<松之大廊下跡>まつのおおろうか
江戸城松之大廊下。つまりここがあの「赤穂事件」の現場ということですね。
■松の廊下■
松の廊下は、江戸城の大広間と白書院(将軍との対面所)を結ぶ廊下でした。その呼び名は、廊下沿いの襖に松と千鳥の絵が描かれていたことに由来します。
L字型の長い長い廊下。約19m×31mといいますから、計50mもあったわけですね。そして幅は約5m。廊下で5mとは、随分広いですね。大立ち回りに充分な広さ。そこで事件は起きました。
■浅野内匠頭長矩■たくみのかみ ながのり
内匠頭は浅野長矩の官名(従五位下 内匠頭)。これにより、浅野内匠頭と呼ばれることが多いですかね。無難にお勤めを済ませていれば、その名が後世に語り継がれることもなかったかも知れません。
<石碑と説明板>
丁寧な説明
<説明板アップ>
呼び名の由来となった襖絵
1701年4月21日(元禄14年3月14日)のことでした。ここで赤穂藩主である浅野内匠頭が、吉良上野介に斬りかったわけですね。上野介は眉間と背中を斬られたものの傷は浅く、命に関わる痛手にはなりませんでした。しかし、殿中での刃傷(にんじょう)はご法度。ましてこの日は、幕府が朝廷の使者を接待する大事な日。将軍徳川綱吉は激怒し、内匠頭はその日のうちに切腹。赤穂浅野家は改易となり、赤穂城も召し上げとなります。これに対し、高家の上野介にお咎めはありませんでした。ここから忠臣蔵、つまり赤穂浪士の話が始まります。
高家とは、幕府の儀式や典礼を司る役職。浅野家は、勅使の接待役となったことで高家・吉良家の指南を受ける立場でしたが、その最中に事件を起こしました。
教える側と教わる側。なんか現代でも目にする構図ですね。それをどう見るかは現代人とちょっと異なるのかもしれませんが、当時の価値観として「喧嘩両成敗」という考え方がありました。つまり、揉め事は双方に問題があるという裁き方ですね。いい悪いは別にして、これを背景に起きてしまった事件を考えると、赤穂の浅野家はお取り潰しで、高家の吉良家は許されたことに疑問を持つのは自然ですね。
立ち止まる方が多かったですね。説明文をじっくりと読む方の姿も。赤穂事件への関心の高さがうかがえます。
美談として扱われる赤穂四十七士の仇討ち。私は好きです。ただ、事件は事実として、背景となる経緯についてはどうだったのでしょうか。実は不明な点も多いと聞きます。吉良家には吉良家の言い分があったのでしょう。
真意はわかりません。
ただ、赤穂浪士の話に江戸の庶民が熱狂したのは事実。演劇化され、事実とはかけ離れた世界にまで膨らみ、長らく語り継がれています。そこにはいかにも日本人らしい精神性や美意識とともに、権力に抱く庶民の感情が見え隠れしていますね。
■訪問:松之大廊下跡
[東京都千代田区千代田]
お城巡りランキング
タグ:23区