つわものどもが夢の跡
今回の訪問は世田谷区の奥沢城です。最寄り駅でいうと「自由が丘」のお隣の九品仏駅。凄い所にある城跡ですね。吉良氏の居城・世田谷城の支城です。そして、その名門家も巻き込んだ悲しい姫様の伝説が語り継がれる城跡です。
<城跡北側>
右側は城が築かれた微高地。手前の道ですが、これは川。暗渠化された九品仏川です。奥沢城は水の豊富な低湿地に守られた城でした。
■ 奥沢の城 ■おくさわ
戦国時代、この付近は吉良氏が領していました。奥沢城は世田谷城主の吉良頼康が、支城として築いた城です。高級住宅地となった今ではとても想像できませんが、当時は湿地が多かったようです。奥沢城は、そんな低湿地に向かって突き出した舌状台地の上に築かれました。台地といっても劇的な高低差があるわけではなく、微高地といったところでしょうか。分類すると平城(ひらじろ)で良いかと思います。
やがて戦国末期になると、吉良氏は小田原北条氏の配下となっていました。配下といっても名門家故に、他とはちょっと違う待遇だったようですが、どの勢力下にあったかといえば、やはり北条氏ということになります。その北条氏が秀吉によって滅ぼされるのが1590年。この頃に奥沢城も廃城となったようです。
<石碑>
石碑の背後も土塁となっています。
<土塁>
方形の城を囲むように土塁が設けられました。その全てが残っているわけではありませんが、場所によっては良好な状態です。
■九品仏浄真寺■ くほんぶつじょうしんじ
奥沢城跡は現在寺院となっています。
<総門>
[世田谷区奥沢]7- 41-3
廃城からそうとう後の話になります。1678年(延宝六年)、かつての城跡に珂碩(かせき)上人が九品山浄真寺を開山しました。境内の3つの阿弥陀堂それぞれに、3体の阿弥陀如来像が安置されています。つまり計9体ですね。九品仏の名の由来です。
<東門>
<鐘楼>
<仁王門>
東京23区内とは思えない静けさ。そしてこの緑の多さ。とても贅沢な空間です。
寺院としての見どころはもっと沢山あります。城跡ブログなのでこのへんで。再び遺構と思われる画像を。
<境内と遺構>
仁王門付近です。奥沢城の石碑があったところを横から撮影しました。だいぶ形は崩れていますが、鐘楼との間が土塁となっています。これは城全体を囲む土塁とは別ものなので、内部がいくつかの区画に分けられていたのかもしれませんね。
<北側の土塁>
ここも土塁跡です。
<南側の土塁>
奥の方が土塁なんですが、伝わりますでしょうか。
加筆するとこんな感じになります。城跡と外を隔てる土塁です。ちょっと大げさに筆を入れてしまいました。位置の確認ということでお許し下さい。
■ 九品仏川と奥沢城 ■
----舌状台地の東側----
<九品仏川>
これはお隣の自由が丘駅近くの九品仏川。まぁ普通はただの歩道としか思わないでしょうが、暗渠化された川です。川が行政区の境目になっているので、歩道の両サイドで区が異なります。目黒区と世田谷区の区境です。
<暗渠>
高台と低地が混在するこのエリア。低地を流れ、かつて湿地帯を造り出していたのがこの九品仏川ということになります。
では上流に向かいますかね。
方角でいうと西です。行った先には、奥沢城が築かれた舌状台地があります。
<橋の跡>
上流で橋の跡と出会いました。
<城向橋>しろむかいばし
かつてここには「しろむかいばし」という名の橋があったのですね。ここは奥沢城の東側。城の向かいにある橋といった意味でしょうか。今では橋もなく、川の姿も見えません。向かいの城も失われました。それでも残る「城向橋」の文字。いいですね。そして上部には白鷺のマークが記されています。これはこの地に伝わる姫様の悲話を暗示しています。
----舌状台地の北側----
<低湿地のなごり>
更に上流へ進むとこんな感じになります。冒頭の画像と同様、城の北側に回り込んだ場所です。開発により湿地は姿を消しましたが、暗渠により川の流路は確認できます。
地図だと、この九品仏川は城が築かれた舌状台地の付近から始まっています。あるいは、この付近に水源があったのかもしれませんね。
----舌状台地の西側----
城の東側も低地、そして北側も低地でした。西側ですが、やはり低地です。これを実感すべく探索を続けました。
<坂道>
暗渠のように水を感じられるものが見つけられなかったので、ごく単純に坂道を撮影しました。西側の低地へ続きます。その低地を更に西へと進み、再びゆるやかな台地へ登った先に、こんな石碑がありました。
<中丸跡>
整然とした住宅地にポツンと・・・
住所だと等々力5丁目です。中丸とは?奥沢城の出丸でも設けられていたのでしょうか。興味津々でしたが、結論を言うと、はっきりしたことは分りませんでした。
<中丸跡付近より撮影>
ただこの付近も高台となっていることは明らか。奥沢城と同じく、水の豊富な低地に面した微高地です。城の付属施設として砦などが設けられるのに相応しい場所かもしれません。推定の域を出ませんので、今回は「現地でそういうことを妄想した」というところで留めておきます。
城跡とその周辺はだいたいこんな感じです。最後に、この城にまつわる姫様の悲話をご紹介します。
■ 常盤姫の悲話 ■
『奥沢城主の大平出羽守には、常盤という美しい娘がいました。吉良氏に側室として迎えられますが、これが悲劇の始まり。他の側室たちに妬まれ、無実の罪を背負わされ、最後は自害に追い込まれます。その直前、常盤姫は父への文を白鷺の足に付け託していました。しかし雨に打たれた白鷺は、奥沢城の近くで力尽き、助けを求める思いは届きませんでした。
村人に発見された白鷺の亡きがらは丁寧に葬られ、やがてその場所には美しい花が咲きました。花はあたかも白鷺が舞い立つ姿にそっくりでした。常盤姫の悲しい運命を偲んで、この花は鷺草と名付けられました。』
常盤姫の悲話は、ざっとこんなお話です。もっと細かい説明がついているものや、背景や設定が若干違うお話もあります。つまりいくつか種類があります。ただ「姫様は吉良家で幸せに過ごしましたとさ、ちゃんちゃん」という類のお話は見当たりません。
<鷺草>さぎそう
本堂脇の一画で鷺草を見ることができます。かつては境内にもっと広いサギソウ園があったようですが、説明板もあるし、こうして残してもらえるだけ有難いです。
鷺草は湿地帯に繁殖するそうです。鷺草伝説が語り継がれるこの付近の、当時の風景が思い浮かびますね。
私の訪問は6月下旬。残念ながら、まだ鷺草は咲いていませんでした。咲き誇るのは8月頃とのことです。ちょっと暑い時期ですが、境内は緑豊かで木陰もありますので、開花に合わせて訪問してみては如何でしょうか。
以上です。最後までお読み頂き、ありがとうございます。
<九品仏浄真寺の手水舎>
鷺草は世田谷区の花となっています。
-------■ 奥沢城 ■-------
築城年:不明
築城者:吉良頼康
城 主:大平氏(吉良氏家臣)
廃城年:1590年
現 状 :九品仏浄真寺
[東京都世田谷区奥沢]
お城巡りランキング
2018年07月01日
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