隅田川沿いにある中世の城跡を訪ねました。
<石浜城址公園>
かつて城があったとされる場所です。
■ 古い歴史 ■
築城時期は不明ながら、江戸氏一族の石浜氏がこの地に館を構えたことが始まりではないかと考えられています。場所は隅田川(=古利根川)の西側。武蔵国の東の隅であり、下総国が目と鼻の先ですので、存在する意義がなんとなく伝わってきます。
ウィキペディアさんによれば『文和元年(1352年)には、新田義興の追撃を受けた足利尊氏がこの地で武蔵平一揆に迎えられて追撃を退けている。』[出典:Wikipedia]とあります。
あの足利尊氏ゆかりの地でもあるのですね。逃げ込んで形勢を変えられるのですから、それなりの拠点が当時からあったと考える方が自然ですね。
■ 千葉実胤の居城 ■さねたね
下総国を追われた千葉実胤に、太田道灌がここ石浜城を与えたという話があります。
追われる?かなり複雑な話なのですが、簡単に言えば名門・千葉氏の内紛により祖国を追われたということです。実胤の祖父は千葉氏15代当主。しかしその長男・次男は重臣の裏切りで亡くなりました。次男の子であった実胤は弟ととも武蔵国へ逃れ、扇谷上杉家の保護を受けることになりました。
つまり、実胤は千葉宗家の生き残りということですね。これに扇谷上杉家の家宰たる太田道灌が手を差し伸べた。大筋はそんな感じです。道灌には道灌の思惑あってのことと思われますが、実胤本人も下総奪回を目論んでいたはず。石浜城を与えられることは、願ったり叶ったりの条件だったのではないでしょうか。
<公園内>
南千住三丁目公園
<現在位置>
隅田川沿いです。
<説明板>
ここより北側に石浜神社があり、中世においては千葉氏などの崇敬を集めたとのこと。また、この辺りは古くから交通の要衝の地だったと記されています。
<石浜神社の鳥居>
公園の北の石浜神社です。荒川区内最古の神社です。
<石浜城に関する説明板>
石浜神社付近の説明板です。城の場所については諸説あるものの、この神社付近が有力である旨が書かれています。
<東側の鳥居>
鳥居の向こうにガスタンクが見えていますね。石浜神社はあちら側から現在の場所へ移されたそうです。ということは、あのタンクの付近も城跡だったと思って良いですね。
<手洗舎>
<境内社>
この画像で見えているのは左から稲荷神社・白狐祠・富士遙拝所。背後に溶岩を積み上げて築かれた富士塚が見えます。江戸時代、この付近は富士山が良く見える名所だったとのこと。
<拝殿>
■ 弟の自胤 ■ よりたね
実胤の弟・自胤は、現在の板橋区に位置する赤塚城の城主となっています。兄・実胤が隠遁すると、今度は自胤が石浜城主となりました。つまり、石浜城は下総国を追われた兄弟の城ということですね。
<高台>
到着と同時に、周辺より高台となっていることを意識して撮影しました。しかしこの見事な段差は、神社が西側から移転した時に造成されたものとのこと。それでも、石浜神社はむかし景勝地として知られていたようなので、やはり川沿いの低地と比べて高い位置にあったのでしょう。
■ 廃城時期 ■
扇谷上杉家の没落後、武蔵千葉氏は小田原北条氏配下となっていました。これにより、秀吉の小田原征伐後、石浜城は廃城となります。最後の城主は、北条一族の出で千葉氏の家督を継いだ直胤(なおたね)でした。
■ 千葉兄弟が夢の跡 ■
千葉実胤・自胤にとっては、自分達こそが千葉氏。しかし下総の千葉氏と区別する便宜上の理由から、武蔵千葉氏と呼ばれています。石浜城を拠点とし、下総を奪回することを目指したものの、千葉兄弟の夢が叶うことはありませんでした。
<つわものどもが夢の跡>
-------■ 石浜城 ■-------
築城年:(詳細不明)
築城者:(詳細不明)
城 主: 千葉氏(武蔵千葉氏)
廃城年:1590年
[ 東京都荒川区南千住 ]
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