今回は川のなごりです。荒川の蛇行のなごりを感じに北区を散策してきました。
<浮間氷川神社>
荒川流域に多く分布する氷川神社。かつての荒川はこの付近で大きく蛇行し、周辺に広がる湿地はたび重なる洪水に悩まされていました。村の鎮守であり続けたこちらの氷川神社は、盛土の上に鎮座しています。
■川のなごり■
<浮間舟渡駅>うきまふなど
今回下車した駅は埼京線の浮間舟渡駅です。駅名は地名の浮間と舟渡を合わせたもので、更に細かいことをいうと浮間は北区で舟渡は板橋区。つまり区にまたがった場所に位置する駅なのです。この一見どうでも良い話が、荒川のかつての蛇行と関係しています。
<区境>
下車して目的地へ向かう途中、道路を撮影。工事の管轄が違うからでしょうか。区境に線が入っています。向こうに見えている池も、この線の延長線上が北区と板橋区の境になります。
<浮間公園>
目的地到着。といっても改札を出てから徒歩1分です。
<浮間ヶ池>
この大きな池がかつての荒川のなごり。蛇行する荒川はかつてここを流れていました。そのままなら、川がかつての村境、そして区と区の境だったわけですね。
ところで、いろんな野鳥がいることで有名な公園ですが、なんとカモメが沢山いるではないですか。海からはけっこう離れていますがね。荒川沿いを内陸へ向かって移動してきたのでしょうか?ちょっと不思議な光景でした。
<風車>
風車はこの公園のシンボル的な存在です。花も見応えがある公園なのですが、私の訪問は1月下旬のためちょっと地味に映りますかね。私の関心事は花より左手の土塁。これは昔の堤防をそのまま残したのでしょうか?調べたもののはっきりしないので、勝手にそう思うことにしました。
<説明板>
ちょっと疲れた説明板ですが、充分読み取れます。浮間ヶ池が荒川の一部だったこと、現在の荒川は公園北側の土手の向こう側を流れていることなどが記載されています。洪水が多かったようですね。この対策として着手された流路変更の大工事は、明治44年から昭和5年にかけて行われたようです。
<別な説明板>
こちらは別の説明板の地図。昭和3年とありますから、改修工事の途中の地図ということですね。大きく南に蛇行していた荒川の流路が、北側で直線に変えられているのがわかります。『浮間』の名は、川に突き出た地形が浮島のように映ったことに由来します。地図を見る限り、まさにそんな感じだったのでしょう。お隣の『舟渡』も水辺を思わせる名。地名は貴重な手がかりですね。
<公園北側>
公園の北側は荒川の堤防になっています。
<堤防>
高いなぁ。まぁせっかくだから登ってみますかね
<荒川>
堤防の上です。昔の荒川は幅が狭いうえに蛇行が多かったようですが、今は幅広でまっすぐ。川の向こうに見えてるのは川口市の高層ビルです。この巨大な堤防により遮断され、浮間ヶ池が再び荒川と交じり合うことはありません。
■低湿地のなごり■
工事前は荒川の氾濫に悩まされた浮間。いまでは湿地の面影もありませんが、冒頭にご紹介の神社にそのなごりを確認し、今回の探索の締めとしました。
<浮間氷川神社鳥居>
創建時期は不詳ながら、江戸時代には浮間村の鎮守だったと伝わります。
洪水の多い低地では、周辺より高く盛土をして倉など設けておく水塚(みづか)の跡をみかけることがあります。ここ浮間の鎮守は、水塚の上に鎮座しています。
<浮間氷川神社拝殿>
水害が多かったであろう村の神社です。想像ですが、緊急時には避難場所にもなっていたのかもしれませんね。
ということで
荒川の古い流路とかつての湿地を散策したというお話でした。最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。
■訪問:
浮間公園〔浮間ヶ池〕
[東京都北区浮間]2丁目
[東京都板橋区舟渡]2丁目
浮間氷川神社
[東京都北区浮間]2丁目19-6
-----追 記-----
桜の時期に再訪した浮間公園の画像を貼っておきます。
地元の人たちの憩いの場です
2020年01月26日
2019年11月20日
浦和暗渠散歩 天王川を下る
秋晴れの穏やかな日曜日
浦和の天王川のなごりを感じに行きました。
<天王川>てんのうがわ
まぁ道ですが、いわゆる『暗渠』です。天王川の暗渠です。地下に埋設されているものの、今でも周辺の水を集めながら流れ続けています。水路のようにも映りますが、もともとあった自然の川。浦和区の針ヶ谷から始まり、長年かけて細長い谷を刻んできました。そもそもこの谷の形が『針ヶ谷』という地名の由来ではないかと考えられています。
さて
城跡巡りもこういった街探索も、普段は独りです。しかしこの日は心強いお仲間がたくさん。地元埼玉だけでなく、千葉・東京・神奈川からも同志が集まってくれました。
何のため?
浦和の暗渠を見るためです。ヘンですかね?
私も暗渠を見るために、わざわざ川崎市の溝ノ口まで行ったことがあります。
その時の投稿→『記事にすすむ』
なかなか一般的な感覚では理解しにくいかもしれませんが、マニアとはそういうもの。暗渠に興味を持つかどうかは別として、このブログを読んで頂いているみなさんにも、周囲の人になかなか理解してもらえない趣味とか、拘りとか、美意識とか、あるんじゃないですかね?
では暗渠を訪ねて何をしたかというと
源流部を確認しに行ったり
これも暗渠か?などと疑ったり
支流を確認したり
支流から本流をながめたり
また本流に戻ったり
暗渠だけを見つめるというより、周囲との高低差や、川沿いならではの雰囲気を味わいながら歩きます。川に背を向けた家々、クリーニング屋さんなど。湧水と出会えたら、これはもうちょっとした感動ですね。あと暗渠らしい光景といえば車止めやマンホール、橋の跡や護岸の跡といったところでしょうか。また、暗渠を歩くとなぜか猫とよく合うのも、人によっては楽しみなのかもしれません。私はそうでもないのですが・・・
他にも、途中で見かける馬頭観音や庚申塔に足を止めたりします。そしてかつての人の営みに思いを馳せてみる。
まぁいずれにせよ、何に拘り何を思うかは人それぞれなので、この日の参加者が足を止める場所もまちまちです。
ただ、蓋をされた川、つまり暗渠だけは共通のテーマ。この共通テーマのもとに集まり、各々が勝手に楽しむ。集団で行動していますが、まぁそんな感じの散策となります。
さてさて
私の拘りはやはり城跡ですね。この日は天王川沿いの三郎山にかつてあったとされる針ヶ谷陣屋跡で足を止めました。そして、参加者の皆さんに生意気にもうんちくをたれました(ちょっと雑でしたが)。実は当ブログに天王川が登場するのは2度目で、以前陣屋跡とセットで『暗渠と城跡』と題してご紹介させて頂いています。
その時の投稿→『記事へすすむ』
まぁその時調べたことをしゃべっただけですが、現地でちょっとショックだったのが、私の訪問時にあった説明板が撤去され、近くの公園にバージョンアップした説明板が設置されていたことです。
うぁ分かり易いし綺麗!
少ない情報をかき集めてブログにまとめたので、説明板がこんな素晴らしい内容だと笑うしかありませんでした。
針ヶ谷三山?
聞いたことのない針ヶ谷三山という言葉。かつて陣屋があった三郎山は、そのうちの一つということですね。また勉強になりました。浦和区文化の小径づくり推進委員会さん、ありがとうございます。
そして針ヶ谷陣屋のあとは、ちょっと天王川から離れますが戦国武将ゆかりの廓信寺へ
徳川家康の三河時代からの家臣で、岩付城主となった高力清長。その清長から浦和を任された代官が、清長亡きあと冥福を祈るために創建したことに始まるお寺です。ここも過去にブログにまとているので、良かったら覗いてみて下さい。
廓信寺の投稿→『記事へすすむ』
廓信寺のあとは、北浦和駅付近で少し休憩。そして再びみんなそろって天王川へ!
行くはずでした。
が、一人だけ行けず・・・
実は不肖Isuke、信号待ちの間に廓信寺のことをツイートしていたらお仲間を見失うことに!天王川がどのへんか分かっているので追いかけましたが見つけられず・・・そもそも皆さん支流とか寄り道する可能性もありましたので、天王川の暗渠上にいるとも限りません
まいったなぁ
姿の見えない川を見失うことはよくありますが、お仲間を見失うとは
ということで、ここからは一人
針ヶ谷から始まる天王川は、南下して浦和駒場スタジアム付近で藤右衛門川(谷田川)と合流します。皆さんがそちらを探索中に、大筋で似たような方角へ向い、自分なりにいろんなところで足を止めながら浦和駅方面へ
といっても、ご紹介できるのは浦和区本太(もとぶと)の氷川神社くらいですかね。
こちらは創建年不詳ながら、約1500年位前から鎮座していると伝わります。
扁額には元府趾の文字。これは奈良時代の律令制の府がこの地にあったことを示すと考えられています。元は府があったあと=元府趾=もとぶと。そういう受け止め方で良いかと。この地はその当時の統治の中核だったということですね。
そして
ここでやっとお仲間と再会。浦和の人気店・力(リキ)です。
互いの本名すら知らない暗渠マニアたちの宴です。
ということで
今回は以上です。暗渠日記のような内容に、最後までお付き合い頂きありがとうございました。
お城巡りランキング
---------追 記---------
私は北浦和駅付近でお仲間を見失ってしまいましたが、全行程を制覇した『川崎のKさん』ののTwitter Biogをご紹介しておきます。私から見れば街探索の上級者です。そんなことを簡単には認めない謙虚な方のブログです。
■タイトル:
忘れられない一日となった
浦和の暗渠さんぽ
『→記事へすすむ』
■お勧め本■
静かなブームになりつつある『暗渠』に関する本のご紹介です。当ブログでは下記をお勧め致します。
はじめての暗渠散歩(ちくま文庫)
:本田創/山英男/吉村生/三土たつお
※広告掲載期限切れのため書名のみ
浦和の天王川のなごりを感じに行きました。
<天王川>てんのうがわ
まぁ道ですが、いわゆる『暗渠』です。天王川の暗渠です。地下に埋設されているものの、今でも周辺の水を集めながら流れ続けています。水路のようにも映りますが、もともとあった自然の川。浦和区の針ヶ谷から始まり、長年かけて細長い谷を刻んできました。そもそもこの谷の形が『針ヶ谷』という地名の由来ではないかと考えられています。
さて
城跡巡りもこういった街探索も、普段は独りです。しかしこの日は心強いお仲間がたくさん。地元埼玉だけでなく、千葉・東京・神奈川からも同志が集まってくれました。
何のため?
浦和の暗渠を見るためです。ヘンですかね?
私も暗渠を見るために、わざわざ川崎市の溝ノ口まで行ったことがあります。
その時の投稿→『記事にすすむ』
なかなか一般的な感覚では理解しにくいかもしれませんが、マニアとはそういうもの。暗渠に興味を持つかどうかは別として、このブログを読んで頂いているみなさんにも、周囲の人になかなか理解してもらえない趣味とか、拘りとか、美意識とか、あるんじゃないですかね?
では暗渠を訪ねて何をしたかというと
源流部を確認しに行ったり
これも暗渠か?などと疑ったり
支流を確認したり
支流から本流をながめたり
また本流に戻ったり
暗渠だけを見つめるというより、周囲との高低差や、川沿いならではの雰囲気を味わいながら歩きます。川に背を向けた家々、クリーニング屋さんなど。湧水と出会えたら、これはもうちょっとした感動ですね。あと暗渠らしい光景といえば車止めやマンホール、橋の跡や護岸の跡といったところでしょうか。また、暗渠を歩くとなぜか猫とよく合うのも、人によっては楽しみなのかもしれません。私はそうでもないのですが・・・
他にも、途中で見かける馬頭観音や庚申塔に足を止めたりします。そしてかつての人の営みに思いを馳せてみる。
まぁいずれにせよ、何に拘り何を思うかは人それぞれなので、この日の参加者が足を止める場所もまちまちです。
ただ、蓋をされた川、つまり暗渠だけは共通のテーマ。この共通テーマのもとに集まり、各々が勝手に楽しむ。集団で行動していますが、まぁそんな感じの散策となります。
さてさて
私の拘りはやはり城跡ですね。この日は天王川沿いの三郎山にかつてあったとされる針ヶ谷陣屋跡で足を止めました。そして、参加者の皆さんに生意気にもうんちくをたれました(ちょっと雑でしたが)。実は当ブログに天王川が登場するのは2度目で、以前陣屋跡とセットで『暗渠と城跡』と題してご紹介させて頂いています。
その時の投稿→『記事へすすむ』
まぁその時調べたことをしゃべっただけですが、現地でちょっとショックだったのが、私の訪問時にあった説明板が撤去され、近くの公園にバージョンアップした説明板が設置されていたことです。
うぁ分かり易いし綺麗!
少ない情報をかき集めてブログにまとめたので、説明板がこんな素晴らしい内容だと笑うしかありませんでした。
針ヶ谷三山?
聞いたことのない針ヶ谷三山という言葉。かつて陣屋があった三郎山は、そのうちの一つということですね。また勉強になりました。浦和区文化の小径づくり推進委員会さん、ありがとうございます。
そして針ヶ谷陣屋のあとは、ちょっと天王川から離れますが戦国武将ゆかりの廓信寺へ
徳川家康の三河時代からの家臣で、岩付城主となった高力清長。その清長から浦和を任された代官が、清長亡きあと冥福を祈るために創建したことに始まるお寺です。ここも過去にブログにまとているので、良かったら覗いてみて下さい。
廓信寺の投稿→『記事へすすむ』
廓信寺のあとは、北浦和駅付近で少し休憩。そして再びみんなそろって天王川へ!
行くはずでした。
が、一人だけ行けず・・・
実は不肖Isuke、信号待ちの間に廓信寺のことをツイートしていたらお仲間を見失うことに!天王川がどのへんか分かっているので追いかけましたが見つけられず・・・そもそも皆さん支流とか寄り道する可能性もありましたので、天王川の暗渠上にいるとも限りません
まいったなぁ
姿の見えない川を見失うことはよくありますが、お仲間を見失うとは
ということで、ここからは一人
針ヶ谷から始まる天王川は、南下して浦和駒場スタジアム付近で藤右衛門川(谷田川)と合流します。皆さんがそちらを探索中に、大筋で似たような方角へ向い、自分なりにいろんなところで足を止めながら浦和駅方面へ
といっても、ご紹介できるのは浦和区本太(もとぶと)の氷川神社くらいですかね。
こちらは創建年不詳ながら、約1500年位前から鎮座していると伝わります。
扁額には元府趾の文字。これは奈良時代の律令制の府がこの地にあったことを示すと考えられています。元は府があったあと=元府趾=もとぶと。そういう受け止め方で良いかと。この地はその当時の統治の中核だったということですね。
そして
ここでやっとお仲間と再会。浦和の人気店・力(リキ)です。
互いの本名すら知らない暗渠マニアたちの宴です。
ということで
今回は以上です。暗渠日記のような内容に、最後までお付き合い頂きありがとうございました。
お城巡りランキング
---------追 記---------
私は北浦和駅付近でお仲間を見失ってしまいましたが、全行程を制覇した『川崎のKさん』ののTwitter Biogをご紹介しておきます。私から見れば街探索の上級者です。そんなことを簡単には認めない謙虚な方のブログです。
■タイトル:
忘れられない一日となった
浦和の暗渠さんぽ
『→記事へすすむ』
■お勧め本■
静かなブームになりつつある『暗渠』に関する本のご紹介です。当ブログでは下記をお勧め致します。
はじめての暗渠散歩(ちくま文庫)
:本田創/山英男/吉村生/三土たつお
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タグ:暗渠
2019年11月04日
火の玉不動 大宮宿の水路と刑場のなごり
かつての大宮宿南方にあったとされる刑場跡を訪ねました。
<火の玉不動>
さいたま新都心駅近くの『火の玉不動』です。左の道路は中山道です。
江戸の刑場跡を訪問する際はかなり躊躇しましたが、今回の訪問は大宮の『涙橋跡』を目にした時に既に決めていました。縁起の良い場所とは言い難いものの、人が訪れ手を合わせ、何かを感じる方が、忘れさられるより良いように思えるからです。
<火の玉不動とお女郎地蔵>
祠には火の玉不動とお女郎地蔵が祀られています。左側が 火の玉不動です。
江戸時代、この付近には下原と呼ばれる原野が広がり、そこに引かれた高沼用水の流れがありました。そして水路に架かる高台橋のすぐそばに、刑場があったとされています。
高台橋付近では、ふわふわと飛ぶ火の玉が目撃されたそうです。人魂を連想するのが自然ですね。ある男がその正体を突き止めるべく火の玉を斬りつけたところ、不動明王を斬ってしまった。火の玉不動の名はこんな話に由来します。
ちなみに、一緒に祀られているお女郎地蔵は、大宮宿の美しい女郎の悲恋にまつわるもの。思い悩み高台橋から身を投げ、その後まもなく火の玉が飛ぶようになったことから、供養の為に地蔵が建てられたと伝わります。
<現地説明板>
祠の裏側に説明がなされていますが、火の玉不動に関する説明はないようです。『北袋町と吉敷町の境を流れる鴻沼(高沼)用水にかかる橋が高台橋』であることや、水路が造られた経緯が記されています。
当時原野のようだったところに造られた水路なら、水も清らかだったことでしょう。闇に飛び交う蛍が、火の玉に映ってもおかしくない。私は霊感とは無縁の男なので、そんな程度の想像しかできませんでした。
それにしても
いまでは橋はおろか、付近に水路も見当たりませんね。ただ、注意深く見れば、そのなごりは残されています。
<高沼遊歩道>
火の玉不動の左手の道に『高沼遊歩道』と記されています。もう見つけたのも同然です。
<暗渠>
これはただの道ではありません。いわゆる暗渠です。この地下がそのまま水路ということです。個人的に、暗渠をみつけるとその出口を探したくなります。
<暗渠の出口>
この日はすぐに見つかりました。火の玉不動と中山道を挟んだ逆側。つまり駅側です。敷地に入れないのでこんな画像となりますが、線路を潜った水路はここで一瞬空と出会い、再び地下へ隠れます。
高台橋は高沼用水と中山道が交差する場所に架けられた橋ですので、まさにこの地点ということですね。刑場そのものではありませんが、橋の位置は納得です。江戸の刑場は、街道沿いに設けられました。見せしめの意味があったようです。そして大宮宿の刑場も中山道沿い。同じ意味なのかもしれませんね。
最後に
下原刑場は明治時代なってすぐに廃止となっています。つまり古い古いお話です。その後跡地は牧場であったり工場の敷地として使われ、今では立派な商業施設が建ち並んでいます。刑場跡というとあまり良いイメージはありませんが、そもそも当ブログの主たるテーマの城跡も、多くの人が亡くなった場所なのです。気付きもしないより、残された痕跡に足を止めて何かを思う。今回訪問の供養塔も、そういう場所であり続けて欲しいと思いました。
■訪問:火の玉不動
[埼玉県さいたま市大宮区吉敷町]
■当ブログの関連記事■
大宮宿の涙橋→『記事へすすむ』
お城巡りランキング
<火の玉不動>
さいたま新都心駅近くの『火の玉不動』です。左の道路は中山道です。
江戸の刑場跡を訪問する際はかなり躊躇しましたが、今回の訪問は大宮の『涙橋跡』を目にした時に既に決めていました。縁起の良い場所とは言い難いものの、人が訪れ手を合わせ、何かを感じる方が、忘れさられるより良いように思えるからです。
<火の玉不動とお女郎地蔵>
祠には火の玉不動とお女郎地蔵が祀られています。左側が 火の玉不動です。
江戸時代、この付近には下原と呼ばれる原野が広がり、そこに引かれた高沼用水の流れがありました。そして水路に架かる高台橋のすぐそばに、刑場があったとされています。
高台橋付近では、ふわふわと飛ぶ火の玉が目撃されたそうです。人魂を連想するのが自然ですね。ある男がその正体を突き止めるべく火の玉を斬りつけたところ、不動明王を斬ってしまった。火の玉不動の名はこんな話に由来します。
ちなみに、一緒に祀られているお女郎地蔵は、大宮宿の美しい女郎の悲恋にまつわるもの。思い悩み高台橋から身を投げ、その後まもなく火の玉が飛ぶようになったことから、供養の為に地蔵が建てられたと伝わります。
<現地説明板>
祠の裏側に説明がなされていますが、火の玉不動に関する説明はないようです。『北袋町と吉敷町の境を流れる鴻沼(高沼)用水にかかる橋が高台橋』であることや、水路が造られた経緯が記されています。
当時原野のようだったところに造られた水路なら、水も清らかだったことでしょう。闇に飛び交う蛍が、火の玉に映ってもおかしくない。私は霊感とは無縁の男なので、そんな程度の想像しかできませんでした。
それにしても
いまでは橋はおろか、付近に水路も見当たりませんね。ただ、注意深く見れば、そのなごりは残されています。
<高沼遊歩道>
火の玉不動の左手の道に『高沼遊歩道』と記されています。もう見つけたのも同然です。
<暗渠>
これはただの道ではありません。いわゆる暗渠です。この地下がそのまま水路ということです。個人的に、暗渠をみつけるとその出口を探したくなります。
<暗渠の出口>
この日はすぐに見つかりました。火の玉不動と中山道を挟んだ逆側。つまり駅側です。敷地に入れないのでこんな画像となりますが、線路を潜った水路はここで一瞬空と出会い、再び地下へ隠れます。
高台橋は高沼用水と中山道が交差する場所に架けられた橋ですので、まさにこの地点ということですね。刑場そのものではありませんが、橋の位置は納得です。江戸の刑場は、街道沿いに設けられました。見せしめの意味があったようです。そして大宮宿の刑場も中山道沿い。同じ意味なのかもしれませんね。
最後に
下原刑場は明治時代なってすぐに廃止となっています。つまり古い古いお話です。その後跡地は牧場であったり工場の敷地として使われ、今では立派な商業施設が建ち並んでいます。刑場跡というとあまり良いイメージはありませんが、そもそも当ブログの主たるテーマの城跡も、多くの人が亡くなった場所なのです。気付きもしないより、残された痕跡に足を止めて何かを思う。今回訪問の供養塔も、そういう場所であり続けて欲しいと思いました。
■訪問:火の玉不動
[埼玉県さいたま市大宮区吉敷町]
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大宮宿の涙橋→『記事へすすむ』
お城巡りランキング
タグ:暗渠
2019年10月27日
大宮宿の涙橋 (さいたま市大宮区)
さいたま市大宮区で橋の痕跡と出会いました
<涙橋跡>
なみだばし?そう刻まれた石碑の土台は実際に使われていた橋の一部でしょうか?
涙橋と言えば、思い出すのは荒川区の泪橋。刑場へ向かう罪人が涙ながらに渡ったことからそう呼ばれるようになりました。ここ大宮の涙橋も由来は同じなのでしょうか?
<説明板>
史蹟としてちゃんと名の由来が説明されています。これによれば
『住時大宮宿の辺の中山道を横切って溝川の流れがあり、「中の橋」と呼ばれる橋が架かっていた。当時吉敷町の街外れ、高台橋に罪人の処刑場があって、その親類縁者が「中の橋」でこの世の別れを惜しみ涙を流したことでいつしか「涙橋」と呼ばれるようになったと言われている。』
[出典:現地説明板]
とのこと。中山道を横切る溝川とは、かつてあった大きな沼(鴻沼)に注ぐ水路のことですね。以下は後半の抜粋になりますが、昭和42年の第四銀行大宮支店開業の際の工事で、橋桁の枠石が発見され石碑としたようです。
なるほど。納得しました。
それにしても大宮に刑場ですか・・・
江戸の刑場については調べたことがありましたが、自分にとっての地元・埼玉の刑場については全く考えたこともありませんでした。あって当然ですよね。
大宮は江戸時代に宿場町として栄えました。中山道で日本橋から数えて4番目の宿場です(板橋→蕨→浦和→大宮)。その宿場の南方の原っぱに刑場があったようです。下原刑場というそうです。そこへ送られる罪人がこの世との根性の別れに涙ながらに渡った橋が、いつしか涙橋と呼ばれたわけですね。
人が行きかう中山道沿いです。いろんな人間模様があったのでしょう。下原刑場は地元民の強い要望で明治元年に廃止となったそうです。
石碑そのものは旧中山道から細い路地に入ったところにあります
ちょっと地味ですが、ご興味のある方は探してみてくだい
■訪問:涙橋跡
(第四銀行大宮支店)
[さいたま市大宮区下町]2丁目
■当ブログの関連記事■
荒川区の泪橋→『記事へすすむ』
品川区の涙橋→『記事へすすむ』
------ 追 記------
この日は特に目的もなく、ひとりで大宮区の街探索。宿場として栄えたわりに史蹟が多い街とは言えませんが、良く探せば、興味深い場所がないわけではありません。今回は涙橋からすぐ近くの2つをご紹介させて頂きます。
<加賀前田家の屋敷門>
こちらは中山道沿いで、涙橋がある方とは道を挟んで逆側になります。立派な門ですね。前田家の江戸屋敷から貰い受けたものだそうです。ちょっと選挙のポスターが目立ってしまうので、モザイクを入れさせて頂きました。
次は
悲しい涙橋のお話とは逆に、心温まる言い伝えがある場所です。
<地蔵尊>
涙橋跡からちょっと浦和方面(南)へ移動した小さな路地。塩地蔵尊(左)と子育地蔵(右)が並んでいます
子育地蔵はよく耳にしますが塩地蔵尊?
どんな言い伝えがあるでしょうか
『妻に先立たれた二人の娘を連れた浪人が、ここ大宮宿で病に倒れてしまいます。すると姉妹の夢枕に地蔵が現れ、塩断ちするよう告げて消えました。姉妹は早速塩断ちして、近くの地蔵にお祈りしました。すると父親の病は治り、感謝した姉妹はたくさんの塩を地蔵に供えました。』
ちょっと省略しましたが、現地の説明だとだいたいこういうお話です。内容も良いですが、ここ大宮が人が行き交う宿場だったことが伝わってきますね。
いまでも塩が供えられています。語り継がれている証ですね。
お城巡りランキング
<涙橋跡>
なみだばし?そう刻まれた石碑の土台は実際に使われていた橋の一部でしょうか?
涙橋と言えば、思い出すのは荒川区の泪橋。刑場へ向かう罪人が涙ながらに渡ったことからそう呼ばれるようになりました。ここ大宮の涙橋も由来は同じなのでしょうか?
<説明板>
史蹟としてちゃんと名の由来が説明されています。これによれば
『住時大宮宿の辺の中山道を横切って溝川の流れがあり、「中の橋」と呼ばれる橋が架かっていた。当時吉敷町の街外れ、高台橋に罪人の処刑場があって、その親類縁者が「中の橋」でこの世の別れを惜しみ涙を流したことでいつしか「涙橋」と呼ばれるようになったと言われている。』
[出典:現地説明板]
とのこと。中山道を横切る溝川とは、かつてあった大きな沼(鴻沼)に注ぐ水路のことですね。以下は後半の抜粋になりますが、昭和42年の第四銀行大宮支店開業の際の工事で、橋桁の枠石が発見され石碑としたようです。
なるほど。納得しました。
それにしても大宮に刑場ですか・・・
江戸の刑場については調べたことがありましたが、自分にとっての地元・埼玉の刑場については全く考えたこともありませんでした。あって当然ですよね。
大宮は江戸時代に宿場町として栄えました。中山道で日本橋から数えて4番目の宿場です(板橋→蕨→浦和→大宮)。その宿場の南方の原っぱに刑場があったようです。下原刑場というそうです。そこへ送られる罪人がこの世との根性の別れに涙ながらに渡った橋が、いつしか涙橋と呼ばれたわけですね。
人が行きかう中山道沿いです。いろんな人間模様があったのでしょう。下原刑場は地元民の強い要望で明治元年に廃止となったそうです。
石碑そのものは旧中山道から細い路地に入ったところにあります
ちょっと地味ですが、ご興味のある方は探してみてくだい
■訪問:涙橋跡
(第四銀行大宮支店)
[さいたま市大宮区下町]2丁目
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品川区の涙橋→『記事へすすむ』
------ 追 記------
この日は特に目的もなく、ひとりで大宮区の街探索。宿場として栄えたわりに史蹟が多い街とは言えませんが、良く探せば、興味深い場所がないわけではありません。今回は涙橋からすぐ近くの2つをご紹介させて頂きます。
<加賀前田家の屋敷門>
こちらは中山道沿いで、涙橋がある方とは道を挟んで逆側になります。立派な門ですね。前田家の江戸屋敷から貰い受けたものだそうです。ちょっと選挙のポスターが目立ってしまうので、モザイクを入れさせて頂きました。
次は
悲しい涙橋のお話とは逆に、心温まる言い伝えがある場所です。
<地蔵尊>
涙橋跡からちょっと浦和方面(南)へ移動した小さな路地。塩地蔵尊(左)と子育地蔵(右)が並んでいます
子育地蔵はよく耳にしますが塩地蔵尊?
どんな言い伝えがあるでしょうか
『妻に先立たれた二人の娘を連れた浪人が、ここ大宮宿で病に倒れてしまいます。すると姉妹の夢枕に地蔵が現れ、塩断ちするよう告げて消えました。姉妹は早速塩断ちして、近くの地蔵にお祈りしました。すると父親の病は治り、感謝した姉妹はたくさんの塩を地蔵に供えました。』
ちょっと省略しましたが、現地の説明だとだいたいこういうお話です。内容も良いですが、ここ大宮が人が行き交う宿場だったことが伝わってきますね。
いまでも塩が供えられています。語り継がれている証ですね。
お城巡りランキング
2019年07月29日
裏方の英雄 伊奈忠次のなごり (水戸市)
<伊奈忠次>いな ただつぐ
水戸市内の道明橋に建てられた伊奈備前守忠次の銅像です。背景は備前堀。その名の通り、伊奈備前守の指導で造られた治水と利水を兼ねた用水路です。
この堀の始まりは江戸初期。水戸藩主が初代の徳川頼房の時に、近くの千波湖の増水対策として堀が掘削されました。堀の長さは約 12kmにも及び、当時の21の村々を灌漑し、恩恵をもたらしました。そして今も、現役の水路として活かされています。
伊奈忠次は徳川家康の古くからの家臣です。家康の伊賀越えにも同行していますし、合戦にも参加していますが、治水で名を馳せた人物。有名な利根川の流路変更(付け替え)だけではなく、関東各地には忠次やその一族が関わった用水路が今でも残されています。
<道明橋と備前堀>
ここ水戸市内を流れる備前堀もそのひとつ。徳川幕府の関東で基盤造りに貢献した、裏方の英雄のなごりです。
■訪問:道明橋
[茨城県水戸市本町・紺屋町]
当ブログでは、伊奈氏屋敷跡訪問時に忠次ほか伊奈一族の活躍について触れさせて頂いております。拙い説明ですが、お読み頂けたら嬉しいです。
→『記事へ進む』
お城巡りランキング
水戸市内の道明橋に建てられた伊奈備前守忠次の銅像です。背景は備前堀。その名の通り、伊奈備前守の指導で造られた治水と利水を兼ねた用水路です。
この堀の始まりは江戸初期。水戸藩主が初代の徳川頼房の時に、近くの千波湖の増水対策として堀が掘削されました。堀の長さは約 12kmにも及び、当時の21の村々を灌漑し、恩恵をもたらしました。そして今も、現役の水路として活かされています。
伊奈忠次は徳川家康の古くからの家臣です。家康の伊賀越えにも同行していますし、合戦にも参加していますが、治水で名を馳せた人物。有名な利根川の流路変更(付け替え)だけではなく、関東各地には忠次やその一族が関わった用水路が今でも残されています。
<道明橋と備前堀>
ここ水戸市内を流れる備前堀もそのひとつ。徳川幕府の関東で基盤造りに貢献した、裏方の英雄のなごりです。
■訪問:道明橋
[茨城県水戸市本町・紺屋町]
当ブログでは、伊奈氏屋敷跡訪問時に忠次ほか伊奈一族の活躍について触れさせて頂いております。拙い説明ですが、お読み頂けたら嬉しいです。
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タグ:伊奈一族
2019年07月10日
久地円筒分水と溝口暗渠散歩(川崎市)
今回は久々に水路の話です。
久地円筒分水くじえんとうぶんすい
<円筒分水>
こちらは川崎市の二ヶ領用水久地円筒分水。中央の円筒から水を湧き上げ、外側の円筒の淵から溢れさせて、水路に流す仕組みになっています。思いのほか大きい!円筒は中央が直径8m、外側は16mです。
溢れさせて
分水されて各々の水路へ
<憩いの場所>
円筒分水そのものは他にもありますが、ここ高津区の円筒分水はその先駆け。今では周辺も整備されて、市民の憩いの場所にもなっています。
■二ヶ領用水の分水■にかりょうようすい
二ヶ領用水とは、多摩川から引き込んだ水を川崎市内の広範囲に渡って供給する用水路で、その始まりは江戸時代初期まで遡ります。ここ久地では、古くから二ヶ領用水の水を4つの堀(久地堀・六ヶ村堀・川崎堀・根方堀)に分水していました。しかし樋(水門)による水量の調整は難しく、水をめぐる揉めごとの種にもなっていたそうです。昭和になってコンクリート製の円筒分水が造られ、円周比による正確な供給が可能になったとか。
円形なら均等に淵から溢れ出ますよね。これを予め約束した比率(灌漑面積に応じた比率)で仕切っておけば、同じ割合で水を供給し続けることができますね。ここへ流れ込む水量が変わっても、分水の比率は変わらない。なるほど、納得です。
以前から存在だけは知っていた二ヶ領用水久地円筒分水。その実物を目の当たりにすることができ、満足な訪問となりました。
■訪問
二ヶ領用水久地円筒分水
[神奈川県川崎市高津区久地]
終わり
ではなく、この日はここから先の水の行方を追いました。円筒分水から分水される4つの堀の1つ、根方堀のいまを確認しに。
溝口暗渠散歩
■根方堀■
根方堀は先ほどご紹介の円筒分水から始まり、現在の川崎市高津区南東部の平地を潤した用水路です。根方十三ヶ村堀ともいいます。ニヶ領用水を、13の村に届けるための水路ということですね。13の村とは、具体的には久本・溝口・坂戸・末永・新作・清沢・厳川・子母口・明津・ 新城・上小田中・下小田中・神地。このうち久本村・溝口村のいまを確認すべく、溝口の駅へと向かいました。
と、ここまではいつも通り単独行動。このあと、武蔵溝ノ口駅改札前で街探索のお仲間たちと合流しました。川崎を愛し、川崎を知り尽くしたKさんと、同じく地元で庚申塔に詳しいSさんに導かれ、江戸時代の絵図を片手に古き溝口のいまの姿を確認して歩きました。10人を越える参加者の関心事はまちまちですが、川と水路、そしてそれらが地下に埋設された暗渠は全員共通テーマです。
■溝口探索■
大まかには溝口周辺の散策ですが、この日はリーダーKさんのチョイスで、溝口の南側にに広がる旧久本村をメインに散策しました。
Kさんによれば、久本村は多摩川の氾濫低地を水田として利用し、台地を集落や畑として利用した二段構えの構造になっているとのこと。その間を貫く『神奈川道』と呼ばれる古道、そして二ヶ領用水根方堀を辿る探索です。もちろん、寄り道を沢山しながら。以下脈略ありませんが、散策時の画像です。
<ポレポレ通り>
人通りの多いポレポレ通りです。上手く人を避けて撮影できましたが、実際には買い物客で賑わっていました。もはや水の雰囲気は漂っていませんが、かつては水路。蛇行する自然の川とは異なり、直線に掘られた用水路のなごりです。
<南田堰>
かつてここに用水路の堰があったようですね。根方堀がこの付近を流れ、近くにあったこの南田堰をめぐり、溝口村と久本村の間で大きな水騒動がおこったとのこと。こういった水をめぐる争いは、この地に限らず日本全国で起きていた問題です。我が国の農業は水田がメインですからね。水がどれだけ重要か、改めて考えさせられます。
<アーケードの下>
こちらはアーケードの下に飲み屋がひしめく線路沿いのマニアックなエリア。左手の線路側は
暗渠になっていますね。ひっそりと。南武線の線路との間を流れていく根方堀の暗渠です。この景色の情緒が人を引き付けるのでしょうか。暗渠ファンには知られた場所で、私もSNSなどで何度かこの景色を見たことがありました。そして今回ついに初訪問です。
<暗渠>
右側は水路が埋設されている状態なので、その断面を見ただけで、道とは構造が異なるのが分りますね。
<暗渠は続くよ>
どこまでも
<橋のなごり>
構造上の理由で取り除かなかった橋のなごりですかね
さてさて
次は暗渠と先述の神奈川道です。
<暗渠と古道>
丘と低地の境界線を、ここまで寄り添うように並んでいた根方堀と神奈川道ですが、高低差の都合でお別れです。左側の物置の下が根方堀の暗渠。右手に続く道が神奈川道です。神奈川道の行き先は神奈川宿。東海道五十三次の3番目の宿場です。
物置の向こう側に続く暗渠です。
暗渠以外にもいろいろと
<久本神社>
高津区久本の久本神社。明治になって、久本村内にあった4社を合祀して創建されました。古くより地元民の尊崇をあつめて来た久本の鎮守です。
<庚申塔>
こちらは通称片町の十字路にある庚申塔です。庚申信仰の本尊とされる青面金剛が、邪鬼を踏みつけているお姿。その下には見ざる言わざる聞かざるが刻まれています。また、この庚申塔は大山街道の道標としての役割も担っていました。大山街道とは、江戸の赤坂御門から始まり、ここ溝口を経て伊勢原・矢倉沢へ至る長い長い道のり。その街道沿いに立ち、道行く人に行く先が正しいことを示し続けてきたわけですね。
<濱田庄司生誕の地>
濱田庄司は第1回人間国宝に認定された益子焼の陶芸家。ここ溝口の生まれだそうです。
<久本薬医門公園>
立派な門です。こちらは江戸時代から8代続いた医家・岡家の屋敷跡です。地域に貢献した岡家跡地は、地元民の願いから公園として整備されています。
かなり省略しましたが、だいたいこんな感じの探索となりました。不慣れな街でありながら、効率的で、更に奥深い体験となりました。ご案内役のKさん、Sさん、そして参加者の皆さまに感謝です。
以上
溝口暗渠散歩でした。この後は参加者の皆さまと地元の人気店にて。
<玉井 西口店>
<金運つくね>
昼も夜も充実の一日でした。
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-------追 記-------
当日ご案内頂いた『Kさん』のTwitter Biogをご紹介しておきます。記事は沢山ありますが、同じ日の内容です。私は遠慮して『Kさん』で通しますが、クリックしたら誰だかわかってしまいますね(笑)。もちろん、ご本人の了承は得ております。
溝の口・久本さんぽ(1)
二ヶ領用水根方堀と古道神奈川道を追う
『記事へすすむ』
■お勧め本■
静かなブームになりつつある『暗渠』に関する本のご紹介です。当ブログでは下記をお勧め致します。
はじめての暗渠散歩(ちくま文庫)
:本田創/山英男/吉村生/三土たつお
※広告掲載期限切れのため書名のみ
久地円筒分水くじえんとうぶんすい
<円筒分水>
こちらは川崎市の二ヶ領用水久地円筒分水。中央の円筒から水を湧き上げ、外側の円筒の淵から溢れさせて、水路に流す仕組みになっています。思いのほか大きい!円筒は中央が直径8m、外側は16mです。
溢れさせて
分水されて各々の水路へ
<憩いの場所>
円筒分水そのものは他にもありますが、ここ高津区の円筒分水はその先駆け。今では周辺も整備されて、市民の憩いの場所にもなっています。
■二ヶ領用水の分水■にかりょうようすい
二ヶ領用水とは、多摩川から引き込んだ水を川崎市内の広範囲に渡って供給する用水路で、その始まりは江戸時代初期まで遡ります。ここ久地では、古くから二ヶ領用水の水を4つの堀(久地堀・六ヶ村堀・川崎堀・根方堀)に分水していました。しかし樋(水門)による水量の調整は難しく、水をめぐる揉めごとの種にもなっていたそうです。昭和になってコンクリート製の円筒分水が造られ、円周比による正確な供給が可能になったとか。
円形なら均等に淵から溢れ出ますよね。これを予め約束した比率(灌漑面積に応じた比率)で仕切っておけば、同じ割合で水を供給し続けることができますね。ここへ流れ込む水量が変わっても、分水の比率は変わらない。なるほど、納得です。
以前から存在だけは知っていた二ヶ領用水久地円筒分水。その実物を目の当たりにすることができ、満足な訪問となりました。
■訪問
二ヶ領用水久地円筒分水
[神奈川県川崎市高津区久地]
終わり
ではなく、この日はここから先の水の行方を追いました。円筒分水から分水される4つの堀の1つ、根方堀のいまを確認しに。
溝口暗渠散歩
■根方堀■
根方堀は先ほどご紹介の円筒分水から始まり、現在の川崎市高津区南東部の平地を潤した用水路です。根方十三ヶ村堀ともいいます。ニヶ領用水を、13の村に届けるための水路ということですね。13の村とは、具体的には久本・溝口・坂戸・末永・新作・清沢・厳川・子母口・明津・ 新城・上小田中・下小田中・神地。このうち久本村・溝口村のいまを確認すべく、溝口の駅へと向かいました。
と、ここまではいつも通り単独行動。このあと、武蔵溝ノ口駅改札前で街探索のお仲間たちと合流しました。川崎を愛し、川崎を知り尽くしたKさんと、同じく地元で庚申塔に詳しいSさんに導かれ、江戸時代の絵図を片手に古き溝口のいまの姿を確認して歩きました。10人を越える参加者の関心事はまちまちですが、川と水路、そしてそれらが地下に埋設された暗渠は全員共通テーマです。
■溝口探索■
大まかには溝口周辺の散策ですが、この日はリーダーKさんのチョイスで、溝口の南側にに広がる旧久本村をメインに散策しました。
Kさんによれば、久本村は多摩川の氾濫低地を水田として利用し、台地を集落や畑として利用した二段構えの構造になっているとのこと。その間を貫く『神奈川道』と呼ばれる古道、そして二ヶ領用水根方堀を辿る探索です。もちろん、寄り道を沢山しながら。以下脈略ありませんが、散策時の画像です。
<ポレポレ通り>
人通りの多いポレポレ通りです。上手く人を避けて撮影できましたが、実際には買い物客で賑わっていました。もはや水の雰囲気は漂っていませんが、かつては水路。蛇行する自然の川とは異なり、直線に掘られた用水路のなごりです。
<南田堰>
かつてここに用水路の堰があったようですね。根方堀がこの付近を流れ、近くにあったこの南田堰をめぐり、溝口村と久本村の間で大きな水騒動がおこったとのこと。こういった水をめぐる争いは、この地に限らず日本全国で起きていた問題です。我が国の農業は水田がメインですからね。水がどれだけ重要か、改めて考えさせられます。
<アーケードの下>
こちらはアーケードの下に飲み屋がひしめく線路沿いのマニアックなエリア。左手の線路側は
暗渠になっていますね。ひっそりと。南武線の線路との間を流れていく根方堀の暗渠です。この景色の情緒が人を引き付けるのでしょうか。暗渠ファンには知られた場所で、私もSNSなどで何度かこの景色を見たことがありました。そして今回ついに初訪問です。
<暗渠>
右側は水路が埋設されている状態なので、その断面を見ただけで、道とは構造が異なるのが分りますね。
<暗渠は続くよ>
どこまでも
<橋のなごり>
構造上の理由で取り除かなかった橋のなごりですかね
さてさて
次は暗渠と先述の神奈川道です。
<暗渠と古道>
丘と低地の境界線を、ここまで寄り添うように並んでいた根方堀と神奈川道ですが、高低差の都合でお別れです。左側の物置の下が根方堀の暗渠。右手に続く道が神奈川道です。神奈川道の行き先は神奈川宿。東海道五十三次の3番目の宿場です。
物置の向こう側に続く暗渠です。
暗渠以外にもいろいろと
<久本神社>
高津区久本の久本神社。明治になって、久本村内にあった4社を合祀して創建されました。古くより地元民の尊崇をあつめて来た久本の鎮守です。
<庚申塔>
こちらは通称片町の十字路にある庚申塔です。庚申信仰の本尊とされる青面金剛が、邪鬼を踏みつけているお姿。その下には見ざる言わざる聞かざるが刻まれています。また、この庚申塔は大山街道の道標としての役割も担っていました。大山街道とは、江戸の赤坂御門から始まり、ここ溝口を経て伊勢原・矢倉沢へ至る長い長い道のり。その街道沿いに立ち、道行く人に行く先が正しいことを示し続けてきたわけですね。
<濱田庄司生誕の地>
濱田庄司は第1回人間国宝に認定された益子焼の陶芸家。ここ溝口の生まれだそうです。
<久本薬医門公園>
立派な門です。こちらは江戸時代から8代続いた医家・岡家の屋敷跡です。地域に貢献した岡家跡地は、地元民の願いから公園として整備されています。
かなり省略しましたが、だいたいこんな感じの探索となりました。不慣れな街でありながら、効率的で、更に奥深い体験となりました。ご案内役のKさん、Sさん、そして参加者の皆さまに感謝です。
以上
溝口暗渠散歩でした。この後は参加者の皆さまと地元の人気店にて。
<玉井 西口店>
<金運つくね>
昼も夜も充実の一日でした。
お城巡りランキング
-------追 記-------
当日ご案内頂いた『Kさん』のTwitter Biogをご紹介しておきます。記事は沢山ありますが、同じ日の内容です。私は遠慮して『Kさん』で通しますが、クリックしたら誰だかわかってしまいますね(笑)。もちろん、ご本人の了承は得ております。
溝の口・久本さんぽ(1)
二ヶ領用水根方堀と古道神奈川道を追う
『記事へすすむ』
■お勧め本■
静かなブームになりつつある『暗渠』に関する本のご紹介です。当ブログでは下記をお勧め致します。
はじめての暗渠散歩(ちくま文庫)
:本田創/山英男/吉村生/三土たつお
※広告掲載期限切れのため書名のみ
タグ:暗渠
2019年06月15日
偶然見つけたかつての浦和と与野の境界線 常盤緑道
今回もまた暗渠の話です。良くいく公園の北側で見つけた一直線の小道。すぐに暗渠だと分かりました。
これは間違いない
ひたすらまっすぐ
常盤緑道というのか
貨物専用の線路を跨いでまた続く
まだ続くけどこれくらいにしとくか。紫陽花を見て満足し、引き返しました。川なら蛇行もするはず。かつての水路なのでしょう。
後から地図で確認すると、道の右側は旧浦和市、左側は旧与野市でした。暗渠を散歩すると、左右で地名が異なるかとが時々あって興味深い。この付近の水の流れが、むかしの村境だったのでしょうね。
■訪問:常盤緑道
[さいたま市浦和区・中央区]
これは間違いない
ひたすらまっすぐ
常盤緑道というのか
貨物専用の線路を跨いでまた続く
まだ続くけどこれくらいにしとくか。紫陽花を見て満足し、引き返しました。川なら蛇行もするはず。かつての水路なのでしょう。
後から地図で確認すると、道の右側は旧浦和市、左側は旧与野市でした。暗渠を散歩すると、左右で地名が異なるかとが時々あって興味深い。この付近の水の流れが、むかしの村境だったのでしょうね。
■訪問:常盤緑道
[さいたま市浦和区・中央区]
タグ:暗渠
2019年06月09日
刑場近くの橋のなごり 泪橋と思川
今回は泪橋の話です。
■泪橋と思川■
<泪橋跡>なみだばし
泪橋の交差点です。場所は南千住駅の南側。川が暗渠化され橋は姿も無く、その名が交差点やバス停残るのみです。
<思川跡>おもいがわ
姿を消した思川は台東区と荒川区の境を流れていました。この道がそのままかつての流路ということになります。
<説明板>
橋の名の由来として『囚人たちが現世を去るに際し涙を流しながら渡った』または『囚人の知人が今生の別れを惜しんで袖を濡らした』といったことが記されています。[出典元:荒川区教育委員会]
■江戸時代の刑場■
当時の刑場ですから、今では想像もできない「火あぶり」や「はりつけ」といった刑が執行されていました。時代劇のお裁きで「獄門!」という言葉をよく耳にしますが、これは斬首のあとに死体を試し斬りにし、斬り落とした首は台に載せて見せしめとして晒しものにする刑のことです。ですから相当重い裁きということですね。ここまでやるなら獄門が最高刑かと思いきや、これに市中引き回しが付け加えられた例もあったそうです。そう言われてみると「市中引き回しのうえ獄門!」などという台詞をどこかで聞いたような気もします。
泪橋の先にあった小塚原刑場は、山谷地区の北側、現在の東京都荒川区南千住2丁目に位置します。刑場跡(首切地蔵)付近まで足を運んだものの、どうも気が引けて、場所の確認だけで終わってしまいました。あの付近なのだろう。この時はそれで充分でした。
小塚原刑場が設置されたのは1651年。明治になるまでの間に、約20万人が処刑されたそうです。有名なところでは、安政の大獄で処刑された吉田松陰といったところでしょうか。名は他にもあげられますが、事情を良く知るわけでもないのでやめておきます。
そういった人たち
これから刑を執行される者が、小塚原の刑場へ向かう途中に渡った橋が泪橋です。
■もうひとつの泪橋■
品川の鈴ヶ森刑場近くの川に架かっていた橋も「なみだ橋」の名で呼ばれていたそうです。漢字だと涙橋。正式名は浜川橋です。
<涙橋>
刑場近くの橋という点は荒川区の泪橋と同じです。
<立会川>
思川は姿を消しましたが、こちらはいまでも現役の川。上流は暗渠となっていますが、河口に近いこの付近は開渠、つまり水面が見える状態です。
ちなみに
小塚原刑場と鈴ヶ森刑場、これに八王子の大和田刑場を加えて江戸三大刑場と呼ぶそうです。小塚原刑場は日光街道沿い、鈴ヶ森刑場は東海道沿い、大和田刑場は甲州街道沿いにあり、みな江戸の入り口とも言える場所に設けられていました。悪巧みで江戸にやってくる者を威嚇する意味があったようです。
■玉姫稲荷にて■
ところで
泪橋というと「あしたのジョー」を思い出す方も多いのではないでしょうか?丹下拳闘クラブは、泪橋の下にありましたね。あのお話の設定だと、ドヤ街に流れてきた人間たちが、涙で渡る橋が泪橋。つまり橋を渡った先を、刑場からドヤ街に置き換えた設定でした。段平はその泪橋を逆に渡って、いつか栄光を掴もうとジョーに語りかけていましたね。
まぁ細かい設定の話は良いとして、かつて実際にあった泪橋跡からの帰り道、立ち寄った神社でジョーと出会うことができました。
<玉姫稲荷神社拝殿>
出会うといってもパネルです。拝殿の左手です。
<矢吹丈と白木葉子>
丹下段平ともお会いしたかったのですが、お嬢様の方が絵になるから仕方がないですね。この付近が、あしたのジョーの舞台であることを意識した演出ですね。
ということで
いまはもう無い『泪橋』と『思川』のなごりのご紹介でした。
私の訪問は6ヶ月前です。刑場の話と切り離すわけにはいかないので、ちょっとブログに掲載しにくく、撮影した画像を放置していました。しかしつい先日、文中にある鈴ヶ森刑場跡を訪問するに至り、やっとご紹介しようという気になれました。
受け止め方は人それぞれ
それで良いと思っています。
■訪問:泪橋交差点
[荒川区南千住]3丁目付近
[台東区日本堤]2丁目付近
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■泪橋と思川■
<泪橋跡>なみだばし
泪橋の交差点です。場所は南千住駅の南側。川が暗渠化され橋は姿も無く、その名が交差点やバス停残るのみです。
<思川跡>おもいがわ
姿を消した思川は台東区と荒川区の境を流れていました。この道がそのままかつての流路ということになります。
<説明板>
橋の名の由来として『囚人たちが現世を去るに際し涙を流しながら渡った』または『囚人の知人が今生の別れを惜しんで袖を濡らした』といったことが記されています。[出典元:荒川区教育委員会]
■江戸時代の刑場■
当時の刑場ですから、今では想像もできない「火あぶり」や「はりつけ」といった刑が執行されていました。時代劇のお裁きで「獄門!」という言葉をよく耳にしますが、これは斬首のあとに死体を試し斬りにし、斬り落とした首は台に載せて見せしめとして晒しものにする刑のことです。ですから相当重い裁きということですね。ここまでやるなら獄門が最高刑かと思いきや、これに市中引き回しが付け加えられた例もあったそうです。そう言われてみると「市中引き回しのうえ獄門!」などという台詞をどこかで聞いたような気もします。
泪橋の先にあった小塚原刑場は、山谷地区の北側、現在の東京都荒川区南千住2丁目に位置します。刑場跡(首切地蔵)付近まで足を運んだものの、どうも気が引けて、場所の確認だけで終わってしまいました。あの付近なのだろう。この時はそれで充分でした。
小塚原刑場が設置されたのは1651年。明治になるまでの間に、約20万人が処刑されたそうです。有名なところでは、安政の大獄で処刑された吉田松陰といったところでしょうか。名は他にもあげられますが、事情を良く知るわけでもないのでやめておきます。
そういった人たち
これから刑を執行される者が、小塚原の刑場へ向かう途中に渡った橋が泪橋です。
■もうひとつの泪橋■
品川の鈴ヶ森刑場近くの川に架かっていた橋も「なみだ橋」の名で呼ばれていたそうです。漢字だと涙橋。正式名は浜川橋です。
<涙橋>
刑場近くの橋という点は荒川区の泪橋と同じです。
<立会川>
思川は姿を消しましたが、こちらはいまでも現役の川。上流は暗渠となっていますが、河口に近いこの付近は開渠、つまり水面が見える状態です。
ちなみに
小塚原刑場と鈴ヶ森刑場、これに八王子の大和田刑場を加えて江戸三大刑場と呼ぶそうです。小塚原刑場は日光街道沿い、鈴ヶ森刑場は東海道沿い、大和田刑場は甲州街道沿いにあり、みな江戸の入り口とも言える場所に設けられていました。悪巧みで江戸にやってくる者を威嚇する意味があったようです。
■玉姫稲荷にて■
ところで
泪橋というと「あしたのジョー」を思い出す方も多いのではないでしょうか?丹下拳闘クラブは、泪橋の下にありましたね。あのお話の設定だと、ドヤ街に流れてきた人間たちが、涙で渡る橋が泪橋。つまり橋を渡った先を、刑場からドヤ街に置き換えた設定でした。段平はその泪橋を逆に渡って、いつか栄光を掴もうとジョーに語りかけていましたね。
まぁ細かい設定の話は良いとして、かつて実際にあった泪橋跡からの帰り道、立ち寄った神社でジョーと出会うことができました。
<玉姫稲荷神社拝殿>
出会うといってもパネルです。拝殿の左手です。
<矢吹丈と白木葉子>
丹下段平ともお会いしたかったのですが、お嬢様の方が絵になるから仕方がないですね。この付近が、あしたのジョーの舞台であることを意識した演出ですね。
ということで
いまはもう無い『泪橋』と『思川』のなごりのご紹介でした。
私の訪問は6ヶ月前です。刑場の話と切り離すわけにはいかないので、ちょっとブログに掲載しにくく、撮影した画像を放置していました。しかしつい先日、文中にある鈴ヶ森刑場跡を訪問するに至り、やっとご紹介しようという気になれました。
受け止め方は人それぞれ
それで良いと思っています。
■訪問:泪橋交差点
[荒川区南千住]3丁目付近
[台東区日本堤]2丁目付近
お城巡りランキング
タグ:暗渠