そのほとんど全てが川に沈んだ名城を訪ねました。
<本丸跡>
ここは渡良瀬川東岸。茨城県古河市です。本丸跡・・・ですが何もありません。
明治初期の大規模な河川改修事業により、城は徹底的に破壊されました。今はこの角材、そして案内板が残るのみです。
長い歴史、そして名城と賞される古河城があったとは思えない光景ですね。
■ 渡良瀬川 ■わたらせがわ
渡良瀬川の水は、現在の栃木県と群馬県の県境付近を流れ、埼玉県と千葉県の県境近辺を通り、東京湾へ流れ出ていました。つまり関東平野を東西に二分する流れということになります。また、この川は北関東から東京への縦移動(水運)でも重要な役割を担っていました。今回訪問の古河城は、そんな川の河畔に築城された城です。西側は川、東側は沼地という天然の要塞でした。
■ 重要な場所 ■
古河の歴史を紹介したら論文になってしまいます。城と関わる部分だけごくごく簡単に触れると、まず築城は平安時代にまで遡り、築城者は源頼朝配下の武将・下河辺行平(しもこうべ ゆきひら)と推定されています。これが1180年頃、鎌倉幕府以前の話ですね。
南北朝時代は足利氏の拠点。そして 第五代鎌倉公方・足利成氏が1455年に古河へ本拠を移した(初代古河公方となった)ことで、歴史的にますます重要な場所となります。古河公方の館と古河城は別だったようですが、それは最初だけ。足利成氏は古河城へ入りました。ちなみに、渡良瀬川を上流に遡れば、そこは下野国足利荘。現在の栃木県足利市、つまり足利氏発祥の地です。
ええっとその古河公方ですが・・・長いので省略しますが、ひとことで言うと「関東における足利氏」。補足すると、幕府のある京都から遠く離れた関東において、武家の棟梁(であるべき)というお立場です。武力とは別に、決して軽くはない権威がありました。
ただ時代の変化は価値観も変えてゆきます。小田原北条氏の勢力拡大とともに、古河公方も衰退。約130年続いて幕引きとなります。
[ここで歴史ヒストリア的なお話]
名門足利の血筋はここで絶えてしまったかに思われがちですが、実は小田原北条氏を滅ぼした秀吉によって保護されます。血縁者は下野国喜連川(きつれがわ)に所領を与えられ、その末裔は江戸時代に喜連川氏を名乗り、大名格として扱われました。
■ 江戸時代 ■古河藩
古河藩が成立。古河城には松平氏、奥平氏など譜代の大名が入ります。特に有名なのは土井利勝ではないでしょうか。土井利勝というとまず「佐倉城」を思い出しますが(個人的に)、晩年に16万石余をもってここ古河城主となっています。土井利勝は徳川幕府のエリート中のエリート。そのなかでも抜きん出ていたと評されるお方です。古河藩が如何に重きを置かれていたか分りますね。日光街道が整備されたことで、水運に加えて街道の宿場町として、古河はますます栄えました。
■ 城の完成 ■
江戸初期に城郭として整備が進み、土井利勝が古河城主の時に、本丸に御三階櫓(おさんがいやぐら)※が造られました。明治になって破壊されてしまった「名城・古河城」の姿は、この江戸の拡張工事によって完成されたものです。
※天守の代わり(実質天守です)
■ 川底に消える城 ■
城の姿を今に伝える貴重な写真です。撮影後まもなく、本丸・二の丸・三の丸・その他主要な曲輪・・・ほぼ全てが破壊されてしました。縄張りは南北に曲輪が並ぶ連郭式だったそうです。
名城が破壊される・・・
古河城の敷地はとにかく広かったようで、現在の渡良瀬川の河川敷だけではなく、周辺の畑であったり、宅地も含まれます。まぁ本当に勿体ない話ですが、後の時代の勝手な価値観で批判できるはずもありません。当時には当時の事情があり、人の暮らしのため、とにかく渡良瀬川を何とかせねばならなかったのでしょう。
■つわものどもが夢の跡■
本当に何もありませんが・・・
「ここですよ!」という案内板は嬉しかったです。
場所は結構高い堤防の上。もしかしたら、古河城の櫓と似たような高さかもしれませんね(まったく根拠なし)。誰かが目印を設置してくれたことに感謝し、関東平野を見渡してからこの場を去りました。
----------■ 古河城 ■----------
築 城:平安末期
築城者:下河辺行平
(鎌倉幕府御家人)
改修者:小笠原秀政・松平康長
土井利勝
城 主:足利成氏・土井利勝 他
廃 城:1873年 (明治6)
[ 茨城県古河市桜町 ]
----------■追 記■----------
城の大半は失われましたが、堀の外に設けられていた出丸(出城)に遺構が残されています。一般に「古河城跡」と言われているのはこの出丸(諏訪曲輪)跡のことで、こちらの住所は中央町。古河歴史博物館となっています。
<出城の堀跡>
帰りに立ち寄りましたので、次の投稿にて
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