さいたま市内の「赤山陣屋への道」を訪ねてみた記録です。
<六国見>ろっこくみ
JR与野駅の近くに『中山道と六国見』と題した説明板が設置されています。住所だと浦和区上木崎になります。
<説明板>
説明文によれば『中山道と赤山道が交差するこのあたりには立場茶屋があり、文化二年(1805年)刊の「木曽路名所図会」には「富士・浅間・甲斐・武蔵・下野日光・上州伊香保などがあざやかに見えたり」とあり、関東六国の山々を見渡せる見晴らしの良い名所としてしられ「六国見」と呼ばれていた。』とのこと。『』内は説明板からの抜粋です。浦和区文化の小径づくの推進委員会さん、ありがとうございます。
<説明板拡大>
掲載されている英泉の浮世絵を拡大させて頂きました。「木曽街道六十九次 浦和宿」です。浦和の景色で浅間山も描かれています。
確かにこの付近は周辺よりは小高くなっていますが、都市化が進んであまり意識されません。いまでは高いビルに囲まれてお隣の町内も見通せませんが、かつては景勝地だったのでしょう。
さて
説明文では『中山道と赤山道が交差する』とありました。中山道(厳密には旧中山道)は説明板のすぐ後ろ側の道路。これは一目瞭然ですが、赤山道(赤山街道)はどこでしょう。
<脇道が合流>
説明板のすぐ後ろがむかしの中山道。そこへ奥から脇道が合流していますね。赤い進入禁止が目印。あれが昔の赤山道(赤山街道)です。そんなことを知ってしまうと、ありきたりの脇道が違ったふうに映りませんかね。当ブログに来て頂いた方と、そんな感覚を共有できれば幸いです。
■訪問:六国見
中山道と六国見 説明板
[さいたま市浦和区上木崎]1丁目
■参考及び出典
・現地説明板
(浦和区文化の小径づくの推進委員会)
------■赤山街道とは■------
赤山街道とは、徳川幕府から関東の開発を任された伊奈忠治が、拠点である赤山陣屋と現場との往来を円滑にするために設けた道のことです。道筋によって大宮道・越谷道・千住道の3つに分類されます。大宮道は、現在のさいたま市西区の永田陣屋と、川口市の赤山陣屋をつなぐ道を指します。
<永田陣屋跡>
[さいたま市西区土屋]
<赤山陣屋跡>
[埼玉県川口市赤山]
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-----------(追 記)-----------
追記として「脇道」を進んで行った時の画像を貼っておきます
旧中山道をそれて赤山街道へ
左が赤山街道。昔の街道ですからね。道幅はありません
児童公園(上木崎大けやき公園)
公園隅には赤山街道に関する説明板あり
しばらく進むと産業道路と合流
車の往来が激しい道をそのまま進みます
木崎小学校が見えたら産業道路とはお別れ。学校の北側の細い道が赤山街道です
ここからはしばらくは道なりに進むだけです。要所要所で、赤山街道が周囲より高い位置であることを実感します。むかしの街道は低地を避け、できるだけ台地を通過するようにできています。
そして
公園に到着。浦和区大東2丁目の大東北児童公園です。古墳のような盛り土が見えますね
江戸時代に造られた富士塚です(大東の富士塚)
塚の頂上には庚申塔。普通は道沿いにありますが?経緯はわかりません
街道沿いで暮らしたひとたちの思いが形として残っています
赤山陣屋への道はまだまだ続きますが、今回はここまでにします。
2021年12月13日
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