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2022年06月12日

村境の道切り(川越市笠幡)芳地戸のふせぎ

はやり病や悪霊などの侵入を防ぐために、村堺に縄を張ったり札を掲げたりする「道切り」という習慣。かつては日本各地で行われていましたが、いまではあまり見かけません。

今回はこの古き習慣が受け継がれている川越市笠幡を訪問しました。

<笠幡の道切り>
Village-border-Michikiri.JPG
水路沿いの道に設置された道切りの札。辻切りなどとも呼ばれますが、ここでは「ふせぎ」と呼ばれています。「防ぎ」ということですね。

<ふせぎの札>
Hōjidonofusegi-tsujifuda.JPG
村を守っているふせぎの札。ここがかつての村堺なのでしょう。いわば結界の類をはって、内と外を遮断するわけですね。

道切り(ふせぎ)の方法は地方によって異なり、注連縄を貼ったり草鞋をぶらさげたり、いろいろです。ここ笠幡では札(辻札)を掲げるわけですね。割った篠竹に御札を差し込み、ひもで縛りあげてあります。先端には藁を束ねて造った独特の飾り(と表現して失礼でしたらスミマセン)が備え付けられています。

別な場所も見てみますかね

<辻札>
Hōjido-no-fusegi-tsujifuda.JPG
ここは坂道の下に位置しています

Hōjidonofusegi-Village-border.JPG
言い換えると丘の麓。いかにも村の境という感じがします。丘の上に、ふせぎ行事が行われる神社があるということで、てくてくと登ることにしました。

<さざんか通り>
Hōjidonofusegi-sazanka-street.JPG
台地の隅であることを実感する坂道

<丘の上の神社>
Hōjidonofusegi-Shrine-on-hill.JPG
坂を登りきると鳥居が見えてきました。尾崎神社です。東征途上のヤマトタケルが、台地の先っぽで見晴らしの良いこの場所を「尾崎の宮」と称えて神を祀ったと伝えられています。

<尾崎神社参道>おさきじんじゃ
Hōjidonofusegi-Osaki-jinja.JPG
両脇に木々が生い茂る長い参道。鎮守の森といった感じでしょうか

<拝殿>
kawagoe-Osaki-jinja-Haiden.JPG

<本殿>
Osaki-Main-shrine.JPG

<境内>
Osaki-shrine-Woods.JPG
立派な神社です。全てご紹介できませんが、雰囲気は伝わるかと思います。ここでふせぎの行事が行われるわけですね

<説明板>
Explanation-board-Hōjidonofusegi.JPG
『芳地戸のふせぎ』と題して詳細が記されています。冒頭をそのまま転記させて頂くと『悪魔払いの神事である「ふせぎ」を笠幡の芳地戸では毎年春の彼岸の中日に行っている』とのこと。ふせぎは悪魔払いの神事、そしてこれを春分の日に毎年行っているようです。芳地戸は「ほうじど」と読みます。ふせぎ行事は昔ながらの方法で執り行われ『神社でふせぎの祈禱を行なったあと、芳地戸の全部の家を廻る』とのこと。辻札については『村境にたてる辻札八組と尾崎神社の幟一本』とありますので、計9本ということですね。

<村境>
Village-border-Symbol.JPG

いまからおよそ3百年前、疫病が蔓延したことがあったそうです。そんな災いが芳地戸地区に入るのをふせぐために、ふせぎ行事が始まったそうです。こういった習慣には、はやり病に日本人がどう向き合ってきたが垣間見える気がします。それがいまでも伝承されいる。つまり日本人らしさが伝承されている。素敵なことですね。そして、現代人がそこから学ぶべきことがあるような気がします。

ということで
川越市笠幡の道切り行事のお話でした。芳地戸のふせぎは市の無形民俗文化財に指定されています。

■訪問:尾崎神社
(芳地戸のふせぎ)
[川越市笠幡]1280

■参考
Wikipedia:2022/6/12
現地説明板(川越市教育委員会)
猫の足あと
・尾崎神社の概要

https://tesshow.jp/saitama/kawagoe/shrine_kasa_ozaki.html


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タグ:道切り

2022年06月09日

的場という地名(川越市)

<的場>まとば
matoma-Staion.JPG
埼玉県川越市の的場駅で撮影しました

的場といえば、弓や鉄砲を練習する所。的を狙って矢を射る、あるいは鉄砲を撃つところですね。そんな地名が残るのですから、そこにかつて「的場があった」と思うのが自然ですね。

では誰の為の的場なのか?

ここ川越市の的場は、小田原北条氏の家臣・大道寺政繁と関係があると言われています。大道寺政繁は北条氏康・氏政・氏直の三代に仕えた重臣です。政繁がここからそう遠くない上戸の城にある時、的場を設けたと伝わります。

<常楽寺>じょうらくじ
Kawagoes-yakata-ato-temple.JPG
こちらは川越市上戸の常楽寺です。かつての城跡の一角に位置するこの寺院には、大道寺政繁の供養塔があります。小田原北条氏が豊臣軍との戦いに敗れたあと、政繁はこの地で自害しました。

現在の川越市的場は範囲が広く、具体的にどこが「的場」だったかはわかりません。ただ、川越を任されていた大道寺政繁は、戦での活躍だけでなく、城下の整備にも力を入れていた武将だったので、的場を整備したという話もごくごく自然な感じがします。

<霞ヶ関駅>
kasumigaseki-Staion.JPG
こちらは常楽寺(城跡)の最寄り駅の霞ヶ関駅。直線距離なら1キロ未満です。ちなみに、開業した時(1916年)の駅名は的場駅で、のちに(1930年)霞ヶ関駅に改称されました。冒頭のJR川越線・的場駅の周辺も、ここ東武東上線・霞ヶ関駅周辺も的場なのです。弓や鉄砲の修練場跡は、どっちの駅が最寄り駅なのでしょうね。

ということで
川越の的場のご紹介でした。

■訪問地:川越市的場

■参考
Wikipedia:2022/6/9
猫の足あと
(的場八幡神社の由緒)

https://tesshow.jp/saitama/kawagoe/shrine_matoba_hachi.html



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2022年06月01日

ビルに囲まれた城の痕跡(溜池櫓台跡)

<溜池櫓台跡>ためいけやぐらだいあと
Tameike-yaguradai-ato.JPG
銀座線の虎ノ門駅近くを歩いていると、こんな光景と出会えます。

ここにはかつて江戸城外堀の櫓台がありました。まぁ外敵に備えての見張り台とご理解下さい。名称にある通りで「溜池」方面を見張るための施設でした。

現地説明板によれば『1636年(寛永13年)に因幡鳥取藩(現在の鳥取県)藩主池田光仲によって構築された』という記録が残っているとのこと。、岡山藩の池田家と同族という表現の方が伝わり安いですかね(ここは個人的な感覚です)

外堀の役割を果たしていた溜池も、周辺の堀も明治時代に埋められました。ビルが建ち並び、いまの街並みでは想像しにくいですが、江戸城の西側にひろがる大きな溜池全体を見張らせる櫓だったようです。

江戸城は現在の皇居周辺にしか遺構がなさそうにも思われますが、実は街のあちらこちらに痕跡が残されています。大半は失われたとしても、それらひとつひとつが城のなごり。当ブログがきっかけで、消えてなお残る城の余韻を感じてくれる人がいれば嬉しいです。

■訪問:溜池櫓台跡
[千代田区霞が関]3丁目

■参考
現地説明板


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2022年05月30日

兄に付き従う脇屋義助の像(太田市)太田駅前

(新田義貞像の追記です)
<新田兄弟の銅像>
Nitta-Yoshisada-Statue-Ota.JPG
兄である新田義貞に付き従うような姿勢の脇屋義助。通称は脇屋次郎。

<脇屋義助像>わきやよしすけ
Wakiya-Yoshisuke.JPG
兄同様に上野国新田郡(現在の群馬県太田市)の生まれです。居とした地名から名字を脇屋と称し、義貞とともに各地を転戦しました。鎌倉幕府を滅亡に追い込んだのち、新政府においては要職を任され、後醍醐天皇に対する足利尊氏の謀反にも立ち向かい、兄が戦死したのちも戦い続けました。最後は中国・四国方面の総大将となって実力を発揮しますが、伊予で病により亡くなりました。

Local-Hero-Nitta.JPG
新田氏当主の次男として生まれ、波乱の人生の末に異国で没した脇屋義助。長い旅路の始まりは、ここ群馬県太田市でした。

■訪問:
新田義貞公像・脇屋義助公像

[群馬県太田市東本町]
posted by Isuke at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

太田駅前の新田義貞像(太田市)

東武太田駅の北口を出ると新田義貞が出迎えてくれます

<新田義貞>にったよしさだ
Nitta-Yoshisada-Ota-Station.JPG
駅前ロータリーに設置されている新田義貞の銅像です。鎌倉幕府を滅亡に追い込んだことで知られる武将ですね。ここ群馬県太田市は新田義貞の故郷であり、清和源氏新田氏と深い関りのある場所です。

隣に控えているのは家臣?そうとも言えますが、義貞の弟の新田義助です。現在の太田市にも残る地名から脇屋氏を名乗りました。挙兵した兄に従い、幕府軍と戦いました。

太田市は新田荘があった場所(旧新田町)。源義家の孫にあたる義重が、浅間山噴火の影響で荒廃していた土地に荘園を開墾し、本拠としました。新田氏の祖となった義重は、足利氏の祖となった義康の異母兄でもあります。

新田義貞は7代当主・朝氏の嫡男として生まれました。その頃になると、足利氏に差をつけられていた新田氏ですが、8代当主・義貞が鎌倉幕府討滅の中心人物となったことで、後世に長く語り継がれることとなります。


Nitta-Yoshisada-Statue-Ota.JPG
当初は別な場所に設置されていましたが、2009年に駅前に移されました。後ろに見えているSUBSRUとともに太田市の顔を言えますね

ということで
太田駅前の銅像と、太田市民、いや、群馬県民にとっては当たり前の「歴史に名高い新田義貞」のお話でした。

■訪問:新田義貞公像
(太田駅北口ロータリー)
[群馬県太田市東本町]

■参考
Wikipedia:2022/5/30
上毛かるたで群馬県ガイド

https://joumoukaruta.com/ra/rekishi.html



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posted by Isuke at 22:15| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2022年05月29日

分倍河原古戦場(府中市)

つわものどもが夢の跡
打倒鎌倉幕府のために挙兵した新田義貞が、幕府勢と激突した古戦場を訪問しました。

<分倍河原古戦場碑>ぶばいがわら
Bubaigawara-Battle-Round-Stone-Monument.JPG
新田義貞率いる軍勢と北条泰家率いる軍勢がこの地で激突しました。

■新田義貞の挙兵■
幕府の御家人であり、源氏の血をひく新田家8代目棟梁の新田義貞が、鎌倉幕府討伐のために挙兵したのが1333年(元弘3年)。上野国を出た時は150騎程度だった言われる軍は、南下するほど増え続け、利根川に至ったところで既に7千騎だったと言われています。更に足利尊氏(この時は高氏)の嫡男である義詮(この時は千寿王)が合流し、その後も続々各地の武士が集まり続けました。

<分倍河原駅前の新田義貞像>
Nitta-Yoshisada-Statue.JPG
挙兵した義貞に加勢する者は多数。後醍醐天皇の命を受けたとはいえ、鎌倉幕府に不満を持つ武士たちは多かったということですね。

■分倍河原古戦場■
実際の合戦は広範囲に及んだと思いますが、とりあえず石碑がある公園を目指しました。

<古戦場碑案内>
For-Bubaigawara-Battle-Ground.JPG
初めての訪問のためちょっと関心した瞬間です

<分倍河原古戦場>
Bubaigawara-Battle-Round-Park.JPG
橋の向こうに目的地と定めた石碑が見えてきました

<石碑と説明板>
Bubaigawara-Battle-Round-Monument.JPG
分倍河原古戦場と刻まれた石碑です。お隣に説明板が設置されています

<説明板>
Bubaigawara-Battle-Round-Explanation-Board.JPG
分倍河原古戦場は東京都指定旧跡。東京都教育委員会による説明文を以下に転記させて頂きます。

『文永(一二七四)、弘安(一二八一)の役を経験した頃、北条執権政治は根底からゆるぎなき御家人救済の方法として徳政令を発布したが、これがかえって政権破滅の速度を早めた。元弘三年(一三三三)五月、新田義貞は執権北条高時を鎌倉に攻めるため、上野、武蔵、越後の兵を率いて上野国新田庄から一路南下し、所沢地方の小手指ヶ原で北条方の副将長崎高重、桜田貞国を破り(五月十一日)、さらに、久米川の戦いで優位に立った。北条方は分倍に陣を敷き、北条泰家を総帥として新田勢を迎撃した。新田勢は敗れて所沢方面に逃れたが、この時、武蔵国分寺は新田勢のために焼失させられたという。その夜(五月十五日)、新田勢に三浦義勝をはじめ相模の豪族が多く協力し、十六日未明再び分倍の北条勢を急襲し、これを破って一路鎌倉を攻め二十二日に鎌倉幕府は滅亡した。』

 
冒頭の説明で、北条氏による執権政治は既に行き詰っていたことが分かりますね。そして新田義貞の挙兵。南下しながら北条側の諸勢力を跳ね除け、いよいよここ分倍河原で本隊と激突。新田軍は初戦で敗れますが、この理由として、義貞には執権・北条高時が弟の泰家を大将にして大軍を送り込んだという情報が入っていなかったという説があるようです。敵の兵力が想定外だったということですね。いずれにせよ、新田義貞は一旦は分倍河原から撤退します。しかし三浦氏など相模国の豪族が新田軍に協力するに至り、状況は変化。両軍は翌日に再び激突し、新田軍は大勝利をおさめました。元弘3年5月16日、西暦だと1333年6月28日の出来事でした。


Shindengawa-Bubai-Park.JPG
古戦場碑は整備された公園内に設置されています


一度は勝利しながら翌日に大敗した幕府軍の総大将・北条泰家。最初の激突の時に、ギリギリの状態で逃げていく新田義貞に追い撃ちをかければ仕留められたという説が有力です。負けてこの地から脱出となりますが、どのような思いで鎌倉へ戻ったのでしょう。

一方で、勝っただけでなく、相模国の豪族すら味方となった新田義貞は、前途に何を思ったことでしょう。この地で勝利したことで、新田軍には関東各地から更に援軍が加わり続けました。南へ向かって進軍すればするほど、義貞が率いる軍勢の士気は高まっていったに違いありません。

<つわものどもが夢の跡>
Bubaigawara-Kosejo.JPG
その後の戦局を決定的にした合戦があった場所です

■訪問:分倍河原古戦場碑
( 新田川分梅公園 )
[東京都府中市分梅町]2丁目

■参考
現地説明文(東京都教育委員会)
Wikipedia:2022/5/29



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2022年05月28日

分梅の地名碑(府中市)分倍・分陪・分配・分梅

府中市の分倍河原駅は以前から知っていましたが、分梅という地名があることを初めて知りました。

<分梅碑>
Monument-Bubai.JPG
府中市分梅町に設置されている地名碑です。遠くからでも目立つかなり立派なものです

<説明文>
Monument-Explanatory- Text-Bubai.JPG
分梅に関する長い説明文が刻まれています。以下に転記しますが、一部読み取れなかった点はご容赦下さい。

『分梅(ぶばい)は現在の分梅町・・・の一部(鎌倉街道=分梅通り沿い)に集落の中心があった村落です。この集落は本町に属しており、「新・・・風土記稿」(幕末の地誌)には「本町」の小名としてその名が見えます。分梅はもとハケ上の上分梅(八雲神社辺り)に集落の中心がありましたが、多摩川の流れが南に移ったあと分梅河原に進出したといわれています。古くは「分倍(陪)」や「分配」の字があてられ「ぶんばい」と呼ばれていたこともあります。近世以降には「分梅」が多用されています。
地名の起こりは不明ですが、この地がしばしば多摩川の氾濫や土壌の関係から収穫が少ないために口分田を倍に給した所であったという説もあります。』

注〕・・・は読めずに省略

ハケは地形を表す言葉で、低地に面した台地や崖状の場所のことですね。分梅の集落の中心はもともと台地上にあったが、多摩川の流路が南に移ったことで、低いところにも広がっていったと理解しました。むかしの多摩川は、この付近にまで迫っていたことが伝わってきます。そして、それが分倍河原の「河原」の由来なのでしょう(想像です)。

さて、古くは「ぶんばい」と呼ばれ、これが口分田を倍に給したことに由来するという説はとても興味深いですね。口分田とは民に支給された農地のこと。川や土壌の具合を考慮して、一般的な基準の倍の広さの土地を支給した。その状況に漢字をあてはめると分倍・分陪・分配。納得です。

ただ、これもひとつの説に過ぎず、地名の起こりはあくまで不明。やがて分梅となった理由もわかりませんでした。

これ以上深く考えるより、むかしは呼び名にどの漢字をあてはめるかが今ほど厳格ではなく、比較的流動的だったと受け止めることにしました。

<分倍河原駅前>
Nitta-Yoshisada-Statue-Fuchu-City.JPG
ここは新田義貞ゆかりの地です。

分梅という漢字を目にして、新田義貞と梅にまつわる風流な言い伝えでもあるかと思って調べたが、あまり関係がなかった。そういうお話でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。

<分倍河原古戦場へ>
For-Bubaigawara-Battle-Ground.JPG
いろいろと寄り道をしながら、この日の目的地へ向かいました

■訪問:分梅碑
( 分梅の地名碑 )
[府中市分梅町]2丁目25-6


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2022年05月26日

新田義貞の軍勢が通った坂道(府中市)旧鎌倉街道の光明院坂

府中市の古戦場を訪問した際に、こんな坂道と出会いました。

<光明院坂>こうみょういんざか
fuchu-koumyouinzaka.JPG
ごく普通の坂道です。しかし現地に設置されている標識に足が止まりました。

<光明院坂標識>
Sign-koumyouinzaka.JPG
なにか書いてあるな

小さいながらしっかりとした標識です。これが無ければ、素通りしていたと思います。以下に抜粋させて頂きます。

『この坂道は,普通分梅道あるいは鎌倉街道と呼ばれる古街道です。
沿道には浅間神社,八雲神社,光明院といった由緒ある古社寺が点在しています。坂の名も真言宗光明院に由来します。別名を「根っ子坂」ともいわれますが,これは以前道が荒れていたころ,道の両側に木の根がわだかまっていたことによると言われます。
この坂下に広がる平地一帯は,元弘三年(一三三三)五月に新田義貞と北条泰家が合戦した分倍河原の古戦場として有名です。
昭和六十年三月 府中市』


その古戦場へ向かう途中だったので、ちょっと感動しました。よく読み返せば、どこにも『新田義貞が通った坂』とは書いてありません。しかし、新田義貞が北の方から鎌倉街道沿いに進軍してきたことを意識した上で訪問しているので、ここを『通過しないわけない』と勝手に思い込み、ひとりで満足してしまいました。

<光明院山門>
fuchu-koumyouin-temple.JPG
坂の名はこちらの寺院に由来するわけですね。鎌倉時代に北条家の家臣が建立した祈願所に始まる寺院とのこと。本堂は近代的な建物となっていますが、風格のあるこの山門が遠くからも目をひきます。

<梅花山光明院>
fuchu-koumyouin-baikazan.JPG
梅花山と号する真言宗豊山派寺院です

今回出会った道は『陣街道』として江戸名所図会に描かれています。その呼び名は、中世に軍勢が陣立てして通ったことに由来するとのこと。鎌倉街道は主要な街道であるため、名だたる武将が軍を率いて通っても何ら不思議ではありませんが、新田義貞もそのひとりと受け止めることにしました。

ちなみに
鎌倉街道には上道(かみつみち)・中道(なかつみち)・下道(しもつみち)とそれぞれ呼ばれる3本の道筋があります。今回訪問の分倍河原付近の鎌倉街道は、3本の中では一番西側の上道となります。もともと鎌倉幕府の御家人が、いざという時に鎌倉へ駆けつけるための道。新田義貞も御家人のひとりですが、攻め込むために利用することとなりました。

<台地と低地の境>
koumyouin-zaka-Fuchu.JPG
武蔵野台地と多摩川の氾濫低地の境目に位置する坂道です

ということで
歴史認識に間違い等あるかもしれませんが、現地を訪ね歩いては、勝手に想像している会社員ブログということでご容赦下さい。拙ブログに最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:光明院坂
( 根っ子坂 )
[府中市分梅町]1丁目

■参考
現地標識説明文(府中市)
Wikipedia:2022/5/26
猫の足あと
・梅花山光明院

https://tesshow.jp/tama/fuchukunitachi/temple_vbai_komyo.html



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タグ:鎌倉街道
posted by Isuke at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 街道・古道

2022年05月22日

分倍河原駅前の新田義貞像(府中市)

古戦場を訪ねるべく分倍河原駅で下車しました

<新田義貞公之像>
Nitta-Yoshisada-Statue.JPG
駅前ロータリー設置された新田義貞公像

勇ましい姿ですね。この像は『新田義貞と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけて火花を散らした分倍河原合戦を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして制作したものである。』とのこと。

『』内はこちらに記されている府中市による説明文をそのまま抜粋させて頂きました。
Description-Nitta-Yoshisada.JPG
分倍河原での合戦についても詳しく記されていますので、抜粋しながらご紹介させて頂きます。

『元弘三年(一三三三)五月八日、上州生品神社(群馬県新田町)の社前で鎌倉倒幕の旗を上げた新田義貞は、越後・甲斐・信濃の同族軍等を糾合、翌九日には利根川を渡って武蔵国へ入り、千寿王(後の足利義詮)と合流し一路鎌倉を目指して南下した。一方、幕府軍は入間川で新田軍を阻止するため北上、同月十一日、両軍は小手指原(所沢市)で遭遇し合戦となった。合戦の勝敗は容易に決しないまま十二日の久米川の合戦につづき新田軍有利の中で、幕府軍は陣立てのため急ぎ府中の分倍河原まで退いた。』
群馬県新田町は現在は同県太田市に吸収されています。そこで挙兵し、南下する新田義貞に続々と諸勢力が合流したということですね。そして、ここへ到着する以前に、既に鎌倉幕府軍との戦いは始まっていました。

Nitta-Yoshisada-Bubaigawara.JPG
続きをご紹介します
『同月十五日未明、新田軍は多摩川突破を目指して武蔵国府中を攻め分倍河原において大いに戦ったが、泰家率いる幕府軍の逆襲にあって大敗を喫し、堀兼(狭山市)まで敗走した。この時、新田軍の手によって武蔵国分寺の伽藍は灰燼に帰してしまったといわれている。』

勝ち続けたわけではなく、苦戦も強いられている様子が伺えます。しかし、ここにきて三浦義勝ら相模の国人衆すらも味方となり、新田軍は再び分倍河原に攻め入り大勝利をおさめます。文中の表現をお借りすると
『前日の勝利におごり油断していた幕府軍は、武具を整える間もなく総崩れとなり、鎌倉の最後の防衛線である多摩川は一気に破られ分倍河原合戦は新田軍の大勝利に終わった。』
とのこと。ここでの勝敗がの後に大きく影響したことは言うまでもありません。

Nitta-Yoshisada-Statue-Fuchu-City.JPG
140年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させる直前の雄姿ということですね

ということで
分倍河原駅前の新田義貞像のご紹介でした。

もし私と同じように分倍河原駅で下車して古戦場へ向かう方は、現地の高低差なども意識してみると良いかもしれません。駅の改札は台地の隅に位置しています。

■訪問:新田義貞公之像
(分倍河原駅前ロータリー)
[東京都府中市片町]3丁目

■参考
現地説明文(府中市)
Wikipedia:2022/5/22



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posted by Isuke at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2022年05月21日

姿なき水路沿いの石橋供養塔(府中市)

府中市を散策中にこんな光景と出会いました

Ankyo-Fuchuyosui-Memorial-Stone.JPG
なんでこんな場所に橋の供養塔が?

周囲に川や水路の雰囲気は漂いません。ただ、ちょっとしたヒントはありました。

Ankyo-Fuchuyosui.JPG
これは水の流れを模したものか

この時点では半信半疑でしたが、延々と続く歩道が、実は水路かもしれないと思った瞬間でした。

ちょっとこの日は別な目的があったので、帰宅してからゆっくり調べました。するとやはり、私が歩いていたのは府中用水とよばれる水路でした。多摩川の水を引き込むための水路で、その始まりは江戸時代初期にまで遡ります。歴史ある水路ということですね。

水路には人が行き交うために橋が架けられ、安全祈願あるいは感謝の気持ちとして橋の供養塔が建てられたということのようです。

現代人にもそういった感覚は多少引き継がれていると思いますが、むかしの人は、橋に魂が宿ると考える傾向が強かったようです。

むかしってどの程度?

素人なので明言はできませんが、少なくとも江戸時代にはそういう考え方はありました。

府中用水そのものはいまでも現役です。
しかし、ここ分倍河原付近は都市化にともない、地下に埋設されています。いわゆる暗渠ですね。

地表から姿を消し、道を隔てることもなくなった用水路沿いに、かつてあった石橋の供養塔が残されている。

Onceuponatime-therewasabridge.JPG
水辺だったなごり。そして、橋に込めた人の思いのなごりですね

■訪問:石橋供養塔
[府中市分梅町]1丁目27-3

■参考
Wikipedia:2022/5/21
posted by Isuke at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 川跡・暗渠
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