(山中城追記)
■城跡の維持・管理■
<山中城の遺構>
三島市のホームページによれば、山中城は昭和48年から発掘調査と復元整備が開始され、昭和56年に一般開放されたようです。更に平成25年度からは、傷みの目立つ西櫓(にしやぐら)、西ノ丸、元西櫓、二ノ丸を再整備し、開園した昭和56年当時の復元状況に戻したとのこと。「北条流築城術の粋 障子堀と畝堀」と表現されています。
リニューアルしたばかりだったのですね。
行ってみてまず実感したのは、かなり整備されていることと、思っていたより広いこと。
<障子堀>
こういうのはネットや雑誌でしか見たことがありませんでした。実物を見られて満足です。障子は元々「さえぎるもの」という意味。いわゆる家の障子に似ているからではなく、さえぎる仕切りがあることから障子堀と呼ばれています。
<表面に芝>
障子堀の表面は本来なら土ですが、ここでは保護のため芝がはられています。
<念入りな保護>
ここはまだ芝をはって間もない感じですね。保護してもらっている様子を強調すべく、この画像にしました。
全てという訳にはいきませんが、城跡の広範囲にわたって、曲輪や土塁にも同じ措置がなされています。やや凝りすぎた復元も含まれますが、総じて感謝したくなる城跡でした。
■凝り過ぎてないエリア■
芝のはっていないごく自然な遺構も沢山あります。これはこれで別の楽しみがあります。
<堀切>
なんとなく中世の「城のなごり」が漂います。
<本丸付近の堀>
堀の底に更に窪みがありますね。復元されていませんが、ここも障子堀と類似した形状だった可能性も、、、などと楽しむことができます。
■つわものどもが夢の跡■
訪問は冬です。冬枯れの城跡を眺めながら、かつての「兵どもが夢」を思い浮かべながら散策してまわりました。公園を運営する側としては、春から秋までさまざまな花が楽しめるのも自慢のようです。それに合わせて訪れれば、また別の顔を楽しめるのかも知れませんね。
そういえば「兵どもが夢の跡」の前は「夏草や」でしたね。では、夏にまた訪れたいと思います。草木が青々と生い茂る城跡に、自分が何を感じるのか楽しみです。
城跡好きでまだ行かれてない方、ここはお勧めです。
特に城好きでない人にとっても、きっと楽しめる場所です。
[静岡県三島市山中]
※現地に無料駐車場あり
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2017年03月01日
2017年02月28日
北条氏勝と山中城
つわものどもが夢の跡
かつて壮絶な戦いがあった山中城。今回はこの戦いで生き残った武将についてです。
<山中城の障子堀>
豊臣秀次を総大将とする7万の大軍勢。これと戦う山中城4千のなかに、援軍として駆けつけた玉縄城主・北条氏勝の姿がありました。
■生きる選択■
その名の通り、氏勝は北条一族。天下軍との圧倒的戦力の差に、城内で自害を決意します。しかし家臣に止められ、最終的には生きて城を脱出します。
<本丸付近>
北条氏の諸将が集結している小田原城へは入らず、自らの城である玉縄城(現在の鎌倉市)へ戻った氏勝。そのまま籠城しますが、すぐに徳川勢に包囲され、城下の寺住職の説得もあり開城。ここでも生きる選択をしました。
そして・・・
氏勝は天下軍の案内役を務めることになります。寝返った?とも言えます。悪く評価しようと思えば、いくらでもできますね。実際、かつての仲間から後ろ指もさされたことでしょう。現在でも、氏勝を卑怯者扱いするお話は見聞きします。ただ、その後の氏勝の働きを知れば、別な評価もあるのではないでしょうか。
北条氏勝は、抵抗を続ける北条傘下の城の交渉人となり、無血開城に貢献しました。「お前はどっちの味方だ」とか「裏切り者」といった罵声も浴びせられたかも知れませんね。では氏勝が山中城で玉砕していれば、戦況は良くなっていたのでしょうか。とても勝てない戦だと悟ったからこそ、氏勝はその事実を伝える役割を担った。私はそう思いたいです。
<山中城から望む富士>
山中城の戦いから既に400年以上。世の中も、物の考え方も変わっていますが、この景色はあまり変わらないのではないでしょうか。
まさに「国破レテ山河アリ」ですね。
籠城していた「つわものども」も、この景色を見ていたのですね。冬で空気が澄んでいるせいもあるのでしょう。本当にいい眺めです。
■つわものどもが夢の跡■
山中城の戦いから十年も後の話になりますが、北条氏勝は関ヶ原の戦いでは徳川方として戦っています。豊臣に屈した北条氏勝。徳川家康から信頼され、下総・岩富藩(現在の佐倉市)1万石の藩主となりました。
(最後に)
今回訪問の山中城。負け戦の舞台となり、いろんな思いが交錯する城跡でした。最前線へ自ら飛び込み、いかにも武士らしく散った老将・間宮康俊。生きのびて時を待った北条氏勝。対象的ですが、どちらも強かな武将であったと思えます。
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かつて壮絶な戦いがあった山中城。今回はこの戦いで生き残った武将についてです。
<山中城の障子堀>
豊臣秀次を総大将とする7万の大軍勢。これと戦う山中城4千のなかに、援軍として駆けつけた玉縄城主・北条氏勝の姿がありました。
■生きる選択■
その名の通り、氏勝は北条一族。天下軍との圧倒的戦力の差に、城内で自害を決意します。しかし家臣に止められ、最終的には生きて城を脱出します。
<本丸付近>
北条氏の諸将が集結している小田原城へは入らず、自らの城である玉縄城(現在の鎌倉市)へ戻った氏勝。そのまま籠城しますが、すぐに徳川勢に包囲され、城下の寺住職の説得もあり開城。ここでも生きる選択をしました。
そして・・・
氏勝は天下軍の案内役を務めることになります。寝返った?とも言えます。悪く評価しようと思えば、いくらでもできますね。実際、かつての仲間から後ろ指もさされたことでしょう。現在でも、氏勝を卑怯者扱いするお話は見聞きします。ただ、その後の氏勝の働きを知れば、別な評価もあるのではないでしょうか。
北条氏勝は、抵抗を続ける北条傘下の城の交渉人となり、無血開城に貢献しました。「お前はどっちの味方だ」とか「裏切り者」といった罵声も浴びせられたかも知れませんね。では氏勝が山中城で玉砕していれば、戦況は良くなっていたのでしょうか。とても勝てない戦だと悟ったからこそ、氏勝はその事実を伝える役割を担った。私はそう思いたいです。
<山中城から望む富士>
山中城の戦いから既に400年以上。世の中も、物の考え方も変わっていますが、この景色はあまり変わらないのではないでしょうか。
まさに「国破レテ山河アリ」ですね。
籠城していた「つわものども」も、この景色を見ていたのですね。冬で空気が澄んでいるせいもあるのでしょう。本当にいい眺めです。
■つわものどもが夢の跡■
山中城の戦いから十年も後の話になりますが、北条氏勝は関ヶ原の戦いでは徳川方として戦っています。豊臣に屈した北条氏勝。徳川家康から信頼され、下総・岩富藩(現在の佐倉市)1万石の藩主となりました。
(最後に)
今回訪問の山中城。負け戦の舞台となり、いろんな思いが交錯する城跡でした。最前線へ自ら飛び込み、いかにも武士らしく散った老将・間宮康俊。生きのびて時を待った北条氏勝。対象的ですが、どちらも強かな武将であったと思えます。
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タグ:北条
2017年02月27日
間宮康俊と山中城
つわものどもが夢の跡
本当に見事な城址公園です。ただ、ここで壮絶な戦いがあったことは忘れてはなりません。
■山中城の戦い■1590年
その日、秀吉の天下軍7万が早朝からこの山中城を取り囲みました。迎え撃つ北条側は約3千(資料によっては4千)。城主は松田康長、副将格の間宮康敏、北条一族の北条氏勝らが名を連ねます。
城攻めは攻め手に不利な点が多い。更に良く造られた山城。ただ、数が違い過ぎます。
激突はまず城で最も先端に位置する出丸から三の丸付近で始まりました。
■出丸■
<岱崎出丸>だいさき
三の丸までを山中城の本体とみなすと、ここは街道を挟んだ外側の防衛施設です。
<スリバチ曲輪>
岱崎出丸の更に先の端に設けられた曲輪です。本来はもっとシャープな状態なのでしょう。枡形状になっていますが、ここに城兵が立て籠もるのか、攻め手を誘い込んで狙うためなのか、私には分りません。
■天下軍の力攻め■
戦いの場は徐々に二の丸、本丸と移り、やがて城主松田康長が戦死。正午過ぎには落城したそうです。力攻めですね。強引さ故に攻め手にも多くの被害がでました。要した時間と関係なく、戦国時代で最大級の攻城戦といえます。
<障子堀>
■強者■つわもの
北条側副将格の間宮康俊(まみや やすとし)という武将。間宮氏は代々北条氏に仕える一族で、康俊はこの戦では援軍として山中城へ入っていました。戦況不利とみると、康俊は北条一族の氏勝ほかに退却を促す一方、自らは手勢を二百ほど率いて岱崎出丸まで飛び出します。無事で済むはずがありません。百も承知で死地に飛び込みました。
この突撃ですが、少数ながら奮闘し、豊臣秀吉から信頼の厚かった一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)を討ち取ります。秀吉はその死を知らされると「関東を得る喜びも失われてしまった」と嘆いたそうです。それくらい大きな手柄でした。
出丸で奮闘する猛将、実はこの時すでに73歳。「白髪首を敵に供するのは恥」として、最後は白髪を墨汁で染めて敵に突入し、討ち死にとなりました。この年齢にしてこの気迫。武士のなかの武士の壮絶な最期です。
■つわものどもが夢の跡■
負け戦でなおも己の意志を貫く心の叫び。
それが聞こえてきそうな城跡でした。
■間宮康俊■まみや やすとし
1518年〜1590年5月3日
・小田原北条氏家臣
・玉縄城の歴代城主に仕える
・山中城の戦いで討死
※間宮海峡を発見した林蔵は、北条に仕えた間宮氏の末裔です
生きる選択をした「北条氏勝」へつづきます
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本当に見事な城址公園です。ただ、ここで壮絶な戦いがあったことは忘れてはなりません。
■山中城の戦い■1590年
その日、秀吉の天下軍7万が早朝からこの山中城を取り囲みました。迎え撃つ北条側は約3千(資料によっては4千)。城主は松田康長、副将格の間宮康敏、北条一族の北条氏勝らが名を連ねます。
城攻めは攻め手に不利な点が多い。更に良く造られた山城。ただ、数が違い過ぎます。
激突はまず城で最も先端に位置する出丸から三の丸付近で始まりました。
■出丸■
<岱崎出丸>だいさき
三の丸までを山中城の本体とみなすと、ここは街道を挟んだ外側の防衛施設です。
<スリバチ曲輪>
岱崎出丸の更に先の端に設けられた曲輪です。本来はもっとシャープな状態なのでしょう。枡形状になっていますが、ここに城兵が立て籠もるのか、攻め手を誘い込んで狙うためなのか、私には分りません。
■天下軍の力攻め■
戦いの場は徐々に二の丸、本丸と移り、やがて城主松田康長が戦死。正午過ぎには落城したそうです。力攻めですね。強引さ故に攻め手にも多くの被害がでました。要した時間と関係なく、戦国時代で最大級の攻城戦といえます。
<障子堀>
■強者■つわもの
北条側副将格の間宮康俊(まみや やすとし)という武将。間宮氏は代々北条氏に仕える一族で、康俊はこの戦では援軍として山中城へ入っていました。戦況不利とみると、康俊は北条一族の氏勝ほかに退却を促す一方、自らは手勢を二百ほど率いて岱崎出丸まで飛び出します。無事で済むはずがありません。百も承知で死地に飛び込みました。
この突撃ですが、少数ながら奮闘し、豊臣秀吉から信頼の厚かった一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)を討ち取ります。秀吉はその死を知らされると「関東を得る喜びも失われてしまった」と嘆いたそうです。それくらい大きな手柄でした。
出丸で奮闘する猛将、実はこの時すでに73歳。「白髪首を敵に供するのは恥」として、最後は白髪を墨汁で染めて敵に突入し、討ち死にとなりました。この年齢にしてこの気迫。武士のなかの武士の壮絶な最期です。
■つわものどもが夢の跡■
負け戦でなおも己の意志を貫く心の叫び。
それが聞こえてきそうな城跡でした。
■間宮康俊■まみや やすとし
1518年〜1590年5月3日
・小田原北条氏家臣
・玉縄城の歴代城主に仕える
・山中城の戦いで討死
※間宮海峡を発見した林蔵は、北条に仕えた間宮氏の末裔です
生きる選択をした「北条氏勝」へつづきます
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タグ:北条
2017年02月26日
山中城のなごり
つわものどもが夢の跡
障子堀で有名な三島市の城跡を訪ねました。
<障子掘と富士山>
■小田原北条氏の城■箱根の砦
ここ山中城は北条氏康により築城された小田原城の支城。本城のある小田原の西を守る重要拠点でした。東海道を挟み込むような構造になっています。もともとはライバルである武田氏に備えるべく築城されました。
そして・・・
1590年、いわゆる小田原征伐が始まります。悪化する一方だった北条氏と豊臣氏の関係。秀吉が大軍を率いて動き始めたのに合わせて、山中城は更に守りを強固にすべく改修されました。現在の城跡はその頃のものということでしょうか。ただ天下軍の進軍に改修が間に合わず、未完のまま7万の大軍を迎え撃ちました。
<案内図>
日本百名城のひとつ。標高は580m、自然の地形を利用した山城ということになります。
「小田原城の支城」という感覚で訪問したので、現地で城の広大さに驚きました。箱根峠を越えるための道が、城の真ん中を通過する構造になっています。道は現在国道一号線となっており、やはり城跡の中を通り抜けています。
ここを避けては通れない。
山中城は東海道に立ち塞がる城としてこの地に築かれました。
<三の丸堀>
駐車場から城内へ入ってすぐ。早くも遺構にかこまれ興奮してきました。恒例によって早足に・・・
<田尻の池>
籠城に無くてはならない水の確保。湿地を土塁で区切って溜池を造ったようです。
さらに登ると
<畝堀>うねぼり
山中城ならではの遺構。凄い。畝(うね)のようにみえることから畝掘と言います。が、私個人は障子堀と区別していません。
<障子堀>
中世の土の城で、人の手による工夫がここまで感じられる城跡は珍しい。
どんなつもりなのか・・・
その思惑を感じるようにしてゆっくりと見学させてもらいました。
■山中城の戦い■
この城での最後の戦いは、1590年の小田原征伐の時ということになります。沼津に到着した豊臣秀吉は、秀次を総大将にして山中城を攻めさせます。戦闘開始は未明。山中城の城兵も3千の兵で抵抗しますが、城主・松田康長は戦死。7万の大軍による力攻めにより、わずか半日で落城しました。
山中城側の死者は不明ながら千人以上とも言われています。壊滅状態です。同時に強引な攻め手の方にも死者は多く、秀吉から信頼の厚かった一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)が戦死しました。
時間にすると短いですが、かなり壮絶な戦いだったようです。
■つわものどもが夢の跡■
ここ山中城は、小田原城の支城として、箱根の入り口をずっと守ってきました。そこへ押し寄せる秀吉の天下軍。しかも徳川家康や池田輝政らを含む本隊です。中世の城としては、非常に手の込んだ城だと思います。ただ、最後の戦いについては、そもそも勝ち目はありませんでした。
見事な遺構に加えて、いろんな人の思惑が余韻として漂う城跡でした。
-------■山中城■-------
築城年:不明(1558〜70年)
築城者:北条氏康
改修者:北条氏政
主な城主:松田康長
廃城年:1590年
※北条氏滅亡後廃城
[静岡県三島市山中]
関連記事
→間宮康俊と山中城
→北条氏勝と山中城
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障子堀で有名な三島市の城跡を訪ねました。
<障子掘と富士山>
■小田原北条氏の城■箱根の砦
ここ山中城は北条氏康により築城された小田原城の支城。本城のある小田原の西を守る重要拠点でした。東海道を挟み込むような構造になっています。もともとはライバルである武田氏に備えるべく築城されました。
そして・・・
1590年、いわゆる小田原征伐が始まります。悪化する一方だった北条氏と豊臣氏の関係。秀吉が大軍を率いて動き始めたのに合わせて、山中城は更に守りを強固にすべく改修されました。現在の城跡はその頃のものということでしょうか。ただ天下軍の進軍に改修が間に合わず、未完のまま7万の大軍を迎え撃ちました。
<案内図>
日本百名城のひとつ。標高は580m、自然の地形を利用した山城ということになります。
「小田原城の支城」という感覚で訪問したので、現地で城の広大さに驚きました。箱根峠を越えるための道が、城の真ん中を通過する構造になっています。道は現在国道一号線となっており、やはり城跡の中を通り抜けています。
ここを避けては通れない。
山中城は東海道に立ち塞がる城としてこの地に築かれました。
<三の丸堀>
駐車場から城内へ入ってすぐ。早くも遺構にかこまれ興奮してきました。恒例によって早足に・・・
<田尻の池>
籠城に無くてはならない水の確保。湿地を土塁で区切って溜池を造ったようです。
さらに登ると
<畝堀>うねぼり
山中城ならではの遺構。凄い。畝(うね)のようにみえることから畝掘と言います。が、私個人は障子堀と区別していません。
<障子堀>
中世の土の城で、人の手による工夫がここまで感じられる城跡は珍しい。
どんなつもりなのか・・・
その思惑を感じるようにしてゆっくりと見学させてもらいました。
■山中城の戦い■
この城での最後の戦いは、1590年の小田原征伐の時ということになります。沼津に到着した豊臣秀吉は、秀次を総大将にして山中城を攻めさせます。戦闘開始は未明。山中城の城兵も3千の兵で抵抗しますが、城主・松田康長は戦死。7万の大軍による力攻めにより、わずか半日で落城しました。
山中城側の死者は不明ながら千人以上とも言われています。壊滅状態です。同時に強引な攻め手の方にも死者は多く、秀吉から信頼の厚かった一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)が戦死しました。
時間にすると短いですが、かなり壮絶な戦いだったようです。
■つわものどもが夢の跡■
ここ山中城は、小田原城の支城として、箱根の入り口をずっと守ってきました。そこへ押し寄せる秀吉の天下軍。しかも徳川家康や池田輝政らを含む本隊です。中世の城としては、非常に手の込んだ城だと思います。ただ、最後の戦いについては、そもそも勝ち目はありませんでした。
見事な遺構に加えて、いろんな人の思惑が余韻として漂う城跡でした。
-------■山中城■-------
築城年:不明(1558〜70年)
築城者:北条氏康
改修者:北条氏政
主な城主:松田康長
廃城年:1590年
※北条氏滅亡後廃城
[静岡県三島市山中]
関連記事
→間宮康俊と山中城
→北条氏勝と山中城
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2017年02月25日
暗渠と城跡3 烏山城のなごり
都内にもあるつわものどもが夢の跡。今回は烏山の城跡の比定地です。
烏山城といえば、栃木県北部にある那須氏の居城が有名ですね。行ってみたいですがそれはそれとして、今回の訪問は世田谷区。最寄駅でいうと千歳烏山駅になります。
■千歳烏山■
若い頃に慣れ親しんだ京王線。チトカラなんて呼んでましたが、今でもそんな言い方するのでしょうか?懐かしい駅の改札を、久しぶりに通過しました。
お目当ての城跡には諸説ありますが、私は世田谷城の支城的な役割だったという説を前提に、ならば行ってみようと気になりました。世田谷城といえば名族・吉良氏。この付近も勢力の範囲だったのでしょうか・・・
<烏山神社>
静寂に包まれた境内。いい雰囲気です。そのむかし、烏山村の鎮守だったとか。古い歴史の神社です。
さて、城のなごりは・・・
残念ながら堀や土塁の類は見当たりません。
そもそも地形が平坦で、要害の地とは言い難い。
ただ、『烏山川沿いの低湿地に面した微高地に築かれた城』とされています。ならば、あとはその僅かな地の利を感じるだけですね。
ということで、神社を後にして周辺をうろうろと。その結果として、多少の微高地であることは肌で感じることができました。ただあまりにも開発されていて「城のなごり」を楽しむというレベルには達しませんね。まぁここは東京都世田谷区ですから・・・仕方ありませんね。
■暗渠と城跡■
<川のなごり>
近くで川跡を確認できたことだけは収穫。ここで暗渠を知っていることが役立ちます。
暗渠(あんきょ)、つまり地下に埋設された川。これに気付くアンテナがあると、都市化の波に飲みこまれた城巡りが一味違ってきます。かつての城跡付近で、かつての天然の川を想像してみる。感じてみると言った方が適切ですかね。
烏山の城跡訪問は、今も残る多少の高低差を実感し、かつての川を暗渠で知った。そんな結果となりました。
[世田谷区南烏山]
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烏山城といえば、栃木県北部にある那須氏の居城が有名ですね。行ってみたいですがそれはそれとして、今回の訪問は世田谷区。最寄駅でいうと千歳烏山駅になります。
■千歳烏山■
若い頃に慣れ親しんだ京王線。チトカラなんて呼んでましたが、今でもそんな言い方するのでしょうか?懐かしい駅の改札を、久しぶりに通過しました。
お目当ての城跡には諸説ありますが、私は世田谷城の支城的な役割だったという説を前提に、ならば行ってみようと気になりました。世田谷城といえば名族・吉良氏。この付近も勢力の範囲だったのでしょうか・・・
<烏山神社>
静寂に包まれた境内。いい雰囲気です。そのむかし、烏山村の鎮守だったとか。古い歴史の神社です。
さて、城のなごりは・・・
残念ながら堀や土塁の類は見当たりません。
そもそも地形が平坦で、要害の地とは言い難い。
ただ、『烏山川沿いの低湿地に面した微高地に築かれた城』とされています。ならば、あとはその僅かな地の利を感じるだけですね。
ということで、神社を後にして周辺をうろうろと。その結果として、多少の微高地であることは肌で感じることができました。ただあまりにも開発されていて「城のなごり」を楽しむというレベルには達しませんね。まぁここは東京都世田谷区ですから・・・仕方ありませんね。
■暗渠と城跡■
<川のなごり>
近くで川跡を確認できたことだけは収穫。ここで暗渠を知っていることが役立ちます。
暗渠(あんきょ)、つまり地下に埋設された川。これに気付くアンテナがあると、都市化の波に飲みこまれた城巡りが一味違ってきます。かつての城跡付近で、かつての天然の川を想像してみる。感じてみると言った方が適切ですかね。
烏山の城跡訪問は、今も残る多少の高低差を実感し、かつての川を暗渠で知った。そんな結果となりました。
[世田谷区南烏山]
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タグ:暗渠と城跡
2017年02月24日
暗渠と城跡2 世田谷城のなごり
暗渠と城跡
都内にもあるつわものどもが夢の跡。暗渠をからめた楽しみ方、二つ目の例として世田谷城跡と烏山川緑道をご紹介します。
■世田谷城■
<世田谷城跡>
城址公園として整備されています
<遺構>
<現地説明板>
空堀あり、土塁あり、、、ですね。23区内としてはとても貴重な遺構です。城跡好きとしては有難いですね。ただ、ここはもともとの世田谷城のほんの一部に過ぎません。
<豪徳寺>
立派ですね。実はここが世田谷城の本丸(主郭)跡です。
井伊家の菩提寺です
豪徳寺を含め、この辺り一帯が全て城跡ということになります。まぁ城のなごりを一番留めているのは冒頭の世田谷城址公園ということになりますが、例えば豪徳寺の参道付近でも、土塁の痕跡を見ることもできます。
<土塁>
参道わきの壁の向こう側になります。一部ですが残っています。
この街の中の城跡、吉良氏による築城とされています。吉良氏といえば足利一門の名門。その居城でした。ただ、と言うかだからなのか、吉良氏はあまりガツガツ感が無く、勢力は徐々に低迷していきます。そして戦国時代末期には小田原の北条氏の配下となっていましたが、秀吉による小田原城征伐の際には特に抗うこともなく、領地は没収されてしまいます。世田谷城はこの時に廃城となりました。
ただ、そのまま没落しないところはさすが名門です。徳川の時代になると、吉良氏は高家として扱われ、旗本になっています。幕府の儀典関連を取りまとめる家となり、やがてその名は上野介が赤穂浪士に討たれることにより、後世の誰もが知る家名となりました。あの、知られ方はともかくもともと名門です。(ちょっとだけフォロー)。
話を世田谷城にもどします。
分類すると山城ということになりますが、現地ではあまり「山」を実感できません。ただまぁ城山通りという名の道もあるし、台地の先端部に立地していることは間違いないようです。
<現地の地図>
北側以外の三方に川(緑の線がそうです)があることが分ります。人の手による堀や土塁以外に、この川も天然堀の役割を果たしていたのでしょう。又は、運搬の手段だったかも知れません。
<現在の烏山川>
天然堀だったかつての川は、地下に埋設されています。いわゆる暗渠(あんきょ)ですね。道になっても、この蛇行が川のなごりを留めています。そして城下橋の文字。この付近、暗渠になる前は橋があったのですね。これも川のなごり。無言の暗渠がいろいろと教えてくれています。
微高地に位置し、三方は川だった。
これが世田谷城の地の利ということになりますね。
<烏山川緑道>
とりあえず行ってみる。結果として歩く。これが目標なので、かつては川だった道を散歩してから帰りました。城巡りのあとは暗渠散歩です。
--------■世田谷城■--------
築城年:不明
築城者:吉良氏
城 主:吉良氏
廃城年:1590年
現 状 :豪徳寺・世田谷城址公園
[東京都世田谷区豪徳寺]
【補足】
電車の場合は世田谷線が良いですね。城跡は宮の坂駅 から徒歩5分程度。烏山川緑道を含め、豪徳寺・世田谷城址公園をゆっくりと回る「街歩き」をお勧めします。
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-------追 記-------
■世田谷の川■
城跡の話は終わりにして、ここからはちょっと川の話を。現地で撮影した解説図のアップです。
<世田谷の緑道と河川>
世田谷にもいろんな川があったのですね。全てを訪ねたことはないので分りませんが、烏山川同様、きっと暗渠化が進んでいるのでしょう。呑川(のみかわ)なんていう名もありますね。何となくいい名前です(かなり個人的に)。あ、烏山川と東の方で合流するようです。他に奥沢城付近の九品仏川(くほんぶつがわ)。地表から姿を消しても、きっとそれぞれの川が何かしらのなごりを残しているのだと思います。
そして蛇崩川(じゃくずれがわ)。ここはわざわざ見に行ったことがあります。
<蛇崩川の暗渠の出口>
蛇崩川は世田谷区と目黒区を流れる川なんですが、全域が暗渠化されています。陽の当たる場所といったら、目黒川(手前)と合流する寸前のこの僅かな区間のみ。ありのままの姿からは程遠く、何やら不憫に思うのは私だけでしょうか。ただこちらの思惑とは関係なく、水はたんたんと流れ続けています。
やや長くなりましたが、お読み頂きありがとうございます。
都内にもあるつわものどもが夢の跡。暗渠をからめた楽しみ方、二つ目の例として世田谷城跡と烏山川緑道をご紹介します。
■世田谷城■
<世田谷城跡>
城址公園として整備されています
<遺構>
<現地説明板>
空堀あり、土塁あり、、、ですね。23区内としてはとても貴重な遺構です。城跡好きとしては有難いですね。ただ、ここはもともとの世田谷城のほんの一部に過ぎません。
<豪徳寺>
立派ですね。実はここが世田谷城の本丸(主郭)跡です。
井伊家の菩提寺です
豪徳寺を含め、この辺り一帯が全て城跡ということになります。まぁ城のなごりを一番留めているのは冒頭の世田谷城址公園ということになりますが、例えば豪徳寺の参道付近でも、土塁の痕跡を見ることもできます。
<土塁>
参道わきの壁の向こう側になります。一部ですが残っています。
この街の中の城跡、吉良氏による築城とされています。吉良氏といえば足利一門の名門。その居城でした。ただ、と言うかだからなのか、吉良氏はあまりガツガツ感が無く、勢力は徐々に低迷していきます。そして戦国時代末期には小田原の北条氏の配下となっていましたが、秀吉による小田原城征伐の際には特に抗うこともなく、領地は没収されてしまいます。世田谷城はこの時に廃城となりました。
ただ、そのまま没落しないところはさすが名門です。徳川の時代になると、吉良氏は高家として扱われ、旗本になっています。幕府の儀典関連を取りまとめる家となり、やがてその名は上野介が赤穂浪士に討たれることにより、後世の誰もが知る家名となりました。あの、知られ方はともかくもともと名門です。(ちょっとだけフォロー)。
話を世田谷城にもどします。
分類すると山城ということになりますが、現地ではあまり「山」を実感できません。ただまぁ城山通りという名の道もあるし、台地の先端部に立地していることは間違いないようです。
<現地の地図>
北側以外の三方に川(緑の線がそうです)があることが分ります。人の手による堀や土塁以外に、この川も天然堀の役割を果たしていたのでしょう。又は、運搬の手段だったかも知れません。
<現在の烏山川>
天然堀だったかつての川は、地下に埋設されています。いわゆる暗渠(あんきょ)ですね。道になっても、この蛇行が川のなごりを留めています。そして城下橋の文字。この付近、暗渠になる前は橋があったのですね。これも川のなごり。無言の暗渠がいろいろと教えてくれています。
微高地に位置し、三方は川だった。
これが世田谷城の地の利ということになりますね。
<烏山川緑道>
とりあえず行ってみる。結果として歩く。これが目標なので、かつては川だった道を散歩してから帰りました。城巡りのあとは暗渠散歩です。
--------■世田谷城■--------
築城年:不明
築城者:吉良氏
城 主:吉良氏
廃城年:1590年
現 状 :豪徳寺・世田谷城址公園
[東京都世田谷区豪徳寺]
【補足】
電車の場合は世田谷線が良いですね。城跡は宮の坂駅 から徒歩5分程度。烏山川緑道を含め、豪徳寺・世田谷城址公園をゆっくりと回る「街歩き」をお勧めします。
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-------追 記-------
■世田谷の川■
城跡の話は終わりにして、ここからはちょっと川の話を。現地で撮影した解説図のアップです。
<世田谷の緑道と河川>
世田谷にもいろんな川があったのですね。全てを訪ねたことはないので分りませんが、烏山川同様、きっと暗渠化が進んでいるのでしょう。呑川(のみかわ)なんていう名もありますね。何となくいい名前です(かなり個人的に)。あ、烏山川と東の方で合流するようです。他に奥沢城付近の九品仏川(くほんぶつがわ)。地表から姿を消しても、きっとそれぞれの川が何かしらのなごりを残しているのだと思います。
そして蛇崩川(じゃくずれがわ)。ここはわざわざ見に行ったことがあります。
<蛇崩川の暗渠の出口>
蛇崩川は世田谷区と目黒区を流れる川なんですが、全域が暗渠化されています。陽の当たる場所といったら、目黒川(手前)と合流する寸前のこの僅かな区間のみ。ありのままの姿からは程遠く、何やら不憫に思うのは私だけでしょうか。ただこちらの思惑とは関係なく、水はたんたんと流れ続けています。
やや長くなりましたが、お読み頂きありがとうございます。
タグ:暗渠と城跡
2017年02月23日
暗渠と城跡1 奥沢城のなごり
■ 街の中の城巡り ■
城跡巡りですが、いつもいつも遠くまで行ける訳ではありません。普通の会社員です。それなりに忙しく、お小遣いにも上限が…
そこで通勤定期を使って、土日に都内の城跡を訪ね歩いたりしています。「街の中の城跡巡り」です。結構歩くことになります。ただ、お医者様からもう少し歩けと言われているので一石二鳥。家でゴロゴロするくらいなら、とりあえず行ってみる。ジム通いもウォーキングも長続きしませんでしたが、これはたくさん歩いても苦になりません。
■ 世田谷区の城跡 ■
都内にもある「つわものどもが夢の跡」。例として、奥沢の城跡を訪ねた時のことを。遺構が豊富に残っている郊外の城跡とは異なり、ちょっとしたコツが要ります。城跡と併せて、今回はその「コツ」のご紹介です。
<奥沢城跡>おくさわじょう
土塁跡と推定されているところに石碑があります。ここは東京都世田谷区。いわゆる高級住宅街です。
<九品仏浄真寺>くほんぶつじょうしんじ
城跡は現在お寺です。立派ですね。
23区内とは思えない静かな空間。ここ奥沢城は世田谷城を本拠としていた吉良氏により築かれました。いわば世田谷城の支城ですね。吉良氏の家臣の大平氏が守る城でした。
吉良氏ってあの吉良? はい
住宅地で土塁あり? そうです
鷺草伝説の城? はい
鷺草伝説、城主の姫様にまつわる悲しくもいい話ですが、長くなるのでまたいつか。
■ 暗渠と城跡 ■
さて今回のテーマは、市街地化されたエリアの城跡をいかに楽しむか。あくまで私流の楽しみ方ですが、ヒントになれば嬉しいです。
まず訪問前に、おおまかで良いので城の立地を調べておきます。歴史は後からでも良いので、とりあえず地形。どんな「地の利」があったということですね。
奥沢城に関して、事前に知っておきたいポイントは
城は突き出た台地の上にあり、三方を川や湿地に守られていた
これだけ。もうこれだけで充分です。
突き出た台地・三方が川。郊外の城跡なら、それを実感できますが、奥沢は宅地化され、もうその面影はありません。城跡好きの人は、周辺の環境も含めて楽しむもの。湿地どころか川すら見当たらりません。
それでは中世の城を楽しむ要素が乏しいなぁ……
はい。そうです。ただ、まったく無い訳ではない。湿地は難しいですが「川を感じる」ことはできます。ちょっとした気付きと、強引な想像力が必要になりますが…
はい、これが川です!!
九品仏川。別名は丑川といいます。ありましたね!
これ道だろ!!
そうとも言います。
ただ、この姿は川のなごりです。遊歩道として街に溶け込んでいますが、戦国時代以前から続く川の流れです。川は無くなったのではなく、地下に埋設されて地表から消えただけ。ここを上流に遡って行けば、奥沢城跡に辿りつきます。昔の人が、舟で川を遡ったのと同じように。
こういう川の状態を暗渠(あんきょ)と言います。
この暗渠に気付くアンテナがあると、街の中の城跡巡りが一層楽しくなります。天然の堀だった川のなごりを感じることは、城のなごりを感じるのと同じ。私はそう思っています。
今回の現地訪問では、まず城跡が周囲より高台になっていることを実感し、暗渠の径路を追うことで城の東側から北側が川だったことも実感できました。知識は後からでも補えますが、この「実感」は現地ならではの楽しみと言えます。
おわり
ちょっと、無理がありますかね?
ただ、私は本当にそうやって楽しんでいます。
奥沢城跡は東急大井町線の九品仏駅を降りたらすぐです。駅からまっすぐ現地へ向かっても、高低差を実感することはありません。なぜなら、駅も城跡も同じ台地の上にあるからです。
それより、城跡周辺を歩き回ってみる。そうすると、低いながら舌状台地になっていることを実感できます。そして暗渠、つまり川ですね。水が集まるということは、周辺でもっとも低い位置という証。このあたりをヒントに、歩き回ることをお勧めします。焦らず、ただのんびりと。
--------■ 奥沢城 ■--------
築城年:不明
築城者:吉良頼康
城 主:大平氏(吉良氏家臣)
廃城年:1590年
現 状 :九品仏浄真寺
[東京都世田谷区奥沢]
お城巡りランキング
-----再訪問の画像を追加-----
本文にあった暗渠を上流に遡ったら何が待っているのか?別な日に訪問した時の画像を追加します。
<住宅地>
九品仏川の暗渠は続いています。右手の方が高くなっていること、伝わりますでしょうか。まぁもうちょっと進んだ方がはっきりします。
<橋の跡>
この画像だと、車止めがある歩道が暗渠です。どうやらここにはかつて橋があったようです。橋の名は「しろむかいばし」。城の向かいにある橋といった意味でしょうか。橋も川も、もう姿は見えません。そして城も失われました。それでも残る「城向橋」の文字。こういうの好きですね。
<微高地>
右手は奥沢城が築かれた微高地。その北側の先端部分になります。そして手前の木製の道。これもただの道ではなくて暗渠、つまり川ですね。勿論、昔からこんな川幅で行儀よく流れていたわけではありません。もっと蛇行したり、周辺に適当に水を溢れさせながら、一番低い所を流れていたのでしょう。場所によっては、池や沼もあったかもしれません。地図でみると、九品仏川はこの付近から始まっているようです。
<公園>
かつてはこの付近から水が湧いていたのでしょうか?
<川のゆくえ>
更に上流を目指しましたが、この先の車止めで暗渠を見失いました。ただ、暗渠を調べたことで、九品仏川が舌状台地をかすめるように流れていたことは分りました。川の源流までは特定できず。まぁそんな結論ですかね。
<奥沢城の土塁>
暗渠ばかり強調しましたが、こちらは城跡の土塁跡です。台地上の城を取り囲むように土塁を設けたようです。
以上、追記でした。
再訪については別途投稿していますので、もし良かった覗いてみて下さい。
→『奥沢の城跡』
城跡巡りですが、いつもいつも遠くまで行ける訳ではありません。普通の会社員です。それなりに忙しく、お小遣いにも上限が…
そこで通勤定期を使って、土日に都内の城跡を訪ね歩いたりしています。「街の中の城跡巡り」です。結構歩くことになります。ただ、お医者様からもう少し歩けと言われているので一石二鳥。家でゴロゴロするくらいなら、とりあえず行ってみる。ジム通いもウォーキングも長続きしませんでしたが、これはたくさん歩いても苦になりません。
■ 世田谷区の城跡 ■
都内にもある「つわものどもが夢の跡」。例として、奥沢の城跡を訪ねた時のことを。遺構が豊富に残っている郊外の城跡とは異なり、ちょっとしたコツが要ります。城跡と併せて、今回はその「コツ」のご紹介です。
<奥沢城跡>おくさわじょう
土塁跡と推定されているところに石碑があります。ここは東京都世田谷区。いわゆる高級住宅街です。
<九品仏浄真寺>くほんぶつじょうしんじ
城跡は現在お寺です。立派ですね。
23区内とは思えない静かな空間。ここ奥沢城は世田谷城を本拠としていた吉良氏により築かれました。いわば世田谷城の支城ですね。吉良氏の家臣の大平氏が守る城でした。
吉良氏ってあの吉良? はい
住宅地で土塁あり? そうです
鷺草伝説の城? はい
鷺草伝説、城主の姫様にまつわる悲しくもいい話ですが、長くなるのでまたいつか。
■ 暗渠と城跡 ■
さて今回のテーマは、市街地化されたエリアの城跡をいかに楽しむか。あくまで私流の楽しみ方ですが、ヒントになれば嬉しいです。
まず訪問前に、おおまかで良いので城の立地を調べておきます。歴史は後からでも良いので、とりあえず地形。どんな「地の利」があったということですね。
奥沢城に関して、事前に知っておきたいポイントは
城は突き出た台地の上にあり、三方を川や湿地に守られていた
これだけ。もうこれだけで充分です。
突き出た台地・三方が川。郊外の城跡なら、それを実感できますが、奥沢は宅地化され、もうその面影はありません。城跡好きの人は、周辺の環境も含めて楽しむもの。湿地どころか川すら見当たらりません。
それでは中世の城を楽しむ要素が乏しいなぁ……
はい。そうです。ただ、まったく無い訳ではない。湿地は難しいですが「川を感じる」ことはできます。ちょっとした気付きと、強引な想像力が必要になりますが…
はい、これが川です!!
九品仏川。別名は丑川といいます。ありましたね!
これ道だろ!!
そうとも言います。
ただ、この姿は川のなごりです。遊歩道として街に溶け込んでいますが、戦国時代以前から続く川の流れです。川は無くなったのではなく、地下に埋設されて地表から消えただけ。ここを上流に遡って行けば、奥沢城跡に辿りつきます。昔の人が、舟で川を遡ったのと同じように。
こういう川の状態を暗渠(あんきょ)と言います。
この暗渠に気付くアンテナがあると、街の中の城跡巡りが一層楽しくなります。天然の堀だった川のなごりを感じることは、城のなごりを感じるのと同じ。私はそう思っています。
今回の現地訪問では、まず城跡が周囲より高台になっていることを実感し、暗渠の径路を追うことで城の東側から北側が川だったことも実感できました。知識は後からでも補えますが、この「実感」は現地ならではの楽しみと言えます。
おわり
ちょっと、無理がありますかね?
ただ、私は本当にそうやって楽しんでいます。
奥沢城跡は東急大井町線の九品仏駅を降りたらすぐです。駅からまっすぐ現地へ向かっても、高低差を実感することはありません。なぜなら、駅も城跡も同じ台地の上にあるからです。
それより、城跡周辺を歩き回ってみる。そうすると、低いながら舌状台地になっていることを実感できます。そして暗渠、つまり川ですね。水が集まるということは、周辺でもっとも低い位置という証。このあたりをヒントに、歩き回ることをお勧めします。焦らず、ただのんびりと。
--------■ 奥沢城 ■--------
築城年:不明
築城者:吉良頼康
城 主:大平氏(吉良氏家臣)
廃城年:1590年
現 状 :九品仏浄真寺
[東京都世田谷区奥沢]
お城巡りランキング
-----再訪問の画像を追加-----
本文にあった暗渠を上流に遡ったら何が待っているのか?別な日に訪問した時の画像を追加します。
<住宅地>
九品仏川の暗渠は続いています。右手の方が高くなっていること、伝わりますでしょうか。まぁもうちょっと進んだ方がはっきりします。
<橋の跡>
この画像だと、車止めがある歩道が暗渠です。どうやらここにはかつて橋があったようです。橋の名は「しろむかいばし」。城の向かいにある橋といった意味でしょうか。橋も川も、もう姿は見えません。そして城も失われました。それでも残る「城向橋」の文字。こういうの好きですね。
<微高地>
右手は奥沢城が築かれた微高地。その北側の先端部分になります。そして手前の木製の道。これもただの道ではなくて暗渠、つまり川ですね。勿論、昔からこんな川幅で行儀よく流れていたわけではありません。もっと蛇行したり、周辺に適当に水を溢れさせながら、一番低い所を流れていたのでしょう。場所によっては、池や沼もあったかもしれません。地図でみると、九品仏川はこの付近から始まっているようです。
<公園>
かつてはこの付近から水が湧いていたのでしょうか?
<川のゆくえ>
更に上流を目指しましたが、この先の車止めで暗渠を見失いました。ただ、暗渠を調べたことで、九品仏川が舌状台地をかすめるように流れていたことは分りました。川の源流までは特定できず。まぁそんな結論ですかね。
<奥沢城の土塁>
暗渠ばかり強調しましたが、こちらは城跡の土塁跡です。台地上の城を取り囲むように土塁を設けたようです。
以上、追記でした。
再訪については別途投稿していますので、もし良かった覗いてみて下さい。
→『奥沢の城跡』
タグ:暗渠と城跡
2017年02月22日
皆川城のなごりA地の利を創る
つわものどもが夢の跡
皆川城訪問記のつづきです。
■ 帯曲輪 ■
皆川氏の歴史も興味深いですが、実はこの帯曲輪(おびくるわ)を見たくて訪問を決めました。主要な曲輪の外側を取り囲むように設けられる細長い区画を帯曲輪といいます。また、帯状とまではいえない小規模なものは腰曲輪といいます。ここ皆川城の凄いところは、帯曲輪や腰曲輪が低いところへ向かって連続で設けられ、そのなごりが今も感じられることです。まるで段々畑のような状態になっていますね。見事です。
まぁネット検索でも確認できますが、やはり実物はいいですね。曲輪とは平らにした区画のこと。これを如何に工夫して配置するか。城跡の見どころです。曲輪の配置には、思惑がたくさん込められているはずです。どんなつもりだったのか?これを勝手に想像して楽しむ。城跡巡りの醍醐味です。
<虎口>
土塁の切れ目は曲輪への出入り口でしょう。公園として整備された結果かも知れませんが、やや枡形になっているので、これも「城のなごり」と信じて雰囲気だけ味わう。ちょっと勝手ですが、私は学者ではなくただの会社員ですので、身の丈に合った楽しみ方で充分です。
■地の利を創る■
<上から見た山城>
二ノ丸から下に向かって連続して続く曲輪。敵と対峙した場合、基本的に高い場所が有利です。つまり有利の連続を構造的に造った状態ですね。想像ですが、平らにした各々の区画には更に柵が設けられ、戦ともなれば沢山の旗が風になびいていたことでしょう。攻め上がる側は圧倒的に不利。ちょっと根性で克服できるレベルではありません。
何も工夫を施さなければただの山。
そこに思惑を込め、意識して「地の利」を造り出す。築城者の腕の見せ所です。
■中世の土の城■
遺構にはそれぞれ意味があります。城の構造は勝敗を決める重要な要因。中世の土の城跡は、その思惑が分りやすいのが魅力です。それともう一つ。雨風にさらされ、歳月とともに劣化せざるを得ない宿命。このさまが、情緒的な魅力を醸し出しています。
<頂上からの眺め>
眺めがいい=情報のキャッチアップが早いということです。真冬で空気が澄んでいることもあり、遠くまで見渡せました。遠くに見える山は筑波山です。
<縄張り図>
この形状から皆川城は「法螺貝城」とも呼ばれています。
皆川城の名はあまり知られてませんが、訪れる価値があります。中世らしい遺構の数々。まさに「つわものどもが夢の跡」です。天気の良い日に、ゆっくりと探索することをお勧めします。
[栃木県栃木市皆川城内町]
最後に
廃城巡りはいつも独りですが、この日は珍しく旧友二人と訪問。城マニアのくどい説明に良くぞ耐えてくれました。更に車で栃木市内を案内してもらい、感謝しております。
<蔵の街>
かつて舟運で栄えたなごりが、美しい景色として残されています。皆川広照が、山城(今回紹介の皆川城)からこの付近の平城に拠点を移したことが、栃木の繁栄の起点となりました。皆川氏が去っても、街の発展は続きました。
<水路>
城跡好きですが、水路好きでもあります。最高の散歩になりました。
とりあえず行ってみる。そうすると、こういう当てにしてなかった感動と出会えたりもしますよね。
小さいけど充実した旅となりました。
お城巡りランキング
皆川城訪問記のつづきです。
■ 帯曲輪 ■
皆川氏の歴史も興味深いですが、実はこの帯曲輪(おびくるわ)を見たくて訪問を決めました。主要な曲輪の外側を取り囲むように設けられる細長い区画を帯曲輪といいます。また、帯状とまではいえない小規模なものは腰曲輪といいます。ここ皆川城の凄いところは、帯曲輪や腰曲輪が低いところへ向かって連続で設けられ、そのなごりが今も感じられることです。まるで段々畑のような状態になっていますね。見事です。
まぁネット検索でも確認できますが、やはり実物はいいですね。曲輪とは平らにした区画のこと。これを如何に工夫して配置するか。城跡の見どころです。曲輪の配置には、思惑がたくさん込められているはずです。どんなつもりだったのか?これを勝手に想像して楽しむ。城跡巡りの醍醐味です。
<虎口>
土塁の切れ目は曲輪への出入り口でしょう。公園として整備された結果かも知れませんが、やや枡形になっているので、これも「城のなごり」と信じて雰囲気だけ味わう。ちょっと勝手ですが、私は学者ではなくただの会社員ですので、身の丈に合った楽しみ方で充分です。
■地の利を創る■
<上から見た山城>
二ノ丸から下に向かって連続して続く曲輪。敵と対峙した場合、基本的に高い場所が有利です。つまり有利の連続を構造的に造った状態ですね。想像ですが、平らにした各々の区画には更に柵が設けられ、戦ともなれば沢山の旗が風になびいていたことでしょう。攻め上がる側は圧倒的に不利。ちょっと根性で克服できるレベルではありません。
何も工夫を施さなければただの山。
そこに思惑を込め、意識して「地の利」を造り出す。築城者の腕の見せ所です。
■中世の土の城■
遺構にはそれぞれ意味があります。城の構造は勝敗を決める重要な要因。中世の土の城跡は、その思惑が分りやすいのが魅力です。それともう一つ。雨風にさらされ、歳月とともに劣化せざるを得ない宿命。このさまが、情緒的な魅力を醸し出しています。
<頂上からの眺め>
眺めがいい=情報のキャッチアップが早いということです。真冬で空気が澄んでいることもあり、遠くまで見渡せました。遠くに見える山は筑波山です。
<縄張り図>
この形状から皆川城は「法螺貝城」とも呼ばれています。
皆川城の名はあまり知られてませんが、訪れる価値があります。中世らしい遺構の数々。まさに「つわものどもが夢の跡」です。天気の良い日に、ゆっくりと探索することをお勧めします。
[栃木県栃木市皆川城内町]
最後に
廃城巡りはいつも独りですが、この日は珍しく旧友二人と訪問。城マニアのくどい説明に良くぞ耐えてくれました。更に車で栃木市内を案内してもらい、感謝しております。
<蔵の街>
かつて舟運で栄えたなごりが、美しい景色として残されています。皆川広照が、山城(今回紹介の皆川城)からこの付近の平城に拠点を移したことが、栃木の繁栄の起点となりました。皆川氏が去っても、街の発展は続きました。
<水路>
城跡好きですが、水路好きでもあります。最高の散歩になりました。
とりあえず行ってみる。そうすると、こういう当てにしてなかった感動と出会えたりもしますよね。
小さいけど充実した旅となりました。
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タグ:栃木
2017年02月21日
皆川城のなごり@蒼天の山城
■蒼天の山城■
<山頂の石碑>
標高147mの典型的な城山です。麓から頂上までは50mくらいでしょう。
つわものどもが夢の跡
小山氏一門にして、結城氏とも関係の深い皆川氏。今回はその皆川氏の居城跡の訪問記録です。
■行きにくい■最初に
多少の距離なら気にしませんが、この城は最寄駅(栃木駅)から徒歩という訳にはいきません。そりゃ昔の人のことを思えば何とか歩けますが、普通の感覚だとお勧めできません。場所ですが、「皆川城」でネット検索すると「皆川城カントリークラブ」とか「皆川CC」といった名が表示されます。それで大筋間違いありません。城跡はそのゴルフクラブのお隣の山です。
特徴的な山なので、すぐに見つかります。ただ、整備された大きな道があるわけではないので、見えてるのになかなか近づけない。私の場合はそうでした。ただ、着いてしまえば無料駐車場があり便利。いきなり土塁が出迎えてくれますので、気分が盛り上がりますよ。
■訪問記■本題へ
無料駐車場から山城へ。まず麓から。素通りしないで、まずはしっかり神社に立ち寄りました。小さいですが、それぞれに感じ入るものがありました。
<雷電神社>
これは昔から雷の被害が多い関東では良く耳にする名ですね。山城の麓に鎮座しています。
<厳島神社>
鳥居はありませんが神社。これは良く見かける光景ですね。この城の溜池はどこだったのだろう・・・などと考えながらしばし眺める。
さて、もうすこし進むと・・・
<皆川城跡>
出ました!期待通りの山城が目の前に・・・
この傾斜角、曲輪(くるわ)の数・・・近いと圧倒されます。説明が長くなるので、この帯状の曲輪については次の投稿にまわすとして、以下は城内の画像です。
<遺構が沢山>
公園として整備され過ぎてないエリアもあります。いいですね。
<登山道>
少し迂回することになりますが、なだらかな登山道も整備されています。のんびり登りたい人には最適。
<岩の斜面>
山城の本丸に近づくと地質に変化が・・。
佐野市の唐沢山城や太田市の金山城(両方山城です)でも似たような経験をしました。麓より、山頂に近いほうに岩が目立つ。このエリアの地層の特徴なのかも知れませんね(素人の推定です)。
<城内にて>
戦国時代、この辺りは各方面からの大きな勢力にさらされ、何度となく戦乱に巻き込まれます。そう、激戦区です。小さな勢力が生き残るのは簡単なことではありませんでした。
つわものどもが夢の跡
この地はまさにそんな城跡です。
皆川氏の歴史は長く、全て書けないので切りの良いところだけ触れさせて頂くと、戦国末期には小田原北条氏の傘下に下っていました。その北条氏を秀吉が滅ぼす(小田原征伐)のタイミングで領地を失う氏族は多々ありますが、皆川氏は当主・皆川広照(ひろてる)の計らいで秀吉の許しを得ています。どうも北条氏の小田原城が落ちる前に徳川家康に接近し、上手くふるまったようです。皆川広照は処世術にも優れていたのですね。まぁ武力だけがつわものの証ではありません。やがて秀吉が去り徳川の時代になると、皆川氏は譜代大名として扱われました。
ここ皆川城ですが、皆川広照が別な城(栃木城)を築いて去ったことで廃城となりました。
[栃木県栃木市皆川城内町]
※皆川城のなごりAへ続きます
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<山頂の石碑>
標高147mの典型的な城山です。麓から頂上までは50mくらいでしょう。
つわものどもが夢の跡
小山氏一門にして、結城氏とも関係の深い皆川氏。今回はその皆川氏の居城跡の訪問記録です。
■行きにくい■最初に
多少の距離なら気にしませんが、この城は最寄駅(栃木駅)から徒歩という訳にはいきません。そりゃ昔の人のことを思えば何とか歩けますが、普通の感覚だとお勧めできません。場所ですが、「皆川城」でネット検索すると「皆川城カントリークラブ」とか「皆川CC」といった名が表示されます。それで大筋間違いありません。城跡はそのゴルフクラブのお隣の山です。
特徴的な山なので、すぐに見つかります。ただ、整備された大きな道があるわけではないので、見えてるのになかなか近づけない。私の場合はそうでした。ただ、着いてしまえば無料駐車場があり便利。いきなり土塁が出迎えてくれますので、気分が盛り上がりますよ。
■訪問記■本題へ
無料駐車場から山城へ。まず麓から。素通りしないで、まずはしっかり神社に立ち寄りました。小さいですが、それぞれに感じ入るものがありました。
<雷電神社>
これは昔から雷の被害が多い関東では良く耳にする名ですね。山城の麓に鎮座しています。
<厳島神社>
鳥居はありませんが神社。これは良く見かける光景ですね。この城の溜池はどこだったのだろう・・・などと考えながらしばし眺める。
さて、もうすこし進むと・・・
<皆川城跡>
出ました!期待通りの山城が目の前に・・・
この傾斜角、曲輪(くるわ)の数・・・近いと圧倒されます。説明が長くなるので、この帯状の曲輪については次の投稿にまわすとして、以下は城内の画像です。
<遺構が沢山>
公園として整備され過ぎてないエリアもあります。いいですね。
<登山道>
少し迂回することになりますが、なだらかな登山道も整備されています。のんびり登りたい人には最適。
<岩の斜面>
山城の本丸に近づくと地質に変化が・・。
佐野市の唐沢山城や太田市の金山城(両方山城です)でも似たような経験をしました。麓より、山頂に近いほうに岩が目立つ。このエリアの地層の特徴なのかも知れませんね(素人の推定です)。
<城内にて>
戦国時代、この辺りは各方面からの大きな勢力にさらされ、何度となく戦乱に巻き込まれます。そう、激戦区です。小さな勢力が生き残るのは簡単なことではありませんでした。
つわものどもが夢の跡
この地はまさにそんな城跡です。
皆川氏の歴史は長く、全て書けないので切りの良いところだけ触れさせて頂くと、戦国末期には小田原北条氏の傘下に下っていました。その北条氏を秀吉が滅ぼす(小田原征伐)のタイミングで領地を失う氏族は多々ありますが、皆川氏は当主・皆川広照(ひろてる)の計らいで秀吉の許しを得ています。どうも北条氏の小田原城が落ちる前に徳川家康に接近し、上手くふるまったようです。皆川広照は処世術にも優れていたのですね。まぁ武力だけがつわものの証ではありません。やがて秀吉が去り徳川の時代になると、皆川氏は譜代大名として扱われました。
ここ皆川城ですが、皆川広照が別な城(栃木城)を築いて去ったことで廃城となりました。
[栃木県栃木市皆川城内町]
※皆川城のなごりAへ続きます
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タグ:栃木
2017年02月20日
結城氏館のなごり (城の内遺跡)
筑西市の城跡巡りを終えた帰り道、お隣の結城駅で下車しました。
駅の北側には結城城跡があります。ただ、既に何回か訪問しているため、この日は残された時間でまだ行ったことがない場所へ
つわものどもが夢の跡
あの名門結城氏の初代の館跡を訪ねました。
<結城朝光館跡>
結城氏の祖である結城朝光によって築かれたとされています(鎌倉時代初期)。以降、結城城が築かれるまで、ここが結城氏歴代当主の館でした。
<入口>
案内だと「城の内遺跡」となっています。結城駅から南に向かって1km強。道が真っ直ぐなので迷いません。公園として整備され、ややあっさりしています
<土塁跡>
館を囲む土塁の跡ですね。館はこの時代に多い方形の居館だったと思われます。
<堀跡>
そして堀跡。勿論、昔はもっと深かったのでしょう。
遺構は無いような話を聞いていたのですが、ちゃんと残されていますね。かつてこの地にあったとされる館のなごりですね。
ただ
どうも「ここが結城氏の館だ!」という確かな証拠はないようです。
結城氏は鎌倉公方を支えた関東の名家。関東八屋形(鎌倉公方に認められた名族の八家:宇都宮氏・小田氏・小山氏・佐竹氏・千葉氏・長沼氏・那須氏・結城氏)の一つに数えられます。その歴代当主の館跡なら、裏付けとなる何らかの文献が残っていても良さそうなものですが、現時点ではあくまで「推定」とのこと。
まぁどうであれ
結城城から約2qのこんな場所に痕跡が残されているのですから、結城氏と関わりのある館跡なのでしょう。
そう納得して、この日の城跡巡りの締めくくりとしました。
[茨城県結城市大字結城]
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駅の北側には結城城跡があります。ただ、既に何回か訪問しているため、この日は残された時間でまだ行ったことがない場所へ
つわものどもが夢の跡
あの名門結城氏の初代の館跡を訪ねました。
<結城朝光館跡>
結城氏の祖である結城朝光によって築かれたとされています(鎌倉時代初期)。以降、結城城が築かれるまで、ここが結城氏歴代当主の館でした。
<入口>
案内だと「城の内遺跡」となっています。結城駅から南に向かって1km強。道が真っ直ぐなので迷いません。公園として整備され、ややあっさりしています
<土塁跡>
館を囲む土塁の跡ですね。館はこの時代に多い方形の居館だったと思われます。
<堀跡>
そして堀跡。勿論、昔はもっと深かったのでしょう。
遺構は無いような話を聞いていたのですが、ちゃんと残されていますね。かつてこの地にあったとされる館のなごりですね。
ただ
どうも「ここが結城氏の館だ!」という確かな証拠はないようです。
結城氏は鎌倉公方を支えた関東の名家。関東八屋形(鎌倉公方に認められた名族の八家:宇都宮氏・小田氏・小山氏・佐竹氏・千葉氏・長沼氏・那須氏・結城氏)の一つに数えられます。その歴代当主の館跡なら、裏付けとなる何らかの文献が残っていても良さそうなものですが、現時点ではあくまで「推定」とのこと。
まぁどうであれ
結城城から約2qのこんな場所に痕跡が残されているのですから、結城氏と関わりのある館跡なのでしょう。
そう納得して、この日の城跡巡りの締めくくりとしました。
[茨城県結城市大字結城]
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タグ:茨城