今回は水路のお話です。ただの水路ではありません。壮大な治水事業の一環として造られた伊豆の巨大放水路です。
<狩野川放水路>かのがわほうすいろ
山を貫いて造られました。これが水路です。
以前から存在は知っていましたが、どうしても実物を見てみたく、伊豆の城跡巡りの際に立ち寄りました。撮影は1月。城巡りに同行してくれた友人も、苦笑いしながら探索に協力してくれました。
<コンクリの要塞>
近くで見ると圧倒されます。何の飾りもなく、ただ役割を果たすためのだけの姿。無機質でありながら、毅然と映るのは気のせいでしょうか・・・
このプロジェクトに投じられた費用は約700億円。これについてはいろんな評価はありますが、山の向こう側を流れる狩野川の氾濫を、今も守り続けていることは事実です。元々暴れ川だった狩野川がピンチになると稼働し、溢れそうな水をこの水路から海へ逃がします。
溢れそうなら逃がす
いろんなことのヒントになり得ますね。
---■狩野川放水路■---
建 設:1951年6月〜1965年7月
全 長: 2,980m
水路幅: 約50m〜120m
[伊豆の国市・沼津市]
2018年08月15日
2018年07月15日
赤羽の暗渠の果て 稲付川と空が出会う場所
今回はまた「暗渠」のお話。本日の暗渠探索です。
<暗渠>
昔は川だった道です。石神井川から板橋区内で別れて、この付近を通過して隅田川に繋がる川です。
■稲付川が流れる街■いなづけがわ
当ブログで時々登場する東京北区の街・赤羽。まず、太田道灌築城と推定されている稲付城跡があります。城跡メインのブログですので、赤羽が登場するのは自然な流れです。
<稲付城跡>
もう一つの理由は、ずばり「暗渠」です。毎回同じ説明ですが、これは「あんきょ」と読み、「地下に埋設された川」といった意味です。
<稲付川の暗渠>
ただの道ではありません。かつては川でした。住所だと北区赤羽西付近。川の名は稲付川です。北耕地川ともいいます。
都内の川にはありがちなことですが、この川もほとんどの区間が暗渠となっています。ですから、ここに限らず川の姿は見えません。きっと、誰も川だとは思わないでしょうね。いわば「忘れ去られた川」です。
ただこの孤独な川、下った先、まもなく隅田川という地点の約150m程度だけは開渠になっているとのこと。開渠とは暗渠の逆で、蓋のされていない状態。つまり、水面が見える状態のことですね。
私は暗渠として何度もこの稲付川を紹介しながら、唯一残された開渠部分は見たことがありませんでした。まぁ見なくてもどってことはないのですが、なぜか急に見なくてはいけないような気になった。なぜか。本日。
ということで、たったそれだけの理由で、猛暑日が続くなかその場所へ行ってまいりました。
<ガード下>
まずは赤羽駅の西側から東へ移動。赤羽は、大ざっぱに言うと駅より東側に向かって低地が広がり、やがて川へ出ます。稲付川もそちらへ向かって流れています。
住所で大筋を説明すると、赤羽西⇒赤羽南⇒神谷(かみや)という順になります。実際に歩いた十条等は省略。あくまで大筋の話として。
<神谷>
で、ここは既に神谷三丁目。団地のある付近です。暗渠はこの先で国道122号線に出ます。
<国道122号>
道の向こうにそれらしい空間が見えました。大同特殊鋼王子工場とDNPグラフィカの間です。
<加筆>
加筆しました。ここです。間違いないです。近くに信号がありますので、あとはそこから道を渡るだけ。
<地図>
隅田川、そして川の向こうの足立区が目と鼻の先ということですね。
<北町橋>
この目立たない橋より先が、稲付川と空が出会う唯一の場所です。
<水面>
柵があって撮影しにくいですが、水面がしっかり見えています。暗闇の水路は、ここで陽の当たる川になりました。
<暗渠ではない稲付川>
工場の敷地に挟まれた河川用の敷地です。
ということで、
稲付川の暗渠の果ては、コンクリの街に残された「立入禁止」のオアシスでした。
以上です。最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。
<暗渠>
昔は川だった道です。石神井川から板橋区内で別れて、この付近を通過して隅田川に繋がる川です。
■稲付川が流れる街■いなづけがわ
当ブログで時々登場する東京北区の街・赤羽。まず、太田道灌築城と推定されている稲付城跡があります。城跡メインのブログですので、赤羽が登場するのは自然な流れです。
<稲付城跡>
もう一つの理由は、ずばり「暗渠」です。毎回同じ説明ですが、これは「あんきょ」と読み、「地下に埋設された川」といった意味です。
<稲付川の暗渠>
ただの道ではありません。かつては川でした。住所だと北区赤羽西付近。川の名は稲付川です。北耕地川ともいいます。
都内の川にはありがちなことですが、この川もほとんどの区間が暗渠となっています。ですから、ここに限らず川の姿は見えません。きっと、誰も川だとは思わないでしょうね。いわば「忘れ去られた川」です。
ただこの孤独な川、下った先、まもなく隅田川という地点の約150m程度だけは開渠になっているとのこと。開渠とは暗渠の逆で、蓋のされていない状態。つまり、水面が見える状態のことですね。
私は暗渠として何度もこの稲付川を紹介しながら、唯一残された開渠部分は見たことがありませんでした。まぁ見なくてもどってことはないのですが、なぜか急に見なくてはいけないような気になった。なぜか。本日。
ということで、たったそれだけの理由で、猛暑日が続くなかその場所へ行ってまいりました。
<ガード下>
まずは赤羽駅の西側から東へ移動。赤羽は、大ざっぱに言うと駅より東側に向かって低地が広がり、やがて川へ出ます。稲付川もそちらへ向かって流れています。
住所で大筋を説明すると、赤羽西⇒赤羽南⇒神谷(かみや)という順になります。実際に歩いた十条等は省略。あくまで大筋の話として。
<神谷>
で、ここは既に神谷三丁目。団地のある付近です。暗渠はこの先で国道122号線に出ます。
<国道122号>
道の向こうにそれらしい空間が見えました。大同特殊鋼王子工場とDNPグラフィカの間です。
<加筆>
加筆しました。ここです。間違いないです。近くに信号がありますので、あとはそこから道を渡るだけ。
<地図>
隅田川、そして川の向こうの足立区が目と鼻の先ということですね。
<北町橋>
この目立たない橋より先が、稲付川と空が出会う唯一の場所です。
<水面>
柵があって撮影しにくいですが、水面がしっかり見えています。暗闇の水路は、ここで陽の当たる川になりました。
<暗渠ではない稲付川>
工場の敷地に挟まれた河川用の敷地です。
ということで、
稲付川の暗渠の果ては、コンクリの街に残された「立入禁止」のオアシスでした。
以上です。最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。
タグ:暗渠
2018年05月18日
暗渠の予感 浦和の神明坂にて
今回もまた暗渠の話。「予感」についてです。
<神明坂>
[浦和区神明]2丁目
■暗渠好き■
地下に埋設された川。これを暗渠(あんきょ)といいます。この暗渠に興味を持ち始めてそろそろ5年くらいでしょうか。城跡ブログとしてスタートした当ブログですが、ときどき暗渠についても触れさせてもらっています。
記事例(よかったら覗いてみて下さい)
→『川の無い橋』
→『エールを送りたくなる川』
緑道を見つけて川だったと思うことはしばしば。毎回毎回しみじみ味わうなんてことはしませんが、ちゃんと気付いていますよ。
ホントは川だよね
まぁそんな感覚です。
■川の痕跡■
むかし川だった痕跡として良くあるのか橋跡。工事の都合で、欄干などが残ってしまうケースです。あとは護岸の跡。コンクリ製であろうが石材であろうが、不自然さが「もともと違う構造物だった」ことを教えてくれます。
あとは水門ですかね。暗渠と川の合流地点でまだ役割を担っているものはたくさんありますが、もはや機能していないのに、これまた工事の都合で取り残されているケースもあります。ちょっとレア。みつけたらラッキー?かもしれません。
と、ここまでご紹介したのはあくまで痕跡です。ただ暗渠に気付くだけなら、やはりこれですかね。
<車止め>
街でみかける車止めが、全て暗渠というわけではありません。ただ一つの目安になります。
暗渠は普通の道路とは構造が異なりますので、重量が大きすぎる車両はご勘弁下さいということですね。
■地形だけで予感■
暗渠の目印をご紹介しましたが、興味を持ち続けていると地形だけで予感がする場合があります。
ここは浦和の市街地です。街はコンクリや建物に覆われていますが、意識して観察すると、とてもユニークな地形。実際に歩いてみれば、台地と低地から成り立っていることを体感します。画像の坂は、台地から一旦低地へ降りて、再び台地へ登る道。浦和らしい坂道です。
大枠として台地と低地に分けましたが、それぞれ真っ平らな訳ではありませんよね。降り注ぐ雨が流れとなり、長い年月を掛けて地形を更に興味深いものに変えていきます。徹底的に街を整備しても、なんとなく残ってしまうなごり。そんなことを感じて歩くと、何でもなさそうな景色が、興味深く映ります。
さて、予感した水の流れを覗いてみますかね。
<暗渠>
やはりありました。向こうから手前に流れているようです。見えないのになんでわかる?いや、だって水は低い方へ流れるだけですからね。この状況で分るのは、高低差だけです。画像では伝わりにくいですが、これは現地では分かります。水は手前に流れ、舗装された道の下をくぐり、反対側へ流れています。
では道の逆側も見てみますか
<暗渠>
ここですね。こちらも暗渠・・・
<開渠>
あれ、暗渠は途中までで水が見えていますね。暗渠に対し、こういう状態は開渠(かいきょ)と言います。まぁ開渠こそが、普通の感覚でイメージする川そのものの姿ですかね。
<谷>
どうも実際に目で見るのと比較すると、画像は独特の地形が伝わりにくいので、赤で筆を入れさせて頂きました。
<川の位置>
上の画像を更に加工(下手クソですみませんが伝われば嬉しいです)。水色が川の位置。まぁ見えないんだから、暗渠の位置ですかね。
コンクリに覆われてなければ、水の行先は一目瞭然。雨でも降ればなおさらでしょう。台地と谷が入りくんでいるのですから当然ですね。
でも、それを感じさせない現在の街並み。都市化は低地の安全性を高め、昔の湿地とか氾濫原すら、もうどこにあるのか分かりません。治水の力は凄いですね。
例として取り上げたこの神明坂。まぁ普通に生活していれば「ああ、坂か」と何となく受け入れて終わりですよね。ただこうして意識して見てみれば非常に面白い。そして、暗渠の先でみつけたささやかな水の姿すら、妙に愛おしく思えてなりません。
なんでそう思うの?
そう聞かれたことがありますが、気が付いたらそうなっていたとしか答えられませんでした。
以上です。
ここ数回、暗渠の話が続いてます。次回からまた城跡プログに戻したいと思います。
-------追 記-------
2020年6月、街探索のお仲間と同じ場所を再び訪れたので画像を追加しておきます
<暗渠>
<開渠>
そして
今回は神明坂とは別の、もう一本奥の道から同じ水路を撮影しました。
コンクリの街に残された細長いオアシス。そう感じてしまうのはちょっとヘンですかね。
以上です
<神明坂>
[浦和区神明]2丁目
■暗渠好き■
地下に埋設された川。これを暗渠(あんきょ)といいます。この暗渠に興味を持ち始めてそろそろ5年くらいでしょうか。城跡ブログとしてスタートした当ブログですが、ときどき暗渠についても触れさせてもらっています。
記事例(よかったら覗いてみて下さい)
→『川の無い橋』
→『エールを送りたくなる川』
緑道を見つけて川だったと思うことはしばしば。毎回毎回しみじみ味わうなんてことはしませんが、ちゃんと気付いていますよ。
ホントは川だよね
まぁそんな感覚です。
■川の痕跡■
むかし川だった痕跡として良くあるのか橋跡。工事の都合で、欄干などが残ってしまうケースです。あとは護岸の跡。コンクリ製であろうが石材であろうが、不自然さが「もともと違う構造物だった」ことを教えてくれます。
あとは水門ですかね。暗渠と川の合流地点でまだ役割を担っているものはたくさんありますが、もはや機能していないのに、これまた工事の都合で取り残されているケースもあります。ちょっとレア。みつけたらラッキー?かもしれません。
と、ここまでご紹介したのはあくまで痕跡です。ただ暗渠に気付くだけなら、やはりこれですかね。
<車止め>
街でみかける車止めが、全て暗渠というわけではありません。ただ一つの目安になります。
暗渠は普通の道路とは構造が異なりますので、重量が大きすぎる車両はご勘弁下さいということですね。
■地形だけで予感■
暗渠の目印をご紹介しましたが、興味を持ち続けていると地形だけで予感がする場合があります。
ここは浦和の市街地です。街はコンクリや建物に覆われていますが、意識して観察すると、とてもユニークな地形。実際に歩いてみれば、台地と低地から成り立っていることを体感します。画像の坂は、台地から一旦低地へ降りて、再び台地へ登る道。浦和らしい坂道です。
大枠として台地と低地に分けましたが、それぞれ真っ平らな訳ではありませんよね。降り注ぐ雨が流れとなり、長い年月を掛けて地形を更に興味深いものに変えていきます。徹底的に街を整備しても、なんとなく残ってしまうなごり。そんなことを感じて歩くと、何でもなさそうな景色が、興味深く映ります。
さて、予感した水の流れを覗いてみますかね。
<暗渠>
やはりありました。向こうから手前に流れているようです。見えないのになんでわかる?いや、だって水は低い方へ流れるだけですからね。この状況で分るのは、高低差だけです。画像では伝わりにくいですが、これは現地では分かります。水は手前に流れ、舗装された道の下をくぐり、反対側へ流れています。
では道の逆側も見てみますか
<暗渠>
ここですね。こちらも暗渠・・・
<開渠>
あれ、暗渠は途中までで水が見えていますね。暗渠に対し、こういう状態は開渠(かいきょ)と言います。まぁ開渠こそが、普通の感覚でイメージする川そのものの姿ですかね。
<谷>
どうも実際に目で見るのと比較すると、画像は独特の地形が伝わりにくいので、赤で筆を入れさせて頂きました。
<川の位置>
上の画像を更に加工(下手クソですみませんが伝われば嬉しいです)。水色が川の位置。まぁ見えないんだから、暗渠の位置ですかね。
コンクリに覆われてなければ、水の行先は一目瞭然。雨でも降ればなおさらでしょう。台地と谷が入りくんでいるのですから当然ですね。
でも、それを感じさせない現在の街並み。都市化は低地の安全性を高め、昔の湿地とか氾濫原すら、もうどこにあるのか分かりません。治水の力は凄いですね。
例として取り上げたこの神明坂。まぁ普通に生活していれば「ああ、坂か」と何となく受け入れて終わりですよね。ただこうして意識して見てみれば非常に面白い。そして、暗渠の先でみつけたささやかな水の姿すら、妙に愛おしく思えてなりません。
なんでそう思うの?
そう聞かれたことがありますが、気が付いたらそうなっていたとしか答えられませんでした。
以上です。
ここ数回、暗渠の話が続いてます。次回からまた城跡プログに戻したいと思います。
-------追 記-------
2020年6月、街探索のお仲間と同じ場所を再び訪れたので画像を追加しておきます
<暗渠>
<開渠>
そして
今回は神明坂とは別の、もう一本奥の道から同じ水路を撮影しました。
コンクリの街に残された細長いオアシス。そう感じてしまうのはちょっとヘンですかね。
以上です
タグ:暗渠
2018年05月17日
暗渠の道 海へ繋がる浦和白幡緑道
また暗渠の話です。
今回は旧浦和市にある「白幡沼」を題材にしました。
<白幡沼>
現在の住所だと、さいたま市南区白幡。
護岸が整備され、地元の人たちの憩いの場所となっています。大昔なら湿地の多かった浦和も、いまではすっかり市街地化され、こういった景色は貴重です。生息する野鳥にカメラを向ける人もちらほら。街に残されたのどかな沼です。
<拳沼>こぶしぬま
台地が途切れたところにポツンと存在するこの沼。巨人が転んだ時に手をつき、その時にできた窪みに水が溜ったという伝説があります。日本の各地で伝承される巨人伝説の類ですね。足跡は時々耳にしますが、ここ白幡で伝わる話では手。これにより、この沼は拳沼と呼ばれています。
この穏やかな沼
海と繋がっている
などと想像する人は少ないかも知れませんね。まぁちょっと大げさなテーマに聞こえますが、実際にそうです。
<白幡緑道>
画像の左手が白幡沼です。沼沿いのいい感じの緑道、これが暗渠になっていて、地下には水が流れています。
<暗渠>
道の向こうまで続いていますね。ではちょっと辿ってみますか
<暗渠>
<暗渠と車止め>
またちょっと道を渡って
<終わりが近い>
向うのほうに水門が見えてきました。もう一回道を渡ればく暗渠のゴールです。
<水門>
水門が暗渠の出口。上はJR武蔵野線の高架です。
<笹目川の水門>
笹目川の始まり。水はここから南に流れていきます。
<もともと自然の川>
いまでこそいろんな排水路の水がここに集まってきますが、もともとは先ほどの白幡沼を水源とする自然の川です。そして今でも、白幡沼と繋がっています。
<浦和の笹目川>
この笹目川は荒川の支流です。
<戸田の笹目川>
似た画像ですが、こちらは戸田市内の笹目川。この先で荒川と合流します。
白幡沼の水は、笹目川経由で荒川へ流れ出て、やがて海へ
ということです。
<おまけ>
ちなみに、笹目川と荒川の合流点は戸田競艇場。白幡沼は暗渠によって競艇場とも繋がっているわけですね。
以上です。
白幡沼と白幡緑道を題材に、やや大げさに書いてみました。ただ、街中にポツンとある沼が、緑道を経由して海と繋がっていることは事実。そこから何を連想するか。まぁそれは読んで頂いた方に委ねたいと思います。
拙ブログ、最後までお付き合い頂きありがとうございます。
今回は旧浦和市にある「白幡沼」を題材にしました。
<白幡沼>
現在の住所だと、さいたま市南区白幡。
護岸が整備され、地元の人たちの憩いの場所となっています。大昔なら湿地の多かった浦和も、いまではすっかり市街地化され、こういった景色は貴重です。生息する野鳥にカメラを向ける人もちらほら。街に残されたのどかな沼です。
<拳沼>こぶしぬま
台地が途切れたところにポツンと存在するこの沼。巨人が転んだ時に手をつき、その時にできた窪みに水が溜ったという伝説があります。日本の各地で伝承される巨人伝説の類ですね。足跡は時々耳にしますが、ここ白幡で伝わる話では手。これにより、この沼は拳沼と呼ばれています。
この穏やかな沼
海と繋がっている
などと想像する人は少ないかも知れませんね。まぁちょっと大げさなテーマに聞こえますが、実際にそうです。
<白幡緑道>
画像の左手が白幡沼です。沼沿いのいい感じの緑道、これが暗渠になっていて、地下には水が流れています。
<暗渠>
道の向こうまで続いていますね。ではちょっと辿ってみますか
<暗渠>
<暗渠と車止め>
またちょっと道を渡って
<終わりが近い>
向うのほうに水門が見えてきました。もう一回道を渡ればく暗渠のゴールです。
<水門>
水門が暗渠の出口。上はJR武蔵野線の高架です。
<笹目川の水門>
笹目川の始まり。水はここから南に流れていきます。
<もともと自然の川>
いまでこそいろんな排水路の水がここに集まってきますが、もともとは先ほどの白幡沼を水源とする自然の川です。そして今でも、白幡沼と繋がっています。
<浦和の笹目川>
この笹目川は荒川の支流です。
<戸田の笹目川>
似た画像ですが、こちらは戸田市内の笹目川。この先で荒川と合流します。
白幡沼の水は、笹目川経由で荒川へ流れ出て、やがて海へ
ということです。
<おまけ>
ちなみに、笹目川と荒川の合流点は戸田競艇場。白幡沼は暗渠によって競艇場とも繋がっているわけですね。
以上です。
白幡沼と白幡緑道を題材に、やや大げさに書いてみました。ただ、街中にポツンとある沼が、緑道を経由して海と繋がっていることは事実。そこから何を連想するか。まぁそれは読んで頂いた方に委ねたいと思います。
拙ブログ、最後までお付き合い頂きありがとうございます。
タグ:暗渠
2018年05月11日
暗渠ラプソディ 蓋をされた川
今回も暗渠について
個人的に印象に残っている暗渠を並べてみました。順位はつけにくいですが、それぞれ情緒が異なります。あくまで個人的にですが・・・
<馬尿川>ばにょうがわ
一度聞いたら忘れられない名前。高田馬場付近で撮影しました。水は大久保の辺りから北へ流れて神田川へ注ぎます。
<河骨川>こうほねがわ
宇田川の支流。そして唱歌「春の小川」のモデルとなった川です。その面影はありませんが、護岸が残されています。
<蛇崩川>じゃくずれがわ
世田谷区から目黒区へ流れ、目黒川との合流地点が印象的です。姿が見えるのはここだけ。あとは暗渠になっています。
<稲付川>いなづけがわ
別名は北耕地川。ここ赤羽付近に限らず、ほぼ全域が暗渠化されています。むかしむかし、暗渠とは知らず毎日通っていた道です(住んでいました)。
<谷端川>やばたがわ
かつてはよく溢れた川ですが、今は静かに、そして人知れず流れる川です。板橋駅近く。川の無い橋が印象的な暗渠です。
<桃園川>ももぞのがわ
杉並区と中野区を流れる川。車止めが印象的です。
<烏山川>
歩道の蛇行が川のなごりを留めている感じが好きですね。世田谷区内を流れていた川です。
<出井川>
板橋区の暗渠。川の大半は歩道になっていますが、今回は敢えて自転車置場を。護岸の跡です。
すべて蓋をされた川
なかなか気付かれませんが、もとの姿は普通の川でした。
脈略ありませんが以上です。どう思うとか、どう考えるとかは、見て頂いた人にお任せするつもりでご紹介しました。ひとことだけつけ加えると、暗渠を知ると、街散歩がちょっと奥深いものになります。
個人的に印象に残っている暗渠を並べてみました。順位はつけにくいですが、それぞれ情緒が異なります。あくまで個人的にですが・・・
<馬尿川>ばにょうがわ
一度聞いたら忘れられない名前。高田馬場付近で撮影しました。水は大久保の辺りから北へ流れて神田川へ注ぎます。
<河骨川>こうほねがわ
宇田川の支流。そして唱歌「春の小川」のモデルとなった川です。その面影はありませんが、護岸が残されています。
<蛇崩川>じゃくずれがわ
世田谷区から目黒区へ流れ、目黒川との合流地点が印象的です。姿が見えるのはここだけ。あとは暗渠になっています。
<稲付川>いなづけがわ
別名は北耕地川。ここ赤羽付近に限らず、ほぼ全域が暗渠化されています。むかしむかし、暗渠とは知らず毎日通っていた道です(住んでいました)。
<谷端川>やばたがわ
かつてはよく溢れた川ですが、今は静かに、そして人知れず流れる川です。板橋駅近く。川の無い橋が印象的な暗渠です。
<桃園川>ももぞのがわ
杉並区と中野区を流れる川。車止めが印象的です。
<烏山川>
歩道の蛇行が川のなごりを留めている感じが好きですね。世田谷区内を流れていた川です。
<出井川>
板橋区の暗渠。川の大半は歩道になっていますが、今回は敢えて自転車置場を。護岸の跡です。
すべて蓋をされた川
なかなか気付かれませんが、もとの姿は普通の川でした。
脈略ありませんが以上です。どう思うとか、どう考えるとかは、見て頂いた人にお任せするつもりでご紹介しました。ひとことだけつけ加えると、暗渠を知ると、街散歩がちょっと奥深いものになります。
タグ:暗渠
2018年05月10日
暗渠が生まれる時 とある暗渠
当ブログで時々登場する暗渠
いつもグタグタと思うところを綴っていますが、見て頂くのが一番かと思い、画像を貼らせて頂きます。場所は旧浦和市のとある川。工事が開始されたのを偶然発見し、それ以降できる範囲で定点観測を試みました。
■とある暗渠工事■
<最初の発見>
これより前の画像はありません。この時点では、コンクリと護岸の狭い隙間で、まだ魚が暴れていました。
<気になって再訪>
護岸との隙間は埋められていました。暗渠化工事の方法もいろいろありますが、ここは「ボックスカルバート」による暗渠化です。既成のパーツを繋げていくので、かなりの速度で工事が進んでいきました。
<定点観測>
マンホールはああいう構造なんですね
<定点観測>
高さが調整されました。
<定点観測>
あっという間。それだけに唖然としてしまいました。
<定点観測>
変化なし。雑草が時間の経過を知らせてくれてます。
<定点観測>
この後も時々訪問していますが、どうやらこの地点、しばらくこの状態のようです。
定点観測はここまで。もうちょっとだけ先を見てみましょう。
<下流方面>
観測を続けてきたポイントから下流方面を撮影。柵の向こう側も暗渠化は似たような工程でしたが、舗装は先に終了しているようです。
<完成>
左がもともとの道。まん中の歩道が川。右は川の向こう側の道でした。
歩道が確保されたことで、もともとの道は実質車道のように映ります。やや狭い道でしたので、歩行者には嬉しい暗渠です。
ところで、この暗渠はどこへ繋がるのでしょう。
■水の行き先■
上の画像の位置から、更に下流へ歩くと、地下からゴーゴーという水の音が聞こえてきました。水の姿が見えないだけに、ちょっと奇妙な感じがします。
<暗渠同士の合流地点>
筆を入れさせてもらいました。水は直進してきましたが、ここで右側からの流れと合流して、一気に左へ進路を変えます。かなり急な曲がり方。そして合流地点。水の音の理由が分かった気がしました。
<NEW>
水の行き先ですが、これまた綺麗な小路に整備されています。勿論、下には水が流れています。
<工事中の画像>
ちょっと画像が悪いですが、工事している最中の様子です。このカーブもボックスカルバートによる暗渠化でした。
<行き止まり>
小路は散歩コースのように映りますが、実は通り抜けできません。奥は行き止まり。
<水門のバルブ>
この先は川。この下が暗渠の出口ということになります。
<鴻沼川>こうぬまがわ
水は暗渠を通ってこの川へ出ます。
ということで、今回はこれ以上言わずここまで。当ブログで「道」を指して「川」と呼んでいる意味が伝われば充分です。
万が一ですが、理解を越えて何か感じるものが芽生えてくれれば嬉しいです。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
いつもグタグタと思うところを綴っていますが、見て頂くのが一番かと思い、画像を貼らせて頂きます。場所は旧浦和市のとある川。工事が開始されたのを偶然発見し、それ以降できる範囲で定点観測を試みました。
■とある暗渠工事■
<最初の発見>
これより前の画像はありません。この時点では、コンクリと護岸の狭い隙間で、まだ魚が暴れていました。
<気になって再訪>
護岸との隙間は埋められていました。暗渠化工事の方法もいろいろありますが、ここは「ボックスカルバート」による暗渠化です。既成のパーツを繋げていくので、かなりの速度で工事が進んでいきました。
<定点観測>
マンホールはああいう構造なんですね
<定点観測>
高さが調整されました。
<定点観測>
あっという間。それだけに唖然としてしまいました。
<定点観測>
変化なし。雑草が時間の経過を知らせてくれてます。
<定点観測>
この後も時々訪問していますが、どうやらこの地点、しばらくこの状態のようです。
定点観測はここまで。もうちょっとだけ先を見てみましょう。
<下流方面>
観測を続けてきたポイントから下流方面を撮影。柵の向こう側も暗渠化は似たような工程でしたが、舗装は先に終了しているようです。
<完成>
左がもともとの道。まん中の歩道が川。右は川の向こう側の道でした。
歩道が確保されたことで、もともとの道は実質車道のように映ります。やや狭い道でしたので、歩行者には嬉しい暗渠です。
ところで、この暗渠はどこへ繋がるのでしょう。
■水の行き先■
上の画像の位置から、更に下流へ歩くと、地下からゴーゴーという水の音が聞こえてきました。水の姿が見えないだけに、ちょっと奇妙な感じがします。
<暗渠同士の合流地点>
筆を入れさせてもらいました。水は直進してきましたが、ここで右側からの流れと合流して、一気に左へ進路を変えます。かなり急な曲がり方。そして合流地点。水の音の理由が分かった気がしました。
<NEW>
水の行き先ですが、これまた綺麗な小路に整備されています。勿論、下には水が流れています。
<工事中の画像>
ちょっと画像が悪いですが、工事している最中の様子です。このカーブもボックスカルバートによる暗渠化でした。
<行き止まり>
小路は散歩コースのように映りますが、実は通り抜けできません。奥は行き止まり。
<水門のバルブ>
この先は川。この下が暗渠の出口ということになります。
<鴻沼川>こうぬまがわ
水は暗渠を通ってこの川へ出ます。
ということで、今回はこれ以上言わずここまで。当ブログで「道」を指して「川」と呼んでいる意味が伝われば充分です。
万が一ですが、理解を越えて何か感じるものが芽生えてくれれば嬉しいです。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
タグ:暗渠
2018年04月26日
堀川を歩く 今川橋から龍閑橋
二つの橋の痕跡を頼りに、かつてあった堀川のなごりを感じに行きました。
■江戸探索■
古地図を参考に街を散歩する。同じ景色が違って見えたりして、結構楽しめます。そもそも地図を見るのが苦手?という方も結構いるようですが、目印があって、あとはまっすぐ進むだけだったら誰でもできますね。
<今川橋跡>
ビルの脇にひっそりと設置されている石碑。かつてあった今川橋の跡です。ここを最初の目印とします。
■神田駅下車■
目印となる石碑も、分かり易い場所にあります。知っていればの話で、ほとんどの人が見向きもしないで通り過ぎますが・・・。最寄駅は神田駅。下車したら東口から出て、中央通りを南へ歩くだけ。
<今川橋交差点>
徒歩2分程度でこんな景色に。冒頭の今川橋跡の石碑はまもなくです。私は進行方向左側を歩きましたが、石碑は右手(山梨中央銀行側の歩道)になるので、このヘンで通りを渡っておいた方が確実ですね。
<今川橋跡碑>
はい。もう到着です。具体的には江原ビルディングの敷地になります。
[住所:千代田区鍛冶町1-5-7]
<説明板>
あまり予習しなくても、これを読めば充分。
<橋跡と堀川跡>
水の都だった江戸。この通りはかつて堀川でした。現在ではひっそりとした路地。舟運が盛んだった当時は、大いに賑わったのでしょうね。
<絵図>
これは現地ではなく、日本橋付近の地下道で撮影した今川橋です。賑わいが伝わってきます。瀬戸物屋が多かったとのこと。
■今川橋■
この橋は、神田の名主であった今川善右衛門によって橋が架けられたことから「今川橋」と呼ばれたそうです。今川ってあの?どうしても名門家・今川義元の今川を想像してしまいますよね。今川氏は徳川将軍に仕えて高家・旗本となっていますから。調べたのですが、善右衛門さんはもともと江戸の人で、直接の関係はない。そう思った方がよさそうです。
ちなみに、「今川焼き」はこの「今川橋」付近で売られていたことがその名の由来だそうです。諸説あるようですが、これはわりと有力な説です。
■龍閑川■ りゅうかんがわ
この堀川、もともと防火用の空地に町人が築いたもの。現在の千代田区と中央区の区界沿いに掘られ、浜町堀と通じるように築かれました。古地図を見ると、浜町堀とは直角に繋がっていたようです。
この堀川の名は龍閑川(=竜閑川とも)。江戸城殿中接待役の井上竜閑の屋敷があったとから「竜閑橋」と呼ばれたが橋が、川の名の由来。ちょっとややこしいのですが、厳密なことを言うと、この「竜閑橋」はもともと別な堀に架けられていましたが、埋め立てにより不要となり、この堀川に架け直されたそうです。
まぁ経緯はともかく、その「龍閑橋」付近まで歩いてみますかね。本日のもうひとつの目印です。
<川跡>
堀川の面影はほとんど残っていません。ただ古地図でも、今川橋から龍閑橋までは直線となっています。その事実を背景に眺めれば、路が堀川の跡と思えなくもない。
<ビルの間の小路>
そう思えなくもない。
<直線>
ひたすら真っすぐ。実は地図そのものは好きなのですが、実際に動き出すとけっこう「方向音痴」な方です。でもこれなら何のストレスもなく楽しめます。船で運河を移動している。そう思えなくもない。
この小さな道が千代田区と中央区の区界。川が行政区の堺というのは珍しくありませんよね。ここは「川だった道」が区堺ということです。
<小路の出口>
そろそろ小路が終わり、外堀通りにでます。何かに突き当たりますね。「龍閑橋」の架けられていたのはこの付近だと思われます。
<小さな公園>
こんな場所に出ました。何か展示されていますね。
<龍閑橋跡>
刻まれた文字。ここが2つ目の目印。そして「小さな探索」のゴールです。
<コンクリート製>
これは大正時代に造られたコンクリート製の竜閑橋だそうです。橋は江戸時代に始まり、明治・大正・昭和と姿を変えながら存在し続けたわけですね。
<説明1>
日本で初の鉄筋コンクリートトラス橋とのこと。構造物としても貴重ということですね。
<説明2>
1950年、龍閑川は埋め立てられました。戦災による瓦礫処理のためです。
江戸時代にも、埋め立てが理由で一旦不要になった龍閑橋。戦後の処理では移設されることもなく、役割を終えました。長年よく頑張りましたよね。龍閑川そのものがなくなってしまいましたので、冒頭の今川橋も、約三百年の歴史に幕を閉じました。
こうして残してもらったことに感謝です。そして橋の姿はないものの、今川橋の石碑にも。
かつてあった小さな河川が地下に埋設、つまり暗渠化される例は多々ありますが、この堀川は純粋な埋立て。龍閑川と繋がっていた浜町堀(浜町川)も同様です。水の路として機能していたのですがね。暗渠として活かされることもなかった。そういうことですね。
以上、今川橋から龍閑橋までの堀川跡でした。
最後に
ご紹介したのは今川橋跡からみて南西。龍閑川の一部です。逆に北東へ進めば、浜町川との合流地点(ここで直角に曲がる)に辿りつき、現役の川である隅田川へと繋がります。人の手により、直線・直角に掘られた堀川。道幅が狭いですが、見失わなければ迷うこともありません。ただまぁ暗い場所もあるので、夜はいろんな意味で注意して下さい。
姿を消した堀川の跡。街に埋もれているからこそ、逆に妙な魅力を感じてしまいます。
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■江戸探索■
古地図を参考に街を散歩する。同じ景色が違って見えたりして、結構楽しめます。そもそも地図を見るのが苦手?という方も結構いるようですが、目印があって、あとはまっすぐ進むだけだったら誰でもできますね。
<今川橋跡>
ビルの脇にひっそりと設置されている石碑。かつてあった今川橋の跡です。ここを最初の目印とします。
■神田駅下車■
目印となる石碑も、分かり易い場所にあります。知っていればの話で、ほとんどの人が見向きもしないで通り過ぎますが・・・。最寄駅は神田駅。下車したら東口から出て、中央通りを南へ歩くだけ。
<今川橋交差点>
徒歩2分程度でこんな景色に。冒頭の今川橋跡の石碑はまもなくです。私は進行方向左側を歩きましたが、石碑は右手(山梨中央銀行側の歩道)になるので、このヘンで通りを渡っておいた方が確実ですね。
<今川橋跡碑>
はい。もう到着です。具体的には江原ビルディングの敷地になります。
[住所:千代田区鍛冶町1-5-7]
<説明板>
あまり予習しなくても、これを読めば充分。
<橋跡と堀川跡>
水の都だった江戸。この通りはかつて堀川でした。現在ではひっそりとした路地。舟運が盛んだった当時は、大いに賑わったのでしょうね。
<絵図>
これは現地ではなく、日本橋付近の地下道で撮影した今川橋です。賑わいが伝わってきます。瀬戸物屋が多かったとのこと。
■今川橋■
この橋は、神田の名主であった今川善右衛門によって橋が架けられたことから「今川橋」と呼ばれたそうです。今川ってあの?どうしても名門家・今川義元の今川を想像してしまいますよね。今川氏は徳川将軍に仕えて高家・旗本となっていますから。調べたのですが、善右衛門さんはもともと江戸の人で、直接の関係はない。そう思った方がよさそうです。
ちなみに、「今川焼き」はこの「今川橋」付近で売られていたことがその名の由来だそうです。諸説あるようですが、これはわりと有力な説です。
■龍閑川■ りゅうかんがわ
この堀川、もともと防火用の空地に町人が築いたもの。現在の千代田区と中央区の区界沿いに掘られ、浜町堀と通じるように築かれました。古地図を見ると、浜町堀とは直角に繋がっていたようです。
この堀川の名は龍閑川(=竜閑川とも)。江戸城殿中接待役の井上竜閑の屋敷があったとから「竜閑橋」と呼ばれたが橋が、川の名の由来。ちょっとややこしいのですが、厳密なことを言うと、この「竜閑橋」はもともと別な堀に架けられていましたが、埋め立てにより不要となり、この堀川に架け直されたそうです。
まぁ経緯はともかく、その「龍閑橋」付近まで歩いてみますかね。本日のもうひとつの目印です。
<川跡>
堀川の面影はほとんど残っていません。ただ古地図でも、今川橋から龍閑橋までは直線となっています。その事実を背景に眺めれば、路が堀川の跡と思えなくもない。
<ビルの間の小路>
そう思えなくもない。
<直線>
ひたすら真っすぐ。実は地図そのものは好きなのですが、実際に動き出すとけっこう「方向音痴」な方です。でもこれなら何のストレスもなく楽しめます。船で運河を移動している。そう思えなくもない。
この小さな道が千代田区と中央区の区界。川が行政区の堺というのは珍しくありませんよね。ここは「川だった道」が区堺ということです。
<小路の出口>
そろそろ小路が終わり、外堀通りにでます。何かに突き当たりますね。「龍閑橋」の架けられていたのはこの付近だと思われます。
<小さな公園>
こんな場所に出ました。何か展示されていますね。
<龍閑橋跡>
刻まれた文字。ここが2つ目の目印。そして「小さな探索」のゴールです。
<コンクリート製>
これは大正時代に造られたコンクリート製の竜閑橋だそうです。橋は江戸時代に始まり、明治・大正・昭和と姿を変えながら存在し続けたわけですね。
<説明1>
日本で初の鉄筋コンクリートトラス橋とのこと。構造物としても貴重ということですね。
<説明2>
1950年、龍閑川は埋め立てられました。戦災による瓦礫処理のためです。
江戸時代にも、埋め立てが理由で一旦不要になった龍閑橋。戦後の処理では移設されることもなく、役割を終えました。長年よく頑張りましたよね。龍閑川そのものがなくなってしまいましたので、冒頭の今川橋も、約三百年の歴史に幕を閉じました。
こうして残してもらったことに感謝です。そして橋の姿はないものの、今川橋の石碑にも。
かつてあった小さな河川が地下に埋設、つまり暗渠化される例は多々ありますが、この堀川は純粋な埋立て。龍閑川と繋がっていた浜町堀(浜町川)も同様です。水の路として機能していたのですがね。暗渠として活かされることもなかった。そういうことですね。
以上、今川橋から龍閑橋までの堀川跡でした。
最後に
ご紹介したのは今川橋跡からみて南西。龍閑川の一部です。逆に北東へ進めば、浜町川との合流地点(ここで直角に曲がる)に辿りつき、現役の川である隅田川へと繋がります。人の手により、直線・直角に掘られた堀川。道幅が狭いですが、見失わなければ迷うこともありません。ただまぁ暗い場所もあるので、夜はいろんな意味で注意して下さい。
姿を消した堀川の跡。街に埋もれているからこそ、逆に妙な魅力を感じてしまいます。
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タグ:堀川
2018年04月21日
薬研堀のなごり (東日本橋)
薬研堀と呼ばれるエリアに足を運んでみました。
■薬研堀■やげんぼり
城好きが「薬研堀」と聞けば、断面がV字型の堀を思い浮かべますよね。角度が急で、底が狭くなっているシャープな空堀を。それがそのまま地名となっている。だったら、そこはかつての城郭の一部?勝手な想像が膨らみます。
<現地訪問>
場所は東日本橋です。こんなところに江戸城の堀があったのでしょうか?
前からちょっと気になっていたのですが、訪問を機に初めてその実態を調べることに。広島市にも「薬研堀」という地名があるようですね。由来は広島城の堀とのこと。なるほど。で、今回訪問の薬研堀は・・・こちらは城郭そのものとは直接関係ないようですね。城好きとしては残念。まぁ位置的にちょっと無理がありましたかね。堀は堀でも、城下町の堀川のようです。
■堀川のなごり■
現在の東日本橋には、かつて矢ノ倉と呼ばれる米蔵があり、そこへ通じる堀川が整備されていました(東日本橋1丁目から2二丁目付近)。まぁ物流のための運河ですね。隅田川と繋がっていました。その形状から「薬研堀」と呼ばれたそうです。やがて米蔵もなくなり、運河としての役割を終えた薬研堀は埋め立てられました。
舟のための運河が薬研堀のような形?ちょっと、想像できませんが、皆がそう呼んだのだから、きっとそうなんでしょう。
そもそも薬研とは、薬を作る道具。具体的には薬草や木の身などを粉砕しながらひく器具で、時代劇などで時々目にしますね。堀の形状が、その「薬研」のようであることから、薬研堀という呼び名が生まれました。お城ファンの間では良く知られた城用語です。
<イメージ画像>
こちらは山形県の某城跡で撮影したものです。遺構ではなく、観光用です。薬研掘の形状、つまり断面がV字という意味、伝わりますでしょうか?
■地名も消滅?■
日本橋薬研堀町。いい名前ですね。中央区の正式な地名、、、でした。過去形です。1971年に東日本橋とされ、薬研堀の名は消滅しました。またまた残念。
ただし、それは住所表示上のお話。みながそう呼び続ける以上、それは残っているのと同じです。いや、もっと価値のあることかもしれません。
■医者町■
このエリア、医師が多く住んだことから「医者町」と呼ばれた時期もあったそうです。堀川が薬研堀のようだからではなくて、堀川のあったこの地に、薬研を使いこなす医師や薬剤師が集まったことで薬研堀と呼ばれたのではないか?とも思いましたが、そういう説を唱えている人はいないようです。ということで、あくまで素人のたわごとでした。
「医者町」らしいお話としては、順天堂の始祖・佐藤泰然がこの地にオランダ医学塾を開いたとされています。この日本最古といわれるこの西洋医学塾が、いまの順天堂大学へと繋がっているわけですね(薬研堀から始まり、佐倉藩に招かれて佐倉にて「順天堂」を開いたとのこと)。
あと、この地は七味唐辛子の発祥地でもあります。七味唐辛子は「漢方薬をヒントに開発された」と言われると、なんとなく納得できますね。
■薬研堀不動院■
かつての堀川、更に住所表示すらなくなりましたが、薬研堀のなごりを感じることはできます。
<薬研堀不動院>やげんぼりふどういん
かつての地名を冠する寺院。目黒不動、目白不動とともに江戸三大不動とされています。あの「川崎大師」の東京別院にもなっているとのこと。八角形の屋根が独特ですね。
<境内の様子>
奥は「納めの歳の市碑」その手前は「梵字不動尊」
こちらは弘法大師像
ビルの谷間でちょっと窮屈そうに見えますが、歴史は古く、始まりは中世末期。紀州の根来寺(ねごろじ)が、豊臣秀吉に攻められ焼失した時、層が不動尊像を背負って東国へ逃れ、この地に寺を創建した。そう伝えられています。
秀吉とあまり関係なさそうな江戸の町で、そんな話があるのですね。当時の根来寺は所領といい兵力(まぁ僧兵というんでしょうか)といい大名のような一大勢力。信長とはうまく関係を保っていたようですが、秀吉の時に関係が悪化。その結果、最盛期の寺院は戦火により失われました。再建され今に続く根来寺は、和歌山県内有数の観光名所。ちょっとそこまで行けませんが、ここ薬研堀にて、不動尊像を守った層に思いを馳せて私なりに満足。探索を終了させました。
今回訪問の「薬研堀」は、都営地下鉄東日本橋駅から徒歩数分のところです。「堀」というキーワードだけで探索を始めましたが、期待したものがない代わりに、いろんなことを知る機会となりました。こんな拙ブログですが、多少でも参考にしてもらえたら嬉しいです。
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■薬研堀■やげんぼり
城好きが「薬研堀」と聞けば、断面がV字型の堀を思い浮かべますよね。角度が急で、底が狭くなっているシャープな空堀を。それがそのまま地名となっている。だったら、そこはかつての城郭の一部?勝手な想像が膨らみます。
<現地訪問>
場所は東日本橋です。こんなところに江戸城の堀があったのでしょうか?
前からちょっと気になっていたのですが、訪問を機に初めてその実態を調べることに。広島市にも「薬研堀」という地名があるようですね。由来は広島城の堀とのこと。なるほど。で、今回訪問の薬研堀は・・・こちらは城郭そのものとは直接関係ないようですね。城好きとしては残念。まぁ位置的にちょっと無理がありましたかね。堀は堀でも、城下町の堀川のようです。
■堀川のなごり■
現在の東日本橋には、かつて矢ノ倉と呼ばれる米蔵があり、そこへ通じる堀川が整備されていました(東日本橋1丁目から2二丁目付近)。まぁ物流のための運河ですね。隅田川と繋がっていました。その形状から「薬研堀」と呼ばれたそうです。やがて米蔵もなくなり、運河としての役割を終えた薬研堀は埋め立てられました。
舟のための運河が薬研堀のような形?ちょっと、想像できませんが、皆がそう呼んだのだから、きっとそうなんでしょう。
そもそも薬研とは、薬を作る道具。具体的には薬草や木の身などを粉砕しながらひく器具で、時代劇などで時々目にしますね。堀の形状が、その「薬研」のようであることから、薬研堀という呼び名が生まれました。お城ファンの間では良く知られた城用語です。
<イメージ画像>
こちらは山形県の某城跡で撮影したものです。遺構ではなく、観光用です。薬研掘の形状、つまり断面がV字という意味、伝わりますでしょうか?
■地名も消滅?■
日本橋薬研堀町。いい名前ですね。中央区の正式な地名、、、でした。過去形です。1971年に東日本橋とされ、薬研堀の名は消滅しました。またまた残念。
ただし、それは住所表示上のお話。みながそう呼び続ける以上、それは残っているのと同じです。いや、もっと価値のあることかもしれません。
■医者町■
このエリア、医師が多く住んだことから「医者町」と呼ばれた時期もあったそうです。堀川が薬研堀のようだからではなくて、堀川のあったこの地に、薬研を使いこなす医師や薬剤師が集まったことで薬研堀と呼ばれたのではないか?とも思いましたが、そういう説を唱えている人はいないようです。ということで、あくまで素人のたわごとでした。
「医者町」らしいお話としては、順天堂の始祖・佐藤泰然がこの地にオランダ医学塾を開いたとされています。この日本最古といわれるこの西洋医学塾が、いまの順天堂大学へと繋がっているわけですね(薬研堀から始まり、佐倉藩に招かれて佐倉にて「順天堂」を開いたとのこと)。
あと、この地は七味唐辛子の発祥地でもあります。七味唐辛子は「漢方薬をヒントに開発された」と言われると、なんとなく納得できますね。
■薬研堀不動院■
かつての堀川、更に住所表示すらなくなりましたが、薬研堀のなごりを感じることはできます。
<薬研堀不動院>やげんぼりふどういん
かつての地名を冠する寺院。目黒不動、目白不動とともに江戸三大不動とされています。あの「川崎大師」の東京別院にもなっているとのこと。八角形の屋根が独特ですね。
<境内の様子>
奥は「納めの歳の市碑」その手前は「梵字不動尊」
こちらは弘法大師像
ビルの谷間でちょっと窮屈そうに見えますが、歴史は古く、始まりは中世末期。紀州の根来寺(ねごろじ)が、豊臣秀吉に攻められ焼失した時、層が不動尊像を背負って東国へ逃れ、この地に寺を創建した。そう伝えられています。
秀吉とあまり関係なさそうな江戸の町で、そんな話があるのですね。当時の根来寺は所領といい兵力(まぁ僧兵というんでしょうか)といい大名のような一大勢力。信長とはうまく関係を保っていたようですが、秀吉の時に関係が悪化。その結果、最盛期の寺院は戦火により失われました。再建され今に続く根来寺は、和歌山県内有数の観光名所。ちょっとそこまで行けませんが、ここ薬研堀にて、不動尊像を守った層に思いを馳せて私なりに満足。探索を終了させました。
今回訪問の「薬研堀」は、都営地下鉄東日本橋駅から徒歩数分のところです。「堀」というキーワードだけで探索を始めましたが、期待したものがない代わりに、いろんなことを知る機会となりました。こんな拙ブログですが、多少でも参考にしてもらえたら嬉しいです。
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タグ:堀川