというシンプルな訪問記でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。
<石垣石>
展示物ではなくいまも現役の石垣石です
■訪問
赤穂藩森家上屋敷跡
(出土の石垣石)
[東京都港区浜松町]1丁目
■参考及び抜粋
・Wikipedia:2022/3/16
・現地説明板
(港区教育委員会)
お城巡りランキング
<石垣石>
こちらです
<プラザ神明>
場所は浜松町1丁目のプラザ神明。敷地の南側の路地沿いに、この地で出土した石が並んでいます。
<説明板>
石だけだと素通りしてしまいそうですが、ちゃんと説明板が設置され、港区教育委員会さんによる詳細説明が記されています。
少し抜粋させて頂きます
『プラザ神明のあるこの地は江戸時代、播磨国(現・兵庫県)赤穂藩森家の上屋敷でした。
北隣には旗本屋敷が構えられていましたが、赤穂藩はこの隣地との堺に構築した境堀の護岸として石垣を設けました。また、江戸湾側にも石垣を組み、護岸としました。』
ここは赤穂藩主の屋敷だったわけですね。赤穂藩といえば、思い浮かぶのは浅野家。ただ、赤穂をもっとも長く治めたのは森家なのです。浅野家が当主の刃傷事件で改易となったあと、赤穂は幕領を経たのち永井家が藩主として入り、続いて森家が治めることとなりました。
森家は遡れば織田信長家臣の森可成(蘭丸のお父さんですね)にたどりつく家柄です。18万石を領した時期もありました。一度改易となっており、赤穂藩での石高は2万石だったそうです。約165年間、明治の廃藩置県まで、赤穂藩主は森家代々が務めています。
そのなごりということですね。説明文からまた抜粋させて頂くと『石垣に用いられた石材の大半は安山岩で、積み直しが確認された所もありましたが、江戸時代前半の構築当初の姿をよく留めています。ここに用いられている石垣石は、主に堺堀に使われていたものです。』とのこと。
<説明板の地図>
赤字で赤穂藩森家上屋敷跡と記されいます。古地図の文字だと森山城守。官位からして12代藩主の森忠興ですかね(?)。北側が旗本屋敷で、その境に堀が設けられ、護岸として石垣が組まれた。分かりやすい説明板で助かります。
<プラザ神明の北側>
地図から推定するとここが旗本屋敷との境でしょうか?堀が埋められ暗渠となった?
自転車置場や車止めの雰囲気がいかにも暗渠らしいのですが、ちょっと違うようです。
ということで
赤穂藩森家上屋敷跡を訪ねて、出土した石垣石を見たというシンプルな訪問記でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。
<石垣石>
展示物ではなくいまも現役の石垣石です
■訪問
赤穂藩森家上屋敷跡
(出土の石垣石)
[東京都港区浜松町]1丁目
■参考及び抜粋
・Wikipedia:2022/3/16
・現地説明板
(港区教育委員会)
お城巡りランキング
2022年03月14日
内匠頭御預かりの田村家のルーツ(田村右京太夫屋敷跡)
<旧田村右京太夫屋敷跡>
以下に抜粋します
『舊・田村右京太夫屋敷跡にして元禄十四年(辛巳3月14日)に淺野内匠頭の自刃せし所なり』とのこと。続いて淺野内匠頭の辞世の句です。『風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を 如何にとやせむ』
田村新交町会さん、ありがとうございます。元禄十四年は西暦1701年。この当時の将軍は第5代の徳川綱吉でした。
日比谷通り沿いのこの場所は、江戸城内で刃傷沙汰を起こした赤穂藩主・浅野長矩の身柄を預かった一関藩主・田村建顕の屋敷跡です。将軍綱吉の裁断により、浅野長矩は即日切腹。一関藩田村家上屋敷が、そのまま浅野内匠頭長矩終焉の地となりました。
<浅野内匠頭終焉之地>たくみのかみ
<命日>
[撮影:2022年3月14日]
やむを得ない事情とはいえ、他藩の藩主の身柄を急遽預かった上に、その日のうちに切腹の段取りまでせねばならなかった田村家。その対応については諸説あるようですが、想定していない役割をまっとうせねばならず、混乱の一日だったと思われます。
この大役を任された田村家
そのルーツは、三春城を居城とし、伊達家と深い関りのあった戦国武将の田村家にあります。
<参考画像:三春城>
[福島県田村郡三春町]
三春田村家は、あの坂上田村麻呂の末裔ともいわれています。強豪揃いの周辺と比較して、決して大きな勢力とは言えませんでしたが、伊達家との繋がりで一定の地位を保っていました。しかし秀吉の奥州仕置により領地は没収。ここで一旦はお家断絶となりました。
初代仙台藩主である伊達政宗の正室・愛姫は、三春城の田村家の出です。愛姫は実家の断絶を嘆き、田村家再興を願ったままこの世を去りました。息子であり、仙台藩の第2代藩主となった伊達忠宗の時代に、孫の宗良(忠宗の三男)が仙台藩62万石のうち3万石を分知されて田村宗良を名乗り、田村家は再興されました(この時は岩沼藩)。後に一関に移り、初代一関藩主となったのが、官位から右京太夫と呼ばれる田村建顕(たつあき)でした。伊達政宗と愛姫のひ孫ですね。
藩主といっても、仙台藩のいわば子分のような小藩であり、更に外様大名という立場です。しかし学問に秀でていた田村建顕は将軍家に重用され、要職に就いていました。
松之大廊下での事件があった当日、いろんな偶然や事情があったにせよ、田村家は幕府から一定の信頼を得ているからこそ、浅野内匠頭の預りを命じられたのでしょう。厄介な話だから外様に振られたのかとも思いましたが、信頼を得ていたと受け止めておきます。
<令和4年3月14日>
今年も春の花が咲き誇っていました
ということで
浅野内匠頭終焉の地となった田村右京太夫屋敷跡と一関藩田村家のルーツのお話でした。
最後に
参考にしたWikiさんから抜粋させて頂くと『田村邸から50mほど離れた別の場所に長矩をしのぶ記念碑が再建』とあります。古地図を参考に現地を歩きましたが、正確な場所の特定はできませんでした。ただ、だいたいこのあたりというのはあっているようなので、納得することにしました。
■訪問:
田村右京太夫屋敷跡
(浅野内匠頭終焉之地碑)
[港区新橋]4丁目
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/3/14
・説明板(田村新交町会)
お城巡りランキング
--------追 記--------
当ブログでは浅野内匠頭終焉之地碑について別途投稿しております。良かったら覗いてみて下さい。
■投稿:2019年03月10日
■タイトル:風さそふ
浅野内匠頭終焉の地
『→記事へすすむ』
--------追々記--------
本文では正確な場所の特定はできなかったとしましたが、こちらのお店は屋敷跡の一部で営業をしています。
<新正堂>
切腹最中で有名な新正堂さんです。お店につきましては前回の投稿で多少ご紹介させて頂いたので、今回は店舗の裏手の有難い場所をご紹介させて頂きます。
<田村銀杏稲荷>たむらいちょういなり
ビルに内包されている田村銀杏稲荷
浅野内匠頭が切腹した田村家上屋敷の庭には大銀杏がありました。しかし関東大震災で焼けてしまい、残った切り株の上にお稲荷さんが祀られたそうです。その稲荷神社も姿を消しましたが、新正堂さんが自費で再建したそうです。
人が意識して残した田村家上屋敷のなごりですね
以下に抜粋します
『舊・田村右京太夫屋敷跡にして元禄十四年(辛巳3月14日)に淺野内匠頭の自刃せし所なり』とのこと。続いて淺野内匠頭の辞世の句です。『風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を 如何にとやせむ』
田村新交町会さん、ありがとうございます。元禄十四年は西暦1701年。この当時の将軍は第5代の徳川綱吉でした。
日比谷通り沿いのこの場所は、江戸城内で刃傷沙汰を起こした赤穂藩主・浅野長矩の身柄を預かった一関藩主・田村建顕の屋敷跡です。将軍綱吉の裁断により、浅野長矩は即日切腹。一関藩田村家上屋敷が、そのまま浅野内匠頭長矩終焉の地となりました。
<浅野内匠頭終焉之地>たくみのかみ
<命日>
[撮影:2022年3月14日]
やむを得ない事情とはいえ、他藩の藩主の身柄を急遽預かった上に、その日のうちに切腹の段取りまでせねばならなかった田村家。その対応については諸説あるようですが、想定していない役割をまっとうせねばならず、混乱の一日だったと思われます。
この大役を任された田村家
そのルーツは、三春城を居城とし、伊達家と深い関りのあった戦国武将の田村家にあります。
<参考画像:三春城>
[福島県田村郡三春町]
三春田村家は、あの坂上田村麻呂の末裔ともいわれています。強豪揃いの周辺と比較して、決して大きな勢力とは言えませんでしたが、伊達家との繋がりで一定の地位を保っていました。しかし秀吉の奥州仕置により領地は没収。ここで一旦はお家断絶となりました。
初代仙台藩主である伊達政宗の正室・愛姫は、三春城の田村家の出です。愛姫は実家の断絶を嘆き、田村家再興を願ったままこの世を去りました。息子であり、仙台藩の第2代藩主となった伊達忠宗の時代に、孫の宗良(忠宗の三男)が仙台藩62万石のうち3万石を分知されて田村宗良を名乗り、田村家は再興されました(この時は岩沼藩)。後に一関に移り、初代一関藩主となったのが、官位から右京太夫と呼ばれる田村建顕(たつあき)でした。伊達政宗と愛姫のひ孫ですね。
藩主といっても、仙台藩のいわば子分のような小藩であり、更に外様大名という立場です。しかし学問に秀でていた田村建顕は将軍家に重用され、要職に就いていました。
松之大廊下での事件があった当日、いろんな偶然や事情があったにせよ、田村家は幕府から一定の信頼を得ているからこそ、浅野内匠頭の預りを命じられたのでしょう。厄介な話だから外様に振られたのかとも思いましたが、信頼を得ていたと受け止めておきます。
<令和4年3月14日>
今年も春の花が咲き誇っていました
ということで
浅野内匠頭終焉の地となった田村右京太夫屋敷跡と一関藩田村家のルーツのお話でした。
最後に
参考にしたWikiさんから抜粋させて頂くと『田村邸から50mほど離れた別の場所に長矩をしのぶ記念碑が再建』とあります。古地図を参考に現地を歩きましたが、正確な場所の特定はできませんでした。ただ、だいたいこのあたりというのはあっているようなので、納得することにしました。
■訪問:
田村右京太夫屋敷跡
(浅野内匠頭終焉之地碑)
[港区新橋]4丁目
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/3/14
・説明板(田村新交町会)
お城巡りランキング
--------追 記--------
当ブログでは浅野内匠頭終焉之地碑について別途投稿しております。良かったら覗いてみて下さい。
■投稿:2019年03月10日
■タイトル:風さそふ
浅野内匠頭終焉の地
『→記事へすすむ』
--------追々記--------
本文では正確な場所の特定はできなかったとしましたが、こちらのお店は屋敷跡の一部で営業をしています。
<新正堂>
切腹最中で有名な新正堂さんです。お店につきましては前回の投稿で多少ご紹介させて頂いたので、今回は店舗の裏手の有難い場所をご紹介させて頂きます。
<田村銀杏稲荷>たむらいちょういなり
ビルに内包されている田村銀杏稲荷
浅野内匠頭が切腹した田村家上屋敷の庭には大銀杏がありました。しかし関東大震災で焼けてしまい、残った切り株の上にお稲荷さんが祀られたそうです。その稲荷神社も姿を消しましたが、新正堂さんが自費で再建したそうです。
人が意識して残した田村家上屋敷のなごりですね
2022年03月12日
三春城のなごり
つわものどもが夢の跡
今回は福島県田村郡三春町の山城の話です。
<三春城>
比高の約百メートルの山に築かれた山城です
■田村氏の居城■
三春城はいつ築かれたのか?正確にはわかっていません。16世紀初頭に戦国大名である田村義顕が城を構えたことに始まる。この説が一般的です。義顕は田村氏の23代当主。ごく普通の国人領主だった田村氏を大名にまで押し上げ、居城も現在の郡山市から今回訪問の三春町へ移しました。
<山頂>
三春城はまず中世の土の城から始まり、のちに近世城郭に発展した城です
陸奥国の田村郡を支配していた田村氏。全国的にはあまり知られていませんが、あの坂上田村麻呂の末裔ともいわれています。義顕が三春に拠点を移す前の田村氏の居城(守山城)は、田村麻呂が征夷の際に築いたことに始まるとされています。
■田村氏と伊達氏■
戦国大名の仲間入りをした田村氏ですが、周辺には相馬氏や蘆名氏、佐竹氏といった手ごわい相手が勢ぞろいしています。苦しい駆け引きや攻防戦の全てをご紹介はできませんが、伊達氏との繋がりにより、田村氏は一定の地位を維持することに成功しています。24代当主・田村隆顕の側室は伊達稙宗の娘、25代当主・清顕の娘・愛姫は伊達政宗の正室です。ただ、当時の伊達氏はまだまだ不安定な発展途上の段階でしたので、田村氏も決して安泰というわけにはいきませんでした。
<東館跡>ひがしだて
こちらは先ほどの山頂とは別の峰の東館跡。現地説明板だと三ノ丸という位置づけになってはいますが、本体との往来が容易ではなく、出丸としては位置が不自然。個人的には、もともとは城本体とは別の何らかの施設だったと受け止めています。ちなみに、田村氏を訪ねて三春城に入城した伊達政宗は、滞在期間中ここに何度も足を運んだとのこと。伊達家から田村家に嫁いだ政宗の大叔母がここで暮らしていたそうです。
■奥州仕置■
1590年の秀吉による小田原征伐の際に、伊達政宗が遅れて参陣したことは有名ですね。その政宗に従っていた26代当主・田村宗顕(むねあき)は、参陣しなかったことを秀吉に咎められて所領没収となりました。
宗顕は家督相続問題で家中が混乱に陥った際に、伊達政宗の力で当主となった人物。当初は顕季を名乗っていましたが、政宗から「宗」の偏諱を与えられ宗顕と名乗りました。没収された田村領は政宗のものとなりましたが、宗顕は支援を辞退して三春城を去りました。一説によれば、名を定顕と改め、政宗家臣の片倉氏のもとで隠棲したとのこと。子らは片倉氏を称し、子孫は片倉氏として現在に至るそうです。
<搦手門跡>
本丸の北側の搦手門跡
■秋田氏の城■
田村氏以後、三春の支配者は伊達・蒲生・上杉等めまぐるしく変わりました。蒲生氏に代わって会津に加藤嘉明が入ると、三春城には三男の加藤明利が入り、翌年にはその孫にあたる松下長綱が二本松城から入ります(1628年)。城はこの時に大改修がなされ、近世らしい城郭へ生まれ変わりました。
<堀切>
山頂から西北に伸びる尾根を削った堀切。右手は近世城郭時代の二ノ丸
松下氏が改易となった翌年(1645年)、常陸国宍戸から秋田俊季が三春に入り、三春城は更に改修され、現在の縄張りとなりました。
<説明板>
山頂の説明板。不勉強なまま訪問したので大変助かりました
<説明板拡大>
主な三春城主として「田村氏・松下氏・秋田氏」の家紋が紹介されています
この説明板からそのまま抜粋させて頂くと『秋田俊季(としすえ)が5万5千石で三春に入部し、明治維新まで秋田氏11代の居城となりました。秋田氏は、現在小学校がある西の麓に御殿(居屋敷:いやしき)を建設して日常の政務や暮らしの場とし、山上の本丸御殿は儀式の時にだけ使用しました。』とのこと。三春城の基本は戦国時代の山城。高低差は攻防戦には有利ですが、何ごとないときはちょっと不便ということですね。
<三春小学校正門>
こちらは山の麓の小学校の正門。藩主はこの付近に御殿を設けて、日々の政務にあたっていたわけですね。この門は秋田氏が設けた藩校の表門が移設されたものです。
■登城記録■
<お城坂>
麓から城跡へ至る坂道です
<二之門跡>
登り始めて最初に目にする城跡らしいて光景でした
<二之門跡付近の案内板>
かつての城は姿を消していますが、土の形は残されています
<ありし日の姿>
三春城の「ありし日の姿」ですか。城としてピーク時の姿ということですね。そのなごりを感じるべく、てくてくと歩き続けました
<外周>
山頂へ向かう登山道もありますが、散策路を歩くことに
<城側から見た桜>
三春と言えば桜。三春城跡もその名所ではありますが、晩秋の訪問となりました
<山の中腹>
本丸に行くには遠回りになりますが、先ほどご紹介させて頂いた東館(三ノ丸とされる曲輪)へは近道です
<東館の丘>
散策路をそれて城の外側へ向かう小径を進むと、東館跡が見えてきます。登った先は平らに区画となっています
<南西から東へ>
東館(三ノ丸)跡付近を通過して山の東側へ
<東側の斜面>
山の東側の斜面です。視界が開けて、自分が歩いている場所と本丸がある山頂との高低差を思い知らされた瞬間でした
<階段>
斜面に階段をみつけました。ここで作戦変更です。外周歩きはこのヘンにして、直接頂上を目指すことにしました
<埋もれた石垣>
途中こんな光景と出会う
<急斜面>
登れば登るほど急斜面に
<石垣跡>
山頂の周りに石垣のなごりを発見。諸説ありますが蒲生時代のものと思われます
<休憩>
一気に登ってきたら足がもつれたのでひと休み
<本丸の下>
あの先端も何らかの役割を果たしていたのでしょう。左手の斜面のすぐ上は本丸です。ということは腰曲輪でしょうか?休んだからこそ見つけられた城のなごりです
そして山頂
<本丸跡>
石壇の上は秋田家祖先尊霊の石碑
<段差>
降った先は旧二ノ丸
<旧二ノ丸>
二ノ丸跡と記された標識がありますが、正確に言うと中世の二ノ丸です。近世城郭に生まれ変わってからは、段差こそあるものの、本丸と一体になりました。かつて城のシンボルだった御三階櫓が建っていた場所です
以上です
最後に
戊辰戦争について
三春藩はいわゆる奥羽列藩同盟に参加こそしましたが、これは周辺諸藩との関係を考慮したものでした。もともとの立ち位置は尊皇に近かく、新政府軍との対立も望むところではなかったようです。ただ、二本松戦争の直前に新政府軍に降伏したことから、その後の二本松藩の苦闘との対比で、どうしても裏切りのイメージがついてまわります。難しい問題なので、こんなブログでどうこう言うつもりはありませんが、小さな藩ならではの苦しい立場で、最後の最後は藩内に戦火が及ぶことを避けたという評価もあることをご紹介して終わりにしたいと思います。
<続日本100名城>
三春城の廃城は1871年(明治4年)です。中世から明治まで、深い深い歴史の刻まれた三春城は、続日本100名城に選ばれています。
--------■三春城■--------
別 名:舞鶴城
築城年:(16世紀初頭)
築城者:(田村義顕)
改修者:松下長綱 他
城 主:田村氏・松下氏
加藤氏・秋田氏
廃城年:1871年(明治4)
[福島県田村郡三春町]
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/3/12
・現地説明板
・三春町ホームページWeb資料館
(政宗の三春城入城)
https://www.town.miharu.fukushima.jp/site/rekishi/05-masamune.html
お城巡りランキング
今回は福島県田村郡三春町の山城の話です。
<三春城>
比高の約百メートルの山に築かれた山城です
■田村氏の居城■
三春城はいつ築かれたのか?正確にはわかっていません。16世紀初頭に戦国大名である田村義顕が城を構えたことに始まる。この説が一般的です。義顕は田村氏の23代当主。ごく普通の国人領主だった田村氏を大名にまで押し上げ、居城も現在の郡山市から今回訪問の三春町へ移しました。
<山頂>
三春城はまず中世の土の城から始まり、のちに近世城郭に発展した城です
陸奥国の田村郡を支配していた田村氏。全国的にはあまり知られていませんが、あの坂上田村麻呂の末裔ともいわれています。義顕が三春に拠点を移す前の田村氏の居城(守山城)は、田村麻呂が征夷の際に築いたことに始まるとされています。
■田村氏と伊達氏■
戦国大名の仲間入りをした田村氏ですが、周辺には相馬氏や蘆名氏、佐竹氏といった手ごわい相手が勢ぞろいしています。苦しい駆け引きや攻防戦の全てをご紹介はできませんが、伊達氏との繋がりにより、田村氏は一定の地位を維持することに成功しています。24代当主・田村隆顕の側室は伊達稙宗の娘、25代当主・清顕の娘・愛姫は伊達政宗の正室です。ただ、当時の伊達氏はまだまだ不安定な発展途上の段階でしたので、田村氏も決して安泰というわけにはいきませんでした。
<東館跡>ひがしだて
こちらは先ほどの山頂とは別の峰の東館跡。現地説明板だと三ノ丸という位置づけになってはいますが、本体との往来が容易ではなく、出丸としては位置が不自然。個人的には、もともとは城本体とは別の何らかの施設だったと受け止めています。ちなみに、田村氏を訪ねて三春城に入城した伊達政宗は、滞在期間中ここに何度も足を運んだとのこと。伊達家から田村家に嫁いだ政宗の大叔母がここで暮らしていたそうです。
■奥州仕置■
1590年の秀吉による小田原征伐の際に、伊達政宗が遅れて参陣したことは有名ですね。その政宗に従っていた26代当主・田村宗顕(むねあき)は、参陣しなかったことを秀吉に咎められて所領没収となりました。
宗顕は家督相続問題で家中が混乱に陥った際に、伊達政宗の力で当主となった人物。当初は顕季を名乗っていましたが、政宗から「宗」の偏諱を与えられ宗顕と名乗りました。没収された田村領は政宗のものとなりましたが、宗顕は支援を辞退して三春城を去りました。一説によれば、名を定顕と改め、政宗家臣の片倉氏のもとで隠棲したとのこと。子らは片倉氏を称し、子孫は片倉氏として現在に至るそうです。
<搦手門跡>
本丸の北側の搦手門跡
■秋田氏の城■
田村氏以後、三春の支配者は伊達・蒲生・上杉等めまぐるしく変わりました。蒲生氏に代わって会津に加藤嘉明が入ると、三春城には三男の加藤明利が入り、翌年にはその孫にあたる松下長綱が二本松城から入ります(1628年)。城はこの時に大改修がなされ、近世らしい城郭へ生まれ変わりました。
<堀切>
山頂から西北に伸びる尾根を削った堀切。右手は近世城郭時代の二ノ丸
松下氏が改易となった翌年(1645年)、常陸国宍戸から秋田俊季が三春に入り、三春城は更に改修され、現在の縄張りとなりました。
<説明板>
山頂の説明板。不勉強なまま訪問したので大変助かりました
<説明板拡大>
主な三春城主として「田村氏・松下氏・秋田氏」の家紋が紹介されています
この説明板からそのまま抜粋させて頂くと『秋田俊季(としすえ)が5万5千石で三春に入部し、明治維新まで秋田氏11代の居城となりました。秋田氏は、現在小学校がある西の麓に御殿(居屋敷:いやしき)を建設して日常の政務や暮らしの場とし、山上の本丸御殿は儀式の時にだけ使用しました。』とのこと。三春城の基本は戦国時代の山城。高低差は攻防戦には有利ですが、何ごとないときはちょっと不便ということですね。
<三春小学校正門>
こちらは山の麓の小学校の正門。藩主はこの付近に御殿を設けて、日々の政務にあたっていたわけですね。この門は秋田氏が設けた藩校の表門が移設されたものです。
■登城記録■
<お城坂>
麓から城跡へ至る坂道です
<二之門跡>
登り始めて最初に目にする城跡らしいて光景でした
<二之門跡付近の案内板>
かつての城は姿を消していますが、土の形は残されています
<ありし日の姿>
三春城の「ありし日の姿」ですか。城としてピーク時の姿ということですね。そのなごりを感じるべく、てくてくと歩き続けました
<外周>
山頂へ向かう登山道もありますが、散策路を歩くことに
<城側から見た桜>
三春と言えば桜。三春城跡もその名所ではありますが、晩秋の訪問となりました
<山の中腹>
本丸に行くには遠回りになりますが、先ほどご紹介させて頂いた東館(三ノ丸とされる曲輪)へは近道です
<東館の丘>
散策路をそれて城の外側へ向かう小径を進むと、東館跡が見えてきます。登った先は平らに区画となっています
<南西から東へ>
東館(三ノ丸)跡付近を通過して山の東側へ
<東側の斜面>
山の東側の斜面です。視界が開けて、自分が歩いている場所と本丸がある山頂との高低差を思い知らされた瞬間でした
<階段>
斜面に階段をみつけました。ここで作戦変更です。外周歩きはこのヘンにして、直接頂上を目指すことにしました
<埋もれた石垣>
途中こんな光景と出会う
<急斜面>
登れば登るほど急斜面に
<石垣跡>
山頂の周りに石垣のなごりを発見。諸説ありますが蒲生時代のものと思われます
<休憩>
一気に登ってきたら足がもつれたのでひと休み
<本丸の下>
あの先端も何らかの役割を果たしていたのでしょう。左手の斜面のすぐ上は本丸です。ということは腰曲輪でしょうか?休んだからこそ見つけられた城のなごりです
そして山頂
<本丸跡>
石壇の上は秋田家祖先尊霊の石碑
<段差>
降った先は旧二ノ丸
<旧二ノ丸>
二ノ丸跡と記された標識がありますが、正確に言うと中世の二ノ丸です。近世城郭に生まれ変わってからは、段差こそあるものの、本丸と一体になりました。かつて城のシンボルだった御三階櫓が建っていた場所です
以上です
最後に
戊辰戦争について
三春藩はいわゆる奥羽列藩同盟に参加こそしましたが、これは周辺諸藩との関係を考慮したものでした。もともとの立ち位置は尊皇に近かく、新政府軍との対立も望むところではなかったようです。ただ、二本松戦争の直前に新政府軍に降伏したことから、その後の二本松藩の苦闘との対比で、どうしても裏切りのイメージがついてまわります。難しい問題なので、こんなブログでどうこう言うつもりはありませんが、小さな藩ならではの苦しい立場で、最後の最後は藩内に戦火が及ぶことを避けたという評価もあることをご紹介して終わりにしたいと思います。
<続日本100名城>
三春城の廃城は1871年(明治4年)です。中世から明治まで、深い深い歴史の刻まれた三春城は、続日本100名城に選ばれています。
--------■三春城■--------
別 名:舞鶴城
築城年:(16世紀初頭)
築城者:(田村義顕)
改修者:松下長綱 他
城 主:田村氏・松下氏
加藤氏・秋田氏
廃城年:1871年(明治4)
[福島県田村郡三春町]
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/3/12
・現地説明板
・三春町ホームページWeb資料館
(政宗の三春城入城)
https://www.town.miharu.fukushima.jp/site/rekishi/05-masamune.html
お城巡りランキング
2022年02月27日
三春城東館 一城別郭を連想させる曲輪跡
三春城は明治まで存続した城ですが、始まりは中世の山城です。現地を訪問してみて、気になった曲輪跡があったのでご紹介させて頂きます。
<三春城東館跡>ひがしだて
こちらになります
<曲輪>
この画像だとただの平らな区画ですね
多くの山城は山頂に本丸を築き、斜面の適所に曲輪を配置します。それは三春城も同じで、本丸・二ノ丸を山頂に設け、周辺に帯曲輪や腰曲輪など小規模な区画を配置して守りを固めています。ただ、この東館だけは異質です。配置された場所といい曲輪の高さといい、変則的な感じがします。
<三春城の案内板>
<三春城跡概略図>拡大
東館は本体のある山の東南(地図右下)に位置する別の峰
<東館へつながる道>
構造的に明らかに独立しています
<曲輪と虎口>
三春城は16世紀初頭に戦国大名の田村氏が城を構えたことに始まるという説が一般的ですが、実はそれ以前から何らかの砦として使用されていたとする説もあります。東館は近世城郭の主要な曲輪と比較すると広いとは言えませんが、戦闘の時にのみ立て籠る中世の山城の曲輪としては、充分な広さです。山城の初期段階においては、主郭と同等の役割を果たす郭が、お隣の山頂に築かれていたなんてことは考えにくいですかね?つまり一城別郭の構造だったとか…?
まぁこれは現地でそんな気がしたというだけで、文献で確認できたわけではありません。素人会社員が縄張り図を見ながら妄想した内容に過ぎませんので、その点はご理解をお願い致します。
ただ、当初は小勢力に過ぎなかった中世豪族の山城の地形を、似たような視点で眺める方と共有できれば幸いです。
■訪問:三春城
[福島県三春町字大町]
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/2/27
・現地説明板
お城巡りランキング
<三春城東館跡>ひがしだて
こちらになります
<曲輪>
この画像だとただの平らな区画ですね
多くの山城は山頂に本丸を築き、斜面の適所に曲輪を配置します。それは三春城も同じで、本丸・二ノ丸を山頂に設け、周辺に帯曲輪や腰曲輪など小規模な区画を配置して守りを固めています。ただ、この東館だけは異質です。配置された場所といい曲輪の高さといい、変則的な感じがします。
<三春城の案内板>
<三春城跡概略図>拡大
東館は本体のある山の東南(地図右下)に位置する別の峰
<東館へつながる道>
構造的に明らかに独立しています
<曲輪と虎口>
三春城は16世紀初頭に戦国大名の田村氏が城を構えたことに始まるという説が一般的ですが、実はそれ以前から何らかの砦として使用されていたとする説もあります。東館は近世城郭の主要な曲輪と比較すると広いとは言えませんが、戦闘の時にのみ立て籠る中世の山城の曲輪としては、充分な広さです。山城の初期段階においては、主郭と同等の役割を果たす郭が、お隣の山頂に築かれていたなんてことは考えにくいですかね?つまり一城別郭の構造だったとか…?
まぁこれは現地でそんな気がしたというだけで、文献で確認できたわけではありません。素人会社員が縄張り図を見ながら妄想した内容に過ぎませんので、その点はご理解をお願い致します。
ただ、当初は小勢力に過ぎなかった中世豪族の山城の地形を、似たような視点で眺める方と共有できれば幸いです。
■訪問:三春城
[福島県三春町字大町]
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/2/27
・現地説明板
お城巡りランキング