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2020年12月22日

岡崎公園(岡崎城跡)の本多平八郎忠勝像

<本多忠勝像>ほんだ ただかつ
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岡崎公園内の本多忠勝像です。通称は平八郎。徳川四天王のひとりです。鹿角兜と甲冑を身にまとい、長い槍を携えています。

本多平八郎忠勝はここ岡崎の生まれ。幼い頃から家康に仕え、幾多の戦場で巧を立て、家康にとってなくてはならない存在となりました。

<蜻蛉切>どんぼぎり
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忠勝が所持するこの槍は蜻蛉切と呼ばれています。穂先に止まったトンボが真っ二つになったという逸話がその名の由来。これを振り回す本多忠勝は、初陣から大小57回の戦に出向きながら、生涯無傷であったそうです。家康の戦いは決して楽なものばかりではありません。大敗もありました。それでいながら無傷!このあたりが『戦国最強の武将』と呼ばれる所以かもしれません。

豊臣秀吉は
日本第一、古今独歩の勇士
織田信長は
花も実も兼ね備えた武将
と褒めたたえました

<岡崎城>
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ここ岡崎城は家康生誕の地であり、当時の三河の最重要拠点です。この地に銅像が建つのですから、家康からの信頼厚い忠勝が城を任されたこともあったのでしょう?と現地では思いましたが、ちょっと違っていました。

明治維新を迎えた時、岡崎藩は本多家(本多平八郎家)が治めていました。最後の藩主となった本多忠直の死後、家督を継いだ忠敬(ただあつ)により旧岡崎城は岡崎市へ寄付され、市民憩いの場として生まれ変わりました。

<岡崎公園>
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本多平八郎忠勝の銅像は、本多家の先祖を称える意味でこの地に設置されたわけですね

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敵味方から賞賛された猛将です

■訪問:本多平八郎忠勝公像
岡崎公園(岡崎城跡)
[愛知県岡崎市康生町]


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2020年12月13日

岡崎公園(岡崎城跡)の徳川家康しかみ像

本日放送のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』(第36回「訣別」)では、上洛途上にある甲斐の武田信玄が、浜松の徳川家康に攻めかかっている様子が充分すぎるほど伝わってきました。が、家康は登場せず!戦況の報告のみ!残念です!この時の武田信玄対徳川家康の戦い(三方ヶ原の戦い)は、武田軍が約2万7千に対し徳川軍は約7千。織田信長からの援軍3千を含めても徳川方は約1万でした。数で勝る武田軍ですが、家康の居城・浜松城への城攻めは行わず、三方原の台地へおびき出してから野戦で完膚なきまでに徳川・織田の連合軍をたたきました。家康は多くの優秀な家臣を失うこととなり、本人も命からがら浜松へ逃げ帰りました。

<顰像>しかみぞう
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家康が逃げ延びた先は浜松城ですが、こちらの画像は家康生誕の地である岡崎城(岡崎公園)にて撮影したものです。有名な肖像画『徳川家康三方ヶ原戦役画像』をモチーフに造られた家康像が展示されています。

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惨敗した直後の姿です。この時31歳。家康は無謀な戦い方をして大敗した自分の姿を描かせ、その後の教訓としたとされています。家臣の犠牲を代償に生き延びた敗軍の将です。この失敗を生涯忘れず、のちに天下人と成るわけですね

『三方ヶ原の戦い』は、三河一向一揆伊賀越えと並んで徳川家康の三大危機とされています。『麒麟がくる』の主役はあくまで明智光秀ですが、これまで脇役としての家康も要所要所で上手く描かれてきました。新たに登場した武田信玄の迫力も良かったので、ちょっとだけ、ホントにちょっとで良いので、その武田に挑み、負けるとはいえ奮闘する家康及び家臣団の姿が見たかったですね。

ということで
期待して『麒麟がくる』を観ていたが、家康の出番はなかったというお話でした。こんな思いつきの投稿にお付き合い頂き、ありがとうございます。

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岡崎公園には立派な家康像もあります

■画像撮影:
岡崎公園(岡崎城跡)
[愛知県岡崎市康生町]


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2020年12月12日

東照公産湯の井戸(岡崎城跡)

徳川家康生誕の城として知られる岡崎城跡にて、こんな光景と出会いました。

<東照公産湯の井戸>
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<説明板>
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東照公つまり徳川家康が誕生した時、こちらの井戸で汲んだ水を産湯として使用したということですね。場所は岡崎公園の西側。伊賀川沿いの低いところにあります。

<井戸の水>
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産湯の井戸は柵で囲まれたうえに閉じられていますが、こちらの水場で井戸から汲み上げた水に触れることができます。開運スポットとしても人気です。のちに大出世して天下泰平の世を築く人物ですからね。

その当時、家康の父は岡崎城主。そして家康本人は城内で誕生した。

どうしても恵まれた環境を想像してしまいますね。ただ、当時の松平家は三河の小豪族に過ぎません。周辺の大きな勢力に翻弄され続け、その道のりは苦難の連続でした。

<竹千代像>
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家康の幼名は竹千代。幼少を過ごした城であることから、公園内では『竹千代』の名をよく目にします。

三河には松平家の分家が多数存在しますが、家康は安祥松平家の出。安祥城を居城としていましたが、家康の祖父の代に岡崎松平家と対立し、結果として岡崎城を手中に収め(途中は大幅に省略)、拠点を岡崎に移しました。この時点で三河をほぼ支配するに至りながらも、祖父は家臣に暗殺されてしまい、その勢力は徐々に衰えます。家康の父は受け継いだ地を守るべく、駿河の今川義元の助けを得る道を選びました。

駿河の今川家

言わずと知れた巨大な勢力ですね。この存在を抜きに若き日の家康は語れません。8歳から19歳の間、家康は今川家の人質として駿府で暮らしました。今川義元より偏諱を受けて元信と名乗り、続いて元康と名乗りました。松平元康です。

<岡崎城>
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父の死後、家康の生誕地であるここ岡崎城は今川家に接収されてしまいます。その支配は、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれるまで続きました。今川義元死後の混乱に乗じて、家康は岡崎城への帰還を果たし、今川家から独立します。そして元康の「元」の字も返上しました。

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家康がここ岡崎城で生を受けてから19年後のことです

■訪問:東照公産湯の井戸
岡崎公園(岡崎城跡)
[愛知県岡崎市康生町]


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2020年12月09日

徳川家康像(岡崎市)未来に挑む家康の雄姿

今回は勇ましく若々しい徳川家康像のご紹介です。

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伊達政宗並みの迫力!こちらは名鉄東岡崎駅近く。商業施設へ通じるデッキ上に設置されています。お披露目は2019年11月ということで、まだ新しいのですね。徳川家康の一般的なイメージとは異なり、かなりスマートで格好いい。

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大きいです。なんでも日本最大級とのこと

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25歳当時の姿をイメージしているそうです。丁度松平から徳川に改称した時期。若武者像です。
浜松へ移る前はここ岡崎が家康の本拠地でした。それに相応しい姿ということですね。

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厭離穢土  欣求浄土
おんりえど ごんぐじょうど

若き家康(松平元康)が松平家菩提寺・大樹寺の住職から授かった言葉です。家康はこの言葉を記した旗を掲げ、乱世に立ち向かいました。

家康はやがて戦のない世を築き上げますが、それはずっとずっと先の話。岡崎城を居城とする家康には、数えきれないほどの試練が待ち受けています。そんな未来に挑む姿ということですね。

■訪問:徳川家康像
[愛知県岡崎市上明大寺町]2丁目


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2020年12月06日

若き家康が生涯の教えを得た大樹寺(岡崎市)松平家菩提寺

今回の訪問は三河松平家の菩提寺として知られるお寺です。

■大樹寺■だいじゅじ
<山門>
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愛知県岡崎市の大樹寺です。さすがに凄いですね。徳川家康生誕地の地である岡崎城から北へ約3km。松平家4代当主の親忠(ちかただ)が、戦死者供養のため創建(1475年)したことに始まります。この重みのある山門は、三代将軍の家光が家康の十七回忌を機に建立したと伝わります。

<低地から撮影>
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私は愛知環状鉄道の大門駅から徒歩で現地へ向かいました。柿田川に架かる橋の手前から境内の多宝塔を撮影。川を挟んだ丘。大樹寺はまるで砦のような場所に位置しています。

<丘の上>
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この高台からは岡崎城を望むことができます。同じく、岡崎城の天守からも松平家の菩提寺である大樹寺を眺めることができます。徳川家光は、大樹寺に大掛かりな造営を施すにあたり、本堂から山門を通して城が望めるように建物を配置しました。その景観を守るため、いまでも城と寺の直線上に高層建築物を建てることは許されていないそうです。

<多宝塔>
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坂の下から見えていた多宝塔

<多宝塔説明板>
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重要文化財です。松平家といえども順風満帆ではなく、運命を共にする寺にも衰退期はありました。しかし7代当主清康により再興され、多宝塔はその頃に建立されたとされています(1535年)。

<鐘楼>しょうろう
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<手水舎>ちょうずや
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そして

<本堂>
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本尊の阿弥陀如来は平安末期の作られたものだそうです。そして、家康の遺言により歴代将軍の位牌が安置されています。位牌といっても等身大サイズで、かなり大きいものです。


■三河松平家墓所■
イメージしやすい言葉として『三河松平家』と言ってしまいますが、実際には分家がたくさんあります。家康のご先祖様は安祥松平家。その歴代当主の8人のお墓が大樹寺にあります。

<松平八大墓>まつだいらはちだいぼ
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個別のお墓は撮影を遠慮して入口を撮影

<説明板>
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始祖とされている松平親氏から始まり、八代当主の広忠までがこの地で眠っています。広忠は岡崎三郎を名乗った家康の父です。


■若き日の家康の逸話■
徳川家康はもともと今川家配下の武将(当時の名は松平元康)。今川義元が桶狭間の戦いで織田信長と激突した際は、今川軍に属していました。この2万5千の大軍は、僅か3千(〜5千)の織田軍の奇襲により総大将の義元が討ち取られ、総崩れとなります。どの時点かはっきりしませんが、今川軍を離反する行動に出た家康は、身の危険に晒されながら今川家の支配下となっていた故郷・岡崎に逃れます。何とかこの寺に逃げ込んだものの、周囲を取り囲まれ、先祖の墓前で死ぬことまで覚悟しました。

しかし当時19歳の家康(元康)に、住職が仏の教えを説いて諭したとされています。十三代住職である登誉上人住職が家康に贈った言葉が

 厭離穢土  欣求浄土
おんりえど ごんぐじょうど

苦悩の多い穢れた世を厭(いと)い
離れたいと願い
心から欣(よろこ)んで
平和な極楽浄土を冀(こいねが)う

戦乱の世を住み良い浄土にすることを己に課した瞬間とも言えますね。切腹を思いとどまった家康は、寺の僧とともに敵を退散させ、今川軍の去った岡崎城にたどりついたとされています。徳川家(松平家)が今川から独立した瞬間です。

家康はこの時の住職の教えを生涯の宝としました。その後も幾度となく窮地に追い込まれますが、何とか生き延びています。大樹寺で再起を誓った若き日の思いは、その後の波乱万丈の人生の糧となったわけですね。

つわものどもが夢の跡
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大樹は征夷大将軍を意味しています

■訪問:大樹寺
(成道山松安院大樹寺)
[愛知県岡崎市鴨田町]

※厭離穢土欣求浄土について今回もWikiさんのお世話になりました
[参考:Wikipedia2020/12/6]


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2020年12月01日

石川数正が岡崎三郎信康を祀った神社(岡崎市)若宮八幡神社

若くして亡くなった徳川家康の長男・信康ゆかりの地を訪ねました。

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囲いの中には信康の首塚があります。

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ここは愛知県岡崎市。信康が祀られた若宮八幡神社です。

■家康長男の切腹■
1579年、岡崎城主となっていた信康は、織田信長より武田内通の疑いをかけられ、切腹させられることになりました。まだ21歳です。家康の長男であり、信長の娘を嫁とし、将来を嘱望された武将だったはずなのですが・・・
この背景については諸説あります。専門の方々の研究結果ですので、それぞれ納得してしまいます。ただそれらの中で、私個人は「織田信長が将来を見据えて潰した」という説に重みを感じています。信康については、乱暴者であったという話もありますが、賢明にして勇猛果敢であったという話もあります。どちらかといえば後者を信じたいですね。そして、家康としても不本意であったと思いたいです。徳川と織田が同盟関係といっても、並列の関係ではありません。信長には逆らえなかった。そういうイメージが拭いきれません。

介錯役を命じられたのは服部半蔵でした。しかし、鬼と呼ばれた男もこれを果たすことはできず、検死役が代わって介錯したそうです。

我れ天道に逆らって父に謀反し勝頼に一味するという汚名こそ死出の防げぞ。このことだけは父上によく聞こえ上げてくれよ

そう言い残し、信康はこの世を去りました。天道に逆うようなことはしていない。父にそれだけは分かって欲しい。まだ若く血気盛んな若武者です。無念だったことでしょう。

信康の遺体は切腹した城(二俣城)近くに葬られ、首級は織田信長の首実検を経てから、岡崎に戻されたそうです。一旦は別の場所(根石原観音堂)に葬られましたが、のちに今回訪問の若宮八幡宮へ移されました。

<若宮八幡宮>
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若宮八幡宮は、岡崎城代となっていた石川数正が、信康の霊を祀った神社です。石川数正は家康屈指の家臣であると同時に、信康の後見人でした。城主となったとはいえまだ若い信康に代わって政務を取り仕切りながら、信康がいつか徳川家の当主となるよう支援してきました。数正は人間味溢れる三河家臣団にあってはあまり感情を表に出さない男だったそうです。信康がいなくなった城を城代として守りながら、どんな思いで過ごしたのでしょうか。

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社殿の右横が信康の首塚です。訪問する前のイメージより質素な感じがしました

Wikiさんから引用させて頂くと
『1945年(昭和20年)7月20日の岡崎空襲により、土蔵を残して全焼。社殿は再建されたが旧観はない』とのこと。そうですか。むかしはどんな感じだったのでしょう。

ただ、創建当時の雰囲気が失われても、石川数正の思いが、ここに引き継がれていることに変わりありません。そう受け止め、現地をあとにしました。

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当主となり、将軍になるはずだった戦国武将の首塚です。中も撮影できますが、遠慮させて頂きました。

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徳川家康の父である松平広忠と同じく、信康は岡崎三郎と名乗りました。跡取りに相応しい名前ですね。

■訪問:若宮八幡宮
[愛知県岡崎市朝日町]

■参考及び抜粋した資料
[Wikipedia2020/12/1]


------- 補 足 -------
文中に登場してもらった服部半蔵は、晩年信康の菩提をとむらうため西念と号し、仏門に帰依したと伝わります。これについては別途投稿していますので、良かったら覗いてみて下さい。
■半蔵の眠る丘(西念寺)
→『記事へすすむ


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2020年11月30日

浜松城のなごり 家康が17年間居城とした城

つわものどもが夢の跡
今回は「出世の城」と呼ばれる浜松城です

<浜松城天守閣>
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徳川家康が17年間にわたり居城とした城です

■浜松城の前身■
この地にはもともと曳馬城(引間城)と呼ばれる城がありました。浜松城の前身といわれる小規模な山城です。築城者については諸説ありますが、遠江今川氏4代当主の貞相が15世紀ごろに築いたという説が有力です。

<曳馬城跡の石碑>ひくまじょう
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<引間城(曳馬城)説明板>
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説明には尾張の斯波氏と駿河の今川氏の名が記されています。両氏とも足利一門の名家。この地は名門同士の抗争の場となったわけですね。やがて今川氏の治めるところとなり、その城を徳川家康が攻め落とし、拡張して浜松城を築きました。引間という地名を浜松に改めたのも家康とされています。

<元城町東照宮>
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徳川家康が浜松城を築城すると、もともとあった曳馬城の区画は「古城」と呼ばれ、米蔵として利用されたようです。浜松城が廃城となったのち、東照宮が建立され今に至っています。


■徳川家康の城■
徳川家康のもともとの居城は、生誕の地でもある三河国岡崎城です。織田信長と同盟を結んだ家康は、拠点の西側を心配する必要がなくなったことから、長男の信康に岡崎城を任せ、武田信玄に備えるべく、本拠地を浜松に移しました。この時29歳。45歳までの17年間ここ浜松城が家康の居城でした。

戦国時代屈指の武将の17年間は、こんなブログではとてもご紹介できないので、有名な戦いだけ下記に記しておきます。

1570年:姉川の戦い
〇織田・徳川 対 浅井・朝倉
1572年: 三方ヶ原の合戦
徳川 対 ◎武田信玄(武田圧勝)
1575年:長篠の戦い
〇織田・徳川 対 武田勝頼
1584年:小牧・長久手の戦い
徳川・織田信雄 対 △羽柴秀吉
(戦は徳川勝利・交渉は羽柴勝利)

ちなみに
武田信玄が亡くなるのは1573年
織田信長が亡くなるのは1582年
です。

激動の、そして試練の時だったわけですね。特に武田信玄とまともに激突した三方ヶ原の戦いは、徳川家康の大敗として知られる戦です。命からがら浜松に逃げ帰った家康にまつわる逸話もたくさんあります。

戦い以外のドラマも沢山ありました。長男・信康が信長の娘と結婚するものの、やがて切腹。次男秀康に続き、のちに当主となる秀忠の誕生などなど。書ききれません。

<秀忠生誕の地>
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ここ浜松城はやがて二代将軍となる徳川秀忠生誕の地でもあります。


■家康は駿府へ■
戦乱を生き残った家康の支配は、三河・遠江に留まらず、駿河や信濃にまで拡大していきました。そうすると、全てを統治するには、浜松はちょっと西に寄りすぎています。そこで、家康は本拠地を東に移すこととし、駿府へ入ることにしました。諸説ありますが、これが家康が浜松城を去る理由とされています。

<家康時代の浜松城>
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家康時代の浜松城の説明板です。当時はまだ石垣は無く、土の城だったようです。

駿府は、三河生まれの家康が、8歳から19歳まで今川の人質として暮らした地。どのような思いだったのでしょう。ただ4年後の小田原征伐(1590年)ののち、家康は秀吉の命で更に東の関東へ移ることになります。


■天守閣■
徳川家康が関八州へ転封となると、浜松城には豊臣秀吉家臣の堀尾吉晴が12万石で入りました。浜松城に天守が築かれたのはこの頃とされています。

<天守閣(復元)>
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鉄筋コンクリートで再建された天守閣。浜松城の天守閣については資料がなく、改修者である堀尾吉晴が築いた別の城の天守閣を参考に造られたました。

<天守台>
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浜松城は天守閣よりその土台の石垣が有名です。

<野面積み>
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自然の石を加工せずそのまま積み上げるいわゆる野面積みの石垣。崩れそう?400年の風雪に耐えて今に至ります。

ハート.JPG
ハート型の石がちょっとした人気です。どこだか分かりますでしょうか?加工はしてないのですから偶然ですね。

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もともとの天守台の上に昭和の天守閣が載っている状態ということですね。

<天守門>
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天守曲輪の大手に復元された天守門

<天守曲輪>
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浜松城は本丸に天守閣があるのではなく、更に一段高い位置にある曲輪に設けられています

<徳川家康銅像>
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こちらは本丸跡に設置された『若き日の徳川家康公』です


■江戸時代■
堀尾氏の支配は10年続きますが、関ヶ原の戦い後は、譜代大名の松平忠頼が美濃金山より5万石で入ります。その後は江戸時代を通して譜代大名が代々城主を務め(江戸260年間で25代の城主)、かつて家康が17年も居城としたこともあって、浜松城の城主はいわば出世コースとなりました。出世城とも呼ばれたそうです。老中だけでも5人天保の改革の水野忠邦も、浜松城主を経験したのち老中となっています。

<縄張り図>
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城下町も含めて整備がなされた状態。いわば浜松城の完成形ですね。縄張り図だと、中央の二の丸が本丸や天守曲輪より目をひきます。

<二の丸の説明板>
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二の丸には、かつては政庁が設けられていました。この区画こそが、藩の政治の中心地だったようです。

ちょっと城の外に

<宿場町のなごり>
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街中でこんな説明板に足が止まりました。『本陣跡』です。本陣というと、戦で大将が陣取る場所と勘違いされそうですが、この場合は大名や幕府役人のために宿場に置かれた宿のことです。浜松には、ここ杉浦本陣を含めて6つの本陣が置かれたようです。

<町のなごり>
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こちらは高札場跡。こういった説明板はありがたいですね。

<大手門跡>
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縄張り図にもある大手門がこの位置ということですね。浜松城公園まではまだ距離がありますが、この付近から先はかつては城内だったということですね。

そして

<城跡>
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城の多くは失われましたが、中心部にはかつてのなごりが漂います

浜松城の廃城は明治になってから。現在は浜松城公園となっています

<公園>
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庭園を含む公園として整備されています。

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2017年には続日本100名城にも選定されました

以上

徳川家康が17年間居城とした浜松城のなごりでした。家康本人のみならず、250年以上続く徳川幕府の原点となった城とも言えますね。そして、幕府の幹部となる家臣の登竜門となった城です。

つわものどもが夢の跡
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-------■浜松城 ■-------
別 名:出世城
築城年:15世紀頃(曳馬城)
築城者:不明(今川氏)
改修者:徳川家康・堀尾吉晴 他
城 主:飯尾氏・徳川氏
堀尾氏・水野氏 他
廃 城:1871年(明治4)
[静岡県浜松市中区元城町]


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2020年11月14日

石川数正の鞍替えと徳川家康の城替え(浜松城を去る家康)

<家康像>
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浜松城で撮影した家康像です。下に『若き日の徳川家康公』と記されています。そういえば、他の銅像と比べると、ちょっとほっそりしていますかね。右手にはちょっと変わった武器?ではなく勝草(カチグサ)とも呼ばれたシダの葉です。

<浜松城>
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家康は17年もの間ここ浜松城を居城としました。強敵に囲まれながらも、この城を足掛かりに戦国大名としての地位を着々と確立していくわけですが、のちに駿府に拠点を移しています。この背景については諸説あります。そのうちのひとつ、重臣の一人だった石川数正の出奔が大きく影響したとする説をご紹介させて頂きます。理由は一つではないと思いますが、この説に重みを感じましたので。

石川数正(かずまさ)は、家康がまだ竹千代と名乗っていた頃から仕え、今川義元のところに人質として預けられていた時にも、そばに寄り添っていた側近中の側近です。家康の主要な合戦に出陣しては武功を挙げ、更に交渉術でも実力を発揮しました。酒井忠次らと共に初期の家康を支え、徳川家躍進に大きく貢献した武将です。

それにも関わらず
家康の元を去ることに

家康からの信頼も厚く、家老まで務めた人物の離反。戦国の世では、主君の鞍替えや裏切りは決して珍しくありませんが、結束が強い徳川家臣団ではそういう例が少なく、石川数正の出奔はかなり稀なケースと言えます。いや、忠義に厚い三河時代からの幹部に絞れば、石川数正は家康に背を向けた唯一の家臣かもしれません。この理由にも諸説(秀吉によるヘッドハンティング・家康の長男信康の切腹に起因する主君への不信感などなど)ありますが、真相は謎のままです。ただひとつだけはっきりしていることは、徳川家の軍事機密を知り尽くす石川数正が、よりによって豊臣秀吉の家臣となってしまったこと。家康はこの前年に小牧・長久手で秀吉と戦い、和睦したばかりです。この時点ではまだ秀吉は敵。大きな衝撃だったことでしょう。

これを境に、家康はそれまでの戦術を改め、武田流の戦術を取り入れたと言われています。そうせざるを得なかったのでしょうね。そして、数正が去った翌年(1586年)には、長年居城としてきた浜松城を離れ、駿府に移っています。

<家康像>
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駿府城の家康像です

繰り返しになりますが
家康が駿府に拠点を移す理由はひとつではないと思います。ただ、徳川軍の手の内を知り尽くし、城の縄張りまで熟知したいわば懐刀が、敵に渡ってしまった事実は重いですよね。時系列に状況を整理すると、やはり石川数正の離反は、家康が浜松城を去る大きな理由だったと思います。

<駿府城>
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-------■ 画像撮影 ■-------
浜松城
[静岡県浜松市中区元城町]
駿府城
[静岡県静岡市葵区駿府城公園]


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2020年11月09日

城用語 天端石・間石・飼石・裏込(栗石)・根石

今回は石垣の石のそれぞれの呼び名についてです。

<浜松城の説明板>
shirononagori493d.JPG
出典は100%この説明板です!右側の『野面積み』については別途投稿させて頂きましたので、今回は左下の石の呼び名について。

<実物>
shirononagori494 (1).JPG
浜松城の石垣。石を加工しないで積み上げる野面積みです。適当に積んでるわけではなく、石それぞれに役割があります。

<説明板拡大>
shirononagori494 (2).JPG
分かりやすい!では説明板にそって微力ながら補足させて頂きます。

■天端石■てんばいし
絵図を見ての通りですね。石垣の最上部の石です。天面の端に置く石とも言えます。

■間 石■あいいし
石と石の隙間をうめるための小さな石のことです。

■積み石■
そのままですね

■飼 石■かいいし
積み石と積み石の間に入れ、安定させるための石です。ただ隙間をうめるというより、しかりと支える役割も担っています。介石と記される場合もあります。

■裏 込■うらこみ
石垣の裏側に積み込まれる小さな石を指します。裏込石、あるいは栗石(ぐりいし)とも呼ばれます。これは積み石を固定しながら、石垣内部の排水を促す効果があります。石垣には内部に水が溜まり過ぎると崩壊するリスクがあります。水はけをよくするための石垣の構造、そのための石とご理解下さい。

■根 石■ねいし
石垣の一番下の石です。最も下の段ですから、石垣の基礎となる部分です。地面を掘り下げて石が動かないように固定します。地盤が弱い場合(または単に強化したい場合)は、根石の更に下に木材(木杭や胴木)を用いて石を固定させたりします。

簡単ですが以上です。

私の説明は、城好きの間では一般的にそう言われているという程度に受け止めて下さい。よって、本格的な土木用語の定義とちょっと違っていたらお許し下さい。

shirononagori494 (3).JPG
お世話になりました

[出典元:浜松城説明板]


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タグ:城用語
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2020年11月08日

浜松城の野面積み

今回は「野面積み」の代表作といっても過言ではない浜松城の石垣のご紹介です。
<天守閣>
shirononagori493 (2).JPG
復元された天守閣も立派ですが、城郭ファンの間で有名なのが土台の石垣です。自然の石を加工せずにそのまま積み上げています。

■野面積み■のづらづみ
この言葉は石垣に用いる石の加工具合を基準に分類した時の呼び名です。石を加工せず、そのまま積み上げる方法を野面積みと呼びます。この分類だと他に「打込ハギ」とか「切込ハギ」などがありますが、今回は説明を省略します。別途投稿していますので、ご興味のある方は覗いてみて下さい
→『城用語の記事へすすむ
今回は画像を中心に、浜松城の見事な野面積みを共有させて頂ければと思います。

shirononagori493 (1).JPG
どれも自然の石。これを適所に選んでは積み上げるわけですから、その道のならではの勘と経験が必要とされますよね。

shirononagori493 (4).JPG
不規則な石の大きな面は外側に向け、小さい面は内側に向け、隙間に小石を埋めて石を固定します。野面の「ツラ」とは、自然の石の表面のことを意味しています。

shirononagori493d.JPG
現地に説明板がありました。小石と言わせてもらいましたが、役割によってちゃんと呼び名があるようです(長くなるのでこれはまた別の機会にご紹介します)。

shirononagori493c.JPG
江戸城などと比べて「原始的?」と思われるかもしれませんが、野面積みならではのメリットもあります。石垣は表面を覆っているだけで、内部はあくまで土の塁です。雨水などの排水が上手くなされないと内部が膨張するなどして、塁が崩れる原因にもなります。野面積みは石と石の間に隙間があり、水が適度に排出され、塁の劣化を防げるという長所があります。実際、これらの石垣は4百年の風雪に耐えて今日に至っています。

shirononagori493 (3).JPG
塁の隅ギリギリに建造物が築けられています。土塁だとこういう訳にはいきません。建物が飛び出ているのは石落としなどの仕掛けを設けるためです。

shirononagori493e.JPG
徳川家康は約17年間ここ浜松城を居城としましたが、その頃は石垣のない土の城でした。

shirononagori493b.jpg
家康が去った後も、浜松城はこのエリアの重要拠点であり続けたましたので、改修される過程で石垣の城となったわけですね。

ということで
野面積みの代表作といって良い浜松城の石垣のご紹介でした。野積みは中世の石垣でよく見かけますが、石の加工技術が普及する江戸時代においても、野面積みそのものがなくなった訳ではありません。文中にある通り、野積みならではのメリットもあるのです。

■訪問:浜松城
[静岡県浜松市中区元城町]


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