大井町駅の南側を散策中にこんな公園と出会いました。
<関ヶ原公園>
関ヶ原!いわゆる関ヶ原と関係あるのでは?
戦国武将好きとしては、どうしても期待してしまいます。ここは現在の住所だと東大井六丁目。かつては大井関ヶ原町と呼ばれていました。公園の名はそのなごりですね。
説明板を見つけました。もしかしたら、地名の由来が分かるかもしれません。
<説明書き>
地名の由来については特に記載がないようです。残念。じゃ何が書かれているのか?
どうもここ関ヶ原一帯は、かつては島津家の屋敷だったようです。関ヶ原、そして島津家。なおさら由来が気になります。天下分け目の戦いで西軍に与しながら、お家断絶どころか減封もなかった島津家。何かの縁を感じずにはいられません。
関係ないよ!
はい。ほぼ関係ないと思います。ただ、関ヶ原の戦い後の「奇跡」ともいうべき島津家の生き残り。どうしても妄想したくなります。
<説明板>
会社員ブログとはいえ、こんな内容で終わると訪問頂いた方に申し訳ないので、品川区教育委員会さんのちゃんとした説明書きを一部抜粋させて頂きます。『』内が転記です。
『この付近より東海道線を越えた地域を含む広大な地は、鹿児島藩島津家の抱屋敷(万治2年(1658)買得)および抱地(天保3年(1832)取得)であった。敷地は約1万8千坪に及ぶ。安政3年(1856)当時、藩主島津斉彬の父で前藩主の斉興(松平大隅守)がこの抱屋敷で隠居生活を送っていたため、絵図上では「松平大隅守」と表記されている場合がある。』
とのこと。後半省略しています。
あの島津斉彬(なりあきら)のお父様が隠居生活を送った屋敷ということですね。抱屋敷?これは「かかえやしき」と読みます。いろんな意味がありますが、ここでは幕府から公給されるのとは別に、自費で調達した屋敷のこととお考え下さい。抱地も同様の意味で良いかと。
島津家の上屋敷は現在の三田にありましたので、江戸城からみて更に郊外に自費で設けた屋敷、いわば別荘のような屋敷だったのかもしれません。
<公園沿いの道>
これは関ヶ原公園沿いの道。ただの道ではなく、かつての川跡です。川は地下に埋設されており、その流れを見ることはできません。いわゆる暗渠(あんきょ)ですね。立会川の暗渠です。
斉彬の父・斉興は、藩政改革に取り組んで成果を上げた藩主。幕府とのかけひきや息子・斉彬との確執やら、とにかく波乱万丈の人生でしたが、この地で暮らした頃はどんな心境だったのでしょうか。
いまとは異なり、きっとのどかな景色が広がっていたのでしょう。もしかしたら、さらさらと流れる立会川に、心を癒されるなんてこともあったかもしれませんね。
<立会川の暗渠>
そんなことを勝手に想像しながらてくてくと。目黒区から流れてきたこの川の水は、東京湾へと注ぎ込みます。特に行く先も決めていないので、蛇行する水の流れを追って川下へと向かうことにしました。
以上です。
拙ブログに訪問頂き、ありがとうございました。
■訪問:関ヶ原公園
[東京都品川区東大井]
お城巡りランキング
2019年06月06日
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