暗渠と城跡
都内にもあるつわものどもが夢の跡。暗渠をからめた楽しみ方、二つ目の例として世田谷城跡と烏山川緑道をご紹介します。
■世田谷城■
<世田谷城跡>
城址公園として整備されています
<遺構>
<現地説明板>
空堀あり、土塁あり、、、ですね。23区内としてはとても貴重な遺構です。城跡好きとしては有難いですね。ただ、ここはもともとの世田谷城のほんの一部に過ぎません。
<豪徳寺>
立派ですね。実はここが世田谷城の本丸(主郭)跡です。
井伊家の菩提寺です
豪徳寺を含め、この辺り一帯が全て城跡ということになります。まぁ城のなごりを一番留めているのは冒頭の世田谷城址公園ということになりますが、例えば豪徳寺の参道付近でも、土塁の痕跡を見ることもできます。
<土塁>
参道わきの壁の向こう側になります。一部ですが残っています。
この街の中の城跡、吉良氏による築城とされています。吉良氏といえば足利一門の名門。その居城でした。ただ、と言うかだからなのか、吉良氏はあまりガツガツ感が無く、勢力は徐々に低迷していきます。そして戦国時代末期には小田原の北条氏の配下となっていましたが、秀吉による小田原城征伐の際には特に抗うこともなく、領地は没収されてしまいます。世田谷城はこの時に廃城となりました。
ただ、そのまま没落しないところはさすが名門です。徳川の時代になると、吉良氏は高家として扱われ、旗本になっています。幕府の儀典関連を取りまとめる家となり、やがてその名は上野介が赤穂浪士に討たれることにより、後世の誰もが知る家名となりました。あの、知られ方はともかくもともと名門です。(ちょっとだけフォロー)。
話を世田谷城にもどします。
分類すると山城ということになりますが、現地ではあまり「山」を実感できません。ただまぁ城山通りという名の道もあるし、台地の先端部に立地していることは間違いないようです。
<現地の地図>
北側以外の三方に川(緑の線がそうです)があることが分ります。人の手による堀や土塁以外に、この川も天然堀の役割を果たしていたのでしょう。又は、運搬の手段だったかも知れません。
<現在の烏山川>
天然堀だったかつての川は、地下に埋設されています。いわゆる暗渠(あんきょ)ですね。道になっても、この蛇行が川のなごりを留めています。そして城下橋の文字。この付近、暗渠になる前は橋があったのですね。これも川のなごり。無言の暗渠がいろいろと教えてくれています。
微高地に位置し、三方は川だった。
これが世田谷城の地の利ということになりますね。
<烏山川緑道>
とりあえず行ってみる。結果として歩く。これが目標なので、かつては川だった道を散歩してから帰りました。城巡りのあとは暗渠散歩です。
■訪問:世田谷城
(豪徳寺・世田谷城址公園)
[東京都世田谷区豪徳寺]
【補足】
電車の場合は世田谷線が良いですね。城跡は宮の坂駅 から徒歩5分程度。烏山川緑道を含め、豪徳寺・世田谷城址公園をゆっくりと回る「街歩き」をお勧めします。
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--------追 記--------
■世田谷の川■
城跡の話は終わりにして、ここからはちょっと川の話を。現地で撮影した解説図のアップです。
<世田谷の緑道と河川>
世田谷にもいろんな川があったのですね。全てを訪ねたことはないので分りませんが、烏山川同様、きっと暗渠化が進んでいるのでしょう。呑川(のみかわ)なんていう名もありますね。何となくいい名前です(かなり個人的に)。あ、烏山川と東の方で合流するようです。他に奥沢城付近の九品仏川(くほんぶつがわ)。地表から姿を消しても、きっとそれぞれの川が何かしらのなごりを残しているのだと思います。
そして蛇崩川(じゃくずれがわ)。ここはわざわざ見に行ったことがあります。
<蛇崩川の暗渠の出口>
蛇崩川は世田谷区と目黒区を流れる川なんですが、全域が暗渠化されています。陽の当たる場所といったら、目黒川(手前)と合流する寸前のこの僅かな区間のみ。ありのままの姿からは程遠く、何やら不憫に思うのは私だけでしょうか。ただこちらの思惑とは関係なく、水はたんたんと流れ続けています。
やや長くなりましたが、お読み頂きありがとうございます。
2017年02月24日
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